雨乞いの儀式の日から数日が経った。水の底に沈んだ庭では半夏生の葉が白く色づき始め、静かに夏が忍び寄ってきていることを知らせていた。さらさらと流れる水の音に紛れるようにして、どこかで蛙が鳴いているのが聞こえてくる。
これからも時雨のそばにいたいと思ったあのときの気持ちは紛れもない自分の意志だ。しかし、唇を交わしたときのあの感触と抱きしめ合ったときのあの温もりがどうしても頭から消えてくれない。思い出すたびに顔が熱くなる。
それ以外にも、澄花には気掛かりがあった。あの儀式の翌日から、屋敷の中ですれ違っても何となく時雨の態度がよそよそしいのだ。毎日のように時雨から贈り物が来るのは相変わらずだが、添えられた手紙の内容はなんとなく歯切れが悪い。
(ああして雨は降ったけれど……まさか、儀式で何か失敗をしていた……?)
それくらいしか澄花には思い当たることがなかった。澄花は事前に知らされていた通り、儀式のはじめに時雨と唇の契りを交わした。それ以外は言われた通り、儀式の行く末を見守っていた。それ以外、澄花はなにもしなかったし、なにもできなかった。
「――今、よろしいかしら?」
澄花が悶々としていると、幼い少女の声が障子の向こう側からかけられた。いつの間にか強い水の気配が廊下から漂ってきていた。澄花が背後を振り返ると、声の持ち主とお付きの者と思われる二つの人影が桜の透かし彫りの入った障子に映っている。
澄花が訪いを拒む理由は特にない。ふるふると頭を振って煩悩を脳内から追い出すと、澄花はどうぞ、と返事をした。
「あら、紅雨様。どうかなさいましたか?」
澄花と同年代に見える付き人――水霜を伴って、澄花の部屋に入ってきた少女に、澄花のそばで控えていた水鞠は声をかける。紅雨は空色の目をきらきらと輝かせながらこう言った。
「水鞠、ごきげんよう。お兄様ってば、なかなかわたくしを澄花に会わせてくれようとしないんですもの。どんな方なのか気になって、つい押しかけてきてしまいましたわ!」
薄紅色から空色への大胆なグラデーションが美しい梅柄の着物。一足早い夏を感じさせる向日葵色の帯は少女の利発で明るい印象を引き立てている。兄と揃いのぬばたまの髪は切り揃えられ、白と黄色、薄青の紐で編まれた水切り細工の簪が添えられていた。
紅雨は時雨の妹だ。そのことは周囲の会話から、澄花も知ってはいた。失礼があってはならないと、澄花は畳に手をつくと、恭しくこうべを垂れる。
「紅雨様。ご挨拶が遅れて大変申し訳ございません。わたしは雨霧澄花と申します。及ばずながら、先日、その……時雨様の、妻となった者です」
妻。自分の口をついてでた慣れない響きに、澄花は狼狽える。投げ込まれた石に波立つ川面のように、心がざわめいた。くすり、と紅雨は笑うと、顔をお上げになって、と可愛らしい声で告げる。促されるままに顔を上げると、透明感のある空色の瞳と視線が交錯した。
夜明け前の静けさを纏ったかのような時雨と、春の野に咲く花のように可憐で華やかな紅雨。対照的な存在であるようなのに、その目に澄花は既視感を覚えた。やはり兄妹なのだと、澄花はそのことを実感する。――目の前の紅雨もまた、幼い見た目でありながらも、水を司る神の一柱であるのだということも。
「そんなに畏まらないで。澄花、わたくしはただあなたとお話しがしてみたかっただけなの」
「話、ですか……? わたしと……?」
紅雨の用件に意表を突かれて、澄花は目を瞬いた。しかし、自分には目の前の少女を楽しませるような話題を持ち合わせていない。澄花は困惑した。
「お兄様は今日はこの水域の定期会合で、墨江川の翠雨様と新川淵川の花雨様に会いに行かれたでしょう? その伴で、うるさい漣も留守にしておりますし、いい機会だと思いましたの」
「は、はあ……」
そんなことをうきうきと口にする紅雨を前に、毒気を抜かれて澄花は相槌を打った。どう接したものかと困り果てている澄花をよそに、紅雨は話を続けていく。
「それにしても、会ってみてお兄様がこれほど大事にするのも納得しましたわ。澄花はこんなに可愛らしいんですもの。誰の目にも触れないところに大事にしまっておきたかったんでしょうね。お兄様は昔からそういうところがありますもの」
「えっ……そんな……、わたしはただ、時雨様とは契約上の関係ですし……」
そうかしら? と紅雨は可愛らしく小首を傾げた。そして、彼女は驚くべき事実を口にした。
「漣はわたくしの婚約者なのですけれど――彼が教えてくれましたわ。澄花がどうしたこうしたとお兄様が毎日のようにのろけていらっしゃると。どんな仕草が可愛らしかったとか、贈った簪をつけてくれていたとか、そんなことを延々と」
「え……」
澄花は絶句した。常の凪いだ水面のような時雨からは、そんな姿はとてもではないが想像できない。
「契約だとかそんな話はいいですわ。実際、澄花はお兄様のことをどう思っていらっしゃいますの?」
直球な質問に澄花はう、と言葉に詰まった。どう話せばいいか、こんなことを言って失礼にならないか、と言葉を探す澄花の目が宙を彷徨う。
「えっと……、あの、その……時雨様はわたしにとって恩人です。死のうとして川に飛び込んだわたしの生命を救って、このお屋敷に置いてくださって。それに毎日のようにいろいろ頂いて、とても良くしてくださって……」
しどろもどろになりながら言葉を紡ぐ澄花の頬を紅雨の小さな両手が捕らえる。あのね、と嫣然と微笑む顔からは先ほどまでの無邪気な幼さは消えていて、紅雨が澄花よりも遥かに長い時を生きている存在なのだということを教えていた。
「――澄花。わたくしが聞きたいのはそんなことじゃないの。あなたはお兄様のことを一人の男性としてどう思っているのかしら? これっぽっちも好きではない?」
「紅雨様。時雨様は神の身であらせられます。そんな方に想いを寄せるなど、わたしのような者に許されることではないのではないでしょうか」
話をすり替えないでちょうだい、と紅雨が澄花の言葉尻を遮った。幼い声はその印象とは裏腹に刃のような剣呑さを帯びていた。お待ちください、と黙って話を聞いていた水鞠が紅雨を制する。
「紅雨様、澄花様が困っておられます。これ以上はお控えいただけますでしょうか。それに――」
水鞠はそっと紅雨へ耳打ちをする。何かが腑に落ちたように、そういうことでしたの、と紅雨は頷いた。ふっと鋭さがほどけて水の中へ溶け、彼女が纏う気配が和らぐ。
「ごめんなさいね、澄花。わたくし、ただ、あなたと仲良くなりたかっただけなの。こんなことだから、漣にもぶらこんだとか言われてしまうのね。本当に申し訳なかったわ」
「いえ、紅雨様。そんな、謝られるようなことは何も……」
謝罪を口にする紅雨に澄花は慌てて首を横に振る。今のはきちんと質問に答えられなかった自分が悪い。
だけど、と透き通った空色の目が澄花を見据える。春の小川のせせらぎを想起させるような目だった。
「お兄様のこと、ほんの少しでいいからちゃんと考えてみてほしいの。それがきっと、澄花のためにもなると思うから。――それと、またこうやって遊びにきてもいいかしら?」
否とは澄花には言えなかった。それを感じ取ったのか、紅雨は見た目の年齢相応の幼く無邪気な笑みを浮かべると、こんなことを問うた。
「ねえ、澄花。何か好きなお菓子はある?」
葛餅が、と澄花は戸惑いながらも答える。すると、紅雨はいたずらっぽい笑みを浮かべながら、澄花の耳元に口を寄せるとこんなことを囁いた。
「葛餅ならお兄様も好きよ。というか、葛全般が好きみたい。葛の扱いなら秋水がよく知っているはずだから、何か拵えてお兄様のところに持っていって差し上げたらいかがかしら。きっと舞い上がって喜ぶに違いないわ」
「え……」
そんな時雨は想像できない。というか、先ほどから紅雨に聞かされている時雨像は本当に本人のものかと疑いたくなってくる。
けれど、時雨に好物を贈るというのはいい案に思えた。いつも時雨にもらってばかりだし、何より儀式の翌日からすれ違い続けてしまっている自分たちが話すきっかけになればいい。
「長居が過ぎたわね。それでは、また来るわ」
「澄花様。紅雨様がお騒がせいたしました」
ご容赦を、と水霜は澄花へと頭を下げる。その顔には澄花への同情が浮かんでいた。行きますよ、と彼女は己の主人を連れて澄花の部屋を出ていった。
すっと障子が閉じられ、二人分の足音が遠ざかっていく。紅雨の先ほどの問いがずっと澄花の中でぐるぐると渦を巻いていた。
その日の夜、夕餉を終えた澄花が水鞠と共に自室に戻ると、水菓子が届けられていた。添えられた水玉模様の一筆箋には昼間の件を詫びる言葉と紅雨の名前が綴られている。
(かわいい……)
昼間に澄花が葛餅が好きだと言ったのを覚えていたらしい。ハート型に固められた葛餅はとても愛らしく、添えられた甘夏の蜜は今の季節らしく爽やかだ。
時雨は葛が好きなのだと紅雨は言っていた。時雨のために何か拵えてみては、とも。
(わたしに作れるかな……)
澄花の料理の腕はごくごく普通だ。普通の料理を作るのにさほど不自由することはないが、職人のような繊細な細工ができるかと言われると自信はない。
紅雨から送られてきた爽やかな味わいの葛餅に舌鼓を打ちながら、澄花は白藤色の壁を見つめる。視界ではふわふわと淡く光る水泡が宙を泳いでいる。
どうせなら心を込めて作りたい。時雨が喜んでくれるものを作りたい。
そんなことを考えていると、ふっと中庭の紫陽花が澄花の脳裏に閃いた。上品で静かなあの佇まいが澄花の頭の中で時雨のイメージと結びつく。
優しい青色はまるで自分を見つめる青藍の双眸のようだ。品のある紫色は時雨が好んで身につける着物を思い出させた。
(――よし)
葛餅の最後の一欠片を口の中に放り込むと、澄花は気合いを入れた。自分にできるかどうかはわからないが、厨房に行って秋水に相談してみよう。
「水鞠さん。わたし、厨房に行ってきますね。戻るまでに時間がかかるかもしれないので、先に休まれていてください」
澄花は薄花色の着物の裾を整えながら立ち上がると、部屋の隅に控えていた水鞠へと声をかける。彼女は深くは追及せずに、承知いたしましたと澄花を送り出した。
(水鞠さん……たぶん気づいてたよね)
時雨に手作りの贈り物をしたいなど、恥ずかしくて言い出せなかったが、厨房へ行くというあの一言で察しのいい彼女は気づいたはずだ。澄花は耳が熱くなるのを感じた。ぱち、と耳元で水の泡が弾ける。
雨戸の閉じた廊下を澄花は厨房に向かって歩いていく。ふわふわと舞う水泡が薄暗い廊下をぼんやりと照らしていた。
「時雨様にお菓子を作られるんですか?」
お時間いいですか、と澄花におずおずと話しかけられた秋水は彼女にそう訊いた。どうしてそれを、と小動物のように潤んだ澄花の目が見開かれる。
「紅雨様が先ほど夕餉を召し上がられた際に、今夜あたり澄花様がいらっしゃるかもしれないと仰っておられましたので。澄花様の力になってほしいと仰せでした」
一見無邪気な少女に見える紅雨の手回しの良さに澄花は内心で舌を巻いた。材料も揃ってますよ、と落ち着いた声音で秋水は言う。すべては紅雨の掌の上のようだ。
「時雨様に葛を使ったお菓子を作りたいんですよね? どのようなものをお考えですか?」
「時雨様のことを考えたときに、ふっと中庭の紫陽花を思い出したんです。できればそんな感じのイメージのお菓子を作りたいんですけど……難しいですか?」
柔らかな緑色の苔に包まれた岩。さらさらと流れていく水音の下、青と紫の花を咲かせる紫陽花。日差しを受けてきらきらと光る川面。
それが澄花から見たあの庭の印象だった。浮世離れしていて美しく、幻想的な佇まいは時雨の印象とも一致する。
「そうですね……豆乳を葛で固め、その上に蝶豆の粉で色付けした寒天を飾りつけるのはいかがでしょう? 澄花様の作りたいもののイメージにだいぶ近いのではないかと」
「作り方、教えてもらってもいいですか?」
もちろんです、と頷くと秋水は襷を取り出して澄花へと渡した。澄花は薄花色の着物の袖が邪魔にならないように襷で縛る。その間に秋水はどこかへと姿を消していた。
「……秋水さん?」
澄花が呼ぶと、勝手口の扉が開き、秋水は冷えた豆乳が入った容器を持って戻ってきた。どうやら、氷室に材料を取りに行っていたようだった。
「お待たせして申し訳ありません。それでは澄花様、始めましょうか」
そばについてお教えしますのでご安心ください、と秋水は目を細める。ご面倒をおかけします、と恐縮して澄花は反射的に頭を下げた。
「とんでもない。澄花様のお力になれること、使用人冥利に尽きます」
そう言いながら、秋水は小鍋を取り出して澄花へと渡す。
「それではまず、この鍋に豆乳を入れて、沸騰させてください――」
澄花は竈の前に立つと、秋水の指示に従って鍋を火にかけた。冷えた器に入った豆乳を鍋に注ぐと、沸騰するのを待つ。
その間に、厨房のどこに何があるか知り尽くしている秋水は他の材料の用意をしてくれていた。葛粉に砂糖。塩に粉寒天。そして、青紫色が鮮やかな蝶豆の粉と対照的な色合いの生レモン。
「秋水さん、レモンって何に使うんですか?」
「蝶豆の粉の色を変えるのに使うんです。レモンが入ると一気に酸性になるので、綺麗な紫色になりますよ。――っと、澄花様、豆乳が沸騰したみたいですよ。葛粉と砂糖と塩を入れて混ぜてください。その間に私は器の用意をしておきますね」
澄花は秋水に言われた通りに豆乳に材料を入れると、木べらでかき混ぜていく。
(時雨様……喜んでくださるといいな)
できることなら、少しでも美味しくなるように。できることなら、少しでも時雨の心を潤してくれるように。一混ぜ一混ぜにそんな思いを乗せながら、澄花はふつふつと泡を立てる白い液体をかき混ぜていく。湯気が夜のひんやりとした水の中へと溶けて消えていく。
「澄花様、そろそろいいですよ。その鍋の中身を均等になるように、器に移してください。空になった鍋は流しに置いておいてください。後で私のほうで洗っておきますので」
秋水は石の作業台の上に青や緑の水玉が散ったガラスの器を並べるとそう言った。彼女は澄花が先ほど述べたイメージを汲んでくれたのだろう。庭を覆う優しい苔の緑色とふわふわと屋敷の庭を舞う水泡を彷彿とさせた。
澄花はすができないように、ゆっくり丁寧に器に白い液体を注いでいった。時雨が口にするのだから、少しでも舌触りがいいものにしたい。
鍋が空になると、澄花はそれを流しへと持っていった。秋水は白い液体が入った器を盆へと乗せながら、澄花へと次の指示を出す。
「新しい鍋を用意しておきましたので、粉寒天と水を入れて沸騰させておいてください。私はその間にこれを氷室に持っていっておきますので」
はい、と澄花が返事をすると、秋水は盆を手に勝手口の扉を開け、外へと出ていった。ぱたん、と扉の閉まる音を聞きながら、澄花は言われた通りに水瓶から水を汲み、粉寒天を加えると、鍋を火にかける。
澄花は寒天が綺麗に溶けきるように、ぐるぐると均等にヘラで混ぜていった。ここできちんと寒天を溶かしておかないと、後で綺麗に固まらなくなってしまう。そんな失敗作を時雨に食べさせるのは嫌だった。
寒天が沸騰するころになると、秋水が氷室から戻ってきた。彼女は澄花の手元の鍋を覗き込むと、そろそろ火から下ろしていいですよと言った。
「砂糖と蝶豆の粉を入れて混ぜてください。寒天はすぐに固まり始めてしまうので、手早く」
火から下ろした鍋に澄花は砂糖と蝶豆の粉を入れて混ぜる。すると、透明だった液体が青へと色を変えた。時雨の双眸を思い出す、優しい色だった。
「こちらとこちらにそれを注いでいただけますか? 量は丁度均等になるくらいで」
秋水は同じ大きさの長方形の容器を用意すると、澄花にそう促した。澄花はそっと青い液体を容器へと注いでいく。
「そうしたら、片方にレモンの汁を搾り入れて混ぜてください。綺麗な紫色になりますよ」
秋水の指示に従って、澄花は片方の容器の中にレモンを絞った。夏らしい爽やかな香りが鼻腔に広がる。レモンを加えた液体を匙で混ぜると、秋水の言った通り、青から綺麗な紫色へと色を変えた。思い出されるのは静かに佇む時雨の後ろ姿だ。
(あれ、わたし……さっきから、時雨様のことばかり……?)
時雨のために作っているのだから当然だと澄花は思い直す。食べてくれる相手のことを思うのは当たり前のことだ。
「それでは、澄花様。今宵はこれまでにいたしましょう。先ほどの葛が固まるまでには時間もかかりますし、仕上げは明日の朝餉の後にでも」
「わかりました。その、ありがとうございました」
「いえ、少しでも澄花様のお力になれたのならば何よりです。片付けは私のほうでしておきますので、澄花様はお部屋へと戻られてください」
いえ、と澄花は首を横に振った。手伝ってもらうだけ手伝ってもらって、後片付けは丸投げなど無責任にも程がある。
「お邪魔でなければ、後片付けまでさせてください。ご迷惑だけおかけして、片付けは丸投げなんてこと、したくありません」
そうですか、と秋水は微笑んだ。紅雨がお節介を焼きたくなる理由がわかる気がした。
「それでは、私は洗い物をしますので、澄花様は洗ったものを拭いて片付けていただいてもよろしいですか? 片付ける場所がわからなければ、都度私に聞いてください」
お願いしますね、と秋水は青海波の柄が刻まれた布巾を澄花に渡した。布巾を受け取ると、わかりましたと澄花は頷いた。
ざぷんと音を立てて秋水は水瓶から桶へと水を汲む。とぷ、という小さな水音が澄花の聴覚にこだまする。たわしに木灰を含ませると、彼女は調理器具を洗い始めた。
更け始めた夜の厨房に、たわしが鍋の表面を撫でるかしゃかしゃという音が控えめに響く。桶の水にに映る澄花の顔に、秋水はふっと口元を綻ばせた。そのときの澄花は自分が一体どんな表情をしていたのか、気づいてはいなかった。
「――まったく、お兄様ったら何を考えていらっしゃるのっ!?」
翌日の午前中。澄花は時雨の部屋を訪れた足で紅雨の部屋へと足を運んでいた。昨日の礼として、今朝仕上げたばかりの菓子を紅雨と水霜に届けるためだった。
紅雨は澄花の作った菓子を喜んで受け取ってくれた。しかし、時雨の部屋を訪れたときの顛末を聞くなり、彼女は青筋を立てて声を荒らげたのだった。彼女から発せられた声の衝撃で、澄花の視界で止まることなく波紋が生まれては連鎖していく。
まあまあ、と澄花は紅雨を宥めようとする。しかし、怒りを露わに紅雨はきっぱりと首を横に振った。
「せっかく、澄花が訪ねていったというのに部屋にも入れないだなんて、論外ですわ! 漣も漣ですわよ! 澄花を追い返すだなんて!」
二人まとめてとっちめてやりますわ、と紅雨は息巻いた。大丈夫ですから、と澄花は困ったように眉尻を下げる。このようなことには慣れているのか、水霜は特に口を挟もうとしない。
「紅雨様、わたしが悪いんです。特にお約束もないのに突然時雨様のお部屋を訪ねてしまったんですから。それに、漣さんにお願いして時雨様にお菓子は渡していただけましたし、充分です」
「澄花は欲がなさすぎです。それに澄花を追い返した理由も理由で、わたくしは妹として心底情けないですわ」
先ほど、澄花が時雨の部屋を訪ねたとき、今は障りがあるからという理由で漣に訪問を拒まれた。何か予定があったのだろうと思って澄花は菓子を漣に預けて、その場を辞したのだが自分には思い至らないような理由でもあったのだろうか。普段は澄花に厳しい態度を取る彼にしては珍しく、妙に同情的だったがそれが何か関係あるのだろうか。
「漣は、澄花が訪ねてきたことに舞い上がっているお兄様の姿を見せたくなかったのでしょうね。そんな姿、神としての威厳も何もありませんもの。ましてや、澄花が自分のために好物を拵えてくれたとあっては、小躍りするほど喜ぶでしょう。……いえ、この水の揺らぎ方は今ごろ実際に部屋で踊っていますわね」
紅雨は深々と溜息を吐く。澄花は紅雨が話していることが信じられなかった。自分の知っている時雨の姿と紅雨が語ったことはあまりにかけ離れすぎていた。
「紅雨様……それは本当に、時雨様のお話ですか……?」
「ええ、間違いなくお兄様の話よ。格好つけだから澄花には隠しているつもりみたいだけれど、お兄様ときたらあの見た目と年齢のくせに、情緒は思春期で止まっていらっしゃるの。そんな情けない方ですけれど、どうか嫌わないで差し上げて……」
「いえ、そんな……わたしが時雨様を嫌うなんてそんなこと……」
紅雨は頭が痛いと言わんばかりに苦々しげな表情を浮かべる。屋敷の中の水の揺らぎからは、ちらっと見えた澄花が今日も可愛かっただとか、今日も澄花が尊すぎるだとか、とてもではないが紅雨の口からは言えないような内容ばかりが伝わってくる。
紅雨の心労を慮ったらしい水霜が、遠慮がちに彼女へと声をかけた。
「紅雨様。お茶にいたしませんか。せっかく澄花様からお菓子をいただいたんですし」
「そうですわね……そうしましょう」
紅雨は水霜の提案に首を縦に振った。それではご用意いたしますね、と水霜はかちゃかちゃと茶の用意をし始める。忙しなく波紋を描き続けていた水が少しずつ落ち着きを取り戻していく。
やがて、ほうじ茶の香ばしい匂いが湯気に乗って立ち上り始める。澄花は幼い見た目に反してひどく疲れた様子の紅雨を戸惑いながら見つめているしかできなかった。
「――時雨様」
障子の外を気にしながら、立ち上がってそわそわと動き回る時雨を前に、漣はため息混じりに彼の名を呼んだ。時雨の長い手足は蛇のようにうねり、今にも踊り出しそうである。彼の目は朝日を浴びて輝く雫のように、喜びできらきらと輝いている。
「踊ろうとしないでください。舞おうとしないでください。とりあえず座ってください。あと、目元と口元がにやけてるのをどうにかしてください。一柱の神として、威厳のある態度をとってください」
漣に立て続けに注意され、何のことかと言わんばかりに時雨は青藍の双眸を瞬いた。透き通るその瞳には純粋な疑問のみが浮かんでいる。
「漣、どうかしたか。私に何かおかしい点でもあったか?」
「おかしい点しかありませんよ……。どうして時雨様がそんなに無自覚でいられるのか、私は理解に苦しみます……」
漣は頭が痛くなる思いだった。おそらく時雨のこの様子は紅雨にも伝わっている。先ほど澄花を追い返したことといい、このことといい、後で時雨と二人まとめて彼女に小言を食らうであろうことは想像に難くない。
澄花を妻に迎えてから、時雨はこのようにそわそわとしていることが増えた。口を開けば澄花の話ばかりだというのに、実際の彼女を前にすれば空回りを繰り返すばかりだ。思春期の男子中学生でも、時雨よりはもう少し器用に立ち回るだろう。
先ほどまでそわそわと立ち動いていた時雨は文机の前の座布団に腰を下ろし、澄花からもらった菓子を物憂げな目で矯めつ眇めつしている。はあ、と薄い唇から漏れる吐息はしっとりとした色香を纏っている。
「食べてしまうのが勿体無いな……。それに澄花がこんなに料理上手だとはな……彼女の伴侶となる男が羨ましい限りだ」
「時雨様……澄花様の夫はあなたでしょう? しっかりなさってください」
「そうは言っても、私と澄花は契約上の関係だ。将来、彼女は私ではない男を愛すかもしれない」
澄花とは行きがかり上、互いの利害の一致で契約上の夫婦になったにすぎない。それは彼女の心までも縛ることのできるものではないことを時雨は知っていた。
「まったく……時雨様はそわそわしていたかと思うと、今度はうじうじと……。畳が黴びたらどうするんですか。去年の年末に変えたばかりですよ」
「うじうじ……うじうじか……」
ぼそぼそと呟くと時雨は文机に頬杖をつく。この地に住まう生命を満足に守ることのできない自分に自信なんてない。その自信のなさが時雨を後ろ向きにさせていた。
「漣……私はどうしたらいいと思う?」
つい、弱音が時雨の口を突いて出た。それは長年そばにいる漣にしか見せない彼の弱さだった。
「時雨様、子供ではないのですから、そのくらい自分でお考えになってください。自分の心に正直になれば、自ずと答えは見えてくるものですよ」
「自分の心に正直に、か……」
時雨は漣の言葉を反芻する。物憂げな表情を浮かべる美しい顔からは大人の色香が漂っているというにもかかわらず、目には道に迷ってしまった子供のような色を湛えていた。
(澄花……)
こんなにも彼女のことばかり考えるようになったのはいつのころからだっただろう。彼女の持つ雨催いの巫女の力以外も欲しいと思うようになったのはいつのころからだっただろう。笑って欲しい、名前を呼んで欲しい、こちらを見て欲しい――そんなことを考えるようになったのはいつのころからだっただろう。
時雨はこの感情につける名前を知らない。晴れた春の日のように胸が暖かくなっては、知らず知らずのうちに気持ちがそわそわと落ち着かなくなり、ちょっとしたことでこの世の終わりのように暗雲が立ち込める――波のように寄せては返すその感情は時雨にとって未知のものだ。ただ唯一わかるのは、澄花が自分にとっていつの間にか特別な存在になってしまっていたという事実だけだった。澄花に向ける感情は、長年一緒にいる漣に向ける信頼とも、同じ父を持つ妹の紅雨に向ける家族愛とも異なる色のものだった。
「時雨様、せっかく澄花様からお菓子をいただいたんですから、召し上がられてはいかがですか」
漣に勧められ、時雨は中庭の紫陽花のような彩りを見せる菓子を匙で掬い上げる。口へ運んだそれは甘くて優しい味がした。その味は、時雨が澄花に抱いている気持ちと同じものだった。
時雨はゆっくりと大切に澄花の作った菓子を食べ進めていく。口の中に広がる幸福な味に、優しい気持ちと切なさが綯い交ぜになって込み上げてくる。自分の胸を締め付ける感情に時雨は苦しさを感じながらも、この先を知りたいと思い始めていた。
澄花が紅雨に菓子を届けた日以降も、二人の交流は続いた。澄花が紅雨を訪ねることもあれば、逆に紅雨が澄花を訪ねてくることもある。今日は紅雨が澄花の部屋を訪ねてきていた。
「わあ、今日のお菓子も可愛らしくて素敵ですね。食べるのがもったいなくなってしまうくらい」
座卓の上のガラスの皿には、透き通った葛の中に金魚の姿が揺れていた。小さな鰭が涼しげにたなびくさまに、思わず澄花は口元を綻ばせる。
「澄花のお気に召したようで嬉しいですわ。それにしても澄花はお茶の趣味がいいのね」
紅雨は水出しの煎茶を口の中で味わうと微笑んだ。鼻腔に抜ける桃の香りがフレッシュで爽やかだ。夏らしい味が葛饅頭の甘さを程よく洗い流してくれる。
「いえいえ、とんでもないです。お茶は水鞠さんがいつも選んでくださってるんですよ」
褒めるなら水鞠を、と澄花は遠回しに匂わせる。水鞠は部屋の入り口の障子のそばに控え、少女二人のやりとりをにこにこと眺めていた。
二人の話題に上るのは専ら時雨のことだ。時雨がどうしたこうしたと紅雨はいつも澄花の知らない彼の姿を話してくれる。あんな兄で恥ずかしいだの、兄は気が回らなさすぎるだのと、紅雨は文句ばかり言っているが、それが澄花にとっては羨ましくもあった。
「紅雨様、時雨様はとても素敵な方だと思いますよ。お美しくて、お優しくて、水神としての務めのことを一番に考えていらっしゃって」
「お兄様の取り柄なんて、真面目でこの地を愛していらっしゃることと見た目くらいですわ。……わたくしが水神として覚醒していれば、この川の全てをお兄様一人に背負わさないですみましたのに」
ぽろりと澄花の知らない話が紅雨の口からまろびでた。その言葉は水に投げ込まれた小石のように、紅雨の視界を歪めていく。幼い顔に辛苦の感情を滲ませる紅雨にこの話をこれ以上追及していいのかわからなくて、澄花はそっと水鞠へと視線をやる。水鞠はこちらへやってくると、膝をついて紅雨と視線を合わせる。
「――紅雨様。このお話は……」
「いいわ、水鞠。わたくしから話しますわ。澄花がお兄様の伴侶である以上、知っておかねばならないことですもの」
「紅雨様、お辛いようでしたら、わたしは無理に聞こうとは思いません。わたしは、紅雨様がそんな顔をしていらっしゃるほうが気に掛かります」
澄花は紅雨を案じる言葉をかける。大丈夫ですわ、と紅雨はかぶりを振った。彼女の髪に挿された簪の薄橙の花がしゃらりと鳴る。兄の心を掴んで離さないのはきっと彼女のこの優しい心根なのだろう。
「澄花は優しいですわね。わたくしは水神としては未熟な身――お兄様と違って神力を持ってはいないのです。わたくしがお兄様をお支えできていたなら、力を使い果たし、これほどまでに弱くなってしまうことはなかったのです。澄花がこの家に来るまでは、いつお兄様もお父様のように消えてしまうのかと怖くて仕方ありませんでしたわ……」
紅雨の小さな身体がかすかに震えている。紅雨は気丈な笑みを浮かべていたが、言葉尻には涙の気配が感じられた。たまらなくなって、澄花は紅雨のそばに寄ると、彼女の身体を抱きしめた。
紅雨は神の身だ。澄花とは比べ物にならないくらい、遥かに長い時を生きていたことくらいは理解している。それでも澄花は今の紅雨が見た目通りの年齢の少女のように感じられてならなかった。
(陽菜……)
腕の中の少女の姿が、記憶の中の妹と重なった。
今は二〇四〇年。もう陽菜は澄花の年齢すら飛び越えた大人なのだということはわかってはいる。それでも、澄花の中では陽菜はまだ最後に別れた十歳のときの姿のままだった。
(約束、守ってあげられなかったな……)
修学旅行のお土産を買ってくる約束をしたこと。それを守ってあげられなかったことが今になって悔やまれた。二十五歳の彼女はまだそのことを覚えているのだろうか。
じわっと目の奥から熱いものが込み上げてくるのを澄花は感じた。どうかしましたの、と紅雨が身じろぎをする。
「すみません……紅雨様を妹に重ねてしまって……」
「澄花には妹がいらっしゃいますの? よろしければお話を聞きたいですわ」
ええ、と澄花は目元を拭うと頷いた。それではお茶のおかわりをお注ぎしますね、と水鞠が冷茶の入った切子細工のガラスの水差しを手に取る。
こぽこぽと水差しと同じ意匠のグラスに桃が香る茶が注がれていく。澄花は痛みと懐かしさを覚えながら、紅雨に自分の家族のことを話し始めた。
「わたしには、陽菜という名前の八個下の妹がいます。あの子はいつだって、家の中心にいる太陽みたいな子で――」
いつのことだったか、雨で陽菜の小学校の運動会がなくなってしまったことがあった。澄花が運動会の応援に行ったところ、開始直前に大雨が直撃し、急遽中止に追い込まれてしまったからだ。
「運動会できないからって代わりに宿題のプリントいっぱい出されたんだけど!! せっかくの土曜日なんだからどっか遊びに行きたいよー」
澄花はダイニングでプリントの山と格闘する陽菜を横目にリビングのソファでスマホをいじっていた。掃き出し窓を雨が叩く音がイアホンの音楽に混ざって、ドラムのようにビートを刻んでいる。
宿題に飽きてしまった陽菜はシャーペンのキャップをかちかちと押し続けている。澄花はふと思いついて、隣駅のショッピングモールにある映画館のウェブサイトにアクセスした。
(あ……今からなら十四時半の回に間に合いそう)
妹の陽菜は小学生にも関わらず、刑事ドラマにハマっている。両親が仕事で留守の間、夕方の再放送を見ているうちにハマってしまったらしい。
陽菜が好きだと言っていた刑事ドラマの劇場版が先週から上映されていた。しかし、今日はこの天気が祟ったのか、まだ座席はガラガラだ。
(確か……誕生日にもらった映画のギフトカードがまだ残っていたはず)
澄花は見やすそうな席を並びで二席押さえると、決済をした。そして、澄花はソファから立ち上がると、陽菜に声をかける。
「陽菜、わたしと出かけよう。テーブルの上片付けて、出かける支度してきて」
「お姉ちゃん、どこ行くの?」
「映画館。隣駅のショッピングモールの。先週公開された映画、見たがってたでしょ?」
澄花の言葉を聞いた陽菜の目がぱぁぁっと輝いた。彼女の笑顔はまるで春の太陽のようだと澄花は思う。
陽菜はプリントと筆記用具をばたばたと片付けると、二階にある自室へと上がっていく。どたばたと落ち着きのない足音を追いかけて、澄花も階段を上がっていった。
自室に入ると、澄花は白のミニショルダーの中にスマホや財布、ハンカチやリップを入れていった。家の鍵を手に取ったとき、「お姉ちゃん早くー!」陽菜がどんどんと部屋の扉を叩く音が響いた。
苦笑混じりに返事をすると、澄花は部屋を出て陽菜と共に階段を降りていった。そして、靴を履き、玄関の傘立てから傘を取ると、二人は家を出た。
がちゃりと玄関扉が閉まる音がする。外出する姉妹を見送るように、リビングに放し飼いにしているミニチュアダックスフントのリオンがわんと吠えた。
空から絶え間なく降り続く雨粒が水溜りに波紋を描いては連なるようにさらに大きな波紋を作っていく。分厚い灰色雲に覆われた空の下、二本の傘が大輪の花を咲かせていた。
休日の夕方ということもあって、買い物に訪れた客たちでフードコートは喧騒に包まれていた。家族連れが多いのか、あちらこちらで子供がはしゃぐ声がする。
「――陽菜、お待たせ」
澄花は手に持っていたトレイをテーブルに置くと、待たせていた陽菜の向かいの椅子に腰を下ろした。トレイの上ではファストフード店で買ったLサイズのポテトにチキンナゲット、レモンスカッシュにアイスティーが乗っている。
「お姉ちゃんありがとう。いただきます」
陽菜は両手を合わせると、ポテトへと手を伸ばす。それを微笑ましく思いながら、澄花はアイスティーに口をつけた。
「今日の映画、どうだった? 面白かった?」
澄花が聞くと陽菜は口をもぐもぐさせたまま、首をぶんぶんと縦に振った。まだ興奮冷めやらぬといったふうで、その双眸はきらきらと光を放っている。陽菜は口の中のポテトを飲み下すと、テーブルから身を乗り出し、勢いよく捲し立てた。
「すっごーく面白かった! 過去の相方が全員出てきて、それぞれ事件に関わってるなんて思わなかった! しかも、最後にあんな裏切りがあるなんて――」
「ほら陽菜、座って。騒がないの。お行儀悪いでしょ?」
はあいと返事をすると陽菜は席に腰を下ろした。そして、彼女は再びジャンクフードへと手を伸ばす。
こんなに喜んでもらえたなら、連れてきてあげた甲斐があった。テレビシリーズをよく知らない自分でも楽しめたし、来てよかったと心から思う。
気がつけば、陽菜によってポテトもナゲットもほとんど食べられてしまっていた。残り数本になったポテトに手を伸ばしたとき、お姉ちゃん、と陽菜が澄花を呼んだ。
「どうしたの?」
「ねえ、この後、百均行きたいんだけどいいかな?」
「そろそろ帰らないとだから、そんなに長くはだめだよ。晩御飯の時間に遅れたら怒られちゃう」
「大丈夫、すぐ済むから」
「そう? ところで何を買うの?」
「チョコレートとゼラチンだよ」
「何かお菓子でも作るの?」
内緒、陽菜はにっと笑った。笑うと出来る笑窪が可愛らしい。
陽菜はずずっとストローでレモンスカッシュを啜る。それを眩しいものを見るように目を細めながら澄花は見ていた。
「お姉ちゃん、ちょっといい?」
風呂から上がり、二階にある自室に戻ろうとしていると、澄花は陽菜に呼び止められた。夕食後から台所で何かしていたのは知っていたが、エプロンのみならず顔までチョコまみれになっているのは一体どういうことなのだろう。
見れば流しには使ったままの鍋やらボウルやらが散乱している。調理スペースにはチョコレートの包み紙や空になった生クリームのパックにゼラチンやグラニュー糖の袋、出しっぱなしの牛乳などが置かれたままになっていた。
お菓子作りは陽菜の趣味だ。しかし、作ったら作りっぱなしにしてしまうところはまだまだだ。この台所の惨状を見たら母が卒倒してしまう。
陽菜は冷蔵庫を開けると、中からチョコムースを二つ取り出した。そして、片方を澄花に渡すと彼女はこう言った。
「お姉ちゃん、これ。今日、映画連れていってくれたお礼。本当にありがとう」
「楽しかったみたいでよかった。……今日、運動会だめになっちゃったから」
「そんなのお姉ちゃんのせいじゃないでしょ。せんじょーこーすいたいとかいうのができてたってさっきニュースでも言ってたじゃん。それより食べようよ」
うん、と頷くと澄花は食器棚からスプーン二本取り出した。そして、リビングへ向かうと二人並んでソファに腰を下ろす。澄花が陽菜にスプーンを渡してやるのを見ていたリオンがケージの中で物欲しそうにくぅんと声を上げた。
駄目だよ、澄花は困った顔でリオンを宥める。チョコレートは犬には毒だ。
澄花はスプーンで陽菜の作ったムースをすくうと口へと運ぶ。すると、口の中に控えめなチョコレートの甘さが広がった。雨の夜を幸せに変えてくれる優しい味だった。思わず、鼻の奥がつんとした。
「――美味しい。陽菜、ありがとうね」
「もう……なんでお姉ちゃん、泣きそうになってるの」
自分のせいで運動会が駄目になったというのに、こんなふうに優しくされていいのだろうか。映画に陽菜を連れていったのだって、せめてもの罪滅ぼしのつもりだったのに。
けれど、そんな胸中を陽菜相手に吐露するわけにもいかない。澄花は僅かに逡巡するとまったく別のことを口にした。
「陽菜も腕を上げたなあって思ったから。……でも、散らかしっぱなしにするところはまだまだだよ。後で一緒に後片付けしようね」
「はあい」
雨戸を雨が叩く音がする。おやつを諦められないらしいリオンがきゅうきゅうと訴える声がする。
罪悪感の中に灯った小さな幸せを噛み締めながら、澄花はまたひと匙、もうひと匙とムースを口に運ぶ。自分の作ったムースを美味しそうに食べる澄花を陽菜は嬉しそうに見上げていた。
「澄花は妹さんと仲がよろしかったんですのね」
澄花の話を聞き終えた紅雨はそう口にした。しかし、澄花は自分が陽菜と仲が良かったのかどうかよくわからなかった。自分と陽菜は八歳も歳の差があり、家族でありながらもどこか遠い存在に感じていた。――とりわけ、陽菜が生まれて、家族の中心が彼女になってしまってからは。
躊躇いながら澄花がそう言うと、あら、と紅雨は可愛らしく小首を傾げてみせた。
「わたくしとお兄様は千と数百年の歳の差がありますが、そのようなことはあまり感じたことがありませんわ。わたくしたち神と人間では違うのかしら?」
「……そうかもしれません。歳の離れた妹にわたしはどう接したらいいのかわからなくて……」
陽菜を疎んじたこともあった。テレビは妹の陽菜が優先だった。食べたいものだって、行きたいところだって陽菜が優先された。そのことに澄花が異議を申し立てようとしても、お姉ちゃんでしょ、の一言で全ては片付けられた。
とはいえ、澄花だって陽菜が可愛くなかったわけではない。陽菜が好きなアニメがあると言えば、見様見真似で画用紙にキャラクターの絵を描いてあげた。陽菜が出先でお気に入りのぬいぐるみを失くしてしまったときは、家にあったフェルトでクマのぬいぐるみを作ってあげた。母の留守の際に、一緒に炊飯器でケーキを作ったりもした。どれもお世辞にも良い出来だったとは言えないが、それでも陽菜はいつだって喜んでくれた。
――おねえちゃん、ありがとう!
そんなことを澄花が話すとふふ、と紅雨は微笑んだ。幼い顔立ちに似合わない慈愛に満ちた笑みだった。
「澄花はちゃんと、"姉"をしていますわよ。わたくしも欲しかったですわ。澄花のようなお姉ちゃんが」
そんなふうに言われたのは初めてだった。今まで誰かに姉としての自分を肯定してもらえたことはない。ただそれが当たり前だと言う態度を両親は取り、自分もそれを当たり前だと諦めていた。
「それにしても、わたくし、無神経でしたわね。いつもいつもお兄様の話ばかりして。妹さんと離れ離れになって、さぞ寂しいでしょう?」
「わかりません。それに、時雨様のお力がなければどのみち地上にはいけませんから。もし仮に会いに行きたいとしたって、そんなことのために時雨様の手を煩わせれれませんし」
「……そうですわね」
澄花は淡い笑みを浮かべた。胸を苦いものが過る。
自分がいなくなったその後の陽菜がどうしていたか気にならないといえば嘘になる。彼女は怒っただろうか。それとも泣いたのだろうか。
自分が逆の立場なら悲しいと思う。泣いて泣いて泣いて――それでも泣き続けるだろう。どうして止めてあげられなかったのか。家族なのに気づいてあげられなかったのか、と。この世にたった一人の大切な妹なのに、と。
澄花は無意識のうちに唇を噛んでいた。そんな彼女へと、それを寂しいと言うのですわよ、と紅雨は諭した。
「伝えたいことがあるのに伝えられない――それは寂しいということですわ。それが届きそうで届かないところにあるともなれば、余計にですわ」
今の澄花には自分の想いを陽菜に伝えることはできない。けれど、ここで一緒に暮らす時雨はそうではないはずだ。せめて、時雨には今思っていること、感じていることを伝えたい。――今度こそ、取り返しのつかないことにならないうちに。
「紅雨様。わたし……時雨様とお話しがしたいです。もう、何日も時雨様とまともに顔を合わせていないんです。わたしに何か至らない点があったなら、きちんと謝りたいんです」
はあ、と紅雨は溜息を吐いた。どうして澄花はこんなに謙虚でいられるのだろう。時雨が澄花を避けているのはそんな理由ではない。思春期を拗らせに拗らせた口に出すのすら憚られる理由だというのに。
「澄花。お兄様はいつも夕餉の後、庭を散歩されるの。夕餉の後は気が抜けていることが多いから、そうそう逃げられることもないと思いますわ」
お兄様の夕餉が終わったら水霜を遣わせますわ、と紅雨は空色の目を片方、茶目っけたっぷりに閉じてみせた。ありがとうございます、と澄花は頭を下げる。
「そうなれば、作戦会議ですわよ。絶対にお兄様が逃げられないようにいたしましょう。まずはわたくしが漣をお兄様から引き剥がして――」
紅雨の無垢な唇から、時雨を逃さないように追い込むための策が告げられていく。これほどまでに自分のためにお膳立てをしてくれる紅雨に感謝を覚えながら、澄花はざわざわと波立つ鼓動を感じていた。自分に本当にできるだろうかという不安を手のひらに爪を立てて封じ込める。
茶器と菓子に囲まれた作戦会議を金魚が葛饅頭の中で涼しい顔で聞いている。茶の入った冷えたグラスの表面を雫がすうっと伝い落ちていった。
鹿おどしがかつんと音を立てたのが、聴覚の隅に聞こえた。じゃりじゃりと玉砂利を下駄の底で踏みながら、時雨はのんびりと中庭を歩く。水がするすると身体を撫でていくのが心地よかった。
いつもはそばにいる漣は紅雨に呼び出されたとかで今はいない。こうして一人で庭を歩くのは久しぶりだった。
花の時期が過ぎた卯木の樹。青々と葉を茂らせた楓。柔らかな色の苔に包まれた岩。時折り、夜想曲を奏でるように声嚢を震わせるカエル。ぴちょん、と水が滴り落ちる音がする。
ふわふわと発光する水泡がクラゲのように宙を漂っている。月はまだ細く、川面から差し込む光はゆらゆらと儚げで遠い。
時雨は中庭の紫陽花の前で足を止めた。花は盛りを迎え、紫から薄青のグラデーションを描いている。それは先日、澄花が自分のために拵えてくれた菓子を彷彿とさせた。
(――あれは美味かったな。今まで食べた何よりも)
控えめな甘さの葛ゼリー。そして、その上を飾る青と紫の甘酸っぱい味わいの寒天。
時雨はあのとき胸を占めた感情に悩まされ続けていた。澄花の作った菓子のように優しいのに、どこか苦しく切ない感情は何千年も生きてきた時雨がまだ知らないものだった。
(――澄花に礼を言わないと)
勿論、あの直後に澄花に菓子の礼に手紙と品を贈った。しかし、そのことが知れると、そうではないと紅雨が部屋に乗り込んできた。
――お兄様は乙女心をまったくわかっておられませんわ! 澄花はお兄様のために勇気を出したのです。その勇気にはお兄様も勇気で応えなければなりませんわ。漣に運ばせるのではない、他の誰でもないお兄様自身の言葉で。
礼を言うなら直接言えと紅雨にはこっぴどく叱られてしまった。けれど、先日の儀式のことを考えると、顔を合わせにくい。
自分は儀式で必要だったとはいえ、澄花の唇を奪ったのだ。嫌われてしまってはいないだろうか。あるいは接吻の仕方が下手だとか。
紫陽花を前に悶々と考え込む時雨の背後で玉砂利が鳴った。振り返ると薄浅葱の着物に身を包んだ少女がこちらに近づいてきていた。着物では青色の金魚が泳いでおり、その涼やかさに目を惹きつけられる。
とくんと時雨の心臓が鳴った。水が揺れる。
「――時雨様」
「……澄花」
時雨は少女の名を呼んだ。少女は近づいてくると、躊躇うように話し始める。
「こうして……顔を合わせてお話しするのは、お久しぶりですね。お忙しかったんですか?」
「それは……」
忙しかったなどと嘘をついてしまえればどんなに楽だっただろう。しかし、水神である時雨は嘘がつけない。水が穢れるからだ。
「わたし……時雨様に何か、してしまいましたか? たとえば、わたしのせいであの日の儀式に実は失敗していただとか……」
そんなことはない、と時雨は首を振った。あの日の儀式は期待以上のものだった。これが雨催いの巫女の力か、と身が昂りさえもした。
「澄花に問題があるわけではない。すべては……私の問題だ」
澄花に伝えたいことはたくさんある。はにかんだような可憐な笑顔が好きだとか、この前の菓子が美味しかっただとか。けれど、それが照れ臭くて上手く伝えられないのは時雨自身の問題だ。
時雨の言葉に澄花は突き放されたような気分がした。澄花は唇を噛む。ああ、また自分は間違ってしまった。時雨はそう悟る。
「契約上の関係とはいえ、わたしたちは夫婦です。時雨様に何か問題があるなら、それを一緒に背負わせてください。時雨様が抱えていらっしゃる問題が原因で、避けられ続けるのは……もう、辛いです」
「澄花……」
彼女の夫として相応しくありたい。けれど、自分のこんな情けない姿を彼女に見せてもいいのだろうか。彼女に嫌われたくない。
「わたしには時雨様の気持ちがわかりません。人と人ですら、言葉にしなければ伝わらないことも多いんですから、わたしと時雨様であれば尚更です。時雨様――神様の価値観はわたしのような者には図れません。だから――」
澄花は時雨の目を強く見つめる。その目は今にも泣き出しそうに潤んでいた。
澄花は息を詰め、指先が着物の袖を握りしめたまま震えていた。そして、そのまま声を絞り出すように、時雨へとありったけの思いをぶつけた。静けさに満ちた中庭を稲妻のように彼女の声が切り裂く。
「――何だって言葉にしてくれないとわからないじゃないですか!」
これからも時雨のそばにいたいと思ったあのときの気持ちは紛れもない自分の意志だ。しかし、唇を交わしたときのあの感触と抱きしめ合ったときのあの温もりがどうしても頭から消えてくれない。思い出すたびに顔が熱くなる。
それ以外にも、澄花には気掛かりがあった。あの儀式の翌日から、屋敷の中ですれ違っても何となく時雨の態度がよそよそしいのだ。毎日のように時雨から贈り物が来るのは相変わらずだが、添えられた手紙の内容はなんとなく歯切れが悪い。
(ああして雨は降ったけれど……まさか、儀式で何か失敗をしていた……?)
それくらいしか澄花には思い当たることがなかった。澄花は事前に知らされていた通り、儀式のはじめに時雨と唇の契りを交わした。それ以外は言われた通り、儀式の行く末を見守っていた。それ以外、澄花はなにもしなかったし、なにもできなかった。
「――今、よろしいかしら?」
澄花が悶々としていると、幼い少女の声が障子の向こう側からかけられた。いつの間にか強い水の気配が廊下から漂ってきていた。澄花が背後を振り返ると、声の持ち主とお付きの者と思われる二つの人影が桜の透かし彫りの入った障子に映っている。
澄花が訪いを拒む理由は特にない。ふるふると頭を振って煩悩を脳内から追い出すと、澄花はどうぞ、と返事をした。
「あら、紅雨様。どうかなさいましたか?」
澄花と同年代に見える付き人――水霜を伴って、澄花の部屋に入ってきた少女に、澄花のそばで控えていた水鞠は声をかける。紅雨は空色の目をきらきらと輝かせながらこう言った。
「水鞠、ごきげんよう。お兄様ってば、なかなかわたくしを澄花に会わせてくれようとしないんですもの。どんな方なのか気になって、つい押しかけてきてしまいましたわ!」
薄紅色から空色への大胆なグラデーションが美しい梅柄の着物。一足早い夏を感じさせる向日葵色の帯は少女の利発で明るい印象を引き立てている。兄と揃いのぬばたまの髪は切り揃えられ、白と黄色、薄青の紐で編まれた水切り細工の簪が添えられていた。
紅雨は時雨の妹だ。そのことは周囲の会話から、澄花も知ってはいた。失礼があってはならないと、澄花は畳に手をつくと、恭しくこうべを垂れる。
「紅雨様。ご挨拶が遅れて大変申し訳ございません。わたしは雨霧澄花と申します。及ばずながら、先日、その……時雨様の、妻となった者です」
妻。自分の口をついてでた慣れない響きに、澄花は狼狽える。投げ込まれた石に波立つ川面のように、心がざわめいた。くすり、と紅雨は笑うと、顔をお上げになって、と可愛らしい声で告げる。促されるままに顔を上げると、透明感のある空色の瞳と視線が交錯した。
夜明け前の静けさを纏ったかのような時雨と、春の野に咲く花のように可憐で華やかな紅雨。対照的な存在であるようなのに、その目に澄花は既視感を覚えた。やはり兄妹なのだと、澄花はそのことを実感する。――目の前の紅雨もまた、幼い見た目でありながらも、水を司る神の一柱であるのだということも。
「そんなに畏まらないで。澄花、わたくしはただあなたとお話しがしてみたかっただけなの」
「話、ですか……? わたしと……?」
紅雨の用件に意表を突かれて、澄花は目を瞬いた。しかし、自分には目の前の少女を楽しませるような話題を持ち合わせていない。澄花は困惑した。
「お兄様は今日はこの水域の定期会合で、墨江川の翠雨様と新川淵川の花雨様に会いに行かれたでしょう? その伴で、うるさい漣も留守にしておりますし、いい機会だと思いましたの」
「は、はあ……」
そんなことをうきうきと口にする紅雨を前に、毒気を抜かれて澄花は相槌を打った。どう接したものかと困り果てている澄花をよそに、紅雨は話を続けていく。
「それにしても、会ってみてお兄様がこれほど大事にするのも納得しましたわ。澄花はこんなに可愛らしいんですもの。誰の目にも触れないところに大事にしまっておきたかったんでしょうね。お兄様は昔からそういうところがありますもの」
「えっ……そんな……、わたしはただ、時雨様とは契約上の関係ですし……」
そうかしら? と紅雨は可愛らしく小首を傾げた。そして、彼女は驚くべき事実を口にした。
「漣はわたくしの婚約者なのですけれど――彼が教えてくれましたわ。澄花がどうしたこうしたとお兄様が毎日のようにのろけていらっしゃると。どんな仕草が可愛らしかったとか、贈った簪をつけてくれていたとか、そんなことを延々と」
「え……」
澄花は絶句した。常の凪いだ水面のような時雨からは、そんな姿はとてもではないが想像できない。
「契約だとかそんな話はいいですわ。実際、澄花はお兄様のことをどう思っていらっしゃいますの?」
直球な質問に澄花はう、と言葉に詰まった。どう話せばいいか、こんなことを言って失礼にならないか、と言葉を探す澄花の目が宙を彷徨う。
「えっと……、あの、その……時雨様はわたしにとって恩人です。死のうとして川に飛び込んだわたしの生命を救って、このお屋敷に置いてくださって。それに毎日のようにいろいろ頂いて、とても良くしてくださって……」
しどろもどろになりながら言葉を紡ぐ澄花の頬を紅雨の小さな両手が捕らえる。あのね、と嫣然と微笑む顔からは先ほどまでの無邪気な幼さは消えていて、紅雨が澄花よりも遥かに長い時を生きている存在なのだということを教えていた。
「――澄花。わたくしが聞きたいのはそんなことじゃないの。あなたはお兄様のことを一人の男性としてどう思っているのかしら? これっぽっちも好きではない?」
「紅雨様。時雨様は神の身であらせられます。そんな方に想いを寄せるなど、わたしのような者に許されることではないのではないでしょうか」
話をすり替えないでちょうだい、と紅雨が澄花の言葉尻を遮った。幼い声はその印象とは裏腹に刃のような剣呑さを帯びていた。お待ちください、と黙って話を聞いていた水鞠が紅雨を制する。
「紅雨様、澄花様が困っておられます。これ以上はお控えいただけますでしょうか。それに――」
水鞠はそっと紅雨へ耳打ちをする。何かが腑に落ちたように、そういうことでしたの、と紅雨は頷いた。ふっと鋭さがほどけて水の中へ溶け、彼女が纏う気配が和らぐ。
「ごめんなさいね、澄花。わたくし、ただ、あなたと仲良くなりたかっただけなの。こんなことだから、漣にもぶらこんだとか言われてしまうのね。本当に申し訳なかったわ」
「いえ、紅雨様。そんな、謝られるようなことは何も……」
謝罪を口にする紅雨に澄花は慌てて首を横に振る。今のはきちんと質問に答えられなかった自分が悪い。
だけど、と透き通った空色の目が澄花を見据える。春の小川のせせらぎを想起させるような目だった。
「お兄様のこと、ほんの少しでいいからちゃんと考えてみてほしいの。それがきっと、澄花のためにもなると思うから。――それと、またこうやって遊びにきてもいいかしら?」
否とは澄花には言えなかった。それを感じ取ったのか、紅雨は見た目の年齢相応の幼く無邪気な笑みを浮かべると、こんなことを問うた。
「ねえ、澄花。何か好きなお菓子はある?」
葛餅が、と澄花は戸惑いながらも答える。すると、紅雨はいたずらっぽい笑みを浮かべながら、澄花の耳元に口を寄せるとこんなことを囁いた。
「葛餅ならお兄様も好きよ。というか、葛全般が好きみたい。葛の扱いなら秋水がよく知っているはずだから、何か拵えてお兄様のところに持っていって差し上げたらいかがかしら。きっと舞い上がって喜ぶに違いないわ」
「え……」
そんな時雨は想像できない。というか、先ほどから紅雨に聞かされている時雨像は本当に本人のものかと疑いたくなってくる。
けれど、時雨に好物を贈るというのはいい案に思えた。いつも時雨にもらってばかりだし、何より儀式の翌日からすれ違い続けてしまっている自分たちが話すきっかけになればいい。
「長居が過ぎたわね。それでは、また来るわ」
「澄花様。紅雨様がお騒がせいたしました」
ご容赦を、と水霜は澄花へと頭を下げる。その顔には澄花への同情が浮かんでいた。行きますよ、と彼女は己の主人を連れて澄花の部屋を出ていった。
すっと障子が閉じられ、二人分の足音が遠ざかっていく。紅雨の先ほどの問いがずっと澄花の中でぐるぐると渦を巻いていた。
その日の夜、夕餉を終えた澄花が水鞠と共に自室に戻ると、水菓子が届けられていた。添えられた水玉模様の一筆箋には昼間の件を詫びる言葉と紅雨の名前が綴られている。
(かわいい……)
昼間に澄花が葛餅が好きだと言ったのを覚えていたらしい。ハート型に固められた葛餅はとても愛らしく、添えられた甘夏の蜜は今の季節らしく爽やかだ。
時雨は葛が好きなのだと紅雨は言っていた。時雨のために何か拵えてみては、とも。
(わたしに作れるかな……)
澄花の料理の腕はごくごく普通だ。普通の料理を作るのにさほど不自由することはないが、職人のような繊細な細工ができるかと言われると自信はない。
紅雨から送られてきた爽やかな味わいの葛餅に舌鼓を打ちながら、澄花は白藤色の壁を見つめる。視界ではふわふわと淡く光る水泡が宙を泳いでいる。
どうせなら心を込めて作りたい。時雨が喜んでくれるものを作りたい。
そんなことを考えていると、ふっと中庭の紫陽花が澄花の脳裏に閃いた。上品で静かなあの佇まいが澄花の頭の中で時雨のイメージと結びつく。
優しい青色はまるで自分を見つめる青藍の双眸のようだ。品のある紫色は時雨が好んで身につける着物を思い出させた。
(――よし)
葛餅の最後の一欠片を口の中に放り込むと、澄花は気合いを入れた。自分にできるかどうかはわからないが、厨房に行って秋水に相談してみよう。
「水鞠さん。わたし、厨房に行ってきますね。戻るまでに時間がかかるかもしれないので、先に休まれていてください」
澄花は薄花色の着物の裾を整えながら立ち上がると、部屋の隅に控えていた水鞠へと声をかける。彼女は深くは追及せずに、承知いたしましたと澄花を送り出した。
(水鞠さん……たぶん気づいてたよね)
時雨に手作りの贈り物をしたいなど、恥ずかしくて言い出せなかったが、厨房へ行くというあの一言で察しのいい彼女は気づいたはずだ。澄花は耳が熱くなるのを感じた。ぱち、と耳元で水の泡が弾ける。
雨戸の閉じた廊下を澄花は厨房に向かって歩いていく。ふわふわと舞う水泡が薄暗い廊下をぼんやりと照らしていた。
「時雨様にお菓子を作られるんですか?」
お時間いいですか、と澄花におずおずと話しかけられた秋水は彼女にそう訊いた。どうしてそれを、と小動物のように潤んだ澄花の目が見開かれる。
「紅雨様が先ほど夕餉を召し上がられた際に、今夜あたり澄花様がいらっしゃるかもしれないと仰っておられましたので。澄花様の力になってほしいと仰せでした」
一見無邪気な少女に見える紅雨の手回しの良さに澄花は内心で舌を巻いた。材料も揃ってますよ、と落ち着いた声音で秋水は言う。すべては紅雨の掌の上のようだ。
「時雨様に葛を使ったお菓子を作りたいんですよね? どのようなものをお考えですか?」
「時雨様のことを考えたときに、ふっと中庭の紫陽花を思い出したんです。できればそんな感じのイメージのお菓子を作りたいんですけど……難しいですか?」
柔らかな緑色の苔に包まれた岩。さらさらと流れていく水音の下、青と紫の花を咲かせる紫陽花。日差しを受けてきらきらと光る川面。
それが澄花から見たあの庭の印象だった。浮世離れしていて美しく、幻想的な佇まいは時雨の印象とも一致する。
「そうですね……豆乳を葛で固め、その上に蝶豆の粉で色付けした寒天を飾りつけるのはいかがでしょう? 澄花様の作りたいもののイメージにだいぶ近いのではないかと」
「作り方、教えてもらってもいいですか?」
もちろんです、と頷くと秋水は襷を取り出して澄花へと渡した。澄花は薄花色の着物の袖が邪魔にならないように襷で縛る。その間に秋水はどこかへと姿を消していた。
「……秋水さん?」
澄花が呼ぶと、勝手口の扉が開き、秋水は冷えた豆乳が入った容器を持って戻ってきた。どうやら、氷室に材料を取りに行っていたようだった。
「お待たせして申し訳ありません。それでは澄花様、始めましょうか」
そばについてお教えしますのでご安心ください、と秋水は目を細める。ご面倒をおかけします、と恐縮して澄花は反射的に頭を下げた。
「とんでもない。澄花様のお力になれること、使用人冥利に尽きます」
そう言いながら、秋水は小鍋を取り出して澄花へと渡す。
「それではまず、この鍋に豆乳を入れて、沸騰させてください――」
澄花は竈の前に立つと、秋水の指示に従って鍋を火にかけた。冷えた器に入った豆乳を鍋に注ぐと、沸騰するのを待つ。
その間に、厨房のどこに何があるか知り尽くしている秋水は他の材料の用意をしてくれていた。葛粉に砂糖。塩に粉寒天。そして、青紫色が鮮やかな蝶豆の粉と対照的な色合いの生レモン。
「秋水さん、レモンって何に使うんですか?」
「蝶豆の粉の色を変えるのに使うんです。レモンが入ると一気に酸性になるので、綺麗な紫色になりますよ。――っと、澄花様、豆乳が沸騰したみたいですよ。葛粉と砂糖と塩を入れて混ぜてください。その間に私は器の用意をしておきますね」
澄花は秋水に言われた通りに豆乳に材料を入れると、木べらでかき混ぜていく。
(時雨様……喜んでくださるといいな)
できることなら、少しでも美味しくなるように。できることなら、少しでも時雨の心を潤してくれるように。一混ぜ一混ぜにそんな思いを乗せながら、澄花はふつふつと泡を立てる白い液体をかき混ぜていく。湯気が夜のひんやりとした水の中へと溶けて消えていく。
「澄花様、そろそろいいですよ。その鍋の中身を均等になるように、器に移してください。空になった鍋は流しに置いておいてください。後で私のほうで洗っておきますので」
秋水は石の作業台の上に青や緑の水玉が散ったガラスの器を並べるとそう言った。彼女は澄花が先ほど述べたイメージを汲んでくれたのだろう。庭を覆う優しい苔の緑色とふわふわと屋敷の庭を舞う水泡を彷彿とさせた。
澄花はすができないように、ゆっくり丁寧に器に白い液体を注いでいった。時雨が口にするのだから、少しでも舌触りがいいものにしたい。
鍋が空になると、澄花はそれを流しへと持っていった。秋水は白い液体が入った器を盆へと乗せながら、澄花へと次の指示を出す。
「新しい鍋を用意しておきましたので、粉寒天と水を入れて沸騰させておいてください。私はその間にこれを氷室に持っていっておきますので」
はい、と澄花が返事をすると、秋水は盆を手に勝手口の扉を開け、外へと出ていった。ぱたん、と扉の閉まる音を聞きながら、澄花は言われた通りに水瓶から水を汲み、粉寒天を加えると、鍋を火にかける。
澄花は寒天が綺麗に溶けきるように、ぐるぐると均等にヘラで混ぜていった。ここできちんと寒天を溶かしておかないと、後で綺麗に固まらなくなってしまう。そんな失敗作を時雨に食べさせるのは嫌だった。
寒天が沸騰するころになると、秋水が氷室から戻ってきた。彼女は澄花の手元の鍋を覗き込むと、そろそろ火から下ろしていいですよと言った。
「砂糖と蝶豆の粉を入れて混ぜてください。寒天はすぐに固まり始めてしまうので、手早く」
火から下ろした鍋に澄花は砂糖と蝶豆の粉を入れて混ぜる。すると、透明だった液体が青へと色を変えた。時雨の双眸を思い出す、優しい色だった。
「こちらとこちらにそれを注いでいただけますか? 量は丁度均等になるくらいで」
秋水は同じ大きさの長方形の容器を用意すると、澄花にそう促した。澄花はそっと青い液体を容器へと注いでいく。
「そうしたら、片方にレモンの汁を搾り入れて混ぜてください。綺麗な紫色になりますよ」
秋水の指示に従って、澄花は片方の容器の中にレモンを絞った。夏らしい爽やかな香りが鼻腔に広がる。レモンを加えた液体を匙で混ぜると、秋水の言った通り、青から綺麗な紫色へと色を変えた。思い出されるのは静かに佇む時雨の後ろ姿だ。
(あれ、わたし……さっきから、時雨様のことばかり……?)
時雨のために作っているのだから当然だと澄花は思い直す。食べてくれる相手のことを思うのは当たり前のことだ。
「それでは、澄花様。今宵はこれまでにいたしましょう。先ほどの葛が固まるまでには時間もかかりますし、仕上げは明日の朝餉の後にでも」
「わかりました。その、ありがとうございました」
「いえ、少しでも澄花様のお力になれたのならば何よりです。片付けは私のほうでしておきますので、澄花様はお部屋へと戻られてください」
いえ、と澄花は首を横に振った。手伝ってもらうだけ手伝ってもらって、後片付けは丸投げなど無責任にも程がある。
「お邪魔でなければ、後片付けまでさせてください。ご迷惑だけおかけして、片付けは丸投げなんてこと、したくありません」
そうですか、と秋水は微笑んだ。紅雨がお節介を焼きたくなる理由がわかる気がした。
「それでは、私は洗い物をしますので、澄花様は洗ったものを拭いて片付けていただいてもよろしいですか? 片付ける場所がわからなければ、都度私に聞いてください」
お願いしますね、と秋水は青海波の柄が刻まれた布巾を澄花に渡した。布巾を受け取ると、わかりましたと澄花は頷いた。
ざぷんと音を立てて秋水は水瓶から桶へと水を汲む。とぷ、という小さな水音が澄花の聴覚にこだまする。たわしに木灰を含ませると、彼女は調理器具を洗い始めた。
更け始めた夜の厨房に、たわしが鍋の表面を撫でるかしゃかしゃという音が控えめに響く。桶の水にに映る澄花の顔に、秋水はふっと口元を綻ばせた。そのときの澄花は自分が一体どんな表情をしていたのか、気づいてはいなかった。
「――まったく、お兄様ったら何を考えていらっしゃるのっ!?」
翌日の午前中。澄花は時雨の部屋を訪れた足で紅雨の部屋へと足を運んでいた。昨日の礼として、今朝仕上げたばかりの菓子を紅雨と水霜に届けるためだった。
紅雨は澄花の作った菓子を喜んで受け取ってくれた。しかし、時雨の部屋を訪れたときの顛末を聞くなり、彼女は青筋を立てて声を荒らげたのだった。彼女から発せられた声の衝撃で、澄花の視界で止まることなく波紋が生まれては連鎖していく。
まあまあ、と澄花は紅雨を宥めようとする。しかし、怒りを露わに紅雨はきっぱりと首を横に振った。
「せっかく、澄花が訪ねていったというのに部屋にも入れないだなんて、論外ですわ! 漣も漣ですわよ! 澄花を追い返すだなんて!」
二人まとめてとっちめてやりますわ、と紅雨は息巻いた。大丈夫ですから、と澄花は困ったように眉尻を下げる。このようなことには慣れているのか、水霜は特に口を挟もうとしない。
「紅雨様、わたしが悪いんです。特にお約束もないのに突然時雨様のお部屋を訪ねてしまったんですから。それに、漣さんにお願いして時雨様にお菓子は渡していただけましたし、充分です」
「澄花は欲がなさすぎです。それに澄花を追い返した理由も理由で、わたくしは妹として心底情けないですわ」
先ほど、澄花が時雨の部屋を訪ねたとき、今は障りがあるからという理由で漣に訪問を拒まれた。何か予定があったのだろうと思って澄花は菓子を漣に預けて、その場を辞したのだが自分には思い至らないような理由でもあったのだろうか。普段は澄花に厳しい態度を取る彼にしては珍しく、妙に同情的だったがそれが何か関係あるのだろうか。
「漣は、澄花が訪ねてきたことに舞い上がっているお兄様の姿を見せたくなかったのでしょうね。そんな姿、神としての威厳も何もありませんもの。ましてや、澄花が自分のために好物を拵えてくれたとあっては、小躍りするほど喜ぶでしょう。……いえ、この水の揺らぎ方は今ごろ実際に部屋で踊っていますわね」
紅雨は深々と溜息を吐く。澄花は紅雨が話していることが信じられなかった。自分の知っている時雨の姿と紅雨が語ったことはあまりにかけ離れすぎていた。
「紅雨様……それは本当に、時雨様のお話ですか……?」
「ええ、間違いなくお兄様の話よ。格好つけだから澄花には隠しているつもりみたいだけれど、お兄様ときたらあの見た目と年齢のくせに、情緒は思春期で止まっていらっしゃるの。そんな情けない方ですけれど、どうか嫌わないで差し上げて……」
「いえ、そんな……わたしが時雨様を嫌うなんてそんなこと……」
紅雨は頭が痛いと言わんばかりに苦々しげな表情を浮かべる。屋敷の中の水の揺らぎからは、ちらっと見えた澄花が今日も可愛かっただとか、今日も澄花が尊すぎるだとか、とてもではないが紅雨の口からは言えないような内容ばかりが伝わってくる。
紅雨の心労を慮ったらしい水霜が、遠慮がちに彼女へと声をかけた。
「紅雨様。お茶にいたしませんか。せっかく澄花様からお菓子をいただいたんですし」
「そうですわね……そうしましょう」
紅雨は水霜の提案に首を縦に振った。それではご用意いたしますね、と水霜はかちゃかちゃと茶の用意をし始める。忙しなく波紋を描き続けていた水が少しずつ落ち着きを取り戻していく。
やがて、ほうじ茶の香ばしい匂いが湯気に乗って立ち上り始める。澄花は幼い見た目に反してひどく疲れた様子の紅雨を戸惑いながら見つめているしかできなかった。
「――時雨様」
障子の外を気にしながら、立ち上がってそわそわと動き回る時雨を前に、漣はため息混じりに彼の名を呼んだ。時雨の長い手足は蛇のようにうねり、今にも踊り出しそうである。彼の目は朝日を浴びて輝く雫のように、喜びできらきらと輝いている。
「踊ろうとしないでください。舞おうとしないでください。とりあえず座ってください。あと、目元と口元がにやけてるのをどうにかしてください。一柱の神として、威厳のある態度をとってください」
漣に立て続けに注意され、何のことかと言わんばかりに時雨は青藍の双眸を瞬いた。透き通るその瞳には純粋な疑問のみが浮かんでいる。
「漣、どうかしたか。私に何かおかしい点でもあったか?」
「おかしい点しかありませんよ……。どうして時雨様がそんなに無自覚でいられるのか、私は理解に苦しみます……」
漣は頭が痛くなる思いだった。おそらく時雨のこの様子は紅雨にも伝わっている。先ほど澄花を追い返したことといい、このことといい、後で時雨と二人まとめて彼女に小言を食らうであろうことは想像に難くない。
澄花を妻に迎えてから、時雨はこのようにそわそわとしていることが増えた。口を開けば澄花の話ばかりだというのに、実際の彼女を前にすれば空回りを繰り返すばかりだ。思春期の男子中学生でも、時雨よりはもう少し器用に立ち回るだろう。
先ほどまでそわそわと立ち動いていた時雨は文机の前の座布団に腰を下ろし、澄花からもらった菓子を物憂げな目で矯めつ眇めつしている。はあ、と薄い唇から漏れる吐息はしっとりとした色香を纏っている。
「食べてしまうのが勿体無いな……。それに澄花がこんなに料理上手だとはな……彼女の伴侶となる男が羨ましい限りだ」
「時雨様……澄花様の夫はあなたでしょう? しっかりなさってください」
「そうは言っても、私と澄花は契約上の関係だ。将来、彼女は私ではない男を愛すかもしれない」
澄花とは行きがかり上、互いの利害の一致で契約上の夫婦になったにすぎない。それは彼女の心までも縛ることのできるものではないことを時雨は知っていた。
「まったく……時雨様はそわそわしていたかと思うと、今度はうじうじと……。畳が黴びたらどうするんですか。去年の年末に変えたばかりですよ」
「うじうじ……うじうじか……」
ぼそぼそと呟くと時雨は文机に頬杖をつく。この地に住まう生命を満足に守ることのできない自分に自信なんてない。その自信のなさが時雨を後ろ向きにさせていた。
「漣……私はどうしたらいいと思う?」
つい、弱音が時雨の口を突いて出た。それは長年そばにいる漣にしか見せない彼の弱さだった。
「時雨様、子供ではないのですから、そのくらい自分でお考えになってください。自分の心に正直になれば、自ずと答えは見えてくるものですよ」
「自分の心に正直に、か……」
時雨は漣の言葉を反芻する。物憂げな表情を浮かべる美しい顔からは大人の色香が漂っているというにもかかわらず、目には道に迷ってしまった子供のような色を湛えていた。
(澄花……)
こんなにも彼女のことばかり考えるようになったのはいつのころからだっただろう。彼女の持つ雨催いの巫女の力以外も欲しいと思うようになったのはいつのころからだっただろう。笑って欲しい、名前を呼んで欲しい、こちらを見て欲しい――そんなことを考えるようになったのはいつのころからだっただろう。
時雨はこの感情につける名前を知らない。晴れた春の日のように胸が暖かくなっては、知らず知らずのうちに気持ちがそわそわと落ち着かなくなり、ちょっとしたことでこの世の終わりのように暗雲が立ち込める――波のように寄せては返すその感情は時雨にとって未知のものだ。ただ唯一わかるのは、澄花が自分にとっていつの間にか特別な存在になってしまっていたという事実だけだった。澄花に向ける感情は、長年一緒にいる漣に向ける信頼とも、同じ父を持つ妹の紅雨に向ける家族愛とも異なる色のものだった。
「時雨様、せっかく澄花様からお菓子をいただいたんですから、召し上がられてはいかがですか」
漣に勧められ、時雨は中庭の紫陽花のような彩りを見せる菓子を匙で掬い上げる。口へ運んだそれは甘くて優しい味がした。その味は、時雨が澄花に抱いている気持ちと同じものだった。
時雨はゆっくりと大切に澄花の作った菓子を食べ進めていく。口の中に広がる幸福な味に、優しい気持ちと切なさが綯い交ぜになって込み上げてくる。自分の胸を締め付ける感情に時雨は苦しさを感じながらも、この先を知りたいと思い始めていた。
澄花が紅雨に菓子を届けた日以降も、二人の交流は続いた。澄花が紅雨を訪ねることもあれば、逆に紅雨が澄花を訪ねてくることもある。今日は紅雨が澄花の部屋を訪ねてきていた。
「わあ、今日のお菓子も可愛らしくて素敵ですね。食べるのがもったいなくなってしまうくらい」
座卓の上のガラスの皿には、透き通った葛の中に金魚の姿が揺れていた。小さな鰭が涼しげにたなびくさまに、思わず澄花は口元を綻ばせる。
「澄花のお気に召したようで嬉しいですわ。それにしても澄花はお茶の趣味がいいのね」
紅雨は水出しの煎茶を口の中で味わうと微笑んだ。鼻腔に抜ける桃の香りがフレッシュで爽やかだ。夏らしい味が葛饅頭の甘さを程よく洗い流してくれる。
「いえいえ、とんでもないです。お茶は水鞠さんがいつも選んでくださってるんですよ」
褒めるなら水鞠を、と澄花は遠回しに匂わせる。水鞠は部屋の入り口の障子のそばに控え、少女二人のやりとりをにこにこと眺めていた。
二人の話題に上るのは専ら時雨のことだ。時雨がどうしたこうしたと紅雨はいつも澄花の知らない彼の姿を話してくれる。あんな兄で恥ずかしいだの、兄は気が回らなさすぎるだのと、紅雨は文句ばかり言っているが、それが澄花にとっては羨ましくもあった。
「紅雨様、時雨様はとても素敵な方だと思いますよ。お美しくて、お優しくて、水神としての務めのことを一番に考えていらっしゃって」
「お兄様の取り柄なんて、真面目でこの地を愛していらっしゃることと見た目くらいですわ。……わたくしが水神として覚醒していれば、この川の全てをお兄様一人に背負わさないですみましたのに」
ぽろりと澄花の知らない話が紅雨の口からまろびでた。その言葉は水に投げ込まれた小石のように、紅雨の視界を歪めていく。幼い顔に辛苦の感情を滲ませる紅雨にこの話をこれ以上追及していいのかわからなくて、澄花はそっと水鞠へと視線をやる。水鞠はこちらへやってくると、膝をついて紅雨と視線を合わせる。
「――紅雨様。このお話は……」
「いいわ、水鞠。わたくしから話しますわ。澄花がお兄様の伴侶である以上、知っておかねばならないことですもの」
「紅雨様、お辛いようでしたら、わたしは無理に聞こうとは思いません。わたしは、紅雨様がそんな顔をしていらっしゃるほうが気に掛かります」
澄花は紅雨を案じる言葉をかける。大丈夫ですわ、と紅雨はかぶりを振った。彼女の髪に挿された簪の薄橙の花がしゃらりと鳴る。兄の心を掴んで離さないのはきっと彼女のこの優しい心根なのだろう。
「澄花は優しいですわね。わたくしは水神としては未熟な身――お兄様と違って神力を持ってはいないのです。わたくしがお兄様をお支えできていたなら、力を使い果たし、これほどまでに弱くなってしまうことはなかったのです。澄花がこの家に来るまでは、いつお兄様もお父様のように消えてしまうのかと怖くて仕方ありませんでしたわ……」
紅雨の小さな身体がかすかに震えている。紅雨は気丈な笑みを浮かべていたが、言葉尻には涙の気配が感じられた。たまらなくなって、澄花は紅雨のそばに寄ると、彼女の身体を抱きしめた。
紅雨は神の身だ。澄花とは比べ物にならないくらい、遥かに長い時を生きていたことくらいは理解している。それでも澄花は今の紅雨が見た目通りの年齢の少女のように感じられてならなかった。
(陽菜……)
腕の中の少女の姿が、記憶の中の妹と重なった。
今は二〇四〇年。もう陽菜は澄花の年齢すら飛び越えた大人なのだということはわかってはいる。それでも、澄花の中では陽菜はまだ最後に別れた十歳のときの姿のままだった。
(約束、守ってあげられなかったな……)
修学旅行のお土産を買ってくる約束をしたこと。それを守ってあげられなかったことが今になって悔やまれた。二十五歳の彼女はまだそのことを覚えているのだろうか。
じわっと目の奥から熱いものが込み上げてくるのを澄花は感じた。どうかしましたの、と紅雨が身じろぎをする。
「すみません……紅雨様を妹に重ねてしまって……」
「澄花には妹がいらっしゃいますの? よろしければお話を聞きたいですわ」
ええ、と澄花は目元を拭うと頷いた。それではお茶のおかわりをお注ぎしますね、と水鞠が冷茶の入った切子細工のガラスの水差しを手に取る。
こぽこぽと水差しと同じ意匠のグラスに桃が香る茶が注がれていく。澄花は痛みと懐かしさを覚えながら、紅雨に自分の家族のことを話し始めた。
「わたしには、陽菜という名前の八個下の妹がいます。あの子はいつだって、家の中心にいる太陽みたいな子で――」
いつのことだったか、雨で陽菜の小学校の運動会がなくなってしまったことがあった。澄花が運動会の応援に行ったところ、開始直前に大雨が直撃し、急遽中止に追い込まれてしまったからだ。
「運動会できないからって代わりに宿題のプリントいっぱい出されたんだけど!! せっかくの土曜日なんだからどっか遊びに行きたいよー」
澄花はダイニングでプリントの山と格闘する陽菜を横目にリビングのソファでスマホをいじっていた。掃き出し窓を雨が叩く音がイアホンの音楽に混ざって、ドラムのようにビートを刻んでいる。
宿題に飽きてしまった陽菜はシャーペンのキャップをかちかちと押し続けている。澄花はふと思いついて、隣駅のショッピングモールにある映画館のウェブサイトにアクセスした。
(あ……今からなら十四時半の回に間に合いそう)
妹の陽菜は小学生にも関わらず、刑事ドラマにハマっている。両親が仕事で留守の間、夕方の再放送を見ているうちにハマってしまったらしい。
陽菜が好きだと言っていた刑事ドラマの劇場版が先週から上映されていた。しかし、今日はこの天気が祟ったのか、まだ座席はガラガラだ。
(確か……誕生日にもらった映画のギフトカードがまだ残っていたはず)
澄花は見やすそうな席を並びで二席押さえると、決済をした。そして、澄花はソファから立ち上がると、陽菜に声をかける。
「陽菜、わたしと出かけよう。テーブルの上片付けて、出かける支度してきて」
「お姉ちゃん、どこ行くの?」
「映画館。隣駅のショッピングモールの。先週公開された映画、見たがってたでしょ?」
澄花の言葉を聞いた陽菜の目がぱぁぁっと輝いた。彼女の笑顔はまるで春の太陽のようだと澄花は思う。
陽菜はプリントと筆記用具をばたばたと片付けると、二階にある自室へと上がっていく。どたばたと落ち着きのない足音を追いかけて、澄花も階段を上がっていった。
自室に入ると、澄花は白のミニショルダーの中にスマホや財布、ハンカチやリップを入れていった。家の鍵を手に取ったとき、「お姉ちゃん早くー!」陽菜がどんどんと部屋の扉を叩く音が響いた。
苦笑混じりに返事をすると、澄花は部屋を出て陽菜と共に階段を降りていった。そして、靴を履き、玄関の傘立てから傘を取ると、二人は家を出た。
がちゃりと玄関扉が閉まる音がする。外出する姉妹を見送るように、リビングに放し飼いにしているミニチュアダックスフントのリオンがわんと吠えた。
空から絶え間なく降り続く雨粒が水溜りに波紋を描いては連なるようにさらに大きな波紋を作っていく。分厚い灰色雲に覆われた空の下、二本の傘が大輪の花を咲かせていた。
休日の夕方ということもあって、買い物に訪れた客たちでフードコートは喧騒に包まれていた。家族連れが多いのか、あちらこちらで子供がはしゃぐ声がする。
「――陽菜、お待たせ」
澄花は手に持っていたトレイをテーブルに置くと、待たせていた陽菜の向かいの椅子に腰を下ろした。トレイの上ではファストフード店で買ったLサイズのポテトにチキンナゲット、レモンスカッシュにアイスティーが乗っている。
「お姉ちゃんありがとう。いただきます」
陽菜は両手を合わせると、ポテトへと手を伸ばす。それを微笑ましく思いながら、澄花はアイスティーに口をつけた。
「今日の映画、どうだった? 面白かった?」
澄花が聞くと陽菜は口をもぐもぐさせたまま、首をぶんぶんと縦に振った。まだ興奮冷めやらぬといったふうで、その双眸はきらきらと光を放っている。陽菜は口の中のポテトを飲み下すと、テーブルから身を乗り出し、勢いよく捲し立てた。
「すっごーく面白かった! 過去の相方が全員出てきて、それぞれ事件に関わってるなんて思わなかった! しかも、最後にあんな裏切りがあるなんて――」
「ほら陽菜、座って。騒がないの。お行儀悪いでしょ?」
はあいと返事をすると陽菜は席に腰を下ろした。そして、彼女は再びジャンクフードへと手を伸ばす。
こんなに喜んでもらえたなら、連れてきてあげた甲斐があった。テレビシリーズをよく知らない自分でも楽しめたし、来てよかったと心から思う。
気がつけば、陽菜によってポテトもナゲットもほとんど食べられてしまっていた。残り数本になったポテトに手を伸ばしたとき、お姉ちゃん、と陽菜が澄花を呼んだ。
「どうしたの?」
「ねえ、この後、百均行きたいんだけどいいかな?」
「そろそろ帰らないとだから、そんなに長くはだめだよ。晩御飯の時間に遅れたら怒られちゃう」
「大丈夫、すぐ済むから」
「そう? ところで何を買うの?」
「チョコレートとゼラチンだよ」
「何かお菓子でも作るの?」
内緒、陽菜はにっと笑った。笑うと出来る笑窪が可愛らしい。
陽菜はずずっとストローでレモンスカッシュを啜る。それを眩しいものを見るように目を細めながら澄花は見ていた。
「お姉ちゃん、ちょっといい?」
風呂から上がり、二階にある自室に戻ろうとしていると、澄花は陽菜に呼び止められた。夕食後から台所で何かしていたのは知っていたが、エプロンのみならず顔までチョコまみれになっているのは一体どういうことなのだろう。
見れば流しには使ったままの鍋やらボウルやらが散乱している。調理スペースにはチョコレートの包み紙や空になった生クリームのパックにゼラチンやグラニュー糖の袋、出しっぱなしの牛乳などが置かれたままになっていた。
お菓子作りは陽菜の趣味だ。しかし、作ったら作りっぱなしにしてしまうところはまだまだだ。この台所の惨状を見たら母が卒倒してしまう。
陽菜は冷蔵庫を開けると、中からチョコムースを二つ取り出した。そして、片方を澄花に渡すと彼女はこう言った。
「お姉ちゃん、これ。今日、映画連れていってくれたお礼。本当にありがとう」
「楽しかったみたいでよかった。……今日、運動会だめになっちゃったから」
「そんなのお姉ちゃんのせいじゃないでしょ。せんじょーこーすいたいとかいうのができてたってさっきニュースでも言ってたじゃん。それより食べようよ」
うん、と頷くと澄花は食器棚からスプーン二本取り出した。そして、リビングへ向かうと二人並んでソファに腰を下ろす。澄花が陽菜にスプーンを渡してやるのを見ていたリオンがケージの中で物欲しそうにくぅんと声を上げた。
駄目だよ、澄花は困った顔でリオンを宥める。チョコレートは犬には毒だ。
澄花はスプーンで陽菜の作ったムースをすくうと口へと運ぶ。すると、口の中に控えめなチョコレートの甘さが広がった。雨の夜を幸せに変えてくれる優しい味だった。思わず、鼻の奥がつんとした。
「――美味しい。陽菜、ありがとうね」
「もう……なんでお姉ちゃん、泣きそうになってるの」
自分のせいで運動会が駄目になったというのに、こんなふうに優しくされていいのだろうか。映画に陽菜を連れていったのだって、せめてもの罪滅ぼしのつもりだったのに。
けれど、そんな胸中を陽菜相手に吐露するわけにもいかない。澄花は僅かに逡巡するとまったく別のことを口にした。
「陽菜も腕を上げたなあって思ったから。……でも、散らかしっぱなしにするところはまだまだだよ。後で一緒に後片付けしようね」
「はあい」
雨戸を雨が叩く音がする。おやつを諦められないらしいリオンがきゅうきゅうと訴える声がする。
罪悪感の中に灯った小さな幸せを噛み締めながら、澄花はまたひと匙、もうひと匙とムースを口に運ぶ。自分の作ったムースを美味しそうに食べる澄花を陽菜は嬉しそうに見上げていた。
「澄花は妹さんと仲がよろしかったんですのね」
澄花の話を聞き終えた紅雨はそう口にした。しかし、澄花は自分が陽菜と仲が良かったのかどうかよくわからなかった。自分と陽菜は八歳も歳の差があり、家族でありながらもどこか遠い存在に感じていた。――とりわけ、陽菜が生まれて、家族の中心が彼女になってしまってからは。
躊躇いながら澄花がそう言うと、あら、と紅雨は可愛らしく小首を傾げてみせた。
「わたくしとお兄様は千と数百年の歳の差がありますが、そのようなことはあまり感じたことがありませんわ。わたくしたち神と人間では違うのかしら?」
「……そうかもしれません。歳の離れた妹にわたしはどう接したらいいのかわからなくて……」
陽菜を疎んじたこともあった。テレビは妹の陽菜が優先だった。食べたいものだって、行きたいところだって陽菜が優先された。そのことに澄花が異議を申し立てようとしても、お姉ちゃんでしょ、の一言で全ては片付けられた。
とはいえ、澄花だって陽菜が可愛くなかったわけではない。陽菜が好きなアニメがあると言えば、見様見真似で画用紙にキャラクターの絵を描いてあげた。陽菜が出先でお気に入りのぬいぐるみを失くしてしまったときは、家にあったフェルトでクマのぬいぐるみを作ってあげた。母の留守の際に、一緒に炊飯器でケーキを作ったりもした。どれもお世辞にも良い出来だったとは言えないが、それでも陽菜はいつだって喜んでくれた。
――おねえちゃん、ありがとう!
そんなことを澄花が話すとふふ、と紅雨は微笑んだ。幼い顔立ちに似合わない慈愛に満ちた笑みだった。
「澄花はちゃんと、"姉"をしていますわよ。わたくしも欲しかったですわ。澄花のようなお姉ちゃんが」
そんなふうに言われたのは初めてだった。今まで誰かに姉としての自分を肯定してもらえたことはない。ただそれが当たり前だと言う態度を両親は取り、自分もそれを当たり前だと諦めていた。
「それにしても、わたくし、無神経でしたわね。いつもいつもお兄様の話ばかりして。妹さんと離れ離れになって、さぞ寂しいでしょう?」
「わかりません。それに、時雨様のお力がなければどのみち地上にはいけませんから。もし仮に会いに行きたいとしたって、そんなことのために時雨様の手を煩わせれれませんし」
「……そうですわね」
澄花は淡い笑みを浮かべた。胸を苦いものが過る。
自分がいなくなったその後の陽菜がどうしていたか気にならないといえば嘘になる。彼女は怒っただろうか。それとも泣いたのだろうか。
自分が逆の立場なら悲しいと思う。泣いて泣いて泣いて――それでも泣き続けるだろう。どうして止めてあげられなかったのか。家族なのに気づいてあげられなかったのか、と。この世にたった一人の大切な妹なのに、と。
澄花は無意識のうちに唇を噛んでいた。そんな彼女へと、それを寂しいと言うのですわよ、と紅雨は諭した。
「伝えたいことがあるのに伝えられない――それは寂しいということですわ。それが届きそうで届かないところにあるともなれば、余計にですわ」
今の澄花には自分の想いを陽菜に伝えることはできない。けれど、ここで一緒に暮らす時雨はそうではないはずだ。せめて、時雨には今思っていること、感じていることを伝えたい。――今度こそ、取り返しのつかないことにならないうちに。
「紅雨様。わたし……時雨様とお話しがしたいです。もう、何日も時雨様とまともに顔を合わせていないんです。わたしに何か至らない点があったなら、きちんと謝りたいんです」
はあ、と紅雨は溜息を吐いた。どうして澄花はこんなに謙虚でいられるのだろう。時雨が澄花を避けているのはそんな理由ではない。思春期を拗らせに拗らせた口に出すのすら憚られる理由だというのに。
「澄花。お兄様はいつも夕餉の後、庭を散歩されるの。夕餉の後は気が抜けていることが多いから、そうそう逃げられることもないと思いますわ」
お兄様の夕餉が終わったら水霜を遣わせますわ、と紅雨は空色の目を片方、茶目っけたっぷりに閉じてみせた。ありがとうございます、と澄花は頭を下げる。
「そうなれば、作戦会議ですわよ。絶対にお兄様が逃げられないようにいたしましょう。まずはわたくしが漣をお兄様から引き剥がして――」
紅雨の無垢な唇から、時雨を逃さないように追い込むための策が告げられていく。これほどまでに自分のためにお膳立てをしてくれる紅雨に感謝を覚えながら、澄花はざわざわと波立つ鼓動を感じていた。自分に本当にできるだろうかという不安を手のひらに爪を立てて封じ込める。
茶器と菓子に囲まれた作戦会議を金魚が葛饅頭の中で涼しい顔で聞いている。茶の入った冷えたグラスの表面を雫がすうっと伝い落ちていった。
鹿おどしがかつんと音を立てたのが、聴覚の隅に聞こえた。じゃりじゃりと玉砂利を下駄の底で踏みながら、時雨はのんびりと中庭を歩く。水がするすると身体を撫でていくのが心地よかった。
いつもはそばにいる漣は紅雨に呼び出されたとかで今はいない。こうして一人で庭を歩くのは久しぶりだった。
花の時期が過ぎた卯木の樹。青々と葉を茂らせた楓。柔らかな色の苔に包まれた岩。時折り、夜想曲を奏でるように声嚢を震わせるカエル。ぴちょん、と水が滴り落ちる音がする。
ふわふわと発光する水泡がクラゲのように宙を漂っている。月はまだ細く、川面から差し込む光はゆらゆらと儚げで遠い。
時雨は中庭の紫陽花の前で足を止めた。花は盛りを迎え、紫から薄青のグラデーションを描いている。それは先日、澄花が自分のために拵えてくれた菓子を彷彿とさせた。
(――あれは美味かったな。今まで食べた何よりも)
控えめな甘さの葛ゼリー。そして、その上を飾る青と紫の甘酸っぱい味わいの寒天。
時雨はあのとき胸を占めた感情に悩まされ続けていた。澄花の作った菓子のように優しいのに、どこか苦しく切ない感情は何千年も生きてきた時雨がまだ知らないものだった。
(――澄花に礼を言わないと)
勿論、あの直後に澄花に菓子の礼に手紙と品を贈った。しかし、そのことが知れると、そうではないと紅雨が部屋に乗り込んできた。
――お兄様は乙女心をまったくわかっておられませんわ! 澄花はお兄様のために勇気を出したのです。その勇気にはお兄様も勇気で応えなければなりませんわ。漣に運ばせるのではない、他の誰でもないお兄様自身の言葉で。
礼を言うなら直接言えと紅雨にはこっぴどく叱られてしまった。けれど、先日の儀式のことを考えると、顔を合わせにくい。
自分は儀式で必要だったとはいえ、澄花の唇を奪ったのだ。嫌われてしまってはいないだろうか。あるいは接吻の仕方が下手だとか。
紫陽花を前に悶々と考え込む時雨の背後で玉砂利が鳴った。振り返ると薄浅葱の着物に身を包んだ少女がこちらに近づいてきていた。着物では青色の金魚が泳いでおり、その涼やかさに目を惹きつけられる。
とくんと時雨の心臓が鳴った。水が揺れる。
「――時雨様」
「……澄花」
時雨は少女の名を呼んだ。少女は近づいてくると、躊躇うように話し始める。
「こうして……顔を合わせてお話しするのは、お久しぶりですね。お忙しかったんですか?」
「それは……」
忙しかったなどと嘘をついてしまえればどんなに楽だっただろう。しかし、水神である時雨は嘘がつけない。水が穢れるからだ。
「わたし……時雨様に何か、してしまいましたか? たとえば、わたしのせいであの日の儀式に実は失敗していただとか……」
そんなことはない、と時雨は首を振った。あの日の儀式は期待以上のものだった。これが雨催いの巫女の力か、と身が昂りさえもした。
「澄花に問題があるわけではない。すべては……私の問題だ」
澄花に伝えたいことはたくさんある。はにかんだような可憐な笑顔が好きだとか、この前の菓子が美味しかっただとか。けれど、それが照れ臭くて上手く伝えられないのは時雨自身の問題だ。
時雨の言葉に澄花は突き放されたような気分がした。澄花は唇を噛む。ああ、また自分は間違ってしまった。時雨はそう悟る。
「契約上の関係とはいえ、わたしたちは夫婦です。時雨様に何か問題があるなら、それを一緒に背負わせてください。時雨様が抱えていらっしゃる問題が原因で、避けられ続けるのは……もう、辛いです」
「澄花……」
彼女の夫として相応しくありたい。けれど、自分のこんな情けない姿を彼女に見せてもいいのだろうか。彼女に嫌われたくない。
「わたしには時雨様の気持ちがわかりません。人と人ですら、言葉にしなければ伝わらないことも多いんですから、わたしと時雨様であれば尚更です。時雨様――神様の価値観はわたしのような者には図れません。だから――」
澄花は時雨の目を強く見つめる。その目は今にも泣き出しそうに潤んでいた。
澄花は息を詰め、指先が着物の袖を握りしめたまま震えていた。そして、そのまま声を絞り出すように、時雨へとありったけの思いをぶつけた。静けさに満ちた中庭を稲妻のように彼女の声が切り裂く。
「――何だって言葉にしてくれないとわからないじゃないですか!」



