目を瞑ると、身体が闇に溶けてしまったかのような静寂が訪れる。
世界というものは存在せず、足元は次第に揺らぎ、自分自身すらもそこに存在しないかのような不確かな感覚。
身を委ねてしまえば、なにもかも楽になるのだろうか。
そう幾度となく思う。
しかし目を開けると、そこには当然のように世界が存在している。
(ああ、私は今日も生きている……)
庭に咲く色鮮やかな紫陽花の花が、その身を青や薄桃に染めている。
先程まで気持ち良いほどに晴れ渡っていた空も、今はどんよりとしてその姿を隠してしまった。
(もうすぐ、雨が降りそうだわ……)
感情を失ったかのように無表情の少女、北条院 紫音は空を見上げる。
その肩に強い衝撃を受けて、紫音は思わず体勢を崩し床に跪いた。
「あら、お姉様。こんなところにいらしたの? あまりに汚いものだから、ゴミかと思ってしまったわ」
「……弥生……」
艶やかな着物を纏い派手な髪飾りを付ける少女は、北条院 弥生。
紫音の双子の妹だった。
高そうな着物を身に纏う弥生と違って、紫音は薄っぺらいぼろぼろの着物を纏っている。それこそ、ゴミだと思われても仕方のない貧相な恰好だった。
「本当に見れば見るほど汚らしいわねぇ。そんな姿でよく生きていられるわ。私だったらとっくに自害しているわよ」
弥生は綺麗な顔を醜く歪めると、紫音を見下ろして言った。
「あ、こんなこと言っても、お姉様には聞こえないんだったわね?」
弥生は高らかに笑いながらその場から姿を消した。
一人残された紫音は、ゆっくりと立ち上がる。
しばらく弥生の甲高い笑い声が廊下に響いていたが、紫音の耳にはその笑い声は届かない。
弥生の言った通り、紫音は耳が聞こえなかった。
聴力が失われているのだ。
しかし音として言葉を聞きとることはできないが、紫音には弥生が何を言っていたのかはっきりとわかっていた。
紫音は賢い娘であったため、聴力を失ってすぐに読唇術を覚えた。小さい頃は普通に話せていたこともあり、音量の調整に難はあれど、会話することもそこまで難しくはなかった。
しかし、それはすぐに後悔へと変わる。
紫音の耳が聞こえないのをいいことに、弥生をはじめ、紫音の両親すらも紫音を前にして彼女を悪く言い始めたのだ。
やれ無能だ、役立たずだ、北条院家の恥だなどと、聞きたくもない言葉たちが紫音の目に飛び込んできた。
初めは読み間違いかと思った。会得したばかりの読唇術が、うまく言葉を読み切れなかったのだと。
しかし、紫音の読唇術は間違ってなどいなかった。どうせ紫音には聞こえないと、家族は今まで言いたくても言えなかった紫音への不満を容赦なく口にするようになっていたのだ。
そんな家族から目を逸らすように、紫音は俯いて過ごすことが多くなった。
和と洋が入り乱れ始めたここ倭国日本では、人々は古来より妖に苦しめられてきた。
もちろん全ての妖が悪さをするというわけではないが、一部の膨大な力を持ってしまった妖が人里に降り、人々を脅かす事態が度々起きていた。
そんな妖を退治し、国や人々の安寧と秩序を守るのが、『陰陽師』と呼ばれる、特殊な能力を持つ人々であった。
陰陽師とは、妖を退治することに特化した力を持つ者達のことである。
陰陽師達の操る陰陽道は、主に陰の力と陽の力に分けられる。
大抵の陰陽師の家系は、陽の力を持っており、木・火・土・金・水の五行の力のどれかを操ることができる。
対してほんの一握りしかいない陰の力を持つ家系は、五行の力、全てを操ることができた。
北条院家は、前者である陽の力を持つ、由緒正しき陰陽師の家系であった。
北条院家の主である紫音の父、北条院 道元は、陽の力を持つ陰陽師の中でも数少ない強力な五行の術を持つ陰陽師である。
五行の力は一子相伝であり、五つの力のうち、どの力に特化するかはその血筋によって変わる。
北条院家はもともと、五行のうち水を操る血筋ではあるのだが、現当主である道元は、他の属性の力、水に加えて木の力も使えるという、稀有な陰陽師だった。
それ故、北条院家は陰陽師たちの中でも一目置かれた家系であり、国からも頼りにされるほど力の強い家系であった。
そんな陰陽師として有名な家系に生まれ育ったのが、紫音と弥生の双子の姉妹だった。
幼い頃は将来を有望視され、北条院家の後継ぎとして立派な陰陽師になるはずだった紫音。
対して妹の弥生は力が弱かった。
しかしいつからかその力は逆転し、紫音の五行の力は衰え、それを吸収していくかのように弥生の力ばかりが増していった。
今ではすっかり紫音は陰陽師としての力もなく、無能として蔑まれていた。
両親の期待は、一気に妹の弥生へと傾いた。
弥生はめきめきと力をつけ、今では強力な妖退治の依頼をこなすほどであった。
そんな弥生と比較するように、紫音の扱いは使用人以下となっていた。
幼少の頃は両親の期待を一身に受けていたはずなのだが、厳しい両親は期待を裏切った紫音を許さなかった。
こと道元においては、紫音に熱心に陰陽道を叩き込んでいただけあって、その失望は底知れぬものであった。
炊事洗濯等の家事はもちろん、ご飯やお茶が美味しくないと頭から熱湯をかけられ、弥生が妖退治の仕事でうまくいかなかったときは不満の捌け口に使われる。
手は水仕事で荒れ、身体には打撲の跡が残り、着物も古く痛んでも新しいものは買ってもらえなかった。
それでも紫音が逃げ出さずに生きてこられたのは、もしかしたら昔の仲の良かった頃の家族に戻れるかもしれないという、一縷の望みが捨てきれなかったからだ。
家名に恥じぬ立派な陰陽師になるため、弥生と切磋琢磨した日々。父、道元の教えは厳しかったが的を射ており、母、文江の優しさが紫音と弥生の支えであった。
そんな愛おしい日々を思い返しては、今自分のできることを頑張ろうと前を向く。
しかし現実を見て、そんな望みはもう一生叶わないかもしれないと打ちのめされる。
そんなことの繰り返しだった。
(せめてこの耳が音を拾うことができたのなら、なにか違ったのかしら……)
紫音の耳は、かつてのように音を拾うことはできなくなっていた。
紫音の聴力の消失は先天性のものではなく、後天的なものだった。
幼少の頃はもちろん、他の人と変わりなくその耳で音を拾っていた。
しかしある日の朝、紫音が十二の頃のことだ。目が覚めると、突然耳が聞こえなくなっていたのである。特に高熱を出したり、怪我をしたというわけでもない。
ある日起きたら《《突然に》》、耳が聞こえなくなっていたのだ。
原因はわからなかった。
突発的なものなのか、なにかの病気なのかすらわからなかった。
最初のうちは戸惑っていた道元と文江であったが、そもそももう紫音に期待していなかった二人は、紫音の代わりとなるかのように力をつける弥生に、そのうち紫音を気に掛けることはなくなっていった。
その頃から、度を増して家族からの虐げはきついものになっていく。
心優しい紫音は妖と言えど、祓うことに躊躇いを持っていた。しかし妹の弥生は、その力を遺憾なく発揮し妖を葬り去る。そのやり方も、道元としてはひどく気に入ったようであった。
文江は大事に育ててきた紫音に裏切られたと思い、彼女にきつく当たるようになっていた。
立派な陰陽師になり、北条院家のますますの繁栄のため尽力してくれるだろうと思っていただけに、文江は紫音に対して我が子とも思えないような態度をとるようになったのだ。
紫音は完全に、北条院家のお荷物となってしまった。
陰陽師として役に立たないのなら、北条院家には必要ない。
存在意義を失ってしまった紫音にできることは、もはや使用人として家族の役に立つことだけだった。



