「あの子を返してっ! 返してよおっ……どうしてっ……どうして止まらなかったの……すぐに止まっていれば……あの子は死なずに済んだのにっ……」
 枯れ木のような細い腕が、俺の胸を弱々しく叩く。傍聴席で見た時よりも、随分と小さく見えた。
 謝らなければならない。この人は俺をひき逃げの犯人だと思っているのだから。
 でも、抗うように喉が詰まった。
 俺は鏑木慎一が犯した罪を、自らの意思で、納得して引き受けた。奴の代わりに四年服役した。それで終わったと思った。二十一歳から四年間の服役は、罪を清算したと思い込むのに十分だった。
 でも被害者遺族は違う。殺人を背負うことがどういうことか、俺は理解していなかったのだ。
 被害者遺族がこうして押しかけてきたことで、罪を背負うというのはこういうことなのだと、目の覚める思いがした。法の罰を受けるだけでは終わらないのだ。
 今更だが、割に合わないと思った。勘弁してくれと思った。
 俺は十分自分の人生を犠牲にした。これ以上、あいつの罪に足を引っ張られるのはごめんだ。
 俺がなかなか戻らないから、心配して来たのだろう。視界の隅に円香さんの姿が見えた。
 こんな場面を彼女に見せるわけにはいかない。俺は枯れ木のような腕を振り解き、エントランスを出た。
「待って……」
 老婆が追いかけてくる。突き放すように大股で歩道を進んだ。老婆から逃げるためではなく、円香さんから離れるために。
 国道に面した通りは店屋が連なっていて賑やかだが、一本、奥に入ってしまえば浅草は閑静な住宅地だ。もっとも最近は民泊が増えてきて、屋上やベランダから賑やかな笑い声が聞こえることも多い。
 この日は分厚い雲が夜空を覆っているせいか、街はシンとしていた。
 円香さんは……振り返ると、老婆がうつ伏せで倒れていた。俺の方に手を伸ばし、恨めしげにこちらを睨んでいる。
 助けなければ。俺を追いかけて、転んだのだから。
 思うのに、一歩が踏み出せない。俺を恨んでいる人間に近寄りたくない。
「大丈夫ですかっ!」
 若い男が老婆の元へ駆け寄った。男の手を借り、老婆が立ち上がる。
「この、人殺しっ!」
「っ……」
 俺じゃない。あんたの娘を轢き殺したのは、本当は鏑木慎一で、俺はただの同乗者。それに俺は、「止まれ」と言った。
「あの子を返してっ……お願い、返してよおっ……」
 老婆の目からは滂沱の涙が溢れる。
 こんなの、許容量を超えている。娘を交通事故で亡くしたことには同情する……するが、その怒りを俺にぶつけられても困る。俺の中では終わったことだ。
「待てよっ」
 踵を返した時だった。
「あんたが怪我させたんだろ。逃げるんじゃねえよ」
 男の声に振り返る。庇うように老婆の肩を抱えている男が、目深に被った帽子の陰から、まっすぐ俺を見て言った。
「謝れよ」
「あの子を返してっ……!」
 うるさい。
 目の下の皮膚が、ヒクヒクと引き攣るのがわかった。
 俺は大股で老婆に近づいた。恨み言なら鏑木に言ってくれ。俺はもう罪を償った。言おうと口を開くが、充血した目を間近に見たら、言葉が出なかった。
 枯れ木のような細い腕が、俺の胸にしがみつく。
「ねえ……どうして? どうしてあの子が死ななくちゃいけないのっ!? 教えて……教えてよおっ……」
 帽子を目深に被った男と至近距離で目が合い、思わずハッと息をのむ。
 派手な金髪。色白の細面。似ていると言われるから、芸能人に疎い俺でも知っている。
 神部晃だ。
「どうして止まらなかったんだ」
 知るか。鏑木に聞いてくれ。
 俺は老婆を胸から突き放し、背を向け歩き出した。アスファルトを蹴る感覚はほとんどなかった。まっすぐ歩けているかも怪しい。
 甘かった。罪を引き受けた過去の自分を恨まずにはいられなかった。どうすれば終わらせられる? 止まらなかった理由を言えば納得するのか? 別の形で償いを……たとえば定期的に仏壇に手を合わせたり、毎月給料を差し出せばいいのか?
 冗談じゃない。そこまで付き合うつもりはない。満期釈放となった時点で、あの事件の決着はついたのだ。

 
 扉を開けた鏑木は、まるで幽霊に出会したかのように、俺を見て驚愕に目を見開いた。
「久しぶりだな」
 自分でも驚くほど穏やかな声が出た。
「なんで……」
「入っていいか?」
 グイと肩をねじ入れ、強引に中に入った。
 俺は露骨に玄関を見回した。広くはないが新しく、奥へと続くフローリングは明るい照明に照らされている。
「いいところに住んでるんだな。……まあ、そりゃそうか。お前は弁護士だもんな」
「今更……なんの用だ」
 鏑木の肩口を掴み、壁際に追いやった。ガンッ、と背中を強くうちつけ、鏑木は痛みに顔を歪めた。間近で見ると、男とは思えないほどキメの細かい肌をしていた。服役したらこうはならない。風呂は週に三回で、使えるのは石鹸だけだ。
「それが恩人に対する態度か?」
 ペチペチと頬を軽く叩く。ゴム鞠のようにハリがあった。
「……目的を言え。金か?」
「今日、被害者遺族が俺に会いに来た」
 鏑木の長いまつ毛が震えた。
「どうして止まらなかったんだと聞かれたが、俺は答えることができなかった。お前、どうして止まらなかったんだ」
「……もう、覚えてない」
「嘘をつくなっ……」
「…………」
「俺はこれ以上っ……お前の罪に振り回されたくないんだよっ……遺族はまだ事故から立ち直れないでいる。でもその心のケアは俺の役目じゃない」
「……知らねえよ」
「お前がやるんだっ……遺族の元を訪ね、被害者の仏壇に手を合わせろっ!」
「俺はっ……関係ないっ! 罪を被ったんなら……さ、最後まで責任もって……お前が罪を償えよっ!」
 カッと頭に血が昇った。キメの細かい頬を張る。パチンと乾いた音が、明るい玄関に響いた。
「だったらせめて、同乗者として、被害者の仏壇に手を合わせるくらいのことをしろっ!」
「い、いやだ……」
 駄々っ子のように首を横に振る。
「人殺しっ。お前に拒否権はないんだよっ……」
 鏑木はぎゅっとまぶたを閉じた。
「姫花ちゃんから聞いたぞ……お前、あの事件から随分お利口になったそうじゃないか。夜遊びやめて、勉強ばっかしてたんだろ。ストレートで弁護士になるなんて大したもんじゃないか」
 俺はいたぶるように笑いかけた。
「その努力、俺がぶち壊したっていいんだぞ」
 鏑木の頬が引き攣る。こいつが服役したらどんな目に遭うだろう。きっと無事ではいられない。日焼け知らずの肌を見ていたら、ますます腹が立ってきた。お前はもっと俺に感謝するべきだ。
「お前が殺したんだ。一度くらい、遺族と向き合え。……俺も一緒に行くから」
 俺は靴を脱ぎ捨て、中に踏み込んだ。遺族に家を知られてしまった以上、あそこに戻るわけにはいかない。
「しばらくここに泊まる」
「……布団、ないけど」
 リビングには三人掛けソファがあった。十分横になれる大きさだ。
 天井は高く、窓は大きい。窓辺へ行き、カーテンを開けるとベランダにはプランターが置かれていた。随分と丁寧な暮らしをしているようで、気に入らない。
 振り返り、部屋全体を見回す。女の気配はなかった。



 この日は朝から雨が降っていた。
 新幹線に二時間揺られ、被害者遺族の家にやってきた。日当たりの悪いアパートの一室は、雨雲のせいで昼間とは思えぬ暗さだ。
 仏壇に飾られていたのは、制服を来た少女の写真だった。
 俺と鏑木は、順に仏壇に手を合わせ、揃って老婆に頭を下げた。
「顔を上げて」
 老婆は静かに言うと、仏壇に飾られた写真に目をやった。
「写真、これが一番新しいの。あの子、私のこと嫌っていたから。もう何年も、あの子とは音信不通だった。……あなたを責める資格は、本当は私にはないの。でも、許せないの。……やるせないの。だってどうして……止まっていたら、あの子は助かったかもしれない。そうしたら事故をきっかけに、あの子と再会できたかもしれない……」
 老婆は洟をすすった。
「でも……あの事故がなければ、きっと私は一生あの子の行方を知ることはなかった。あの子に子供がいたことも……」
「お子さんがいたんですか?」
 俺が問うと、老婆は憎らしげに俺を睨んだものの、すぐさま力なく目を伏せ、「ええ」と言った。
「あの子の遺品を整理していたら、エコー写真が出てきたの。……でも、どういうわけか、一緒に住んではなかったみたい」
 被害者には子供がいた。暗闇に一筋の光が射したようだった。その子供を探し出せば、老婆の悲しみが少しは癒えるのではないか。
 だが帰りの新幹線で、
「被害者の子供を探し出そう」
 俺が提案すると、鏑木は「嫌だ」と即答した。
「お前には償いの精神がないのか」
「子供を探し出すことが償い? はっ、アホらしい。だいたい、探し出してどうすんだよ? あの婆さんに会わせるのか?」
「それしかないだろ。あの人は娘を失って辛い思いをしているんだ」
「だから孫を差し出そうって? 孫が困るだろ」
「孫だって祖母に会いたいかもしれない」
「お花畑が。どんな理由であれ、被害者は子供を手放したんだ。その子供には新しい母親がいるかもしれない。そこへ俺たち部外者が出ていって、実は母親は別にいるとか、事故で死んだとか言われても困るだけだ」
 そうかもしれない。でも、お前がそれを言うなと思った。
「……償いなら、他のやり方があるはずだ」
 鏑木が言った。俺は隣の彼を見た。今朝から顔色が悪いとは思っていたが、今はそれより悪い気がした。
「あの婆さんは、寂しいんだろ。だったら相手をしてやればいい」
 俺は鼻で笑った。
「お前は、あの人の取り乱した姿を見ていないもんな。今日は落ち着いていたが、この前は路上で騒がれて大変だった。憎悪を向けられてもないくせに、簡単に言うな」
「あの人の相手は、俺がやる。毎週通って、事故から立ち直ってもらう」
 鏑木は喉を震わせ、消え入りそうな声で言った。
「だから…………俺が運転していたことは、バラさないでくれ」
「中途半端なことはするなよ」
「わかってる」
「俺はもういかないからな」
「ああ、構わない」
 あの老婆が立ち直ればいいのだから、被害者の子供を探し出すことにこだわる必要はない。でも老婆が子供の存在を俺たちに話したのは、俺たちが探し出すことを期待したからではないのか。
 俺だけでも、被害者の子供を探し出そうと思った。


 母親でも、被害者の子供の居場所がわからないとなれば、遺品に手がかりはないだろう。
 俺は毎週事故現場に通い、献花した。こうすることで、あの事故を知る者に声を掛けられるかもしれない。希望は薄かったが、三週目、思わぬ人物に声を掛けられた。
「なんで止まらなかったんだ」
 聞き覚えのある声だった。しゃがんで手を合わせていた俺は、弾かれたように顔を上げ、背後を見た。
 神部《かんべ》|晃(あきら)だ。帽子を目深に被っているが、下から見上げる格好だから、すぐにわかった。
「なんで……」
「あのお婆さんから話を聞いたら気になってね」
 神部は道路に視線を向けた。
「何百メートルも引き摺ったんだって? 鬼畜だな」
 通行人がチラとこちらを見た。子供を探す上で、俺が加害者であることは隠したい。
「野次馬心で事故現場まで来るなんて、神部晃は暇なんだな」
「あ、俺のこと知ってる? 暇ってことはないけど、確かに今はそんなに忙しくないかな」
 俺は立ち上がり、事故現場に背を向け歩き出した。
「どうして被害者は死ななきゃいけなかったのかな」
 張り上げた声に足を止め、振り返る。
「朝比奈純平、きみは知ってるんだろ?」
 名前を呼ばれ、ドクンと胸が跳ねた。あの事件を検索すれば、今でも俺の名前が出てくるのだ。
 神部は挑発するような笑みを浮かべ、近づいてきた。
「あんたら、そこであった事故を知ってるのかい?」
 男の声に神部の足が止まる。
 道路に面した蕎麦屋の店主だった。俺と神部を、気難しい顔で順に見る。
 俺は口を開いた。
「ご遺族に頼まれて、被害者について調べているんです」
 神部がこちら見た気がしたが、気づかないふりをして続けた。
「被害者にはお子さんがいたそうなんです。……何か、ご存知ないですか?」
「なに、あの子、子供がいたの?」
 男が目を丸くする。あの子。まるで被害者と面識があるような口調だ。
「被害者の方をご存知なんですか?」
「そりゃ……この辺に住んでいたからね。ここらで店やってる人間は、みんな知ってるんじゃないかな。あ、知ってるって言っても、一方的にね。俺も別に話すような仲じゃなかったよ。ただ、目立っていたからね」
「目立っていた?」
「綺麗な子だったからねえ」
 今度はレジ袋を持った中年女が現れた。
「旦那さん、どんな人なの?」
「わかりません」
「子供はどうしているの?」
「それを知りたいんだってよ」
 蕎麦屋の店主が言った。
「あ、ラプスの店長が知っているんじゃない? 私、インタビューに答えているの見たわ。よく飲みに来てくれたって」
「ラプスというのは、居酒屋ですか?」
 神部が聞く。こいつ、どこまで首を突っ込むつもりだ。
「そうよ、若い人が集まるような居酒屋」
「バルだ、バル。あそこの三階」
 蕎麦屋の店主が、道路の向かいにあるビルを指差した。