(久しぶりだな……)
駅の階段を上り、地上に出ると澄花はそっと息を吐いた。目の前の幹線道路を車が行き交い、歩行者用信号が点滅している。
小さなスーパー。オレンジ色の看板が煌々と光るビジネスホテル。大きいトラックの停まるコンビニ。
スーパーの隣にあったはずの美容室はいつの間にか姿を消し、カフェへと変わっていた。そんな些細なことからも時の流れを感じる。
澄花は大学進学に伴い、地元を離れた。そして、そのまま地方で就職したため、こうしてこの辺りに帰ってくるのは久しぶりだ。
(この前来たときは秋だったっけ……リオンが亡くなったとき……)
今は七月。早めの夏季休暇を取って、澄花は九ヶ月ぶりに実家へと帰ってきていた。
もわっと湿気を帯びた風が澄花の肌を撫でる。夜になっても残る夏の暑さを感じながら、澄花は横断歩道を渡った。
宵闇に浮かび上がる看板に吸い込まれるようにして、澄花の足はコンビニへと向かった。コンビニの店内に足を踏み入れると、流行歌のBGMと空調の冷気が澄花を迎え入れた。うっすらと肌に滲んでいた汗が引いていくのを感じる。
なんとはなしに店内を歩き回るうちに、澄花の視界にとあるゴンドラが飛び込んできた。棚には河川敷で遊ぶ客向けに手持ち花火のセットが陳列されていた。
(懐かしいな……)
花火セットの中の線香花火を見ながら、澄花はあの日のことを思い起こす。――時雨と過ごした最後の夜を。
あの日見た線香花火の神秘的な青色が今でも脳裏に鮮やかに浮かぶ。煤の匂いも、時雨の着物の香も、寄せ合った肩のぬくもりも、昨日のことのようにありありと思い出せる。
あれから十五年が経った。いつの間にか、時雨と過ごしたあの時代に年齢が追いついていた。あのころは少女だった澄花も、今や三十三歳の大人の女性となっていた。
時雨と離れてからも、彼を愛する想いは変わらなかった。地元を離れてから、大学の同級生や同僚から言い寄られることはあったが、澄花は時雨への想いを貫き続けていた。どうしても、誰かを時雨よりも好きになることができなかった。――あの短い恋は、澄花にとって最初で最後の恋だった。
両親には申し訳ないが、自分は一生このまま一人なのだろうと思う。けれど、今の自分は独りではない。あの日々の思い出が澄花のことを支えてくれていた。
行ってみようか。ふいに澄花はそう思った。自分の運命を大きく変えた、あの猛川に行ってみたい。
澄花は何も買わないまま、コンビニを出た。コンビニの脇の細道へと澄花は足を踏み入れる。この曲がり角にあったはずのピンク色のアパートもいつの間にか建て替えられ、小洒落た佇まいの一軒家へと姿を変えている。
古くからの景色が様変わりしてしまった道を知らない町に迷い込んでしまったように思いながら、澄花は猛川を目指して奥へと進んでいく。それでも変わらないものもある。道端のお稲荷様や駐車場。高い煙突を空へと伸ばす銭湯に自動販売機。
高校生のときは小洒落た自転車屋とカフェだった建物は暖簾変えをしたのか、オープンマイクのできるバーになっていた。閑静な住宅街にしっとりとピアノの音と低い男性の歌声が漏れ出している。
墓場の側を通り過ぎると、実家の近くの曲がり角へと差し掛かった。しかし、澄花はそのまままっすぐに夜道を歩き続ける。街灯の白い光が彼女の後ろ姿を見送っていた。
昔から変わらぬ姿の地蔵尊に、中学の同級生の家。そんなものを眺めながらゆっくりと歩くうちに、八霧神社が見えてきた。
八霧神社の前で澄花は足を止めた。そして、ゆっくりと鳥居に向かって頭を下げた。
八霧神社の中には、あのころ何度も雨乞いの儀式をした水神社がある。水神社の鳥居は時雨たちの住まう川底の世界へと通じていたが、今の澄花にはもうあの世界へと働きかける術はなかった。――澄花の雨催いの巫女の力は、すべて時雨に捧げてしまったのだから。
(初めての儀式の後……時雨様とぎこちなくなってしまったんだっけ……)
澄花はうっすらと苦い笑みを浮かべる。あのころの自分たちは恋が何なのか知らなかった。――きっと、想いを口にするよりもずっと前から、自分たちは惹かれあっていたというのに。
澄花の薄青のワンピースの胸元では時雨から贈られた翡翠のペンダントが揺れている。あの日身につけていた着物は実家の箪笥の中で思い出とともに眠っているが、これだけはどうしてもそばに置いておきたかった。いつだって、時雨の想いをそばで感じていたかった。
川沿いの道へと出ると、澄花は岩停橋へと続く坂を登る。十五年前、川に身を投げるためにこの坂を登ったときとは違い、澄花はきちんと顔を上げて前を向いていた。幸せに健やかに生きてほしい――それが時雨の最後の願いだったから。
時雨に恥じるような生き方はしたくなかった。その思いが澄花を大人にした。今の澄花はあの日の時雨の祈りを自分の意志として選び取れる強さを身に着けていた。
澄花は欄干の上に腕をつくと、下を流れる猛川を眺めた。さらさらと穏やかに流れる川面をほっそりとした月の光が照らしている。
――澄花。
せせらぐ川の音に紛れるようにして、自分の名前を呼ぶ声がした。優しく柔らかいそれは絶対に間違えるはずのない、誰より愛しい男性の声だった。
「時雨様……」
澄花はその名を呟いた。夜の川の底から誰かがこちらを見ている。静けさを纏った長身痩躯のそのシルエットは、時雨のものだった。
宵闇の中で視線が絡み合った。透き通った青藍の双眸は、あのころと変わることなく愛おしげに澄花のことを見つめていた。
愛してる。会いたかった。伝えたいことはたくさんあった。けれど、それは澄花がいつか生命の時を終え、彼の元へ還る日まで取っておきたい。
澄花はこちらを見上げる時雨へと微笑んだ。今も変わらずあなたを想っている。――その想いを込めて。
応えるように時雨も澄花へと笑みを返した。私はいつでもここにいる。いつでも君を想っているよ、と。
紺碧の夜空では離れ離れになった恋人たちが生命の光を燃やしながら、お互いを呼び合っている。天の川の下、澄花は時雨のこの先の幸せを改めて祈る。澄花の胸元を彩る翡翠のペンダントが月明かりを受けて、ほのかな輝きを放っていた。
駅の階段を上り、地上に出ると澄花はそっと息を吐いた。目の前の幹線道路を車が行き交い、歩行者用信号が点滅している。
小さなスーパー。オレンジ色の看板が煌々と光るビジネスホテル。大きいトラックの停まるコンビニ。
スーパーの隣にあったはずの美容室はいつの間にか姿を消し、カフェへと変わっていた。そんな些細なことからも時の流れを感じる。
澄花は大学進学に伴い、地元を離れた。そして、そのまま地方で就職したため、こうしてこの辺りに帰ってくるのは久しぶりだ。
(この前来たときは秋だったっけ……リオンが亡くなったとき……)
今は七月。早めの夏季休暇を取って、澄花は九ヶ月ぶりに実家へと帰ってきていた。
もわっと湿気を帯びた風が澄花の肌を撫でる。夜になっても残る夏の暑さを感じながら、澄花は横断歩道を渡った。
宵闇に浮かび上がる看板に吸い込まれるようにして、澄花の足はコンビニへと向かった。コンビニの店内に足を踏み入れると、流行歌のBGMと空調の冷気が澄花を迎え入れた。うっすらと肌に滲んでいた汗が引いていくのを感じる。
なんとはなしに店内を歩き回るうちに、澄花の視界にとあるゴンドラが飛び込んできた。棚には河川敷で遊ぶ客向けに手持ち花火のセットが陳列されていた。
(懐かしいな……)
花火セットの中の線香花火を見ながら、澄花はあの日のことを思い起こす。――時雨と過ごした最後の夜を。
あの日見た線香花火の神秘的な青色が今でも脳裏に鮮やかに浮かぶ。煤の匂いも、時雨の着物の香も、寄せ合った肩のぬくもりも、昨日のことのようにありありと思い出せる。
あれから十五年が経った。いつの間にか、時雨と過ごしたあの時代に年齢が追いついていた。あのころは少女だった澄花も、今や三十三歳の大人の女性となっていた。
時雨と離れてからも、彼を愛する想いは変わらなかった。地元を離れてから、大学の同級生や同僚から言い寄られることはあったが、澄花は時雨への想いを貫き続けていた。どうしても、誰かを時雨よりも好きになることができなかった。――あの短い恋は、澄花にとって最初で最後の恋だった。
両親には申し訳ないが、自分は一生このまま一人なのだろうと思う。けれど、今の自分は独りではない。あの日々の思い出が澄花のことを支えてくれていた。
行ってみようか。ふいに澄花はそう思った。自分の運命を大きく変えた、あの猛川に行ってみたい。
澄花は何も買わないまま、コンビニを出た。コンビニの脇の細道へと澄花は足を踏み入れる。この曲がり角にあったはずのピンク色のアパートもいつの間にか建て替えられ、小洒落た佇まいの一軒家へと姿を変えている。
古くからの景色が様変わりしてしまった道を知らない町に迷い込んでしまったように思いながら、澄花は猛川を目指して奥へと進んでいく。それでも変わらないものもある。道端のお稲荷様や駐車場。高い煙突を空へと伸ばす銭湯に自動販売機。
高校生のときは小洒落た自転車屋とカフェだった建物は暖簾変えをしたのか、オープンマイクのできるバーになっていた。閑静な住宅街にしっとりとピアノの音と低い男性の歌声が漏れ出している。
墓場の側を通り過ぎると、実家の近くの曲がり角へと差し掛かった。しかし、澄花はそのまままっすぐに夜道を歩き続ける。街灯の白い光が彼女の後ろ姿を見送っていた。
昔から変わらぬ姿の地蔵尊に、中学の同級生の家。そんなものを眺めながらゆっくりと歩くうちに、八霧神社が見えてきた。
八霧神社の前で澄花は足を止めた。そして、ゆっくりと鳥居に向かって頭を下げた。
八霧神社の中には、あのころ何度も雨乞いの儀式をした水神社がある。水神社の鳥居は時雨たちの住まう川底の世界へと通じていたが、今の澄花にはもうあの世界へと働きかける術はなかった。――澄花の雨催いの巫女の力は、すべて時雨に捧げてしまったのだから。
(初めての儀式の後……時雨様とぎこちなくなってしまったんだっけ……)
澄花はうっすらと苦い笑みを浮かべる。あのころの自分たちは恋が何なのか知らなかった。――きっと、想いを口にするよりもずっと前から、自分たちは惹かれあっていたというのに。
澄花の薄青のワンピースの胸元では時雨から贈られた翡翠のペンダントが揺れている。あの日身につけていた着物は実家の箪笥の中で思い出とともに眠っているが、これだけはどうしてもそばに置いておきたかった。いつだって、時雨の想いをそばで感じていたかった。
川沿いの道へと出ると、澄花は岩停橋へと続く坂を登る。十五年前、川に身を投げるためにこの坂を登ったときとは違い、澄花はきちんと顔を上げて前を向いていた。幸せに健やかに生きてほしい――それが時雨の最後の願いだったから。
時雨に恥じるような生き方はしたくなかった。その思いが澄花を大人にした。今の澄花はあの日の時雨の祈りを自分の意志として選び取れる強さを身に着けていた。
澄花は欄干の上に腕をつくと、下を流れる猛川を眺めた。さらさらと穏やかに流れる川面をほっそりとした月の光が照らしている。
――澄花。
せせらぐ川の音に紛れるようにして、自分の名前を呼ぶ声がした。優しく柔らかいそれは絶対に間違えるはずのない、誰より愛しい男性の声だった。
「時雨様……」
澄花はその名を呟いた。夜の川の底から誰かがこちらを見ている。静けさを纏った長身痩躯のそのシルエットは、時雨のものだった。
宵闇の中で視線が絡み合った。透き通った青藍の双眸は、あのころと変わることなく愛おしげに澄花のことを見つめていた。
愛してる。会いたかった。伝えたいことはたくさんあった。けれど、それは澄花がいつか生命の時を終え、彼の元へ還る日まで取っておきたい。
澄花はこちらを見上げる時雨へと微笑んだ。今も変わらずあなたを想っている。――その想いを込めて。
応えるように時雨も澄花へと笑みを返した。私はいつでもここにいる。いつでも君を想っているよ、と。
紺碧の夜空では離れ離れになった恋人たちが生命の光を燃やしながら、お互いを呼び合っている。天の川の下、澄花は時雨のこの先の幸せを改めて祈る。澄花の胸元を彩る翡翠のペンダントが月明かりを受けて、ほのかな輝きを放っていた。



