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それは今から五年前。
黒稜が陰陽師として働き始めて数年が経った、十七の冬のことであった。
御影の屋敷の庭には椿や柊が咲き誇り、真っ白に染まった庭を鮮やかな紅で彩っていた。
庭に面した部屋で書物を読みふける黒稜の元に、元気な声が聞こえてくる。
「黒稜―っ!いるー?」
その声にげ、と眉を顰め無視を決め込もうとする黒稜に、元気な声は庭へと回ってやってくる。
「なんだ、いるじゃない!いるなら返事してよ!」
黒稜は渋々書物から顔を上げて、元気に駆けて来た髪の短い娘を見やる。
「騒がしい……一体なんだ?」
黒稜の鬱陶しい者でも見るような目に、娘は怒ったように頬を膨らませる。
「ちょっと黒稜!その態度は酷いんじゃない!?せっかくこの春子様がやってきたっていうのに!」
春子、と名乗った短髪の娘は、俗に言う黒稜の幼馴染であった。
桔梗が病に侵された際、生まれて間もない黒稜を預かり育てていたのが、この春子の両親である。それから二人は家族のように仲が良かった。
「何をしに来た?」
「黒稜ってどうしてそう可愛げがないのかしら?一人暮らしの友人を心配して見に来てあげたというのに」
黒稜は幼少の頃に両親を失ってから、この屋敷で一人で住んでいた。
春子や春子の両親は、一緒に住まないかと黒稜を誘ったものの、黒稜は御影の屋敷で一人で住むことを幼い頃に決めたのだった。
五行の力に恵まれなかった稜介と違い、黒稜は桔梗の力を強く引いたのか陰陽師の素質が十分にあり、その真価をあっという間に発揮し若くして力のある陰陽師として大成した。
しかし春子にとっては年下の幼馴染であり、過保護は尽きなかった。そんな心配性の春子をやや鬱陶しく思いながらも、黒稜は彼女といる時間が嫌ではなかった。
「ご飯ちゃんと食べてるの?今日もいくつか作っておくから」
浅くため息をついた黒稜は書物を机の上に置くと、ゆっくりと立ち上がり縁側へと腰を下ろす。
春子はこの屋敷に来ると必ず、花壇の手入れをする。
黒稜の母が生前とても大事にしていた花壇。今も多種多様な植物が共存している。「世話してあげないと可哀想だから!」と春子がそれを引き継ぎ、こうして見てくれていた。
それをなんとはなしに眺める黒稜には、母の記憶はほとんどなかった。物心ついた頃には母は亡くなっていたし、父も間もなくして亡くなった。
そんな黒稜の心を明るく照らしてくれていたのは、春子と、庭の花々だったのだ。
「よくもまぁ他人の家の花壇の手入れなどしようと思うものだ」
「せっかく立派な花壇があって、こうして花も元気に咲いているんだもの。綺麗な花が咲いていると、黒稜の心も楽しいでしょ?」
「そうか?」
「そうなの!」
黒稜はまた浅くため息をついて、春子の背中を見つめる。
「そうだ、黒稜!」
「なんだ?」
「街にね、喫茶店ができるんだって」
「喫茶店?」
「そう!美味しい珈琲やお紅茶が楽しめるお店なのですって!ワッフルっていう洋菓子も食べられるそうよ。いつか一緒に行きましょう!」
春子はにこりと笑って黒稜を振り返る。
「いつかな」と答える黒稜に、「約束よ!」と満面の笑みを浮かべた。
それから数日後のことだった。
黒稜が仕事を終え帰宅すると、玄関先に団子の入った箱が落ちていた。
「なんでこんなところに置きっぱなしに……。また春子のやつか」
黒稜は呆れながら、玄関横から庭先にまわる。春子が来ているならばきっと、花壇の手入れをしているだろうと思ったのだ。
「春子、来ているのか?」
薄っすらと積もった雪を踏みしめながら庭先へとやってきた黒稜の目に飛び込んできたのは、狐のようなほっそりした面を持つ妖だった。その妖の下には、真っ白な雪の上によく映える真っ赤な紅色。
それが人の血であると気が付くまでに、数秒の時間を要した。
妖の背中の向こうに、見慣れた明るい色の着物が見えた。
「春、子……?」
黒稜の声に妖がゆっくりと振り向く。その目の前の赤にいたのはやはり春子だった。着物は真っ赤な血に染まり、血だまりが雪を溶かしていく。春子が力なく倒れている姿が、黒稜の目にはっきりと映った。
黒稜は目の前の光景が信じられずに、ただただ茫然としていた。
「春子……、春、子……」
ふらふらと春子の元へと歩みを進める黒稜に、妖は容赦なくその身体を吹き飛ばした。
地面に叩きつけられた黒稜は、どこかの骨が折れるのを感じた。その黒稜へと近付いてくる妖。
地面に倒れながらも、黒稜は春子へと手を伸ばす。
「嘘だ……嘘だろ……」
そこからの記憶は、実に曖昧だった。
自身でも感じたことのない血が沸騰するような熱を感じ、何か叫んだのか喉が焼けるように熱かった。
気が付くと妖は目の前で身を引き裂かれ、血だらけになって倒れていた。
黒稜の身体も、妖の血で真っ赤に染まっていた。
何が起きたのか自分でもわからなかった。黒稜は慌てて春子の元へと駆け寄る。
「春子!春子……っ!しっかりしろ……っ!!!」
しかし春子は絶命して時間が経っていたのか、その肌は雪の様に真っ白になり固く目を瞑っていた。
「春……子……っ」
黒稜は春子を抱き上げると、声も上げずに泣き続けた。
そうして少し経った頃、急に自身の身体が痛み始める。それはもう耐え難い痛みであり、血が沸騰するようであった。さすがの黒稜も叫び続けた。身を捩り、荒い呼吸を繰り返す。
それが少し落ち着くと、黒稜は自身の身体の変化に気が付く。
「なんだ……?これは……っ」
黒稜は自身の影を見て驚く。
そこにいたのは、先程の妖のような姿をした自分の姿だったのだから。
耳は頭の上で大きく揺れ、爪は鋭く伸びている。尾てい骨の辺りには、大きなふさふさの白い毛を持った尻尾のようなものが揺れていた。
「まさか……」
混乱する頭の中で浮かんできたのは、人間の妖化、という言葉だった。
その昔、妖を退治しその血を全身に浴びた者が同じように妖となったと、古い文献にあった。前例はほとんどなく、半ばお伽噺のように綴られた話ではあったのだが、黒稜の中でその文献の文章と結びつくものがあった。
妖になった男は、その退治した妖と同じような姿恰好になり、血が沸騰するかのように身体は熱くなり、耐え難い苦痛があったと。
黒稜から思わず、掠れた笑い声が漏れる。
「は…………、これが、春子を守れなかった末路か……」
呟いた黒稜は、手から青白い炎を出すと自身の身体を燃やした。
このまま死ねたらどれだけ楽だろうと思った。
しかし少しして目を覚ました黒稜は、ほとんど怪我を追っていなかった。
妖の強靭な回復能力が働き、死ぬに死ねなかったのだ。
黒稜が妖になってしまったこと。
それは秘密裏に帝へと伝えられた。自身を処罰するよう、帝に進言したが帝は、まだその時ではないと、黒稜の願いを叶えてはくれなかった。
そうして黒稜は半人半妖の陰陽師として、今も国に仕えている。
夜に強まる妖の力に飲み込まれそうなこともあったが、黒稜はもともと陰の力を持つ陰陽師として強力な力を持っていたことから、あっという間にその力を御することができるようになったのだった。



