「そこ、ドヤ街だよっ!」
「ドヤ街?」
「日雇い労働者の街! 円香っ、そんな治安の悪いとこ絶対やめなっ! 犯罪に巻き込まれるよっ!」
同期の沙織にきつく言われ、私は気分を害した。
昨日、アパートが全焼した。原因は住人のタバコの不始末で、私はとばっちりだ。服も化粧品も取得したばかりのパスポートも何もかも燃えた。一夜明けても気分は沈んだまま。もっと寄り添ってくれるかと思ったのに、宿泊施設を言ったらこれだ。はあ、と重いため息が出る。
「簡単に言わないでよ。今日から連泊できる場所、そこしかなかったんだから」
「だからって、ドヤ街は絶対ダメよっ! 円香は地方出身だから知らないだろうけど、あそこは本当に危険な場所なのっ!」
「こっちに来て六年目よ。ドヤ街の話なんて聞いたこともない」
大学を卒業した私は銀行に就職した。東京暮らしは学生時代も含めて六年だ。東京にはそれなりに詳しい自信があった。治安が悪いと言えば池袋や歌舞伎町だ。私が泊まろうとしている宿泊施設は繁華街でもない下町にある。
「だからまずいんじゃないっ! あそこはね、女の子は絶対に近づいちゃいけない場所なのっ!」
「そんなに危険な場所なら警察がとっくに取り締まってるでしょ。大丈夫よ」
「円香、あんた襲われたいの?」
さすがにムッとした。
「だったら沙織の家に泊めてよ」
私は玄関先から彼女の背後を覗き込んだ。部屋の中にいる男と目が合い、男が気まずげに目を逸らす。
「うちはダメよ」
「彼氏がいるものね」
冷めた声音になる。
今日は仕事を休んだ。私の災難を知った沙織は「必要なものあげようか?」と連絡をくれた。
そうして彼女の帰宅に合わせてアパートを訪ねると、玄関先で紙袋を渡された。
紙袋の中には日用品や新品のパジャマまで入っていた。ありがたいけれど、てっきり部屋の中に入れてもらえるものと思っていたから、「それで今からどこに泊まるの?」とその場で問われて驚いた。
どうやら彼氏が来ているらしい。だからって紙袋を渡してバイバイなんて冷たいじゃないか。
「そんな言い方しないでよ。色々用意してあげたんだから」
「……ごめん」
「もう、合コンに参加しないからよ。恋人がいれば泊まるところにも困らなかったのに」
「そうね」
面倒だから同意しただけなのに、沙織は目を輝かせて、「今度、いい人紹介してあげるねっ」と言った。
沙織と別れた私は、宿泊所を目指して電車に乗り込んだ。沙織は「ドヤ街なんて絶対ダメ」と言ったけれど、他に行く当てがないのだから仕方がない。ホテル暮らしはお金が掛かるし、親を頼るのは絶対嫌だ。やっぱり東京で暮らしていくのは無理だと決めつけられて、呼び戻されるに決まっている。
いい人紹介してあげる。
早いうちに断らないと。いい人と付き合えたって、どうせ誰かに奪われる。経験豊富というわけではないけれど、恋愛なんて懲り懲りだ。
一番好きだった人……鏑木くんを信子に奪われた私は、恋愛にひどく臆病になっていた。
街の雰囲気は、確かにちょっと異様かもしれない。
車通りはほとんどなく、だから通行人は道路の真ん中を歩いている。歩いているのは、圧倒的に男性が多かった。みんな汚れた作業着を着ていて、髪もヒゲも伸び放題だ。沙織が「日雇い労働者の街」と言っていたことを思い出す。
同じような大きな建物が連なっている。
出入り口に「素泊まり2000円」と書いてあるから、どれも簡易宿泊所なのだろう。隣同士の窓が近く、外からでも部屋が狭いとがわかる。
目当ての宿に着く。入ってすぐのところに受付があり、呼び鈴を鳴らすと、奥から中年女性が現れた。この街にも女性がいることに、ひとまずホッとする。
「売春はご遠慮くださいね」
鍵を突き出し、女は言った。
「え?」
女は客商売とは思えない、胡散臭そうな目を向けてくる。ふいに背後からムンと汗の臭いがし、振り返ると、ゾロゾロと男たちが入ってきた。
「お母さん、おやすみー」
男たちは気さくに声をかけていく。
「はあい、おやすみい。寒くなってきたから暖かくして寝るんだよ」
女も愛想良く応じた。
「おねーさん、いくら?」
「遊びに行くから部屋教えてー」
男たちが下卑た笑みを浮かべながら、私に言う。
けれどその場に留まることはせず、言うだけ言って、階段を上がっていった。
ただの冷やかしだ。でも心臓がバクバクと波打った。これまでの人生で、そういう冷やかしを受けたことは一度もなかった。
何か言ってくれるかな、と期待して女を見ると、冷ややかに睨まれた。
「うちで売春の真似事なんかしたら、すぐに出ていってもらいますからね」
「っ……」
頭が真っ白になった。
どうして、私がそんなこと言われなくちゃいけないの。私が何をしたっていうの。
今すぐ宿を変えたかった。でも早く横になって休みたい。怒りたいのに、何も言い返せない自分がどうしようもなく情けなくて、悔しくて、涙が溢れてしまいそうだった。
「お母さん、そんな言い方ないでしょう。この人は何もしていないんだから」
その時、若い男の声がした。隣に立たれて、見ると、端正な顔立ちの青年と目が合った。にこりと軽く微笑まれただけでカッと頬が熱くなる。
「銭湯の鍵ください」
青年が受付の女に言う。
「言っとかないと、何をするか分からないじゃない」
鉄製の鍵を差し出しながら、女が言う。
「だったら男衆にも言わないと。さっきだって、失礼なことを言ったのはあの人たちなんですから」
女がいじけるように唇を尖らせる。
「それは……だって、前にいた女がここで商売していたから……」
「この人は関係ないでしょう。看板を出して営業している以上、みんな平等に扱わないと」
「まあ……それはそうだけど……でも、若い女なんて、うちは滅多に来ないから……なにかあると思うじゃない……」
「これだけ安いんですから、誰だって来ますよ。俺だって最初はここがどういう場所か知らなかったんですから」
会話を聞きながら、女にはきっと客商売の自覚がないのだろうと思った。さっきの男たちともやけに距離が近かった。長期滞在者が多いから、ホテルというより寮の感覚に近いのだろう。
「アパートが、火事になったんです」
私は少しだけ落ち着いて、話すことができた。
「急に泊まる場所を探さなくちゃいけなくて、不動産屋で、ここを紹介してもらったんです。……変なことはしませんから、安心してください」
頭を下げ、逃げるように階段へ行く。部屋がある三階まで上がったところで、あの青年にお礼を言ってないことに気づいた。
言う必要ない、と自分に言い聞かせる。またあの人に会ったら、性懲りも無く恋に落ちてしまう予感がした。
「もしかして円香、まだドヤ街に住んでんの?」
火事から二週間、沙織に問われた。
「うん」
「信じらんないっ!」
「別に普通のところよ。建物は古いけどちゃんと掃除されてて綺麗だし、受付のおばさんは優しいし」
最初の印象は最悪だったけれど、私の事情を知ると、受付の加藤さんは同情してくれて、何かと面倒を見てくれるようになった。
冷やかしもほとんどなくなった。ボスのようなおじさんがビシッと怒ってくれたのだ。
「でも……お風呂とかないんでしょ?」
「近くに銭湯があるから平気よ」
「テレビは?」
「ない」
「ドラマ、観れないじゃない」
「ずっと住んでいる人は持ち込んでいるみたい。自分の家みたいに使っている人もいるのよ。私もテレビ、買おうかしら」
「ドヤ街に住むつもりっ!?」
「だって一日二千円よ? 東京で六万で住める部屋なんてそう簡単に見つからないし」
「お風呂もトイレもないんでしょう? それで六万は高いわよ」
部屋にはトイレも風呂もない。布団を敷けるだけの窮屈な部屋だ。でも案外快適で、なんなら前のアパートよりも居心地がいい。きっと私は人の気配がある方が落ち着くのだ。
「私が納得してるんだから良いじゃない」
「もしかして、いい人でも見つけたの?」
まじまじを顔を見つめられ、ドキリとする。
「あ! そうなんだっ!」
「ち、違うっ!」
「やめなさいよ、日雇い労働者なんて」
カチンときた。
「職業で人を判断するのって、心が貧しいと思う」
「はあ、よく言うわよ。M大卒の男には興味ないって、合コン断ったくせに」
「合コンに行きたくなかっただけ。私、そういう出会いって好きじゃないの」
つい、言わなくていいことまで言ってしまった。
「ふうん。それで、今回の出会いは運命だとでも?」
私はロッカーを乱暴に閉めて、「じゃあお先に」と話を切り上げて帰ろうとした。
「ああいうところってね、犯罪者の巣窟なんだよ。みんなアダ名で呼び合っているでしょう。暗黙の了解みたいなものなんだよ。円香、その人の名前知ってんの? フルネーム、ちゃんと調べた方がいいよ」
無視して更衣室のドアへと向かう。
「後で後悔しても知らないからね!」
ドアを開け、更衣室を出た。少し動揺していた。確かにみんな、「もっくん」とか「芸術家」とか「親父さん」などと呼び合っている。
それがなんだ。私だって「マドンナ」だ。この私が。
隣の部屋から会話が聞こえてくる。私は薄い壁に顔を寄せ、耳を澄ませた。
「先生、言われた通りに書いてみだんだが、これでいいだが」
「よく書けていると思います。ですがここ、残業手当が全く出ていないというのは嘘ですよね。嘘を書いても、相手方は必ず反論してくるので、ここは正直に書きましょう」
初日に受付で会った青年は、隣の住人だった。
法律の知識が豊富な彼は、「先生」と呼ばれ、しょっちゅう誰かの相談に乗っている。
朝の八時になると、ここの住人は皆、「集合場所」へ行き、バスで現場仕事へ行く。
この街には、「日当9千円! 即日現金が欲しい方は◯◯に◯時」といった求人情報が至る所に掲示されている。
先生も毎日日雇い労働に出かけているようだった。だから顔を合わせることは滅多にない。……ないけれど、たまに顔を合わせた時は挨拶を交わす。それだけで幸せな気分になる。髪は伸びっぱなしだし、服はヨレヨレだ。丸の内を歩いたら通行人に顔をしかめられるだろう。
でもそんな彼のことが気になって仕方がない。
隣から聞こえてくる声にうっとりする。優しい人だと思う。
「あと、軍手や手拭いなど支給品の一覧表もあると良いですね。軍手一組五百円はいくらなんでも高すぎる。この訴訟の本筋からはズレますが、相手の印象を落とすことはできます」
「そげなこどしだら、こっちの立場が悪ぐなるんでねえが」
「本人訴訟なので大丈夫ですよ。弁護士がこういうことをやると、突っ込まれるかもしれませんが」
「そういうもんがね」
「ええ。裁判官も人間ですから、素人の弁論だと思って多めに見てくれるはずです」
どうやら相談者は、弁護士に頼らず裁判を起こそうとしているらしい。
彼の専門的な知識はどこで培ったものだろう。会話を聞きながら、思い出すのは学生時代に付き合っていた恋人だ。
大学の友人から、鏑木くんは弁護士になったと聞いた。彼は親の期待に応えようと必死だった。努力が報われて、素直に良かったと思った。
では、「先生」は。
先生はどうしてこんな場所にいるのだろう。過去の経歴を、本人が語らない以上聞いてはならない暗黙の了解が、ここにはある。
「ありがでえ。ありがてえなあ。おらみだいな田舎もんに、先生みだいな賢いモンが親身になっでぐれるなんでなあ」
感極まった声に、私まで目頭が熱くなってきた。
「なあ先生、おめえ、オナゴと遊んでっが。おめえみたいな色男、普通のオナゴは放っでおがねえ。おめえさみでっど、おらはもっだいねえさ思っちまう。おらだけじゃねえ、みんな思っでるこどさ。若いみそらにこんな掃き溜めにもっだいねえって。おめえ、なしでごんなどこにいる」
「ヨネさん、それは聞かないでください」
「休みなく働かなきゃいげねえ理由はなんだ」
「…………勘弁してください」
「もっだいねえ。おめえみたいな優秀なモンが、こんなどこ……」
「……それが俺の運命なんです」
相談者はそれ以上聞かなかった。
相談者が帰った後も、私は壁のそばから動かなかった。
耳を澄ませ、彼の静かな生活音を聞く。これじゃあまるでストーカーだ。
勝手に彼の身の上に思いを馳せて、親しくもない隣の住人が泣いていると知ったら、彼は怖がって、ここを去ってしまうかもしれない。私は洟をすするのを我慢した。
ドヤ街に住んで一ヶ月が経った。
「あんた、また一ヶ月泊まるつもり?」
まとめて一ヶ月分の宿代を払うと、受付の加藤さんは呆れたように言った。
「アパート、見つからないのかい? 知り合いに不動産屋がいるから聞いてあげようか? あんた、金がないわけじゃないんだろ?」
「良いんです。私、ここが好きなので」
にっこり笑いかけたのに、加藤さんは難しい顔のままだ。
「あんたはマナーもいいし、給湯室も掃除してくれるからうちとしては嬉しいけどねえ……でもやっぱりこういうところに若い女が長期間滞在するっていうのは、あんまり良くないと思うんだよ」
「心配いらないですよ。みなさんいい人ばかりだし」
「油断してると痛い目見るよ。早いとこアパート見つけて引越しな」
「私……何かいけないことしましたか?」
恐る恐る問うと、ため息まじりに「違う」と言われた。
「……サクラっていうコミュニティ掲示板、あんた知ってるかい?」
加藤さんは私を上目遣いに見た。
「知りません……なんですかそれ」
「ローカル掲示板って言えば良いのかね。あの店はボッタクリとか、あの店には可愛い店員がいるとか……あの店員はインバイだとか、そういうゲスな情報が飛び交う掲示板さ」
「それが……どうかしたんですか?」
「あんたのことが書かれているんだよ。なりすましみたいなひどい書き込みがね」
「えっ……」
「悪いことは言わないから、ちゃんとしたアパートを探しな」
「……はい」
触れられた瞬間、目が覚めた。
「誰っ」
声を上げると口を塞がれ、うつ伏せに返された。背中に重量感のあるものがのし掛かる。
闇の中で両手両足をバタつかせるけれど、背中の重みはびくともしない。パジャマのズボンをずり下ろされ、鳥肌が立った。
「っ……」
自分の力ではどうにもならない。体から力を抜いたその時だった。
ガチャリと勢いよくドアが開かれ、「なにやってる!」と男の怒声が耳をつんざいた。
照明がついて、パッと部屋が明るくなる。背中に乗っていた重みが、あっさりと消えた。足音がバタバタと慌ただしく駆けていく。
「大丈夫ですかっ」
怒声では分からなかった。そう問いかけられた声で、やっと「先生」だと理解した。
無防備な尻に布団が掛けられ、たちまち頬が火照った。
「すみません……う、うるさくして……」
声が震えた。
「何を言っているんですっ……警察を……」
「警察は呼ばないでっ!」
私は金切声で言った。あの掲示板が原因であることは間違いない。だとしたら書き込みを間に受けてしまった犯人も被害者だ。
「悪いのは私なんです……加藤さんに忠告されたのに、油断していたから……」
全部私のせいだ。そう自分を責める私を、先生は優しく抱きしめてくれた。
「ここは、あなたのような若い女性が暮らすような場所じゃない」
「そんなこと……言わないでください」
涙を堪えることができない。私はしゃくりあげながら言った。
「私っ……あなたのことがっ……好きなんです」
彼の切長の目が驚いたように見開かれた。勢いに任せて、思いをぶつけた。
「あなたの側にいたいんです……いさせてください……」
ダメなのに。恋なんて苦しいだけなのに。でも芽生えてしまったものを摘み取ることはできなかった。この部屋で、ひっそりと育んできた。
「ドヤ街?」
「日雇い労働者の街! 円香っ、そんな治安の悪いとこ絶対やめなっ! 犯罪に巻き込まれるよっ!」
同期の沙織にきつく言われ、私は気分を害した。
昨日、アパートが全焼した。原因は住人のタバコの不始末で、私はとばっちりだ。服も化粧品も取得したばかりのパスポートも何もかも燃えた。一夜明けても気分は沈んだまま。もっと寄り添ってくれるかと思ったのに、宿泊施設を言ったらこれだ。はあ、と重いため息が出る。
「簡単に言わないでよ。今日から連泊できる場所、そこしかなかったんだから」
「だからって、ドヤ街は絶対ダメよっ! 円香は地方出身だから知らないだろうけど、あそこは本当に危険な場所なのっ!」
「こっちに来て六年目よ。ドヤ街の話なんて聞いたこともない」
大学を卒業した私は銀行に就職した。東京暮らしは学生時代も含めて六年だ。東京にはそれなりに詳しい自信があった。治安が悪いと言えば池袋や歌舞伎町だ。私が泊まろうとしている宿泊施設は繁華街でもない下町にある。
「だからまずいんじゃないっ! あそこはね、女の子は絶対に近づいちゃいけない場所なのっ!」
「そんなに危険な場所なら警察がとっくに取り締まってるでしょ。大丈夫よ」
「円香、あんた襲われたいの?」
さすがにムッとした。
「だったら沙織の家に泊めてよ」
私は玄関先から彼女の背後を覗き込んだ。部屋の中にいる男と目が合い、男が気まずげに目を逸らす。
「うちはダメよ」
「彼氏がいるものね」
冷めた声音になる。
今日は仕事を休んだ。私の災難を知った沙織は「必要なものあげようか?」と連絡をくれた。
そうして彼女の帰宅に合わせてアパートを訪ねると、玄関先で紙袋を渡された。
紙袋の中には日用品や新品のパジャマまで入っていた。ありがたいけれど、てっきり部屋の中に入れてもらえるものと思っていたから、「それで今からどこに泊まるの?」とその場で問われて驚いた。
どうやら彼氏が来ているらしい。だからって紙袋を渡してバイバイなんて冷たいじゃないか。
「そんな言い方しないでよ。色々用意してあげたんだから」
「……ごめん」
「もう、合コンに参加しないからよ。恋人がいれば泊まるところにも困らなかったのに」
「そうね」
面倒だから同意しただけなのに、沙織は目を輝かせて、「今度、いい人紹介してあげるねっ」と言った。
沙織と別れた私は、宿泊所を目指して電車に乗り込んだ。沙織は「ドヤ街なんて絶対ダメ」と言ったけれど、他に行く当てがないのだから仕方がない。ホテル暮らしはお金が掛かるし、親を頼るのは絶対嫌だ。やっぱり東京で暮らしていくのは無理だと決めつけられて、呼び戻されるに決まっている。
いい人紹介してあげる。
早いうちに断らないと。いい人と付き合えたって、どうせ誰かに奪われる。経験豊富というわけではないけれど、恋愛なんて懲り懲りだ。
一番好きだった人……鏑木くんを信子に奪われた私は、恋愛にひどく臆病になっていた。
街の雰囲気は、確かにちょっと異様かもしれない。
車通りはほとんどなく、だから通行人は道路の真ん中を歩いている。歩いているのは、圧倒的に男性が多かった。みんな汚れた作業着を着ていて、髪もヒゲも伸び放題だ。沙織が「日雇い労働者の街」と言っていたことを思い出す。
同じような大きな建物が連なっている。
出入り口に「素泊まり2000円」と書いてあるから、どれも簡易宿泊所なのだろう。隣同士の窓が近く、外からでも部屋が狭いとがわかる。
目当ての宿に着く。入ってすぐのところに受付があり、呼び鈴を鳴らすと、奥から中年女性が現れた。この街にも女性がいることに、ひとまずホッとする。
「売春はご遠慮くださいね」
鍵を突き出し、女は言った。
「え?」
女は客商売とは思えない、胡散臭そうな目を向けてくる。ふいに背後からムンと汗の臭いがし、振り返ると、ゾロゾロと男たちが入ってきた。
「お母さん、おやすみー」
男たちは気さくに声をかけていく。
「はあい、おやすみい。寒くなってきたから暖かくして寝るんだよ」
女も愛想良く応じた。
「おねーさん、いくら?」
「遊びに行くから部屋教えてー」
男たちが下卑た笑みを浮かべながら、私に言う。
けれどその場に留まることはせず、言うだけ言って、階段を上がっていった。
ただの冷やかしだ。でも心臓がバクバクと波打った。これまでの人生で、そういう冷やかしを受けたことは一度もなかった。
何か言ってくれるかな、と期待して女を見ると、冷ややかに睨まれた。
「うちで売春の真似事なんかしたら、すぐに出ていってもらいますからね」
「っ……」
頭が真っ白になった。
どうして、私がそんなこと言われなくちゃいけないの。私が何をしたっていうの。
今すぐ宿を変えたかった。でも早く横になって休みたい。怒りたいのに、何も言い返せない自分がどうしようもなく情けなくて、悔しくて、涙が溢れてしまいそうだった。
「お母さん、そんな言い方ないでしょう。この人は何もしていないんだから」
その時、若い男の声がした。隣に立たれて、見ると、端正な顔立ちの青年と目が合った。にこりと軽く微笑まれただけでカッと頬が熱くなる。
「銭湯の鍵ください」
青年が受付の女に言う。
「言っとかないと、何をするか分からないじゃない」
鉄製の鍵を差し出しながら、女が言う。
「だったら男衆にも言わないと。さっきだって、失礼なことを言ったのはあの人たちなんですから」
女がいじけるように唇を尖らせる。
「それは……だって、前にいた女がここで商売していたから……」
「この人は関係ないでしょう。看板を出して営業している以上、みんな平等に扱わないと」
「まあ……それはそうだけど……でも、若い女なんて、うちは滅多に来ないから……なにかあると思うじゃない……」
「これだけ安いんですから、誰だって来ますよ。俺だって最初はここがどういう場所か知らなかったんですから」
会話を聞きながら、女にはきっと客商売の自覚がないのだろうと思った。さっきの男たちともやけに距離が近かった。長期滞在者が多いから、ホテルというより寮の感覚に近いのだろう。
「アパートが、火事になったんです」
私は少しだけ落ち着いて、話すことができた。
「急に泊まる場所を探さなくちゃいけなくて、不動産屋で、ここを紹介してもらったんです。……変なことはしませんから、安心してください」
頭を下げ、逃げるように階段へ行く。部屋がある三階まで上がったところで、あの青年にお礼を言ってないことに気づいた。
言う必要ない、と自分に言い聞かせる。またあの人に会ったら、性懲りも無く恋に落ちてしまう予感がした。
「もしかして円香、まだドヤ街に住んでんの?」
火事から二週間、沙織に問われた。
「うん」
「信じらんないっ!」
「別に普通のところよ。建物は古いけどちゃんと掃除されてて綺麗だし、受付のおばさんは優しいし」
最初の印象は最悪だったけれど、私の事情を知ると、受付の加藤さんは同情してくれて、何かと面倒を見てくれるようになった。
冷やかしもほとんどなくなった。ボスのようなおじさんがビシッと怒ってくれたのだ。
「でも……お風呂とかないんでしょ?」
「近くに銭湯があるから平気よ」
「テレビは?」
「ない」
「ドラマ、観れないじゃない」
「ずっと住んでいる人は持ち込んでいるみたい。自分の家みたいに使っている人もいるのよ。私もテレビ、買おうかしら」
「ドヤ街に住むつもりっ!?」
「だって一日二千円よ? 東京で六万で住める部屋なんてそう簡単に見つからないし」
「お風呂もトイレもないんでしょう? それで六万は高いわよ」
部屋にはトイレも風呂もない。布団を敷けるだけの窮屈な部屋だ。でも案外快適で、なんなら前のアパートよりも居心地がいい。きっと私は人の気配がある方が落ち着くのだ。
「私が納得してるんだから良いじゃない」
「もしかして、いい人でも見つけたの?」
まじまじを顔を見つめられ、ドキリとする。
「あ! そうなんだっ!」
「ち、違うっ!」
「やめなさいよ、日雇い労働者なんて」
カチンときた。
「職業で人を判断するのって、心が貧しいと思う」
「はあ、よく言うわよ。M大卒の男には興味ないって、合コン断ったくせに」
「合コンに行きたくなかっただけ。私、そういう出会いって好きじゃないの」
つい、言わなくていいことまで言ってしまった。
「ふうん。それで、今回の出会いは運命だとでも?」
私はロッカーを乱暴に閉めて、「じゃあお先に」と話を切り上げて帰ろうとした。
「ああいうところってね、犯罪者の巣窟なんだよ。みんなアダ名で呼び合っているでしょう。暗黙の了解みたいなものなんだよ。円香、その人の名前知ってんの? フルネーム、ちゃんと調べた方がいいよ」
無視して更衣室のドアへと向かう。
「後で後悔しても知らないからね!」
ドアを開け、更衣室を出た。少し動揺していた。確かにみんな、「もっくん」とか「芸術家」とか「親父さん」などと呼び合っている。
それがなんだ。私だって「マドンナ」だ。この私が。
隣の部屋から会話が聞こえてくる。私は薄い壁に顔を寄せ、耳を澄ませた。
「先生、言われた通りに書いてみだんだが、これでいいだが」
「よく書けていると思います。ですがここ、残業手当が全く出ていないというのは嘘ですよね。嘘を書いても、相手方は必ず反論してくるので、ここは正直に書きましょう」
初日に受付で会った青年は、隣の住人だった。
法律の知識が豊富な彼は、「先生」と呼ばれ、しょっちゅう誰かの相談に乗っている。
朝の八時になると、ここの住人は皆、「集合場所」へ行き、バスで現場仕事へ行く。
この街には、「日当9千円! 即日現金が欲しい方は◯◯に◯時」といった求人情報が至る所に掲示されている。
先生も毎日日雇い労働に出かけているようだった。だから顔を合わせることは滅多にない。……ないけれど、たまに顔を合わせた時は挨拶を交わす。それだけで幸せな気分になる。髪は伸びっぱなしだし、服はヨレヨレだ。丸の内を歩いたら通行人に顔をしかめられるだろう。
でもそんな彼のことが気になって仕方がない。
隣から聞こえてくる声にうっとりする。優しい人だと思う。
「あと、軍手や手拭いなど支給品の一覧表もあると良いですね。軍手一組五百円はいくらなんでも高すぎる。この訴訟の本筋からはズレますが、相手の印象を落とすことはできます」
「そげなこどしだら、こっちの立場が悪ぐなるんでねえが」
「本人訴訟なので大丈夫ですよ。弁護士がこういうことをやると、突っ込まれるかもしれませんが」
「そういうもんがね」
「ええ。裁判官も人間ですから、素人の弁論だと思って多めに見てくれるはずです」
どうやら相談者は、弁護士に頼らず裁判を起こそうとしているらしい。
彼の専門的な知識はどこで培ったものだろう。会話を聞きながら、思い出すのは学生時代に付き合っていた恋人だ。
大学の友人から、鏑木くんは弁護士になったと聞いた。彼は親の期待に応えようと必死だった。努力が報われて、素直に良かったと思った。
では、「先生」は。
先生はどうしてこんな場所にいるのだろう。過去の経歴を、本人が語らない以上聞いてはならない暗黙の了解が、ここにはある。
「ありがでえ。ありがてえなあ。おらみだいな田舎もんに、先生みだいな賢いモンが親身になっでぐれるなんでなあ」
感極まった声に、私まで目頭が熱くなってきた。
「なあ先生、おめえ、オナゴと遊んでっが。おめえみたいな色男、普通のオナゴは放っでおがねえ。おめえさみでっど、おらはもっだいねえさ思っちまう。おらだけじゃねえ、みんな思っでるこどさ。若いみそらにこんな掃き溜めにもっだいねえって。おめえ、なしでごんなどこにいる」
「ヨネさん、それは聞かないでください」
「休みなく働かなきゃいげねえ理由はなんだ」
「…………勘弁してください」
「もっだいねえ。おめえみたいな優秀なモンが、こんなどこ……」
「……それが俺の運命なんです」
相談者はそれ以上聞かなかった。
相談者が帰った後も、私は壁のそばから動かなかった。
耳を澄ませ、彼の静かな生活音を聞く。これじゃあまるでストーカーだ。
勝手に彼の身の上に思いを馳せて、親しくもない隣の住人が泣いていると知ったら、彼は怖がって、ここを去ってしまうかもしれない。私は洟をすするのを我慢した。
ドヤ街に住んで一ヶ月が経った。
「あんた、また一ヶ月泊まるつもり?」
まとめて一ヶ月分の宿代を払うと、受付の加藤さんは呆れたように言った。
「アパート、見つからないのかい? 知り合いに不動産屋がいるから聞いてあげようか? あんた、金がないわけじゃないんだろ?」
「良いんです。私、ここが好きなので」
にっこり笑いかけたのに、加藤さんは難しい顔のままだ。
「あんたはマナーもいいし、給湯室も掃除してくれるからうちとしては嬉しいけどねえ……でもやっぱりこういうところに若い女が長期間滞在するっていうのは、あんまり良くないと思うんだよ」
「心配いらないですよ。みなさんいい人ばかりだし」
「油断してると痛い目見るよ。早いとこアパート見つけて引越しな」
「私……何かいけないことしましたか?」
恐る恐る問うと、ため息まじりに「違う」と言われた。
「……サクラっていうコミュニティ掲示板、あんた知ってるかい?」
加藤さんは私を上目遣いに見た。
「知りません……なんですかそれ」
「ローカル掲示板って言えば良いのかね。あの店はボッタクリとか、あの店には可愛い店員がいるとか……あの店員はインバイだとか、そういうゲスな情報が飛び交う掲示板さ」
「それが……どうかしたんですか?」
「あんたのことが書かれているんだよ。なりすましみたいなひどい書き込みがね」
「えっ……」
「悪いことは言わないから、ちゃんとしたアパートを探しな」
「……はい」
触れられた瞬間、目が覚めた。
「誰っ」
声を上げると口を塞がれ、うつ伏せに返された。背中に重量感のあるものがのし掛かる。
闇の中で両手両足をバタつかせるけれど、背中の重みはびくともしない。パジャマのズボンをずり下ろされ、鳥肌が立った。
「っ……」
自分の力ではどうにもならない。体から力を抜いたその時だった。
ガチャリと勢いよくドアが開かれ、「なにやってる!」と男の怒声が耳をつんざいた。
照明がついて、パッと部屋が明るくなる。背中に乗っていた重みが、あっさりと消えた。足音がバタバタと慌ただしく駆けていく。
「大丈夫ですかっ」
怒声では分からなかった。そう問いかけられた声で、やっと「先生」だと理解した。
無防備な尻に布団が掛けられ、たちまち頬が火照った。
「すみません……う、うるさくして……」
声が震えた。
「何を言っているんですっ……警察を……」
「警察は呼ばないでっ!」
私は金切声で言った。あの掲示板が原因であることは間違いない。だとしたら書き込みを間に受けてしまった犯人も被害者だ。
「悪いのは私なんです……加藤さんに忠告されたのに、油断していたから……」
全部私のせいだ。そう自分を責める私を、先生は優しく抱きしめてくれた。
「ここは、あなたのような若い女性が暮らすような場所じゃない」
「そんなこと……言わないでください」
涙を堪えることができない。私はしゃくりあげながら言った。
「私っ……あなたのことがっ……好きなんです」
彼の切長の目が驚いたように見開かれた。勢いに任せて、思いをぶつけた。
「あなたの側にいたいんです……いさせてください……」
ダメなのに。恋なんて苦しいだけなのに。でも芽生えてしまったものを摘み取ることはできなかった。この部屋で、ひっそりと育んできた。


