店が開くまでの間、同じ通りのコーヒーチェーン店で時間を潰すことにした。
 二階のカウンター席に座る。窓からは事件現場が見えた。
「こういうのってさ、写真で想像する味を超えてくれないよな」
 神部が注文したのは季節限定のフラペチーノで、上には桃色のクリームが乗っている。
 神部は何枚か写真を撮ったのち、ストローをさした。
「どうしてお前がついてくるんだ」
「気になるからだよ」
「部外者が面白半分で首を突っ込まないでくれ。人が亡くなっているんだぞ」
「部外者ねえ」
 神部は意味深に呟くと、フラペチーノをすすった。
「被害者と面識があるのか?」
「どちらかといえば加害者かな」
「俺と?」
 神部はフハッと豪快に笑った。
「……何がおかしい?」
「だって純平くん、運転してないだろ」
 ストローでフラペチーノをかき混ぜながら、とんでもないことをサラリと言った。
 神部は遠い目で窓を見る。まだおかしいのか、肩をゆすった。
「普通座らないだろ、こんな、事件現場の見える場所」
 アイスコーヒーの氷が溶け、カランと鳴った。俺はまだ一口も飲んでいないアイスコーヒーを手に持った。
「純平くんには加害者の意識がない。だから被害者について調べられるんだ。後ろめたい人間は、あんなふうに聞けないよ」
 アイスコーヒーに口をつけ、回答を引き延ばす。
「なあ、鏑木慎一を庇っているんだろ?」
「っ……鏑木を知っているのか?」
「純平くん。俺には本当のことを教えてくれないかな?」
 心が揺らいだ。そう、俺は鏑木慎一を庇った。あいつのために人生を棒に振った。
 罪を返すことができたらどんな人生が送れるだろう。失ったもののいくつかを、取り戻すことができるだろうか。
 打ち明けてしまいたい。こいつなら信じてくれる。こいつの中で答えは出ている。
 けれど口を開いた瞬間、ふいに枯れ木のような老婆の手が、俺の胸をガッと掴んだ。
「っ……」
 錯覚だ。一瞬で老婆の手は消えた。でも鮮明に、あのか弱い力が蘇ってきた。
 心臓がバクバクと波打った。
「どうした?」
 神部が気遣わしげな声を出す。俺は胸をさすった。
「いや……なんでもない」
「……脅されてるの?」
「そういうわけじゃない」
 強い声が出た。
「子供なんているのかな」
 え、と思わず隣を見た。神部はまっすぐ窓を向いたまま言った。
「そもそも純平くんはさ、被害者に子供がいるって何で知ったの?」
「……遺族から聞いた。あのお婆さんだ」
「あのお婆さんはどうして知ったの?」
「遺品からエコー写真が……」
 見つかったらしい、と続ける声が消えた。確かにそれだけでは決め手に欠ける。
「それだけじゃ、決め手にならないんじゃない?」
「子供がいるように思わせたかった? ……でもなんのために」
「たとえばだけど」神部はフラペチーノをひとくちすすった。「好きな男を繋ぎ止めるためにでっち上げたとか」
 それは……眉根が寄った。あまりに勝手な想像だ。しかし神部はさらに言う。
「妊娠したって嘘をつく女、わりといるよ。結婚に踏み切らせたり、中絶費用だまし取ったり」
「被害者が詐欺をしていたって言うのか」
「たとえばの話」
「感心しないな。被害者のことを勝手に推測するなんて」
「だからこうして待ってるんじゃないか」
 日が傾いてきた。もう少しでラプスが開店する。
 

「ああ、あの事故、酷いよねえ。あんなの殺人だよ。だって何百メートルも引き摺ったんでしょ? 気づかないわけがないよね。綺麗な人だったのに、本当に酷い話だよ」
 バーの店長は若い男で、神部がサインに応じると、気さくに被害者について語ってくれた。
「儚い美人だったよ。ここでもしつこく言い寄る男がいてさ、ストーカーまがいのことをするもんだから出禁にしたんだ。常連客だったけどね」
 実は、と男はカウンター越しに身を乗り出した。
「あの人、嫌がらせを受けてたんだよ」
「嫌がらせ?」
 すかさず神部が聞く。
「インスタに誹謗中傷。ブロックしても新しいアカウントからコメントしてくるんだって困ってた。それであの事故だろ? やりきれないよ」
「あの事故と嫌がらせが関係あるんですか?」
 と神部。
「俺は関係あると思ってるよ。だってあの日、あの人は『待ち合わせしてる』って言ってたから。あれは嫌がらせの犯人と会おうとしてたんじゃないかな」
 子供に繋がる情報とは思えない。深掘りする必要はないと思ったが、神部は食いついた。
「それ、警察には話しましたか?」
「警察には話していないけど、テレビ局の取材では話したよ。使ってもらえなかったけどね」
 そりゃそうだろう。交通事故で、被害者の人となりならともかく、被害者が抱えるトラブルを報道するなど反感を買う。
「嫌がらせの犯人が、事故を起こした可能性はないですか? ……たとえばですけど、道路に寝かせたり、車が来る瞬間を狙って道路に押し出したり」
 神部が驚くことを言う。
「あー、んー、それもありそうだなって思ったけどさ。っていうか、事故を知った時は俺も同じこと考えた。事故に見せかけて殺されたのかな……って。ああいや……まあ、いろんな噂がある子だったからね。でも運転していた大学生、そういうこと何も言ってないんでしょ? だったら普通に事故じゃないかな」
 こんなの、ただの想像でしかない。なのに焦燥感のようなものが込み上げた。
 乱れる鼓動を、大きく息を吐いて整える。
 考えるな。考えるな。あれは鏑木が起こした事故だ、事故……
「被害者の方にはお子さんがいたと聞いたのですが」
 俺は話題を変えた。
「あー……そういやそんな噂もあったな」
 思わず神部と顔を見合わせた。
「……どういった噂ですか?」
 俺が聞く。
「『生まれてきてくれてありがとう日記』っていうブログがあって、その母親じゃないかって言われてたんだよ、彼女。ブログに載ってた金融機関の名義人が彼女と同じ名前だったから」
「ブログに金融機関……ですか?」
「闘病ブログだからね。治療費を集めてたみたいだよ」
「治療費……」
「そのこと、本人には聞かなかったんですか?」
 と神部。店主は「聞けないよお」と笑った。
「いつも彼氏と来るのに子供の話なんて。楽しい話題でもないしね」
「彼氏がいたんですか?」
「うん。今風のかっこいい子だったよ。あー、ダメだごめん……ブログ、見つからないや」
「彼氏の連絡先は分かりますか」
「連絡先は知らないなあ……あ、でもK大生って言ってたから、K大の子なら知ってるかも。名前、なんだったかなー」
「SNSにいないかな」神部はスマホを素早く操作した。「自称被害者の彼氏」
 K大と聞いて、真っ先に思い浮かんだのは姫花だった。彼女はK大に進学した。……協力してもらうことはできないだろうか。
 さすがにな……と即座に却下する。
 今更俺が被害者の交流関係を調べていると知ったら困惑するに決まっている。姫花は俺が罪を被ったことを知っているのだ。それに、被害者の彼氏を見つけ出すことにそれほど必要性を感じない。俺が知りたいのは、彼氏ではなく子供の行方だ。
 でも……
「どう思う?」
 店を出てすぐ、神部が言った。
「なにが」
「決まってるでしょ。子供、存在すると思う?」
 治療費と聞いた時、嫌な感じがした。
 ブログで金を集めるために、子供をでっち上げたんじゃないか……
 あの時一瞬、そう思った。でもそれは、『子供なんているのかな』という神部の言葉が念頭にあったからだ。
「ブログの話、なんかきな臭くない?」
「見ていないから、なんとも言えない」
「俺は作り話だと思う」神部は断言した。「被害者は金儲けのために闘病日記を書いてたんだ。子供は最初からいない。仮に本当だとしても、子供は病気で亡くなって存在しない。……だってそうでしょ。闘病日記まで書くような人が、子供の存在を周囲に話さないなんて不自然だ。最初から存在しないか、病気で亡くなって話せないかの二択しかありえない」
「ああ……俺もそう思う」
 決めつけは良くないと思いつつ、同意した。
「K大生の彼氏を見つけたいな」
「もう良いだろ。彼氏なんか調べたって仕方ない」
 なんとなく献花した場所まで戻ってきた。足を止め、数時間で萎れてしまった花を見下ろす。
「純平くんは気にならないの? 被害者は嫌がらせを受けていて、あの日は誰かと待ち合わせしていたんだよ」
「でも事故は事故だ。すぐに止まっていればあの人は死なずに済んだかもしれない。何百メートルも引きずった時点で、あの事故の加害者は運転手なんだよ」
 神部は物言いたげにジッと俺を睨んでいたが、ひとつため息をつくと、ぽつりと言った。
「ドライブレコーダーがあればな」
 ドライブレコーダーは事故当日、警察が来る前に回収済みだ。とっくに処分されているか、あったとしても鏑木家が厳重に封印しているだろう。
 ただ、俺もドライブレコーダーを見たいと思った。鏑木が見た光景が知りたい。