目を開けると随分見慣れた檜の羽目板が映る。

「ここは……?」 

 ふかふかの布団に包まれながら飴色のそれをぼーっと眺めていた紫音は、暫し自分の置かれた状況がわからずにいたが、はっとしてその身を起こした。

「黒稜様……っ!!」

 傷を負い血を吐いた黒稜のことを思い出した紫音は、慌てて辺りを見回す。
 すると傍には、黒稜がいて何か書物を読んでいた。

「起きたか」
「黒稜、様……?」

 黒稜は平然と紫音を見下ろす。その姿は少し疲れたような顔をしているが、凡そいつも通りであり、昨日の闘いが夢であったのではないかと思う程であった。
 澄ました顔で紫音を見つめる黒稜に、紫音の方が混乱してしまう。

「え、あ、お、おはようございます……?ええと、くろ、あ、旦那様!お怪我、は……?」

 紫音の質問に黒稜はけろりと答える。

「黒稜でいい。傷は治った」
「え……?治った……?」

 紫音はその大きな瞳をぱちぱちと瞬かせる。
 黒稜は昨晩、いくつが骨が折れていたように思う。その骨が臓器に刺さったのか、血も吐いていたはずだ。そんな人間が翌日、こんなにもけろりとしているものだろうか?
 人間、という単語に、紫音ははっとする。

(そうだ、黒稜様は……)

 黒稜は半人半妖だと言っていた。故に身体は人間のそれよりも丈夫であり、傷の治りが早いとも。

「大事ない、のですか……?」
「ああ、全て完治しているようだ」

 黒稜の言葉に驚いて目を丸くする紫音。その瞳を、黒稜が真っ直ぐに見つめた。

「この傷を治したのは、紫音、君だ」
「え……?」
(傷を治したのが、私……?)

 黒稜の唇は確かにそう動いていた。やはり日が高いせいか、黒稜の声は脳内に響いてこなかった。

「ええと、それは、どういう意味でしょうか?」
「言葉そのままの意味だ。君には、傷を治す力がある」

 言葉はわかる。しかし黒稜が何を言っているのか、紫音は理解できずにいた。

「あ、あの……もうとっくに、お気付きだとは思うのですが……、私には、陰陽師の力がありません。北条院という、五行の水を得意とする家系に生まれながら、私には、その力は全くないのです……」

 黒稜はそのことにとっくに気が付いているとは思うが、紫音の口から改めて説明するのはこれが初めてだった。
 黒稜は懸命に話す紫音の言葉を取りこぼさないよう耳を傾けていたが、ゆっくりと頷いた。

「陰陽師の力がないというのは本当だろう。紫音の中には、五行の力の流れがない。流れがないというよりは枯れ切っている、という表現の方が近いかもしれない」
「枯れ切っている……?」
「しかし、それとは関係なく、君が私を治療したのは事実だ」
「私は、なにも……」

 そこでふと、黒稜が倒れたあと無力にも祈り、その自身の祈りから温かな光が宿ったことを思い出す。

「君は、私が倒れたとき祈ってくれていたな」
「はい……」
「紫音、君は、【祈りの巫女】かもしれない」
「祈りの、巫女……?」

 祈りの巫女。それは祈りの力によって人々を守り、災いを退け、悪い気を浄化したという、半ばお伽噺のような話である。その祈りは病気や怪我を一瞬で治し、人々から頼りにされる存在だったと聞いたことがあった。

「……それは、お伽噺では……?」

 紫音が恐る恐る尋ねると、黒稜ははっきりと首を横に振った。

「いや、お伽噺などではない。実際に存在する者の話だ」
「え……?」
「実際にこの国を治める帝は、祈りの巫女だ」

 黒稜の言葉に、紫音は目を丸くする。

「私は国からいくつか仕事を貰っている。もちろん、帝は私が半人半妖であることも知っている。帝は浄化の力を持ち、治癒の力も持っている。彼女が帝である所以はそれだけではない。帝は、未来を見ることができる」

 黒稜から告げられる言葉の一つ一つに、紫音は驚きを隠せなかった。

「私と紫音の婚姻を決めたのも、帝なのだ」

 紫音がここに嫁いで来たその日、黒稜は言っていた。

「私は北条院の長女である君と、結婚するよう命令されたのだ。その命令には逆らえない」

(黒稜様に私との結婚を進めたのは、帝様だった……?)

「彼女の言葉に私は逆らえない。命令であると同時にいつも正しいからだ。だから君との婚姻にも意味があるのだろう」
「そう、だったのですね……」

 祈りの巫女であるこの国の帝がそう言うのなら、きっと意味のある婚姻なのだろうと思う。それがどういう意味なのか、二人の運命
に何か関係するのかはわからなかった。

「君の祈りから不思議な光が宿り、私を包み込んでいったのを覚えている。身体がすごく楽になっていく感覚も。その力は、祈りの巫女のそれに類似している。君はきっと祈りの巫女として覚醒し始めてるのだろう」
「私が、祈りの巫女……?」

 俄かには信じ難い話だった。無能と虐げられていた紫音がそんな強力な力を持つ、祈りの巫女だなんて。
 黒稜は話し終えると、紫音に向かって頭を下げ、そうして口元がわかるよう再び顔を上げる。

「君の力で私は助かった。礼を言う。如何に私の回復力が早いと言えど、ここまですぐに回復できたのは、紫音、君のおかげだ」
「あっ、いえ!そんな……っ!」

 生まれてこの方、お礼など言われたことのなかった紫音は、どう反応して良いかわからず視線を彷徨わせる。

「お、お礼なんて……」

 紫音の反応に、黒稜の表情がふっと綻ぶ。

「君は、いつもそうだな……」
「え……?」

 黒稜にとって紫音は、文字通りただの政略結婚で婚姻を結んだだけのお飾りの妻だった。命令されたから婚姻したのみに過ぎず、そんな紫音を気に掛けるつもりなど毛頭ない。ただ夫婦という肩書のもと、一緒に住むだけの赤の他人のままでいいと思っていた。
 しかし、紫音は心優しい娘だった。
 黒稜の冷たい態度など気にすることもなく、黒稜のために三食用意し、屋敷を綺麗にし、黒稜にとっても想いのある花壇を、黒稜以上に大切にしてくれていた。
 そんな健気な姿を見ているうち、黒稜は少しずつ紫音を気に掛けるようになった。
 目の前で少し頬を赤らめ、困ったように自身を見上げる紫音の姿に、黒稜は少しずつ惹かれていっていることに、否が応でも気付かされていた。
 黒稜がそっと紫音の手を取ると、紫音はびくっと身体を揺らす。

「本当に感謝しているんだ。素直に受け取ってくれ」

 黒稜の言葉に、紫音はまた顔を真っ赤にして頷いた。



 すっかり話し込んで忘れていた朝食の支度をしようと紫音が立ち上がると、左の太腿がずきんと痛んだ。切られたそこには丁寧に包帯が巻かれていた。

(この治療は、もしかして黒稜様が……?)

 そう思うと少し恥ずかしさもあったが、黒稜の傷を治した際に自身の傷は全く治っていないのをみると、祈りの巫女の力は、自身の回復には使えないのかもしれないと思った。

(そう言えば祈りの巫女のお話の中でも、その力は他者に向けられるものばかりだったわ)

 自身が祈りの巫女であるかすら、未だにはっきりと判断しづらいがもしかしたらそうなのかもしれない、と紫音は思った。
 いつも通りの朝食だったのだが、やはり紫音は味も匂いも感じなかった。

(風邪、こじらせちゃったのかしら……)

 そんなことを思いながら朝食を終えると、黒稜から声が掛かった。
 紫音は目をぱちくりさせながら、黒稜のあとをついて行った。



 少し強くなってきた日差しを浴びながら、紫音と黒稜は縁側へと並んで座る。空は晴れ渡り、庭の花壇の花々が気持ち良さそうに太陽へとその身を伸ばしている。

「昨日のことを、しっかり話しておきたい」
「昨日の、こと……?」
「私が、半人半妖であること。それと、君にかけられた呪いのことも」

 「聞いてくれるか?」と黒稜が珍しく眉を下げてそんなことを言うものだから、紫音は勢いよくこくこくと頷いてみせた。
 それを確認した黒稜はゆっくりと話し出す。
 自身が、半妖となってしまった経緯を。