山口信子を一言で説明するなら、「執念」だ。
近所に住んでいた彼女は、よく私の家に遊びに来ていた。「これいいなあ」という彼女の口癖を、幼い私は素直に喜んだ。
「いいなあ、円香ちゃんは。お洋服もおもちゃもたくさんあって。おうちも広いし、ママも若いし。いいなあ」
信子はいつも同じ服を着ていたし、彼女の母親は白髪があって、おばあちゃんみたいだった。
信子は美しい少女だけれど、子供はみんな自分が可愛い。だから他人の容姿を羨ましいとは思わない。美しいだけの信子に自慢できるものは何もなかった。
「これ、いいなあ。ねえ円香ちゃん、私、これ着てみたい」
それは、ピアノの発表会用にデパートで買った水色のドレスだった。本当はピンクが良かったけれど、ママに「こっちの方が円香ちゃんに似合うわ」と言われて、しぶしぶ決めた色だ。
「いいよ」
「やったー」
細身の信子にそのドレスは大きかった。「ブカブカ」と手を上下させる信子を見て、私は嫌な気持ちになった。
「もう良いでしょ。脱いでよ」
「まだ着たばっかりじゃん。あ、そうだ。お姫様ごっこしようよ」
「いやよ。早く私のドレス返してよ」
「もうちょっと」
くるんと鏡に振り返った彼女にイラッとして、私は「返してっ!」とドレスの襟を掴んだ。
ビリリッ、と嫌な感触に慌てて手を離したけれど遅かった。ドレスの背中は無惨に破けてしまった。
ショックで泣いていると、やがてママがやってきた。「どうしたの?」と狼狽えるママに、信子は「私が悪いんです」と事情を説明した。
「ごめんなさい……」
「良いのよ。信子ちゃんは悪くないわ。ほら、円香ちゃんもそんなに泣かないの。本当はピンクのドレスが良かったんでしょう? 今度買いに行きましょう」
思わぬ提案に、涙が引っ込んだ。ママはにっこりと微笑んで、「おやつ持ってくるわね」と言って、部屋を出ていった。
「いいなあ、円香ちゃんママ。私も円香ちゃんママみたいなお母さんが欲しいなあ」
信子はいいことを思いついたというふうに、人形のような大きな目を輝かせて言った。
「ねえ、お母さん交換っこしようよ」
「え?」
「私のお母さん、円香ちゃんにあげる」
「い、いらないっ!」
反射的に答えた後で、とても失礼なことを言ったと気づいた。
内心焦ったけれど、信子は三日月型に目を細めて、「だよね」と笑った。
「私もいらなーい」
信子は歌うように言った。続いた「いいなあ、円香ちゃんは」という聞き慣れた言葉に、私は小学三年生ながら恐怖を覚えた。
子供だからこそ、恐怖を察知できたのかもしれない。
ママもパパも信子と仲良くしろという。私はもう、「いいなあ」という湿り気のある言葉を聞きたくなかったし、服やアクセサリーをベタベタ触られたくなかった。
正直にそう伝えると、人のいいママは信子に服を買い与えた。
「わあ、これ、私に? すっごく嬉しいっ! 円香ちゃんママ、本当にありがとうっ!」
信子は甘えるのがうまかった。ママは気をよくして、靴やカバンまで買い与えた。
その度に、信子の母親はうちへやってきて、恐縮した様子で礼を言った。そして必ず、「もう、高価なものは結構ですので」と弱々しく付け足した。
「信子ちゃんのお母さん、いらないって言ってたじゃん」
その日、信子のためにコートを買おうとしたママに、私は我慢できなくなり、言った。
「いらないなんて信子ちゃんは言わないわ。あ、見て、円香ちゃん。これ、裏地が花柄になってる。すごく可愛いと思わない? このダッフルコート、信子ちゃんきっと似合うと思うなあ」
仏頂面の私を見て、ママは私の機嫌を取ろうとしてか、手に持っていたダッフルコートを私の体に当てた。
「円香ちゃんもとってもよく似合う。すごいなあ円香ちゃん。可愛いからなんでも似合っちゃうね」
ママにそう言われて、単純な私はたちまち機嫌を良くした。
「円香ちゃん。円香ちゃんは、あんな大人になったらダメよ。ああなったら、何を着ても意味がないの。女の子は可愛くなくっちゃね」
信子の母親のことだとは、すぐには分からなかった。
「でも、信子ちゃんのお母さん、くすんだ色の作業着、よく似合ってたなあ。男の人の服なのに、すごいよね」
ママはよく、こうやって、明るい口調で、まるで褒めるように、他人を貶すことがあった。
ママが近所の人やママ友から嫌われていることを、私は薄々気づいていた。
「中川さん、一日中スーパーで働いて、すごいなあ。私、体が丈夫じゃないから、立ち仕事ってできないの。健康体で本当に羨ましい」
「いいなあ、加藤さん。私は男だらけの場所って苦手なの。気のない相手にも言い寄られちゃって。あんなにたくさん男の人が職場にいるのに、何も嫌なことされないんでしょ? それってすごいことだと思う」
大抵の人が曖昧に笑って速やかに会話を終わらせる中、信子だけはママの望む返答をした。
「信子ちゃんのお母さんって、自然体で素敵よね。私は白髪もシミも隠さないと気が済まないの。あんなふうに白髪だらけで外出できるなんて、信子ちゃんのお母さんは強くてかっこいいなあ」
「えーっ、あんな汚らしい姿、全然素敵じゃないよっ! 私、あんなのが母親なんてすっごく恥ずかしいっ! 円香ちゃんママみたいな、若くて可愛いお母さんが良いっ!」
「うふふ、ありがとう、信子ちゃん」
ママと信子は、気が合ったのだと思う。
信子が私の家で過ごす時間はどんどん増えていき、ついには「泊まりたい」と言い出した。
初めて信子の全身を見た時の衝撃を、私は一生忘れない。
彼女の体には、おびただしい数のつねったような痣があった。
「信子ちゃん……それっ」
居合わせた私のママに、信子は母親に暴力を振るわれていると涙ながらに訴えた。
私のママは警察に通報した。けれど信子の母親は逮捕されなかった。虐待は信子の自作自演で、信子は「円香ちゃん家の子になりたかった」と白状したらしい。
騒動の後、山口親子は町を去っていった。
ママは残念がっていたけれど、私は信子と離れられて嬉しかった。
全身に広がるつねった痕……私の家の子になるために、自ら皮膚をつねる彼女を思うと冷や汗が出た。「私もいらなーい」という彼女の言葉が恐ろしかった。
高校生になった私は、信子のことなんか、すっかり忘れていた。
だから友達に「この女だよ」と写真を見せられても、「山口信子」と名前を聞くまで分からなかった。
けれど聞いた瞬間、記憶は鮮やかに蘇った。全身のおびただしい痣、「いらなーい」という、歌うような声。
「この子が……三浦くんと一緒にいたの?」
私は震える声で聞いた。三浦くんというのは私の元カレで、二日前に別れを告げられたばかりだった。
「うん。三浦くん、部活に専念したいなんて嘘だよ。テニス部の子達が三浦くんがこの女とカラオケに入っていくの見たんだってさ。円香、浮気されてたんだよ。三浦くんに怒った方がいいよ。なんなら私が代わりに言ってもいいし」
「い、いいよっ……そんな……」
寒気がした。これはただの偶然だろうか。考えたらいけない気がして、私は初恋を忘れることにした。
再び信子の気配を感じたのは、高校二年の夏だった。
玄関ドアを開けようとすると、視線を感じる。パッと振り返っても誰もいない。そんな気持ち悪い視線を何度か感じ、今日こそはママに相談しようと心に決めた時だった。
「あのっ」
玄関先で、男に声を掛けられた。
大学生くらいの彼は、緊張した面持ちで言った。
「サラさんはいますか?」
「え?」
「ぼ、僕……サラさんにお金を貸しているんです。サラさんと話をさせてください。あのお金がないと僕……車の免許を取ることができないんです……」
「……あの、家を間違えていませんか? うちにサラという人はいません」
男は頬を歪めるようにして笑った。
「そんなはずない。僕はいつも、サラさんをこの家に送り届けていた」
男はズンズンと敷地内に入ってきた。
「サラさんに会わせてくださいっ!」
「うちは関係ありませんっ! サラなんて人っ」
知りません、と続けようとして、ふと記憶の蓋が開いた。人形遊びをするとき、信子は「サラ」という名前を使ってなかったか。本当は私が先に「サラ」という名前をつけたのに、信子は「私もサラにするー」と真似をした。だから私は違う名前にした。
「サラさんを知っているんですね? サラさんはどこにいるんですっ! 僕のお金を返してくださいっ!」
「知りませんっ!」
私は男を突き放して家に逃げ込んだ。その日に限ってママは不在だった。
「信子……あんたなの……?」
人知れず呟いた。
男はその後も何度かうちに来て、パパとママを困らせた。けれどサラという人物がうちと無関係だとわかると、「ご迷惑をおかけしました」と謝って、二度と来ることはなかった。
「一体なんだったのかしら」
両親は不思議がっていたけれど、私は信子の疑惑を話さなかった。疑惑を口にすることで、信子をより身近に感じる気がしたからだ。
東京の大学に進学したのは、信子から物理的に離れたかったからだ。直接的な関わりはなかったけれど、信子が私を意識していることは明らかだった。
私は一度だけ、信子を見たことがあった。大学受験を控えた冬のことだ。同級生が揃ってバーバリーのマフラーをする中で、私はエルメスのカシミアのマフラーを巻いて通学していた。いつものようにホームで電車が来るのを待っていると、向かいのホームに私と同じマフラーを巻いた女子高生を見つけた。
見つけたというより、自然と目がいったのだ。
彼女は両手で顔を覆っていて、周りには大勢の大人がいた。そばで誰かが「痴漢じゃね?」と言った。
すぐに電車が入ってきて、その光景は見えなくなった。
その時は、私と同じマフラーなんて珍しいなと思っただけだった。
でもある時、
「信子ちゃーんっ!」
ドキリとして振り返ると、声の主は手を振りながら私に駆け寄ってきた。彼女は私を見て狼狽え、バツが悪そうに手を下げた。
「すみません、間違えました」
「なんで」
初対面の相手に、私は強い口調で問いかけた。
「なんで間違えたの。誰と間違えたのっ」
相手は私の勢いに気圧された様子で、「信子ちゃんと、同じマフラーをしていたから」と答えた。
サッと血の気が引いた。
周囲を見回し、私はその場から逃げ出した。
ただただ、恐ろしかった。
…………けれど今は、恐怖よりも怒りが勝った。
東京の大学に進学した私は、今が人生のピークと言ってもいいくらい、充実した毎日を送っていた。彼氏は弁護士志望のお坊ちゃんで、高身長で顔が良い。その上車持ちだ。ブランド物で着飾るよりも、彼氏の高級車に乗っている方がずっと気分がいいことを、二十一歳で私は知った。
邪魔しないでよ、と思った。
私の視界に入らないで。よりにもよって、鏑木くんとのデート中に。
「円香?」
鏑木くんが、足を止めた私に不思議そうに問う。
南青山のインテリアショップだった。
明るく開放的な店内には、おしゃれな北欧雑貨や家具が並んでいる。流れているのは流行曲のジャズアレンジだ。本屋とカフェも併設されていて、テラス席には犬連れの客がコーヒーを飲んでいる。揃いのマグカップと写真立てを購入し、ちょっと休んでいこうかとカフェに入ろうとした時だった。信子を見つけたのは。
信子は一人で二人掛けの席にいた。白色のブラウスに丈の長いスカート。いかにも清楚なお嬢様という雰囲気だ。鏑木くんがロングヘアの方が好きと言ったから、私は髪を伸ばしている。やっと肩につく程伸びた。けれど信子には敵わない。彼女の黒髪は胸が隠れるほど長く、それでいて艶やかだった。
「やっぱり違う店にしよ」
私は出来る限り明るい声で言った。彼を信子から遠ざけなければ。
「でも、ここのパンケーキが食べたかったんじゃないの?」
「いいからっ」
しがみつくように彼の腕を掴んでインテリア売り場に引き返す。
「どうしたの? 円香?」
必死だった。こんな素敵な人を、あの女に渡したくない。本当は「サラ」という名前で人形遊びがしたかった。初恋の人ともっと付き合っていたかった。今度は絶対、譲らない。
「あの」
なぜ足を止めてしまったんだろう。
先に振り返ったのは鏑木くんだった。信子の美貌に彼がハッと目を見開いたのを、私は見逃さなかった。
「円香ちゃんの物ってね、なんでも素敵に見えるの」
鏑木くんに振られた翌日、信子と会った。
駅のトイレだった。信子は鏡を見ながら口紅を塗っていた。私のカバンにも、同じメーカーの口紅が入っている。
「覚えてる? エルメスのマフラー。私ね、円香ちゃんがしてるの見て、絶対同じのが欲しいって思ったの。すごく高くてびっくりしたけど、どうしても諦めきれなかった」
「だから……人から騙し取ったお金で買ったの?」
今でも鮮明に覚えている。私の家を信子の家と勘違いして、若い男が押しかけてきたことを。
「痴漢だってでっち上げでしょうっ! 私、あんたがやってきたこと、全部知ってるんだからっ!」
エルメスのマフラーを目印に私に声を掛けてきたのは、信子の友達だけではなかった。
痴漢の犯人とされた男も、私を信子と間違えて声を掛けてきた。
なあ、本当のことを言ってくれっ! 金なら返してくれなくていいっ! なんならプラスで払ってもいいっ! だから真実を話してくれっ! 誤解を解いてくれっ!
「全部知ってるわけがない。私、もっといろんなことしてるもの」
信子は悪びれる様子もなくそう言うと、口紅を塗った唇をンパッと整えた。
カッと血液が怒りで沸いた。私は信子に掴み掛かった。
「ねえっ、鏑木くんを返してよっ! あんたなら他にいくらでも良い人が見つかるでしょうっ!?」
「私ね」
信子は、綺麗な顔に似つかわしくない、ニヤニヤと邪悪な笑みを浮かべて言った。
「円香ちゃんの物にしか興味がないの」
近所に住んでいた彼女は、よく私の家に遊びに来ていた。「これいいなあ」という彼女の口癖を、幼い私は素直に喜んだ。
「いいなあ、円香ちゃんは。お洋服もおもちゃもたくさんあって。おうちも広いし、ママも若いし。いいなあ」
信子はいつも同じ服を着ていたし、彼女の母親は白髪があって、おばあちゃんみたいだった。
信子は美しい少女だけれど、子供はみんな自分が可愛い。だから他人の容姿を羨ましいとは思わない。美しいだけの信子に自慢できるものは何もなかった。
「これ、いいなあ。ねえ円香ちゃん、私、これ着てみたい」
それは、ピアノの発表会用にデパートで買った水色のドレスだった。本当はピンクが良かったけれど、ママに「こっちの方が円香ちゃんに似合うわ」と言われて、しぶしぶ決めた色だ。
「いいよ」
「やったー」
細身の信子にそのドレスは大きかった。「ブカブカ」と手を上下させる信子を見て、私は嫌な気持ちになった。
「もう良いでしょ。脱いでよ」
「まだ着たばっかりじゃん。あ、そうだ。お姫様ごっこしようよ」
「いやよ。早く私のドレス返してよ」
「もうちょっと」
くるんと鏡に振り返った彼女にイラッとして、私は「返してっ!」とドレスの襟を掴んだ。
ビリリッ、と嫌な感触に慌てて手を離したけれど遅かった。ドレスの背中は無惨に破けてしまった。
ショックで泣いていると、やがてママがやってきた。「どうしたの?」と狼狽えるママに、信子は「私が悪いんです」と事情を説明した。
「ごめんなさい……」
「良いのよ。信子ちゃんは悪くないわ。ほら、円香ちゃんもそんなに泣かないの。本当はピンクのドレスが良かったんでしょう? 今度買いに行きましょう」
思わぬ提案に、涙が引っ込んだ。ママはにっこりと微笑んで、「おやつ持ってくるわね」と言って、部屋を出ていった。
「いいなあ、円香ちゃんママ。私も円香ちゃんママみたいなお母さんが欲しいなあ」
信子はいいことを思いついたというふうに、人形のような大きな目を輝かせて言った。
「ねえ、お母さん交換っこしようよ」
「え?」
「私のお母さん、円香ちゃんにあげる」
「い、いらないっ!」
反射的に答えた後で、とても失礼なことを言ったと気づいた。
内心焦ったけれど、信子は三日月型に目を細めて、「だよね」と笑った。
「私もいらなーい」
信子は歌うように言った。続いた「いいなあ、円香ちゃんは」という聞き慣れた言葉に、私は小学三年生ながら恐怖を覚えた。
子供だからこそ、恐怖を察知できたのかもしれない。
ママもパパも信子と仲良くしろという。私はもう、「いいなあ」という湿り気のある言葉を聞きたくなかったし、服やアクセサリーをベタベタ触られたくなかった。
正直にそう伝えると、人のいいママは信子に服を買い与えた。
「わあ、これ、私に? すっごく嬉しいっ! 円香ちゃんママ、本当にありがとうっ!」
信子は甘えるのがうまかった。ママは気をよくして、靴やカバンまで買い与えた。
その度に、信子の母親はうちへやってきて、恐縮した様子で礼を言った。そして必ず、「もう、高価なものは結構ですので」と弱々しく付け足した。
「信子ちゃんのお母さん、いらないって言ってたじゃん」
その日、信子のためにコートを買おうとしたママに、私は我慢できなくなり、言った。
「いらないなんて信子ちゃんは言わないわ。あ、見て、円香ちゃん。これ、裏地が花柄になってる。すごく可愛いと思わない? このダッフルコート、信子ちゃんきっと似合うと思うなあ」
仏頂面の私を見て、ママは私の機嫌を取ろうとしてか、手に持っていたダッフルコートを私の体に当てた。
「円香ちゃんもとってもよく似合う。すごいなあ円香ちゃん。可愛いからなんでも似合っちゃうね」
ママにそう言われて、単純な私はたちまち機嫌を良くした。
「円香ちゃん。円香ちゃんは、あんな大人になったらダメよ。ああなったら、何を着ても意味がないの。女の子は可愛くなくっちゃね」
信子の母親のことだとは、すぐには分からなかった。
「でも、信子ちゃんのお母さん、くすんだ色の作業着、よく似合ってたなあ。男の人の服なのに、すごいよね」
ママはよく、こうやって、明るい口調で、まるで褒めるように、他人を貶すことがあった。
ママが近所の人やママ友から嫌われていることを、私は薄々気づいていた。
「中川さん、一日中スーパーで働いて、すごいなあ。私、体が丈夫じゃないから、立ち仕事ってできないの。健康体で本当に羨ましい」
「いいなあ、加藤さん。私は男だらけの場所って苦手なの。気のない相手にも言い寄られちゃって。あんなにたくさん男の人が職場にいるのに、何も嫌なことされないんでしょ? それってすごいことだと思う」
大抵の人が曖昧に笑って速やかに会話を終わらせる中、信子だけはママの望む返答をした。
「信子ちゃんのお母さんって、自然体で素敵よね。私は白髪もシミも隠さないと気が済まないの。あんなふうに白髪だらけで外出できるなんて、信子ちゃんのお母さんは強くてかっこいいなあ」
「えーっ、あんな汚らしい姿、全然素敵じゃないよっ! 私、あんなのが母親なんてすっごく恥ずかしいっ! 円香ちゃんママみたいな、若くて可愛いお母さんが良いっ!」
「うふふ、ありがとう、信子ちゃん」
ママと信子は、気が合ったのだと思う。
信子が私の家で過ごす時間はどんどん増えていき、ついには「泊まりたい」と言い出した。
初めて信子の全身を見た時の衝撃を、私は一生忘れない。
彼女の体には、おびただしい数のつねったような痣があった。
「信子ちゃん……それっ」
居合わせた私のママに、信子は母親に暴力を振るわれていると涙ながらに訴えた。
私のママは警察に通報した。けれど信子の母親は逮捕されなかった。虐待は信子の自作自演で、信子は「円香ちゃん家の子になりたかった」と白状したらしい。
騒動の後、山口親子は町を去っていった。
ママは残念がっていたけれど、私は信子と離れられて嬉しかった。
全身に広がるつねった痕……私の家の子になるために、自ら皮膚をつねる彼女を思うと冷や汗が出た。「私もいらなーい」という彼女の言葉が恐ろしかった。
高校生になった私は、信子のことなんか、すっかり忘れていた。
だから友達に「この女だよ」と写真を見せられても、「山口信子」と名前を聞くまで分からなかった。
けれど聞いた瞬間、記憶は鮮やかに蘇った。全身のおびただしい痣、「いらなーい」という、歌うような声。
「この子が……三浦くんと一緒にいたの?」
私は震える声で聞いた。三浦くんというのは私の元カレで、二日前に別れを告げられたばかりだった。
「うん。三浦くん、部活に専念したいなんて嘘だよ。テニス部の子達が三浦くんがこの女とカラオケに入っていくの見たんだってさ。円香、浮気されてたんだよ。三浦くんに怒った方がいいよ。なんなら私が代わりに言ってもいいし」
「い、いいよっ……そんな……」
寒気がした。これはただの偶然だろうか。考えたらいけない気がして、私は初恋を忘れることにした。
再び信子の気配を感じたのは、高校二年の夏だった。
玄関ドアを開けようとすると、視線を感じる。パッと振り返っても誰もいない。そんな気持ち悪い視線を何度か感じ、今日こそはママに相談しようと心に決めた時だった。
「あのっ」
玄関先で、男に声を掛けられた。
大学生くらいの彼は、緊張した面持ちで言った。
「サラさんはいますか?」
「え?」
「ぼ、僕……サラさんにお金を貸しているんです。サラさんと話をさせてください。あのお金がないと僕……車の免許を取ることができないんです……」
「……あの、家を間違えていませんか? うちにサラという人はいません」
男は頬を歪めるようにして笑った。
「そんなはずない。僕はいつも、サラさんをこの家に送り届けていた」
男はズンズンと敷地内に入ってきた。
「サラさんに会わせてくださいっ!」
「うちは関係ありませんっ! サラなんて人っ」
知りません、と続けようとして、ふと記憶の蓋が開いた。人形遊びをするとき、信子は「サラ」という名前を使ってなかったか。本当は私が先に「サラ」という名前をつけたのに、信子は「私もサラにするー」と真似をした。だから私は違う名前にした。
「サラさんを知っているんですね? サラさんはどこにいるんですっ! 僕のお金を返してくださいっ!」
「知りませんっ!」
私は男を突き放して家に逃げ込んだ。その日に限ってママは不在だった。
「信子……あんたなの……?」
人知れず呟いた。
男はその後も何度かうちに来て、パパとママを困らせた。けれどサラという人物がうちと無関係だとわかると、「ご迷惑をおかけしました」と謝って、二度と来ることはなかった。
「一体なんだったのかしら」
両親は不思議がっていたけれど、私は信子の疑惑を話さなかった。疑惑を口にすることで、信子をより身近に感じる気がしたからだ。
東京の大学に進学したのは、信子から物理的に離れたかったからだ。直接的な関わりはなかったけれど、信子が私を意識していることは明らかだった。
私は一度だけ、信子を見たことがあった。大学受験を控えた冬のことだ。同級生が揃ってバーバリーのマフラーをする中で、私はエルメスのカシミアのマフラーを巻いて通学していた。いつものようにホームで電車が来るのを待っていると、向かいのホームに私と同じマフラーを巻いた女子高生を見つけた。
見つけたというより、自然と目がいったのだ。
彼女は両手で顔を覆っていて、周りには大勢の大人がいた。そばで誰かが「痴漢じゃね?」と言った。
すぐに電車が入ってきて、その光景は見えなくなった。
その時は、私と同じマフラーなんて珍しいなと思っただけだった。
でもある時、
「信子ちゃーんっ!」
ドキリとして振り返ると、声の主は手を振りながら私に駆け寄ってきた。彼女は私を見て狼狽え、バツが悪そうに手を下げた。
「すみません、間違えました」
「なんで」
初対面の相手に、私は強い口調で問いかけた。
「なんで間違えたの。誰と間違えたのっ」
相手は私の勢いに気圧された様子で、「信子ちゃんと、同じマフラーをしていたから」と答えた。
サッと血の気が引いた。
周囲を見回し、私はその場から逃げ出した。
ただただ、恐ろしかった。
…………けれど今は、恐怖よりも怒りが勝った。
東京の大学に進学した私は、今が人生のピークと言ってもいいくらい、充実した毎日を送っていた。彼氏は弁護士志望のお坊ちゃんで、高身長で顔が良い。その上車持ちだ。ブランド物で着飾るよりも、彼氏の高級車に乗っている方がずっと気分がいいことを、二十一歳で私は知った。
邪魔しないでよ、と思った。
私の視界に入らないで。よりにもよって、鏑木くんとのデート中に。
「円香?」
鏑木くんが、足を止めた私に不思議そうに問う。
南青山のインテリアショップだった。
明るく開放的な店内には、おしゃれな北欧雑貨や家具が並んでいる。流れているのは流行曲のジャズアレンジだ。本屋とカフェも併設されていて、テラス席には犬連れの客がコーヒーを飲んでいる。揃いのマグカップと写真立てを購入し、ちょっと休んでいこうかとカフェに入ろうとした時だった。信子を見つけたのは。
信子は一人で二人掛けの席にいた。白色のブラウスに丈の長いスカート。いかにも清楚なお嬢様という雰囲気だ。鏑木くんがロングヘアの方が好きと言ったから、私は髪を伸ばしている。やっと肩につく程伸びた。けれど信子には敵わない。彼女の黒髪は胸が隠れるほど長く、それでいて艶やかだった。
「やっぱり違う店にしよ」
私は出来る限り明るい声で言った。彼を信子から遠ざけなければ。
「でも、ここのパンケーキが食べたかったんじゃないの?」
「いいからっ」
しがみつくように彼の腕を掴んでインテリア売り場に引き返す。
「どうしたの? 円香?」
必死だった。こんな素敵な人を、あの女に渡したくない。本当は「サラ」という名前で人形遊びがしたかった。初恋の人ともっと付き合っていたかった。今度は絶対、譲らない。
「あの」
なぜ足を止めてしまったんだろう。
先に振り返ったのは鏑木くんだった。信子の美貌に彼がハッと目を見開いたのを、私は見逃さなかった。
「円香ちゃんの物ってね、なんでも素敵に見えるの」
鏑木くんに振られた翌日、信子と会った。
駅のトイレだった。信子は鏡を見ながら口紅を塗っていた。私のカバンにも、同じメーカーの口紅が入っている。
「覚えてる? エルメスのマフラー。私ね、円香ちゃんがしてるの見て、絶対同じのが欲しいって思ったの。すごく高くてびっくりしたけど、どうしても諦めきれなかった」
「だから……人から騙し取ったお金で買ったの?」
今でも鮮明に覚えている。私の家を信子の家と勘違いして、若い男が押しかけてきたことを。
「痴漢だってでっち上げでしょうっ! 私、あんたがやってきたこと、全部知ってるんだからっ!」
エルメスのマフラーを目印に私に声を掛けてきたのは、信子の友達だけではなかった。
痴漢の犯人とされた男も、私を信子と間違えて声を掛けてきた。
なあ、本当のことを言ってくれっ! 金なら返してくれなくていいっ! なんならプラスで払ってもいいっ! だから真実を話してくれっ! 誤解を解いてくれっ!
「全部知ってるわけがない。私、もっといろんなことしてるもの」
信子は悪びれる様子もなくそう言うと、口紅を塗った唇をンパッと整えた。
カッと血液が怒りで沸いた。私は信子に掴み掛かった。
「ねえっ、鏑木くんを返してよっ! あんたなら他にいくらでも良い人が見つかるでしょうっ!?」
「私ね」
信子は、綺麗な顔に似つかわしくない、ニヤニヤと邪悪な笑みを浮かべて言った。
「円香ちゃんの物にしか興味がないの」


