鏑木円香を一言で説明するなら、「節穴」だ。
 あの女は息子を見分けることができない。
 両親と血のつながりがないと知ったのは、小学2年生の時だった。
 父の浮気をきっかけに、両親の関係は悪くなった。離婚したら母についていくんだろうな、と漠然と思っていた俺は、どちらも俺を引き取りたがらないことに大きなショックを受けた。
「養子を迎えようって言い出したのはあなたじゃないっ! あなたが責任持って面倒みなさいよっ!」
「子供が欲しいと言っていたのはきみだろうっ!」
「私は自分の子供が欲しかったのっ!」
「今更そんなこと言い出すなんて卑怯だぞっ!」
「卑怯とは何よっ! 浮気相手妊娠させたくせにっ! どこまで私を侮辱すれば気が済むのよっ!」
「…………すまない」
「返してよっ!」
 その日、俺は生まれて初めて、痙攣を知った。自分の体が勝手に小刻みに震えて、どうすることもできなかった。
「私の人生、返してよっ!」
 結局、俺は母に引き取られた。血のつながりがないことを、俺は知らないフリをし続けた。聞いたらいけないんだと思った。
 でも母は、聞いてもいないのに教えてくれた。
「実はね、あなたは私の子供じゃないの。あなたには、本当のお母さんがいるの」
 母は、俺に何を期待していたんだろう。
「あなたのお母さんは、鏑木円香って言って、今は◯◯町に住んでいるの」
 血のつながりのないこの人を、母だと思っていいのだろうか。少なくともこの人は、俺を我が子だとは思っていない。
 俺は言われた住所へ向かった。庭付きの大きな一軒家。出てきたのは俺と同じくらいの少年だった。
 声は掛けなかった。まだ俺は、自分が何を目的に来たのかわからずにいた。
 何度も通った。通って、家族構成を理解した。俺が入る隙など、どこを探してもなかった。
 通えば通うほど、怒りが募った。俺を捨てて、鏑木円香は幸せな家庭を築いている……
 その日、俺は鏑木慎一の後を追った。仲良くなれば、家にあげてもらえるかもしれない。いきなり「息子です!」と名乗っても気味悪がられるだろうことは、小学3年生の俺でも理解していた。
 彼はホームセンターのコンテナに大量のノートを捨てた。話しかけるきっかけが欲しくて、俺はコンテナの中に入って、それを拾った。中を見れば、彼のことが分かるかもしれない。日記なんかだと嬉しい。
 けれど書かれていたのは、漢字だった。同じ文字が、何行にもわたって書かれている。
 これを褒めたら喜ぶんじゃないか。仲良くなれるんじゃないか。
 そんな期待を持って、「きみって勉強熱心なんだね」話しかけた。
 なのに彼はひどく怯えたような表情で、警戒するように俺を見た。
「すごいね。俺、こんなにたくさん書けないよ。慎一くんは頑張り屋さんなんだね」
「か、返してっ」
 彼が手を伸ばしてきた。
 私の人生、返してよっ!
 父に放った母の言葉が、彼の言葉と重なった。
「返してよっ!」
 綺麗にカットされた坊ちゃん刈り。白い肌。ぷっくりと膨らんだあどけない頬。愛らしい要素がその瞬間、目障りなものに裏返った。
 華奢な身体を、俺は思いっきり蹴飛ばした。その場にうずくまった彼を、何度も何度も、何度も何度も何度も何度も踏みつけ、痛ぶった。
 これは正当な権利だと思った。だってお前は、俺から母親を奪ったんだから。
 どうしたらそんなにサラサラな髪になるんだろう。母が切ってくれないから、俺は自分で髪を切るしかない。靴はキツいし靴下は穴が空いている。同級生に「臭い」と言われても自分じゃどうすることもできない!
「俺、朝比奈純平って言うんだ」
 泣きじゃくる彼に、俺は名乗った。どうか彼が母親に告げ口しますように。俺を捨てたことを悔やみますように。

307号室
「朝比奈純平は、俺なんだよ」
 鏑木慎一の狼狽は、まだらに変色し、腫れ上がった顔からも伝わってきた。
「俺が、きみを暴行したんだよ」
 短い間だが、俺は養子になる前、朝比奈純平という名前だった。
 だから朝比奈純平という大学生がひき逃げで逮捕されたというニュースを見たとき、他人事とは思えなかった。
 でも、所詮他人事だと思っていた。名前が同じというだけの、赤の他人。
 それでもどんな奴か知りたくて、裁判を傍聴しに行った。
 そして俺は、傍聴席に、信じられない人を見た。
 どうして、母が。俺を捨てた鏑木円香がそこに。
 朝比奈純平という被告人。まるで我が事のように項垂れる鏑木円香。
 それによく見れば、朝比奈純平は俺によく似ていた。奇妙なパラレル世界に迷い込んでしまったかのようだった。
 ただの同姓同名ではないのか?
 裁判が進んでいくにつれ、事件の全貌が明らかになってきた。
 朝比奈純平は、鏑木家に家庭教師として出入りしていて、事件の日、車には鏑木慎一が同乗していた。
 これは、鏑木慎一の復讐なんじゃないか。
 俺は昔、鏑木慎一を暴行した。その復讐として、鏑木は朝比奈純平に罪を着せたのではないか。
 ただの同姓同名の、朝比奈純平を俺と勘違いして……
 けれど朝比奈純平について調べると、父子家庭で、父は朝比奈仁……俺と同じであることがわかった。
 つまり彼と俺は異母兄弟。
 妙だと思った。普通、前妻との間にできた子供と、同じ名前をつけるだろうか?
 朝比奈仁と接触を試みたが、行方を掴むことはできなかった。
 だからそれ以上、追求することはできなかった。
 俺は九十度に頭を下げた。
「本当に、ごめんっ……謝って済むことじゃないのはわかってる。俺……きみのことが羨ましかったんだ。俺を捨てた鏑木円香のことが……憎かったんだ……本当にごめん……朝比奈純平は、俺の、腹違いの弟…………でもきみは俺だと思って……復讐のために彼に罪を着せた……だろ?」
 顔を上げると、鏑木はさらに困惑した顔をしていた。
「意味が…………じゃあ、あいつは、あんたの名前を名乗っている……ってことか?」
「違うっ」
 鏑木はビクッと肩を震わせた。
「同じ名前をつけられたんだ」
「……なんで?」
「それは俺にもわからない。鏑木円香が出て行った後、俺の父……朝比奈仁は俺を児童擁護施設に預けた。そしてなぜか、その後に出会った女との間にできた子供にも『純平』と名付けた」
「そんなこと……ふ、普通はしない」
「でもする奴がいた。どういうつもりか知らないけどな」
「だ、誰が……」
 鏑木の瞳が、怯えるように彷徨う。
 鏑木は伺うように俺を見た。恐々と聞く。
「……あ、あんたは、本当に母の……鏑木円香の子供なのか?」
「そうだよ。きみのノートを取って、きみを暴行した。でも、本当は仲良くしたかったんだ。きみに拒絶されて、ムカついて……ごめん。こんなのただの言い訳だよな」
 鏑木は震える息を吐いた。
「鏑木くん?」
 俺がいじめた時のことを思い出したのかも知れない。
「ごめん。嫌なこと思い出させちゃったね。……また来てもいいかな? これ、裏側に俺の連絡先が書いてあるから、困ったことがあれば」
 そう言って名刺をひっくり返した俺の手を、鏑木はパッと掴んだ。
「あ、あんたが……鏑木円香の子供なら……あいつは」
 鏑木は喘ぐように言った。息苦しいのか、肩が上下に揺れている。
「あ、あいつの母親は……だ、誰なんだ……」
 朝比奈純平の母親。
「それは……俺には、わからない」
「違うよなっ……」
 鏑木円香の後、朝比奈仁と結婚した女。
「山口信子じゃ、ないよなっ……」
「っ……」
 まるで確信しているような言い方だった。
「山口信子は、きみの母親じゃないのか?」
 もう一度聞く。彼はブンブンと狂ったように首を振った。
「違うっ……俺の母親は、桜井真奈美って人……山口信子は、赤の他人だっ」