209号室

 まだ、頭が混乱している。円香さんは、なぜか俺を実の息子だと勘違いしている。
 でも俺は、あなたの息子じゃない。
 血のつながりがないと知っても、あなたは俺を愛してくれますか。
 山口信子の息子と知っても。

 山口静子に刺されたあの日、
「ごめんっ……純平くんっ……本当にごめんっ……俺のせいでっ……」
「……マホ……うっ……鏑、木の……スマホを……っ……回収……お前が、持って、くれっ……」
「鏑木のスマホ?」
「は、やくっ……山口の、家にっ……遺品っ……スマホ……山口、信子、の……スマホをっ……」
 神部は俺の指示に従い、鏑木のスマホと、山口静子のハンドバッグを持って出て行った。
 その直後だった。
 ポケットの中のスマホが鳴った。体を動かすと激痛が走って、やっとのことで画面を開いた時には切れてしまった。知らない番号だった。画面を見ていると、メールが届いた。
『ラプスの店長です!』
 という件名。メールを開く。
『この前話したブログが分かったので、URLを送ります! さっきの電話はそれを伝えたかっただけなので、気にしないでください!』
 神部が芸能人だから、俺の連絡先を伝えてあったのだ。
 朦朧としながら、URLをタップした。

『生まれてきてくれてありがとう日記』
◯月◯日
 今日は近所の子供達が公園で遊んでいた。みんな駆け回って楽しそう。大きくなったら、純平もあの中に入れるかな? 入らせてあげたいな。もっと働いて、純平の医療費を稼がなきゃ。

◯月◯日
 今日も純平は苦しそう。離乳食をすぐ戻しちゃう。丈夫に産んであげられなくてごめんなさい。でも、私を選んでくれてありがとう。世界でいちばん愛しい子。

◯月◯日
 K様、Y様、I様、いつもご支援ありがとうございます。貴方達の優しさに、私たち親子は救われています。

 添えられていた写真に、心臓を鷲掴みされたような衝撃を受けた。
「あ……っ」
 赤子の写真に目が釘付けになった。額に一センチほどの傷がある。
 そんなことが、
「大丈夫ですかっ! おいっ、奥にも人がいるぞっ!」
 周囲が騒がしくなってきた。でも別世界のようにどこまでも周囲の音が遠い。

◯月◯日
 雨が止んだら空に虹がかかっていた。もう一度、純平に逢いたい。あの小さな体を抱きしめたい。思いっきり外で遊ばせてあげたい。もっと生きたかったよね? 不甲斐ない母でごめんなさい。天国でたくさん遊んでね。

 また、赤子の写真が添えられていた。今度の写真はもっと傷跡が鮮明だった。
「大丈夫ですかっ! 担架持ってこいっ!」
「あ……あ、お……」
 うまく酸素を取り込むことができない。
「もう大丈夫ですからねっ……息を吸って……、少し体の向きを変えますね」
 俺は悶えるように救急隊員の手を振り払った。そして前髪をかき上げる。
 困惑する男に、自分の額を見せつけながら、言った。
「お、お……俺じゃ、ないっ……よな……っ」
 本当は確信していた。あの日記の『純平』は、俺だ。
「俺じゃ……ない、ですよね……?」
 俺はブログの中で母に……山口信子に殺されていた。


 結局、円香さんに本当のことは言えなかった。
 その日の夕方、部屋に二人組の刑事がやってきた。刺された状況や、犯人との関係などを聞かれ、俺は4年前の事件と共に話をした。
「きみは、鏑木慎一の罪を被ったんだよね?」
「えっ」
「鏑木円香……鏑木慎一のお母さんが、全て話してくれた。ドライブレコーダーの音声も聞かせてもらったよ。あの日、運転していたのは慎一くんで、きみは同乗者。しかも何度も『止まれ』と訴えていた」
 円香さんが……
「本当は犯人隠避罪って言って、身代わりになることも罪になるんだが、犯人隠避罪の時効は三年だから、すでに成立している。だから心配しなくていい」
「きみから詳しく話を聞くのは、鏑木慎一を正当に処分するためだ」
 もう一人の若い刑事が言った。
「鏑木を……逮捕するんですか?」
「罪を犯しているからね」
「他人に罪をなすり付けている分、重くなるだろうな」
「そんなっ……」
 そんなの、ダメだ。
「やめてくださいっ!」
 大きな声が出て、二人の刑事が目を丸くした。
「あいつに頼まれたわけじゃないっ! 俺がっ、望んで罪を被ったんですっ!」
 どうして俺は、こんなに必死にあいつを庇っているんだろう。
 遺族の心のケアをしろという俺の命令に、あいつなりに従ったからだろうか。
 今になって、鏑木を見捨てようとする円香さんの行動に、不信感を抱いたからだろうか。
 司法試験に合格し、弁護士になったあいつの人生を台無しにしたくないからだろうか。
 どれも正しいが、結局のところ、
「罪を被ったのは俺の意思ですっ!」
 それが事実だからだ。鏑木に頼まれたわけじゃない。俺が自分の意思で罪を被った。奪った。円香さんに恩を売りたくて。父に『父親失格』の烙印を押したくて。
 俺は自分の意思で正しい道を踏み外し、満足したのだ。
 その時の気持ちを思い出した。俺は、鏑木に命令できる立場じゃなかった。
 ベッドを抜け出す。腹部に強い痛みを感じ、その場にうずくまった。
「おいっ、きみっ、大丈夫かっ」
「鏑木は……どこですか……逮捕なんて、絶対しないでくださいっ……掘り起こさないでくださいっ……」
 駆け寄ってきた刑事に、縋りついた。
「あいつはもう……俺から罰を受けています……俺はっ……あいつを、理不尽な目に遭わせたっ……」
 自分の拳が目に入る。なぜか擦り剥けていた。
「っ……」
 あっ、と思い出し、胸がよじれた。山口静子に刺される前、俺は何度も鏑木を殴ったのだった。