玄関には薄汚れた靴があった。中では父がクローゼットを物色していた。
「何してんだよ」
 低い声で問う。ボサボサ頭の男が振り返り、ニヤリと露悪的な笑みを浮かべて俺を見る。洞穴のような仄暗い瞳を直視すると、親子とはいえ鳥肌が立った。
「いい女見つけたじゃねえか」
 意味がわからず、眉根を寄せる。
「だが服の趣味が良くねえなあ。なんだこれ。ジジイの服じゃねえか」
 父が手に取ったのは、鏑木から貰ったポロシャツだ。シンプルだがシルエットが美しく、また着心地が良いから気に入っていた。
 高価な服の数々を、父は女からのプレゼントだと誤解しているのだ。
「人のものを勝手に触らないでくれ」
「はあ? 人のものって、なんじゃそりゃ。テメエ、親に向かって生意気言うんじゃねえぞ」
「もう帰ってくれ。あんたの欲しいものはここにはない」
 父の元へ歩む。服をひったくり、クローゼットに戻した。
「じゃあ用意しろ」
「は?」
「こんだけ貢いでくれるんだ。金が欲しいって頼めば十万くらい用意してくれるだろ」
 言葉を失った。
「早くしろ。こっちは昼から待ってんだ」
「……バカじゃないのか。何時間も待つ時間があるなら働けよっ!」
「親に向かって、バカとは何だっ!」
 父の拳が顔面に直撃し、頭が揺れた。
 何だこれ。バカにバカと言っただけなのに。痛む頬を押さえながら、理不尽さに眩暈がした。
「あんたなんか親じゃない。親だと思ったことなんか一度もない」
 普段なら堪えるような言葉がポロリとこぼれた。
 あれから、鏑木家には俺専用の食器がどんどん増えていった。鏑木の父とも親しくなり、遅くまで飲むことも増えた。そんな時のために、専用のバスタオルとパジャマまで用意してくれた。
 可愛い妹に、優しい夫婦。あれは理想の家族だった。親と名乗れるのは、ああいう父親だ。
 息子をこんなに立派に育てあげたんですもの。
 ふいに、以前、鏑木の母親に言われた言葉を思い出した。
 言われた時は反発心が芽生えた。けれどその通りかもしれない。こんなクズにはなるまいと努力した結果、今の俺があるんじゃないか……
 笑いが込み上げてきた。
「なに笑ってんだっ!」
 殴られ、床に尻から落ちた。顔を上げると、見るからに低学歴、低所得の安っぽい男がそこにいた。怒りで顔は紅潮し、酔っ払っているのか、目は充血している。
 ああ、これが、このみっともない男が、俺の父……
 司法試験に落ち続けた、落ちこぼれ。
「なにがおかしいっ! おいっ!」
「バカ」
「なんだとっ! もういっぺん言ってみろっ!」
 なぜ、同じ言葉を聞きたがる? 自分を傷つける言葉を。バカなのか。バカなのだ。
「落ちこぼれ」
 言うと、強烈なパンチを顔面に食らった。二発、三発、四発と続く。好きなだけ殴ればいい。嵐が去ったら鏑木の家に行こう。訪ねるのには失礼な時間だが、きっと鏑木の母親なら、快く迎えてくれるだろう。そうして訂正するのだ。彼女は俺の父を素敵な人と誤解しているから、本当はそうではないのだと。



 殴られた全身がズキズキと痛むのに、俺の足取りは軽かった。
 他人の母親に手当てしてもらおうなんて、非常識だとわかっている。でも我慢できなかった。どうせ鏑木は家にいない。あいつは家族よりも恋人を優先する愚か者だ。
 けれど家の前に着くと、カーポートに停まった車から、ちょうど鏑木が降りてきた。
 顔面ゾンビの俺を見て、彼は驚きに目を見開く。
 けれどすぐさま顔つきを険しくし、咎めるような声音で言った。
「何しに来た」
 ずんずんと俺に近づきながら言う。
「まさか母さんに慰めてもらおうとしているのかっ……こんな時間にそんな顔でっ……お前、非常識だぞっ」
「俺には母親がいないんだ」
「それがどうしたっ!」
 鏑木は俺の胸ぐらを掴んだ。
「人んちで家族ごっこしようとすんなっ! ここは俺の家なんだよっ!」
「俺は、ここを自分の家だと思って欲しいと言われている」
 鏑木の瞳が不安げに揺れた。
「姫花ちゃんをK大に行かせて、俺は司法試験に合格する。お前の家族の期待に、俺はお前に代わって応えていく」
 裂けた唇が痛い。とても痛い。早く、鏑木の母親に手当てされたい。目の前にいる男が、実の子供が鬱陶しい。「お前さえいなければ」父の口癖が頭の中でループする。父の感情をこの瞬間、理解した。
「俺には母親がいないんだ」
 もう一度言う。お前にあって、俺にないもの。ないからこそ求めることが許される。そのありがたみに気づかないお前から。
「だから……それがどうしたっ……」
 震える声で問う鏑木を、まっすぐ見つめて言った。
「お前の母親、俺にくれよ」
「っ…………」
「ずっと欲しかったんだ。物心ついた時にはもういなかった。母親の愛情を、俺は知らないんだ」
「……だったら知らないままでいろっ!」
 無視して玄関へと足を進めると、「待てよっ」と腕を掴まれた。父からの暴力を防ぐために盾にした腕は、掴まれると鋭い痛みが走った。
「お前の家はここじゃないっ!」
 鏑木は車に向かって顎をしゃくった。
「家まで送ってやる……」
「いい」
 その時スマホが鳴った。鏑木がビクッと体を震わせる。俺の手を離し、ぎこちない手つきでポケットからスマホを取り出す。画面には「母さん」と表示されていた。
 それにすら、腹が立った。あの優しい母親を、こいつは「母さん」と呼べるのだ。
「もしもし」
 母親の声は聞こえない。うん、うん、と短い相槌。
 俺は玄関へと向かう。背後で鏑木が、「わかった。行くよ」と言った。
「おい」
 自分に向けられた言葉だと分かったが、無視した。
「母さんは家にいないぞ」
 足を止め、振り返る。
「叔母の家にいるそうだ。迎えに行くから、お前も来い」
 俺を車に乗せるための嘘だろうか。
 ……いや、鏑木の帰りが遅くても、母親は電話などしなかった。鏑木は確かに「行くよ」と言った。
 だが家の中からは人の気配がする。
 俺の内心を読み取ったのか、鏑木は言った。
「家には姫花だけだ。二人きりになるのはまずいだろ」
 


 後部座席に乗り込んだのは、俺をアパートに送り届けても無駄だという意思表示だった。
 鏑木の母親を迎えに行き、俺も一緒に鏑木家に帰る。そのために助手席を空けたのだ。
 走り出してすぐ、雨が降り出した。あっという間に本降りとなり、窓の景色が崩れていく。
 傘をさして歩いている人はいない。突然の雨に、通行人は屋根を求めて店や地下道へと駆けていく。
「その顔、誰にやられたんだ?」
 鏑木が静かに言った。
「父だ」
「ふうん。お前の父親、クズだな。息子をそんなになるまで暴行するなんて」
 バックミラー越しに彼を見る。
 同情しているようにも、憤っているようにも見えなかった。
 そして突然、鏑木はクククッと笑い出した。ガクンと彼の頭が前に傾ぐ。何がそんなにおかしいのか。
「おい、ちゃんと前を見て運転しろ」
「お前が羨ましいよ」
 羨ましい? 
「親がそんだけクズなら、頑張る必要ないじゃないか。プレッシャーなんて感じたこともないんだろ」
 急発進した。前のめりに上体が揺れる。
「おい……今信号赤だっただろうっ!」
「期待に応えられない、自分の限界に気づいた時の絶望なんて、お前は知らないだろ。考えたこともないんだろ。良いよな。親がクズだと伸び伸びできて」
「だから遅くまで女と遊んで、親の金で豪遊しているのか。期待に応えられない自分と向き合うのが怖いから」
「…………」
「お前は幼稚だ。バカならせめて良い子でいろよ」
「バカって言うなっ!」
 笑えた。俺はシートに深くもたれ、目をとじた。
「俺が父親に殴られたのはな、バカって言ったからなんだ」
「…………」
「ははっ、あの人、気が触れたように殴ってきた。……俺は事実を言っただけなのに」
「親を見下してるんだな」
「どうしようもないクズだからな」
「自分の境遇に感謝するんだな。お前は自分が思っているよりずっと恵まれている」
「そうだな。あんな男に惚れる女だ。俺の母親はきっとろくでもないアバズレだろう。いなくなってくれて良かったよ。おかげで理想の母親を手に入れられる」
「……バカはお前だ」
「なんとでも言え。お前がなんと言おうと、俺はお前の家に通い続け、お前の家族に馴染んでいく」
 姫花と結婚するのも良いかもしれない。彼女は明らかに俺に気がある。婿養子になると言えば、両親は喜んでくれるだろう。鏑木純平、と口の中でつぶやく。悪くない。自然と口角が上向いた。
 ゴツン、と鈍い音と車体への衝撃に、笑みが引く。
 なにかに、当たった。
「お、おいっ……止まれっ!」
 振り返るが、降り頻る雨の中には何もない。後続車両も。
 気のせいか?
 いや、違う。
 この車から伸びる黒い線を見て、戦慄した。まだ、引き摺っているのだ。
「止まれっ!」
 運転席に身を乗り出し、怒鳴った。鏑木は真っ青だった。人を轢いたと自覚しているのだ。
「おいっ! 止まれっ! 早くっ!」
 あろうことか鏑木はアクセルを踏み込んだ。ガタン、と車体が大きく跳ねる。
 俺は後ろを振り返った。
「っ……」
 道路に黒い物体が倒れていた。この車に引っ掛かっていた人間が、振り落とされたのだと確信した。黒い物体はものすごい速さで遠ざかっていく。
「おい、何やってるっ! 早く止まれっ!」
「うるさいっ! 俺に指図すんなっ!」
「バカ野郎っ! 逃げたって無駄だっ!」
「バカって言うなっ!」
「早く止まれっ!」
 ダメだこいつ。俺はスマホを取り出した。
 更に加速し、スマホが手から滑り落ちた。拾い上げようと屈むと、ふいに吐き気に襲われた。
 あれは確かに人だった。
 道路に描かれた黒い血痕を思い出し、「うっ」と口を塞ぐ。まぶたを閉じると、先ほどよりもハッキリと、横たわる黒い物体が目に浮かんだ。
 この車は、何メートル、人を引き摺ったんだろう。生きているだろうか、あの人は。
 どうか生きていてくれと願う一方で、同乗者である自分は今後どうなるのだろうという不安がもたげた。噛み締めた奥歯がカタカタと震え、恐怖で思考が痺れていく。
「早く、止まれ……」
 声が震えた。
「止まれっ!」
 けれど車は走り続け、永遠にも思える時間を経て、ようやく止まった。
 恐る恐る顔を上げる。鏑木の家の前だった。
 鏑木は車を降りるなり、肩を怒らせ玄関へ、中へと入っていった。
 おい、待て……家に逃げたって何も解決しないっ……
 ドアを開けようとしたその時だった。車内にスマホが鳴り響いた。足元に落ちたそれには、見知らぬ番号が表示されている。
 何を優先するべきか、わからなかった。震える手でスマホを拾い上げ、応答をタップする。スマホを耳に近づけるのがやっとで、声を出すことはできない。
『朝比奈純平さんのお電話でしょうか』
 男の声だった。『わたくしスーパーマルゼンの』と続いた言葉で察しがついた。
『もしもし? もしもーし? 聞こえてます?』
「父が……万引きしたんですね」
『ああ、聞こえてるじゃないの。あなたのお父さんね、常習なの。何度か見逃してこっちは悔しい思いをしてきたわけ。で、今回は3760円。うちみたいな激安スーパーで3760円の食品ロスってね、もうほんと経営に響くわけ。困るんだよねえ。それにあなたのお父さんね、全く反省してないの。大の大人がさあ、万引きして謝罪もできないなんて大人気ないよねえ』
『……偉そうに』
 父の声が聞こえた。
『ん? なんか言った? あのさあ、あんた、自分の立場わかってる? あんたは加害者なの。それでうちは被害者。それなのにどうしてそんな態度が取れるのさ』
『たかがスーパーの店長風情がベラベラベラベラ偉そうに。社会の底辺が威張ってんじゃねえよ!』
『社会の底辺って、万引き犯がよく言うよ。あんた、定職に就いてんのかい。あんたは社会に必要とされてんのかい』
『俺の息子は弁護士だっ!』
 カコンと後頭部を殴られたような衝撃。
『俺の息子はなあ、G大に通ってんだ。それも授業料免除の特待生だ。テメエの子供はどうなんだ。俺は一人であいつを育て上げたんだ。テメエにそれができんのかっ!』
 怒りでスマホを握る手に力が入る。
 けれど視界の隅、玄関から現れた鏑木の母親を見た瞬間、反射的にスマホを離した。こっそり警察に通報していると思われたくなかった。
 父の声が遠ざかり、現実に引き戻される。この車は人を轢き、死なせたかもしれない。途端に車内の酸素が薄くなったように感じ、俺はドアに飛びついた。
 転がり落ちるようにして車を降りる。濡れた地面に両手をつく。体が鉛のように重く、立ち上がることができなかった。
「純平くんっ?」
 鏑木の母親だ。傘をさして駆け寄ってくる。頭に降り注いでいた冷たい雨が遮られ、いつから溜まっていたのか、涙が溢れた。
「純平くんっ……どうしたの? 何があったの!?」
 俺はゆっくり振り返り、車体を見た。車体に手をつき、体を支えながら前方へ行く。
「純平……くん?」
「っ……」
 ボンネットもヘッドライトも、無傷だった。なんて頑丈な車だろうか。あの衝撃を、人間が全て吸収したのだと思ったら、胸が凍りつき、悪寒がした。
「純平くん? 一体何があったの? 風邪を引くわ。早く家に入って」
 遠くの方から、パトカーのサイレン音が聞こえ、ハッと振り返った。
「慎一が……何かしたのね?」
 俺の反応に、ただならぬものを感じ取ったのだろう。鏑木の母親の声は震えていた。
「人を……轢きました」
 なんとか言った。
「なん……何メートルも、引き摺って……たぶん……」
 サイレンが近づいてくる。本当に、ここを目指しているのかもしれない。
「中へ入って……っ!」
 腕を掴まれ、玄関へと、力強く引っ張られた。されるがままついていく。
 中へ入るなり、抱きしめられた。突然のことに頭が空白になる。
「あなたを巻き込んで、ごめんなさい……」
 俺は首を横に振った。
「ごめんなさいっ……ごめんなさいっ……」
 どうしてこの優しい人が謝っているんだろう。
「大丈夫。あなたは乗ってない。大丈夫よ。心配しなくていいからね。あなたは悪くないんだから……」
 死んでもいいと思った。この人のためなら、死んでもいい。
 母親は「ごめんなさい」と繰り返す。胸が引き裂かれる思いがした。
 鏑木慎一は終わりだ。実刑は免れない。あいつが刑務所に入っている間に、俺は司法試験に合格し、この人と本当の家族になる。
 望んだものを手に入れられる、道筋が見えた。
 でも、と思う。
 息子が犯罪者になったら、この人は周囲から、たとえば親戚や近隣住民から白い目で見られるんじゃないか。そんな子供に育てた母親に責任があると。
『俺は一人であいつを育て上げたんだ』
 忌々しい父の声が蘇る。
 あの言葉を聞くまで、俺は、あいつに親としての自覚など、ないと思っていた。
 誤解だった。あいつは俺の現状を自分の手柄のように語っていた。父親という属性を肌身離さず抱き抱え、自尊心を保っているのだ。
 俺が真っ当に生きることは、あの男を立派な父親として認めることになるんじゃないか。
 いいのかそれで。
 あの男は最低限の愛情すらくれなかった。それどころか暴力まで振るった。
 俺がするべきことは、自分の人生を犠牲にしてでも、あの男に「父親失格」の烙印を押すことではないのか。
「ごめんなさい……」
 俺の将来を案じてくれるこの人を、守ることではないのか。
 スッと息を吸い、吐いた。俺が孝行するべきは、この人だ。この人を、犯罪者の親にさせてはいけない。
「謝らないでください」
 自然と両手が彼女の背中に伸びた。
 鏑木。心の中で、バカ息子に問いかける。お前にこれができるか?
「運転していたのは、俺です」
 腕の中で、彼女の体が大きく跳ねた。
「大丈夫です。慎一くんを犯罪者にはさせません。今のうちに辻褄を合わせましょう」
 滑らかに舌が動いた。終わった。俺の人生、台無しだ。思うと同時に、胸の中に、自己満足が満ちていった。