(――見つけた)
白い漆喰壁の蔵の中、古い書物を漁っていた漣はとある記述に目を留めた。墨の匂いが彼の鼻腔をしっとりと満たす。
初めての雨乞いの儀式から、何回も時雨と澄花は儀式を繰り返してきた。儀式を行った直後こそ、雨は降るが、連日の暑さによってだんだんと猛川は水位を減らしつつあった。
ここ十数年続く日照りには何か原因があると漣は睨んでいた。歴史上、類を見ないほど強力な力を持つ雨催いの巫女である澄花をもってしても、この旱魃に太刀打ちできないのには何か理由があるはずだ。
時雨が澄花と結ばれてから数日。中庭の祠にある時雨の御霊石がじわじわと小さくなり始めた。澄花の前では取り繕っているつもりのようだが、時折具合が悪そうにしているのを漣は知っていた。本人に問いただしたところ、早めの夏バテだろう、心配ないと苦笑していたが。その笑みがどこか儚げで、遠からず時雨も先代の水神であった樹雨のように消えてしまうのではないかと、漣は不安だった。
(――私の役目は時雨様を護ることだ。私は樹雨様に時雨様を託されたのだから)
漣は、元々は先代の水神である樹雨の眷属だった。しかし、水難からこの地を守ろうとした結果、彼は力を使い果たして消えていってしまった。――時雨を助けてやってくれ、ただその一言だけを残して。
(紅雨様にしても、水神として覚醒するまでにあと何百年、何千年かかるかわからない。それまでに時雨様が儚くなられて、この猛川に水神がいないなんてことになってはならない。――それに何より私は時雨様を樹雨様の二の舞にしたくはない)
漣は澄花と時雨の二人が惹かれ合うように仕向けてきた。最後に二人の背を押したのは水鞠と紅雨だが、陰で二人が意識し合うように仕組んできたのは漣だった。――澄花を時雨のために動く手駒とするために。
(……今の澄花様ならば、時雨様のために命をも捧げるだろう)
その純粋さを利用するのは残酷だ。だが、躊躇う余地はない。使えるものは使うまでだ。
(それにしても……日輪の巫女か)
澄花とは反対に太陽を招く存在。本来なら豊穣をもたらすものだ。だが、行き過ぎればその恵みも禍となる。
毎年のように大地を焦がす日差し。それを抑えるために、文字通り時雨は身を削ってきたのだ。
ならば、手を打たねばならない。漣は澄花に日輪の巫女を始末させる心づもりだった。
漣は書物の間に地図が挟まれているのを見つけた。それはこの周辺一帯の地図だった。漣はそれを広げ、何事か唱えると地図の上に指を這わせる。彼の指先にほのかな青い光が灯った。
(――八霧神社の近くに、我々とは違う力の反応がある)
力の根源を探るべく、漣は指先で八霧神社の近くを念入りに調べていく。すると、とある民家の上で最も反応が強くなることに気づいた。
雨霧、と漣は呟く。それは澄花の実家だった。
(――まさか)
とある可能性に漣は気づく。澄花が陸から姿を消した二〇二五年以降、日照りは急激にひどくなった。それまでにも日輪の巫女は存在していた。だが、澄花の力が強すぎて、覆い隠されていただけなのだ。
では、日輪の巫女は誰なのか。母か、あるいは妹か。
漣は書物の年号を追う。澄花が生まれた頃、この地に雨催いの巫女の記録はない。同時に日照りの記録もない。
(――もしや、日輪の巫女というのは……)
記録を追えば答えはひとつに収束する。日輪の巫女というのはつまり――
漣は、澄花に日輪の巫女を殺せと命じるつもりだった。彼女こそが時雨を苦しめる元凶だ。それが時雨を――ひいてはこの猛川を守るために、漣が唯一できることだった。
(――時雨様はどうお思いになるだろう)
漣は暗く笑った。時雨は澄花を利用しようとした自分を許さないかもしれない。けれど、時雨を守ることができるなら、彼に憎まれることとなっても構わない。
紙と墨の香りが蔵の中に沈澱している。漣はどう事を運ぶかを考え始める。その胸中はよく切れる刃物のように怜悧で、冬の水面のように冷たく冴えた感情で覆われていた。
よしできた、と澄花は盆の上に乗った菓子を眺めると満足げに微笑んだ。様々な食材が保管された氷室の中では、六月という季節とは裏腹にひんやりとした空気が肌を撫でていく。
澄花は盆を手に氷室を出る。そして、勝手口から厨房へと戻ると、流しで朝餉の片付けをしている秋水がいた。
「おや、澄花様。そのご様子ですと、上手くできたようですね」
「秋水さんのおかげです。秋水さんがわたしでもわかるように教えてくださったので」
とんでもありません、と秋水は目を細める。澄花は手にした盆の上から、ぷるぷると揺れるくず寄せの入った器を四つ下ろした。
「これ、よろしければ紅雨様と皆様で召し上がってください」
「嬉しいです。後で皆でいただきます。紅雨様のお部屋にもお届けしておきます」
秋水は食器を洗う手を止めると、ぺこりと頭を下げる。澄花は秋水に会釈を返すと、盆を手に厨房を出た。藍色の暖簾が揺れた。
(時雨様、喜んでくださるかな……)
逸る心を押さえながら、澄花は足を急がせる。廊下から見える中庭は朝露にしっとりと濡れて美しい。水と緑の混ざり合った匂いが一日の始まりを告げていた。
肌襦袢の内側であの夜、時雨からもらった翡翠のペンダントが揺れている。その冷たく硬い感触に、水面で輝く朝日のようにきらきらとしたものを覚える。それは澄花が初めて知った恋のきらめきだった。
時雨はこれを食べてくれるだろうか。また、美味しいと言ってくれるだろうか。それを考えるだけで心がくすぐったくなる。
「時雨様。わたし――澄花です。入ってもよろしいでしょうか?」
時雨の部屋の前まで来ると、障子越しに澄花は声をかける。ああ、と優しく穏やかな声が返ってきた。その声の響きからは澄花を愛おしく思っていることがひしひしと伝わってくる。
「――澄花。待っていたよ。入りなさい」
失礼します、と澄花は漆塗りの盆を片手に障子を開ける。黒檀の座卓の前に紺青の着物を身に纏った時雨が座っていた。
後ろ手に障子を閉めながら、澄花は時雨の部屋の中にそっと視線を巡らせる。朝餉の後、時雨とともに部屋戻っていったはずの漣の姿がない。
「時雨様、漣さんは?」
「先ほど、用があると言って出ていった。大方、紅雨にでも呼び出されているのだろう」
それより、と時雨は言葉を切る。透き通る青藍の双眸には拗ねたような色が浮かんでいた。
「私といると言うのに、君は別の男の話をするのか? ――妬けてしまうな」
時雨の声が切なげな艶を帯びる。一瞬、水が揺らいだ。澄花はどきまぎとしながら、手に持った盆を座卓の上に置くと畳へと膝をつく。そして、楝色の着物の裾を整えながら、雲紋様が銀糸で刺繍された銀鼠の座布団の上に身体を移した。
「し、時雨様。紅雨様から枇杷を分けていただいたので、くず寄せにしてみたんです。よろしければ、一緒に食べませんか?」
このごろ、時雨に食欲がないのが澄花は気に掛かっていた。毎食、澄花は時雨と食事を共にしているが、食の進みが悪いのだ。漣に聞いたところ、少し早い夏バテだとのことだったが。
好きなものなら食べてくれるだろうか。くず寄せならば喉越しもよく食べやすい。澄花が昨晩、厨房でくず寄せを拵えたのはそう考えてのことだった。
「そうだな……澄花が食べさせてくれるのなら」
え、と澄花は顔が赤らむのを感じた。駄目か、と甘い声で時雨は畳み掛けてくる。
時雨と澄花の視線が絡まり合う。どきどきと心臓が高鳴るのを澄花は感じた。甘い予感と背徳感が綯い交ぜになって胸を迫り上がってくる。
「澄花……どうしても、駄目か?」
「駄目じゃない……です」
時雨の双眸に吸い寄せられるように澄花は立ち上がると、時雨の側へと寄る。ほら、と時雨は澄花の細い手首を掴むと自分の膝へと座らせた。触れ合った温もりに、着物に焚きしめられた白檀の香りに、間近に見える長い睫毛に、澄花の胸はどうしようもなく高鳴る。きゅんと甘酸っぱい感情に澄花ははにかんだように目を伏せる。
「澄花。恥ずかしがらずに、私に顔を見せて欲しい。私は君のどんな表情もすべてこの胸に焼き付けておきたい」
「そんな……あの、時雨様、くず寄せをお召し上がりになるはずでは」
澄花はたじろぎながらそう口にした。時雨はすっと澄花の頬に指を這わせると、耳元で囁いた。
「それも魅力的だが……それよりも先に私は君を食べたい。――駄目か?」
濃い色気を纏った掠れた声に、澄花は期待で背筋がぞわりとするのを感じた。時雨様、と愛しい男神の名を呼ぶと、澄花はその瞬間を待つ。
そのとき、すぱーんと障子が開かれ、漣が部屋へと入ってきた。ぎゅっと澄花は時雨に抱き寄せられる。今の顔を他の誰かに見せられる気がしなくて、澄花はされるがままに時雨の胸に顔を埋めていた。どくん、どくん、と時雨の心臓が脈打つのが聞こえる。
「――漣。何か用があったのではなかったのか」
「それなら済みました。……澄花様にこれを」
「ん……? 紅雨からの手紙か」
朝顔の意匠の封筒に目をやると、そこに置いておけと時雨は言った。漣は封書を座卓の上に置くと、ため息混じりに時雨と澄花を見やる。何というか朝っぱらから糖度が高すぎて、口から砂糖を吐きそうだ。
「まったく、時雨様ときたら、澄花様と思いが通じ合った途端にこれですか。水神たるもの、朝っぱらからそんなにイチャイチャするものではありません。まずはその緩んだだらしない顔をどうにかしてください」
「どうしようもなく、澄花のことが愛おしいんだ。仕方がないだろう? このくらいは見逃してくれ」
何がいけないのかわからないとでもいったふうに、時雨は平然とそう言ってのける。澄花はもう自分が嬉しいのか恥ずかしいのか頭がぐちゃぐちゃになってよくわからなかった。
「漣、もう用がないなら外に出ていてくれ。私は澄花との時間を満喫したい」
時雨は漣に退室を促す。お邪魔虫は退散しますよ、と漣は肩をすくめると部屋を出ていった。すっと障子が閉まる音がする。
廊下を歩く漣の足音が遠ざかっていく。澄花、と呼ばれて顔を上げると、二人の視線が再び重なった。熱を帯びた目と目が見つめ合う。
時雨は己の唇を澄花のそれに重ねる。せせらぐ川の音が一瞬、遠くなる。互いの鼓動を聞きながら、二人はいつまでもそうしていた。――まるで、時が止まってしまったかのように。
その日の夜、屋敷の裏にある蔵へと澄花は呼び出されていた。紙と墨の匂いが漂う薄暗い蔵の中で、澄花はとある人物を待っていた。
午前中に漣が澄花の元へ持ってきた手紙。その差出人は紅雨ではなかった。あの手紙を書いた主――今ここに澄花を呼び出しているのは漣だった。
――時雨様についてお耳に入れたい話があります。今夜、夜十時に蔵に来てください。水鞠は連れずに、お一人で。
可愛らしい便箋の意匠に反して、内容はひどく簡潔だった。一人で、というのが気に掛かりはしたが、まさか漣が自分に危害を加えることもないだろう。漣は時雨の右腕――時雨が澄花のことをどう思っているか誰より知っている人物なのだから。
ギィと蝶番が軋む音と共に、青銅の扉が開いた。扉の隙間から、宙を舞う水泡と蛍の二色の光が淡く差し込んでくる。
すっとチャコールグレーのスーツに身を包んだ男は扉の隙間に身体を滑り込ませると、静かに扉を閉める。蔵の中がどうにかお互いの顔が確認できるくらいの仄暗い闇に包まれると、漣は口を開いた。
「澄花様、お待たせして申し訳ありません」
「いえ、わたしも先ほど来たところですので。それより、時雨様についてお話があるとのことですけど、どのような――」
「澄花様はこの先も、時雨様と共にいたいですか?」
直球な漣の質問に顔が熱くなった。午前中の様子を漣に見られてしまった手前、彼とうまく目を合わせられない。
「あっ……当たり前です。わたしは……時雨様を誰より大切に思っているんですから」
「あなたは時雨様のためなら、なんだってできますか?」
それが自らの手を汚すようなことであっても。その言葉は漣は自分の口の中に閉じ込めておく。余計なことを言って澄花を躊躇わせたくない。今は言質を取るのが先だ。
「もちろんです。わたしは時雨様のためなら、生命だって差し出せます。――時雨様が望むのなら」
それは漣にとって充分な答えだった。かかった、と漣は怜悧な笑みを浮かべる。
「時雨様が最近体調がよろしくないことは澄花様もご存じですね。それを夏バテだと仰っておられることも」
ええ、と澄花は頷いた。漣は話を続ける。
「澄花様は中庭の御霊石がだんだんと小さくなってきているのをご存じですか?」
「――え?」
唇が震えるのを澄花は感じた。御霊石は時雨の力の源だ。それが小さくなっているということは、時雨の力が弱っているということを意味している。
事態を理解したらしい澄花の顔が強張っていくのが暗がりでもわかった。漣は哀れな少女へと現実を突きつけていく。
「猛暑による旱魃からこの地を守るため、時雨様は身を削っていらっしゃいます。しかし、このままでは時雨様は力を使い果たして消えてしまいます。――それを防ぐため、澄花様には選んでいただきたいのです」
澄花に取れる選択肢は二つ。しかし、漣は確信していた。――彼女は後者を選ぶであろうことを。
「雨催いの巫女の力をすべて時雨様の御霊石に注ぎ、婚姻関係も眷属の契約もすべて解消して時雨様の元を離れるか。契約結婚も眷属を抱えることも、時雨様にとって神力を削ることなのです。――あるいは、澄花様がこの猛暑の原因となっているものを排除するか」
「猛暑の原因、ですか?」
「はい。日輪の巫女という存在がこの地にはいます。そのものは太陽を呼び、大地に恵みをもたらす存在です。しかし、その者の力が強まったことによって、時雨様は苦しんでおられます。――澄花様には、日輪の巫女を殺してほしいのです」
「えっ……殺、す……?」
衝撃的なその単語を思わず澄花は反芻する。自分に誰かを殺すことなどできるだろうか。仮にできたとして、何も感じずに時雨の側で今後も生きていけるだろうか。
「先ほど、澄花様は時雨様のためなら生命だって差し出せると仰いました。それならば、人ひとり殺すことくらい、造作もないことでしょう。――それが他ならぬ時雨様のためであるともなれば」
時雨のため。時雨が消えていなくなってしまうくらいなら、自分が手を汚すほうがまだマシだ。あの穏やかな笑みが、優しい声が、触れ合った温もりがなくなってしまうくらいなら。
「……わかりました」
澄花は蚊の鳴くような声で返事をした。どこの誰とも知らない誰かに、心の中で詫びながら。
「ありがとうございます。そうそう、澄花様にはもう一つお伝えしておかなければならないことがありました」
漣は一度言葉を切る。そして、次に口を開いた彼から飛び出した言葉はひどく冷たい響きを纏っていた。
「日輪の巫女の名は、雨霧陽菜。――あなたの妹です」
澄花は目の前が真っ暗になるのを感じた。冷たく静かな表情で自分を見下ろす漣が悪魔のように感じられた。澄花は己の運命を呪わないではいられなかった。
「――我、水を治めし者。此の地を潤さんがため、あわいの境へ踏み入ることを希わん。祈りに応え、一夜の路を開け」
中庭の祠の前で澄花はそう誦じた。それは雨乞いの儀式の際、地上への道を開くために時雨がいつも唱えている祝詞だった。
この祝詞を唱えるように言ったのは漣だった。時雨の力を補って余りある力の持ち主である澄花ならば、川の世界と地上のあわいへ働きかけることも可能だろう、と。
その石は澄花が初めて目にしたときよりも、明らかに一回り以上小さくなっている。漣がこのような強硬策に出た理由も納得はできなくても理解はできる。
(時雨様……)
今朝、抱きしめてくれた身体はいつの間にか澄花が知っているものよりも痩せてしまっていた。時雨の身を案じているのは澄花だって同じだった。
今、時雨のことを守れるのは自分しかいない。時雨のことを思うなら、自分がやるしかないのだ。――それが実の妹を手にかけることだったとしても。
(陽菜、ごめん……ごめんね……。お父さんも、お母さんもごめんなさい……こんなことしかできない、親不孝な娘で……)
陽菜のことを思うと、胸がぎゅっと締め付けられる。時雨のためとはいえ、陽菜を殺めることには躊躇いがあった。
両親にだって申し訳ない。娘が二人ともいなくなってしまうなんて。しかも、陽菜を殺めたのがいなくなったはずの自分だなんて、両親が知ったら心を病んでしまうかもしれない。
何で自分が、と思う。けれど、自分でなければできないことなのだとも思う。苦悩のあまり、澄花は唇を噛む。
あまりここでぐずぐずしていて、誰かに見咎められてしまってはいけない。これから澄花が行なおうとしていることは漣と自分しか知らないのだ。
誰にも見られないうちに早く行かなくては。けれど、誰かに止めて欲しいと思っている自分が心の中に同居していた。
閉じた雨戸の内側で、廊下を誰かがこちらに向かって歩いてくる音がした。澄花ははっとして、祠の石へと急いで手を伸ばす。彼女が御霊石へと触れると青い光が溢れだした。
水の匂いを放つ石は時雨の肌のようにひんやりと冷たい。その石はいつの間にか澄花の両手にすっぽりとおさまる大きさになってしまっていた。そのことが澄花にとっては悲しく切なかった。――優しいあの人が、誰にも何も言わずにこんなになるまで自分をここまですり減らしていたことが。
澄花の身体を包む水の膜が青い光を放ち始める。一瞬の後、澄花は祠の中へと吸い込まれていった。
二色の淡い光が飛び交う中庭では、竹垣に蔓を這わせた朝顔が蕾の中に顔を隠している。青い光を放つ御霊石だけが、つい先程までここに少女がいたことを知らしめていた。
水神社の鳥居を出た澄花は空を見上げた。空は灰色の分厚い雲に覆われ、月は顔を隠している。夏の星座を形取る星々も今は見えない。
(水の匂いがしない……今夜は雨は降らなさそう)
それは雨催いの巫女である澄花の力よりも日輪の巫女の力の方が強いということを意味していた。昔は澄花がちょっと外に出ただけで、天はたちどころに泣き出したというのに。
境内の外の川沿いの道を車が走っていった。それを見送ると、そっと鳥居を出て澄花は水神社のある八霧神社の境内を歩き始める。
この神社には、夏祭りの度に陽菜と訪れた記憶がある。そぼ降る雨の中、暖かい色に光る電球。赤と白の提灯に立ち並ぶ屋台。陽菜はベビーカステラが好きで、夏祭りの度に一緒に分け合って食べたのを覚えている。
(――そうだ、あの子、いつもりんご飴も欲しがってたな。絶対に食べ切れないのに)
澄花は人気のない神社の境内に、幼い妹の面影を見た。きらきらと光る飴に包まれた赤い果実。いつもそれを家に持ち帰っては陽菜はどうにか食べようと格闘していた。大抵三分の一も食べないうちにギブアップすることになり、残りを澄花が引き受けてきたが。そんな些細なことも今の澄花にとっては昨日のことのように思い出せる大切な記憶だ。
鳥居をくぐり、澄花は八霧神社を出る。神社を出てすぐの家は変わらずまだそこにあった。しかし、澄花の視界に入る限りでも、何軒かの家が姿を消し、新しいものへと建て替えられている。澄花が中学生のころの大型台風によって地価が上がったこの地域には、元々古い家が新しい家へと建て替えられる動きはあったものの、これだけ風景が様変わりしていると十五年という年月を感じざるを得ない。
こつこつ、と夜の静寂に下駄の音を響かせて澄花は記憶にある道を辿る。
駐車場に電柱。中学生の同級生の家に右手に見える曲がり角。古くからの家の門扉の側に佇む地蔵尊。そして、カーブミラーのある曲がり角に、三十三番地を示すプレート。
澄花はその角を曲がる。むわっとした空気を孕んだ夜風が楝色の着物を肌に張り付かせた。
辺りにあった古い家々はもうない。代わりにコンパクトなサイズの新しい戸建てが密集するように建っていた。
(ああ……あの家、もうないんだ)
前はこの辺りにリオンと同じブラックタンのミニチュアダックスフントを飼っている家があった。ミニチュアダックスフントらしくよく吠える犬だったが、見かける度に微笑ましく思ったものだ。
寝静まった住宅街を澄花は歩く。右側には細い路地が続く。左側には十五年の年月を重ねた姿のアパートが佇んでいた。
少し先に見覚えのある赤い自販機が見えた。しかし、自販機の横にあったはずの古い民家は姿も形もない。
(ここ……だよね)
路地の入り口にある駐車場の、草が伸び放題な姿は記憶にあるままだ。慣れない家々に複雑な思いを覚えながら、澄花は路地へと足を踏み入れる。
あの家がもうないということは、陽菜のことを孫のように可愛がってくれたあのおばあさんはもうこの世にはいないのかもしれない。
駐車場の先、路地の右側に家が三軒見えた。そのうちの二軒目――白い壁の家が澄花の実家だ。
もう夜も更けている。家族全員が眠りについていることを祈りながら、袂に忍ばせた家の鍵へと澄花は手を伸ばす。
「――あれ?」
澄花は玄関のドアの鍵が変わっていることに気づいた。ドアに取り付けられているのは、かつてのシリンダー錠ではなく、指紋認証による電子錠だった。
どうしよう、と澄花は眉尻を下げた。しかし、これで陽菜を殺さずに済む理由ができたと安堵しかけた――そのとき。
澄花は鍵に零から九までの数字が刻印されたボタンがあることに気づいた。もしかして、と思いながら澄花は脳裏を過った四桁の数字を入力した。――それは両親が銀行口座やタブレットの暗証番号などによく使っていた語呂合わせのあの数字。
がちゃん、と音が響き鍵が開いた。そんな、と思いながらも澄花は音を立てないようにドアハンドルを引くと、十五年ぶりの我が家へと足を踏み入れる。玄関で下駄を脱ぐと、リオンに気づかれないように足音を忍ばせて澄花は二階への階段を登ろうとした。
そのとき、ふわりと線香の煙の匂いが一階を静かに満たしているのに澄花は気がついた。なんだろう、と思いながら澄花はリビングへと足を運ぶ。
(あ……)
リビングの一角に仏壇が設えられていた。その側には今と同じ顔の自分の写真とリオンの写真が遺影として置かれていた。
(そっか……あの子、死んじゃったんだ……)
リビングの隅にあったリオンのケージはもうない。あるのはほのかな気配と染みついた獣の匂いだけだった。
自分が死んだことになっているのはまだいい。川に飛び込んで遺体が見つからなかったとなれば、そう結論づけられるのは当然のことだ。
しかし、可愛がっていた愛犬の死には、静かな悲しみが込み上げてきた。十五年というのは犬が老いて死んでいくのには充分すぎる年月だ。
目の奥を熱いものが込み上げてくるのを感じた。リオン。愛犬の名を心の中で呼びながら、澄花は指先で目元を拭った。
ここで悲しみに浸っている場合ではない。両親に見つからないうちに目的を遂行せねばならない。
仏壇の前で澄花はそっと手を合わせた。そして、彼女はリビングを出ると、静かに二階への階段を登っていった。――今夜の陽菜がせめて、幸せな夢を見ていることを願って。
(――ん?)
時雨は己の御霊石に異変を感じて、手に持っていたグラスを文机に置いた。ガラスの中にはクリーム色がかった白色の液体が揺れている。
(――地上への道が開かれている?)
この気配から察するに、中庭の祠が地上へと繋がっている。時雨が何をしたわけでもないのに、そんなことが起きているのは明確な異常だった。
今日は儀式の日ではない。川の世界と地上を結ぶ道を開いたのが自分でないのであれば、こんなことができるのは他に一人しかいない。――澄花だ。
時雨は自身の指へと意識を集中する。薬指に結ばれた水の糸は澄花へと繋がっている。
(澄花の気配が……遠い……?)
一体澄花はどこにいるというのだろう。この感じでは彼女はこの屋敷にいない。彼女はどこへいったんだ。時雨はさーっと血が下がっていくのを感じた。
居ても立っても居られなくて時雨は文机の前から立ち上がった。その拍子に足元が一瞬ふらりとする。冷や汗が背中を伝う。目の前が真っ暗になりかけたが、時雨は歯を食いしばって意識を現実へと連れ戻す。
(水鞠なら、何か知っているかもしれない)
時雨は部屋を出ると、早足で廊下を歩く。体力が落ちているのか、たったそれだけのことではあはあと息が上がった。
「――水鞠、いるか? 澄花のことで聞きたいことがある」
水鞠の部屋を訪ねると、時雨は彼女の部屋の外から声をかける。すぐに返事があり、すっと障子が開かれる。もう寝る前だったのか、水鞠は浅縹の寝間着に身を包んでいた。
「すまない。寝るところだったのだな」
「いえ、構いませんよ。ところで、澄花様がどうかなさったのですか?」
「澄花が今、どこにいるか知らないか?」
「澄花様ですか? そういえば、紅雨様からお手紙が来ていたようですが」
水鞠に言われ、今朝そんなこともあったと時雨は思い出す。確か、澄花との時間を過ごしている最中に、漣が紅雨からの手紙を持ってきたのだった。
「紅雨にも話を聞いてみよう。水鞠、こんな夜遅くに済まなかったな」
「いえ、とんでもございません。……時雨様、よろしければ私が紅雨様のお部屋までご一緒しましょうか?」
顔色の悪い時雨に水鞠はそう声をかける。悪いな、と時雨はその申し出を大人しく受け入れた。
水鞠は時雨の身体を支えてやりながら、ゆっくりと廊下を歩く。二人はそのまま紅雨の部屋へと向かった。
「――紅雨、いるか。聞きたいことがある」
華やかな椿の透かし彫りが施された障子の前で時雨は足を止めた。開けなさい、と紅雨が水霜に命じる幼くも気高い声が響く。
どうぞお入りください、と澄花と同じくらいの年齢の少女が障子を開けた。時雨は水鞠に支えられながら、妹の部屋へと足を踏み入れた。
「澄花は来ていないのか? 今朝、手紙を送っていただろう?」
手紙? と紅雨は幼く愛らしい顔に訝しげな表情が浮かぶ。
「澄花宛の手紙を漣に預けただろう?」
「そんなことしていませんわよ。――あら?」
紅雨は最近愛用している便箋を取り出すと、違和感に気がついた。昨日に比べて便箋が一枚減っている。揃いの意匠の封筒もだ。
紅雨は今朝の出来事を思い出す。朝餉の後、時雨の体調について相談があると漣が部屋を訪ねてきていた。しばらく話をした後、漣は時雨の部屋に戻っていったはずだったが、まさか自分の便箋と封筒を盗み出していたとは思わなかった。
「お兄様、澄花を呼び出したのは漣ですわ。今朝の手紙はわたくしではなく、漣が書いたものです」
「漣が? 漣が澄花に地上への道を開かせたというのか? 何のために?」
「地上への道って……まさか、お兄様、澄花は今この家にいないんですの? どうしてそんな大事なことを先に言わないんですの!」
紅雨は声を荒らげた。しかし、裏腹にその思考はひどく冴えていた。
時雨の体調不良。連日の酷暑。時雨の忠実な右腕である漣は、時雨を守るためならきっと手段を選ばない。――そのために、漣が澄花に何かをさせようとしているのだとしたら。
「――お兄様。漣を探してきますわ。きっと、漣は何かを企んでいます。澄花に何かをさせようとしているのです。早く漣をとっ捕まえて、何を考えているのか洗いざらい吐かせないといけませんわ」
紅雨はそう言って立ち上がる。空色の双眸には憤みの色が揺れていた。
「お兄様はこちらで休んでいらして」
「そんなわけにはいかない。他ならぬ澄花のことだ」
紅雨の後に続こうとした時雨の足元がふらついた。それを見た紅雨は駄目ですわ、と首を横に振る。
「お兄様はここにいてちょうだい。水鞠、お兄様を頼みますわよ。勝手に漣を探しに行かないように見張っておいて」
「承知いたしました、紅雨様」
水鞠は頭を下げる。行きますわよ、と水霜を伴って紅雨は部屋を出ていった。時雨はその小さな背中を頼もしく思いながら見送った。
澄花は今、一体どこで何をしているのだろうか。漣は一体澄花に何をさせようとしているのだろうか。今の時雨には澄花の無事を祈ることしかできなかった。
ひたひたと足音を消して階段を上り切ると、澄花は妹の部屋の扉を静かに開けた。窓際のベッドではどことなくあのころの妹の面影を残す若い女が布団に包まってすうすうと寝息を立てている。
本棚にはびっしりとお菓子作りに関する本が詰まっていた。子供のころから使っている勉強机の上にはメイク道具が散らかっている。陽菜の部屋の中もまた、着実に十歳の少女を二十五歳の女に変えただけの年月を重ねていた。
(――陽菜)
澄花は陽菜が眠るベッドへ近づくと、腰を下ろした。澄花の年齢を大きく通り越した彼女は、この十五年の間、何を思い、何を見て生きてきたのだろうか。
澄花はそっと眠る陽菜の首筋に手を這わせた。とく、とく、と頸動脈が鼓動を刻んでいる。控えめにかけられた冷房に晒された肌は少しひんやりとしていた。
きっと陽菜は何も知らないのだろう。自分が日輪の巫女であることを。自分がこの地に仇なす存在であることを。――澄花の最愛の人を脅かしているという事実を。
この手が陽菜の首を絞めれば、どうなるか。彼女は苦しみ抜いた挙句、生命を落とすだろう。否、彼女の生命を確実に奪わねばならないのだ。――それが時雨のためなのだから。
ぽた、と澄花の目から涙が滴り落ちた。それは雨のようにシーツの上にぽつぽつとシミを作っていく。
――陽菜が母のお腹にいることがわかったのは、小学二年生のゴールデンウィークのことだった。お姉ちゃんになるのだと聞かされて、嬉しいような悲しいような不思議な気持ちだった。
ごめんね、と呟きながら、澄花は陽菜の頸動脈を指先で圧迫する。時雨のためとはいえ、こんなことをしている自分が嫌だった。
――陽菜が生まれたのはクリスマスを前にした十二月の下旬の朝。病院から帰ってきた父が、生まれたよ、妹だよ、と嬉しそうに告げたのを覚えている。まだ、そのときは自分が姉になったのだという自覚は薄かった。
ごめんね、陽菜。ごめんね。こうするしかないの。わたしにはこうすることしかできないの。澄花はひくっ、ひくっ、としゃくり上げ始める。どうして自分たち姉妹だけが、こんな運命を背負わなければならないのだろう。――愛しい人のため、姉が妹を殺すという運命を。
――陽菜はよく泣き、よくミルクを飲み、すくすくと育っていった。気がつけば、少しずつ離乳食を食べるようになって。いつの間にか、掴まり立ちをするようになって。
澄花は手に力を入れようとする。自分がやろうとしていることの恐ろしさに、手が震える。やっぱり嫌だ。こんなこと、したくない。
――陽菜が幼いころは、よく彼女に付き合って流行りの女児向けアニメを見た。陽菜を喜ばせたいと、澄花は毎年変わる主人公たちのイラストを自室でこっそり練習した。澄花が描いたイラストを陽菜にあげたら、喜んで部屋に飾っていた。
ごめんなさい。ごめんなさい。澄花は嗚咽を繰り返す。それは陽菜に向けてのものなのか、両親に向けてのものなのか、はたまた時雨に向けてのものなのか――澄花自身にももうわからなかった。
――陽菜がはじめてお菓子を作ったのはいつのことだったか。確かに絵本に載っていたカステラのレシピがきっかけだったと澄花は記憶している。そのお菓子はひどく拙い出来だったが、とても美味しかったのを覚えている。
陽菜との記憶が絶え間なく胸へと去来する。彼女の笑顔を、声を思い出す度に、自分には無理だという感情が思考を染めていく。
「う……」
ふいに陽菜が寝苦しそうに顔を歪めた。はっとして、澄花は陽菜の首から手を離す。
無理だ。やっぱり自分には無理だった。自分には陽菜の生命を奪うなんてことはできない。だって、世界にたった一人の大切な妹なのだから。
普通の姉妹に比べて距離があったことは否めない。家の中が陽菜を中心に回ることを疎んじたこともあった。それでも陽菜は自分にとって大切な妹であることは変わらない。
「おねえ、ちゃん……?」
眠たげな声にそう呼ばれ、澄花はびくりとした。いつの間にか陽菜はうっすらと目を開けていた。
一瞬、二人の視線が交錯した。一秒、二秒、三秒。それだけの間が澄花にはやけに長く感じられた。
寝ぼけていただけだったのか、陽菜は再び目を閉じると、すう、すうと寝息を立て始めた。澄花はおやすみ、と呟く。その声の響きにはごめんねとさよならが混ざり合っていた。
澄花はあの後、どうやって時雨の屋敷まで帰ってきたのかよく覚えていない。安堵と後悔が頭の中でぐるぐると渦を巻いていた。これでよかったのかと、どうして陽菜を殺せなかったのかと、ずっと自問自答し続けていた。
「――お戻りになられましたか」
澄花が中庭の祠から姿を現すと、漣が待っていた。よく切れる刃物のような漣の声音に、澄花は俯いた。漣の顔をまともに見られない。澄花は蚊の鳴くような声で詫びの言葉を口にする。
「漣さん、ごめんなさい。わたしには、無理でした。陽菜を殺すなんて、わたしにはどうしてもできませんでした。ごめんなさい。本当に、ごめんなさい……」
澄花はごめんなさい、と何度も繰り返す。その声にはだんだんと涙の気配が混ざっていく。
時雨のために何もできなかった自分が情けなかった。だけど、自分が陽菜の生命を奪うことにならなくてよかったとも思っていた。時雨にも陽菜にも幸せに健やかに生きてほしいと思ってしまう自分は、どうして役立たずのくせにこんなに欲張りなのだろう。
そんな澄花を尻目に、漣は嘆息する。澄花を見る目は氷の冷たさを帯びていた。
「――澄花様。貴女には失望しました。時雨様への貴女の想いはその程度のものだったのですね」
「そんなっ……ちがっ……わたしは、時雨様のことを、愛して……っ!」
「ならば、どうして貴女は選ぶことができなかったのですか? 時雨様か、妹か。時雨様を心から愛していらっしゃるというのなら、考えるまでもないことのはずでしょう?」
それは、と澄花は口籠る。漣の指摘は正鵠を得ていた。澄花の眼窩を涙が溢れ出る。鼻の奥がつんとした。
「時雨様を愛しているのは本心です。だけど……時雨様も、陽菜も、わたしにとってはどちらも大切なんです……どちらも、失くしたくないって思ってしまったんです……」
お話になりませんね、と漣は肩をすくめる。うわああああっと、澄花は子供のように声を上げて泣いた。
このままだときっと、遠くない未来に時雨はいなくなってしまう。自分たちを死が別つのだ。
耐えられないと思った。けれど、陽菜の生命を奪うのも嫌だ。もう一度陽菜の殺害を試みるなど、自分にはできそうにない。
ざっざっと玉砂利を蹴るようにして誰かが近づいてきていた。その足音の主は漣と澄花の姿を認めると、棘のある声を放つ。その声は幼い少女の姿からは想像もつかないほど鋭いものだった。
「――漣、そこで何をしているの? いえ、質問が違うわね。――あなた、澄花に一体何をさせたの?」
しゃくり上げながら澄花が顔を上げると、愛らしい顔を怒りに染めた紅雨が立っていた。その背後には水霜が控えている。
夜空は分厚い雲に包まれたままで、川底に月の光は届かない。重苦しくひりついた空気が深夜の中庭に立ち込めていた。
白い漆喰壁の蔵の中、古い書物を漁っていた漣はとある記述に目を留めた。墨の匂いが彼の鼻腔をしっとりと満たす。
初めての雨乞いの儀式から、何回も時雨と澄花は儀式を繰り返してきた。儀式を行った直後こそ、雨は降るが、連日の暑さによってだんだんと猛川は水位を減らしつつあった。
ここ十数年続く日照りには何か原因があると漣は睨んでいた。歴史上、類を見ないほど強力な力を持つ雨催いの巫女である澄花をもってしても、この旱魃に太刀打ちできないのには何か理由があるはずだ。
時雨が澄花と結ばれてから数日。中庭の祠にある時雨の御霊石がじわじわと小さくなり始めた。澄花の前では取り繕っているつもりのようだが、時折具合が悪そうにしているのを漣は知っていた。本人に問いただしたところ、早めの夏バテだろう、心配ないと苦笑していたが。その笑みがどこか儚げで、遠からず時雨も先代の水神であった樹雨のように消えてしまうのではないかと、漣は不安だった。
(――私の役目は時雨様を護ることだ。私は樹雨様に時雨様を託されたのだから)
漣は、元々は先代の水神である樹雨の眷属だった。しかし、水難からこの地を守ろうとした結果、彼は力を使い果たして消えていってしまった。――時雨を助けてやってくれ、ただその一言だけを残して。
(紅雨様にしても、水神として覚醒するまでにあと何百年、何千年かかるかわからない。それまでに時雨様が儚くなられて、この猛川に水神がいないなんてことになってはならない。――それに何より私は時雨様を樹雨様の二の舞にしたくはない)
漣は澄花と時雨の二人が惹かれ合うように仕向けてきた。最後に二人の背を押したのは水鞠と紅雨だが、陰で二人が意識し合うように仕組んできたのは漣だった。――澄花を時雨のために動く手駒とするために。
(……今の澄花様ならば、時雨様のために命をも捧げるだろう)
その純粋さを利用するのは残酷だ。だが、躊躇う余地はない。使えるものは使うまでだ。
(それにしても……日輪の巫女か)
澄花とは反対に太陽を招く存在。本来なら豊穣をもたらすものだ。だが、行き過ぎればその恵みも禍となる。
毎年のように大地を焦がす日差し。それを抑えるために、文字通り時雨は身を削ってきたのだ。
ならば、手を打たねばならない。漣は澄花に日輪の巫女を始末させる心づもりだった。
漣は書物の間に地図が挟まれているのを見つけた。それはこの周辺一帯の地図だった。漣はそれを広げ、何事か唱えると地図の上に指を這わせる。彼の指先にほのかな青い光が灯った。
(――八霧神社の近くに、我々とは違う力の反応がある)
力の根源を探るべく、漣は指先で八霧神社の近くを念入りに調べていく。すると、とある民家の上で最も反応が強くなることに気づいた。
雨霧、と漣は呟く。それは澄花の実家だった。
(――まさか)
とある可能性に漣は気づく。澄花が陸から姿を消した二〇二五年以降、日照りは急激にひどくなった。それまでにも日輪の巫女は存在していた。だが、澄花の力が強すぎて、覆い隠されていただけなのだ。
では、日輪の巫女は誰なのか。母か、あるいは妹か。
漣は書物の年号を追う。澄花が生まれた頃、この地に雨催いの巫女の記録はない。同時に日照りの記録もない。
(――もしや、日輪の巫女というのは……)
記録を追えば答えはひとつに収束する。日輪の巫女というのはつまり――
漣は、澄花に日輪の巫女を殺せと命じるつもりだった。彼女こそが時雨を苦しめる元凶だ。それが時雨を――ひいてはこの猛川を守るために、漣が唯一できることだった。
(――時雨様はどうお思いになるだろう)
漣は暗く笑った。時雨は澄花を利用しようとした自分を許さないかもしれない。けれど、時雨を守ることができるなら、彼に憎まれることとなっても構わない。
紙と墨の香りが蔵の中に沈澱している。漣はどう事を運ぶかを考え始める。その胸中はよく切れる刃物のように怜悧で、冬の水面のように冷たく冴えた感情で覆われていた。
よしできた、と澄花は盆の上に乗った菓子を眺めると満足げに微笑んだ。様々な食材が保管された氷室の中では、六月という季節とは裏腹にひんやりとした空気が肌を撫でていく。
澄花は盆を手に氷室を出る。そして、勝手口から厨房へと戻ると、流しで朝餉の片付けをしている秋水がいた。
「おや、澄花様。そのご様子ですと、上手くできたようですね」
「秋水さんのおかげです。秋水さんがわたしでもわかるように教えてくださったので」
とんでもありません、と秋水は目を細める。澄花は手にした盆の上から、ぷるぷると揺れるくず寄せの入った器を四つ下ろした。
「これ、よろしければ紅雨様と皆様で召し上がってください」
「嬉しいです。後で皆でいただきます。紅雨様のお部屋にもお届けしておきます」
秋水は食器を洗う手を止めると、ぺこりと頭を下げる。澄花は秋水に会釈を返すと、盆を手に厨房を出た。藍色の暖簾が揺れた。
(時雨様、喜んでくださるかな……)
逸る心を押さえながら、澄花は足を急がせる。廊下から見える中庭は朝露にしっとりと濡れて美しい。水と緑の混ざり合った匂いが一日の始まりを告げていた。
肌襦袢の内側であの夜、時雨からもらった翡翠のペンダントが揺れている。その冷たく硬い感触に、水面で輝く朝日のようにきらきらとしたものを覚える。それは澄花が初めて知った恋のきらめきだった。
時雨はこれを食べてくれるだろうか。また、美味しいと言ってくれるだろうか。それを考えるだけで心がくすぐったくなる。
「時雨様。わたし――澄花です。入ってもよろしいでしょうか?」
時雨の部屋の前まで来ると、障子越しに澄花は声をかける。ああ、と優しく穏やかな声が返ってきた。その声の響きからは澄花を愛おしく思っていることがひしひしと伝わってくる。
「――澄花。待っていたよ。入りなさい」
失礼します、と澄花は漆塗りの盆を片手に障子を開ける。黒檀の座卓の前に紺青の着物を身に纏った時雨が座っていた。
後ろ手に障子を閉めながら、澄花は時雨の部屋の中にそっと視線を巡らせる。朝餉の後、時雨とともに部屋戻っていったはずの漣の姿がない。
「時雨様、漣さんは?」
「先ほど、用があると言って出ていった。大方、紅雨にでも呼び出されているのだろう」
それより、と時雨は言葉を切る。透き通る青藍の双眸には拗ねたような色が浮かんでいた。
「私といると言うのに、君は別の男の話をするのか? ――妬けてしまうな」
時雨の声が切なげな艶を帯びる。一瞬、水が揺らいだ。澄花はどきまぎとしながら、手に持った盆を座卓の上に置くと畳へと膝をつく。そして、楝色の着物の裾を整えながら、雲紋様が銀糸で刺繍された銀鼠の座布団の上に身体を移した。
「し、時雨様。紅雨様から枇杷を分けていただいたので、くず寄せにしてみたんです。よろしければ、一緒に食べませんか?」
このごろ、時雨に食欲がないのが澄花は気に掛かっていた。毎食、澄花は時雨と食事を共にしているが、食の進みが悪いのだ。漣に聞いたところ、少し早い夏バテだとのことだったが。
好きなものなら食べてくれるだろうか。くず寄せならば喉越しもよく食べやすい。澄花が昨晩、厨房でくず寄せを拵えたのはそう考えてのことだった。
「そうだな……澄花が食べさせてくれるのなら」
え、と澄花は顔が赤らむのを感じた。駄目か、と甘い声で時雨は畳み掛けてくる。
時雨と澄花の視線が絡まり合う。どきどきと心臓が高鳴るのを澄花は感じた。甘い予感と背徳感が綯い交ぜになって胸を迫り上がってくる。
「澄花……どうしても、駄目か?」
「駄目じゃない……です」
時雨の双眸に吸い寄せられるように澄花は立ち上がると、時雨の側へと寄る。ほら、と時雨は澄花の細い手首を掴むと自分の膝へと座らせた。触れ合った温もりに、着物に焚きしめられた白檀の香りに、間近に見える長い睫毛に、澄花の胸はどうしようもなく高鳴る。きゅんと甘酸っぱい感情に澄花ははにかんだように目を伏せる。
「澄花。恥ずかしがらずに、私に顔を見せて欲しい。私は君のどんな表情もすべてこの胸に焼き付けておきたい」
「そんな……あの、時雨様、くず寄せをお召し上がりになるはずでは」
澄花はたじろぎながらそう口にした。時雨はすっと澄花の頬に指を這わせると、耳元で囁いた。
「それも魅力的だが……それよりも先に私は君を食べたい。――駄目か?」
濃い色気を纏った掠れた声に、澄花は期待で背筋がぞわりとするのを感じた。時雨様、と愛しい男神の名を呼ぶと、澄花はその瞬間を待つ。
そのとき、すぱーんと障子が開かれ、漣が部屋へと入ってきた。ぎゅっと澄花は時雨に抱き寄せられる。今の顔を他の誰かに見せられる気がしなくて、澄花はされるがままに時雨の胸に顔を埋めていた。どくん、どくん、と時雨の心臓が脈打つのが聞こえる。
「――漣。何か用があったのではなかったのか」
「それなら済みました。……澄花様にこれを」
「ん……? 紅雨からの手紙か」
朝顔の意匠の封筒に目をやると、そこに置いておけと時雨は言った。漣は封書を座卓の上に置くと、ため息混じりに時雨と澄花を見やる。何というか朝っぱらから糖度が高すぎて、口から砂糖を吐きそうだ。
「まったく、時雨様ときたら、澄花様と思いが通じ合った途端にこれですか。水神たるもの、朝っぱらからそんなにイチャイチャするものではありません。まずはその緩んだだらしない顔をどうにかしてください」
「どうしようもなく、澄花のことが愛おしいんだ。仕方がないだろう? このくらいは見逃してくれ」
何がいけないのかわからないとでもいったふうに、時雨は平然とそう言ってのける。澄花はもう自分が嬉しいのか恥ずかしいのか頭がぐちゃぐちゃになってよくわからなかった。
「漣、もう用がないなら外に出ていてくれ。私は澄花との時間を満喫したい」
時雨は漣に退室を促す。お邪魔虫は退散しますよ、と漣は肩をすくめると部屋を出ていった。すっと障子が閉まる音がする。
廊下を歩く漣の足音が遠ざかっていく。澄花、と呼ばれて顔を上げると、二人の視線が再び重なった。熱を帯びた目と目が見つめ合う。
時雨は己の唇を澄花のそれに重ねる。せせらぐ川の音が一瞬、遠くなる。互いの鼓動を聞きながら、二人はいつまでもそうしていた。――まるで、時が止まってしまったかのように。
その日の夜、屋敷の裏にある蔵へと澄花は呼び出されていた。紙と墨の匂いが漂う薄暗い蔵の中で、澄花はとある人物を待っていた。
午前中に漣が澄花の元へ持ってきた手紙。その差出人は紅雨ではなかった。あの手紙を書いた主――今ここに澄花を呼び出しているのは漣だった。
――時雨様についてお耳に入れたい話があります。今夜、夜十時に蔵に来てください。水鞠は連れずに、お一人で。
可愛らしい便箋の意匠に反して、内容はひどく簡潔だった。一人で、というのが気に掛かりはしたが、まさか漣が自分に危害を加えることもないだろう。漣は時雨の右腕――時雨が澄花のことをどう思っているか誰より知っている人物なのだから。
ギィと蝶番が軋む音と共に、青銅の扉が開いた。扉の隙間から、宙を舞う水泡と蛍の二色の光が淡く差し込んでくる。
すっとチャコールグレーのスーツに身を包んだ男は扉の隙間に身体を滑り込ませると、静かに扉を閉める。蔵の中がどうにかお互いの顔が確認できるくらいの仄暗い闇に包まれると、漣は口を開いた。
「澄花様、お待たせして申し訳ありません」
「いえ、わたしも先ほど来たところですので。それより、時雨様についてお話があるとのことですけど、どのような――」
「澄花様はこの先も、時雨様と共にいたいですか?」
直球な漣の質問に顔が熱くなった。午前中の様子を漣に見られてしまった手前、彼とうまく目を合わせられない。
「あっ……当たり前です。わたしは……時雨様を誰より大切に思っているんですから」
「あなたは時雨様のためなら、なんだってできますか?」
それが自らの手を汚すようなことであっても。その言葉は漣は自分の口の中に閉じ込めておく。余計なことを言って澄花を躊躇わせたくない。今は言質を取るのが先だ。
「もちろんです。わたしは時雨様のためなら、生命だって差し出せます。――時雨様が望むのなら」
それは漣にとって充分な答えだった。かかった、と漣は怜悧な笑みを浮かべる。
「時雨様が最近体調がよろしくないことは澄花様もご存じですね。それを夏バテだと仰っておられることも」
ええ、と澄花は頷いた。漣は話を続ける。
「澄花様は中庭の御霊石がだんだんと小さくなってきているのをご存じですか?」
「――え?」
唇が震えるのを澄花は感じた。御霊石は時雨の力の源だ。それが小さくなっているということは、時雨の力が弱っているということを意味している。
事態を理解したらしい澄花の顔が強張っていくのが暗がりでもわかった。漣は哀れな少女へと現実を突きつけていく。
「猛暑による旱魃からこの地を守るため、時雨様は身を削っていらっしゃいます。しかし、このままでは時雨様は力を使い果たして消えてしまいます。――それを防ぐため、澄花様には選んでいただきたいのです」
澄花に取れる選択肢は二つ。しかし、漣は確信していた。――彼女は後者を選ぶであろうことを。
「雨催いの巫女の力をすべて時雨様の御霊石に注ぎ、婚姻関係も眷属の契約もすべて解消して時雨様の元を離れるか。契約結婚も眷属を抱えることも、時雨様にとって神力を削ることなのです。――あるいは、澄花様がこの猛暑の原因となっているものを排除するか」
「猛暑の原因、ですか?」
「はい。日輪の巫女という存在がこの地にはいます。そのものは太陽を呼び、大地に恵みをもたらす存在です。しかし、その者の力が強まったことによって、時雨様は苦しんでおられます。――澄花様には、日輪の巫女を殺してほしいのです」
「えっ……殺、す……?」
衝撃的なその単語を思わず澄花は反芻する。自分に誰かを殺すことなどできるだろうか。仮にできたとして、何も感じずに時雨の側で今後も生きていけるだろうか。
「先ほど、澄花様は時雨様のためなら生命だって差し出せると仰いました。それならば、人ひとり殺すことくらい、造作もないことでしょう。――それが他ならぬ時雨様のためであるともなれば」
時雨のため。時雨が消えていなくなってしまうくらいなら、自分が手を汚すほうがまだマシだ。あの穏やかな笑みが、優しい声が、触れ合った温もりがなくなってしまうくらいなら。
「……わかりました」
澄花は蚊の鳴くような声で返事をした。どこの誰とも知らない誰かに、心の中で詫びながら。
「ありがとうございます。そうそう、澄花様にはもう一つお伝えしておかなければならないことがありました」
漣は一度言葉を切る。そして、次に口を開いた彼から飛び出した言葉はひどく冷たい響きを纏っていた。
「日輪の巫女の名は、雨霧陽菜。――あなたの妹です」
澄花は目の前が真っ暗になるのを感じた。冷たく静かな表情で自分を見下ろす漣が悪魔のように感じられた。澄花は己の運命を呪わないではいられなかった。
「――我、水を治めし者。此の地を潤さんがため、あわいの境へ踏み入ることを希わん。祈りに応え、一夜の路を開け」
中庭の祠の前で澄花はそう誦じた。それは雨乞いの儀式の際、地上への道を開くために時雨がいつも唱えている祝詞だった。
この祝詞を唱えるように言ったのは漣だった。時雨の力を補って余りある力の持ち主である澄花ならば、川の世界と地上のあわいへ働きかけることも可能だろう、と。
その石は澄花が初めて目にしたときよりも、明らかに一回り以上小さくなっている。漣がこのような強硬策に出た理由も納得はできなくても理解はできる。
(時雨様……)
今朝、抱きしめてくれた身体はいつの間にか澄花が知っているものよりも痩せてしまっていた。時雨の身を案じているのは澄花だって同じだった。
今、時雨のことを守れるのは自分しかいない。時雨のことを思うなら、自分がやるしかないのだ。――それが実の妹を手にかけることだったとしても。
(陽菜、ごめん……ごめんね……。お父さんも、お母さんもごめんなさい……こんなことしかできない、親不孝な娘で……)
陽菜のことを思うと、胸がぎゅっと締め付けられる。時雨のためとはいえ、陽菜を殺めることには躊躇いがあった。
両親にだって申し訳ない。娘が二人ともいなくなってしまうなんて。しかも、陽菜を殺めたのがいなくなったはずの自分だなんて、両親が知ったら心を病んでしまうかもしれない。
何で自分が、と思う。けれど、自分でなければできないことなのだとも思う。苦悩のあまり、澄花は唇を噛む。
あまりここでぐずぐずしていて、誰かに見咎められてしまってはいけない。これから澄花が行なおうとしていることは漣と自分しか知らないのだ。
誰にも見られないうちに早く行かなくては。けれど、誰かに止めて欲しいと思っている自分が心の中に同居していた。
閉じた雨戸の内側で、廊下を誰かがこちらに向かって歩いてくる音がした。澄花ははっとして、祠の石へと急いで手を伸ばす。彼女が御霊石へと触れると青い光が溢れだした。
水の匂いを放つ石は時雨の肌のようにひんやりと冷たい。その石はいつの間にか澄花の両手にすっぽりとおさまる大きさになってしまっていた。そのことが澄花にとっては悲しく切なかった。――優しいあの人が、誰にも何も言わずにこんなになるまで自分をここまですり減らしていたことが。
澄花の身体を包む水の膜が青い光を放ち始める。一瞬の後、澄花は祠の中へと吸い込まれていった。
二色の淡い光が飛び交う中庭では、竹垣に蔓を這わせた朝顔が蕾の中に顔を隠している。青い光を放つ御霊石だけが、つい先程までここに少女がいたことを知らしめていた。
水神社の鳥居を出た澄花は空を見上げた。空は灰色の分厚い雲に覆われ、月は顔を隠している。夏の星座を形取る星々も今は見えない。
(水の匂いがしない……今夜は雨は降らなさそう)
それは雨催いの巫女である澄花の力よりも日輪の巫女の力の方が強いということを意味していた。昔は澄花がちょっと外に出ただけで、天はたちどころに泣き出したというのに。
境内の外の川沿いの道を車が走っていった。それを見送ると、そっと鳥居を出て澄花は水神社のある八霧神社の境内を歩き始める。
この神社には、夏祭りの度に陽菜と訪れた記憶がある。そぼ降る雨の中、暖かい色に光る電球。赤と白の提灯に立ち並ぶ屋台。陽菜はベビーカステラが好きで、夏祭りの度に一緒に分け合って食べたのを覚えている。
(――そうだ、あの子、いつもりんご飴も欲しがってたな。絶対に食べ切れないのに)
澄花は人気のない神社の境内に、幼い妹の面影を見た。きらきらと光る飴に包まれた赤い果実。いつもそれを家に持ち帰っては陽菜はどうにか食べようと格闘していた。大抵三分の一も食べないうちにギブアップすることになり、残りを澄花が引き受けてきたが。そんな些細なことも今の澄花にとっては昨日のことのように思い出せる大切な記憶だ。
鳥居をくぐり、澄花は八霧神社を出る。神社を出てすぐの家は変わらずまだそこにあった。しかし、澄花の視界に入る限りでも、何軒かの家が姿を消し、新しいものへと建て替えられている。澄花が中学生のころの大型台風によって地価が上がったこの地域には、元々古い家が新しい家へと建て替えられる動きはあったものの、これだけ風景が様変わりしていると十五年という年月を感じざるを得ない。
こつこつ、と夜の静寂に下駄の音を響かせて澄花は記憶にある道を辿る。
駐車場に電柱。中学生の同級生の家に右手に見える曲がり角。古くからの家の門扉の側に佇む地蔵尊。そして、カーブミラーのある曲がり角に、三十三番地を示すプレート。
澄花はその角を曲がる。むわっとした空気を孕んだ夜風が楝色の着物を肌に張り付かせた。
辺りにあった古い家々はもうない。代わりにコンパクトなサイズの新しい戸建てが密集するように建っていた。
(ああ……あの家、もうないんだ)
前はこの辺りにリオンと同じブラックタンのミニチュアダックスフントを飼っている家があった。ミニチュアダックスフントらしくよく吠える犬だったが、見かける度に微笑ましく思ったものだ。
寝静まった住宅街を澄花は歩く。右側には細い路地が続く。左側には十五年の年月を重ねた姿のアパートが佇んでいた。
少し先に見覚えのある赤い自販機が見えた。しかし、自販機の横にあったはずの古い民家は姿も形もない。
(ここ……だよね)
路地の入り口にある駐車場の、草が伸び放題な姿は記憶にあるままだ。慣れない家々に複雑な思いを覚えながら、澄花は路地へと足を踏み入れる。
あの家がもうないということは、陽菜のことを孫のように可愛がってくれたあのおばあさんはもうこの世にはいないのかもしれない。
駐車場の先、路地の右側に家が三軒見えた。そのうちの二軒目――白い壁の家が澄花の実家だ。
もう夜も更けている。家族全員が眠りについていることを祈りながら、袂に忍ばせた家の鍵へと澄花は手を伸ばす。
「――あれ?」
澄花は玄関のドアの鍵が変わっていることに気づいた。ドアに取り付けられているのは、かつてのシリンダー錠ではなく、指紋認証による電子錠だった。
どうしよう、と澄花は眉尻を下げた。しかし、これで陽菜を殺さずに済む理由ができたと安堵しかけた――そのとき。
澄花は鍵に零から九までの数字が刻印されたボタンがあることに気づいた。もしかして、と思いながら澄花は脳裏を過った四桁の数字を入力した。――それは両親が銀行口座やタブレットの暗証番号などによく使っていた語呂合わせのあの数字。
がちゃん、と音が響き鍵が開いた。そんな、と思いながらも澄花は音を立てないようにドアハンドルを引くと、十五年ぶりの我が家へと足を踏み入れる。玄関で下駄を脱ぐと、リオンに気づかれないように足音を忍ばせて澄花は二階への階段を登ろうとした。
そのとき、ふわりと線香の煙の匂いが一階を静かに満たしているのに澄花は気がついた。なんだろう、と思いながら澄花はリビングへと足を運ぶ。
(あ……)
リビングの一角に仏壇が設えられていた。その側には今と同じ顔の自分の写真とリオンの写真が遺影として置かれていた。
(そっか……あの子、死んじゃったんだ……)
リビングの隅にあったリオンのケージはもうない。あるのはほのかな気配と染みついた獣の匂いだけだった。
自分が死んだことになっているのはまだいい。川に飛び込んで遺体が見つからなかったとなれば、そう結論づけられるのは当然のことだ。
しかし、可愛がっていた愛犬の死には、静かな悲しみが込み上げてきた。十五年というのは犬が老いて死んでいくのには充分すぎる年月だ。
目の奥を熱いものが込み上げてくるのを感じた。リオン。愛犬の名を心の中で呼びながら、澄花は指先で目元を拭った。
ここで悲しみに浸っている場合ではない。両親に見つからないうちに目的を遂行せねばならない。
仏壇の前で澄花はそっと手を合わせた。そして、彼女はリビングを出ると、静かに二階への階段を登っていった。――今夜の陽菜がせめて、幸せな夢を見ていることを願って。
(――ん?)
時雨は己の御霊石に異変を感じて、手に持っていたグラスを文机に置いた。ガラスの中にはクリーム色がかった白色の液体が揺れている。
(――地上への道が開かれている?)
この気配から察するに、中庭の祠が地上へと繋がっている。時雨が何をしたわけでもないのに、そんなことが起きているのは明確な異常だった。
今日は儀式の日ではない。川の世界と地上を結ぶ道を開いたのが自分でないのであれば、こんなことができるのは他に一人しかいない。――澄花だ。
時雨は自身の指へと意識を集中する。薬指に結ばれた水の糸は澄花へと繋がっている。
(澄花の気配が……遠い……?)
一体澄花はどこにいるというのだろう。この感じでは彼女はこの屋敷にいない。彼女はどこへいったんだ。時雨はさーっと血が下がっていくのを感じた。
居ても立っても居られなくて時雨は文机の前から立ち上がった。その拍子に足元が一瞬ふらりとする。冷や汗が背中を伝う。目の前が真っ暗になりかけたが、時雨は歯を食いしばって意識を現実へと連れ戻す。
(水鞠なら、何か知っているかもしれない)
時雨は部屋を出ると、早足で廊下を歩く。体力が落ちているのか、たったそれだけのことではあはあと息が上がった。
「――水鞠、いるか? 澄花のことで聞きたいことがある」
水鞠の部屋を訪ねると、時雨は彼女の部屋の外から声をかける。すぐに返事があり、すっと障子が開かれる。もう寝る前だったのか、水鞠は浅縹の寝間着に身を包んでいた。
「すまない。寝るところだったのだな」
「いえ、構いませんよ。ところで、澄花様がどうかなさったのですか?」
「澄花が今、どこにいるか知らないか?」
「澄花様ですか? そういえば、紅雨様からお手紙が来ていたようですが」
水鞠に言われ、今朝そんなこともあったと時雨は思い出す。確か、澄花との時間を過ごしている最中に、漣が紅雨からの手紙を持ってきたのだった。
「紅雨にも話を聞いてみよう。水鞠、こんな夜遅くに済まなかったな」
「いえ、とんでもございません。……時雨様、よろしければ私が紅雨様のお部屋までご一緒しましょうか?」
顔色の悪い時雨に水鞠はそう声をかける。悪いな、と時雨はその申し出を大人しく受け入れた。
水鞠は時雨の身体を支えてやりながら、ゆっくりと廊下を歩く。二人はそのまま紅雨の部屋へと向かった。
「――紅雨、いるか。聞きたいことがある」
華やかな椿の透かし彫りが施された障子の前で時雨は足を止めた。開けなさい、と紅雨が水霜に命じる幼くも気高い声が響く。
どうぞお入りください、と澄花と同じくらいの年齢の少女が障子を開けた。時雨は水鞠に支えられながら、妹の部屋へと足を踏み入れた。
「澄花は来ていないのか? 今朝、手紙を送っていただろう?」
手紙? と紅雨は幼く愛らしい顔に訝しげな表情が浮かぶ。
「澄花宛の手紙を漣に預けただろう?」
「そんなことしていませんわよ。――あら?」
紅雨は最近愛用している便箋を取り出すと、違和感に気がついた。昨日に比べて便箋が一枚減っている。揃いの意匠の封筒もだ。
紅雨は今朝の出来事を思い出す。朝餉の後、時雨の体調について相談があると漣が部屋を訪ねてきていた。しばらく話をした後、漣は時雨の部屋に戻っていったはずだったが、まさか自分の便箋と封筒を盗み出していたとは思わなかった。
「お兄様、澄花を呼び出したのは漣ですわ。今朝の手紙はわたくしではなく、漣が書いたものです」
「漣が? 漣が澄花に地上への道を開かせたというのか? 何のために?」
「地上への道って……まさか、お兄様、澄花は今この家にいないんですの? どうしてそんな大事なことを先に言わないんですの!」
紅雨は声を荒らげた。しかし、裏腹にその思考はひどく冴えていた。
時雨の体調不良。連日の酷暑。時雨の忠実な右腕である漣は、時雨を守るためならきっと手段を選ばない。――そのために、漣が澄花に何かをさせようとしているのだとしたら。
「――お兄様。漣を探してきますわ。きっと、漣は何かを企んでいます。澄花に何かをさせようとしているのです。早く漣をとっ捕まえて、何を考えているのか洗いざらい吐かせないといけませんわ」
紅雨はそう言って立ち上がる。空色の双眸には憤みの色が揺れていた。
「お兄様はこちらで休んでいらして」
「そんなわけにはいかない。他ならぬ澄花のことだ」
紅雨の後に続こうとした時雨の足元がふらついた。それを見た紅雨は駄目ですわ、と首を横に振る。
「お兄様はここにいてちょうだい。水鞠、お兄様を頼みますわよ。勝手に漣を探しに行かないように見張っておいて」
「承知いたしました、紅雨様」
水鞠は頭を下げる。行きますわよ、と水霜を伴って紅雨は部屋を出ていった。時雨はその小さな背中を頼もしく思いながら見送った。
澄花は今、一体どこで何をしているのだろうか。漣は一体澄花に何をさせようとしているのだろうか。今の時雨には澄花の無事を祈ることしかできなかった。
ひたひたと足音を消して階段を上り切ると、澄花は妹の部屋の扉を静かに開けた。窓際のベッドではどことなくあのころの妹の面影を残す若い女が布団に包まってすうすうと寝息を立てている。
本棚にはびっしりとお菓子作りに関する本が詰まっていた。子供のころから使っている勉強机の上にはメイク道具が散らかっている。陽菜の部屋の中もまた、着実に十歳の少女を二十五歳の女に変えただけの年月を重ねていた。
(――陽菜)
澄花は陽菜が眠るベッドへ近づくと、腰を下ろした。澄花の年齢を大きく通り越した彼女は、この十五年の間、何を思い、何を見て生きてきたのだろうか。
澄花はそっと眠る陽菜の首筋に手を這わせた。とく、とく、と頸動脈が鼓動を刻んでいる。控えめにかけられた冷房に晒された肌は少しひんやりとしていた。
きっと陽菜は何も知らないのだろう。自分が日輪の巫女であることを。自分がこの地に仇なす存在であることを。――澄花の最愛の人を脅かしているという事実を。
この手が陽菜の首を絞めれば、どうなるか。彼女は苦しみ抜いた挙句、生命を落とすだろう。否、彼女の生命を確実に奪わねばならないのだ。――それが時雨のためなのだから。
ぽた、と澄花の目から涙が滴り落ちた。それは雨のようにシーツの上にぽつぽつとシミを作っていく。
――陽菜が母のお腹にいることがわかったのは、小学二年生のゴールデンウィークのことだった。お姉ちゃんになるのだと聞かされて、嬉しいような悲しいような不思議な気持ちだった。
ごめんね、と呟きながら、澄花は陽菜の頸動脈を指先で圧迫する。時雨のためとはいえ、こんなことをしている自分が嫌だった。
――陽菜が生まれたのはクリスマスを前にした十二月の下旬の朝。病院から帰ってきた父が、生まれたよ、妹だよ、と嬉しそうに告げたのを覚えている。まだ、そのときは自分が姉になったのだという自覚は薄かった。
ごめんね、陽菜。ごめんね。こうするしかないの。わたしにはこうすることしかできないの。澄花はひくっ、ひくっ、としゃくり上げ始める。どうして自分たち姉妹だけが、こんな運命を背負わなければならないのだろう。――愛しい人のため、姉が妹を殺すという運命を。
――陽菜はよく泣き、よくミルクを飲み、すくすくと育っていった。気がつけば、少しずつ離乳食を食べるようになって。いつの間にか、掴まり立ちをするようになって。
澄花は手に力を入れようとする。自分がやろうとしていることの恐ろしさに、手が震える。やっぱり嫌だ。こんなこと、したくない。
――陽菜が幼いころは、よく彼女に付き合って流行りの女児向けアニメを見た。陽菜を喜ばせたいと、澄花は毎年変わる主人公たちのイラストを自室でこっそり練習した。澄花が描いたイラストを陽菜にあげたら、喜んで部屋に飾っていた。
ごめんなさい。ごめんなさい。澄花は嗚咽を繰り返す。それは陽菜に向けてのものなのか、両親に向けてのものなのか、はたまた時雨に向けてのものなのか――澄花自身にももうわからなかった。
――陽菜がはじめてお菓子を作ったのはいつのことだったか。確かに絵本に載っていたカステラのレシピがきっかけだったと澄花は記憶している。そのお菓子はひどく拙い出来だったが、とても美味しかったのを覚えている。
陽菜との記憶が絶え間なく胸へと去来する。彼女の笑顔を、声を思い出す度に、自分には無理だという感情が思考を染めていく。
「う……」
ふいに陽菜が寝苦しそうに顔を歪めた。はっとして、澄花は陽菜の首から手を離す。
無理だ。やっぱり自分には無理だった。自分には陽菜の生命を奪うなんてことはできない。だって、世界にたった一人の大切な妹なのだから。
普通の姉妹に比べて距離があったことは否めない。家の中が陽菜を中心に回ることを疎んじたこともあった。それでも陽菜は自分にとって大切な妹であることは変わらない。
「おねえ、ちゃん……?」
眠たげな声にそう呼ばれ、澄花はびくりとした。いつの間にか陽菜はうっすらと目を開けていた。
一瞬、二人の視線が交錯した。一秒、二秒、三秒。それだけの間が澄花にはやけに長く感じられた。
寝ぼけていただけだったのか、陽菜は再び目を閉じると、すう、すうと寝息を立て始めた。澄花はおやすみ、と呟く。その声の響きにはごめんねとさよならが混ざり合っていた。
澄花はあの後、どうやって時雨の屋敷まで帰ってきたのかよく覚えていない。安堵と後悔が頭の中でぐるぐると渦を巻いていた。これでよかったのかと、どうして陽菜を殺せなかったのかと、ずっと自問自答し続けていた。
「――お戻りになられましたか」
澄花が中庭の祠から姿を現すと、漣が待っていた。よく切れる刃物のような漣の声音に、澄花は俯いた。漣の顔をまともに見られない。澄花は蚊の鳴くような声で詫びの言葉を口にする。
「漣さん、ごめんなさい。わたしには、無理でした。陽菜を殺すなんて、わたしにはどうしてもできませんでした。ごめんなさい。本当に、ごめんなさい……」
澄花はごめんなさい、と何度も繰り返す。その声にはだんだんと涙の気配が混ざっていく。
時雨のために何もできなかった自分が情けなかった。だけど、自分が陽菜の生命を奪うことにならなくてよかったとも思っていた。時雨にも陽菜にも幸せに健やかに生きてほしいと思ってしまう自分は、どうして役立たずのくせにこんなに欲張りなのだろう。
そんな澄花を尻目に、漣は嘆息する。澄花を見る目は氷の冷たさを帯びていた。
「――澄花様。貴女には失望しました。時雨様への貴女の想いはその程度のものだったのですね」
「そんなっ……ちがっ……わたしは、時雨様のことを、愛して……っ!」
「ならば、どうして貴女は選ぶことができなかったのですか? 時雨様か、妹か。時雨様を心から愛していらっしゃるというのなら、考えるまでもないことのはずでしょう?」
それは、と澄花は口籠る。漣の指摘は正鵠を得ていた。澄花の眼窩を涙が溢れ出る。鼻の奥がつんとした。
「時雨様を愛しているのは本心です。だけど……時雨様も、陽菜も、わたしにとってはどちらも大切なんです……どちらも、失くしたくないって思ってしまったんです……」
お話になりませんね、と漣は肩をすくめる。うわああああっと、澄花は子供のように声を上げて泣いた。
このままだときっと、遠くない未来に時雨はいなくなってしまう。自分たちを死が別つのだ。
耐えられないと思った。けれど、陽菜の生命を奪うのも嫌だ。もう一度陽菜の殺害を試みるなど、自分にはできそうにない。
ざっざっと玉砂利を蹴るようにして誰かが近づいてきていた。その足音の主は漣と澄花の姿を認めると、棘のある声を放つ。その声は幼い少女の姿からは想像もつかないほど鋭いものだった。
「――漣、そこで何をしているの? いえ、質問が違うわね。――あなた、澄花に一体何をさせたの?」
しゃくり上げながら澄花が顔を上げると、愛らしい顔を怒りに染めた紅雨が立っていた。その背後には水霜が控えている。
夜空は分厚い雲に包まれたままで、川底に月の光は届かない。重苦しくひりついた空気が深夜の中庭に立ち込めていた。



