『ねえ慎一、私をひいて欲しいの』
『え?』
『軽い怪我をする程度。ほら、中国人がよくやってるじゃない。当たり屋よ』
『……当たり屋?』
『そう。加害者と被害者になれば、玲司は私と関わらざるを得ない。そうしたら私、絶対あの人を落としてみせる』
『ごめん……言っている意味がよくわからない』
『もう一度家族になるのよ、私たち』
『家族……』
『そう。円香をあの家から追い出すの』
『だったら……俺、父さんに言うよ。あの人がしたこと』
『信じてもらえなかったら?』
『信じてもらえるまで説明する。私は確実にあの家に戻りたいの』
『でも……』
『お願い、慎一。私、どうしてもあの家に戻りたいの』


 聞かされた音声に、私は言葉を失った。まさか、こんな会話がドライブレコーダーに録音されていたなんて。
 私は階段を振り返った。姫花が聞いていたらどうしよう。
「あの、ちょっと娘と話してきても良いですか? 降りてきた時、男の人が二人もいたら驚くと思うので」
 懸命に笑顔を繕って言う。
「かまいませんよ」
 私は急いで階段へ向かった。
「っ……」
 一段目に姫花はいた。ここでずっと様子を伺っていたのだ。
「姫花、自分の部屋に行きなさい」
 姫花は赤い目で私を睨んでいる。こんなに怖い顔の娘を見たのは初めてだった。
「姫花っ、早く行きなさいっ……」
「どうして今更お兄ちゃんを警察に突き出したの」
 赤い目にみるみる涙が溜まっていく。
「ねえ、どうして? お兄ちゃん、あの事件から変わったじゃん。誰とも遊ばずに勉強頑張って……勉強しかしてなかったじゃん。ずっとお母さんの期待に応えてきたじゃん。ねえ、なんでお兄ちゃんの努力を踏み躙るようなことをするの?」
「後で、ゆっくり説明するから、とにかく今は部屋に行きなさい。ね?」
 姫花の肩を掴み、押すけれど、彼女は足を踏ん張ってびくともしない。
「あの日、運転していたのは慎一なのよ? だから慎一が逮捕されるのは当然なの。姫花、あなた弁護士になるんでしょう? だったら正義を貫かなきゃダメ」
「何言ってんのっ? 純平さんに罪をなすりつけたのはお母さんでしょうっ!? お兄ちゃんが頼んだのっ!?」
 女の子って、本当に大変。すうぐヒステリックになるんだから。
「お母さんだって悩んだの。本当に本当に悩んだの」
 だって純平は私の息子。息子を警察に突き出す親がどこにいる? 普通なら全力で庇うものだ。
『運転していたのは、俺です』でも純平の、あの、力強い声。『大丈夫です。慎一くんを犯罪者にはさせません。今のうちに辻褄を合わせましょう』
 私、惚れ惚れした。彼が出所した後のことを想像せずにはいられなかった。
 刑務所から出てきた彼を、待つ私。彼はそんな私を見て、涙腺崩壊。感動の再会。「何が食べたい?」と問えば、気恥ずかしそうに「グラタン」と答えるところまで鮮明に想像できた。
 それに、信子が迫っていた。
 私のものをなんでも奪おうとする信子が、慎一と接触していた。慎一を目の届かない場所へやりたくなかった。実家にいてくれたら、まだなんとか対処できる。轢き逃げを私の力で庇ってやれば、慎一はもう私に抗えない。私はあの事件を庇うことで、慎一の母になろうとしたのだ。抗うことのできない、絶対的な母親に。
「悩んで、純平さんを身代わりにするって決めたんならっ、今更蒸し返さないでよっ! お兄ちゃん可哀想じゃんっ!」
「姫花、慎一はね、本当の息子じゃないの」
「信じらんないっ! 今それ言う必要あるっ!?」
 姫花が両目を見開いた。
「っていうか、お母さんとは血が繋がってないかもしれないけど、私とは半分繋がってるしお兄ちゃんであることに変わりないんですけどっ!」
 姫花は急に私を押して、リビングへ駆けて行った。
「ちょっと、姫花っ!」
「お兄ちゃんは確かに人を轢きましたっ……」
 リビングに姫花の声が響く。
「でも純平さんに罪を着せたのはこの人ですっ!」
 私を指差す。カチンときた。母親に向かって、「この人」とはなんだ。
「お兄ちゃんはきっと罪を償うつもりでしたっ! だからお兄ちゃんを責めないでっ……くださいっ……」
 姫花はそう言って頭を下げると、私の隙を縫うようにして階段を駆け上がっていった。
 笑顔、笑顔。私は笑顔を繕って、リビングのソファに戻った。
「すみません。試験勉強のストレスだと思うので、気にしないでください」
 刑事は愛想のひとつも返さない。
「では、話を戻します。この音声は、事件の一週間前に録られたものです」
 若い刑事が、ドライブレコーダーを操作し、また、音声が流れる。
『もう一度家族になるのよ、私たち』
 信子の声。
「この、『もう一度家族になる』というのは、どういうことでしょう」
「さあ……?」
 信子は死んだ。
 けれど死者となっても尚、信子に対して、手に追えないほどの怒りが湧いた。あの女は慎一の境遇を利用して、母親を騙って、私の家族を乗っ取るつもりだったのだ。
 その方法が「ひき逃げ」なのだから救いようがない。あの女は昔からそうだった。卑怯な手を使って、私のものを奪ってきた。
 仁の時もそうだ。私の母に近づいて、「悪い男に貢がされています」と吹き込んで……
『家族……』
『そう。円香をあの家から追い出すの』
 刑事はいちいち音声を止める。
「被害者は『円香』とあなたのことを呼んでいますね。お知り合いだったんですか?」
「ええ……もう、とっくに縁は切れたと思っていたんですけど……まさか、慎一と関わっていたなんて驚きました」
 刑事はドライブレコーダーを操作した。
『だったら……俺、父さんに言うよ。あの人がしたこと』
 音声を止める。
「『あの人』と言うのは、奥さん、あなたのことですね? 『あの人がしたこと』とは、どういうことでしょう?」
「きっと……慎一に私の悪い印象を植え付けたかったんだと思います。あの子、昔から嘘ばかりついていましたから。虐待や痴漢をでっち上げたり」
「そうですか。ではこれは」
 刑事はサラリと受け流し、続きを流した。
『信じてもらえなかったら?』
『信じてもらえるまで説明する。私は確実にあの家に戻りたいの』
『でも……』
『お願い、慎一。私、どうしてもあの家に戻りたいの』
 音声を止める。
「被害者は『戻る』という言葉を何度も使っていますね。それに、これより前、慎一くんは被害者のことを『母さん』と呼んでいます。これは一体どういうことでしょう」
「だから、あの女はそういう嘘をつくんですっ! 母親でもないのに母親だって嘘をついてっ……」
「本当に母親ではないんですか?」
「違いますっ! 慎一の母親はっ……」
「母親は? 誰なんですか? 山口信子さんですか?」
 刑事の目が鋭くなった。
「いえ、違います」
「では、誰なんですか?」
 気持ちを落ち着かせようと、鼻から大きく息を吐く。腋に汗が滲んだ。口を開くが、喉が拒んでいるかのように、閉塞している。
「誰なんですか?」
 わかってる。忘れもしない。桜井真奈美。あの女、たいした顔でもないくせに、私の好きな人と結婚して、家庭を築いて…………私が戻るのに、邪魔だった。