目を瞑ると、身体が闇に溶けてしまったかのような静寂が訪れる。
世界というものは存在せず、足元は次第に揺らぎ、自分自身すらもそこに存在しないかのような不確かな感覚。
身を委ねてしまえば、なにもかも楽になるのだろうか。そう幾度となく思う。
しかし目を開けると、そこには当然のように世界が存在している。
(ああ、私は今日も生きている……)
庭に咲く色鮮やかな紫陽花の花が、その身を青や薄桃に染めている。
先程まで気持ち良いほどに晴れ渡っていた空も、今はどんよりとしてその姿を隠してしまった。
(もうすぐ、雨が降りそうだわ……)
感情を失ったかのように無表情の少女、北条院 紫音は空を見上げる。
その肩に強い衝撃を受けて、紫音は思わず体勢を崩し床に跪いた。
「あら、お姉様。こんなところにいらしたの?あまりに汚いものだから、ゴミかと思ってしまったわ」
「……弥生……」
艶やかな着物を纏い派手な髪飾りを付ける少女は、北条院 弥生。紫音の双子の妹だった。
高そうな着物を身に纏う弥生と違って、紫音は薄っぺらいぼろぼろの着物を纏っている。それこそ、ゴミだと思われても仕方のない貧相な恰好だった。
「本当に見れば見るほど汚らしいわねぇ。そんな姿でよく生きていられるわ。私だったらとっくに自害しているわよ」
弥生は綺麗な顔を醜く歪めると、紫音を見下ろして言った。
「あ、こんなこと言っても、お姉様には聞こえないんだったわね?」
弥生は高らかに笑いながらその場から姿を消した。
一人残された紫音は、ゆっくりと立ち上がる。
しばらく弥生の甲高い笑い声が廊下に響いていたが、紫音の耳にはその笑い声は届かない。
弥生の言った通り、紫音は耳が聞こえなかった。
聴力が失われているのだ。
しかし音として言葉を聞きとることはできないが、紫音には弥生が何を言っていたのかはっきりとわかっていた。
紫音は賢い娘であったため、聴力を失ってすぐに読唇術を覚えた。小さい頃は普通に話せていたため、会話することもそこまで難しくはなかった。
しかし、それはすぐに後悔へと変わる。
紫音の耳が聞こえないのをいいことに、弥生をはじめ、紫音の両親すらも紫音を悪く言い始めたのだ。
やれ無能だ、役立たずだ、北条院家の恥だなどと、聞きたくもない言葉たちが紫音の目に飛び込んできた。
初めは読み間違いだと思った。会得したばかりの読唇術が、うまく言葉を読み切れなかったのだと。
しかし、紫音の読唇術は間違ってなどいなかった。どうせ紫音には聞こえないと、家族は今まで言いたくても言えなかった紫音への不満を容赦なく口にするようになっていたのだ。
そんな家族から目を逸らすように、紫音は俯いて過ごすことが多くなった。
和と洋が入り乱れ始めたこの倭国日本では、人々は古来より妖に苦しめられてきた。
もちろん全ての妖が悪さをするというわけではないが、一部の膨大な力を持ってしまった妖が人里に降り、人々を脅かす事態が度々起きていた。
そんな妖を退治し、国や人々の安寧と秩序を守るのが、『陰陽師』と呼ばれる、特殊な能力を持つ人々であった。
陰陽師とは、妖を退治することに特化した力を持つ者達のことである。
陰陽師達の操る陰陽道は、主に陰の力と陽の力に分けられる。
大抵の陰陽師の家系は、陽の力を持っており、木・火・土・金・水の五行の力のどれかを操ることができる。
対してほんの一握りしかいない陰の力を持つ家系は、五行の力、全てを使うことができた。
北条院家は、前者である陽の力を持つ、由緒正しき陰陽師の家系であった。
北条院家の主である紫音の父、北条院 道元は、陽の力を持つ陰陽師の中でも数少ない強力な五行の術を持つ陰陽師である。
五行の力は一子相伝であり、五つの力のうち、どの力に特化するかはその血筋によって変わる。
北条院家はもともと、五行のうち水を操る血筋ではあるのだが、現当主である道元は、他の属性の力、水に加えて木の力も使えるという、稀有な陰陽師だった。
それ故、北条院家は陰陽師たちの中でも一目置かれた家系であり、国からも頼りにされるほど力の強い家系であった。
そんな陰陽師として有名な家系に生まれ育ったのが、紫音と弥生の双子の姉妹だった。
幼い頃は将来を有望視され、北条院家の後継ぎとして立派な陰陽師になるはずだった紫音。
対して妹の弥生は力が弱かった。
しかしいつからかその力は逆転し、紫音の五行の力は衰え、それを吸収していくかのように弥生の力ばかりが増していった。
今ではすっかり紫音は陰陽師としての力もなく、無能として蔑まれていた。
両親の期待は、一気に妹の弥生へと傾いた。
弥生はめきめきと力をつけ、今では強力な妖退治の依頼をこなすほどであった。
そんな弥生と比較するように、紫音の扱いは使用人以下となっていた。
幼少の頃は両親の期待を一身に受けていたはずなのだが、両親は期待を裏切った紫音を許さなかった。
こと道元においては、紫音に熱心に陰陽道を叩き込んでいただけあって、その失望は底知れぬものであった。
炊事洗濯等の家事はもちろん、ご飯やお茶が美味しくないと頭から熱湯をかけられ、弥生が妖退治の仕事でうまくいかなかったときは、不満の捌け口に使われる。
手は水仕事で荒れ、身体には打撲の跡が残り、着物も古く痛んでも新しいものは買ってもらえなかった。
それでも紫音が逃げ出さずに生きてこられたのは、もしかしたら昔の仲の良かった頃の家族に戻れるかもしれないという、一縷の望みが捨てきれなかったからだ。
家名に恥じぬ立派な陰陽師になるため、弥生と切磋琢磨した日々。父、道元の教えは厳しかったが的を射ていたし、母、文江の優しさが紫音と弥生の支えであった。
そんな愛おしい日々を思い返しては、今自分のできることを頑張ろうと前を向く。
しかし現実を見て、そんな望みはもう一生叶わないかもしれないと打ちのめされる。
そんなことの繰り返しだった。
(せめてこの耳が音を拾うことができたのなら、なにか違ったのかしら……)
紫音の耳は、かつてのように音を拾うことはできなくなっていた。
紫音の聴力の消失は先天性のものではなく、後天的なものだった。
幼少の頃はもちろん、他の人と変わりなくその耳で音を拾っていた。
しかしある日の朝、紫音が十二の頃だった。目が覚めると、突然耳が聞こえなくなっていたのだ。特に高熱を出したり、怪我をしたというわけでもない。
ある日起きたら突然に、耳が聞こえなくなっていたのだ。
原因はわからなかった。突発的なものなのか、なにかの病気なのかすらわからなかったのだ。
最初のうちは戸惑っていた道元と文江であったが、そもそももう紫音に期待していなかった二人は、紫音の代わりとなるかのように力をつける弥生に、そのうち紫音を気に掛けることはなくなっていた。
その頃から、度を増して家族からの虐げはきついものになっていく。
心優しい紫音は妖と言えど、祓うことに躊躇いを持っていた。しかし妹の弥生は、その力を遺憾なく発揮し妖を葬り去る。そのやり方も、道元としてはひどく気に入ったようであった。
文江は大事に育ててきた紫音に裏切られたと思い、彼女にきつく当たるようになっていた。
立派な陰陽師になり、北条院家のますますの繁栄のため尽力してくれるだろうと思っていただけに、文江は紫音に対して我が子とも思えないような態度をとるようになった。
紫音は完全に、北条院家のお荷物となってしまった。
陰陽師として役に立たないのなら、北条院家には必要ない。
存在意義を失ってしまった紫音にできることは、もはや使用人として家族の役に立つことだけだった。
そんな日々が続き、紫音と弥生は十七歳になっていた。
朝食時のこと。道元と弥生は、妖祓いの依頼について話していた。
「弥生、次は国からの祓いの仕事だ。心してかかれ」
「はい、お父様」
道元の言葉に、弥生は真剣な表情で頷く。そんな弥生に、文江は嬉しそうな声を上げる。
「こんなに早く国から認めてもらえるなんてすごいわ!私も立派な陰陽師の子を産むことができて鼻が高いもの!」
文江の言葉に弥生はくすぐったそうな表情を浮かべる。
「やめてよお母様ったら。私はまだまだ未熟者だわ。これからも研鑽を積んでいかなくては」
「なんて謙虚で努力家な子なのでしょう!」
「お父様、これからもご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いしますね」
「もちろんだ」
紫音の存在がないものかのように、家族の仲睦まじい会話が食卓で繰り広げられている。
紫音はそんな家族の会話を目で追いながら、残飯のように少ない食事を口に運ぶ。
紫音が味噌汁に口を付けていると、食べ終わり先に立ち上がった弥生がわざとらしくよろめき、紫音にぶつかった。
「ああっ、立ち眩みが……っ」
弥生がぶつかってきたせいで、味噌汁が紫音の着物にかかる。
「あっ……」
火傷するほどではないにしろ、温かさの残る味噌汁が首から胸にかかる。
「弥生!大丈夫なの!?」
文江は弥生を大事そうに支える。
「ええ、大丈夫よ、お母様。ここのところ仕事が忙しくて、少し疲れているのかもしれないわ」
眉毛を下げ弱々しい表情で答える弥生はしかし、一瞬紫音を一瞥しふんっと鼻で嘲笑うような表情を見せた。
道元も文江も弥生のことしか見ておらず、紫音に味噌汁がかかっていることなど気にも留めなかった。
三人が居間を出て行き、紫音だけが残される。
薄汚れたぼろぼろの着物にまた味噌汁の染みが濃く刻まれた。
紫音はただただその染みが広がっていくのを眺めていた。
(…………早く、拭かなくては……)
紫音はゆっくりと立ち上がり、食器を片付け、着物に付いた染みを一生懸命に落とすのだった。
「いたっ……」
その日の晩のこと。
いつものように夕食の支度をしていた紫音は、野菜を切っていて包丁で指を切ってしまった。真っ赤な血が、まな板の上にぽたぽたと垂れる。
普段ならこんなミスはしない。
しかし最近の紫音は、碌にご飯も与えられずいつも空腹で、思考がぼんやりとしていた。
今日もそんな中夕食の支度をしていたものだから、注意力が散漫になっており、自身の指を切ってしまったのだ。
傷から流れる血を見つめる紫音に、たまたま通りかかった弥生が驚いたように駆け寄ってくる。
「お姉様っ!大丈夫!?見せて!!」
「弥生……」
弥生は紫音の指を凝視する。
すると弥生は、手近にあった塩の入った瓶から塩を人摘まみし、紫音の傷口に強く刷り込んだ。
「い……っ」
あまりの痛みに顔を歪める紫音に、弥生はにたりと笑った。
「ねえ、痛い?元はと言えばお姉様が悪いのよ?私より先に生まれて、お父様とお母様に可愛がられてばかりいるから!!」
傷口にぐりぐりと塩を塗り込まれ、紫音は痛みで瞳を潤ませる。
弥生はそんな紫音を思い切り突き飛ばす。紫音は耐えることもできず、流しに頭を打ち付けてしまう。
「でもまぁ、もうそんなこともないけどね。お姉様にはなんの力もない。お父様もお母様も、お姉様に振り向くことなんて一生ないわ」
見下ろすように弥生は紫音を踏みつける。
「いい気味」
俯く紫音に最後の言葉は聞こえなかったが、弥生は紫音を強く蹴飛ばし、台所を出て行った。
苦痛に耐える紫音の瞳からは、涙が流れることはなかった。
こんなことは日常茶飯事だ。いちいち感情を動かしていては、身が持たなかった。
紫音は流しで血と塩の混ざり合う指を痛みに耐えながら綺麗にし、ぼろぼろの雑巾のような包帯を巻くと、また調理に戻ったのだった。
そして地獄のような日々は相変わらず続き、またひと月が経った頃。
朝食の席で、道元は弥生に言った。
「弥生。お前ももう十七だ。そろそろ、結婚について考えてもいい年頃だと思う」
道元の言葉に、弥生と文江は目を見開いてごくりと唾を飲み込む。
「陰陽師会を通じ、我が愛娘、弥生の婚約者を募ろうと思っている」
その言葉に、弥生は目をキラキラと輝かせる。
陰陽師会とは、その名の通り、この国の全陰陽師が名を連ねる陰陽師達の会合のことである。名だたる力を持つ家系の陰陽師達が集まる会合だった。
陰陽師の家系と婚姻を結ぶのは陰陽師の家系と相場が決まっている。
故に当然、弥生の夫となる者は陰陽師の力を持っており、北条院家に婿養子となることになるのだ。
「お父様、それはいつ頃に……?」
弥生は嬉しそうに道元の言葉を待つ。
「私はすぐにでも陰陽師会にこの話を持っていこうと思っている」
道元の言葉に、弥生は「まぁ!」と言って顔を綻ばせた。しかし文江は少し複雑な表情だ。
「弥生ももうそんな年頃なのね。なんだかすごく、寂しいわ」
悲しそうな表情を浮かべる文江の手を、そっと握りしめる弥生。
「お母様ったら、気が早いわよ。まだ旦那様が見つかったわけでもないのに。こんな私で、誰か見初めてくれるかしら……」
自信なさげに眉を下げる弥生に、道元と文江は力いっぱい励ましの声を掛ける。
「何を言っているのだ。弥生はこの北条院家の誇りだ。婚姻が殺到するに違いない」
「そうよ!それにこんなに綺麗な子なんですもの、男が放っておいたりしないわ!!」
「お父様、お母様……、ありがとう。私、少し引っ込み思案なところがあるけれど、この北条院家の名に恥じぬ、素敵な旦那様を見つけてみせますわ!」
きゃっきゃとはしゃぐ三人を見ながら、紫音は黙々と食事を口に運ぶ。
(私には関係のない話だけれど……、そうか、もう婚姻のできる歳なのね……)
紫音は漠然とそう思っただけだった。
北条院家の長女に生まれていながら、使用人以下の扱いを受ける紫音にとっては、婚姻の話などまるで関係のない話だ。
自分はきっとこのまま、もしかしたら死ぬまで一生使用人として生きていくのかもしれない。
そんなことを考えると気が遠くなったが、陰陽師としての能力もなく、聴力もない自分には人並みの幸せを願うことすら贅沢なことなのかもしれなかった。
道元が弥生の婚約者を募り始めると、翌日には驚くほどたくさんの文が届いた。
そのどれもが弥生との婚約を望むものであり、一度顔合わせをしたいと言う申し出だった。
弥生は少し派手ではあるが、顔は整っており、可愛らしい見た目をしている。
それに陰陽師の中でも屈指の力を持つ北条院家の優秀な娘とあれば、どの家系の陰陽師も縁を結びたがるだろう。強き家系はそのますますの繁栄を欲し、弱き家系はこの機に乗じて、地位を上げたいと企む。
そんなあらゆる陰陽師の家系からの求婚の文は、連日山の様に届くこととなった。
弥生の自室で文の整理を手伝わされていた紫音は、楽しそうに文を読みこむ弥生を見つめていた。
「お姉様、この文見て!津田家ですって!あはは、こんな没落した陰陽師の家系となんて、誰が婚姻するって言うのかしら!?自分の身分すらわからないなんてなんて恥知らずなのかしら!?」
持っていた文を紫音に投げつけた弥生は、大口を開け品のない笑いを漏らす。
紫音はその手紙を丁寧に封筒に戻し、弥生が有り、無し、と判断し、仕分けた無しの箱にそっと入れた。
全ての文に目を通し、文句をつけたり、感想を述べる弥生は驚くほどに上機嫌だった。
両親に認められるために努力した弥生にとって、自分の力が認められただけでなく、こうして自身を手に入れたいと躍起になる人達を見て、笑いが止まらなかった。
「はぁ~なんて滑稽なのかしら!こんな家柄で私と釣り合うとでも思っているのかしら!?全く下等な人間って本当にいやらしいわ」
「ああ、気持ち悪い」と文をまた紫音に投げつける弥生。それをまた無しの箱にそっと入れる紫音。
そんな姉の姿を見て、弥生はまた愉快そうに口角をにんまりと上げる。
「ねえねえ、お姉様。今、どんな気持ち?」
「え?」
弥生は耳の聞こえない紫音にもはっきりとわかるようにわざわざ大きく口を動かした。
「この文、見て!全部私への求婚の文なの!すごいと思わない?これだけ大勢の人が、私を欲しているのよ?私は選ぶ側!こいつらは選ばれるかどうかもわからない非力な弱者側。なんの力もなく、ただただ私と言う強大な力を持つ北条院の娘に選ばれたいと願うだけの、可哀想な人達。私、今すごく気分がいいわ!人の上に立つってこんなに気持ちがいいのねぇ!!」
きゃはきゃはと耳障りな笑い声を上げる弥生の声は、もちろん紫音には届かない。
しかし、彼女が何を言っているのかは、その目で嫌という程にわかった。
紫音と弥生は、幼少の頃は仲睦まじい姉妹であったはずなのだ。
それなのにあの頃の気弱で優しかった弥生の姿は、今はもう全く見る影もなかった。
弥生の言葉に特に反応を示さなかった紫音に腹が立ったのか、弥生は突然紫音の頬に平手打ちをした。
バチンっと、派手な音が部屋に響き渡る。
真っ赤になった頬を抑えるように紫音が顔を上げると、弥生はつまんなそうに紫音を見下ろした。
「汚い顔……、まるでその辺の妖と同じね。本当に醜いわ」
紫音はぐっと唇を噛みしめる。
泣きたいくらい毎日が辛いのに、紫音の涙はとっくに渇ききってしまっていた。
その日も、弥生へ求婚する男性達からの文の整理を手伝わされていた紫音は、先程まで愉快に一人で感想を口走っていた弥生の手がふと止まったことに気が付いて、彼女に視線を向けた。
一通の文を手にした弥生は、驚いたように目を見開き、その文の文字を凝視していた。
(弥生……?どうしたのかしら……)
そうしてしばらくして弥生の口元が小さく動く。
「嘘……でしょ……?」
弥生は文を見つめていた顔を上げ、紫音を見つめる。
そうして、その文を紫音に見せた。
「お姉様、見て」
「……?」
弥生に促されるまま、紫音はその文の一行目に目を向ける。
そこに書かれていたのは、「北条院家長女 紫音殿」という文字だった。
(え…………?)
絶句する紫音から文を奪い取った弥生は、紫音の腕を乱暴に握るとこれまた乱暴に立ち上がらせ、その手を引いて慌てて廊下を進んでいく。
「や、弥生……っ」
紫音の言葉を無視し、弥生はずんずんと廊下を進んでいき、道元の書斎へとやってくる。
「お父様っ!失礼いたしますっ!」
焦ったように道元の書斎に入る弥生に続いて、紫音も隠れながら後ろについて行く。
「弥生、どうした?そのように慌てて」
ちょうど書斎にはお茶を持ってきていた文江もおり、道元と文江は弥生の慌てように揃って首を傾げた。
「お父様、これを見て!」
弥生は先程紫音にちらりと見せた文を、道元へと手渡す。
「お姉様宛てに、求婚の文が届いたの!!」
弥生の言葉に、道元と文江だけでなく、紫音も同じように目を見開いた。
(え……?私に、求婚……?)
道元は目を丸くしてその文の文字を追う。驚いたように読んでいた道元であったが、読み終えると高らかに笑い始めた。
「はっはっはっは!!!」
道元があまりに大きな声で笑うものだから、弥生も文江も、紫音でさえも目をぱちくりさせていた。
「お、お父様……?どうしてそのように笑っていらっしゃるの?お姉様に求婚の文が届いたのよ?そんなこと、あり得ないはずでしょう?」
弥生は膝の上に乗せた拳をぎゅっと握りしめ、わなわなと怒りで震え始める。
弥生は一通だったとしても、紫音を気に掛けている者がいるのが気に食わなかった。
「どうしてお姉様に求婚なんかっ……」
「弥生、落ち着きなさい」
「だって……」
怒りを顕にする弥生に、道元は優しく微笑んだ。
「この文は確かに紫音宛てだ。しかし、送り主は、あの御影家だ」
その名を聞いた途端、弥生は固まり、そうして数秒ののち吹き出すように笑い始めた。
「あはははは、御影家って、あの御影!?」
先程まで怒りを顕にしていたはずの弥生は、もうすっかり笑顔になりこれでもかというほどに嬉しそうな表情を浮かべていた。
道元すらもその表情は珍しく笑顔を形作った。
「ああ、そうだ、あの御影家だ」
陰陽師の職務を離れて久しい文江は、辛抱ならないといった様子で笑い続ける道元と弥生に声を掛けた。
「ちょっとあなた、弥生。その御影家ってどういったお家柄なの?」
文江と同じ疑問を持っていた紫音も、二人からの返答を固唾を呑んで見守る。
「ああ、お前は家柄にはあまり詳しくなかったな」
道元はわざとらしく喉の調子を整えると、説明を始める。
「御影家は、陰陽師の家系の中でも古くからある陰の力を持つ家系だ」
(陰の力……)
「陰の力と言うことは、五行全ての力を持つ、ということよね?」
「ああ、そうだ」
文江の言葉に、道元は頷く。
陰の力を持つ陰陽師は少ない。御影家を含め、その力を持つ家系は片手で数えられるだけだった。
「すごく力のある家系じゃない!」
話だけ聞いていると、御影家は陰陽術に優れた素晴らしい家系であるように思う。
しかし道元は首を横に振る。
「御影家はここ数年、表舞台からその姿を消していたのだ」
「え?どうして?」
文江と同じ疑問を持った紫音も、道元の口の動きに注目する。
「御影の現当主が、妖に魂を売ったと、噂が流れたからだ」
(妖に、魂を売った……?)
道元の口は確かにそう動いていた。
道元が話すには、こうだった。
元々力の強い陰陽師の血筋を持っていたはずの御影家のはずだが、前当主はあまり力に恵まれなかったという。そこで他の力の強い陰陽師の血筋である妻を娶ったそうだが、前当主、その妻共に病に侵され、若くにこの世を去ったのだという。
当然御影の当主の座は、その息子に引き継がれたのだが、その息子が禁忌である妖使役の術を使用し、妖を束ね自身も妖に魂を売り、妖になってしまったという噂が流れ始めたのだ。
真意はわからないが、陰陽師会は御影を敬遠し、以降関わらないようにする家系が多いという。
そんな没落したと思われた陰陽師の家系である御影家が、北条院に求婚の文を出してきたのだ。
しかも、陰陽師として全く能力がない、紫音に宛てて。
道元と弥生が笑ってしまうのも無理はなかった。
ようやく話を理解した文江も、「そういうことだったのね」と紫音を見て蔑んだように笑った。
「で、お父様、このお話どうなさるの?」
弥生がにやにやと気味の悪い笑顔を浮かべながら、道元に問う。問われた道元は、弥生とそっくりな笑顔を浮かべていた。
「当然、紫音には、御影に嫁いでもらう」
その言葉を読んだ紫音は、「え……」と小さく声を漏らし、固まってしまう。
道元は至極真面目な表情を作って、紫音に目を向ける。
「紫音」
「は、はい……」
「紫音も私の大事な娘の一人に変わりない。それに、紫音も年頃だ」
道元は紫音の瞳を真っ直ぐに見つめる。
「とても寂しいことだが、御影に嫁ぎ、幸せになってほしい……ぐっ」
最後まで真剣に言葉を紡ごうとしたらしい道元は、ついに堪えられなくなって笑い出してしまう。
そんな道元につられるようにして、弥生と文江も笑い出す。
「あはは!お父様ったら、笑うなんて酷いわ!お姉様のせっかくの人生の門出なのよ!?盛大にお見送りしなくては!」
「すまない、どうにも可笑しくなってしまってな」
「そうよあなた!紫音の嫁入りの準備をしなくっちゃ!」
「そうだな。御影には早速私から文を出しておこう。早いに越したことはないからな」
紫音を置き去りにして話が進んでいく。
そんな家族を見ながら、紫音はただただ心を殺すしかなかった。
(私は、御影家に嫁ぐのね……)
妖を使役し、あまつさえ自身も妖になってしまったなどと噂される御影家の当主に嫁ぐということは、死ねと言われているのと同じだった。
自分達では紫音の処分に困っていたから、妖屋敷の御影に放り出し、あとは紫音が死んだところでなんとも思わないのだろう。
道元はまた少し表情を引き締め、紫音に向かって言葉を投げる。
「紫音、相手は御影家だ。噂通り妖であるのならば、滅してしまいなさい」
その言葉に弥生が一層可笑しそうに笑い声を上げる。
「やだお父様ったら!お姉様は陰陽師の力を持っていないのよ?妖を滅するどころか、喰われて終わりだわ!!」
「そうだったな」
わはははと品なく大口を開けて笑う家族に、紫音はようやく気が付いた。
(この人達が私をまた家族として見てくれる日なんて、きっと一生こない……)
いつかまた幼い頃のように仲の良い家族に戻れるのではないか。
そんな希望を捨てきれずにいた紫音は、その時ようやく諦めがついたのだった。



