307号室
 
 山口信子が、朝比奈純平の母親なんじゃないか。
 その可能性に、ゾッと背筋が凍りつく。
 奪おうとしたのは、あれが初めてではないんじゃないか。
 その前にも、朝比奈の父親を奪っているんじゃないか。母さん……鏑木円香に執着しているのなら、「純平」と同じ名前をつけたこともかろうじて理解できる。
 何より山口信子は、鏑木円香の息子が「純平」という名前であることを知っていた。
 あれは調べたのではなく、ずっと前から知っていたんじゃないか。
「お、俺はっ…………」
 ブワッと額に汗が噴き出した。
「俺、はっ……あ、朝比奈の……」母親を殺したんじゃないか。
 ウッと吐き気が込み上げ、上体が前のめりに傾ぐ。
「鏑木くんっ」
 神部が俺の背中をさすった。
「お、俺っ…………」
「大丈夫。まだそうと決まっただけじゃないだろ?」
「じゃあっ……誰なんだよっ……あいつの母親はっ……」
 恨めしげに神部を睨む。
「鏑木円香の息子は、お前なんだろう……?」
「……ああ、そうだよ」
「じゃあ、きっとそうだ。山口信子は、初めてじゃなかった……ずっと前にも、鏑木円香から、男を奪っていたんだ……お前の父親も……」
「どういうこと? 山口信子は……一体」
「あ、あの女はっ……母親だって嘘をついて、俺に近づいてきた…………俺たちの母親になるために……あ……あ、当て逃げすれば……父さんと関わるきっかけができるからって」
 神部が息をのむ。
「あ、あいつに……知られたら、どうしようっ……俺っ……あいつの母親をっ……」
「……黙っていればいい。純平くんは知らないんだろ?」
 あいつのことだ。知ったら黙っちゃいない。半殺しは確定だ。
「そんな……怯えなくたっていい。大丈夫。純平くんは母親を知りたいなんて思って……」
 何かに思い当たったかのように、神部がハッと息を詰めた。
「な、なんだよっ……」
「いや……」
「なんだよっ……怖いだろっ」
「俺たち、被害者について調べてたんだ。山口信子に子供がいるって分かって……その子供の行方を……」
「っ……」
 そうだった。償いとかなんとか……被害者遺族を立ち直らせるために…… 
「静子さん……」
 そういえば、静子さんは……
 朝比奈に殴られたのは、静子さんを東京観光に連れて行った日だ。自宅に招いたところへ、あいつが押しかけてきた。
 俺はスマホを操作した。
「誰にかけるの?」
「山口静子さん……俺、静子さんを家に招いていたんだ」
「その人なら……」
 神部が言いづらそうに口を開いた。
「……昨日、逮捕されたよ。純平くんを刺したんだ」
「え……」
「純平くんは無事だよ。でもきみと山口静子との関係とか、純平くんがきみを殴った経緯とか、後で警察に聞かれると思う」
「なんで……」
「俺、今から純平くんの病室に行くけど、一緒に行く?」
「行く」
 俺たちは朝比奈の病室、209号室へ向かった。院内とはいえ、顔面ゾンビの俺はもれなく好奇の視線に曝された。居た堪れずに俯くと、神部が言った。
「どうして純平くんに殴られたの?」
「……事故の直前、何を見たのか聞かれた。お前の知っていることを、全部話せと」
 そうだ。あいつはもう、あれがただの交通事故ではないことに気づいている。
「でも俺は、拒んだ。静子さんが家にいたから、追い払おうと……お前を見たら、静子さんが気分悪くなるからって……そんなようなことを言った」
「それでカチンときたわけか」
「……殺されるかと思った」
 思い出し、ブルリと身体が震えた。山口信子が実の母親だと知ったらあいつは……
 209号室にたどり着く。ドア横のプレートで、個室とわかった。
「純平くん……」
 中から、会話が聞こえてきた。ノックしようとした神部の手が止まる。
「ううん、純平……もう、純平でいいわよね? ……あなたは私の本当の子供なんだもの……純平……ごめんなさい……ひどい母親よね? あなたを置いていって、本当にごめんなさい……ごめんなさいっ……」
 ぐらりと眩暈がした。母……いや、もう母と呼んでいいのかわからない。あの事件の後から鏑木円香とはほとんど口をきかなくなった。
「私、母親失格よね……あなたが名乗った時、私、これは神様の仕業なんだと思ったわ。私はやっぱりあなたの母親。慎一ではなく、あなたの」
 ひゅっと喉が鳴った。
「純平っ……もう、円香さんなんて呼ばなくていい。私のこと、母さんって呼んでいいのよ? あなたが死にかけて、私、吹っ切れた。もう他人のフリなんかしたくない。あなたは私の子供。純平、お母さんを許してくれるわね?」
 グッと力強い手が俺の腕を掴む。引かれ、足がよろけた。抱き抱えられるように腰に手を回され、グングンと廊下を歩かされる。
「節穴だな」
 神部が言った。笑いを含んだような声音なのに、どこか悲しそうだった。
「純平くんは実の息子じゃないのに……あの人の目は節穴だっ……」
 神部も傷ついているのだと思うと、ほんの少し救われた。
「そうだな」
 慰めのつもりで同意する。
「ごめん、慎一くん……」
 神部は項垂れた。
「酷いことして、ごめん……殴ったりして、ごめん……っ」
「もういいよ」
 俺は軽く首を振り、それより、と続けた。
「……俺、あいつを脅してなんかない。あいつが勝手に俺の罪を被ったんだ」
 ああ、俺、罪を自白した。胸の中に、爽やかな風が通った気がした。
「きっと、鏑木円香を犯罪者の親にさせたくなかったんだ」
「…………ごめん」
 神部は心底申し訳なさそうに、掠れた声で言った。