面会時間が終了し、部屋を出る。何年もあの部屋にいたような疲労感を覚えながら、階段を降りると、一階エントランスに意外な人物を見つけた。
「あ、純平くん」
神部晃は俺に気づくなり、駆け寄ってきた。
「慎一くんの面会?」
警察署の一階には、免許更新と思われる一般客が多くいたが、この日も神部は帽子を目深に被っていて、周囲の者は人気俳優だと気づいていない様子だ。
「ああ……お前もか?」
神部は含んだような笑みを向けてきた。
「そりゃないよ、純平くん」
「?」
「山口静子のハンドバッグを盗んで、山口信子の遺品を回収しろって命令したのは純平くんだろ?」
「っ……まさか」
神部は「そのまさか」と言って、わざとらしく肩をすくめた。
「証拠隠滅と逃走の恐れがないからって理由で、逮捕は免れたけどね。在宅起訴? って言うのかな? 今日は刑事に呼び出されたんだよ」
言葉を失った。
山口静子に刺されたあの日、俺は駆けつけた神部に山口静子のハンドバッグを盗むよう頼んだ。そのせいで、神部は警察に目をつけられてしまった……
「それは、本当に申し訳ない……」
「いいよ、気にしないで。最終的には俺の意思でしたことだし、人んちに侵入するのはスリリングで楽しかったしね。あ、純平くんに頼まれたことは言ってないから安心して」
「ニュースになったらまずいんじゃないか?」
「まあその時はその時ってことで」
言葉を探していると、神部は馴れ馴れしく俺の肩を抱いた。
「そんな顔すんなって。大丈夫。一生俳優で食って行こうなんて思ってないし」
耳元で言う。そもそも彼は、どうして俺たちの問題に首を突っ込んできたのだったか。
目だけで彼を見ると、至近距離で目が合った。にっこり微笑まれ、なんとも言えない気恥ずかしさを覚える。
「この後時間ある? 俺、今めちゃくちゃ忙しいんだけど、こういう日だけ完全オフにしてもらってるんだよね。よかったらどっか遊び行かない?」
断る理由はなかったので誘いに乗った。でもまさか、遊園地に連れて行かれるとは思わなかった。この寒い日に神部はソフトクリームを食べたがり、家族向けのプリクラを撮りたがり、夜になったら観覧車に乗りたがった。
順番待ちをしているのは当然カップルばかりで、男二人で並んでいるのは俺たちだけだ。正直、浮いている。それに、さっきからやたらと視線を感じる。自意識過剰であればいいが、「ねえ、あれって……」と声をひそめた会話まで聞こえてくると、居た堪れない。
「純平くん……だよね?」
控えめな声が、背中にかかった。振り返ると、女二人組がいた。どちらの顔も記憶にない。
「覚えてる……? 小学校のとき、隣の席だったニシノユキ……」
「私、カオリ! よく給食のおかずあげてたんだけど、覚えてない?」
俺は怪訝に眉根を寄せた。全く記憶にない。人違いではないですか、そう言おうと口を開いた時だった。
「ああっ! 覚えてる覚えてるっ! カオリちゃんとユキちゃんっ!」
神部が明るい声で言い、俺はギョッと彼を見た。
「よかったあ。違ったらどうしようかと思った!」
「すごいテレビ出てるよねっ! 友達が芸能人になるなんて、不思議な感じっ!」
女二人がはしゃいだ声を出す。
「みんなで集まると必ず純平くんの話題になるんだよ」
「でも、誰も純平くんの連絡先知らないんだよね」
「こんなところで会うなんてすごい偶然っ! ねえ、連絡先交換しようよ!」
カオリ、と名乗った化粧の濃い女がスマホを取り出した。
何事かと、周囲の視線が集まる。「神部晃じゃない?」という声が聞こえた。視界の隅に、学生集団がソワソワしながらこちらの様子を伺っているのが見えた。
「ごめん、仕事関係の人としか交換するなって事務所に言われてるんだ」
「えー、いいじゃん。友達なんだし」
「俺は友達だと思ってないから」
神部は笑顔で突き放す。瞬間、場の空気が凍りついた。会話を聞いていただけの周囲の客までもが、息をのんだ。
「え……ひどくない?」
「あんなに優しくしてあげたのに?」
険悪な空気。
でも、俺の思考は、神部が「覚えてる!」と反応したところから進まない。
だって神部は…………純平くん。
「うん。だってカオリちゃん、俺のこと見下してたじゃん。おかずは自分が食べたくないからくれてただけでしょ? いつもあげてるからって、デザートは当然のように俺の分まで食べてたよね」
カオリの頬が引き攣った。
「ユキちゃんは俺の隣が嫌で、机を離してしょっちゅう先生に怒られてたよね。ごめんね、俺、臭かったよね」
ユキ、と呼ばれた清楚風の女は、ぶんぶんと激しく首を横に振った。
「なんか……白けちゃった。純平くんって根に持つタイプなんだね。女みたい」
カオリの態度が変わった。
「あ、だから男と付き合ってるんだ? そんな性格じゃ女と付き合うなんて無理だもんね」
スッと目を細め、ほくそ笑む。
「こいつは彼氏じゃないよ」
神部は言うと、俺の肩に腕を回した。めいっぱい俺に顔を寄せる。
「こいつはおとーと」
「……本当なのか」
観覧車に乗り込むなり、俺は言った。神部は子供のように窓に両手をついている。
「あー、二組後だったらピンク色のゴンドラに乗れたんだー」
神部は残念そうに言った。
「純平くん、夏色のスズメって、知ってる? 俺が十九歳の時に出演したドラマなんだけど」
「お前、あの二人に『純平』って呼ばれてたよな」
「あのドラマで俺、ヒロイン役の子とピンク色のゴンドラに乗ったんだよ。懐かしいなあ」
「そんなのどうでもいいっ! 俺の質問に答えてくれっ! お前は円香さんの子供なのかっ!」
神部は驚いたように俺を見た。思案するように、瞳が泳ぐ。
「加害者と面識があると言ってたな」
「ちょっと、待って……」
「お前は初対面の俺に『鏑木慎一を庇っている』と言い、山口静子に刺された時には『俺のせいでごめん』と言った」
「待てって!」
神部は声を荒げた。
「鏑木円香の子供は、きみだろ? 純平くん……」
「俺の母親は山口信子だ」
神部は両目を見開いた。上品な顔に似つかわしくない、男らしく張った喉仏が上下に動く。
「知ってるの……?」
「お前こそ……知ってたのか?」
しまった、というふうに、神部は目を逸らした。けれどすぐさま、恐る恐る、俺を見た。
「もしかして、今日は慎一くんを責めるために、面会に?」
「違う。俺は山口信子のことなんかなんとも思っちゃいない。むしろ鏑木に同情している。あいつはあの女に人生を潰されたようなもんだからな」
「そう……か」
ホッとしたような反応で、そういうことかと納得した。
神部は、俺が山口信子の息子であることを知っていた。だが俺はそれを知らないと思って、知られないように、誤魔化そうとした。
「鏑木円香の子供は、お前なんだろ?」
「……違うよ」
神部は再び窓に手をつき、外の景色を眺めた。
「どうして認めない?」
「違うから」
「鏑木は何故か俺に当たりが強かった。でもお前が円香さんの子供なら、考えられることがある」
「……」
「お前があいつを傷つけたんだ。円香さんに捨てられた腹いせに」
「……」
「そうなんだろ? お前はもう、それを認めるような発言をしてしまっている」
「……違う」
イラつき、こめかみがピリついた。
「今日、鏑木に円香さんの面会を頼まれた。父にも妹にも見放されているから、お前が行ってやってくれと。だが俺はあの人の子供じゃない。神部純平、面会には、お前が行ってやるべきだ」
「はっ……どうして俺が……」
神部は笑った。
「お前が実の息子だからだ。あの人は勘違いしたままでいる」
「いいじゃないか、勘違いしたままで」
神部は開き直ったように言った。
「今日、俺は取り調べの前に慎一くんと会ってきたんだよ。でも彼は『面会に行ってくれ』なんてひとっことも言わなかった」
俺が黙ると、神部は「見なよ」と窓を向いたまま言った。
神部の視線を追って窓を見下ろすと、観覧車の下に人だかりができていた。群衆はこのゴンドラを見上げている。
「ここに神部晃がいるからって、みんな集まってきたんだ。俺ってすごくない?」
神部は窓から離れ、まっすぐ前を向いて座った。
「俺、あの人に息子が『神部晃』だって知られたくない。芸能人の母親なんだって、いい気にさせたくない」
神部は肩をすくめた。
「確かに産んでくれたのはあの人だよ。でもそれだけだ。無責任に手放したくせに、すっかり成長した後になって母親面なんてされたくない」
自分の存在を手柄にされたくない気持ちは、俺にもわかる。
「面と向かって、怒りをぶつけたいとも思わないのか?」
神部は少し考えた後、
「……思うけど、それをやったらあの人を母親と認めることになるから」
俺は頷いた。
「そうだな」
「なあ、純平くん」
神部は改まった口調で言った。
「そのまま、きみにはあの人の息子を演じてほしいんだ」
「?」
「もし、俺の犯行がニュースになったら、あの人は俺を自分の息子と思うかもしれない。でもきみが息子を演じている限り、あの人の関心が俺に向かうことはない」
神部の本名が報道されたら、円香さんが勘付く可能性は大いにある。
でも俺が息子を名乗っている限り、円香さんが真実を知ることはない。
「お兄ちゃんの一生に一度のお願い」
神部は両手を合わせて拝んだ。
「なっ……」
なんて都合のいい兄貴面……
黄色い歓声が聞こえてきた。地上が迫っているのだ。
あの群衆の中に降り立つのだと思うと気が滅入ったが、神部は慣れているのか、「ここを出たら二手に分かれてダッシュね」と平然と言った。
「どこで落ち合うんだ?」
「そのまま今日は解散」
あっさり言われ、面食らった。神部はふわりと笑う。
「今日は本当に楽しかった。ありがとう」
ゴンドラのドアが開き、歓声に包まれる。
「また会おう、兄弟」
神部は短く言うと、泳ぐように群衆を躱して去っていった。
兄弟。馴染みのないその単語を口の中で繰り返す。兄弟。嬉しすぎて、壊れも逃げもしないのに、失くさないようにしなければ、と馬鹿みたいなことを、本気で思った。
「あ、純平くん」
神部晃は俺に気づくなり、駆け寄ってきた。
「慎一くんの面会?」
警察署の一階には、免許更新と思われる一般客が多くいたが、この日も神部は帽子を目深に被っていて、周囲の者は人気俳優だと気づいていない様子だ。
「ああ……お前もか?」
神部は含んだような笑みを向けてきた。
「そりゃないよ、純平くん」
「?」
「山口静子のハンドバッグを盗んで、山口信子の遺品を回収しろって命令したのは純平くんだろ?」
「っ……まさか」
神部は「そのまさか」と言って、わざとらしく肩をすくめた。
「証拠隠滅と逃走の恐れがないからって理由で、逮捕は免れたけどね。在宅起訴? って言うのかな? 今日は刑事に呼び出されたんだよ」
言葉を失った。
山口静子に刺されたあの日、俺は駆けつけた神部に山口静子のハンドバッグを盗むよう頼んだ。そのせいで、神部は警察に目をつけられてしまった……
「それは、本当に申し訳ない……」
「いいよ、気にしないで。最終的には俺の意思でしたことだし、人んちに侵入するのはスリリングで楽しかったしね。あ、純平くんに頼まれたことは言ってないから安心して」
「ニュースになったらまずいんじゃないか?」
「まあその時はその時ってことで」
言葉を探していると、神部は馴れ馴れしく俺の肩を抱いた。
「そんな顔すんなって。大丈夫。一生俳優で食って行こうなんて思ってないし」
耳元で言う。そもそも彼は、どうして俺たちの問題に首を突っ込んできたのだったか。
目だけで彼を見ると、至近距離で目が合った。にっこり微笑まれ、なんとも言えない気恥ずかしさを覚える。
「この後時間ある? 俺、今めちゃくちゃ忙しいんだけど、こういう日だけ完全オフにしてもらってるんだよね。よかったらどっか遊び行かない?」
断る理由はなかったので誘いに乗った。でもまさか、遊園地に連れて行かれるとは思わなかった。この寒い日に神部はソフトクリームを食べたがり、家族向けのプリクラを撮りたがり、夜になったら観覧車に乗りたがった。
順番待ちをしているのは当然カップルばかりで、男二人で並んでいるのは俺たちだけだ。正直、浮いている。それに、さっきからやたらと視線を感じる。自意識過剰であればいいが、「ねえ、あれって……」と声をひそめた会話まで聞こえてくると、居た堪れない。
「純平くん……だよね?」
控えめな声が、背中にかかった。振り返ると、女二人組がいた。どちらの顔も記憶にない。
「覚えてる……? 小学校のとき、隣の席だったニシノユキ……」
「私、カオリ! よく給食のおかずあげてたんだけど、覚えてない?」
俺は怪訝に眉根を寄せた。全く記憶にない。人違いではないですか、そう言おうと口を開いた時だった。
「ああっ! 覚えてる覚えてるっ! カオリちゃんとユキちゃんっ!」
神部が明るい声で言い、俺はギョッと彼を見た。
「よかったあ。違ったらどうしようかと思った!」
「すごいテレビ出てるよねっ! 友達が芸能人になるなんて、不思議な感じっ!」
女二人がはしゃいだ声を出す。
「みんなで集まると必ず純平くんの話題になるんだよ」
「でも、誰も純平くんの連絡先知らないんだよね」
「こんなところで会うなんてすごい偶然っ! ねえ、連絡先交換しようよ!」
カオリ、と名乗った化粧の濃い女がスマホを取り出した。
何事かと、周囲の視線が集まる。「神部晃じゃない?」という声が聞こえた。視界の隅に、学生集団がソワソワしながらこちらの様子を伺っているのが見えた。
「ごめん、仕事関係の人としか交換するなって事務所に言われてるんだ」
「えー、いいじゃん。友達なんだし」
「俺は友達だと思ってないから」
神部は笑顔で突き放す。瞬間、場の空気が凍りついた。会話を聞いていただけの周囲の客までもが、息をのんだ。
「え……ひどくない?」
「あんなに優しくしてあげたのに?」
険悪な空気。
でも、俺の思考は、神部が「覚えてる!」と反応したところから進まない。
だって神部は…………純平くん。
「うん。だってカオリちゃん、俺のこと見下してたじゃん。おかずは自分が食べたくないからくれてただけでしょ? いつもあげてるからって、デザートは当然のように俺の分まで食べてたよね」
カオリの頬が引き攣った。
「ユキちゃんは俺の隣が嫌で、机を離してしょっちゅう先生に怒られてたよね。ごめんね、俺、臭かったよね」
ユキ、と呼ばれた清楚風の女は、ぶんぶんと激しく首を横に振った。
「なんか……白けちゃった。純平くんって根に持つタイプなんだね。女みたい」
カオリの態度が変わった。
「あ、だから男と付き合ってるんだ? そんな性格じゃ女と付き合うなんて無理だもんね」
スッと目を細め、ほくそ笑む。
「こいつは彼氏じゃないよ」
神部は言うと、俺の肩に腕を回した。めいっぱい俺に顔を寄せる。
「こいつはおとーと」
「……本当なのか」
観覧車に乗り込むなり、俺は言った。神部は子供のように窓に両手をついている。
「あー、二組後だったらピンク色のゴンドラに乗れたんだー」
神部は残念そうに言った。
「純平くん、夏色のスズメって、知ってる? 俺が十九歳の時に出演したドラマなんだけど」
「お前、あの二人に『純平』って呼ばれてたよな」
「あのドラマで俺、ヒロイン役の子とピンク色のゴンドラに乗ったんだよ。懐かしいなあ」
「そんなのどうでもいいっ! 俺の質問に答えてくれっ! お前は円香さんの子供なのかっ!」
神部は驚いたように俺を見た。思案するように、瞳が泳ぐ。
「加害者と面識があると言ってたな」
「ちょっと、待って……」
「お前は初対面の俺に『鏑木慎一を庇っている』と言い、山口静子に刺された時には『俺のせいでごめん』と言った」
「待てって!」
神部は声を荒げた。
「鏑木円香の子供は、きみだろ? 純平くん……」
「俺の母親は山口信子だ」
神部は両目を見開いた。上品な顔に似つかわしくない、男らしく張った喉仏が上下に動く。
「知ってるの……?」
「お前こそ……知ってたのか?」
しまった、というふうに、神部は目を逸らした。けれどすぐさま、恐る恐る、俺を見た。
「もしかして、今日は慎一くんを責めるために、面会に?」
「違う。俺は山口信子のことなんかなんとも思っちゃいない。むしろ鏑木に同情している。あいつはあの女に人生を潰されたようなもんだからな」
「そう……か」
ホッとしたような反応で、そういうことかと納得した。
神部は、俺が山口信子の息子であることを知っていた。だが俺はそれを知らないと思って、知られないように、誤魔化そうとした。
「鏑木円香の子供は、お前なんだろ?」
「……違うよ」
神部は再び窓に手をつき、外の景色を眺めた。
「どうして認めない?」
「違うから」
「鏑木は何故か俺に当たりが強かった。でもお前が円香さんの子供なら、考えられることがある」
「……」
「お前があいつを傷つけたんだ。円香さんに捨てられた腹いせに」
「……」
「そうなんだろ? お前はもう、それを認めるような発言をしてしまっている」
「……違う」
イラつき、こめかみがピリついた。
「今日、鏑木に円香さんの面会を頼まれた。父にも妹にも見放されているから、お前が行ってやってくれと。だが俺はあの人の子供じゃない。神部純平、面会には、お前が行ってやるべきだ」
「はっ……どうして俺が……」
神部は笑った。
「お前が実の息子だからだ。あの人は勘違いしたままでいる」
「いいじゃないか、勘違いしたままで」
神部は開き直ったように言った。
「今日、俺は取り調べの前に慎一くんと会ってきたんだよ。でも彼は『面会に行ってくれ』なんてひとっことも言わなかった」
俺が黙ると、神部は「見なよ」と窓を向いたまま言った。
神部の視線を追って窓を見下ろすと、観覧車の下に人だかりができていた。群衆はこのゴンドラを見上げている。
「ここに神部晃がいるからって、みんな集まってきたんだ。俺ってすごくない?」
神部は窓から離れ、まっすぐ前を向いて座った。
「俺、あの人に息子が『神部晃』だって知られたくない。芸能人の母親なんだって、いい気にさせたくない」
神部は肩をすくめた。
「確かに産んでくれたのはあの人だよ。でもそれだけだ。無責任に手放したくせに、すっかり成長した後になって母親面なんてされたくない」
自分の存在を手柄にされたくない気持ちは、俺にもわかる。
「面と向かって、怒りをぶつけたいとも思わないのか?」
神部は少し考えた後、
「……思うけど、それをやったらあの人を母親と認めることになるから」
俺は頷いた。
「そうだな」
「なあ、純平くん」
神部は改まった口調で言った。
「そのまま、きみにはあの人の息子を演じてほしいんだ」
「?」
「もし、俺の犯行がニュースになったら、あの人は俺を自分の息子と思うかもしれない。でもきみが息子を演じている限り、あの人の関心が俺に向かうことはない」
神部の本名が報道されたら、円香さんが勘付く可能性は大いにある。
でも俺が息子を名乗っている限り、円香さんが真実を知ることはない。
「お兄ちゃんの一生に一度のお願い」
神部は両手を合わせて拝んだ。
「なっ……」
なんて都合のいい兄貴面……
黄色い歓声が聞こえてきた。地上が迫っているのだ。
あの群衆の中に降り立つのだと思うと気が滅入ったが、神部は慣れているのか、「ここを出たら二手に分かれてダッシュね」と平然と言った。
「どこで落ち合うんだ?」
「そのまま今日は解散」
あっさり言われ、面食らった。神部はふわりと笑う。
「今日は本当に楽しかった。ありがとう」
ゴンドラのドアが開き、歓声に包まれる。
「また会おう、兄弟」
神部は短く言うと、泳ぐように群衆を躱して去っていった。
兄弟。馴染みのないその単語を口の中で繰り返す。兄弟。嬉しすぎて、壊れも逃げもしないのに、失くさないようにしなければ、と馬鹿みたいなことを、本気で思った。


