あの日

 俺は、山口信子を『母さん』と登録していた。
 でもこの人は母じゃない。緊張しながら、応答した。
「もしもし」
『慎一、やっぱり、あなたには伝えておこうと思って』
 そばにいる朝比奈を気にしながら、「なに?」と問う。
『朝比奈純平って子が、その家に出入りしているでしょう?』
 ドキッとした。
「うん」
『実は彼ね……円香の子供なの』
 呼吸が止まった。どういう……ことだ。
『びっくりさせたわよね……でも、やっぱり伝えた方が良いと思って。だって……だってこのままじゃ、慎一の居場所、なくなっちゃう』
 朝比奈純平は、母の、実の子供……
 そんな筈はない、とは言い切れなかった。
 朝比奈が名乗った時、母さんはやけに驚いてなかったか。異常なほど、あいつが来るのを楽しみにしてなかったか。
 朝比奈は母さんの息子、だったのか。
 事実として認めると、胃の辺りで蠢いていた不安がスッと消え、体が軽くなった気がした。
 スマホを耳に当てたまま、白亜の家を振り返る。
 自分の居場所がどんどん失われていくような気がして、朝比奈のことが怖かった。
 でも、朝比奈は母さんの息子だった。思うと、今まで朝比奈と二人で分け合うべきものを、俺が一人で独占していたような気がして、なんとも言えない罪悪感が芽生えた。
『頻繁に来ているんでしょう? きっと乗っ取る気よ。私、そんなの絶対許さない。大丈夫。慎一がうまくやってくれたら、あとは私がなんとかするからね』
 電話口の向こうで、得体の知れない女が言った。
 乗っ取ろうとしているのは、あんたじゃないのか。
 俺の母親を名乗って、近づいて……
『慎一、待ってるからね』
「わかった。行くよ」
 返事をすると、吹っ切れた。
 玄関へと向かう朝比奈に、「おい」と声をかける。
「母さんは家にいないぞ」
 朝比奈が足を止め、振り返る。
「叔母の家にいるそうだ。迎えに行くから、お前も来い」

 山口信子をあれ以上、家族に近寄らせたくなかった。俺たちの家族構成を調べ上げ、当たり屋なんて思いつく女だ。
 車に乗り込む。朝比奈は後部座席に乗り込んだ。本当は前に乗って欲しかった。特等席で、俺の覚悟を見届けて欲しかった。でもまあ、車に乗ったのでよしとする。
 走り出してすぐ、雨が降り出した。山口信子は傘をさしているだろうか。そんなことを考える。さしている方が顔を見ずに済んで良いかもしれない。ああでも、別人を轢き殺したら大変だ。
 バックミラー越しに朝比奈を見る。自作自演にしては、やりすぎだ。
「その顔、誰にやられたんだ?」
「父だ」
「ふうん。お前の父親、クズだな」
 俺の父さんは良いだろう。一流大学を出て、ストレートで弁護士になった秀才だ。
「息子をそんなになるまで暴行するなんて」
 山口信子を、生かしておくわけにはいかない。俺はあの女に心を許し、家族の悩みを打ち明けた。それは、漢字ノートを他人に見られるような、耐え難い屈辱だった。
 殺すしかない。
 そんなことで殺意を抱く自分がおかしくて笑えた。クククッと肩が揺れる。
「おい、ちゃんと前を見て運転しろ」
 後部座席から文句が飛ぶ。
「お前が羨ましいよ」
 俺は母だと思った人が母じゃなかった。
 お前は母であってほしい人が母だった。
「親がそんだけクズなら、頑張る必要ないじゃないか。プレッシャーなんて感じたこともないんだろ」
 自分の意思で喋っているわけではなかった。自分の声が、ひどく他人事のように思えた。
「おい……今信号赤だっただろうっ!」
「期待に応えられない、自分の限界に気づいた時の絶望なんて、お前は知らないだろ。考えたこともないんだろ。良いよな。親がクズだと伸び伸びできて」
「だから遅くまで女と遊んで、親の金で豪遊しているのか。期待に応えられない自分と向き合うのが怖いから」
「…………」
「お前は幼稚だ。バカならせめて良い子でいろよ」
「バカって言うなっ!」
「俺が父親に殴られたのはな、バカって言ったからなんだ」
「…………」
「ははっ、あの人、気が触れたように殴ってきた。……俺は事実を言っただけなのに」
「親を見下してるんだな」
「どうしようもないクズだからな」
「自分の境遇に感謝するんだな。お前は自分が思っているよりずっと恵まれている」
「そうだな。あんな男に惚れる女だ。俺の母親はきっとろくでもないアバズレだろう。いなくなってくれて良かったよ。おかげで理想の母親を手に入れられる」
「……バカはお前だ」
「なんとでも言え。お前がなんと言おうと、俺はお前の家に通い続け、お前の家族に馴染んでいく」
 バカ野郎。唇が笑いの形に歪んだ。お前が理想と思っているあの人は、本当にお前の母親なんだよ。
 前方に、山口信子の姿が見えた。傘はさしていなかった。
 あれを殺せば、懲役だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ……でも、親の期待に応えられないのは、もっと嫌だ。得体の知れない女に弱味を握られているのは、もっともっと嫌だ。
 減速しない。加速して迫ってくる車に、山口信子がようやく身の危険を感じて両目を大きく見開いた。この光景を俺は生涯忘れることはないだろうと、一瞬のうちに悟った。
 ゴツン、と鈍い音と車体への衝撃。
「お、おいっ……止まれっ!」
 まだ、まだ……俺は懸命にアクセルを踏み続けた。中途半端が一番まずい。
「止まれっ!」
 返してやるよ。
「おいっ! 止まれっ! 早くっ!」
 お前の母親、返してやるよ。
 俺は、めいっぱいアクセルを踏み込んだ。ガタン、と車体が大きく跳ねる。
 きっと、死んだ。ガタガタと身体が震え出した。こんなことができるなら、もっと頑張ればよかった。K大に受かる努力をもっとちゃんとすれば良かった。