朝比奈純平を一言で説明するなら、「強欲」だ。
俺にとってあいつは理不尽の塊だった。
自分の能力が人より劣っていると気付いたのは、小学3年生の時だった。
俺が通っていた小学校では、毎週漢字テストが行われていた。50題の出題範囲から、25問が出題されるそのテストは、満点が当然。みんな必死にテスト勉強に励んでいた……と思っていた。
そうでないと知ったのは、クラスメイトの一人が3問不正解し、担任教師が吊し上げのように叱る中で「あなたは書き取りが足りない! 最低1ページはやりなさい!」と言い放った時だった。
漢字の書き取りノートは、テストの日に担任に提出することになっている。叱られている彼が、1ページもやらないで23問も正解しているなんて、俺はとても信じられなかった。俺は同じ漢字を何行も書いて、模擬テストも行なっている。1ページもやらないでテストに臨むなど、怖くてできない。
「慎一君を見習いなさい」
担任教師が、ふいに俺の名前を出した。「漢字ノート」「3年1組鏑木慎一」と書かれたノートを、叱る彼にではなく、席につく生徒全員に見せつけるように掲げる。
「ほら見て。慎一君は毎週、こーんなにたくさん書き取りしています。今日、満点を取れなかった者は、慎一君を見習って、このくらい書き取りすること」
担任教師は、俺のノートをパラパラとめくった。
慎一くんすごーい、という声が、周囲から上がる。
全身が、かあっと熱くなるのが分かった。
間違えないように。みんなの前で叱られないように、必死に勉強したのに、この仕打ちはなんだ。こっちの方が、よっぽど恥ずかしいじゃないか。
「はい、みなさん。慎一君の頑張りに拍手」
担任教師に促され、クラスメイトが拍手する。辱めの拍手の中で、俺は恥ずかしさでいっぱいになった。本気で消えてしまいと思った。みんなが俺を馬鹿にしている。何ページーも書かなければ漢字を覚えることができない俺を。
それから俺は、担任教師に提出するノートとは別に、テスト対策用のノートを作った。自分が馬鹿である証拠は、誰にも見せたくなかった。
その日、俺は数十冊のノートをリュックに詰め込んで家を出た。二キロ先のホームセンターには雑紙や雑誌、ダンボールを捨てられるコンテナが設置されている。努力の証を、さっさと処分してしまいたかった。
紙紐でまとめたノートをコンテナに捨てた俺は、ついでにホームセンターで新しいノートを購入した。喉が渇いたから自動販売機でジュースを買って飲んだ。普段は飲ませてもらえない炭酸飲料は信じられないほど美味かった。
満たされた気持ちで家に帰り着いた時、「これ、きみのだよね」と声をかけられた。
それが朝比奈純平だった。
彼はなぜか、コンテナに捨てたはずのノートを持っていた。パラパラとノートをめくり、「きみって勉強熱心なんだね」と言った。
驚いて、俺は口が聞けなくなった。どうして初対面の男の子が、俺が捨てたノートをわざわざ拾ったりしたんだろう。そして何より、怖かった。そこには同じ漢字が何行にもわたって書かれている。
「すごいね。俺、こんなにたくさん書けないよ。慎一くんは頑張り屋さんなんだね」
バカにするな。
「か、返してっ」
俺が手を伸ばすと、友好的だった彼の目が、キッと吊り上がった。
「返してよっ!」
思いっきり腹を蹴られ、俺はその場に倒れ込んだ。突然のことに、思考が追いつかない。
うずくまった俺を、彼は何度も何度も蹴ってきた。こんな悪意に曝されたのは初めてだった。痛くて怖くて、涙がボロボロ溢れた。
「俺、朝比奈純平って言うんだ」
散々蹴ったあと、彼は名乗った。
「母親に言いつけな」
誰にやられたの? と母はひどく心配してくれた。
同じ年頃の少年に殴られたと言うのが恥ずかしくて、朝比奈純平という名を俺は口にしなかった。適当に「知らない男の人」と答えたら、予想外に大事になってしまった。家に警察が来て、色々聞かれたけれど、肝心のことを隠したせいで、あっさり嘘と見抜かれた。そうして警察官が出した結論は、「慎一くんはいじめられているのではないか」という、俺が最も受け入れ難い理由だった。
両親に不憫な子と認識されるのは、漢字ノートをクラスメイトに公開される以上の屈辱だった。
朝比奈純平は、それ以降俺の前に現れなかった。
大学三年、ゼミの名簿欄にその名を見つけた時、俺はこめかみを撃ち抜かれたような衝撃を受け、しばらく呆然とした。
あの日の記憶が、その名前を見たことで鮮明に思い起こされた。
なのにあいつは、俺を覚えちゃいなかった。あんなに俺を苦しめておきながら。
それも仕方ないかもしれない。あれから十年以上も経っていて、俺たちは子供から青年になった。顔立ちは別人並みに変わっている。
もしかしたら、俺の名前を知らないのかもしれない。だから名前を見てもピンとこないのだ。
でも家に呼べば……でも、どうやって呼ぶ? そうだ、こいつを家庭教師にしよう。
彼はまんまと俺の提案に乗った。それほど金に困っているのだ。
けれど彼は俺の家を見て、
『すごいな……こんなに大きな家が都内にあるなんて……』
まるで初めて来たかのような反応をした。
別人……?
俺は、そこで初めて自分の記憶を疑った。
『俺、朝比奈純平って言うんだ』
聞き間違えという可能性もある。なんせ小学生時代の出来事だ。
でも今更本人に確認などできるはずがなかった。別人と明らかになったら、嫌味や、足を踏みつけたことを謝らなければならない。過去の出来事など関係なしに、俺は朝比奈のことが嫌いだった。
朝比奈純平を見た時の第一印象は、みすぼらしい、だった。安物と一目でわかる服、伸ばしっぱなしの黒髪、すり減った靴……苦学生然たるその姿が、目障りで仕方なかった。
実家の財力が何よりの才能である俺と違って、奴には優れた頭脳がある。それがものすごく羨ましくて、妬ましい。努力しているのだと思う。でも、根本的な能力が優れていなければ、学費免除の特待生という称号は得られない。努力に結果がついてくるあいつには、努力を褒められる屈辱など、死んでもわからない。
俺が苦労して入った大和田ゼミに、あいつは大和田教授に頼み込まれて入ったらしい。
俺がなぜ大和田ゼミにこだわっていたのか知ったら、奴はどんな反応をするだろう。
馬鹿らしい、と一笑に付すだろうか。
大和田教授は海外でも講演するような著名人だ。俺は周囲に、大和田教授の元で勉強がしたくて、G大を受験したと話していた。K大に落ちたから、滑り止めで仕方なく入ったことを誤魔化すために。
姫花の家庭教師として働き出した後も、朝比奈は中華料理屋のアルバイトを辞めなかった。成績をキープしながら、働く。自分には逆立ちしたってできない。だから、無性にムカつく。
「それ、純平さんの」
顔を洗った後、側にあったタオルに手を伸ばした時だった。
「え?」
「それ、純平さんのタオル。お兄ちゃんはこっちでしょ」
授業時間を過ぎても、奴がうちに居座っていることは知っている。食事時に居合わせ、ちょっとした修羅場になった。あれから俺は、帰宅時間を大幅に遅らせるようにしていた。
「なんであいつのタオルがあるんだよ」
ムッとして問うと、姫花は信じられないことを口にした。
「靴、あったでしょ。昨日、純平さんうちに泊まったんだよ」
「は? お前ら出来てんの?」
「なっ! やめてよっ! 純平さんとはそういうんじゃないからっ!」
姫花はムキになった。付き合ってないにしろ、こいつは朝比奈のことが好きなのだと確信した。
「じゃあなんでうちに泊まってるんだよ」
「お父さんと遅くまで飲んだからよ」
指先がスッと冷えた。
父さんも気に入ったのか、あいつを。一体どんな会話をしているんだ。父との会話など、ちょっと記憶をあさっても出てこない。
「父さんとあいつが、なんの話をするんだよ」
「私が知るわけないじゃない」
次の週、俺は図らずも二人の会話を聞くこととなった。まさか週一の頻度で飲んでいるとは思わず、完全に不意打ちだった。
「そうか、きみは予備試験を受けるつもりなのか」
その日、泥酔とまではいかなくても、仲間たちと飲んだ帰りで、俺は適度に酔っていた。でも父の声で一気に酔いが覚めた。
「まさかG大に予備試験を目指すような優秀な学生がいるとはなあ」
食器、歯ブラシ、パジャマ……あいつのものばかりが増えていく。俺の存在がどんどん薄れていく。俺の居場所が失われていく……
「司法試験に受かったら、うちの事務所で経験を積まないか」
このままじゃ。
「慎一、家族になるのよ、私たち」
俺の拠り所は、山口信子だけだった。
「あの家から追い出すの」
強欲な人間と戦うには、彼女に従う、それしか方法はないと思った。
殴られたことで一時的に左目の視力を失った。顔面の筋肉が、思うように動かない。
サイドテーブルに手鏡が置かれていた。手を伸ばし、恐る恐る鏡を覗き込む。
ギョッとした。腫れ上がった顔面は造作が変わり、皮膚は赤黒く変色していて、首と全く違う。
「こんにちは、鏑木慎一くん」
鏡を見たまま硬直していると、病室に誰かがやってきた。右目を凝らすが、元々視力が悪い上、片目だけでは顔を判別することはできない。
口を開けると、ピリッと痛んだ。
「いいよ。無理に喋らなくて」
男はスマホをベッドのテーブルに置いた。
「きみのスマホだろ、返すよ」
言われてハッと息をのむ。
人の手に渡っていたと思うと恐ろしかった。素早く手に取り、ロックが解除されていたことにまた、不安を覚える。
「そのスマホ、中を見させてもらったよ。ごめんね、勝手にロック解除して」
男を見るが、やはり顔はわからない。
男はポケットからスマホを取り出し、操作した。
すると俺の手の中でスマホが鳴った。
「っ……」
息が止まる。急速に口の中が乾いてきた。呼吸がうまくできない。
俺が殺した女からの着信だった。
「きみは事故直前まで、何度も山口信子と会っていたね?」
あの日、俺は『軽く接触するだけ』という山口信子との約束を破って、アクセルを強く踏み込んだ。
画面からパッと目を逸らす。でも『母さん』と表示された画面が、脳裏に焼き付いて離れない。
「きみは実の母、山口信子を『母さん』と登録して、育ての母を『鏑木円香』と登録していた。そして事件直前、きみのスマホには『母さん』からの着信があった」
お前は誰だ。目だけで男に訴える。
「山口信子は、きみの母親だったんだね」
俺にとってあいつは理不尽の塊だった。
自分の能力が人より劣っていると気付いたのは、小学3年生の時だった。
俺が通っていた小学校では、毎週漢字テストが行われていた。50題の出題範囲から、25問が出題されるそのテストは、満点が当然。みんな必死にテスト勉強に励んでいた……と思っていた。
そうでないと知ったのは、クラスメイトの一人が3問不正解し、担任教師が吊し上げのように叱る中で「あなたは書き取りが足りない! 最低1ページはやりなさい!」と言い放った時だった。
漢字の書き取りノートは、テストの日に担任に提出することになっている。叱られている彼が、1ページもやらないで23問も正解しているなんて、俺はとても信じられなかった。俺は同じ漢字を何行も書いて、模擬テストも行なっている。1ページもやらないでテストに臨むなど、怖くてできない。
「慎一君を見習いなさい」
担任教師が、ふいに俺の名前を出した。「漢字ノート」「3年1組鏑木慎一」と書かれたノートを、叱る彼にではなく、席につく生徒全員に見せつけるように掲げる。
「ほら見て。慎一君は毎週、こーんなにたくさん書き取りしています。今日、満点を取れなかった者は、慎一君を見習って、このくらい書き取りすること」
担任教師は、俺のノートをパラパラとめくった。
慎一くんすごーい、という声が、周囲から上がる。
全身が、かあっと熱くなるのが分かった。
間違えないように。みんなの前で叱られないように、必死に勉強したのに、この仕打ちはなんだ。こっちの方が、よっぽど恥ずかしいじゃないか。
「はい、みなさん。慎一君の頑張りに拍手」
担任教師に促され、クラスメイトが拍手する。辱めの拍手の中で、俺は恥ずかしさでいっぱいになった。本気で消えてしまいと思った。みんなが俺を馬鹿にしている。何ページーも書かなければ漢字を覚えることができない俺を。
それから俺は、担任教師に提出するノートとは別に、テスト対策用のノートを作った。自分が馬鹿である証拠は、誰にも見せたくなかった。
その日、俺は数十冊のノートをリュックに詰め込んで家を出た。二キロ先のホームセンターには雑紙や雑誌、ダンボールを捨てられるコンテナが設置されている。努力の証を、さっさと処分してしまいたかった。
紙紐でまとめたノートをコンテナに捨てた俺は、ついでにホームセンターで新しいノートを購入した。喉が渇いたから自動販売機でジュースを買って飲んだ。普段は飲ませてもらえない炭酸飲料は信じられないほど美味かった。
満たされた気持ちで家に帰り着いた時、「これ、きみのだよね」と声をかけられた。
それが朝比奈純平だった。
彼はなぜか、コンテナに捨てたはずのノートを持っていた。パラパラとノートをめくり、「きみって勉強熱心なんだね」と言った。
驚いて、俺は口が聞けなくなった。どうして初対面の男の子が、俺が捨てたノートをわざわざ拾ったりしたんだろう。そして何より、怖かった。そこには同じ漢字が何行にもわたって書かれている。
「すごいね。俺、こんなにたくさん書けないよ。慎一くんは頑張り屋さんなんだね」
バカにするな。
「か、返してっ」
俺が手を伸ばすと、友好的だった彼の目が、キッと吊り上がった。
「返してよっ!」
思いっきり腹を蹴られ、俺はその場に倒れ込んだ。突然のことに、思考が追いつかない。
うずくまった俺を、彼は何度も何度も蹴ってきた。こんな悪意に曝されたのは初めてだった。痛くて怖くて、涙がボロボロ溢れた。
「俺、朝比奈純平って言うんだ」
散々蹴ったあと、彼は名乗った。
「母親に言いつけな」
誰にやられたの? と母はひどく心配してくれた。
同じ年頃の少年に殴られたと言うのが恥ずかしくて、朝比奈純平という名を俺は口にしなかった。適当に「知らない男の人」と答えたら、予想外に大事になってしまった。家に警察が来て、色々聞かれたけれど、肝心のことを隠したせいで、あっさり嘘と見抜かれた。そうして警察官が出した結論は、「慎一くんはいじめられているのではないか」という、俺が最も受け入れ難い理由だった。
両親に不憫な子と認識されるのは、漢字ノートをクラスメイトに公開される以上の屈辱だった。
朝比奈純平は、それ以降俺の前に現れなかった。
大学三年、ゼミの名簿欄にその名を見つけた時、俺はこめかみを撃ち抜かれたような衝撃を受け、しばらく呆然とした。
あの日の記憶が、その名前を見たことで鮮明に思い起こされた。
なのにあいつは、俺を覚えちゃいなかった。あんなに俺を苦しめておきながら。
それも仕方ないかもしれない。あれから十年以上も経っていて、俺たちは子供から青年になった。顔立ちは別人並みに変わっている。
もしかしたら、俺の名前を知らないのかもしれない。だから名前を見てもピンとこないのだ。
でも家に呼べば……でも、どうやって呼ぶ? そうだ、こいつを家庭教師にしよう。
彼はまんまと俺の提案に乗った。それほど金に困っているのだ。
けれど彼は俺の家を見て、
『すごいな……こんなに大きな家が都内にあるなんて……』
まるで初めて来たかのような反応をした。
別人……?
俺は、そこで初めて自分の記憶を疑った。
『俺、朝比奈純平って言うんだ』
聞き間違えという可能性もある。なんせ小学生時代の出来事だ。
でも今更本人に確認などできるはずがなかった。別人と明らかになったら、嫌味や、足を踏みつけたことを謝らなければならない。過去の出来事など関係なしに、俺は朝比奈のことが嫌いだった。
朝比奈純平を見た時の第一印象は、みすぼらしい、だった。安物と一目でわかる服、伸ばしっぱなしの黒髪、すり減った靴……苦学生然たるその姿が、目障りで仕方なかった。
実家の財力が何よりの才能である俺と違って、奴には優れた頭脳がある。それがものすごく羨ましくて、妬ましい。努力しているのだと思う。でも、根本的な能力が優れていなければ、学費免除の特待生という称号は得られない。努力に結果がついてくるあいつには、努力を褒められる屈辱など、死んでもわからない。
俺が苦労して入った大和田ゼミに、あいつは大和田教授に頼み込まれて入ったらしい。
俺がなぜ大和田ゼミにこだわっていたのか知ったら、奴はどんな反応をするだろう。
馬鹿らしい、と一笑に付すだろうか。
大和田教授は海外でも講演するような著名人だ。俺は周囲に、大和田教授の元で勉強がしたくて、G大を受験したと話していた。K大に落ちたから、滑り止めで仕方なく入ったことを誤魔化すために。
姫花の家庭教師として働き出した後も、朝比奈は中華料理屋のアルバイトを辞めなかった。成績をキープしながら、働く。自分には逆立ちしたってできない。だから、無性にムカつく。
「それ、純平さんの」
顔を洗った後、側にあったタオルに手を伸ばした時だった。
「え?」
「それ、純平さんのタオル。お兄ちゃんはこっちでしょ」
授業時間を過ぎても、奴がうちに居座っていることは知っている。食事時に居合わせ、ちょっとした修羅場になった。あれから俺は、帰宅時間を大幅に遅らせるようにしていた。
「なんであいつのタオルがあるんだよ」
ムッとして問うと、姫花は信じられないことを口にした。
「靴、あったでしょ。昨日、純平さんうちに泊まったんだよ」
「は? お前ら出来てんの?」
「なっ! やめてよっ! 純平さんとはそういうんじゃないからっ!」
姫花はムキになった。付き合ってないにしろ、こいつは朝比奈のことが好きなのだと確信した。
「じゃあなんでうちに泊まってるんだよ」
「お父さんと遅くまで飲んだからよ」
指先がスッと冷えた。
父さんも気に入ったのか、あいつを。一体どんな会話をしているんだ。父との会話など、ちょっと記憶をあさっても出てこない。
「父さんとあいつが、なんの話をするんだよ」
「私が知るわけないじゃない」
次の週、俺は図らずも二人の会話を聞くこととなった。まさか週一の頻度で飲んでいるとは思わず、完全に不意打ちだった。
「そうか、きみは予備試験を受けるつもりなのか」
その日、泥酔とまではいかなくても、仲間たちと飲んだ帰りで、俺は適度に酔っていた。でも父の声で一気に酔いが覚めた。
「まさかG大に予備試験を目指すような優秀な学生がいるとはなあ」
食器、歯ブラシ、パジャマ……あいつのものばかりが増えていく。俺の存在がどんどん薄れていく。俺の居場所が失われていく……
「司法試験に受かったら、うちの事務所で経験を積まないか」
このままじゃ。
「慎一、家族になるのよ、私たち」
俺の拠り所は、山口信子だけだった。
「あの家から追い出すの」
強欲な人間と戦うには、彼女に従う、それしか方法はないと思った。
殴られたことで一時的に左目の視力を失った。顔面の筋肉が、思うように動かない。
サイドテーブルに手鏡が置かれていた。手を伸ばし、恐る恐る鏡を覗き込む。
ギョッとした。腫れ上がった顔面は造作が変わり、皮膚は赤黒く変色していて、首と全く違う。
「こんにちは、鏑木慎一くん」
鏡を見たまま硬直していると、病室に誰かがやってきた。右目を凝らすが、元々視力が悪い上、片目だけでは顔を判別することはできない。
口を開けると、ピリッと痛んだ。
「いいよ。無理に喋らなくて」
男はスマホをベッドのテーブルに置いた。
「きみのスマホだろ、返すよ」
言われてハッと息をのむ。
人の手に渡っていたと思うと恐ろしかった。素早く手に取り、ロックが解除されていたことにまた、不安を覚える。
「そのスマホ、中を見させてもらったよ。ごめんね、勝手にロック解除して」
男を見るが、やはり顔はわからない。
男はポケットからスマホを取り出し、操作した。
すると俺の手の中でスマホが鳴った。
「っ……」
息が止まる。急速に口の中が乾いてきた。呼吸がうまくできない。
俺が殺した女からの着信だった。
「きみは事故直前まで、何度も山口信子と会っていたね?」
あの日、俺は『軽く接触するだけ』という山口信子との約束を破って、アクセルを強く踏み込んだ。
画面からパッと目を逸らす。でも『母さん』と表示された画面が、脳裏に焼き付いて離れない。
「きみは実の母、山口信子を『母さん』と登録して、育ての母を『鏑木円香』と登録していた。そして事件直前、きみのスマホには『母さん』からの着信があった」
お前は誰だ。目だけで男に訴える。
「山口信子は、きみの母親だったんだね」


