「何でこんなこと…」
聞きながら声が震えているのを感じた。
椿の手が此方に伸びてくるのと同時に腕を掴まれる。
触られた部分から、ずしりと重くなるような嫌な感覚が広がる。
「離して!」
柚が叫ぶのとほぼ同時に「柚ちゃん!」と声がした。手首を掴まれている感覚がなくなり、柚と椿の間に立ち塞がるように立っていたのは勇だった。
「ここから離れて!」
勇が手を伸ばすと椿の体は後ろへよろめく。
椿は突然現れた勇に驚いたように瞠目(どうもく)した。しかしすぐに平然を取り戻し、くすっと笑う。
「討伐課か…思ったより早かったね」
ゾクッと背筋が凍りつく。目の前にいるのは椿なのに、柚の知っている椿ではないとはっきり分かった。
椿は勇と逆方向に走り出した。柚はそれを追いかけて行った。
勇が二人の後を追おうとすると背後から降る巨大な拳骨(げんこつ)が、勇の顳顬(こめかみ)に激突。
勇は人形のように弾き飛ばされ、回転しながら地面を滑った。木に衝突し、鈍い音を立てて停止する。
勇をぶん殴った男は、異国風の大男だった。
褐色(かっしょく)の肌に隆々(りゅうりゅう)たる筋骨。禿頭(とくとう)には幾筋もの古傷が走る。
大男は無言で勇を見下ろしている。
「…痛った」
勇は起き上がり、(わら)う。凄絶(せいぜつ)な笑み。勇の頬を鮮血が伝う。
大男が無表情で歩き、勇へと近ずいて行く。
「君は…人間だね。死ニカエリ側に付くのはご法度(はっと)だよ。ついでに外国の人かな?」
大男は再び振りかぶり、拳の一撃。勇は地面を蹴って回避。銅鉄の拳が叩き潰された木が、大きな音を立てて倒れた。
「これは凄い腕力。当たれば骨折だけでは済まなさそうだ!」
地面を滑るように移動した勇は、大男と距離を取って相対(そうたい)する。
「…逃げよう」
勇はいきなり体を翻し、大男に背を向けて疾走した。
勇が逃げる。大男が追う。
勇は少しスピードを落とし、跳躍(ちょうやく)して木を鉄棒のようにしてグルンと回る。
大男の姿を目視した瞬間、勇は大男の顔面を目掛けてドロップキックを叩き込む。
勇の跳躍の体重を支えきれず、まともに蹴りを受けて後方に吹き飛ぶ。大男が転がる。
「おぉ!決まったぁ!!」
勇が着地。さらに追撃を加えるべく大男に歩み寄る。
大男はダメージを全く感じさせぬ動作で勇の膝に低空回し蹴り。攻撃を予測していた勇は後方に飛んで回避。
「頑丈だなぁ!君」
大男が跳ね起き、右の拳を放つ。上体を逸らして回避する勇だが、僅かに衣服が引っ張られバランスを崩す。
「しまっ―――」
勇の腹部に拳がめり込む。即座に後方に飛んで威力を減らそうとするも、大男の腕が真っ直ぐに突き出され、勇を吹き飛ばす。
衝撃で勇の口から血混じりの胃液が漏れる。
大男の追撃。振り下ろされた拳を横に転がって避ける。
勇は震えながら立ち上がる。
「重いだけではなく、速いね…。早く応援は来ないかなぁ、、、」
軽口を叩きながらも、勇の目は危機感に(すが)められていた。
―――隙がない。
勇がゆっくりと瞼を下ろしかけた時、
大男の体が空中に飛ばされた。
そして、投げ飛ばした犯人はと言うと―――
「あ、こんなものか」
袖に付いた砂を払いながら田中が呟く。
大男は飛んだ勢いのまま落ちて地面に衝撃。その表情には困惑と驚愕。
何が起こったのか理解出来ないのだ。突然現れた田中に勢いを利用されて投げ飛ばされたということが。
大男が起き上がり、鉄拳を放つ。
田中は大男の勢いに逆らわず、体を流しながら相手の手首を取る。体を斜めに引きながら、大男の肘を軽く支える。そのまま体重を後方に引くと、大男の体は下方から壁に突き上げられたかのように吹き飛んだ。その隙に勇が大男の方に駆け寄る。
大男が懐から短刀を出す。
しかし勇は大男の腕を掴んで捻り上げた。大男の手首を背中側に捻った。大男の自由を奪ってから地面に押し付け、馬乗りになる。訓練された動きだ。訓練された警察相手に素人(しろうと)が一対一の近距離格闘(かくとう)戦を挑むのは自殺行為に等しい。

「いやー、一件落着だねー!」
「一時はどうなるかと思いましたけどね」
井上は気絶した椿を抱き上げながら歩く。少し手荒な方法だったが椿を呑んでいた死ニカエリは倒せた。
(良かった…椿ちゃんを助けれて)
ほっと胸を撫で下ろす。
その時ふと、風に乗って誰かの声が聞こえてきた。
「なぁ、俺のこと忘れてなーい?」
「い―――」
柚は振り返る。土埃の中から歩いてくる人影がある。
いつも無造作にまとめた髪の毛は乱れ、手を振る勇。その姿は元気そうだ。
「勇さん!」
駆け寄って勇に抱きつく。小柄な柚とは身長差もあるので勇の胸部あたりに顔をうずくまるような格好になる。
「なぁに?心配してくれどぅ痛ったぁぁぁ!?」
咲真が勇の側面から上段蹴りをぶちかました。
顎を蹴られて痛そうだ。
「全く、お前はすぐに走っていくわ、勝手に仕事押し付けるわ、ろくに作戦を聞かないわ。分かってるのか!?」
胸ぐらを掴みながら勇をがんがん地面に打ち付ける咲真を誰も止めようとはしない。全員が咲真と勇の様子を眺めながら、安心した表情を浮かべている。
「は、はーい…。でも、俺だって頑張ったんだよ?死ニカエリ側についた反逆者に殺されかけたし」
「は?」
田中の肩に担がれていたのは手首と胴体を縄で縛られて気絶している大男だった。
「これは…陸軍に突き出せば良いのか?俺達か?」
「俺達だろうね…。でも間諜の場合もあるから明日、上司に報告してから陸軍省に電報を打ってもらうよ」
「頼んだ」