「――何だって言葉にしてくれないとわからないじゃないですか!」
「言葉……」
声を荒らげる澄花に、時雨はそう反芻した。澄花の声が渦を巻いて水を伝播していく。そうですと頷くと、澄花は言葉を続けていく。
「わたしは時雨様が何を考えているか、話してほしいです! なんで時雨様がわたしを避けているのかだって、この前のお菓子が口に合ったかどうかだって、ちゃんと全部、知りたいです!」
澄花、と彼女の名を呼んだ声が掠れた。彼女はこうして自分の気持ちを言葉にしてくれた。ならば、自分もその想いに応えるべきだ。漣にも自分の心に正直になるようにと諭されたばかりだ。
「――笑わないで聞いてほしい。それに、私は君が思っているような男ではないかもしれない。……きっと、君はがっかりする」
「笑いませんよ。それに、時雨様についてのお話は紅雨様からいろいろと伺っていますから、今更何を聞いたところでがっかりしたりなんてしません。――だから、話してください。他でもない時雨様ご自身の言葉で」
わかった、と時雨は首を縦に振った。こんなことを口にするのは情けないし、居心地が悪い。それでもと意を決すると時雨は口を開いた。
「雨乞いの儀式のとき、必要なことであったとはいえ、君の唇を奪ってしまっただろう。好きでもない男とそんなことをするなど、嫌だったんじゃないかと気にかかっていた。しかし、敢えて蒸し返す気にもなれなくて、君にどう接したものかとわからなくなってしまっていたんだ」
「え……」
思ってもいなかった時雨の言葉に澄花は言葉を失った。かあっと顔が熱くなっていくのを感じる。澄花は魚のようにしばらく口をぱくぱくさせていたが、どうにか蚊の鳴くような声で言葉を絞り出す。
「事前にお話をいただいていましたし、そういう儀式だって理解していましたから大丈夫です。それにわたしは……時雨様のなさることなら何だって嫌じゃありません」
それはどういう、と時雨は怪訝そうな表情を浮かべる。はっとして澄花は手で口を覆った。しかし、一度発してしまった言葉はこぼれ落ちてしまった水と同じで元には戻らない。あわあわする澄花につられて、自分の耳が熱くなっていくのを時雨は感じた。ぱちっと水泡が弾ける。
「……それはそうと、先日のお菓子はお口に合いましたか? 紅雨様から時雨様は葛がお好きだと伺ったので、秋水さんに教えていただいて作ったんですけれど……」
「美味かった。澄花は料理が上手いな。是非また作ってほしい」
「喜んで。わたし、他にも時雨様がお好きなものがあれば知りたいです。――教えてくださいますか?」
「構わない。澄花が好きなものも教えてくれるか。――知りたいんだ、君のことを」
時雨と澄花の視線が交錯する。知りたいという熱が二人の双眸には宿っている。ふわふわと舞う水泡に照らされた二人の頬はうっすらと紅色に色付いていた。
「――時雨様。わたしの家では家族全員でご飯を食べる習慣があるんです。平日は毎食は無理でも、朝だけは揃って食べるようにしているんです。
だから、わたしたちも一緒に食事を摂ることから始めませんか? 食卓を囲んで話すうちに、きっとお互いのことを自然と知っていけると思うんです」
澄花の提案になるほどな、と時雨は頷いた。食事と会話。それは澄花の言う通り、互いのことを知るいいきっかけになりそうだと思った。
「食事、か。それはいいかもしれない。食事を通して君の好きな食べ物や茶が知れるしな」
「それでは、ご都合が悪くなければ、明日の朝から食事をご一緒いたしませんか?」
構わない、と時雨は頷いた。明日の着物の色は何色にしよう。帯は? 羽織の色は? 時雨は心が浮き立つのを感じた。部屋に戻ったら早速漣に相談しよう。
「もう遅い。部屋まで送っていこう」
そっと時雨は澄花の手を握る。彼女は驚いたような顔をしたが、そっと時雨の手を握り返してきた。
じゃりじゃりと玉砂利を鳴らしながら二人は中庭を横切っていく。水面から差し込んでくる月の光はその角度を僅かに変えていた。
「――へ?」
翌朝、座敷に姿を現した時雨の姿を見て、澄花は目を瞬いた。時雨の姿はどこかの結婚式にでも参列するのかと言わんばかりの紋付袴姿だ。対する澄花は花緑青の亀甲柄の着物に薄桃色の帯という普段と大差ない姿だった。
「おはよう、澄花。梅雨空の下に咲く撫子のように可憐だな。待たせてしまってすまない」
「え、ええ……その、時雨様、おはようございます……」
流れるような賛美の言葉に頬を赤らめながら澄花は時雨へと挨拶を返す。時雨が上座に腰を下ろすと、澄花はちらりと疲れた様子の漣へと視線を向けた。
「あの……漣さん、今日って何かある日でしたっけ……? わたし、水鞠さんからは特に何も聞いていないんですけど……」
いえ、と漣は力なく首を横に振る。うんざりとした表情を浮かべた目元をくっきりと黒い隈が彩っている。いつもはきっちりと着こなしているチャコールグレーのスーツにも今日はところどころシワが見えた。
「時雨様は澄花様と朝餉を召し上がるのが楽しみで仕方なかったんですよ。昨日、お部屋に帰っていらっしゃるなり、何を着ようかと大騒ぎで……。挙げ句の果てには朝の三時から禊をお始めになられて……今に至ります」
「そ、それは……お疲れ様です……」
つまりは寝ていないということか。そう悟った澄花は漣に労いの言葉をかけた。澄花は目の前に座る美貌の男神へと視線を移す。漣の話を信じるなら時雨も一睡もしていないことになるが、なぜかいつも以上にやたらと肌ツヤがいい。何やらきらきらとした後光すら纏わり付かせている気がする。
昨日までの自分なら、時雨が自分との朝餉を楽しみにしてそんなことをしていたなど信じなかっただろう。しかし、今日の澄花はこれまでに紅雨から聞かされていた話や先ほどの漣の話が真実だと信じられた。
「漣さん。よろしければお座りになられてください。顔色が悪いですよ」
「すみません、澄花様。お言葉に甘えます」
よっぽど疲れていたのか、漣は頽れるようにして畳に座り込んだ。「すみませんが、熱い珈琲を淹れてくれませんか。目が覚めるように、濃いやつを」漣は水鞠へと話しかける。水鞠はにこにこと頷くと、厨房へと消えていった。
「……すみません、失礼します」
そう前置きをすると、漣はスーツの内ポケットから茶色い小瓶を取り出した。瓶の蓋を開けると、漣はそれを一気に飲み干す。瓶のラベルには「最強元気」などと印字されており、漣の苦労と疲れが見て取れた。
やがて、秋水が朝餉の盆を持って厨房から姿を現した。今日は二人前だというのにその両の細腕は軽々と盆を支えている。
生クリームと角切りにした桃が添えられたスフレパンケーキ。半熟卵がとろとろとしたベーコンエッグ。季節の野菜を取り入れたサラダにコンソメスープ。そして、グラスの中で黒い水玉を描くタピオカミルクティー。時雨と澄花の前に置かれた朝食は洋風を通り越してカフェで摂る食事のようだった。二〇二五年の世界を生きていたころ、澄花もSNSでこういった写真を何枚も見たことがある。
「紅雨に聞いて、澄花の時代で流行っていた食べ物を教えてもらった。それを秋水に朝食に取り入れてもらったんだがどうだろうか?」
「お気遣いいただいて嬉しいです。パンケーキ、好きなんです」
「それなら、朝餉は毎日パンケーキにするか?」
「いえ、それではわたしばかりで申し訳ないです。時雨様の好きなものも取り入れましょう。時雨様は何がお好きですか?」
「洋食なら餡バタートーストが好きだ。合わせる珈琲はキリマンジャロがいい。和食ならば、ほうれん草の胡麻和えが好きだな」
いただきます、と二人は手を合わせると、ナイフとフォークを手に取った。そのとき、水鞠が厨房から戻ってきて、珈琲の入った青海波柄のマグカップを漣に渡した。「朝から甘ったるいですねえ……」漣は半眼で時雨と澄花を見遣りながらエスプレッソと紛うほどに濃い珈琲を啜った。この分ではこの水域の水がすべて砂糖水になってしまいそうだ。夫婦だというのに付き合いたての恋人のような雰囲気を醸し出す二人を彩るように、辺りをハート型の水泡が飛び回っている。
「あんなに甘々なのに、お二人にはご自覚がまるでないんですよね。不思議なものですよね、漣」
「まったく……付き合わされるこっちの身にもなって欲しいところです。糖分過多で胸焼けしそうです……水鞠、胃薬を持っていませんか?」
「胃薬よりも私にいい案がありますよ。これで漣も今夜からは安眠できるはずです」
水鞠は漣へと何事かと囁きかけた。それはいい、と漣は膝を打った。それなら今夜からの自分の安眠は確約されたも同然だ。
「あれ、時雨様はお肉を召し上がられるんですか? 水鞠さんから、時雨様の眷属は元は魚だから、魚は召し上がらないと聞いたんですけど」
「確かに私や眷属たちは魚は食べない。けれど、肉は普通に食べるぞ。そうだ澄花、翠雨殿からいただいた良い肉があるのだが――」
時雨と澄花は穏やかに会話を交わしながら、フォークとナイフを動かしていく。和やかだけれど、甘酸っぱく朝の時間は過ぎていった。ずずず、と時雨が太いストローでタピオカミルクティーを啜る音が響く。
甘。内心で呟きながら漣は珈琲を飲み干す。初々しいやりとりを繰り広げる水神と少女の姿を水鞠は優しい目で見守っていた。
時雨と毎食の食事を摂るようになって数日。澄花は時雨の部屋に招かれて茶を飲んでいた。
床の間に活けられているのは今日はホタルブクロだ。飾り棚の香炉からは漂う煙からは睡蓮の匂いがした。
「――澄花。何か、欲しいものはないか?」
白い雲と青い雨粒があしらわれた湯呑みを座卓の上に置くと、時雨はそう問うた。今日のお茶は花束のような香りが華やかな煎茶だった。
「欲しいもの……ですか?」
着物や小物類は充分すぎるくらいに与えてもらっている。食事だって、住むところだって与えてもらっている。――こうして、時雨と過ごす時間だって。
今は六月。例年ならば、母と梅酒を漬けている頃合いだった。母直伝の梅酒を時雨のために漬けるのはどうだろう。それは何だかとてもいい思いつきのように思えた。
「あの、梅と氷砂糖、ブランデーを用意してもらえませんか? 時雨様のために梅酒を漬けたいんです」
「澄花はつくづく欲がないな。そのくらいでよければ、すぐに手配させよう。――漣」
障子の脇に控えていた漣が返事をする。しかし、その表情は険しい。何か漣の気に障ることを言ってしまっただろうかと澄花は直前の発言を省みる。
「時雨様……お酒は控えられた方が……」
「構わない。私は澄花の作った梅酒が飲みたいんだ」
時雨がそう言うと、どうなっても知りませんからねと漣は溜息をつく。残念なものを見るような視線をちらりとこちらに寄越すと、漣は障子を開けて時雨の部屋を出ていった。
すっと障子が閉まり、漣の足音が遠ざかっていくと、澄花は時雨を見た。先ほど漣が言いかけたことが気にかかる。
「漣さんがお酒を控えられた方がいいと仰っておられましたが……もしかして、時雨様は肝臓がお悪いのですか?」
「いらぬ心配をかけてしまったようで済まない。恥ずかしい話なのだが、私は下戸なのだよ」
「下戸って……どのくらいですか?」
「酒を一口でも飲めばたちどころに真っ赤になり、眠ってしまうらしいんだ。正直、酒を水のようにざばざば呑める紅雨が羨ましい。……どうせ、澄花が作った梅酒もほとんど紅雨が呑んでしまうのだろうから」
拗ねたようにそう口にする時雨が何だか少しおかしくて、澄花は小さく笑った。むっとした表情を白皙の美貌に乗せる時雨に、澄花はこんなことを提案した。
「それじゃあ、梅酒の他に梅シロップも作りましょう。どのみち、わたしも再来年まではお酒が飲めませんから、これなら一緒に楽しめますよ」
それはいいな、と一気に時雨の表情が華やいだ。青藍の瞳に清風が躍る水面のような光が宿る。澄花はこれまで時雨がこんなに色々な表情を見せることを知らなかった。
澄花は黒文字を手に取ると、抹茶わらび餅を口へと運ぶ。新緑の季節に降り頻る雨の匂いが鼻へと抜けていった。
わらび餅の後に茶を口に含むと、緑の中にふわっと花が咲く。澄花は口の中で移り変わる情景を楽しんだ。
そんな澄花を時雨は微笑みながら見ていた。彼女のそんな表情を間近で見られるのは自分の特権だ。きっとこれが幸せというものだろうと時雨は思った。
二人は茶と菓子を前に、和やかに言葉を交わし合う。厨房から戻ってきた漣は二人の邪魔をしたくなくて、廊下の柱に寄りかかったまま、障子に映る幸せそうな二人の影を見ていた。――時雨に抱く己の気持ちに澄花が気づいてくれることを願いながら。
明くる日、朝餉が済んだ後、澄花は厨房で梅仕事に勤しんでいた。竹ザルの上に山のように積まれた青梅のヘタを澄花はぽりっぽりっと竹串で取っていく。
ふいに藍色の暖簾が揺れた。水の香りが澄花の嗅覚を満たす。澄花が手を止めて視線を上げると、彼女の選んだ薄藍色の着物の上から割烹着を纏った時雨が立っていた。
「――時雨様。どうされたんですか?」
「澄花が厨房で梅仕事をしていると漣から聞いてな。私にも手伝わせてくれないか?」
「そんな……時雨様にそのようなことをさせるわけには……」
「私がやりたいんだ。一緒に梅シロップを飲む約束をしただろう?」
そう言うと時雨は梅を手に取ると、その場にしゃがみ込もうとする。「時雨様、いくら何でもお待ちください」漣が慌てた様子でどこからともなく箱椅子を持ってきた。漣に促され、幾分か不満げな顔で時雨は箱椅子に座り直す。
「澄花、これはどうやればいいんだ?」
片手に梅を握り、時雨は澄花にそう問うた。澄花は竹串を一本時雨に渡すと、手本をやってみせる。
「ここに黒いヘタがありますよね。ここに竹串の先を引っ掛けて外してください。ヘタを外した梅はこちらのザルに――」
時雨は澄花の真似をして梅のヘタを竹串で外そうとした。慣れた手つきで着々と梅のヘタを外していく澄花に反し、手の中で梅が滑るばかりで上手くいかない。
「どうして時雨様がこんなことを……時雨様に何かあったらどうするんですか」
ぶつくさと呟きながら、漣は厨房の入り口から時雨と澄花の様子を伺っている。あら、とそのとき幼い可憐な声とともに漣のチャコールグレーのスーツの袖が引かれた。漣が視線を外すと、薄紫から白のグラデーションが美しい菖蒲柄の着物に身を包んだ幼い少女がそこにいた。桃色の帯がその愛らしさを引き立てている。
「……紅雨様」
「あの二人なら、何かあったほうがいいですわよ。いつまでもあのままなんて、漣だってむず痒いでしょう?」
平然と言ってのける紅雨に、それはそうですがと漣は言葉を濁す。幼く愛らしい見た目に反して、この兄妹は妹の方が精神年齢が遥かに大人だ。水鞠に水霜、秋水は互いに顔を見合わせると苦笑する。
「それより、漣。出歯亀だなんて品がありませんわよ」
「出歯亀だなんて、そんなつもりは……」
「けれど、覗いていたのは事実でしょう。さて、漣はわたくしとお茶にいたしましょう。おいしい枇杷があるのよ」
「しかし、時雨様のおそばを離れるわけには……」
「あら、漣。可愛い婚約者の言うことが聞けないと言うのかしら? それに水鞠たちがいるから、あなた一人が外したところでどうってことはないわ」
それでは行きましょう、と紅雨は漣の手を掴んで強引に引きずっていく。遠ざかっていく二人分の足音に、澄花は顔を上げると暖簾の外を窺う。
「……なんだったんでしょう?」
「さあな。それより澄花、ヘタが取れたぞ。これでいいか?」
お上手です、と微笑むと澄花は時雨から梅を受け取り、ザルへと入れる。時雨が一つの梅に悪戦苦闘している間に、澄花は全ての梅のヘタを取り終えていた。
澄花は箱椅子から立ち上がると、ザルを流しへと持っていく。水瓶から水を汲むと、澄花はヘタを取り終わった梅を洗っていった。その柔らかく綻んだ横顔に、時雨は見惚れていた。ふわりと舞い上がった水泡が時雨の頬を優しく撫でる。
さて、と梅を洗い終わった澄花はザルを木箱の上に置いた。そして、青みがかったガラスの瓶を二つ持ってきて土間に置くと、澄花は時雨に青海波柄の布巾を時雨に渡した。
「これで梅を拭いて、瓶に入れていってください。傷んでしまうので水気が残らないようにきっちり拭いてくださいね」
わかった、と時雨は頷くと手に持った布巾でまだ硬い梅を拭いていく。向かい合って座る澄花の手つきは丁寧なのに、時雨の何倍も早い。
「菓子をもらったときも思ったが、澄花は料理が上手いのだな」
「いえ、わたしなんて、特別上手いわけじゃありませんよ。お菓子作りなら、妹の方が数段上でしたし。梅酒作りだって、幼いころから母に仕込んでもらっただけですから」
「そんなに謙遜するものではない。君がくれた菓子を美味いと思ったのは私の本心からのものだ」
「それは……秋水さんの教え方が良かったんだと思います。お菓子作りなんて右も左もわからないわたしのために、次はどうしてこうしてってしっかり教えてくださいましたから」
「――澄花」
透き通った青藍の双眸が真っ直ぐに澄花を見据える。澄花は思わず口を噤んだ。
「私の思い違いでなければ、あの菓子からは技術以上に君の心が感じられた。――私への真心が」
「それ、は……」
確かに時雨の指摘通り、あの菓子は彼のことを思いながら作ったものだ。少しでも美味しいものを。少しでも彼の心を潤してくれるものを。彼が少しでも幸せな気持ちになれるものをあのときの澄花は作りたかった。その理由を追求しようとすると、視線が宙を彷徨う。なぜだか目の前の時雨を直視することができなかった。
「私は嬉しかった。君があの菓子に込めてくれた気持ちが」
真っ直ぐな言葉に澄花の顔が赤く染まる。つられるようにして、時雨もそわそわと視線を宙に泳がせる。ぱちっとあぶくが弾ける音がした。
澄花は俯くと、再び梅を布巾で拭い始める。厨房には、季節の進んだ梅のような甘酸っぱい空気が漂っていた。
深縹に藤納戸。御召御納戸に留紺。色とりどりの着物を前にどうしたものかと澄花は考え込んでいた。彼女を見守るように水が穏やかに波打っている。
今、澄花がいるのは時雨の着物が仕舞われた桐箪笥が立ち並ぶ納戸だ。初めて朝餉を共にした日の夜から、漣に頼まれて時雨の着物を選ぶのは澄花の仕事になっていた。
今日の時雨の着物に合わせた帯は濃藍に薄灰色の縞模様のものだ。明日は違う色の帯を使いたい。
(あ……)
澄花はさらりとして柔らかい薄紫の帯を手に取った。雨上がりの朝、一日が始まる前の温かな空の色に似ていた。
(それなら深縹……? それとも留紺が……?)
手に持った帯を澄花は着物に当てがってみる。どちらが時雨には似合うだろうか。澄花の脳裏に時雨の美しい顔と優しい微笑みが浮かぶ。穏やかな声で彼が自分の名前を呼ぶ声が聞こえた気がした。
「――様、澄花様」
自分の名前を呼ぶ声に、はっとして澄花は意識を現実に引き戻される。水鞠がにこにことした笑みを浮かべて、納戸の入り口から顔を覗かせていた。
「水鞠さん」
「時雨様のお着物を選んでいらっしゃったんですね。精の出ることです」
水鞠は澄花の手元を覗き込む。最初は着物の知識がなかった澄花が自分で時雨の着物を選べるようになってきていることに、彼女の成長を感じた。
「深縹と留紺で迷っているんです。どちらが時雨様にお似合いになるでしょうか……?」
「それは澄花様がお決めになることですよ。それに時雨様なら、澄花様がどちらを選んでもきっと喜んでくださいます」
「そうでしょうか……」
迷う澄花の瞳には愛しい人を思う色が浮かんでいた。熱くて、切なげで、不安げで。それは誰から見てもわかる、恋する乙女の顔だった。
「澄花様は、時雨様のことをどうお思いですか?」
水鞠が口にしたのは以前の紅雨の問いと同じものだった。しかし、それは今の澄花にとっては、以前と異なる意味をもつものだった。
「時雨様はお優しくてお美しい方だとは思います。神としてだけでなく、男性としても素敵な方だって思います。だけど、わからないんです。どうして、時雨様のことが頭から離れないのか。どうして、わたしはいつも時雨様のことを考えているのか」
神らしく静かに凪いだ表情。ふとしたときに美しい顔を彩る柔らかな微笑。漣に咎められたときの拗ねたような顔。まるで少年のようにはにかむ、照れたような面差し。
葛餅が好きで、餡バタートーストが好きで。ほうれん草の胡麻和えと筑前煮が好きで。好きなコーヒーはキリマンジャロで、紅茶ならアールグレイで。好きな花は紫陽花と睡蓮、梅で。書と陶芸、そして三味線が趣味で。
最初はただ契約で結婚しただけだった。なのに、気がつけば澄花は時雨についてこんなにもいろいろなことを知ってしまっていた。彼がこんなにもいろいろな顔をすることを知ってしまっていた。
少し嬉しそうに弾んだ声。切なく熱を帯びた声。凪いだ水面のような穏やかな声。自分を呼ぶ時雨の声にもいろいろな響きがあることを澄花は知ってしまった。
「時雨様のことを考えていらっしゃるときの澄花様は、いつも優しげで幸せそうな顔をしていらっしゃいますよ」
考えただけで気持ちが優しくなれる。考えただけで幸せになれる。そして、ちょっとしたことだけで不安になって、そわそわしてしまう。――この気持ちにつける名前を澄花もまた、知らない。まだ、知らない。
「水鞠さん。わたし……おかしいんでしょうか。こんなに時雨様のことを気にしてばかりで」
澄花の双眸が不安に揺れる。何もおかしくはないですよ、と水鞠は娘を見るような眼差しを澄花に向けるともしもの話をし始めた。
「澄花様が時雨様のお側にいられなくなるとしたら、澄花様はどう思われますか?」
「そんなの……そんなの嫌です。そんな辛くて悲しいこと、考えたくもありません」
「それはどうしてですか?」
「わたしにとって、時雨様が大切なお方だからです。ただの契約だけじゃ満足できなくなっているわたしがいるんです。時雨様を――お慕いしています」
ふふ、と水鞠は笑みを深くした。そして、彼女は諭すように澄花へと言葉を向ける。
「澄花様は気づいておられないようですけれど、その気持ちを恋というんです。幸せで、切なくて、不安で、その人のことばかりを考えてしまう――それが、恋です」
「恋……」
その言葉を澄花は反芻した。何かが腑に落ちる気持ちと、心の中が色づいていくような気持ち、恐れ多く思うような気持ちが綯い交ぜになって渦を巻く。
「そんな、わたし……時雨様に、そんな……」
やがて実感が伴ってきて、思わず澄花は自分の体をかき抱いた。ぱさりと音を立てて時雨の帯が床へと落ちる。自分なんかが時雨と釣り合うはずなんてない。知ったばかりのやり場のないこの気持ちは閉じ込め続けていかなければならないものだと思うと、窒息してしまいそうだった。――水神である時雨にこの想いを告げるなど、許されるはずもない。
「わたし……どうしたらいいんでしょう……。時雨様に恋だなんて……こんなこと、時雨様には言えません。時雨様のご迷惑になります」
「時雨様はご迷惑だなんてお思いになりませんよ。他でもない澄花様のことですから」
「どうして……?」
「澄花様は時雨様がそのような狭量なお方だと思いますか?」
いえ、と澄花は首を横に振った。そうでしょう、と頷くと水鞠は話を続ける。
「時雨様ならきっと澄花様の想いを受け止めてくださいます。それに私が思うに時雨様も――いえ、これ以上は野暮ですね」
「水鞠さん……?」
水鞠が何を言いかけたのか疑問に思いながらも、澄花は床に落ちた帯を拾い上げる。
恋。それは気恥ずかしくも、澄花の脳をふわふわと酔わせてしまいそうな響きだった。どくどくと心臓の鼓動が早くなるのを感じる。きっと顔だって、人には見せられないくらい赤くなっているに違いない。
時雨の明日の着物は深縹にしよう。明日の自分はきちんと時雨の顔を見て笑えるかわからないけれど、それでも時雨のことを好きだと思ったこの気持ちは大切にしたいと澄花は思った。
時雨は文机に頬杖をつきながら、冷茶のグラスを傾けていた。黒豆麦茶の香ばしい味わいが口の中に広がる。ガラスの中でカランと氷が音を立てた。
文机に置いた水盤の水位はぎりぎり現状維持を保っている。澄花の雨催いの巫女の力による賜物だった。
もう夜も遅い。漣を呼んで寝支度をさせようと時雨が茶を飲み干したとき、障子の外に小さな人影が立った。この姿は漣ではない。同じ父を持つ妹の姿だった。
「紅雨か?」
「ええ、お兄様。今、よろしいかしら?」
ああ、と戸惑いがちに返事をすると、紅雨が部屋へと入ってきた。何かまた紅雨に怒られるようなことをしただろうか。時雨自身は特に何かをしたような覚えはない。
時雨は立ち上がると、紅雨のために座布団を用意してやる。礼を告げると、紅雨は座布団の横に膝をついた。金魚が泳ぐ着物の裾を整えると、彼女は座布団の上に体を移し、背筋を伸ばす。幼い見た目には不似合いなほどの完璧な所作だった。
「――お兄様。わたくしがこうして伺ったのは、澄花のことについてですわ」
「澄花がどうかしたのか? 澄花に何かあったのか?」
「何かあったのか? ではありませんわ」
ぴしゃりと言い返すと、紅雨は深々と溜息をついた。この兄ときたらどれだけ鈍感なのか。この見た目と年齢のくせにあまりに情緒がお子様過ぎる。これではあまりに澄花が哀れだった。
「お兄様は澄花のことをどう思っていらっしゃるんですの?」
「どうって……澄花は澄花だろう。彼女は契約上の私の妻だ」
「契約上のって……お兄様は馬鹿なんですの!?」
紅雨に一喝され、時雨は青藍の目を瞬いた。振動で水盤の水が激しく波打った。少々毒舌気味な妹だが、こうまで言ってくるのは珍しい。理由がわからずに時雨が戸惑っていると、紅雨は小さく肩を竦め、話を続けた。
「澄花のことをどんな目で見ているか、わからないとでも思っていたんですの? この屋敷にいる者なら、お兄様が澄花にどんな感情を抱いているか皆知っておりますわ。気づいていないのはお兄様と澄花だけです」
「……」
諭すような紅雨の言葉に時雨は黙り込んだ。毎日毎日、気がつけば澄花のことを考えてばかりだ。しかし、それがそんなにわかりやすく言動に現れていたとでもいうのだろうか。
「漣が言っておりましたわよ。澄花がこの家に来てからのお兄様はずっとそわそわとして心ここに在らずだと。お兄様の心は――澄花に奪われてしまったんですわ」
「澄花に?」
「そうですわ。最近のお兄様は澄花は何が好きかだとか、どうしたら澄花が喜んでくれるかだとか、そんなことばかりですもの。澄花の言動に一喜一憂しているこの状況は、お兄様の心は澄花に奪われてしまったとしか言いようがありませんわ」
「……そうなのかもしれないな。最近の私は澄花のことばかり考えている」
「ねえ、お兄様。お兄様は澄花のことを一人の女性として好いているのでしょう?」
紅雨がそう訊ねると、わからないと時雨は首を横に振った。白皙の美貌には迷子になってしまった子供のような表情が浮かんでいた。
「澄花のことを考えると、なぜだか心が温かくなる。優しい気持ちになれるんだ。なのに、どうしようもなく胸が締め付けられて、苦しい気持ちにもなる。だけど、彼女を――澄花を泣かせたくないと、悲しい顔はさせたくないと思うんだ。澄花には笑っていて欲しい」
こんなにも彼女のことを想っているというのに、自分の心に気がついていないとはどれだけ時雨は鈍感なのだろう。その言葉こそが何よりの答えだというのに。呆れながらも紅雨は口を開く。
「――お兄様。その気持ちこそが恋というものですわよ。どうしてその気持ちを澄花に伝えないんですの?」
恋、と唖然としたような表情で時雨は呟く。まさか自分が恋をしているなどとは夢にも思わなかった。しかし、自分がこの想いを澄花に伝えることなんてできるはずもない。
「澄花は私の眷属で妻、私は水神だ。私が想いを告げたなら、澄花はそれを受け入れるしかないだろう。いずれ離れていくかもしれない彼女をそんな重石で縛り付けたくはない。――彼女には幸せでいて欲しいから」
「お兄様ときたらどれだけ愚かなんですの? お兄様は澄花の気持ちを想像したことがありませんの? ――澄花もまた、同じ気持ちかもしれない、と」
「……え?」
時雨は青藍の双眸を見開いた。その瞳は期待と混乱で揺れている。
「傍目から見ればすぐにわかることですわ。お兄様と一緒にいるときの澄花は恋する乙女の顔をしていますもの。それにお兄様の心など、水の揺らぎが教えてくれますわ。――澄花にどうしようもないほど、恋焦がれていると」
お兄様、と紅雨の空色の瞳が時雨を射抜いた。いいですこと、と諭すように紅雨は言葉を継ぐ。
「自身の存在が重荷だと感じるのであれば、澄花から想いを口にさせることがあってはなりませんわ。一柱の神に想いを告げるなど、澄花の立場からしたら、非常に勇気と覚悟のいることでしょうから。お兄様から、あるがままの想いを澄花に告げるのです」
「しかし、澄花に拒まれてしまったら私はどうすれば……」
「そんなことは振られてから考えればいいですわ。そうやってすぐにうじうじとするのはお兄様の悪い癖です。それに、そのような万が一は絶対に起こり得ないですわ。澄花がお兄様を振るなんてあり得ませんもの。あとはお兄様が行動に移すだけですわ」
畳に黴が生える前に男を見せてくださいな、と紅雨は立ち上がる。話を切り上げると、おやすみなさいませ、と紅雨は障子を開けて時雨の部屋を出て行った。紅雨の着物に描かれた金魚の尾鰭が時雨の視界をちらついた。
この気持ちを澄花にどう伝えたらいいだろう。初めての恋に戸惑いながらも、その答えは自分で考えるべきだろうと時雨は感じていた。誰かに聞いた言葉ではなく、これだけは自分で考えた自分自身の言葉で伝えたい。
目を閉じると、澄花の控えめな笑顔が瞼の裏に映る。華奢な身体に、三つ編みにした髪、小動物のように潤んだ瞳。そのすべてに胸がざわつく。誰にも見せられない、この熱をどうすればいいのか、時雨は思わず身を震わせた。
澄花、と時雨は彼女の名前を呟くと、思考の海へと沈んでいった。――誰より愛しい少女の姿を思い浮かべながら。
紫陽花が色褪せ始めた夜、時雨は縁側に座って中庭を眺めていた。花季の終わりを迎え始めた紫陽花と入れ替わるようにして、朝顔が竹垣に沿って蔓を伸ばし始めている。淡く発光する水泡に紛れるようにして、庭を蛍が舞っていた。
ギィ、と床が軋む音がした。一人分の足音がこちらへと近づいてくる。それは時雨の待ち人にして、誰より愛しい少女のものだった。
「――時雨様」
少女の声が自分の名を呼ぶ。時雨が背後を降り仰ぐと、紺藤の着物に身を包んだ澄花が盆を持って立っていた。盆の上には二人分の切子細工のグラスが乗っており、カランカランと氷が涼しげな音を立てていた。
「お待たせして申し訳ありません」
「いや、いい。私も先ほど来たところだ」
座るといい、と促すと、おずおずと澄花は時雨の横に腰を下ろした。澄花は脇に置いた漆塗りの盆からグラスを手に取ると、時雨へと渡した。
「以前にお約束していた梅シロップです。先ほど、夕餉の後に確認したらいい具合に浸かっていたので、炭酸水で割ってみました。時雨様のお口に合うといいんですけれど」
ありがとう、と時雨は微笑むとグラスに口をつける。二人で一緒に作った梅シロップからは、優しい甘みと仄かな酸味が感じられた。口の中でぱちぱちと炭酸が小さな泡を弾けさせる。
「――美味いな」
思わず口元が綻ぶのを時雨は感じた。ええ、と隣で澄花が頷く気配がした。
「きっと、時雨様と一緒に作ったからですよ。それに――」
「――君と一緒に飲むから美味しいのかもしれないな」
澄花の言葉を時雨が継いだ。二人の視線が絡まり合う。その視線は梅シロップよりも甘く、アルコールなど入っていないのに酔ってしまいそうだった。――恋という名の微熱に。
「――澄花。君に聞いて欲しい話がある」
時雨はグラスを置くと、改まったように切り出した。その顔からは緊張と覚悟が見て取れて、澄花は居住まいを正す。
「――澄花。私は君のことが好きだ。一人の女性として愛している。私と君は契約から始まった関係だとはわかっているが……それでも、それ以上を望んではいけないだろうか。私は君が欲しい。君のことを考えると幸せで暖かな優しい気持ちになれるのに、どうしようもなく苦しいんだ」
それは不器用な時雨らしい、真っ直ぐな愛の告白だった。その胸中を吐露され、澄花の目が見開かれていく。どくん、どくん、と心臓が鳴る。
「わたしも――わたしも、時雨様と同じ気持ちです。わたしも時雨様のことが好きです。心からお慕いしています。わたしは、望んでもいいんでしょうか? ――あなたと共に歩む未来を」
「それは私の台詞だ。君は背負ってくれるのか? 水神の伴侶となる重みを。私と共に在るということは、普通に生きて、普通に老いていくという人生を捨てることだ。――君はそれでも構わないというのか?」
「――はい。私は貴方と生きることができるのならば、それ以上何も望みません」
そうか、と頷くと時雨は袂から翡翠のペンダントを取り出した。時雨はそっと澄花の華奢な身体を抱き寄せると、彼女の首にそれをかけた。
「翡翠の石言葉は幸福――紅雨の受け売りだがな。この先、私と共にある君が幸福であるように――私はそう祈っている」
時雨は澄花の首元に額をつける。彼女の身体からは水辺に咲く花の淡く甘い香りがした。
「そんな……頂けません。わたしには、何も時雨様に返せないというのに」
「澄花からはいろいろなものをもらっているよ。それでももし君が私に何か返したいというのなら――欲しいものがある」
いいか、と時雨の美しい顔が近づいてくる。甘い予感に胸が高鳴るのを感じながら、澄花はそっと目を閉じる。
唇に柔らかいものが触れる。想いが通じ合って初めて重ねる唇からは熟した甘酸っぱい梅の味がした。
この人が好きだ。誰より大切だ。恋の熱さを秘めた時雨の口付けに蕩かされながら、澄花はそう思った。この人になら、心だって身体だってすべてを捧げてもいい。――まだ誰も踏み入れたことのないまっさらなすべてを。
さらさらと水が流れる音に包まれながら、二人は唇を重ね続けた。結ばれたばかりの二人を寿ぐように、蛍がふわふわと宙を舞っていた。
「言葉……」
声を荒らげる澄花に、時雨はそう反芻した。澄花の声が渦を巻いて水を伝播していく。そうですと頷くと、澄花は言葉を続けていく。
「わたしは時雨様が何を考えているか、話してほしいです! なんで時雨様がわたしを避けているのかだって、この前のお菓子が口に合ったかどうかだって、ちゃんと全部、知りたいです!」
澄花、と彼女の名を呼んだ声が掠れた。彼女はこうして自分の気持ちを言葉にしてくれた。ならば、自分もその想いに応えるべきだ。漣にも自分の心に正直になるようにと諭されたばかりだ。
「――笑わないで聞いてほしい。それに、私は君が思っているような男ではないかもしれない。……きっと、君はがっかりする」
「笑いませんよ。それに、時雨様についてのお話は紅雨様からいろいろと伺っていますから、今更何を聞いたところでがっかりしたりなんてしません。――だから、話してください。他でもない時雨様ご自身の言葉で」
わかった、と時雨は首を縦に振った。こんなことを口にするのは情けないし、居心地が悪い。それでもと意を決すると時雨は口を開いた。
「雨乞いの儀式のとき、必要なことであったとはいえ、君の唇を奪ってしまっただろう。好きでもない男とそんなことをするなど、嫌だったんじゃないかと気にかかっていた。しかし、敢えて蒸し返す気にもなれなくて、君にどう接したものかとわからなくなってしまっていたんだ」
「え……」
思ってもいなかった時雨の言葉に澄花は言葉を失った。かあっと顔が熱くなっていくのを感じる。澄花は魚のようにしばらく口をぱくぱくさせていたが、どうにか蚊の鳴くような声で言葉を絞り出す。
「事前にお話をいただいていましたし、そういう儀式だって理解していましたから大丈夫です。それにわたしは……時雨様のなさることなら何だって嫌じゃありません」
それはどういう、と時雨は怪訝そうな表情を浮かべる。はっとして澄花は手で口を覆った。しかし、一度発してしまった言葉はこぼれ落ちてしまった水と同じで元には戻らない。あわあわする澄花につられて、自分の耳が熱くなっていくのを時雨は感じた。ぱちっと水泡が弾ける。
「……それはそうと、先日のお菓子はお口に合いましたか? 紅雨様から時雨様は葛がお好きだと伺ったので、秋水さんに教えていただいて作ったんですけれど……」
「美味かった。澄花は料理が上手いな。是非また作ってほしい」
「喜んで。わたし、他にも時雨様がお好きなものがあれば知りたいです。――教えてくださいますか?」
「構わない。澄花が好きなものも教えてくれるか。――知りたいんだ、君のことを」
時雨と澄花の視線が交錯する。知りたいという熱が二人の双眸には宿っている。ふわふわと舞う水泡に照らされた二人の頬はうっすらと紅色に色付いていた。
「――時雨様。わたしの家では家族全員でご飯を食べる習慣があるんです。平日は毎食は無理でも、朝だけは揃って食べるようにしているんです。
だから、わたしたちも一緒に食事を摂ることから始めませんか? 食卓を囲んで話すうちに、きっとお互いのことを自然と知っていけると思うんです」
澄花の提案になるほどな、と時雨は頷いた。食事と会話。それは澄花の言う通り、互いのことを知るいいきっかけになりそうだと思った。
「食事、か。それはいいかもしれない。食事を通して君の好きな食べ物や茶が知れるしな」
「それでは、ご都合が悪くなければ、明日の朝から食事をご一緒いたしませんか?」
構わない、と時雨は頷いた。明日の着物の色は何色にしよう。帯は? 羽織の色は? 時雨は心が浮き立つのを感じた。部屋に戻ったら早速漣に相談しよう。
「もう遅い。部屋まで送っていこう」
そっと時雨は澄花の手を握る。彼女は驚いたような顔をしたが、そっと時雨の手を握り返してきた。
じゃりじゃりと玉砂利を鳴らしながら二人は中庭を横切っていく。水面から差し込んでくる月の光はその角度を僅かに変えていた。
「――へ?」
翌朝、座敷に姿を現した時雨の姿を見て、澄花は目を瞬いた。時雨の姿はどこかの結婚式にでも参列するのかと言わんばかりの紋付袴姿だ。対する澄花は花緑青の亀甲柄の着物に薄桃色の帯という普段と大差ない姿だった。
「おはよう、澄花。梅雨空の下に咲く撫子のように可憐だな。待たせてしまってすまない」
「え、ええ……その、時雨様、おはようございます……」
流れるような賛美の言葉に頬を赤らめながら澄花は時雨へと挨拶を返す。時雨が上座に腰を下ろすと、澄花はちらりと疲れた様子の漣へと視線を向けた。
「あの……漣さん、今日って何かある日でしたっけ……? わたし、水鞠さんからは特に何も聞いていないんですけど……」
いえ、と漣は力なく首を横に振る。うんざりとした表情を浮かべた目元をくっきりと黒い隈が彩っている。いつもはきっちりと着こなしているチャコールグレーのスーツにも今日はところどころシワが見えた。
「時雨様は澄花様と朝餉を召し上がるのが楽しみで仕方なかったんですよ。昨日、お部屋に帰っていらっしゃるなり、何を着ようかと大騒ぎで……。挙げ句の果てには朝の三時から禊をお始めになられて……今に至ります」
「そ、それは……お疲れ様です……」
つまりは寝ていないということか。そう悟った澄花は漣に労いの言葉をかけた。澄花は目の前に座る美貌の男神へと視線を移す。漣の話を信じるなら時雨も一睡もしていないことになるが、なぜかいつも以上にやたらと肌ツヤがいい。何やらきらきらとした後光すら纏わり付かせている気がする。
昨日までの自分なら、時雨が自分との朝餉を楽しみにしてそんなことをしていたなど信じなかっただろう。しかし、今日の澄花はこれまでに紅雨から聞かされていた話や先ほどの漣の話が真実だと信じられた。
「漣さん。よろしければお座りになられてください。顔色が悪いですよ」
「すみません、澄花様。お言葉に甘えます」
よっぽど疲れていたのか、漣は頽れるようにして畳に座り込んだ。「すみませんが、熱い珈琲を淹れてくれませんか。目が覚めるように、濃いやつを」漣は水鞠へと話しかける。水鞠はにこにこと頷くと、厨房へと消えていった。
「……すみません、失礼します」
そう前置きをすると、漣はスーツの内ポケットから茶色い小瓶を取り出した。瓶の蓋を開けると、漣はそれを一気に飲み干す。瓶のラベルには「最強元気」などと印字されており、漣の苦労と疲れが見て取れた。
やがて、秋水が朝餉の盆を持って厨房から姿を現した。今日は二人前だというのにその両の細腕は軽々と盆を支えている。
生クリームと角切りにした桃が添えられたスフレパンケーキ。半熟卵がとろとろとしたベーコンエッグ。季節の野菜を取り入れたサラダにコンソメスープ。そして、グラスの中で黒い水玉を描くタピオカミルクティー。時雨と澄花の前に置かれた朝食は洋風を通り越してカフェで摂る食事のようだった。二〇二五年の世界を生きていたころ、澄花もSNSでこういった写真を何枚も見たことがある。
「紅雨に聞いて、澄花の時代で流行っていた食べ物を教えてもらった。それを秋水に朝食に取り入れてもらったんだがどうだろうか?」
「お気遣いいただいて嬉しいです。パンケーキ、好きなんです」
「それなら、朝餉は毎日パンケーキにするか?」
「いえ、それではわたしばかりで申し訳ないです。時雨様の好きなものも取り入れましょう。時雨様は何がお好きですか?」
「洋食なら餡バタートーストが好きだ。合わせる珈琲はキリマンジャロがいい。和食ならば、ほうれん草の胡麻和えが好きだな」
いただきます、と二人は手を合わせると、ナイフとフォークを手に取った。そのとき、水鞠が厨房から戻ってきて、珈琲の入った青海波柄のマグカップを漣に渡した。「朝から甘ったるいですねえ……」漣は半眼で時雨と澄花を見遣りながらエスプレッソと紛うほどに濃い珈琲を啜った。この分ではこの水域の水がすべて砂糖水になってしまいそうだ。夫婦だというのに付き合いたての恋人のような雰囲気を醸し出す二人を彩るように、辺りをハート型の水泡が飛び回っている。
「あんなに甘々なのに、お二人にはご自覚がまるでないんですよね。不思議なものですよね、漣」
「まったく……付き合わされるこっちの身にもなって欲しいところです。糖分過多で胸焼けしそうです……水鞠、胃薬を持っていませんか?」
「胃薬よりも私にいい案がありますよ。これで漣も今夜からは安眠できるはずです」
水鞠は漣へと何事かと囁きかけた。それはいい、と漣は膝を打った。それなら今夜からの自分の安眠は確約されたも同然だ。
「あれ、時雨様はお肉を召し上がられるんですか? 水鞠さんから、時雨様の眷属は元は魚だから、魚は召し上がらないと聞いたんですけど」
「確かに私や眷属たちは魚は食べない。けれど、肉は普通に食べるぞ。そうだ澄花、翠雨殿からいただいた良い肉があるのだが――」
時雨と澄花は穏やかに会話を交わしながら、フォークとナイフを動かしていく。和やかだけれど、甘酸っぱく朝の時間は過ぎていった。ずずず、と時雨が太いストローでタピオカミルクティーを啜る音が響く。
甘。内心で呟きながら漣は珈琲を飲み干す。初々しいやりとりを繰り広げる水神と少女の姿を水鞠は優しい目で見守っていた。
時雨と毎食の食事を摂るようになって数日。澄花は時雨の部屋に招かれて茶を飲んでいた。
床の間に活けられているのは今日はホタルブクロだ。飾り棚の香炉からは漂う煙からは睡蓮の匂いがした。
「――澄花。何か、欲しいものはないか?」
白い雲と青い雨粒があしらわれた湯呑みを座卓の上に置くと、時雨はそう問うた。今日のお茶は花束のような香りが華やかな煎茶だった。
「欲しいもの……ですか?」
着物や小物類は充分すぎるくらいに与えてもらっている。食事だって、住むところだって与えてもらっている。――こうして、時雨と過ごす時間だって。
今は六月。例年ならば、母と梅酒を漬けている頃合いだった。母直伝の梅酒を時雨のために漬けるのはどうだろう。それは何だかとてもいい思いつきのように思えた。
「あの、梅と氷砂糖、ブランデーを用意してもらえませんか? 時雨様のために梅酒を漬けたいんです」
「澄花はつくづく欲がないな。そのくらいでよければ、すぐに手配させよう。――漣」
障子の脇に控えていた漣が返事をする。しかし、その表情は険しい。何か漣の気に障ることを言ってしまっただろうかと澄花は直前の発言を省みる。
「時雨様……お酒は控えられた方が……」
「構わない。私は澄花の作った梅酒が飲みたいんだ」
時雨がそう言うと、どうなっても知りませんからねと漣は溜息をつく。残念なものを見るような視線をちらりとこちらに寄越すと、漣は障子を開けて時雨の部屋を出ていった。
すっと障子が閉まり、漣の足音が遠ざかっていくと、澄花は時雨を見た。先ほど漣が言いかけたことが気にかかる。
「漣さんがお酒を控えられた方がいいと仰っておられましたが……もしかして、時雨様は肝臓がお悪いのですか?」
「いらぬ心配をかけてしまったようで済まない。恥ずかしい話なのだが、私は下戸なのだよ」
「下戸って……どのくらいですか?」
「酒を一口でも飲めばたちどころに真っ赤になり、眠ってしまうらしいんだ。正直、酒を水のようにざばざば呑める紅雨が羨ましい。……どうせ、澄花が作った梅酒もほとんど紅雨が呑んでしまうのだろうから」
拗ねたようにそう口にする時雨が何だか少しおかしくて、澄花は小さく笑った。むっとした表情を白皙の美貌に乗せる時雨に、澄花はこんなことを提案した。
「それじゃあ、梅酒の他に梅シロップも作りましょう。どのみち、わたしも再来年まではお酒が飲めませんから、これなら一緒に楽しめますよ」
それはいいな、と一気に時雨の表情が華やいだ。青藍の瞳に清風が躍る水面のような光が宿る。澄花はこれまで時雨がこんなに色々な表情を見せることを知らなかった。
澄花は黒文字を手に取ると、抹茶わらび餅を口へと運ぶ。新緑の季節に降り頻る雨の匂いが鼻へと抜けていった。
わらび餅の後に茶を口に含むと、緑の中にふわっと花が咲く。澄花は口の中で移り変わる情景を楽しんだ。
そんな澄花を時雨は微笑みながら見ていた。彼女のそんな表情を間近で見られるのは自分の特権だ。きっとこれが幸せというものだろうと時雨は思った。
二人は茶と菓子を前に、和やかに言葉を交わし合う。厨房から戻ってきた漣は二人の邪魔をしたくなくて、廊下の柱に寄りかかったまま、障子に映る幸せそうな二人の影を見ていた。――時雨に抱く己の気持ちに澄花が気づいてくれることを願いながら。
明くる日、朝餉が済んだ後、澄花は厨房で梅仕事に勤しんでいた。竹ザルの上に山のように積まれた青梅のヘタを澄花はぽりっぽりっと竹串で取っていく。
ふいに藍色の暖簾が揺れた。水の香りが澄花の嗅覚を満たす。澄花が手を止めて視線を上げると、彼女の選んだ薄藍色の着物の上から割烹着を纏った時雨が立っていた。
「――時雨様。どうされたんですか?」
「澄花が厨房で梅仕事をしていると漣から聞いてな。私にも手伝わせてくれないか?」
「そんな……時雨様にそのようなことをさせるわけには……」
「私がやりたいんだ。一緒に梅シロップを飲む約束をしただろう?」
そう言うと時雨は梅を手に取ると、その場にしゃがみ込もうとする。「時雨様、いくら何でもお待ちください」漣が慌てた様子でどこからともなく箱椅子を持ってきた。漣に促され、幾分か不満げな顔で時雨は箱椅子に座り直す。
「澄花、これはどうやればいいんだ?」
片手に梅を握り、時雨は澄花にそう問うた。澄花は竹串を一本時雨に渡すと、手本をやってみせる。
「ここに黒いヘタがありますよね。ここに竹串の先を引っ掛けて外してください。ヘタを外した梅はこちらのザルに――」
時雨は澄花の真似をして梅のヘタを竹串で外そうとした。慣れた手つきで着々と梅のヘタを外していく澄花に反し、手の中で梅が滑るばかりで上手くいかない。
「どうして時雨様がこんなことを……時雨様に何かあったらどうするんですか」
ぶつくさと呟きながら、漣は厨房の入り口から時雨と澄花の様子を伺っている。あら、とそのとき幼い可憐な声とともに漣のチャコールグレーのスーツの袖が引かれた。漣が視線を外すと、薄紫から白のグラデーションが美しい菖蒲柄の着物に身を包んだ幼い少女がそこにいた。桃色の帯がその愛らしさを引き立てている。
「……紅雨様」
「あの二人なら、何かあったほうがいいですわよ。いつまでもあのままなんて、漣だってむず痒いでしょう?」
平然と言ってのける紅雨に、それはそうですがと漣は言葉を濁す。幼く愛らしい見た目に反して、この兄妹は妹の方が精神年齢が遥かに大人だ。水鞠に水霜、秋水は互いに顔を見合わせると苦笑する。
「それより、漣。出歯亀だなんて品がありませんわよ」
「出歯亀だなんて、そんなつもりは……」
「けれど、覗いていたのは事実でしょう。さて、漣はわたくしとお茶にいたしましょう。おいしい枇杷があるのよ」
「しかし、時雨様のおそばを離れるわけには……」
「あら、漣。可愛い婚約者の言うことが聞けないと言うのかしら? それに水鞠たちがいるから、あなた一人が外したところでどうってことはないわ」
それでは行きましょう、と紅雨は漣の手を掴んで強引に引きずっていく。遠ざかっていく二人分の足音に、澄花は顔を上げると暖簾の外を窺う。
「……なんだったんでしょう?」
「さあな。それより澄花、ヘタが取れたぞ。これでいいか?」
お上手です、と微笑むと澄花は時雨から梅を受け取り、ザルへと入れる。時雨が一つの梅に悪戦苦闘している間に、澄花は全ての梅のヘタを取り終えていた。
澄花は箱椅子から立ち上がると、ザルを流しへと持っていく。水瓶から水を汲むと、澄花はヘタを取り終わった梅を洗っていった。その柔らかく綻んだ横顔に、時雨は見惚れていた。ふわりと舞い上がった水泡が時雨の頬を優しく撫でる。
さて、と梅を洗い終わった澄花はザルを木箱の上に置いた。そして、青みがかったガラスの瓶を二つ持ってきて土間に置くと、澄花は時雨に青海波柄の布巾を時雨に渡した。
「これで梅を拭いて、瓶に入れていってください。傷んでしまうので水気が残らないようにきっちり拭いてくださいね」
わかった、と時雨は頷くと手に持った布巾でまだ硬い梅を拭いていく。向かい合って座る澄花の手つきは丁寧なのに、時雨の何倍も早い。
「菓子をもらったときも思ったが、澄花は料理が上手いのだな」
「いえ、わたしなんて、特別上手いわけじゃありませんよ。お菓子作りなら、妹の方が数段上でしたし。梅酒作りだって、幼いころから母に仕込んでもらっただけですから」
「そんなに謙遜するものではない。君がくれた菓子を美味いと思ったのは私の本心からのものだ」
「それは……秋水さんの教え方が良かったんだと思います。お菓子作りなんて右も左もわからないわたしのために、次はどうしてこうしてってしっかり教えてくださいましたから」
「――澄花」
透き通った青藍の双眸が真っ直ぐに澄花を見据える。澄花は思わず口を噤んだ。
「私の思い違いでなければ、あの菓子からは技術以上に君の心が感じられた。――私への真心が」
「それ、は……」
確かに時雨の指摘通り、あの菓子は彼のことを思いながら作ったものだ。少しでも美味しいものを。少しでも彼の心を潤してくれるものを。彼が少しでも幸せな気持ちになれるものをあのときの澄花は作りたかった。その理由を追求しようとすると、視線が宙を彷徨う。なぜだか目の前の時雨を直視することができなかった。
「私は嬉しかった。君があの菓子に込めてくれた気持ちが」
真っ直ぐな言葉に澄花の顔が赤く染まる。つられるようにして、時雨もそわそわと視線を宙に泳がせる。ぱちっとあぶくが弾ける音がした。
澄花は俯くと、再び梅を布巾で拭い始める。厨房には、季節の進んだ梅のような甘酸っぱい空気が漂っていた。
深縹に藤納戸。御召御納戸に留紺。色とりどりの着物を前にどうしたものかと澄花は考え込んでいた。彼女を見守るように水が穏やかに波打っている。
今、澄花がいるのは時雨の着物が仕舞われた桐箪笥が立ち並ぶ納戸だ。初めて朝餉を共にした日の夜から、漣に頼まれて時雨の着物を選ぶのは澄花の仕事になっていた。
今日の時雨の着物に合わせた帯は濃藍に薄灰色の縞模様のものだ。明日は違う色の帯を使いたい。
(あ……)
澄花はさらりとして柔らかい薄紫の帯を手に取った。雨上がりの朝、一日が始まる前の温かな空の色に似ていた。
(それなら深縹……? それとも留紺が……?)
手に持った帯を澄花は着物に当てがってみる。どちらが時雨には似合うだろうか。澄花の脳裏に時雨の美しい顔と優しい微笑みが浮かぶ。穏やかな声で彼が自分の名前を呼ぶ声が聞こえた気がした。
「――様、澄花様」
自分の名前を呼ぶ声に、はっとして澄花は意識を現実に引き戻される。水鞠がにこにことした笑みを浮かべて、納戸の入り口から顔を覗かせていた。
「水鞠さん」
「時雨様のお着物を選んでいらっしゃったんですね。精の出ることです」
水鞠は澄花の手元を覗き込む。最初は着物の知識がなかった澄花が自分で時雨の着物を選べるようになってきていることに、彼女の成長を感じた。
「深縹と留紺で迷っているんです。どちらが時雨様にお似合いになるでしょうか……?」
「それは澄花様がお決めになることですよ。それに時雨様なら、澄花様がどちらを選んでもきっと喜んでくださいます」
「そうでしょうか……」
迷う澄花の瞳には愛しい人を思う色が浮かんでいた。熱くて、切なげで、不安げで。それは誰から見てもわかる、恋する乙女の顔だった。
「澄花様は、時雨様のことをどうお思いですか?」
水鞠が口にしたのは以前の紅雨の問いと同じものだった。しかし、それは今の澄花にとっては、以前と異なる意味をもつものだった。
「時雨様はお優しくてお美しい方だとは思います。神としてだけでなく、男性としても素敵な方だって思います。だけど、わからないんです。どうして、時雨様のことが頭から離れないのか。どうして、わたしはいつも時雨様のことを考えているのか」
神らしく静かに凪いだ表情。ふとしたときに美しい顔を彩る柔らかな微笑。漣に咎められたときの拗ねたような顔。まるで少年のようにはにかむ、照れたような面差し。
葛餅が好きで、餡バタートーストが好きで。ほうれん草の胡麻和えと筑前煮が好きで。好きなコーヒーはキリマンジャロで、紅茶ならアールグレイで。好きな花は紫陽花と睡蓮、梅で。書と陶芸、そして三味線が趣味で。
最初はただ契約で結婚しただけだった。なのに、気がつけば澄花は時雨についてこんなにもいろいろなことを知ってしまっていた。彼がこんなにもいろいろな顔をすることを知ってしまっていた。
少し嬉しそうに弾んだ声。切なく熱を帯びた声。凪いだ水面のような穏やかな声。自分を呼ぶ時雨の声にもいろいろな響きがあることを澄花は知ってしまった。
「時雨様のことを考えていらっしゃるときの澄花様は、いつも優しげで幸せそうな顔をしていらっしゃいますよ」
考えただけで気持ちが優しくなれる。考えただけで幸せになれる。そして、ちょっとしたことだけで不安になって、そわそわしてしまう。――この気持ちにつける名前を澄花もまた、知らない。まだ、知らない。
「水鞠さん。わたし……おかしいんでしょうか。こんなに時雨様のことを気にしてばかりで」
澄花の双眸が不安に揺れる。何もおかしくはないですよ、と水鞠は娘を見るような眼差しを澄花に向けるともしもの話をし始めた。
「澄花様が時雨様のお側にいられなくなるとしたら、澄花様はどう思われますか?」
「そんなの……そんなの嫌です。そんな辛くて悲しいこと、考えたくもありません」
「それはどうしてですか?」
「わたしにとって、時雨様が大切なお方だからです。ただの契約だけじゃ満足できなくなっているわたしがいるんです。時雨様を――お慕いしています」
ふふ、と水鞠は笑みを深くした。そして、彼女は諭すように澄花へと言葉を向ける。
「澄花様は気づいておられないようですけれど、その気持ちを恋というんです。幸せで、切なくて、不安で、その人のことばかりを考えてしまう――それが、恋です」
「恋……」
その言葉を澄花は反芻した。何かが腑に落ちる気持ちと、心の中が色づいていくような気持ち、恐れ多く思うような気持ちが綯い交ぜになって渦を巻く。
「そんな、わたし……時雨様に、そんな……」
やがて実感が伴ってきて、思わず澄花は自分の体をかき抱いた。ぱさりと音を立てて時雨の帯が床へと落ちる。自分なんかが時雨と釣り合うはずなんてない。知ったばかりのやり場のないこの気持ちは閉じ込め続けていかなければならないものだと思うと、窒息してしまいそうだった。――水神である時雨にこの想いを告げるなど、許されるはずもない。
「わたし……どうしたらいいんでしょう……。時雨様に恋だなんて……こんなこと、時雨様には言えません。時雨様のご迷惑になります」
「時雨様はご迷惑だなんてお思いになりませんよ。他でもない澄花様のことですから」
「どうして……?」
「澄花様は時雨様がそのような狭量なお方だと思いますか?」
いえ、と澄花は首を横に振った。そうでしょう、と頷くと水鞠は話を続ける。
「時雨様ならきっと澄花様の想いを受け止めてくださいます。それに私が思うに時雨様も――いえ、これ以上は野暮ですね」
「水鞠さん……?」
水鞠が何を言いかけたのか疑問に思いながらも、澄花は床に落ちた帯を拾い上げる。
恋。それは気恥ずかしくも、澄花の脳をふわふわと酔わせてしまいそうな響きだった。どくどくと心臓の鼓動が早くなるのを感じる。きっと顔だって、人には見せられないくらい赤くなっているに違いない。
時雨の明日の着物は深縹にしよう。明日の自分はきちんと時雨の顔を見て笑えるかわからないけれど、それでも時雨のことを好きだと思ったこの気持ちは大切にしたいと澄花は思った。
時雨は文机に頬杖をつきながら、冷茶のグラスを傾けていた。黒豆麦茶の香ばしい味わいが口の中に広がる。ガラスの中でカランと氷が音を立てた。
文机に置いた水盤の水位はぎりぎり現状維持を保っている。澄花の雨催いの巫女の力による賜物だった。
もう夜も遅い。漣を呼んで寝支度をさせようと時雨が茶を飲み干したとき、障子の外に小さな人影が立った。この姿は漣ではない。同じ父を持つ妹の姿だった。
「紅雨か?」
「ええ、お兄様。今、よろしいかしら?」
ああ、と戸惑いがちに返事をすると、紅雨が部屋へと入ってきた。何かまた紅雨に怒られるようなことをしただろうか。時雨自身は特に何かをしたような覚えはない。
時雨は立ち上がると、紅雨のために座布団を用意してやる。礼を告げると、紅雨は座布団の横に膝をついた。金魚が泳ぐ着物の裾を整えると、彼女は座布団の上に体を移し、背筋を伸ばす。幼い見た目には不似合いなほどの完璧な所作だった。
「――お兄様。わたくしがこうして伺ったのは、澄花のことについてですわ」
「澄花がどうかしたのか? 澄花に何かあったのか?」
「何かあったのか? ではありませんわ」
ぴしゃりと言い返すと、紅雨は深々と溜息をついた。この兄ときたらどれだけ鈍感なのか。この見た目と年齢のくせにあまりに情緒がお子様過ぎる。これではあまりに澄花が哀れだった。
「お兄様は澄花のことをどう思っていらっしゃるんですの?」
「どうって……澄花は澄花だろう。彼女は契約上の私の妻だ」
「契約上のって……お兄様は馬鹿なんですの!?」
紅雨に一喝され、時雨は青藍の目を瞬いた。振動で水盤の水が激しく波打った。少々毒舌気味な妹だが、こうまで言ってくるのは珍しい。理由がわからずに時雨が戸惑っていると、紅雨は小さく肩を竦め、話を続けた。
「澄花のことをどんな目で見ているか、わからないとでも思っていたんですの? この屋敷にいる者なら、お兄様が澄花にどんな感情を抱いているか皆知っておりますわ。気づいていないのはお兄様と澄花だけです」
「……」
諭すような紅雨の言葉に時雨は黙り込んだ。毎日毎日、気がつけば澄花のことを考えてばかりだ。しかし、それがそんなにわかりやすく言動に現れていたとでもいうのだろうか。
「漣が言っておりましたわよ。澄花がこの家に来てからのお兄様はずっとそわそわとして心ここに在らずだと。お兄様の心は――澄花に奪われてしまったんですわ」
「澄花に?」
「そうですわ。最近のお兄様は澄花は何が好きかだとか、どうしたら澄花が喜んでくれるかだとか、そんなことばかりですもの。澄花の言動に一喜一憂しているこの状況は、お兄様の心は澄花に奪われてしまったとしか言いようがありませんわ」
「……そうなのかもしれないな。最近の私は澄花のことばかり考えている」
「ねえ、お兄様。お兄様は澄花のことを一人の女性として好いているのでしょう?」
紅雨がそう訊ねると、わからないと時雨は首を横に振った。白皙の美貌には迷子になってしまった子供のような表情が浮かんでいた。
「澄花のことを考えると、なぜだか心が温かくなる。優しい気持ちになれるんだ。なのに、どうしようもなく胸が締め付けられて、苦しい気持ちにもなる。だけど、彼女を――澄花を泣かせたくないと、悲しい顔はさせたくないと思うんだ。澄花には笑っていて欲しい」
こんなにも彼女のことを想っているというのに、自分の心に気がついていないとはどれだけ時雨は鈍感なのだろう。その言葉こそが何よりの答えだというのに。呆れながらも紅雨は口を開く。
「――お兄様。その気持ちこそが恋というものですわよ。どうしてその気持ちを澄花に伝えないんですの?」
恋、と唖然としたような表情で時雨は呟く。まさか自分が恋をしているなどとは夢にも思わなかった。しかし、自分がこの想いを澄花に伝えることなんてできるはずもない。
「澄花は私の眷属で妻、私は水神だ。私が想いを告げたなら、澄花はそれを受け入れるしかないだろう。いずれ離れていくかもしれない彼女をそんな重石で縛り付けたくはない。――彼女には幸せでいて欲しいから」
「お兄様ときたらどれだけ愚かなんですの? お兄様は澄花の気持ちを想像したことがありませんの? ――澄花もまた、同じ気持ちかもしれない、と」
「……え?」
時雨は青藍の双眸を見開いた。その瞳は期待と混乱で揺れている。
「傍目から見ればすぐにわかることですわ。お兄様と一緒にいるときの澄花は恋する乙女の顔をしていますもの。それにお兄様の心など、水の揺らぎが教えてくれますわ。――澄花にどうしようもないほど、恋焦がれていると」
お兄様、と紅雨の空色の瞳が時雨を射抜いた。いいですこと、と諭すように紅雨は言葉を継ぐ。
「自身の存在が重荷だと感じるのであれば、澄花から想いを口にさせることがあってはなりませんわ。一柱の神に想いを告げるなど、澄花の立場からしたら、非常に勇気と覚悟のいることでしょうから。お兄様から、あるがままの想いを澄花に告げるのです」
「しかし、澄花に拒まれてしまったら私はどうすれば……」
「そんなことは振られてから考えればいいですわ。そうやってすぐにうじうじとするのはお兄様の悪い癖です。それに、そのような万が一は絶対に起こり得ないですわ。澄花がお兄様を振るなんてあり得ませんもの。あとはお兄様が行動に移すだけですわ」
畳に黴が生える前に男を見せてくださいな、と紅雨は立ち上がる。話を切り上げると、おやすみなさいませ、と紅雨は障子を開けて時雨の部屋を出て行った。紅雨の着物に描かれた金魚の尾鰭が時雨の視界をちらついた。
この気持ちを澄花にどう伝えたらいいだろう。初めての恋に戸惑いながらも、その答えは自分で考えるべきだろうと時雨は感じていた。誰かに聞いた言葉ではなく、これだけは自分で考えた自分自身の言葉で伝えたい。
目を閉じると、澄花の控えめな笑顔が瞼の裏に映る。華奢な身体に、三つ編みにした髪、小動物のように潤んだ瞳。そのすべてに胸がざわつく。誰にも見せられない、この熱をどうすればいいのか、時雨は思わず身を震わせた。
澄花、と時雨は彼女の名前を呟くと、思考の海へと沈んでいった。――誰より愛しい少女の姿を思い浮かべながら。
紫陽花が色褪せ始めた夜、時雨は縁側に座って中庭を眺めていた。花季の終わりを迎え始めた紫陽花と入れ替わるようにして、朝顔が竹垣に沿って蔓を伸ばし始めている。淡く発光する水泡に紛れるようにして、庭を蛍が舞っていた。
ギィ、と床が軋む音がした。一人分の足音がこちらへと近づいてくる。それは時雨の待ち人にして、誰より愛しい少女のものだった。
「――時雨様」
少女の声が自分の名を呼ぶ。時雨が背後を降り仰ぐと、紺藤の着物に身を包んだ澄花が盆を持って立っていた。盆の上には二人分の切子細工のグラスが乗っており、カランカランと氷が涼しげな音を立てていた。
「お待たせして申し訳ありません」
「いや、いい。私も先ほど来たところだ」
座るといい、と促すと、おずおずと澄花は時雨の横に腰を下ろした。澄花は脇に置いた漆塗りの盆からグラスを手に取ると、時雨へと渡した。
「以前にお約束していた梅シロップです。先ほど、夕餉の後に確認したらいい具合に浸かっていたので、炭酸水で割ってみました。時雨様のお口に合うといいんですけれど」
ありがとう、と時雨は微笑むとグラスに口をつける。二人で一緒に作った梅シロップからは、優しい甘みと仄かな酸味が感じられた。口の中でぱちぱちと炭酸が小さな泡を弾けさせる。
「――美味いな」
思わず口元が綻ぶのを時雨は感じた。ええ、と隣で澄花が頷く気配がした。
「きっと、時雨様と一緒に作ったからですよ。それに――」
「――君と一緒に飲むから美味しいのかもしれないな」
澄花の言葉を時雨が継いだ。二人の視線が絡まり合う。その視線は梅シロップよりも甘く、アルコールなど入っていないのに酔ってしまいそうだった。――恋という名の微熱に。
「――澄花。君に聞いて欲しい話がある」
時雨はグラスを置くと、改まったように切り出した。その顔からは緊張と覚悟が見て取れて、澄花は居住まいを正す。
「――澄花。私は君のことが好きだ。一人の女性として愛している。私と君は契約から始まった関係だとはわかっているが……それでも、それ以上を望んではいけないだろうか。私は君が欲しい。君のことを考えると幸せで暖かな優しい気持ちになれるのに、どうしようもなく苦しいんだ」
それは不器用な時雨らしい、真っ直ぐな愛の告白だった。その胸中を吐露され、澄花の目が見開かれていく。どくん、どくん、と心臓が鳴る。
「わたしも――わたしも、時雨様と同じ気持ちです。わたしも時雨様のことが好きです。心からお慕いしています。わたしは、望んでもいいんでしょうか? ――あなたと共に歩む未来を」
「それは私の台詞だ。君は背負ってくれるのか? 水神の伴侶となる重みを。私と共に在るということは、普通に生きて、普通に老いていくという人生を捨てることだ。――君はそれでも構わないというのか?」
「――はい。私は貴方と生きることができるのならば、それ以上何も望みません」
そうか、と頷くと時雨は袂から翡翠のペンダントを取り出した。時雨はそっと澄花の華奢な身体を抱き寄せると、彼女の首にそれをかけた。
「翡翠の石言葉は幸福――紅雨の受け売りだがな。この先、私と共にある君が幸福であるように――私はそう祈っている」
時雨は澄花の首元に額をつける。彼女の身体からは水辺に咲く花の淡く甘い香りがした。
「そんな……頂けません。わたしには、何も時雨様に返せないというのに」
「澄花からはいろいろなものをもらっているよ。それでももし君が私に何か返したいというのなら――欲しいものがある」
いいか、と時雨の美しい顔が近づいてくる。甘い予感に胸が高鳴るのを感じながら、澄花はそっと目を閉じる。
唇に柔らかいものが触れる。想いが通じ合って初めて重ねる唇からは熟した甘酸っぱい梅の味がした。
この人が好きだ。誰より大切だ。恋の熱さを秘めた時雨の口付けに蕩かされながら、澄花はそう思った。この人になら、心だって身体だってすべてを捧げてもいい。――まだ誰も踏み入れたことのないまっさらなすべてを。
さらさらと水が流れる音に包まれながら、二人は唇を重ね続けた。結ばれたばかりの二人を寿ぐように、蛍がふわふわと宙を舞っていた。



