山口信子とはSNSを通して繋がった。いわゆる裏垢というやつで、俺はネガティブな投稿しかしていなかった。鼻についた投稿には攻撃した。それが俺のストレス発散方法だった。当然イイネなど滅多につかない。
だから俺の投稿全てにイイネしてくるそのアカウントが、最初は気味が悪くて仕方がなかった。こっちは壁打ちで、別に誰かの反応が欲しくてやっているわけじゃない。
『あなたの精神状態が心配です。悩みがあるのなら一度、ご家族に話をされてはどうでしょう』
初めてそいつからコメントが来た時、反射的にブロックした。けれどすぐに考え直す。相手になってやるのもいいかもしれない。
『悩みが家族の場合は、誰に相談すればいいんでしょうか』
『私が聞きますよ』
不覚にも、グッと来てしまった。ただのSNSでのやりとり。相手は暇つぶしかもしれないし、揶揄っているだけかもしれない。
俺はバカなんです。父は優秀な弁護士で、俺も弁護士にならなければなりません。でも俺の頭じゃ司法試験なんか絶対に受からない
そこまで打ち込んで、一文字ずつ消していく。
『本当の母に会いたいです』
そのアカウントこそが山口信子、俺の母だった。
優しくて綺麗な実の母。山口信子と会う時間が楽しくて、欲しくて、恋人とも別れた。
どうして俺を捨てたの? とは聞けず、どうして家を出ていったの? と聞いた。
「本当はね、陽介と最初に付き合っていたのは円香なの。私は略奪……になるのかなあ。円香がいるのにアプローチしてきたのは陽介なのにね。円香とはそれっきり。私は陽介と結婚して、あなたを産んだ。本当に幸せだった」
でも、と山口信子は続けた。
「円香に脅されたの。死にたくなきゃ出ていってって。あれは本気だと思った。私、このままじゃ本当に殺されるって思った……ごめんなさい。信じられないわよね。私も、今思うとどうかしていたと思う。あんなの口だけに決まってる。でも私、すごく怖かったの。……母親失格よね。我が身を守るために、幼いあなたを置いていくなんて」
俺はその言葉を鵜呑みにした。山口信子のために、できることならなんでもしようと思った。
「俺、父さんに言ってやろうか」
「ううん。やめて。家を出ていった私が今こうやってあなたに近づいているんだと知ったら、あの人、怒ると思うから」
夜景の見えるボックス席。側から見れば、年の離れたカップルに見えただろう。俺の肩に寄りかかりながら、山口信子は「でも」と続けた。
「また、あの家に住みたいなあ」
「……俺も、か……母さんと一緒に住みたい」
初めて俺は、「母さん」と呼んだ。山口信子は俺の手を優しく握った。
「慎一、立派になったね」
反射的に首を横に振った。
「全然……俺なんか、全然立派じゃないよ。馬鹿だし、要領は悪いし、すぐ感情的になっちゃうし……」
「慎一は馬鹿じゃない。だって、K大生なんでしょう?」
壁打ちアカウントを、俺はK大生という設定でやっていた。無駄な見栄。虚しい嘘が、こんなところで邪魔をする。
「慎一は本当にすごい。私、あなたを誇りに思うわ」
あれは嘘だと打ち明けることは、どうしてもできなかった。
K大に落ちたと知った時の、父の失望したあの顔……
山口信子に嫌われたくない。出来のいい息子と思われたい。俺は、ねだられるままに、彼女にブランド物を買い与えた。
「ねえ慎一、私をひいて欲しいの」
車で彼女を自宅へ送っている時だった。
「え?」
「軽い怪我をする程度。ほら、中国人がよくやってるじゃない。当たり屋よ」
「……当たり屋?」
「そう。加害者と被害者になれば、陽介は私と関わらざるを得ない。そうしたら私、絶対あの人を落としてみせる」
「ごめん……言っている意味がよくわからない」
「もう一度家族になるのよ、私たち」
「家族……」
「そう。円香をあの家から追い出すの」
それで、当たり屋という発想になることが、俺には理解できなかった。
「だったら……俺、父さんに言うよ。あの人がしたこと」
「信じてもらえなかったら?」
「信じてもらえるまで説明する」
「私は確実にあの家に戻りたいの」
「でも……」
「お願い、慎一。私、どうしてもあの家に戻りたいの」
「軽い怪我だけで済まなかったらどうするの。そんなうまくいくわけないよ」
「大丈夫、私、何度も成功しているから。そんなに難しいことじゃないわ。赤の他人にも大怪我させられたことないんだもの。わかっていれば、絶対大丈夫よ」
「……そんなの、できないよ」
一度は断った。断ったのだ。
でもあいつが、朝比奈純平が俺の家にどんどん馴染んでいくから。
姫花に、
『私、純平さんみたいなお兄ちゃんが良かったな。勉強の教え方は上手いし、優しいし』
父さんに、
『司法試験に受かったら、うちの事務所で経験を積まないか』
あんな言葉を言わせるから、
俺の居場所を奪おうとするから、
だったら母さんに戻ってもらった方が良いと思って……
「やるよ」
引き受けてしまった。
けれどあの日、家を出ようとした時、固定電話が鳴った。
出るつもりはなかった。でもこういう時だから、もしかしたら啓示のようなものかもしれない。引き返せという知らせかもしれない。
「姫花ー、ちょっと出てくれるー?」
キッチンにいる母が背を向けたまま言った。
「俺が出るよ」
俺は玄関通路に置かれた電話台へ向かった。受話器を取る。
「はい」
『鏑木さんのお電話でしょうか』
事務的な男の声だった。
「……そうですが」
『私、〇〇警察署の内藤と申します。夜分に失礼します。お電話口は鏑木慎一さんでよろしいでしょうか』
警察? 眉を顰めながら「はい」と答える。
『お父様はいらっしゃいますか?』
「いませんが……」
キッチンにいる母が、振り返ってこちらを見る。
『そうですか。お父様と連絡が取れる電話番号を教えていただけますか』
本当に警察か? 疑い、黙っていると、電話口の男は言った。
『突然こんなことをお伝えされても驚かれるかと思います。実は昨日、山梨県で桜井真奈美さんのご遺体が発見されました。桜井真奈美さんは二十年前、あなたのお父様が失踪届を出しています。緊急連絡先にされていた電話番号が通じなかったので、こちらにかけさせていただきました』
ますます、意味がわからない。誰だ、桜井真奈美って。浮気相手か?
「あの……桜井真奈美さんというのは、誰なんですか?」
母が素早い動作で手を洗い、エプロンで手を拭きながら近づいてきた。
『……ご存知ないですか?』
「はい」
『桜井真奈美さんは、あなたのお母様です』
「お電話代わりました〜」
硬直した俺の手から、母がパッと受話器を取った。
「…………えっ……うっそ……本当ですか? …………はい、……はい」
通話が終わらないうちに、俺は逃げるように家を出た。
車に乗り込み、エンジンもかけていないのにハンドルを両手で強く握り込む。心臓がバクバクと激しく波打っていた。
馬鹿な……
『桜井真奈美さんは、あなたのお母様です』
そんな馬鹿なことが、あるか。
だって……じゃあ……だったら山口信子は?
答えが出ないまま、いったいどれくらいそうしていただろう。山口信子との約束の時間が迫っていた。当て逃げしてという、荒唐無稽な計画の時間が……
ダメだ。あの人は俺の母さんじゃない……かもしれない。
でも違うのなら、いったいなんのために母親を演じていた?
…………俺と親しくなるため? なってどうする?
『また、あの家に住みたいなあ』
ヒヤリとした。俺の家に、住むため?
流石に考えすぎかと思い直す。でも気味が悪いのは確かだった。関わりたくない。少なくとも今は。
そうだ、桜井真奈美について調べてみよう。
思い立ち、震える指先でスマホを操作した。「桜井真奈美」と打ち込むが、出てくるのは同姓同名のアイドルの記事ばかりだ。
次に、「桜井真奈美」「行方不明」と打ち込んでみるが、これも似たような結果だった。
やっぱり、さっきの電話はイタズラか……?
いや、イタズラなら、母がもっと不審がるはずだ。
もしかして……
「鏑木真奈美」「行方不明」と打ち込んでみる。すると記事ではないが、ブログや掲示板の中で、それらの単語が使われているものがヒットした。
『ナオの部屋』
◯月◯日
今日、近所のスーパーに行ったら、鏑木弁護士が慎一くんを抱いて情報提供を呼びかけていた。妻の真奈美さんが、◯月◯日から行方不明らしい。慎一くんはまだ一歳。一体何があったんだろう。無事に帰ってきますように……
コミュニティ掲示板サクラ『スマイル弁護士事務所について語ろう』
『ここの弁護士は無能。金ドブ』
『鏑木弁護士は愛想ナシ、弁護力ナシ、人情ナシのハズレ弁護士!』
『鏑木弁護士の妻、真奈美さんが行方不明。誘拐犯は依頼人!』
『馬鹿馬鹿しい。ただの夫婦喧嘩だろ』
無意識に息を止めていた。大きく息を吸って吐く。心臓が痛いくらいに波打っていた。
俺の母親は、桜井真奈美。山口信子は、赤の他人……赤の他人が、母親のフリをしていたのだ。
帰ろう。計画には、協力しない。結論が出て、車を降りた時だった。
ゾンビのように顔面を赤黒くした朝比奈純平がそこにいた。
息が止まった。あまりに痛々しい様が、自作自演にしか見えなかった。こいつも、乗っ取ろうとしている。
「何しに来た」
追い払わなければ。俺は、大股で奴に近寄った。
「まさか母さんに慰めてもらおうとしているのかっ……こんな時間にそんな顔でっ……お前、ずうずうしいぞっ」
「俺には母親がいないんだ」
カッと全身が燃え上がるように熱くなる。
「それがどうしたっ!」
胸ぐらを掴んだ。
「人んちで家族ごっこしようとすんなっ! ここは俺の家なんだよっ!」
「俺は、ここを自分の家だと思って欲しいと言われている」
ドクン、と心臓が跳ねた。
「姫花ちゃんをK大に行かせて、俺は司法試験に合格する。お前の家族の期待に、俺はお前に代わって応えていく」
予言のような口調に、寒気がした。俺はとても言えない。「司法試験に合格する」なんて、口が裂けても。
「俺には母親がいないんだ」
「だから……それがどうしたっ……」
朝比奈は、俺の目をまっすぐ見つめて言った。
「お前の母親、俺にくれよ」
今日、俺は、山口信子と協力して、母さんを追い出すつもりだった。
後ろめたい事情を見抜かれているような、居心地悪さを感じた。まるで責められているようだった。「お前にこの家の息子を名乗る資格はない」と。
「っ…………」
「ずっと欲しかったんだ。物心ついた時にはもういなかった。母親の愛情を、俺は知らないんだ」
こいつを家庭教師にしたのが間違いだった。
「……だったら知らないままでいろっ!」
朝比奈は玄関へと向かう。「待てよっ」と咄嗟に腕を掴んだ。
「お前の家はここじゃないっ!」
俺は車に向かって顎をしゃくった。
「家まで送ってやる……」
「いい」
その時スマホが鳴った。朝比奈から手を離し、ポケットからスマホを取り出す。「母さん」と表示された画面にゾッと背筋が凍りついた。でも朝比奈もその画面をチラリと見たのを、俺は見逃さなかった。これを利用しない手はない、と思った。
307号室
「山口信子は、きみの母親だったんだね」
男は自信を持って言う。
俺は「違う」とゆるくかぶりを振った。
山口信子は俺の母じゃない。俺の母は、山梨の山林で遺体で発見されたという桜井真奈美だ。
否定されると思わなかったのか、男は小さく首を傾げた。
「『母さん』って登録していたのに?」
「それよりお前は誰なんだ。まずは名を名乗るのが礼儀だろ」
「……神部晃」
鼻で笑った。神部晃は芸能人だ。もっとマシな嘘をつけ。
「本当だよ」
と言って、男は肩にかけていたカバンから財布を取り出し、運転免許証を引き抜いた。
テーブルにそれを置く。
「神部……純平……」
「下の名前は芸名なんだ。本名は神部純平」
神部はジッと俺を見る。些細な俺の反応も見逃すまいとするように。
あいつと同じ名前か、と思ったが、特別珍しい名前というわけでもない。
「それで? 神部晃がどうして俺のスマホを持っているんだ」
「たまたま純平くんと知り合ってね、あの事件について調べていたんだ」
「何が目的なんだ」
「自分でもわからない。ただ俺は、真実が知りたい。朝比奈純平が運転していたんだとは、どうしても思えないんだ。俺は、きみが罪を着せたんだと思ってる」
「馬鹿馬鹿しい」
「きみは山口信子と会っていた……あれはなんだったんだ。……もしかして、自殺か? 山口信子はきみを使って自殺した……のか?」
全然違う。あまりに事実からかけ離れた推理に、肩をゆすった。
「教えてくれっ……きみのせいで純平くんは四年も服役したっ! きみが罪を着せたんだろうっ! 昔、いじめられた腹いせにっ!」
「っ……」
なぜ、それを。
ハッとし、俺は名刺に視線を落とす。
神部純平、と口の中で繰り返す。
そういえば学生時代、朝比奈は神部晃に似ていると騒がれていた。
俺は神部をもう一度、目を凝らしてよく見る。表情が……神部は、苦しそうな顔をしていた。
「朝比奈純平は、俺なんだよ」
だから俺の投稿全てにイイネしてくるそのアカウントが、最初は気味が悪くて仕方がなかった。こっちは壁打ちで、別に誰かの反応が欲しくてやっているわけじゃない。
『あなたの精神状態が心配です。悩みがあるのなら一度、ご家族に話をされてはどうでしょう』
初めてそいつからコメントが来た時、反射的にブロックした。けれどすぐに考え直す。相手になってやるのもいいかもしれない。
『悩みが家族の場合は、誰に相談すればいいんでしょうか』
『私が聞きますよ』
不覚にも、グッと来てしまった。ただのSNSでのやりとり。相手は暇つぶしかもしれないし、揶揄っているだけかもしれない。
俺はバカなんです。父は優秀な弁護士で、俺も弁護士にならなければなりません。でも俺の頭じゃ司法試験なんか絶対に受からない
そこまで打ち込んで、一文字ずつ消していく。
『本当の母に会いたいです』
そのアカウントこそが山口信子、俺の母だった。
優しくて綺麗な実の母。山口信子と会う時間が楽しくて、欲しくて、恋人とも別れた。
どうして俺を捨てたの? とは聞けず、どうして家を出ていったの? と聞いた。
「本当はね、陽介と最初に付き合っていたのは円香なの。私は略奪……になるのかなあ。円香がいるのにアプローチしてきたのは陽介なのにね。円香とはそれっきり。私は陽介と結婚して、あなたを産んだ。本当に幸せだった」
でも、と山口信子は続けた。
「円香に脅されたの。死にたくなきゃ出ていってって。あれは本気だと思った。私、このままじゃ本当に殺されるって思った……ごめんなさい。信じられないわよね。私も、今思うとどうかしていたと思う。あんなの口だけに決まってる。でも私、すごく怖かったの。……母親失格よね。我が身を守るために、幼いあなたを置いていくなんて」
俺はその言葉を鵜呑みにした。山口信子のために、できることならなんでもしようと思った。
「俺、父さんに言ってやろうか」
「ううん。やめて。家を出ていった私が今こうやってあなたに近づいているんだと知ったら、あの人、怒ると思うから」
夜景の見えるボックス席。側から見れば、年の離れたカップルに見えただろう。俺の肩に寄りかかりながら、山口信子は「でも」と続けた。
「また、あの家に住みたいなあ」
「……俺も、か……母さんと一緒に住みたい」
初めて俺は、「母さん」と呼んだ。山口信子は俺の手を優しく握った。
「慎一、立派になったね」
反射的に首を横に振った。
「全然……俺なんか、全然立派じゃないよ。馬鹿だし、要領は悪いし、すぐ感情的になっちゃうし……」
「慎一は馬鹿じゃない。だって、K大生なんでしょう?」
壁打ちアカウントを、俺はK大生という設定でやっていた。無駄な見栄。虚しい嘘が、こんなところで邪魔をする。
「慎一は本当にすごい。私、あなたを誇りに思うわ」
あれは嘘だと打ち明けることは、どうしてもできなかった。
K大に落ちたと知った時の、父の失望したあの顔……
山口信子に嫌われたくない。出来のいい息子と思われたい。俺は、ねだられるままに、彼女にブランド物を買い与えた。
「ねえ慎一、私をひいて欲しいの」
車で彼女を自宅へ送っている時だった。
「え?」
「軽い怪我をする程度。ほら、中国人がよくやってるじゃない。当たり屋よ」
「……当たり屋?」
「そう。加害者と被害者になれば、陽介は私と関わらざるを得ない。そうしたら私、絶対あの人を落としてみせる」
「ごめん……言っている意味がよくわからない」
「もう一度家族になるのよ、私たち」
「家族……」
「そう。円香をあの家から追い出すの」
それで、当たり屋という発想になることが、俺には理解できなかった。
「だったら……俺、父さんに言うよ。あの人がしたこと」
「信じてもらえなかったら?」
「信じてもらえるまで説明する」
「私は確実にあの家に戻りたいの」
「でも……」
「お願い、慎一。私、どうしてもあの家に戻りたいの」
「軽い怪我だけで済まなかったらどうするの。そんなうまくいくわけないよ」
「大丈夫、私、何度も成功しているから。そんなに難しいことじゃないわ。赤の他人にも大怪我させられたことないんだもの。わかっていれば、絶対大丈夫よ」
「……そんなの、できないよ」
一度は断った。断ったのだ。
でもあいつが、朝比奈純平が俺の家にどんどん馴染んでいくから。
姫花に、
『私、純平さんみたいなお兄ちゃんが良かったな。勉強の教え方は上手いし、優しいし』
父さんに、
『司法試験に受かったら、うちの事務所で経験を積まないか』
あんな言葉を言わせるから、
俺の居場所を奪おうとするから、
だったら母さんに戻ってもらった方が良いと思って……
「やるよ」
引き受けてしまった。
けれどあの日、家を出ようとした時、固定電話が鳴った。
出るつもりはなかった。でもこういう時だから、もしかしたら啓示のようなものかもしれない。引き返せという知らせかもしれない。
「姫花ー、ちょっと出てくれるー?」
キッチンにいる母が背を向けたまま言った。
「俺が出るよ」
俺は玄関通路に置かれた電話台へ向かった。受話器を取る。
「はい」
『鏑木さんのお電話でしょうか』
事務的な男の声だった。
「……そうですが」
『私、〇〇警察署の内藤と申します。夜分に失礼します。お電話口は鏑木慎一さんでよろしいでしょうか』
警察? 眉を顰めながら「はい」と答える。
『お父様はいらっしゃいますか?』
「いませんが……」
キッチンにいる母が、振り返ってこちらを見る。
『そうですか。お父様と連絡が取れる電話番号を教えていただけますか』
本当に警察か? 疑い、黙っていると、電話口の男は言った。
『突然こんなことをお伝えされても驚かれるかと思います。実は昨日、山梨県で桜井真奈美さんのご遺体が発見されました。桜井真奈美さんは二十年前、あなたのお父様が失踪届を出しています。緊急連絡先にされていた電話番号が通じなかったので、こちらにかけさせていただきました』
ますます、意味がわからない。誰だ、桜井真奈美って。浮気相手か?
「あの……桜井真奈美さんというのは、誰なんですか?」
母が素早い動作で手を洗い、エプロンで手を拭きながら近づいてきた。
『……ご存知ないですか?』
「はい」
『桜井真奈美さんは、あなたのお母様です』
「お電話代わりました〜」
硬直した俺の手から、母がパッと受話器を取った。
「…………えっ……うっそ……本当ですか? …………はい、……はい」
通話が終わらないうちに、俺は逃げるように家を出た。
車に乗り込み、エンジンもかけていないのにハンドルを両手で強く握り込む。心臓がバクバクと激しく波打っていた。
馬鹿な……
『桜井真奈美さんは、あなたのお母様です』
そんな馬鹿なことが、あるか。
だって……じゃあ……だったら山口信子は?
答えが出ないまま、いったいどれくらいそうしていただろう。山口信子との約束の時間が迫っていた。当て逃げしてという、荒唐無稽な計画の時間が……
ダメだ。あの人は俺の母さんじゃない……かもしれない。
でも違うのなら、いったいなんのために母親を演じていた?
…………俺と親しくなるため? なってどうする?
『また、あの家に住みたいなあ』
ヒヤリとした。俺の家に、住むため?
流石に考えすぎかと思い直す。でも気味が悪いのは確かだった。関わりたくない。少なくとも今は。
そうだ、桜井真奈美について調べてみよう。
思い立ち、震える指先でスマホを操作した。「桜井真奈美」と打ち込むが、出てくるのは同姓同名のアイドルの記事ばかりだ。
次に、「桜井真奈美」「行方不明」と打ち込んでみるが、これも似たような結果だった。
やっぱり、さっきの電話はイタズラか……?
いや、イタズラなら、母がもっと不審がるはずだ。
もしかして……
「鏑木真奈美」「行方不明」と打ち込んでみる。すると記事ではないが、ブログや掲示板の中で、それらの単語が使われているものがヒットした。
『ナオの部屋』
◯月◯日
今日、近所のスーパーに行ったら、鏑木弁護士が慎一くんを抱いて情報提供を呼びかけていた。妻の真奈美さんが、◯月◯日から行方不明らしい。慎一くんはまだ一歳。一体何があったんだろう。無事に帰ってきますように……
コミュニティ掲示板サクラ『スマイル弁護士事務所について語ろう』
『ここの弁護士は無能。金ドブ』
『鏑木弁護士は愛想ナシ、弁護力ナシ、人情ナシのハズレ弁護士!』
『鏑木弁護士の妻、真奈美さんが行方不明。誘拐犯は依頼人!』
『馬鹿馬鹿しい。ただの夫婦喧嘩だろ』
無意識に息を止めていた。大きく息を吸って吐く。心臓が痛いくらいに波打っていた。
俺の母親は、桜井真奈美。山口信子は、赤の他人……赤の他人が、母親のフリをしていたのだ。
帰ろう。計画には、協力しない。結論が出て、車を降りた時だった。
ゾンビのように顔面を赤黒くした朝比奈純平がそこにいた。
息が止まった。あまりに痛々しい様が、自作自演にしか見えなかった。こいつも、乗っ取ろうとしている。
「何しに来た」
追い払わなければ。俺は、大股で奴に近寄った。
「まさか母さんに慰めてもらおうとしているのかっ……こんな時間にそんな顔でっ……お前、ずうずうしいぞっ」
「俺には母親がいないんだ」
カッと全身が燃え上がるように熱くなる。
「それがどうしたっ!」
胸ぐらを掴んだ。
「人んちで家族ごっこしようとすんなっ! ここは俺の家なんだよっ!」
「俺は、ここを自分の家だと思って欲しいと言われている」
ドクン、と心臓が跳ねた。
「姫花ちゃんをK大に行かせて、俺は司法試験に合格する。お前の家族の期待に、俺はお前に代わって応えていく」
予言のような口調に、寒気がした。俺はとても言えない。「司法試験に合格する」なんて、口が裂けても。
「俺には母親がいないんだ」
「だから……それがどうしたっ……」
朝比奈は、俺の目をまっすぐ見つめて言った。
「お前の母親、俺にくれよ」
今日、俺は、山口信子と協力して、母さんを追い出すつもりだった。
後ろめたい事情を見抜かれているような、居心地悪さを感じた。まるで責められているようだった。「お前にこの家の息子を名乗る資格はない」と。
「っ…………」
「ずっと欲しかったんだ。物心ついた時にはもういなかった。母親の愛情を、俺は知らないんだ」
こいつを家庭教師にしたのが間違いだった。
「……だったら知らないままでいろっ!」
朝比奈は玄関へと向かう。「待てよっ」と咄嗟に腕を掴んだ。
「お前の家はここじゃないっ!」
俺は車に向かって顎をしゃくった。
「家まで送ってやる……」
「いい」
その時スマホが鳴った。朝比奈から手を離し、ポケットからスマホを取り出す。「母さん」と表示された画面にゾッと背筋が凍りついた。でも朝比奈もその画面をチラリと見たのを、俺は見逃さなかった。これを利用しない手はない、と思った。
307号室
「山口信子は、きみの母親だったんだね」
男は自信を持って言う。
俺は「違う」とゆるくかぶりを振った。
山口信子は俺の母じゃない。俺の母は、山梨の山林で遺体で発見されたという桜井真奈美だ。
否定されると思わなかったのか、男は小さく首を傾げた。
「『母さん』って登録していたのに?」
「それよりお前は誰なんだ。まずは名を名乗るのが礼儀だろ」
「……神部晃」
鼻で笑った。神部晃は芸能人だ。もっとマシな嘘をつけ。
「本当だよ」
と言って、男は肩にかけていたカバンから財布を取り出し、運転免許証を引き抜いた。
テーブルにそれを置く。
「神部……純平……」
「下の名前は芸名なんだ。本名は神部純平」
神部はジッと俺を見る。些細な俺の反応も見逃すまいとするように。
あいつと同じ名前か、と思ったが、特別珍しい名前というわけでもない。
「それで? 神部晃がどうして俺のスマホを持っているんだ」
「たまたま純平くんと知り合ってね、あの事件について調べていたんだ」
「何が目的なんだ」
「自分でもわからない。ただ俺は、真実が知りたい。朝比奈純平が運転していたんだとは、どうしても思えないんだ。俺は、きみが罪を着せたんだと思ってる」
「馬鹿馬鹿しい」
「きみは山口信子と会っていた……あれはなんだったんだ。……もしかして、自殺か? 山口信子はきみを使って自殺した……のか?」
全然違う。あまりに事実からかけ離れた推理に、肩をゆすった。
「教えてくれっ……きみのせいで純平くんは四年も服役したっ! きみが罪を着せたんだろうっ! 昔、いじめられた腹いせにっ!」
「っ……」
なぜ、それを。
ハッとし、俺は名刺に視線を落とす。
神部純平、と口の中で繰り返す。
そういえば学生時代、朝比奈は神部晃に似ていると騒がれていた。
俺は神部をもう一度、目を凝らしてよく見る。表情が……神部は、苦しそうな顔をしていた。
「朝比奈純平は、俺なんだよ」


