「――その話、私にも聞かせてもらおうか」
 玉砂利を踏む音と共に低い声が響いた。いつもは穏やかで優しい声も今は荒れた川のような激しさを内包している。
「時雨様……」
 澄花はその人の名を呼ぶ。しかし、時雨は水鞠を伴って澄花の前を通り過ぎ、祠へと向かう。
「――閉じよ、一夜の夢を繋ぎし路。世界のあわいは閉じられ、別々の夢を見るだろう。水を司る者の名の元に、幸せな夢が訪れんことを祈らん」
 時雨は低い声でそう唱えた。祠の御霊石(ごりょうせき)から青い光がすうっと消えていく。あたりには宙を舞う水泡と蛍の光が舞うばかりだった。
 ふいに時雨の身体が傾いだ。咄嗟に澄花は時雨の身体を支えようとする。大丈夫だ、と時雨は澄花の手を払った。
「お兄様、場所を移しましょう。どうやら、漣からも澄花からも話を聞かないといけないようですから」
 紅雨(こうう)の言葉にそうだな、と時雨は頷いた。中庭に集まっていた面々は中庭を横切り、沓脱石(くつぬぎいし)で下駄を脱ぐと、時雨の部屋へと向かった。
 時雨の部屋に着くと、水鞠は四人分の座布団を用意した。時雨は上座のそれに腰を下ろすと、紅雨(こうう)に澄花、漣に座るように言った。
「水鞠、すまなかったな。部屋に戻ってくれ」
「水霜も今日はもう部屋に戻ってちょうだい」
 水神の兄妹にそう言われ、水鞠と水霜の二人は時雨の部屋を辞した。二人とも、今宵一体何が起きていたのかと思うと眠れそうになかった。
「――さて、お兄様。わたくしの部屋で待っているように言ったのに、そんなこともできないなんて犬以下なんですの? いえ、お兄様のお説教は後にいたしましょう。 ――漣。何があったのかを洗いざらい吐いてもらいますわよ」
 一瞬向けられた矛先に時雨はびくりとする。しかし、今はそんな場合ではないと咳払いをして居住いを正すと、漣へと厳しい視線を向ける。
「――漣、何があった? 澄花に何をさせた?」
 怒りを孕んだ二対の双眸が漣に向けられる。わたしがいけないんです、と澄花は居た堪れなくなって口を開いた。
「わたし……時雨様のために何もできませんでした。時雨様のためだからと、漣さんに頼まれたのに……できなかったんです。――妹を殺せなかったんです」
「なっ……漣、あなた、自分が澄花に何をさせようとしたかわかってるんですの!? あなた、心がないんですの!? 見損ないましたわ!」
 紅雨(こうう)は声を荒らげる。ぐわんと一瞬、室内の景色が大きく揺らいだ。待て、と時雨は静かな声で紅雨(こうう)を制すると、漣へと水を向けた。
「澄花に妹を殺させるなど、どうしてそんな必要があった? 漣、詳しい話をしろ」
「私はこの十数年の猛暑には原因があると考えていました。私はその原因が日輪の巫女であることを突き止めたのです。――その日輪の巫女が澄花様の妹、雨霧陽菜(あまぎりはるな)であるということも」
「なぜ、そのことを私に報告しなかった。どうして、勝手に澄花にそんなことをさせようとした?」
「時雨様にお伝えすれば、確実にお止めになるでしょう? 澄花様にそんなことをさせるくらいなら、ご自分が身を削り続けることを選ぶでしょう? 私は樹雨(きさめ)様のように消えてしまうあなたを見たくなかったのです」
「漣さんからその話を聞いて、時雨様のためならなんだってすると言ったのはわたしです。だから、漣さんを責めないでください。時雨様を選べなかったわたしの弱さがいけないんですから」
 時雨が澄花へと一瞥をくれる。その冷たい視線に澄花は肌が粟立つのを感じた。――そうだ、この人は一柱の神だ。
「澄花には聞いていない。黙っていなさい。――漣。澄花の私への好意を知っていて、それにつけ込むような真似を私が許すと思ったか?」
 いえ、と漣は冷静な表情で首を横に振った。時雨の怒りを買うのは予想の範疇だ。時雨は立ち上がると、漣のシャツの胸倉を掴み上げた。常の穏やかな彼が凪いだ水面ならば、今の彼は嵐で荒れ狂う川だった。
 ぱぁん、と漣の右頬で音が鳴った。視界が歪む。時雨が暴力に訴え出るなど、漣が知る限りで初めてのことだった。怒りを押し殺した静かな声が告げる。
「――漣。これは澄花の痛みの分だ。このくらいのことで澄花の心が晴れるとは思わないがな」
 今度は左側でぱぁんと音が鳴ったのが漣の聴覚が捉える。ひりひりとした両頬の痛みをどこか遠く感じた。
「これは私の怒りの分だ。そして――」
 時雨は再び手を振りかぶろうとする。お止めになって、と紅雨(こうう)は時雨と漣の間に割って入った。
「これ以上、お兄様がこの愚か者のために手も心も痛める必要はありませんわ。――漣、今度同じようなことをしてごらんなさい。わたくしはあなたを太刀魚のムニエルにして食べてしまいますわ。それが婚約者としてのせめてもの責任というものですもの」
 時雨は漣のシャツから手を離すと座布団へと座り直す。そして、彼は静かだけれどよく通る声でこう告げた。
「――漣、お前は謹慎だ。しばらく部屋で頭を冷やしていなさい」
 行きなさい、と時雨が厳しい声で退室を促すと、漣は一礼して部屋を出ていった。「わたくしも失礼いたしますわ」潮時とばかりに紅雨(こうう)も時雨の部屋を辞した。すっと障子が閉まり、二人分の足音が遠ざかっていく。
 時雨は澄花を見つめる。その目には先ほどまでのような烈しさはなかった。辛そうな声で時雨は澄花の名前を呼ぶ。
「漣が辛い思いをさせてすまない。私が弱いせいで、こんなことをさせてしまってすまなかった……」
「いえ、時雨様のせいじゃありません。わたし……時雨様のために何かしたかったんです。それなのに結局何もできなくて……ごめんなさい。時雨様、ごめんなさい……っ」
 澄花の目から引っ込んだはずの涙が再び溢れ出した。嗚咽を上げる澄花の身体を時雨は抱きしめる。その腕は今朝よりもまたわずかに細くなってしまっている気がして、澄花は何もできなかった自分を改めて悔いた。
 時雨のそばにいたい。時雨にいなくなってほしくない。だけど、陽菜(はるな)をこの手で殺すことなんてできない。欲しがりで泣いてばかりの自分はまるでイヤイヤ期の子供のようだった。
 夜が明けようとしていた。晴れる様子のない闇の中、澄花は時雨の腕に抱かれてただ泣きじゃくり続けた。――ごめんなさい、そればかりを繰り返して。

(時雨様、今日お食事の時間にいらっしゃらなかったな……)
 格子状に組まれた天井を見上げながら、澄花はそんなことを思った。いつの間にかこの天井にも見慣れたものだ。
 時雨は体調が悪いので、自室で食事を摂るとのことだった。朝餉だけでなく、昼餉も夕餉もそうだった。
 せめて、食事の手伝いができたらと時雨の部屋に行こうとしたが、水鞠たちに止められてしまった。誰に理由を聞いても口を噤むばかりだった。時雨はああ言ってくれたが、本当は顔を合わせたくないくらい怒っているのではないだろうか。
 自分が時雨のためにできるのは一体なんだろうか。また、秋水(しゅうすい)に教えてもらって菓子を作ることだろうか。そんなことではない気がする。
陽菜(はるな)……)
 もう一度、あの子の息の根を止めるために地上へ行くか。きっと、何度行ったって同じだ。時雨に悲しい顔をさせるだけで、自分には何もできない。
 澄花は寝返りを打つと、肌襦袢の内側から翡翠のペンダントを取り出した。白混じりの柔らかな緑の石が、部屋中を飛び交う水泡の淡い光を浴びて、ほのかな輝きを放つ。
 これをくれたとき、時雨は澄花の幸せを祈ってくれた。口付けとともに。
 自分だって時雨に幸せでいてほしい。いつまでも健やかであってほしい。それなのに、自分はいつも時雨からもらうばかりで何も返せないのだ。
 時雨のためなら生命だって差し出せる。昨夜、漣へと言った言葉は本心からのものだ。澄花は時雨のことを心底大切に思っている。――愛している。
(あ……)
 陽菜(はるな)を殺すこともなく、時雨が健やかであれる方法。それが一つだけあった。
 きっとそれは澄花の自己満足に過ぎない。時雨は拒むかもしれない。けれど、澄花にできることはそれしかなかった。
(時雨様には幸せに生きてほしい。――それがわたしの幸せだから)
 ごめんなさい、と澄花は呟く。そして、翡翠のペンダントを肌襦袢の内側へとしまい直した。
 澄花はそっと身を起こし、布団から抜け出した。がさ、と布団が音を立てる。
 桜の透かし彫りの障子から夜の闇が忍び込んできている。すっと静かに障子を開けた先の廊下では、雨戸が庭と家の中を隔てていた。ふわふわと飛び交う水泡の光がなければ足元すら見えない。
 澄花はそっと廊下を歩き出した。自分たち二人が幸せに生きるための方法を求めて。
 ひた、ひた、と寝静まった屋敷の中に忍ばせた足音が響く。やがて、寝間着に身を包んだ澄花の後ろ姿は闇の中へと消えていった。

 秋水(しゅうすい)が朝餉の盆を下げに来たのと入れ替わりで誰かが訪ねてきたのに気付き、漣は背後を振り返った。障子に映る小柄な影は時雨のものではない。漣は誰何(すいか)を問うた。
「わたし……澄花です。漣さんに聞きたいことがあって来ました」
 どうしたものかと漣は逡巡する。謹慎中だというのに、あまり勝手なことをしては更に時雨や紅雨(こうう)の怒りを買ってしまいそうだった。
「また後日にしていただけませんか。澄花様もご存知の通り、私は謹慎中の身なので」
「わかっています。けれど、他ならない時雨様のことなんです。取り返しのつかないことになる前にどうにかしないと……」
 澄花の声は切羽詰まっている。先ほど、秋水(しゅうすい)からも時雨が伏せっているということは聞いていた。
 漣の顔に苦いものが浮かぶ。時雨を守るために力を貸せと先に澄花に迫ったのは自分だ。よもや、同じことを澄花にされ返すとは。自分は澄花を侮っていたのかもしれない。
「わかりました。それでは五分だけですが、時間をとりましょう」
 ありがとうございます、と礼を言うと澄花は漣の部屋に足を踏み入れる。床の間には大太刀が飾られており、風雅な雰囲気の時雨の部屋との違いが感じられた。
 澄花は畳に膝をつくと、抱えていた書物を置いた。彼女の目元には黒々とした隈ができている。
「眠れなかった……というわけではなさそうですね。ご用件はそれですか」
「はい。わたし、一昨日の夜に漣さんが仰っておられたことを思い出して……わたしなりに調べてみたんです」
――雨催(あまもよ)いの巫女の力をすべて時雨様の御霊石(ごりょうせき)に注ぎ、婚姻関係も眷属の契約もすべて解消して時雨様の元を離れるか。
 一昨日の一件で、自分が時雨の御霊石(ごりょうせき)に働きかけることができるのはわかっている。ならば、あとは自分の雨催(あまもよ)いの巫女の力をどう扱うかだ。時雨の弱り方を考えると、慎重にならざるを得ない。失敗するわけにはいかなかった。
「ふむ、雨催(あまもよ)いの巫女についての書物ですか……そして、こちらは歴代の水神について……」
 漣は澄花が持ってきた書物に目を通す。しかし、これでは足りない。
「正直、これでは情報不足感が否めませんね。今から言う内容の書物を蔵から探して持ってきてください」
 これとこれとこれを、と漣は澄花へと探してきてほしい書物の内容を伝えた。わかりました、と澄花は頷く。
「ただ、これらは今すぐ必要というわけではありません。私としては今夜、夕餉の後にでもお話しできればそれで。澄花様は少々眠られたほうがいいですよ」
 思いがけず優しい言葉をかけられて、澄花は目を瞬いた。漣には好かれていないだろうと思っていた。澄花にあんな残酷な命令を下せるくらいなのだから。
 それが顔に出てしまっていたのか、漣は苦笑する。いつも顔に張り付けている怜悧な表情が少し色を変えた。
「澄花様、私とて鬼ではありません。それに時雨様の身を案じているのは私もあなたも同じです。今、澄花様が倒れるようなことがあれば、時雨様が悲しまれる」
「そう……ですか」
 もしかしたら、自分は漣を誤解していたのかもしれない。漣はきっと、時雨のことが大切なだけなのだ。そのためならば手段を選ばないだけなのだ。
「それではまた夕餉の後に。先ほどの書物は探しておきますね」
 澄花は立ち上がると、一礼して漣の部屋を辞した。一瞬、彼女の足元がふらついたのが漣の中で時雨と重なった。
(無理をしないといいが……)
 ほんのりと澄花の着物に焚きしめられた香の匂いが残っている。このほんのりと甘く清らかな香りは蓮だろうか。
 漣は床の間に飾られた大太刀を見る。今、自分が時雨を守るために何もできないことが心苦しくて仕方がなかった。
 樹雨(きさめ)に託されたからだけではない。時雨を主として、漣は心から慕っていた。
(時雨様……)
 澄花は間に合うだろうか。時雨はこのことを受け入れるだろうか。二人の運命の行先がどちらを向いているのか、今の漣にはわからなかった。

 澄花が漣を秘密裏に訪ねるようになって数日。夕餉の後、蔵へと向かおうと思っていた澄花は水鞠に呼び止められた。
「澄花様、時雨様がお呼びです。今すぐお会いになりたいとか」
「時雨様が……?」
 まさか、時雨の体調が急変したのだろうか。澄花の表情が張り詰めたものへと変わる。そんな澄花の耳元で、水鞠は困ったように囁いた。
「ここ何日かこっそりと漣のところに通っていらしたでしょう。そのことで、時雨様が大層臍を曲げていらっしゃいます」
「ええ……来るなと仰ったのは時雨様のほうなのに……」
「弱っているところを澄花様に見られたくなかったのでしょう。だからといって、自分に会えない寂しさを他の男で埋めるのか、と。それはもう拗ねに拗ねていらっしゃいまして」
 誤解でしかない滅茶苦茶な理論に澄花は絶句した。これは早く会いにいったほうがよさそうだ。
「せめて、時雨様がお好きなお茶の一つでも持っていったほうがよさそうですね……水鞠さん、白茶ってまだありますか?」
「ええ、冷たいのがまだ氷室に。――秋水(しゅうすい)、白茶を用意してくれますか? 時雨様と澄花様のお二人の分を」
 はい、と厨房から秋水(しゅうすい)の声が返ってくる。ぱたんと扉が閉まる音がする。秋水(しゅうすい)が氷室に茶の入った水差しを取りに行ってくれたのだろう。
 さて、と水鞠は澄花の髪を解くと袂から取り出した櫛で梳き始める。澄花が戸惑った顔をしていると、ふふ、と水鞠は笑った。
「時雨様の心をお慰めしたいのであれば、お茶よりも澄花様のお可愛らしい姿が一番です。うんと可愛らしくしますから……今夜は覚悟しておいてくださいね?」
「え……ええっ!?」
 悪戯めいた水鞠の言葉に澄花の声は思わずひっくり返った。それはまさか、そういう意味なのか。甘い予感と羞恥で澄花は顔を赤くする。未知への恐怖と好奇心が入り混じって、心の扉を叩いている。――素直になって、と。
 動揺する澄花をよそに、水鞠は澄花の前髪とサイドの髪を小さくくるりんと編み込んでいく。水鞠は手を止めることなく、楽しそうに話す。
「こうすると動きが生きるんです。夜風に揺れると、とっても涼しげで可憐に見えますよ」
 後ろの髪は軽くまとめてハーフアップにする。残した髪はそのまま背中へと流した。淡い紫とプラチナの簪を編み込みの間に挿すと、柔らかな光に桔梗の花がきらりと笑みをこぼした。
 水鞠が澄花の髪を直している間に、秋水(しゅうすい)が白茶の入ったグラスを二つ持ってやってきた。白く柳の枝が伸び、葉が揺れるグラスの中には淡く色づいた液体が軽やかで繊細な香りを放っている。
「ささ、いってらしてください」
 水鞠にガラスが乗った盆を持たされると、半ば追い出されるような形で澄花は座敷を後にする。ご武運をという秋水(しゅうすい)の言葉が背中を追いかけてきたが、これから自分はどうなってしまうというのか。澄花は顔から火が出てしまいそうだった。
 澄花は時雨の部屋に向かって廊下を歩いていく。一歩ごとに湧き上がってくる感情は、数日ぶりに会える喜びなのか、彼の体調に対する心配なのか、今宵起きるかもしれないことへの期待と恥じらいなのか、澄花にはわからなかった。
 時雨の部屋の前に着くと、行燈の薄青の光に照らされてほっそりとした男性の姿が障子に浮かび上がっていた。床に臥しているのだろうが、その割にはやけに部屋が散らかっている気がする。
「――時雨様。澄花です。入ってもよろしいでしょうか?」
「少々待ってくれ」
 部屋の中で衣擦れが響く。その後、ばたばたと時雨らしからぬ慌てた足音が響いた。
「時雨様、ご都合が悪いようでしたら、また後ほど――」
 澄花がそう言いかけたとき、ばたんと大きな音が響いた。もしかして時雨が倒れたのでは。澄花は思いっきり障子を開いた。
「――え?」
 畳の縁に足を引っ掛けて転んだ時雨のそばには、澄花でも知っているタイトルの少女漫画の単行本が散らばっていた。澄花は時雨の文机に盆を置くと、まずは彼に手を差し伸べ、起き上がるのを手伝ってやる。
「時雨様、大丈夫ですか?」
「ありがとう、大丈夫だ。――その、恥ずかしいところをみせてしまったな」
 部屋中に散らばる少女漫画に時雨はそわそわとしている。澄花が何か追及したわけではないにもかかわらず、あわあわと時雨は弁明をし始める。
「これはだな……その、私が暇だろうと紅雨(こうう)が水霜に言って届けてくれたんだ。紅雨(こうう)が言うにはどうにも私は乙女心というものに疎いらしくてな」
 わからないながらも、いつも年上の男性らしくリードしてくれる時雨。彼は日々、こんなことをして澄花のために努力をしてくれていたのか。
「……幻滅したか?」
「そんなことありませんよ。あの漫画、わたしも好きでよく読んでいましたし。こちらの漫画も」
 二人は顔を見合わせると微笑みあった。時雨は今この時を噛み締めるかのように言う。
「やはり、澄花と一緒にいると心が安らぐな。不安もささくれ立っていた気持ちも、凪のように落ち着いていく。――けれど、澄花はそうではないのだな」
 時雨の口調が拗ねたようなものに変わる。漣と会っていたことを指しているのだと悟ると、澄花は違いますよと口にする。
「漣さんとは相談事があって会っていただけです。わたしが好きなのは時雨様だけです。――信じてください」
「漣とは何を話していたんだ?」
 その、と澄花は口籠る。しかし、話さねば時雨は安心できないだろう。澄花は意を決して口を開く。
「時雨様のことです。時雨様がその身をすり減らすことなく、幸せに健やかに生きていくためにはどうしたらいいのかと話し合っていました」
「すまないな、私のために……」
時雨は澄花の肩に額をつける。いつの間にか痩せ細ってしまったその身体を、澄花は硝子細工を扱うかのように優しく抱きしめた。
「大丈夫です。わたしがやりたいからやっているだけです。時雨様が責任を感じることではありません」
 子供が縋り付くかのように、時雨が抱きしめ返してきた。時雨は澄花が何をしようとしているか、きっと気づいている。それでも時雨は何も言わなかった。言えなかった――澄花の振り絞った決意が損なわれるようなことは。
 互いの温もりに、澄花はこの瞬間(とき)の永遠を願う。しかし、祈りとは裏腹にこの日々が終わりに近づいていることを彼女は痛いくらい感じていた。

 胡麻豆腐に蕪のすり流し。お造り風にした湯葉に白味噌仕立ての茄子田楽。冬瓜の含め煮にほうれん草の胡麻和え。梅粥に、水菓子には時雨が好む葛切りの糖蜜がけを用意してある。
 早朝に起き出した澄花は、秋水(しゅうすい)に相談して時雨のための朝餉を作らせてもらった。食欲の落ちている時雨でも食べやすく、なおかつ彼が好む献立にまとめた。
「澄花様、上出来です」
「いえ、秋水(しゅうすい)さんのおかげですよ。わたし一人じゃ間に合わなくって秋水(しゅうすい)さんにもたくさん手伝っていただきましたし」
「それでも、澄花様が作られたということが大切です。澄花様がお作りになったお食事ともなれば、時雨様も召し上がってくれるかもしれませんし」
 厨房を主に取り仕切る秋水(しゅうすい)は日に日に時雨の食が細くなっていくことに頭を悩ませていた。そんな彼女に昨日の夕餉の後、澄花は声をかけた。――わたしが作ってみてもいいですか、と。
 時雨の身体のことを考え、二人は翌朝の食事に何を作るか話し合った。そして、澄花は午前三時に起き出して、厨房に火を入れたのだった。
 ごろごろと重たい戸車が鳴り、雨戸が戸袋へと収まっていく音が響く。廊下をぱたぱたと足音が行き交う。一日が始まった音だった。
「それでは秋水(しゅうすい)さん、わたし、時雨様の部屋に行ってきますね。本当にありがとうございました。後片付けお任せしてしまってすみません」
 澄花が頭を下げると、早く行ってらしてくださいと秋水(しゅうすい)は微笑んだ。澄花はずっしりと重い盆を持つと、厨房を出る。藍色の暖簾が揺れる。
 座敷を通り過ぎようとすると、紅雨(こうう)が朝餉を摂っていた。彼女は箸を止めると、おはよう、と空色の目を細めた。
「おはようございます、紅雨(こうう)様」
「澄花。先ほど秋水(しゅうすい)から聞いたけれど、お兄様のために朝餉を拵えてくださったそうですわね。特にその胡麻豆腐が美味しそうですわ。お兄様は幸せ者ね」
「お褒めいただいて嬉しいです。胡麻豆腐でしたら、まだ少し残っていたはずなので、よろしかったら召し上がってください」
「ありがとう、澄花。……っと、こんなところで呼び止めてしまって申し訳なかったわね。早くお兄様のところに行って差し上げて。今ごろ首を長くして待っていらっしゃるはずですわ。――早くしないと、お兄様がナガクビガメになってしまいますわ」
 つい想像してしまって、澄花はくすりと笑った。時雨の首が障子を突き破る前に早く行ったほうがよさそうだ。
 それでは失礼します、と会釈をすると座敷を出た。水面に反射して、朝日がきらきらと光る中庭を横目に澄花は廊下を歩く。朝顔が水上の太陽を求めて大輪の花を咲かせていた。
 歩く度に蕪のすり流しが器の中で波紋を描く。梅粥がくたりとした米の粒を揺らす。胡麻和えの香ばしい匂いが澄花の鼻腔をついた。
 時雨の部屋の前で足を止めると、澄花は訪いを告げる。すると、謹慎が解けたばかりの漣が障子を開け、澄花を部屋の中へと通してくれた。
「澄花、おはよう。こんな朝早くからすまないな」
 時雨は儚げな微笑を白皙の美貌に乗せた。その顔が昨日よりもやつれて見えて、澄花はどきりとする。
「いえ、他ならない時雨様のためですから」
 二人の視線が絡まり合う。あと何度こんなやりとりができるのだろうと思うと澄花は切なくなる。自分たちにはもう時間がない。
 ごほん、と気まずそうに漣が咳払いをした。「私も朝餉を摂ってきます。澄花様、時雨様をお願いします」漣は部屋を出ていった。すっと障子が閉じる音がする。
「今日は澄花が朝餉を作ってくれたのだったな。――食べさせてくれるか?」
「もう、時雨様ったら仕方ないですね。今日だけですよ。早く元気になって、ご自分でお食事を摂れるようにならないと……」
 笑顔を作ろうとした澄花の顔がくしゃりと歪んだ。座敷で時雨と共に食事を摂ったあの日々はもう戻ってこないのだ。何気ない会話を交わし合い、笑い合ったあの短い日々が愛おしくて切ない。
 澄花はそっと胡麻豆腐の器と匙を手に取った。灰色がかった豆腐を匙で割ると、澄花はそれを一口分掬い、時雨の口元へと運ぶ。
 すっと時雨が薄く唇を開く。そして、優しく差し込まれた匙に乗せられた、香ばしく滑らかなものを時雨は口の中で転がして味わうとごくりと嚥下した。
「――美味いな。さすがは澄花だ」
 時雨の声が甘く柔らかなものを帯びる。澄花が作るから美味しいのだ。込められた彼女の心を感じられるから。――愛情を。
「他もお召し上がりになりますか?」
 ああ、と時雨は頷いた。その目には優しい光が浮かんでいる。――こんな時がいつまでも続けばいい。こうやって澄花に甘えて、澄花が仕方なさそうにそれを受け入れてくれて。けれど、時雨もまたこれが刹那のものに過ぎないことを知っている。
「それじゃあ次は、湯葉のお造りを」
 澄花は綺麗に折り畳んだ湯葉を箸で摘むと、時雨へと食べさせた。豆乳のようなまろやかで優しい甘さを時雨は楽しんだ。
「わたし……初めて好きになった男性が時雨様で良かったです」
 茄子田楽を箸で摘み上げると、澄花はぽつぽつと話し始めた。その声は振り始めた雨のように時雨の聴覚を満たす。
「あのとき、出会ったのが時雨様でよかった。わたしたちは契約で結ばれた関係で……はじめは時雨様が何を考えているのかもわかりませんでした。けれど、時雨様は不器用ながらもわたしに優しく接してくださいました。わたしを知ろうとしてくださいました」
 とろとろとした茄子の感触と味噌のコクが口の中に広がる。時雨は上手く澄花と接することができていなかったあのころのことを思い出す。澄花を質問攻めにして水鞠に咎められたり、最初の儀式の後に澄花とぎこちなくなってしまったりと、ここ一ヶ月ほどのことだったのに随分と懐かしいことのように思い起こされた。
「あのときは悪かった。私が未熟なせいで澄花に嫌な思いをさせたな」
 いいえ、と澄花は微笑んだ。その顔は今にも泣き出しそうに見えた。つられて時雨も目の奥が熱くなる。澄花が手にした匙の輪郭がぼんやりと滲んだ。
 澄花はとろとろと柔らかな冬瓜を箸で切ると、時雨の口元へと持っていく。優しい出汁の味はまるで澄花の心根のようだ。
「気がつけば時雨様のことばかり考えている自分がいて。そして、一緒に食事を摂ったり、お茶を飲んだりするようになって。そして――」
「私は、君が私と同じ気持ちでいてくれていることを知った。あの夜、契約で結ばれた関係を私たちは踏み越えたんだ」
 それからの日々は短かった。幸せの陰で時雨は少しずつ体調を崩していった。
「わたし、時雨様のそばにいて、幸せでした。だから――」
 幸せになって。そう言いかけた澄花を時雨は制した。聞きたくない、と思った。彼女の唇が紡ぐ、別れの言葉は。
「言わないでくれ、それ以上は……」
「時雨様……」
 澄花はそれ以上、何も言わなかった。言えなかった。
 澄花は再び時雨の口元へと食事を運び始める。ゆっくりとだけれど、時雨はそれを口にした。
 沈黙が下りた部屋の中、時雨の咀嚼音だけが静かに響く。時間こそかかりはしたものの、時雨が無事に食事を完食できたことに澄花はほんの少し安堵した。
「――澄花。君が初めて作ってくれたあの菓子がまた食べたい。最後にどうしても……食べたいんだ」
 懇願するような時雨の言葉に、澄花は頷いた。頷かない理由がなかった。心から愛するこの人の望みなら、なんだって叶えてあげたかった。――ただ一つを除いては。
 澄花と時雨はそっと手を握り合う。見えない水の糸は、今もまだ二人を確かに繋いでいた。

 ベンッ、チンッ、ベンッベンッ。時雨の部屋から三味線の音が漏れ聞こえていた。耳をすませば、ふふふふふんふんと軽やかなメロディーの鼻歌が聞こえた。それは澄花の時代で流行っていたバンドの夏の定番曲のサビだった。
 夏の始まりを告げるその歌詞を思わず口ずさみながら、澄花は廊下を歩く。その手には昼間拵えた水菓子が乗った漆塗りの盆があった。
 澄花は時雨の部屋の前で足を止める。ずっとその心地よいハミングを聴いていたい気持ちに駆られながらも、澄花は障子越しに声をかける。
「――時雨様。澄花です。入ってもいいですか?」
「構わない。ちょうど顔が見たいと思っていたところだった」
 そう言われて、澄花はそっと障子を開ける。布団の上で身を起こし、三味線を手にした姿の時雨が優しい顔でこちらを見ていた。
「時雨様、そのように起きていらっしゃって、お加減は大丈夫なんですか?」
「ああ。今日は三食すべて、澄花が食べさせてくれたからな。ここ数日に比べると、幾分か調子がいい」
 時雨は三味線とバチを布団の脇に置く。そして、澄花が手にした盆に視線をやると、嬉しそうに目を細めた。
 紫陽花を思わせる透明な青と紫の寒天。そして、豆乳を混ぜて固めた葛。青と緑の水玉模様で彩られた硝子の器。
 それは今朝、時雨が所望した澄花が初めて彼のために拵えた菓子そのものだった。角切りにされた透明な花が行燈の淡い光を受けてほのかなきらめきを放っている。
「ありがとう、澄花。私のわがままを聞いてくれて」
「わがままだなんて、とんでもありません。わたしが作りたいと思ったんです。そのくらいしか、わたしが時雨様のためにできることはありませんから」
 澄花は切なげに微笑んだ。そして、澄花は盆から水菓子の器と匙を取ると、時雨に渡してやる。
「どうぞ、召し上がってください。残りの一つは後で漣さんに渡してくださいね」
 すると、嫌だと時雨はかぶりを振った。ぬばたまの髪がさらりと揺れる。時雨は拗ねたように言った。
「漣にはやらない。食べたらなくなってしまうだろう? ――だから、こうする」
 時雨は手の中の器へと手を翳した。そして、低い声でこう呟く。
「――水よ、永き時を流るるものよ。泡沫(うたかた)永遠(とこしえ)に続かんものと希わん」
 水菓子の器が淡く光る水の珠に閉じ込められる。そして、ふわりと菓子は時雨の部屋を揺蕩い始めた。
「時雨様、これは……?」
「食べてしまえばなくなってしまう。置いておけばいつかは朽ちてしまう。だから、水に閉じ込めることで時を止めた。――私がいつでも澄花のことを想えるように」
 そんな、と澄花は言いかけてやめた。時雨がしたのは残りわずかな神力の無駄遣いだ。けれど、澄花にはそれを咎めることはできなかった。自分が同じ立場なら、同じことをしただろうから。
 時雨はしれっと漣の分の菓子を手に取ると、匙ですくって食べ始めた。澄花は今ここにいない漣に胸中で詫びながら、自分も菓子を食べ始める。
「どうですか、時雨様。お口に合いますか?」
「ああ。澄花らしい優しい味だ。――好きだ」
 その言葉は菓子に向けられたものではない。そのことに気づいた澄花はわたしもです、とはにかんだ。
 かちゃ、かちゃ、と匙と硝子の器がぶつかる音が響く。飾り棚の香炉からは檜と柑橘が混ざり合ったような匂いが漂っている。静かだけれど、確かに隣にいるこの時間が澄花は好きだった。――否、好きだ。
 菓子を食べ終えると、時雨は器と匙を盆へと置いた。そして、代わりに三味線とバチを手に取るとベン、ベン、と鳴らし始める。
「菓子の礼に君に一曲贈ろう。何か好きな曲はあるか? 君の時代の曲も勉強したから、ある程度は弾けるぞ」
「それなら――」
 澄花がリクエストしたのは、先ほど時雨が奏でていたバンドのデュエット曲だった。いつまでも。いつまでも。二人の声が重なり合う。終わっていく恋を唄った歌詞に心が痛んだ。
 時間が止まればいいのに。その言葉に泣きそうになる。何度願っても、時間は残酷なまでに過ぎ去っていく。その手を離さなければならない時がすぐそこまで迫っていた。
 時雨は曲を奏で終えると、バチから手を離した。ぼろぼろと澄花が泣いているのを見て、すまないな、と時雨は詫びた。しゃくり上げる彼女のその頭をそっと時雨は抱き寄せる。
「悪い。そんな顔をさせたかったわけではなかったんだ」
「いえ、時雨様が悪いんじゃありません……ただ、歌詞が心に沁みて……」
「澄花。君はどうしたら笑ってくれる? 私は君の笑顔が見たい」
「でしたら……思い出が欲しいです。――今日この夜を一生忘れないような、そんな思い出が」
 思い出か、と時雨は呟く。彼は腕をそっとほどき、立ち上がると文机の引き出しから細い紐状のものの束を取り出した。
「時雨様、これは……?」
 澄花は指先で涙を拭うと、そう問うた。線香花火だ、と言う時雨の柔らかい低い声が聴覚へと沁み入る。
 おいで、と時雨は澄花の手を取ると立ち上がらせる。そして、二人は部屋を出ると縁側へと向かった。
 中庭ではふわふわと淡く光る水泡が漂っていた。少し前まで庭の夜を彩っていた蛍はもういない。紫陽花からは色は褪せ、竹垣に蔓を巻きつけた朝顔が遠い(そら)を向いて次の日の始まりを待っている。確実にその時は近づいているのだと、澄花の心はずきりと痛んだ。
 二人は縁側へと腰掛けた。ふわりと揺らいだ水の気配が二人の肌を撫でていく。
「澄花、これは普通の線香花火ではない。これは火ではなく、水で燃えるんだ」
「水で?」
 澄花が首を傾げると、時雨は線香花火を一本、彼女の手に握らせた。そして、彼は線香花火に手を翳すと、穏やかな声でこう唱えた。
「――宿れ、生命の灯火よ。水は万物の源、すべてを生み出すものなれ」
 ぽつっと線香花火の先端に青い光が灯った。もらっていく、と時雨は澄花の線香花火に自分の線香花火を近づけると青い灯の欠片を奪う。
 ぱちっ、ぱちぱち。小さな音を立てて青い光が爆ぜる。その神秘的な様に澄花は目を奪われた。
 落とさないように、終わらないように。互いが息を詰める気配がありありと伝わってくる。炎が揺れるたびに、すうっと息を吸う音がやけに大きく伝わってくる。
 二人は身を寄せて線香花火を見つめ続ける。燃え尽きていく花火に自分たちを重ねながら。
 幻想的な青い火花に煤の匂い。肩に触れ合う温もりに時雨の着物から香る沈香の匂い。
 澄花はきっとこれを一生忘れないだろうと思った。この記憶を抱いて、この先を生きていく。――時雨の幸せを願いながら。

「――澄花、少々いいかしら?」
 時雨との時間を過ごした後、澄花が自室に戻ろうとしていると、幼い少女の声に呼び止められた。振り返ると、そこには紅雨(こうう)が立っていた。
紅雨(こうう)様? どうなさいましたか?」
「ねえ、澄花……あなた、本当に納得しているの?」
 紅雨(こうう)の透き通った空色の双眸がまっすぐに澄花を見上げた。澄花は悲しげに笑うと、紅雨(こうう)の目を見返した。
「どれだけ考えても、これ以外手段がなかったんです。時雨様が幸せに健やかに生きてくれるなら……そのことを信じられるなら、わたしはお側にいられなくなっても構いません」
 雨催(あまもよ)いの巫女の力をすべて時雨の御霊石(ごりょうせき)に注ぎ込み、婚姻関係も眷属としての契約もすべて解除する――それが澄花の出した結論だった。
 時雨の眷属ですらなくなれば、もう澄花は川の世界では生きられない。そのことは理解していた。それでも時雨が一分一秒でも長く生きてくれるのなら、それで構わない。澄花はそう思っていた。
「だとしても澄花、あなたの心はどうなるんですの? 人とは脆いもの。お兄様と離れて、あなたは幸せに生きていけるんですの?」
「――紅雨(こうう)様。時雨様の幸せがわたしの幸せです。だから、大丈夫です」
「澄花……ごめんなさい。わたくしがあなたにそんな顔をさせてしまっているんですわよね。わたくしが水神として覚醒していれば、あなたにそんな辛い思いを強いることもなかった……」
紅雨(こうう)様のせいじゃありません。これはわたしが……わたしの意志で決めたことです」
「本当に……いいんですのね? 後悔しない?」
 しません、と紅雨(こうう)の問いに澄花は首を横に振った。泣いた跡の残る彼女の黒瞳には、悲しみ、淋しさ、切なさ、痛み――それらが渦を巻いていたが、その中に確かな決意が宿っていた。
「時雨様がこの世からいなくなってしまうほうが、わたしは嫌です。そのほうがわたしは後悔します。時雨様さえ幸せでいてくれるなら、わたしはきっと生きていけます」
 澄花は言葉を切る。自分が選んだことは間違いじゃない。そう信じたかった。
「時雨様にはたくさんのものをもらいました。誰かを好きになる気持ちも、心をこめた贈り物も、かけがえのない思い出も」
 澄花は肌襦袢の内側から翡翠のペンダントを取り出した。白と緑が混ざり合った柔らかな色の石が、夜の廊下を飛び交う水泡の光を受けて淡い輝きを返す。
「お兄様……本当に素直な人だわ。わたくしの助言通り、これを澄花に贈るなんて」
 確かに時雨は澄花にこれを贈ってくれたとき、紅雨(こうう)の受け売りだと口にしていた。複雑そうな顔で眉尻を下げる紅雨(こうう)に、澄花は無理やり口角を上げて笑ってみせる。それは澄花にとって、せめてもの強がりだった。そうでもしないと、今にもまた泣き出してしまいそうだった。
紅雨(こうう)様。わたしは大丈夫です。わたしにはこうして、時雨様を想う(よすが)がありますから。――たとえ側にいられなくたって、心まで離れるわけじゃありません」
 雨の日はこの石を見て、きっと時雨のことを想うのだろう。晴れの日も、曇りの日も、雪の日も――きっとずっと時雨のことを想い続ける。
 幸せだろうか。元気にしているだろうか。無理をしていないだろうか。
 澄花との日々はきっと時雨の長い生涯の一瞬に過ぎない。いつか思い出にされてしまっても、忘れられてしまったとしても、時雨がこの地に息づき続けてくれるならそれで構わない。
 紅雨(こうう)はそれ以上、何も言わなかった。おやすみなさい、と挨拶を交わし合うと二人は廊下をすれ違う。
 ともすれば揺らぎそうになる心を戒めるように、澄花は唇を噛む。翡翠のペンダントを握り締め、澄花は逃げるように自分の部屋へと駆け込んだ。心は痛いほどに時雨の名を呼んでいた。

(……眠れなかった……)
 澄花が溜息混じりに瞼を開けると、見慣れた格子状の天井が視界に飛び込んできた。障子から差し込む朝の気配が光陰を揺らしている。
 いつの間にか着物やら帯やらが増えてしまった白木の桐箪笥。鏡台には時雨から贈られた練り香水や装飾品が溢れている。床の間には時雨がくれたハーバリウムが飾られており、気づけば部屋の中を彩る品々が数を増やしていた。
 猫足の文机の上には便箋と封筒、全四十八色の藍色のインクセットが置かれている。引き出しには澄花が認めたこの屋敷で暮らす人々への感謝の手紙が仕舞われていた。澄花は何も告げるつもりはなかったが、きっとそのうち水鞠あたりが気づいてくれる。
 たった一ヶ月半と少し。それだけの間なのに、いろいろなことがあった。
 時雨のために自分は今日、この屋敷を去る。そのことは心に固く決めていたはずなのに、時雨のことを想っただけで瞼の裏が熱くなる。
 微笑んだり、拗ねたり、照れたり、かと思えばどきっとするような表情で迫ってきたり。時雨の見せる表情を自分は知りすぎた。
 澄花、と自分を呼ぶ声の響き。それは愛おしげだったり、切なげだったり、悲しげだったり。自分を呼ぶときに時雨がどんな目をしているのか知ってしまった。
 澄花は布団から這い出ると、寝間着を脱いだ。肌襦袢の上から長襦袢を着て衣紋を抜くと、腰紐と伊達締めを締めていく。この屋敷に来たばかりのころは水鞠の助けなしでは着物など着られなかったのに、いつの間にか自分一人で身支度ができるようになっていた。
 この屋敷に来た日に着た着物に袖を通すと、澄花は手早く背中心と裾線を合わせていく。あのころは目を回しそうだと思った工程も今は慣れたものだ。澄花はおはしょりを整えると、着物の胸元を腰紐と伊達締めで固定していく。
 クリーム色の兵児帯もこの屋敷に来て初めて身につけたものだ。澄花は帯を胴体に巻きながら、結び方を考える。リボン結び? 花結び? それとも太鼓結び?
 迷った挙句、澄花は帯を太鼓結びにした。自分は時雨に庇護されるだけの存在ではない。――彼を守る。その意志の表明でもあった。
 澄花は鏡台の前に座ると、螺鈿細工の小箱を開け、櫛を取り出した。櫛で髪を梳ると、澄花は髪を二本の三つ編みにまとめた。顔の両サイドに垂れる三つ編みをそれぞれ逆の耳元へと回してピンで固定する。これはこの屋敷に来た初日に水鞠がしてくれたヘアアレンジだ。
 最後に右耳の上に差し込んだ簪は、時雨が初めて贈ってくれた花をレジンで閉じ込めたものだ。可憐な白い花が澄花の髪を彩る。その花言葉(永遠の愛)を澄花は胸中で噛みしめる。自分は大丈夫だ。
 鏡の向こうでは泣き腫らした目の浮腫んだ顔の少女がこちらを見返している。しゃきっとしなければ、と澄花は手で両頬を叩いて喝を入れると立ち上がった。
 桜の透かし彫りが施された障子を開くと、澄花は廊下へと出る。ここで暮らした日々を過ごした部屋へと向き直ると、澄花は深く一礼した。――ありがとう、さようなら。その思いを込めて。
 中庭では水面から差し込む朝日を受けて朝顔が清楚な笑みを浮かべている。柔らかな緑色の苔に包まれた岩を照らす日差しはすっかり夏だ。
 願わくば、時雨とともに楓の木が色づくのを見たかった。そして、木がその葉を散らしていくのを見守っていたかった。けれど、それは叶わぬ夢だ。
 中庭を眺めながら、澄花はゆっくりと座敷へと向かって廊下を歩いていく。今はこの屋敷の姿を少しでも目に焼き付けておきたかった。
 座敷の障子を空けると、座敷机の下座に座布団が置かれていた。上座には誰の姿も――この屋敷の主である時雨の姿はなかった。
 澄花は畳に膝をつくと、着物の裾を整える。そして、座布団の上に身体を移すと、すっと背筋を伸ばす。
「澄花様、おはようございます」
 秋水(しゅうすい)が朝食の盆を持って厨房から姿を現した。精進料理にも似たこの食生活に最初は驚きもしたが、今はもうすっかり慣れてしまった。
 座敷机に料理が乗った盆が置かれると、いただきますと澄花は両手を合わせた。そして、箸を手に取ろうとしたとき、すっと障子が開かれた。そこには時雨と行李を抱えた漣の姿があった。
「時雨様……」
「澄花、食事時に済まないな。少々邪魔をする」
 そう言うと時雨は漣へと視線を送る。漣は行李を畳の上に置くと澄花の側に膝をつき、こう言った。
「時雨様からの贈り物です。どうしても今夜、お召しになってほしいとのことで」
 銀色の花火が咲く淡藤色の着物。金色の帯に薄紅色の帯締め。帯揚げは愛らしい桜色で、下駄の鼻緒も同じ色で揃えられている。
「そんな……いただけません! わたしにはもう、時雨様に何もお返しできないのに……」
 澄花は行李を押し返そうとする。しかし、もらってくれ、と時雨は言った。
「心から愛した女性(ひと)に、最後に着物の一つくらい贈らせてくれないか。私をそんな甲斐性なしにさせないでくれ」
 時雨の言葉に澄花は何も言い返せなかった。彼の気持ちを受け取らずに返すなどということは澄花にはできなかった。
 廊下ではぱたぱたと足音が響き、この屋敷の一日が始まったことを告げていた。別れのときはすぐそこまで迫っていた。

 ぴちょん、ぴちょんと水面を水滴が跳ね、波紋が広がっていく。雲で覆われた空が泣いていた。催涙雨(さいるいう)が別たれた恋人たちの年に一度の逢瀬を阻んでいた。
(雨、か……)
 今朝、時雨から贈られた着物に袖を通した澄花は下駄を履きながらそんなことを思う。かつてはあんなに憎んだ雨も、今となっては愛しいあの人の囁き声のようだ。
 もうこれからは絶対に引き返せない。引き返してはならないのだ。澄花は己にそう言い聞かせると、玉砂利を鳴らし、御霊石(ごりょうせき)の祀られている祠へと向けて中庭を横切っていく。
 祠の前にはこの屋敷に住まう面々が勢揃いしていた。お待たせして申し訳ありません、と澄花が声をかけると時雨がこちらを振り返って口元を綻ばせた。
「――澄花。着てくれたんだな。今までに見た中で――一番綺麗だ」
 華やかな着物に少し気後れしていた澄花はありがとうございます、とはにかんだ。二人は視線が交錯すると頷きあう。――それは二人にとってのさよならの合図だった。
「さて、澄花。儀式を始めよう。――私と君にとっての最後の儀式を」
「はい……時雨様」
 澄花は漣と何回も確認を繰り返した通り、御霊石(ごりょうせき)へと手を翳した。そして、今日この日まで頭に刻み込み続けた祝詞を誦じ始めた。
「――(われ)は雨に愛されし巫女、この地に恵みをもたらす存在なり。この地を守りし水の神よ、()が手を取り、渇いた大地を潤す力を受け取り給え」
 澄花の横に並び立つと、時雨も御霊石(ごりょうせき)へと手を翳す。かすかに手と手が触れ合った。澄花の声に時雨の言葉が重なっていく。
「――愛しき巫女よ、清き祈りのすべてを我へ。その力の全てを以て、我はこの地を守り、水の恵みをもたらすことを誓わん」
「この力は清流のごとく、汝の身を満たすだろう。この地に繁栄が千歳(ちとせ)の間、齎されることを(われ)は希う。次の千年、その次の千年を水の恵みがこの地を守ることを夢見んとす」
「我に力を、この地に恵みを。汝の祈りは力となり、我の中に満ちるだろう。水を司る者の名において、この地を雨で守ることを誓わん」
 二人は唇を交わし合った。雨催(あまもよ)いの巫女と水神の間で一つの契約が成る。
 御霊石(ごりょうせき)が青く輝き始めた。それは澄花が見たことがないほどに眩い光を放っていた。
 澄花の中を何かが走り抜けていく。自分の中を激しい流れが通り抜けていく。それはあたかも嵐に見舞われた激しい川の流れのようだった。
(これがわたしの力……)
 澄花の力が流れ込んでいくに従って、御霊石(ごりょうせき)が姿を変え始めた。最初は片手に収まるほどの小石だったのが、両の手をはみ出すほどの石になる。一抱えほどもある大きな石へと姿を変えたかと思えば、それはみるみるうちに澄花の身長を超える高さの大岩へと変貌した。
 御霊石(ごりょうせき)は澄花の力を受けて大きくなり続ける。頭上でちゃぽんと川面が揺れる音がした。時雨の御霊石(ごりょうせき)は今や、猛川(たけりがわ)に浮かぶ小さな島と成り果てていた。
 澄花はすうっと身体を通り抜けていく奔流が収まっていくのを感じた。御霊石(ごりょうせき)から放たれていた眩い光が静かに夜の闇に溶けていく。
 時雨のぬばたまの髪が青い光を纏っていた。頬は色づき、顔には精気が溢れている。透き通った青藍の双眸はきらめきを放っている。
 ありがとう、と時雨は澄花にだけ聞こえるように囁いた。――愛してる、とも。
 大好きでした。大好きです。澄花もそう囁き返す。時雨は一瞬切なげな表情を見せると、息を吸った。
「――契り紡ぎし水の糸よ、番われし二人を別て。我、時雨は水の神の名の下に、愛しき者との契約を解き放たんとす。二人は今この時より、別の道を歩まんとす――」
 静かに唱える時雨の声には悲しみが滲んでいた。二人の手の間に淡い青色を帯びた水の糸が姿を現す。薬指同士を繋いでいた蝶々結びは流れるようにするりと解けた。
 あまりにあっけなく時雨と自分を関係づけていたものの名前がなくなっていくのを見て、澄花は強く奥歯を食いしばった。泣きたくない。時雨に最後に見せるのは笑顔が良かった。
 時雨は澄花との婚姻関係を解消するための祝詞を唱えると、言葉を続けていく。それは時雨の眷属となった澄花を解き放つためのものだった。
「――我の守護の下に生きる者よ、今ここに解き放たれ、自由になれ。汝が行く末に常に水の加護があらんことを我は希わん。生命が巡りて、汝がこの水に還るその日まで我は汝の幸福を祈らん――」
 澄花の身体を包んでいた水の膜が光り輝き始める。すうっと澄花の額に浮かんだ水色の紋が水の中に溶けて消えていく。これで完全に時雨との繋がりは絶たれてしまうのだと澄花は思った。
 時雨の目が澄花を見た。痛みを堪えるように時雨は言った。
「――澄花。君はもう長くはここにはいられない。私は君を元いた時代――二〇二五年に帰そうと思う。どうか、幸せに健やかに生きてくれ」
「え……」
 元いた時代。それは澄花が陰口を叩かれ、後ろ指を差されていたあの時代だった。時雨と離れ、そんな苦痛の中で再び生きねばならないのか。
「よく聞いてほしい。もう君を苦しめていた力はない。君がどこで何をしようと、君のせいで雨が降ることはないんだ。顔を上げてこの先を生きてほしい。――君の人生はまだ長いのだから」
 雨催(あまもよ)いの巫女の力は失われた。時雨のものとなったのだ。澄花はもうびくびくする必要はない。澄花はゆっくりと頷いた。微笑んで見せたつもりだったが、上手くできたかわからない。――頬を撫でていったのは自分の涙だったのか、宙を舞う水泡だったのか。
「――我、水を治めし者。雨夜に隠れし、星の路をここへ開け。大地の記憶よ蘇れ、古の時をここに繋ぎ給え」
 時雨は祝詞を唱える。真っ暗だった空から白銀の道が伸び、中庭の祠へと繋がる。雨雲に覆われてしまっていた天の川だった。
「――七月七日。これは今日この日にしか起こせない奇跡だ。たとえ違う時を生きていたとしても、私はいつでも君を想っている」
 澄花、と時雨が名を呼んだ。澄花もまた、彼の名を呼んだ。――今日この時をもって会えなくなってしまう、誰よりも愛しい人の名を。
 澄花の唇が一瞬、時雨のそれに触れた。澄花から彼に口付けをするのはそれが初めてだった。
 唇が、指が離れていく。大好きな人の温もりが離れていく。
 ずっとあなたのことを想っています。澄花はそう言って笑みを浮かべた。下手くそだけれど精一杯の笑顔だった。
 澄花は白銀の道へと足を踏み入れた。星の道の先を目指して、澄花は一歩、また一歩とまっすぐに歩いていく。彼女はもう振り返らなかった。――別れを受け入れてくれた彼の想いを踏み躙りたくなくて。
 足を進めるたび、意識の境目がだんだんと曖昧になっていく。川が流れる音がやけに大きく聞こえる。やがて、澄花はせせらぐ川の音へと己の意識を託した。――優しくて不器用なあの人が、今泣いていないといいと願いながら。

 遠くで川の流れる音が聴覚を満たしていた。あの人の声みたいだ。そう思いながら澄花は目を開ける。
 時雨と別れたときの姿のまま、澄花は岩停(いわぬみ)橋の上に倒れていた。そこはあの日、澄花が身を投げたのと寸分違わぬ場所だった。
 どこかで蝉が鳴く声がする。自分は帰ってきたのだろうか。二〇二五年に。
 視界の端で赤い光がちらついた。川沿いの道を赤い光がくるくると回りながら近づいてくる。
 キィ、と車が路肩に停まる音がした。間髪を容れずにバタン、と車のドアが開く。その音を澄花は人ごとのようにぼんやりと聞いていた。
 宵闇の下、複数の足音がこちらに近づいてくる。紺色の帽子に青いワイシャツ。帽子と同じ色のベストとズボン。男女二人組の警察官だった。
「大丈夫ですか? お怪我はありませんか?」
 女性の警察官は澄花の姿を認めると、膝を折って話しかけてきた。澄花は首を横に振る。時雨に贈ってもらった着物は濡れそぼっているが、どこにも怪我はない。
 彼女の連れの警官は澄花の顔を見ると、「もしかすると……」何事か囁いていた。女性の警察官の目が見開かれる。
「すみません、お名前とご年齢をお伺いしてもいいですか?」
「雨霧、澄花……十八歳です……」
 消え入りそうな声で澄花がそう告げると、男性警官が無線でどこかへと連絡をし始める。
「こちら地域課、松本。岩停(いわぬみ)橋にて行方不明届の対象と思しき女性を発見、保護します。――どうぞ」
 無線の向こう側から慌ただしく指示を飛ばす割れた男の声が聞こえてきた。それを聞きながら、澄花は戻ってきたのだと実感し始めていた。
「あなた、今日が何月何日かわかる?」
 女性警官の問いに、澄花はいいえと答えた。
「今日は二〇二五年七月七日。あなた、一ヶ月半以上も行方不明になっていたのよ」
「七月七日……」
 澄花は雲ひとつない夜空を見上げる。天の川を跨ぐようにして、三つの星が三角形を描いていた。
 このままでは冷えるわね、と女性警官は澄花に手を差し出し、立ち上がらせた。彼女は澄花をパトカーへと連れていくと、バスタオルを渡した。
 バスタオルに包まりながら、澄花は車内に流れる無線を聞いていた。素肌に張り付く肌襦袢の内側の翡翠の感触が、時雨と過ごした日々が夢ではないことを物語っていた。