「ここが俺の家」
 鏑木は自慢げに顎で家を指し示した。白亜の美しい建物だ。庭付きで、カーポートには高級車が三台停まっている。玄関前には色とりどりの花が植えられ、庭の奥には小さな家庭菜園があった。
「すごいな……こんなに大きな家が都内にあるなんて……」
 感動し、惚けたように言うと、鏑木は虚をつかれたかのように目を丸くした。おかしなものでも見るように、俺の顔をまじまじと覗き込んでくる。
「なんだ?」
「いや……なんか、思ってた反応と違うから」
「悔しがると思ったか?」
 笑いかけると、鏑木はバツが悪そうにそっぽを向いた。
 鏑木に続いて、石畳の細道を進んで玄関へ行く。
 扉を開けると、出迎えたのはふくよかな女性だった。
「初めまして、慎一の母です」
 化粧っ気のない顔、体型を覆う地味な服。
 勝手に有閑マダムのようなセレブな母親を想像していたから、あまりに平凡で拍子抜けした。緊張が解れ、滑らかに舌が動く。
「初めまして、朝比奈純平です。よろしくお願いします」
 頭を下げた瞬間、ガッチリと横から肩を掴まれた。
「この服、俺が買ってやったんだ」
 鏑木が言った。今日俺が着ている服は鏑木が揃えたものだが、まさか母親に公表するとは思わなかった。
「こいつ、まともな服全然持ってなくてさ。だから今月カード使い過ぎちゃったけど、仕方ないよね?」
 母親は愕然と両目を見開いている。
「す、すみませんっ」
 慌てて謝ると、母親も慌てたように言った。
「良いのよ。純平くんは悪くない。わかったわ、慎一。そういうことなら仕方ないわね」
 恥ずかしさで耳まで熱くなった。隣で鏑木が、「よかったあ」と言った。



 鏑木の母親の料理は美味かった。この日は甲殻類がふんだんに使われたグラタンで、一口食べるなり「うまいっ」と感嘆の声が出た。
「ふふ、良かった」
 鏑木の母親は満足げに微笑んだ。
 鏑木家に家庭教師として雇われ、二ヶ月が経った。鏑木の妹、姫花(ひめか)は高校二年生で、有名私立大を目指している。選択科目の出来にはムラがあるが、今から対策すれば十分間に合うだろう。
 授業時間は一時間半で、終わると夕食が出来ている。父親と鏑木は帰りが遅いため、食卓を囲むのは鏑木の母親と俺と姫花の三人だ。
「姫花、どうかした? 美味しくないの?」
 浮かない顔の姫花に、母親が問う。
「お兄ちゃんの彼女のインスタ、見つけちゃったの」
 彼女がそう言って母親に見せたのは、「サラ」という女のインスタアカウントだった。
 俺はさっき見せてもらった。
 露骨な「映え」重視の投稿ばかりが並んだその中には、鏑木自身の写真もあった。鏑木はハッキリと顔が写っているのに、どういうわけか女の顔はない。ただし美容室で撮られた後ろ姿の写真はあった。長い黒髪が美しい。
「お兄ちゃん、ずるいよ。本当はこの人に貢いでいるのに、バレないように純平さんに服を買って誤魔化して……百万も純平さんに使ったなんて嘘だよ。本当はこの人に使わされてるんだよっ……」
 いらないと言っても、鏑木は俺に服を買い与えた。「朝比奈に使った」と言えば、母親が許すと分かっているからだ。
「お母さん、カード止めた方が良いよ。じゃないとお兄ちゃん、もっと高価なもの買わされるよ」
「そうねえ……」
 母親は困ったように眉根を寄せた。
「ちょっと貸してくれる?」
「はい」
「ああ、本当。『彼氏から貰った』って書いてあるわね。まあ……どこでこんな女と知り合ったのかしら……純平くん何か知ってる?」
「いえ……俺たちは大学でもあまり関わりがないんです」
「そう……」
「こんな女のどこが良いんだろ」
 姫花がムスッと言う。やっとグラタンを食べ始めた。
「お兄ちゃんの歴代の彼女、みんな頭が良くて優しかった。こんな……承認欲求お化けみたいな女は一人もいなかったのに。お兄ちゃん、どうしちゃったんだろ。女見る目なくしたのかな」
「自覚はあると思うわよ? だって今までの彼女はうちへ連れてきたじゃない。この女は私たちに紹介できないのよ」
「あ、そっか」
「どちらにしろカードは止めなきゃいけないわね」
 それを聞いてホッとした。
「ごめんなさいね、食事中にこんな話」
 母親が眉をハの字にした。
「いえ……」
「純平さんからもお兄ちゃんに言ってやってよ。『女の趣味悪いぞ』って」
「俺にそんなこと言われたら怒るだろうな」
 想像したら笑えた。でも少しだけ興味が湧いた。あいつはなんて返すだろう。
「あら、案外凹むかもしれないわよ?」
 母親が悪戯っぽく微笑む。
「『お前もそう思うか?』って言ったりして」
 姫花が可能性の低いことを言う。
「ははっ、それはないな」
「じゃあ賭けようよ」
「姫花、純平くんを困らせないの」
「えー、私、困らせちゃった?」
 姫花がこてんと首を傾げる。
 一瞬、これは現実だろうかと視界がブレた。ダイニングは広々としたリビングと続いていて、壁には家族写真が飾られている。そこに写っているのは俺ではなく鏑木慎一だ。瞬きしても変わらない。
 けれど今、俺は鏑木の席にいる。ダイニングチェアはしっくりと体に馴染み、母親の料理は口に合う。
「お、いるじゃん」
 その時鏑木の声がした。大学では顔を合わせるものの、ここで会うことは滅多にない。
「お邪魔してます」
「なにかしこまってんだよ」
 鏑木はニコリと笑い、テーブルについた。長い足を組む。
「慎一も食べる? グラタンだけど」
「俺の分もあるの? じゃあ食べようかな」
「焼くから五分待っててね」
 鏑木の母親が席を立つ。すると膝を軽くつつかれた。向かいに座る姫花が視線で語りかけてくる。(さっきのアレ、言ってみて)と言うふうに。
 素直に可愛いなと思った。姫花は俺に懐いている。だから期待に応えたくなった。
「お前、女の趣味悪いな」
「は?」
 鏑木がこちらを見る。
「サラって女と付き合ってるんだろ。あんな女のどこが良いんだ」
 鏑木が驚いたように目を見開いた。
「金のかかる女はやめておけ。あんなのどう見たって金目的じゃないか」
「……お前、見たのか?」
「サラのインスタをな」
 鏑木が姫花を見て、しまったと思った。
「姫花、お前が見つけたのか? こいつがインスタなんてやってるわけないもんな?」
 兄に低い声で言われただけで、彼女はびくりと肩をすくめた。
「姫花ちゃんはK大を目指してるんだ。K大のタグが付いてたらバレるに決まってるだろ」
 鏑木は知らなかったのだろう。瞳が困惑に揺れた。
「知らないんだな。お前の写真にK大のタグがついてること」
 俺は顎先を上げ、ほくそ笑んだ。
 鏑木は慌てたようにポケットからスマホを取り出し、インスタを開いた。サラのアカウントページに飛ぶ。
 サラの投稿には大量のタグがついている。鏑木の写真には、「K大生」「現役K大生」「K大男子」などだ。
「お前、この女にK大生って嘘ついてるんだな」
 鏑木の唇が戦慄いた。
「学歴詐称なんてみっともないことするなよ」
 ガタン、と音を立てて鏑木が立ち上がった。
「慎一?」
 何も知らない母親が、グラタンを持ってやってくる。自分の目の前に置かれたそれを、鏑木はなんの躊躇いもなく払いのけた。
 ガチャン、と派手な音を立て、グラタンが床に飛び散った。
「あっつ……」
 グラタンが足に掛かったのだろう、姫花が顔を歪めた。
 突然の暴挙に一瞬思考が停止した。
 腹が立ったのかもしれないが、食べ物を粗末にするなんて言語道断だ。こんなことが許されるわけがない。
「おいっ! なんてことするんだっ!」
「お前が悪いんだろ」
 そう言って行こうとした鏑木の腕を、咄嗟に掴んだ。
「拾えよ……」
「お前が拾えよ。床に落ちたモン拾うのがお前の仕事だろ」
「っ……」
「早く拾えよ貧乏人っ!」
「慎一っ!」
 母親が大きな声を出した。
「慎一、純平くんに謝りなさいっ!」
「俺に命令すんなっ!」
 鏑木は母親を睨みつけると、勢いよく俺の手を振り払い、足を踏み鳴らして階段へ向かった。
 階段を上がる音は聞こえない。奴は聞き耳を立ててそこにいるような気がした。
「姫花、足見せて。火傷していない?」
 母親が姫花の前にしゃがむ。
「すみません。俺のせいで」
「純平さんは悪くないっ! ……悪いのは私だよ。私が余計なことをしたから」
「私はよく言ってくれたと思ったわ。これであの子も目が覚めたら良いんだけど」
「……勝手にK大なんてタグ付けて投稿されて、困るのはお兄ちゃんなのにね。G大の友達に知られたら絶対恥かくじゃん。なのにキレる? むしろ感謝してって感じ」
 姫花は大きなため息をつくと、上目遣いに俺を見た。
「私、純平さんみたいなお兄ちゃんが良かったな。勉強の教え方は上手いし、優しいし」
 まだ、階段の影には鏑木がいるような気がしたが、言わないでおいた。
「将来も有望だし」
「姫花、慎一だって弁護士を目指しているのよ」
 母親は嗜めるように言った。キッチンへ行き、新聞紙とフキンを手に戻って来る。ゴミ箱を引き寄せ、床に膝をついた。
「俺も手伝います」
「私も手伝うよ」
「ありがとう。じゃあ新聞紙に破片を集めてくれる? グラタンはゴミ箱に入れちゃって」
 三人で床に散ったグラタンと破片を集めた。
 グラタンの温度を指に感じると、改めて鏑木の行為に激しい憤りを覚えた。どうしてこんなことができるんだろう。こんなことを家族にさせるんだろう。
 家庭教師として働くようになって、分かったことがある。
 鏑木はK大に落ちたことをひどく気にしていて、父親はG大を軽視している。
「私、お兄ちゃんは弁護士になれないと思う」
 破片を集めながら、姫花が言った。
「だってお兄ちゃん、バカだもん」
「姫花、そんなこと言わないの」
「お母さん、お兄ちゃんが漢字ひとつ覚えるのにすごく苦労してたの、知らないでしょ。私のプレゼントを口実にお小遣い貰って、練習ノート買い込んでたの、知らないでしょ。お兄ちゃんね、昔からそうやって嘘ついて、お母さんからお金貰ってたんだよ。私のためにとか、おばあちゃんのためにとか嘘ついて。お兄ちゃん、昔からプライドだけは高かったから、練習のためにノートが欲しいなんて言い出せなかったんだよ。お母さんもお父さんも、お兄ちゃんを買い被りすぎなんだよ。お兄ちゃん、本当はK大狙えるような頭じゃないよ。司法試験なんて絶対受からないと思う」
「姫花」
 母親が低い声を出す。
「ああ、もうほんとやだ。食べ物粗末にするなんて最低じゃん。お兄ちゃん、あの変な女の影響受けて、これからどんどん性格悪くなってくんじゃない? 何で私たち、こんなことしなくちゃいけないの? バッカみたい」
 姫花は片付けを放棄し、立ち上がった。足早に階段へと向かう。
 鏑木と鉢合わせしないかとヒヤヒヤしたが、何事もなく、姫花は階段を上がっていった。
「ごめんね。こんなことさせちゃって。純平くんは悪くないからね」
「いえ……俺のせいだと思います。調子に乗って、いらないことまで言ってしまいましたから。鏑木くんが怒るのは当然だと思います」
 姫花に懐かれて、気が大きくなっていた。
 鏑木が帰ってきた時、俺は軽い苛立ちを覚えた。本来、この席は鏑木の場所で、俺は部外者。その事実を突き付ける彼の存在が疎ましかった。
「純平くん、偉いなあ……」
 掠れた声に顔を上げると、潤んだ瞳とかち合った。
「人の気持ちを思いやって、反省して。純平くんのお父さんは、きっと素敵な人なんでしょうね。息子をこんなに立派に育てあげたんですもの」
 父子家庭であることを鏑木の母親は知っている。だから当然ではあるのだが、父を褒められて愕然とした。父が父としての役目を果たしたことなどないに等しい。なんなら現在進行形で父には足を引っ張られている。でも側から俺は、父に立派に育て上げられたように見えるのだ。そう思うと、目の前が真っ暗になるような絶望を覚えた。
「純平くんに見せたいものがあるの」
 俺の浮かない表情に気づいた母親が、明るい声を出した。「ちょっと待っててね」と言って、立ち上がる。
 間も無く戻ってきた彼女の手には、桐箱が握られていた。それを、俺に差し出す。
「なんですか?」
「開けてみて」
 開けてみる。中には茶碗や平皿、食器一式が入っていた。
 え、と顔を上げると、彼女は眉をハの字にして微笑んだ。
「人の家で食事するって、どうしても緊張するでしょう? 専用の食器があった方が美味しく食べられると思って買ってきたの。今日はグラタンだったから出番がなかったけど、これからはこれを使うからね」
「わざわざ……俺のために?」
「ふふっ……そうねえ……純平くんのためというよりは、私が楽しむためかしら。この食器を選ぶ時間、すごく楽しかったわ」
 喉が詰まって、言葉が出なかった。視界がどんどん滲んでいく。
「純平くんが美味しそうに食べてくれると、私、作って良かったって思うの。すごく嬉しいの。本当は毎日来て欲しいくらい。……って、こんなこと言われても困るわよね」
「いえっ……」
 言葉にならないくらい嬉しい。溢れた涙が食器を濡らし、慌てて箱に蓋をした。