鏑木慎一を一言で説明するなら、「傲慢」だ。
彼はいつも五人以上の取り巻きを従え、大声で騒いだり、誰かを遠巻きに見て冷ややかに笑ったりして、俺のような苦学生を居心地悪くさせていた。
「なんかこの部屋臭わないか?」
大学三年。国際政治学のゼミ室でのことだった。
俺は初め、その言葉が自分に対して使われたものだとは思わなかった。彼が俺の目の前までやってきて、つんと形の良い鼻先をクンクンと鳴らして、「ああ、お前か」と笑うまで。
「嫉妬だろ」
後日その話をすると、西村はあっさりとそう言った。
西村と俺は法学部で、共に弁護士を目指している。
学費が高いで有名な私立大学だ。裕福な学生が多い中、俺たちは奨学金を活用してここにいる。仕送りがない俺たちはアルバイトで生活費を稼ぐしかなく、コンパやサークル活動とは無縁のシケた日々を送っていた。互いに似たものを感じ、気づけば一緒に過ごすようになっていた。
「俺なんかのどこに嫉妬するんだよ」
俺は肩をゆすった。三日連続でポークカレーだ。これが一番懐に優しい。
「お前はわりと持ってる方だぞ?」
持ってる、と言われてもピンとこない。ものごころついた時には母親はいなかったし、父親はアル中のギャンブル狂いだ。
「まず、返済不要の奨学金を掴み取る頭脳」
「金がなかったから、勉強するしかなかったんだよ」
「みんながみんな努力で一流大学に合格できるわけじゃない。お前はソートー頭がいい。それに顔も……ええっと、なんだっけ。あの……マラソン映画に出てた」
「神部晃」
平川という学生が割り込んできた。
「あ、それそれ。何お前、芸能人に詳しいじゃん」
「経済学部の女たちが噂してるのを聞いたんだよ」
平川はスマホ画面を見せてきた。画面には金髪の男が映っている。
「この男か? 別に似てないだろ」
俺は眉をひそめた。
前髪をセンターで分けた流行りのヘアスタイルは千円カットの俺とは似ても似つかない。顔だって全然違う。細く切れ上がった俺の目と違って彼の目元は優しげだ。
「似てるって! 顎のラインとか、鼻筋とか」
「それだけじゃないか」
「ちょっとデコ出してみ」
平川が俺の前髪をかきあげた。完全に不意打ちだった。額にある小さな傷を見て、平川がおや? という顔をする。
「どうした? これ?」
「……小さい時にぶつけたんだ」
「もったいねえよな。素材はいいのに」
西村が俺を見ながら言う。
「別にたいした素材じゃない」
言って、カレーを口へ運ぶ。
「反感買うぜ、そんなこと言ったら」
平川が言った。
「もう買ってるよ。こいつ、鏑木に嫌味言われたんだって」
「嫉妬だろうなあ」
平川までそんなことを。
鏑木は整った容姿をしていた。裕福で、何不自由なく、遊んでばかりいる大学生。
俺が嫉妬するならともかく、彼に俺が嫉妬されるなんて意味不明だ。
「あいつ、本当はK大目指してたんだってさ」
西村が残り少ないカレーをスプーンで集めながら言った。
「ここは滑り止めか」と平川。
「そういうこと」
「別に珍しくもないだろ」
「まあそうだけど。気に入らないんじゃねえの。お前ならK大も余裕だろ」
思わず鼻で笑った。
「そんなことで苦労知らずのボンボンが嫉妬するか?」
「あいつ、大和田ゼミに入るためにかなり頑張ったみたいだからな。大和田教授の授業を取ったり、ゼミ生に面接指導してもらったり。それなのにゼミ室にはお前がいた。しかもお前は大和田教授に『是非うちに』と逆ナンされたクチだ。そりゃ『臭い』の嫌味くらい言いたくもなるだろ」
俺はTシャツの首元を掴んで服の中の臭いを嗅いだ。
「本当に嫌味だろうか。臭うなら気を遣わずに言ってくれ」
「臭わねえって。あんな奴の言葉気にすんな」
次に鏑木と言葉を交わしたのは、翌月、勤務中だった。
俺は家庭教師と中華料理屋のアルバイトを掛け持ちしていた。中華料理屋はホテルの最上階にある高級店だ。野暮ったい髪もワックスで撫で付けることでサマになる。
「あれ? 朝比奈?」
皿を回収しに行った席に、鏑木がいた。連れは同じ法学部の学生だった。ただし関わりはない。皆派手な髪色で、法曹を志しているようには全く見えない。テーブルは料理と空いた皿と酒でいっぱいだった。
カラン、とフォークが床に落ちる音がした。
「ごめん、手が滑った」
鏑木が言う。わざとなのは明らかだった。
仲間らは俺を見て、含んだような笑みを交わし合う。感じ悪いなと不愉快になった。
床に片膝をつき、テーブルの下に落ちたフォークに手を伸ばした時だった。
グッと手の甲を踏みつけられた。一瞬、頭が空白になる。顔を上げると、鏑木はにっこり微笑んでいた。
「ここ、時給いくら?」
「離してくれ……」
「惨めだな。こんなことしなきゃ生活できないなんて」
「離してやれよ」
仲間の一人が笑いながら言う。
痛みに思わず顔を顰める。どうしてこんなことをされなきゃいけないんだ。俺が一体何をした?
「どうして俺が? って顔だな。朝比奈純平」
鏑木はグリグリと足に力を入れた。
「俺、妹がいるんだけどさ」鏑木は唐突に言った。「お前、家庭教師やらないか?」
授業が終わるなり、鏑木が俺の席までやってきた。先に気づいたのは隣にいた西村で、肘で俺の脇腹をちょんと小突く。
「昨日の話、考えてくれたか」
今日も彼は白シャツに質の良さそうなスラックスという格好だ。
昨日、踏みつけられた手の甲はまだヒリヒリと痛む。相手は友好的な笑みを浮かべているが、俺はとてもそんな気にはなれなかった。
「昨日の話?」
西村が言う。
「家庭教師の話なら断る」
「なあ、頼むよ」
鏑木は拝むように両手を合わせた。どの面下げて。俺は睨み返した。
「俺の妹、成績伸び悩んでんだ。俺ん家わりと近いし、帰りは俺が送ってもいいし」
「お前、朝比奈に酷いこと言ったんじゃないのか」
西村が言った。
「まず、それについて謝るのが先だろ。お前は軽い気持ちで言ったのかもしれないけど、言われた方は」
「週二日、十八時から七時半までの一時間半。月謝十万でどうかな」
あまりに魅力的な条件に、思わず息をのんだ。
登録制の家庭教師のアルバイトは、時給は四千円と良い方だが、授業時間が少ないため、大した稼ぎにならないのだ。だから中華料理屋でも働いている。
週に二日働くだけで月収十万。こんなに良い条件は他にない。けれど即答はできなかった。親の金だとしても、鏑木に雇われることには変わりない。
「その気になったら教えてくれ。これ俺の連絡先」
折り畳んだメモ紙を机に置いて、鏑木は教室を出て行った。
「おい、どうすんだよ」
西村が興奮気味に言う。
「わからない」
「さっきの条件なら受けた方が良いんじゃねえの」昨日、手の甲を踏みつけられたことを西村は知らない。「安い時給で何時間も働くより、短時間で稼ぐ方が、自分の勉強時間も確保できるし。お前、今のペースで働いてたら予備試験の対策できないだろ」
司法予備試験とは、司法試験の受験資格を得るための試験だ。
司法試験の受験資格は、法科大学院を修了することでも得られるため、多くの学生は法科大学院に進む。難易度の高い予備試験を受ける学生は少数だ。
「ああ……そうだな」
別に謝罪が欲しかったわけじゃない。でも西村が「謝るのが先だろ」と言ってくれた時、報酬の話題にすり替えたことが若干引っ掛かった。
でもそんなことを気にしている場合ではないのかもしれない。西村の言う通り、司法予備試験の対策をしなければいけない。大学院でまた二年。そんな悠長なことはいってられない。
家庭教師をやると電話で伝えた翌日、鏑木は中華料理屋に客として現れた。今日も連れは同じ法学部の派手な連中だ。
「お前に渡したいものがあるんだ。終わったら家まで送っていくよ」
注文を取りに行くと、鏑木は言った。
俺の返事を待たずに鏑木は酒を注文していく。
「車で来ているんだろ」
当然の指摘をしただけなのに、仲間らはクスクスと肩を揺すった。
「真面目」
「いいじゃん、ちょっとくらい」
「酒は出さない。車で来ている客に酒を提供したら店も罪に問われるからな」
カラン、とフォークが床に落ちる音がした。またか、と怒りで腹が煮えた。キッと鏑木を睨みつける。
「拾えよ」
鏑木はニヤニヤといやらしい笑みを浮かべている。他の仲間も同様だ。これが法曹を志しているのだから恐ろしい。
やっぱり家庭教師を引き受けたのは失敗だったかなと思ったが、今更だった。すでに登録制の方を辞めてしまった。
床に膝をつき、フォークに手を伸ばす。……手に取り、立ち上がった。
「なにビビってんだよ」
バカにしたような鏑木の声に、こめかみがピリついた。
「大事な家庭教師を傷つけるような真似、するわけないだろ?」
送っていく、と言う宣言通り、鏑木は地下駐車場に車を停めて待っていた。正直電車で帰りたかったが、家庭教師の件で話がしたいと言われると断れなかった。
高級車のシートは寝具のような座り心地だった。メーターパネルは近代的で、エンジンは無音に等しい。走り出しても揺れはなく、助手席は「快適」の一言だった。
「お前に渡したいものがあるって言ったろ? あれ、服なんだよ」
ハンドルを握りながら鏑木は言った。
「服?」
鏑木は俺をチラと見、
「お前、自分が見窄らしいって分かってない? そんな格好でうちに来て欲しくないんだよ」
かあっと頬が熱くなった。確かに服は安物だが、見窄らしいとは思わなかった。でも他人から見たらそうなのかもしれない。
「俺の母さん、お節介なんだ。お前の貧乏くさい格好見たら、きっと不憫に思うだろうからさ。姫花だってテンション下がるだろうし。ああ、気を悪くさせたらごめんなあ? でもこれさあ、俺たちの間ではしょっちゅう話題になってたんだよ」
「えっ」
血の気が引いた。
「あいつ、いつも汚ねえ服着てるよなって」
鏑木が首を傾げるようにして俺を見る。見なくても笑っていると分かった。
「なあ、十万ってそんなに魅力的か?」
小馬鹿にするような物言いだった。こんな男の家に雇われるなど屈辱でしかない。けれど「じゃあ辞める」と即答するのは躊躇うくらい、十万円は魅力的だった。
「……本当に、条件通りの報酬をくれるんだろうな?」
「ああ、もちろん」
駅までで良いと言ったのに、鏑木は家まで送ると聞かなかった。
アパートの前で車を降りる。二階の自分の部屋に明かりがついていた。父が来ているのだ。ただでさえ憂鬱な気分がますます沈んだ。
鏑木も車を降りる。トランクを開け、紙袋を二つ、俺に突き出した。
「こんなに?」
一袋に三、四着入っている。チラリと見えた値札には三万四千円と書かれていた。
「こんなに高価なもの……受け取れるわけがないだろ……」
「仕事着だと思って受け取れよ」
ほら、と紙袋を握らされる。
「一体いくら使ったんだ……」
「十五万くらいかな」
耳を疑った。
「ご両親に怒られるだろう」
「使っちゃったもんは仕方ないだろ」
「返品してくれ。服は自分で用意する」
紙袋を突き返すと、鏑木は「はあ?」と露骨に顔を顰めた。
「せっかく買ってやったんだ。ありがたく受け取れよ」
「……今、家に父が来ているんだ」
「それがどうしたんだよ」
家庭事情を明かすことには抵抗を覚えたが、言わなければ鏑木は引き下がらないと思った。
「あー、人から恵んでもらうなとか言われる感じ? だったら自分で買ったことにしろよ」
「そうじゃないっ」
つい声が大きくなった。舌打ちし、ワックスで整えた髪を乱暴に掻き乱す。
「新品の服を見たら、あの人は金に変えようとする。今だって俺の部屋で金になるもん物色してるんだ」
忌々しくアパートの自室を睨み上げると、鏑木もつられるようにしてそこを見た。
「受け取れない。こんなの持って帰ったら全部あの人に奪われる。お前だってそれは嫌だろ」
「毒親自慢なんかされても困るんだけど」
「自慢?」
「自慢以外に何があるんだよ」
鏑木はため息をついて、紙袋を引っ込めた。
「分かったよ。とりあえずこれは持って帰る。今度大学で渡すよ」
トランクを開け、紙袋を戻す。「じゃあな」と車に乗り込もうとしたから、慌てて礼を言った。
「送ってくれてありがとう」
鏑木は応えず、運転席に乗り込んだ。間も無く車は発進し、細い道を去って行った。
父が来ていると思うと憂鬱で、なかなか足が動かない。「毒親自慢」という鏑木の言葉が、今になって効いてきた。なんだよ、「毒親自慢」って。
意を決して足を踏み出す。外階段を上がり、奥から二番目の扉へ向かう。ドアノブに手を掛けると憂鬱な気持ちが膨らんだ。
彼はいつも五人以上の取り巻きを従え、大声で騒いだり、誰かを遠巻きに見て冷ややかに笑ったりして、俺のような苦学生を居心地悪くさせていた。
「なんかこの部屋臭わないか?」
大学三年。国際政治学のゼミ室でのことだった。
俺は初め、その言葉が自分に対して使われたものだとは思わなかった。彼が俺の目の前までやってきて、つんと形の良い鼻先をクンクンと鳴らして、「ああ、お前か」と笑うまで。
「嫉妬だろ」
後日その話をすると、西村はあっさりとそう言った。
西村と俺は法学部で、共に弁護士を目指している。
学費が高いで有名な私立大学だ。裕福な学生が多い中、俺たちは奨学金を活用してここにいる。仕送りがない俺たちはアルバイトで生活費を稼ぐしかなく、コンパやサークル活動とは無縁のシケた日々を送っていた。互いに似たものを感じ、気づけば一緒に過ごすようになっていた。
「俺なんかのどこに嫉妬するんだよ」
俺は肩をゆすった。三日連続でポークカレーだ。これが一番懐に優しい。
「お前はわりと持ってる方だぞ?」
持ってる、と言われてもピンとこない。ものごころついた時には母親はいなかったし、父親はアル中のギャンブル狂いだ。
「まず、返済不要の奨学金を掴み取る頭脳」
「金がなかったから、勉強するしかなかったんだよ」
「みんながみんな努力で一流大学に合格できるわけじゃない。お前はソートー頭がいい。それに顔も……ええっと、なんだっけ。あの……マラソン映画に出てた」
「神部晃」
平川という学生が割り込んできた。
「あ、それそれ。何お前、芸能人に詳しいじゃん」
「経済学部の女たちが噂してるのを聞いたんだよ」
平川はスマホ画面を見せてきた。画面には金髪の男が映っている。
「この男か? 別に似てないだろ」
俺は眉をひそめた。
前髪をセンターで分けた流行りのヘアスタイルは千円カットの俺とは似ても似つかない。顔だって全然違う。細く切れ上がった俺の目と違って彼の目元は優しげだ。
「似てるって! 顎のラインとか、鼻筋とか」
「それだけじゃないか」
「ちょっとデコ出してみ」
平川が俺の前髪をかきあげた。完全に不意打ちだった。額にある小さな傷を見て、平川がおや? という顔をする。
「どうした? これ?」
「……小さい時にぶつけたんだ」
「もったいねえよな。素材はいいのに」
西村が俺を見ながら言う。
「別にたいした素材じゃない」
言って、カレーを口へ運ぶ。
「反感買うぜ、そんなこと言ったら」
平川が言った。
「もう買ってるよ。こいつ、鏑木に嫌味言われたんだって」
「嫉妬だろうなあ」
平川までそんなことを。
鏑木は整った容姿をしていた。裕福で、何不自由なく、遊んでばかりいる大学生。
俺が嫉妬するならともかく、彼に俺が嫉妬されるなんて意味不明だ。
「あいつ、本当はK大目指してたんだってさ」
西村が残り少ないカレーをスプーンで集めながら言った。
「ここは滑り止めか」と平川。
「そういうこと」
「別に珍しくもないだろ」
「まあそうだけど。気に入らないんじゃねえの。お前ならK大も余裕だろ」
思わず鼻で笑った。
「そんなことで苦労知らずのボンボンが嫉妬するか?」
「あいつ、大和田ゼミに入るためにかなり頑張ったみたいだからな。大和田教授の授業を取ったり、ゼミ生に面接指導してもらったり。それなのにゼミ室にはお前がいた。しかもお前は大和田教授に『是非うちに』と逆ナンされたクチだ。そりゃ『臭い』の嫌味くらい言いたくもなるだろ」
俺はTシャツの首元を掴んで服の中の臭いを嗅いだ。
「本当に嫌味だろうか。臭うなら気を遣わずに言ってくれ」
「臭わねえって。あんな奴の言葉気にすんな」
次に鏑木と言葉を交わしたのは、翌月、勤務中だった。
俺は家庭教師と中華料理屋のアルバイトを掛け持ちしていた。中華料理屋はホテルの最上階にある高級店だ。野暮ったい髪もワックスで撫で付けることでサマになる。
「あれ? 朝比奈?」
皿を回収しに行った席に、鏑木がいた。連れは同じ法学部の学生だった。ただし関わりはない。皆派手な髪色で、法曹を志しているようには全く見えない。テーブルは料理と空いた皿と酒でいっぱいだった。
カラン、とフォークが床に落ちる音がした。
「ごめん、手が滑った」
鏑木が言う。わざとなのは明らかだった。
仲間らは俺を見て、含んだような笑みを交わし合う。感じ悪いなと不愉快になった。
床に片膝をつき、テーブルの下に落ちたフォークに手を伸ばした時だった。
グッと手の甲を踏みつけられた。一瞬、頭が空白になる。顔を上げると、鏑木はにっこり微笑んでいた。
「ここ、時給いくら?」
「離してくれ……」
「惨めだな。こんなことしなきゃ生活できないなんて」
「離してやれよ」
仲間の一人が笑いながら言う。
痛みに思わず顔を顰める。どうしてこんなことをされなきゃいけないんだ。俺が一体何をした?
「どうして俺が? って顔だな。朝比奈純平」
鏑木はグリグリと足に力を入れた。
「俺、妹がいるんだけどさ」鏑木は唐突に言った。「お前、家庭教師やらないか?」
授業が終わるなり、鏑木が俺の席までやってきた。先に気づいたのは隣にいた西村で、肘で俺の脇腹をちょんと小突く。
「昨日の話、考えてくれたか」
今日も彼は白シャツに質の良さそうなスラックスという格好だ。
昨日、踏みつけられた手の甲はまだヒリヒリと痛む。相手は友好的な笑みを浮かべているが、俺はとてもそんな気にはなれなかった。
「昨日の話?」
西村が言う。
「家庭教師の話なら断る」
「なあ、頼むよ」
鏑木は拝むように両手を合わせた。どの面下げて。俺は睨み返した。
「俺の妹、成績伸び悩んでんだ。俺ん家わりと近いし、帰りは俺が送ってもいいし」
「お前、朝比奈に酷いこと言ったんじゃないのか」
西村が言った。
「まず、それについて謝るのが先だろ。お前は軽い気持ちで言ったのかもしれないけど、言われた方は」
「週二日、十八時から七時半までの一時間半。月謝十万でどうかな」
あまりに魅力的な条件に、思わず息をのんだ。
登録制の家庭教師のアルバイトは、時給は四千円と良い方だが、授業時間が少ないため、大した稼ぎにならないのだ。だから中華料理屋でも働いている。
週に二日働くだけで月収十万。こんなに良い条件は他にない。けれど即答はできなかった。親の金だとしても、鏑木に雇われることには変わりない。
「その気になったら教えてくれ。これ俺の連絡先」
折り畳んだメモ紙を机に置いて、鏑木は教室を出て行った。
「おい、どうすんだよ」
西村が興奮気味に言う。
「わからない」
「さっきの条件なら受けた方が良いんじゃねえの」昨日、手の甲を踏みつけられたことを西村は知らない。「安い時給で何時間も働くより、短時間で稼ぐ方が、自分の勉強時間も確保できるし。お前、今のペースで働いてたら予備試験の対策できないだろ」
司法予備試験とは、司法試験の受験資格を得るための試験だ。
司法試験の受験資格は、法科大学院を修了することでも得られるため、多くの学生は法科大学院に進む。難易度の高い予備試験を受ける学生は少数だ。
「ああ……そうだな」
別に謝罪が欲しかったわけじゃない。でも西村が「謝るのが先だろ」と言ってくれた時、報酬の話題にすり替えたことが若干引っ掛かった。
でもそんなことを気にしている場合ではないのかもしれない。西村の言う通り、司法予備試験の対策をしなければいけない。大学院でまた二年。そんな悠長なことはいってられない。
家庭教師をやると電話で伝えた翌日、鏑木は中華料理屋に客として現れた。今日も連れは同じ法学部の派手な連中だ。
「お前に渡したいものがあるんだ。終わったら家まで送っていくよ」
注文を取りに行くと、鏑木は言った。
俺の返事を待たずに鏑木は酒を注文していく。
「車で来ているんだろ」
当然の指摘をしただけなのに、仲間らはクスクスと肩を揺すった。
「真面目」
「いいじゃん、ちょっとくらい」
「酒は出さない。車で来ている客に酒を提供したら店も罪に問われるからな」
カラン、とフォークが床に落ちる音がした。またか、と怒りで腹が煮えた。キッと鏑木を睨みつける。
「拾えよ」
鏑木はニヤニヤといやらしい笑みを浮かべている。他の仲間も同様だ。これが法曹を志しているのだから恐ろしい。
やっぱり家庭教師を引き受けたのは失敗だったかなと思ったが、今更だった。すでに登録制の方を辞めてしまった。
床に膝をつき、フォークに手を伸ばす。……手に取り、立ち上がった。
「なにビビってんだよ」
バカにしたような鏑木の声に、こめかみがピリついた。
「大事な家庭教師を傷つけるような真似、するわけないだろ?」
送っていく、と言う宣言通り、鏑木は地下駐車場に車を停めて待っていた。正直電車で帰りたかったが、家庭教師の件で話がしたいと言われると断れなかった。
高級車のシートは寝具のような座り心地だった。メーターパネルは近代的で、エンジンは無音に等しい。走り出しても揺れはなく、助手席は「快適」の一言だった。
「お前に渡したいものがあるって言ったろ? あれ、服なんだよ」
ハンドルを握りながら鏑木は言った。
「服?」
鏑木は俺をチラと見、
「お前、自分が見窄らしいって分かってない? そんな格好でうちに来て欲しくないんだよ」
かあっと頬が熱くなった。確かに服は安物だが、見窄らしいとは思わなかった。でも他人から見たらそうなのかもしれない。
「俺の母さん、お節介なんだ。お前の貧乏くさい格好見たら、きっと不憫に思うだろうからさ。姫花だってテンション下がるだろうし。ああ、気を悪くさせたらごめんなあ? でもこれさあ、俺たちの間ではしょっちゅう話題になってたんだよ」
「えっ」
血の気が引いた。
「あいつ、いつも汚ねえ服着てるよなって」
鏑木が首を傾げるようにして俺を見る。見なくても笑っていると分かった。
「なあ、十万ってそんなに魅力的か?」
小馬鹿にするような物言いだった。こんな男の家に雇われるなど屈辱でしかない。けれど「じゃあ辞める」と即答するのは躊躇うくらい、十万円は魅力的だった。
「……本当に、条件通りの報酬をくれるんだろうな?」
「ああ、もちろん」
駅までで良いと言ったのに、鏑木は家まで送ると聞かなかった。
アパートの前で車を降りる。二階の自分の部屋に明かりがついていた。父が来ているのだ。ただでさえ憂鬱な気分がますます沈んだ。
鏑木も車を降りる。トランクを開け、紙袋を二つ、俺に突き出した。
「こんなに?」
一袋に三、四着入っている。チラリと見えた値札には三万四千円と書かれていた。
「こんなに高価なもの……受け取れるわけがないだろ……」
「仕事着だと思って受け取れよ」
ほら、と紙袋を握らされる。
「一体いくら使ったんだ……」
「十五万くらいかな」
耳を疑った。
「ご両親に怒られるだろう」
「使っちゃったもんは仕方ないだろ」
「返品してくれ。服は自分で用意する」
紙袋を突き返すと、鏑木は「はあ?」と露骨に顔を顰めた。
「せっかく買ってやったんだ。ありがたく受け取れよ」
「……今、家に父が来ているんだ」
「それがどうしたんだよ」
家庭事情を明かすことには抵抗を覚えたが、言わなければ鏑木は引き下がらないと思った。
「あー、人から恵んでもらうなとか言われる感じ? だったら自分で買ったことにしろよ」
「そうじゃないっ」
つい声が大きくなった。舌打ちし、ワックスで整えた髪を乱暴に掻き乱す。
「新品の服を見たら、あの人は金に変えようとする。今だって俺の部屋で金になるもん物色してるんだ」
忌々しくアパートの自室を睨み上げると、鏑木もつられるようにしてそこを見た。
「受け取れない。こんなの持って帰ったら全部あの人に奪われる。お前だってそれは嫌だろ」
「毒親自慢なんかされても困るんだけど」
「自慢?」
「自慢以外に何があるんだよ」
鏑木はため息をついて、紙袋を引っ込めた。
「分かったよ。とりあえずこれは持って帰る。今度大学で渡すよ」
トランクを開け、紙袋を戻す。「じゃあな」と車に乗り込もうとしたから、慌てて礼を言った。
「送ってくれてありがとう」
鏑木は応えず、運転席に乗り込んだ。間も無く車は発進し、細い道を去って行った。
父が来ていると思うと憂鬱で、なかなか足が動かない。「毒親自慢」という鏑木の言葉が、今になって効いてきた。なんだよ、「毒親自慢」って。
意を決して足を踏み出す。外階段を上がり、奥から二番目の扉へ向かう。ドアノブに手を掛けると憂鬱な気持ちが膨らんだ。


