「化粧お化け」
不貞腐れたように呟いた勇の言葉は音寧には聞こえていたらしい。
「うぉい!誰が化粧お化けだって!?表出やがれ!ぶちくらすぞコラァ!」
(え、口調悪…)
訳が分からないといった様子の柚を置いて話しだ…というより喧嘩を始めようとする勇と音寧。
「…どうしましたか?顔色が悪いですよ?やさぐれたような顔をなさらないで下さい。ここは僕がひとつ、興味深い話をしましょうか。流行に敏感な女性なら誰もが興味を持つ、今話題の話です」
むくりと顔を上げた。流行に敏感な女性が興味あることと言ったらなんだろうか?ファッションのことだろうか、それとも最近オープンしたばかりの洋食屋の話だろうか。わくわくしながら待っていると、料亭の外から耳をつんざくような悲鳴が聞こえてきた。
その悲鳴を聞いた途端、勇と井上が悲鳴が聞こえた外へと走っていく。そしてそれに続くようにお座敷から沢山の人が外へと消えた。
「あーはっはは、嫌だねぇアタシったら!博多育ちなもんで、よく口が悪いって注意されるんだけど、まぁ、それは置いといて…」
音寧は誤魔化すように笑うと、廊下の奥に視線を送る。
「何かあったんですかね?」
「いや…様子を見てこようか」
奥へ向かうと、一人の芸者が床に座り込んでいた。近くには割れた陶器の破片が散らばっている。
「あ、あぁ…」
女性は何かに酷く怯えているようで、ガタガタと震えている。女性は暗い外を指差していた。
「…あれか」
咲真の目線の先には沢山の死ニカエリ。
闇を切り裂くように叫んだのは、坂田だった。
「今すぐここから離れろ!」
何か何かと見物しようとした他の客や芸者達へ甲高い声を放つ。その尋常ではない焦り具合に客達は一瞬静かになったが、再び煽るように騒ぎ立てた。酒を飲んで酔っ払った人に言うことを素直に聞かせるのは難しい。
「アンタ、何処へ行くんだい?」
集まっている方へ歩きだそうとする柚を音寧が止めた。
「死ニカエリが…止めないと」
「死ニカエリ?一体何処に…」
音寧は眉をひそめ、まばたかせる。
(音寧さんには視えないんだ…)
とうとう痺れを切らした坂田が死ニカエリに向かって刀を構える。
「人を気取るつもりか、この化け物が」
群青の闇に白刃(はくじん)がひらめく。
いきなり抜かれた軍刀に腰を抜かす客達。
「アンタ!何やってんだ!神楽坂で刀を抜くなんて―――」
「死ニカエリがいるんだよ!被害くらいたくないなら避難しろ!」
止めに入った音寧を睨みつけ、飢えるように歩く死ニカエリの方へ目をやった。
「ただちに府民の立ち入りを禁じろ!誘導を急げ!!」
「避難勧告を出せ!」
誘導を促す切羽詰まった声。押され埋もれ流れる人々の悲鳴。
気が付けば、坂田以外の人も刀を抜いて構えていた。高等課の人達は死ニカエリには干渉できないので、声を上げながら客や芸者を避難させている。
優雅な曲線を描く刀は獲物を捉え、一斉に獲物が舞う方向へと走った。
硬質な眼差しは殺意を帯び、連携を取りながら一太刀(ひとたち)の狙い定めている。一寸の狂いもない攻撃をくらい、死ニカエリは次々と消えていく。青い炎によく似た気を放つサーベルの切っ先は、獲物を前に迷いのない突撃のように輝いていた。
首が重く感じたような気がした。空気の重さが変わる感覚。これまで何度か感じたことのある感覚。それた確か―――沢山の死ニカエリに囲まれた時や部屋で遭遇したのっぺらぼうを視た時。夢と現実が入り交じった瞬間に限って、この感覚がやって来る。
物陰に隠れて様子を見ていると、見覚えのある人を見付けた。
「椿ちゃん…?」
椿だった。
店の蔭で静かに戦闘を観察している。どうして彼女がここに…?
数十分もしないうちに、霧が晴れたように死ニカエリ達が消えた。多少の被害も出たが、人力車が壊れるなどの小規模に抑えられて良かった。
椿がいた方をもう一度見たが、椿はいなかった。
その後、音寧に聞いても「椿はいるはずがないじゃないか」と笑われてしまった。