目を覚ますと、視界に飛び込んできたのは知らない天井だった。ぼやけた視界にほのかな光を放つ水泡が揺れている。
 部屋を彩る調度品も見慣れないものばかりだ。ぼんやりとしていた意識の焦点があってくるにつれて、ここは水神である時雨の屋敷で、彼の妻である自分はここに住むことになったのだということを澄花は思い出す。
 桜柄の透かし彫りが施された障子越しに朝の明るさが入り込んできている。昨夜、眠る前に外した白藤の簪が文机の上で光を反射して、柔らかく色を滲ませていた。呼吸に合わせて、かすかに揺れる光は穏やかな波のようで、ここが川底の世界であることを澄花に知らせている。
 ふと、障子の向こう側に誰が立つ気配がした。澄花が身体を起こして、背後を振り返ると障子には小柄な人影が映っていた。
「澄花様、起きていらっしゃいますか? 水鞠です。朝のお支度に参りました」
 はい、と澄花が返事をすると、すっと障子を開けて水鞠が入ってきた。その腕には灰色のセーラー服が抱えられている。
「おはようございます、澄花様。昨日お召しになっておられたお洋服は、昨晩のうちにお洗濯しておきましたので、箪笥にしまっておきますね」
「ありがとうございます」
 水鞠は後手に障子を閉めると、桐箪笥のほうへ向かっていった。そして、彼女は箪笥の最下段の引き出しに澄花の制服をしまう。彼女の所作は流れる水のように滑らかで無駄がない。洗練された動きに、彼女もまた時雨の眷属であり、水の精霊なのだということを実感させられる。
 引き出しを閉めると、水鞠は何段か上の引き出しから着物と帯を取り出した。萌木色(もえぎいろ)の着物には白と桃色の撫子が散りばめられており、非常に愛らしい。対する帯は涼やかな薄荷色で、華やかな印象の着物に涼やかさを加えていた。
「もういい加減、春物が着られる季節も終わりですからね。その前に一度、澄花様にこちらに袖を通していただきたかったんです。昨日のような清楚な出立ちもお似合いになりますが、このような華やかな着物もきっとお似合いになりますよ」
 そんなことを言いながら、水鞠は澄花の着替えを進めていく。彼女は白地に空色の麻の葉模様の寝間着を脱がせると、肌襦袢の上から長襦袢と着物を着せていった。腰紐や伊達締めによって呼吸の自由を奪われていくのはまだ慣れない。うっ、と澄花の口から漏れた声が小さなあぶくを生む。
 薄荷色の帯を澄花の胴に巻いて文庫結びにし、水鞠は仕上げにガラス細工の帯締めを結んだ。きらきらと光るガラス細工は太陽の光を反射する川面のようで美しい。
「澄花様、こちらにお座りになってください」
 水鞠は澄花を鏡台の前へ誘うと、椅子に座らせる。澄花が鏡を覗き込むと、昨日よりは少しましな顔をした自分がこちらを見返していた。
 螺鈿細工の箱を開けると、水鞠は寝乱れた澄花の髪に櫛を通し始めた。すっすっと櫛が髪を滑るたび、川面を撫でる波音が聞こえるような気がした。
 水鞠は澄花の頭の両サイドの髪を手早く編み込んでいくと、後ろでシニヨンにする。最後に蝶々を模った銀の水引細工の簪を差すと、できましたよ、と彼女は微笑んだ。
「今日もとてもお可愛らしいですよ、澄花様」
「え……っと、その、ありがとうございます」
 澄花ははにかんだ。雨女の力のせいで、あまり人と積極的にかかわってこなかった澄花は、自分の容姿を褒められることに慣れていない。
「さて、澄花様。そろそろ朝餉にいたしましょう。ご案内いたします」
 こちらへ、と水鞠に誘われて澄花は部屋を出る。廊下に出た途端、澄花の聴覚を満たす水の流れが鮮明なものへと変わる。
 昨夜は雨戸に遮られて見えなかった庭では、卯の花が盛りを迎え、水の流れに白い花びらをそよがせている。遠く高い川面から差し込む柔らかい朝の光が、草木を濡らす朝露をきらきらと反射させていた。

 漆塗りの長方形の座敷机。上座には北関東の山々から東京湾へと向かって流れる川の様子が細やかな筆致で描かれた屏風が鎮座している。床の間には水蛇が象られた青磁の壺が置かれ、天袋には魚の鱗を思わせる彫刻が施されている。
「さあ、澄花様。こらちへどうぞ」
 水鞠に言われるままに澄花が座布団の上に腰を下ろすと、一人の女性が食事の乗った盆を運んできた。彼女とは昨日、廊下ですれ違っただけだが、名を秋水(しゅうすい)と言ったはずだ。
 すっと目の前に置かれた食事に澄花は目を丸くした。それは懐石料理と見紛うような立派な食事だったからだ。
 新ごぼうと豆腐の白和えにそら豆と湯葉の清まし汁。長芋の梅肉和えにアスパラの酢味噌がけ。賀茂なすの田楽に新じゃがとふきの含め煮。たけのこと空豆のかき揚げに胡瓜と若布の菊花和え。枝豆と黒米の炊き込みご飯には浅漬けが添えられ、ぷるぷるとした葛切りは清流にに果実を閉じ込めているかのように見えた。
「……あれ?」
 秋水(しゅうすい)が一礼して去っていくと、澄花は首を傾げた。どの料理も趣向が凝らされ、大変美味しそうではある。しかし、そこには何とも言い難い違和感があった。
(……あ)
 懐石料理のように華やかではあるが、実際は精進料理に近いのだと澄花は気づいた。この食事には一切魚が使われていない。
「――お気づきになられましたか」
 水鞠は食前の煎茶を淹れると、水縹の鱗紋様の湯呑みを澄花の前に置く。その手の動きは水中を泳ぐ白魚を想起させた。
「私たち、時雨様の眷属――水の精霊のほとんどは元はこの猛川(たけりがわ)に住まう魚なんですよ。ですから、私たちは決して魚肉を口にしないようにしているんです。澄花様のような年頃のお嬢さんには物足りない内容かもしれませんが、どうかご理解ください」
「いえ、物足りないだなんて、そんな……」
 澄花は首を横に振る。そして、彼女は躊躇いがちにもう一つ気になっていたことを口にした。
「ところで、この着物に食べ物はどこから……? ここは川の世界なんですよね?」
 すると、水鞠はあらやだと口元を手で押さえた。野暮なことを聞いてしまったかも知れないと澄花は肩を縮こまらせる。世の中には知らなくてもいいことがある。
「東京湾におわす海神様が川の流れを使って、定期的に生活に必要なものを送ってくださるんですよ。海神様は水神を統べる立場のお方ですから」
 水鞠の説明に澄花はなるほどと相槌を打つ。そのとき、障子に長身痩躯の人影が映った。 すっと障子が開き、時雨が座敷に入ってきた。澄花がまだ食事に手をつけていないことに気づいた時雨は、どうした、と静かに問うた。
「――澄花。食事が口に合わなかったか? 昼餉には洋食を用意させよう」
「いえ、時雨様。そういうわけでは……」
 一向に食事に手をつけようとしない澄花に時雨は訝るような視線を向ける。こんなふうに注目を浴びていては食べづらい。夫婦であるとはいえ、一柱の神である時雨の前で粗相があったらと思うと、気が気ではなかった。
「時雨様。澄花様がお困りですよ」
「そうか。それは悪かった」
 澄花が食べづらそうにしていることを水鞠がやんわりと伝えると、時雨は素直に詫びの言葉を口にした。
「時雨様、何か御用ですか? 朝餉なら先ほど召し上がられましたよね。喉が渇いたのでしたら、漣に茶を淹れさせましょうか?」
 水鞠が遠回りに退出を促すと、時雨は袂から一輪の花を取り出した。清楚な佇まいに反して、陶然とするような濃くて甘やかな香りを放つそれを時雨はそっと手を伸ばして澄花の耳元に差し込んだ。動揺とともに、周囲の景色が揺れたような気がした。――水が揺らぐ瞬間のように。
「これは……?」
 澄花は戸惑いの声を上げる。人のものではない圧倒的な美貌が近づいてきて、澄花は自分の顔が熱くなるのを感じた。新橋色の着物から漂う雨の匂いに混じった男性的な甘い香りに鼓動が早くなっていく。耳元に差し込まれた花を朝露がしっとりと濡らしている。
「庭に咲いていた茉莉花の花だ。きっと君に似合うと思ったのだが……悪い、好みの花ではなかったか?」
 そんなことはないです、と答えるのが澄花にとっての精一杯だった。自分は今、一体どんな顔をしているのだろう。すまし汁の表面に映った自分の顔を澄花は直視できなかった。
「――澄花。君の好きな物を教えてくれ。好きな色は? 好きな食べ物は? 好きな花は? 好きな――」
「時雨様」
 水鞠が澄花を質問責めにしようとしている時雨を制した。彼女は圧のある笑顔で、再び時雨に退室を迫る。
「澄花様の朝餉が冷めてしまいます。それにそのように質問責めにしては、澄花様がお可哀想ですよ。たとえ夫婦であっても、きちんとそれなりの手順を踏むべきです」
「……悪かった」
 弱ったように時雨は眉尻を下げる。たったそれだけのことで、時雨の美貌の圧がふわっと和らいだ。
 それでは邪魔をしたな、と時雨は座敷を出て行こうとする。しかし、何を思ったか足を止めると、時雨は澄花を振り返り、こんなことを口にした。
「昨日の着物も似合っていたが……今日は今日で艶やかでいいな。若葉の瑞々しさの中にも、君らしい愛らしさがある」
「……ッ!?」
 不意を突かれた澄花の顔が見る見る紅潮していく。何かを言おうとして澄花はしばらく口をぱくぱくさせていたが、何も言えないままぷしゅううと頽れた。
 湊鼠の羽織の端が澄花の視界をちらつく。時雨の香りと言葉がぐるぐると渦を巻いて、いつまでも頭の中から離れてくれなかった。

 澄花が時雨の屋敷で暮らすようになってから、しばらくが経った。最初は戸惑っていた着物や身を包む水の感触にも、日々を過ごすうちにだんだんと慣れてきていた。
 暦の上では五月が終わり、六月に入っていた。穏やかにすぎていく川の中の世界ではそんな現実すらどこか遠い。けれど、凪いだ水面のように優しいこの場所では、いくらか息がしやすいように思えた。十八年間生きてきた地上の世界のほうが悪い夢であったかのようだった。
 水鞠をはじめとして、身の回りの世話をしてくれる水の精霊たちは皆一様に自分に優しい。漣は澄花に対して厳しい態度を崩さないでいたが、それでも、自分を傷つけようとしたりはしない。
 そんな日々の中で唯一、澄花が辟易していたのが、先日の茉莉花にはじまる時雨の贈り物攻撃だった。清流を切り取って固めたかのような琥珀糖。上流域の湧水から作られた化粧水。水と花の香りが混ざり合ったアロマキャンドル。屋敷の庭を閉じ込めたようなハーバリウム。透明な蓮が咲く淡い水色の江戸切子の茶器。身の回りに不自由がないかと案じる、流水のように麗しい文字で書かれた手紙が届けられたこともあった。
 時雨に返事を書きたいと水鞠に相談すると、翌朝には揺れる水面を模ったガラスの万年筆が部屋に届けられた。澄花が気分に応じて使い分けられるようにと、全四十八色の藍色のインクセットも一緒だ。
 朝食の後、澄花は自室に戻ると文机に向かっていた。時雨にはとても良くしてもらっている。ただその感謝を伝えたいだけなのに、上手く言葉がまとまらない。
 うーん、うーんと知らず知らずの間に澄花が唸っていると、そばに控えていた水鞠がくすりと笑った。
「澄花様。少々気分転換に、お庭でも見に参りませんか。紫陽花が見頃を迎えていますよ」
 このまま行き詰まっていても、一文字たりとも自分の気持ちを便箋に落とせそうにない。行きます、と返事をすると、澄花は白藍の着物の裾を捌いて立ち上がった。足元に纏わりつく水がふわりと動く。
 それでは行きましょうかと水鞠は障子を開けると、澄花を誘って廊下を歩き出した。澄花は小柄な水鞠の背を追いかける。澄花が歩を進めるたびに聴覚を満たすせせらぎの音が大きくなっていく。包み込むような苔の湿った青い匂いが彼女の鼻腔をくすぐった。床板には波紋のような影が淡く映っている。
 廊下の角を曲がり、連れてこられた先は立派な縁側だった。柔らかな色の苔に包まれた築山のそばには青々とした若葉を生い茂らせた楓の木が静かに佇んでいる。その根本では白百合が清楚な花びらを揺らしていた。竹垣の前では立派な紫陽花が青から紫への幻想的なグラデーションを描いている。それらを宝石のように彩っているのは生まれたばかりの瑞々しい雫だった。
「わあ、綺麗……!」
「よろしければ、お近くで見てくださっても構いませんよ」
 水鞠は沓脱石(くつぬぎいし)に薄紫の鼻緒の下駄を置く。ありがとうございますと礼を述べると、澄花は下駄にそっと足を通した。
 じゃり、じゃり、と玉砂利を踏みながら澄花は庭を歩く。頭上では太陽の光を受けてきらきらと輝く川面が幾重にも波紋を描いている。宙を漂う水の泡はその身の内にシャボン玉のような虹色を封じ込めていた。
 静謐を形にしたような屋敷の庭は、澄花にとってとても心地が良かった。ともすれば堅苦しく見えるが、穏やかな時雨の性格が端々から垣間見えた。
「……あれ?」
 庭の端に小さな石の祠があった。中には丸く削られたつるつるとした石が安置されている。
 澄花は祠の前でしゃがみ込むと、そっと石に手を伸ばした。石からはなぜか微かにペトリコールの香りがしていた。石の表面はひんやりとしているのにどこか暖かい。以前に微かに触れ合った時雨の手の温もりによく似ていると澄花は思った。
 その瞬間、水底にぴしりと罅が走ったかのように、周囲の流れが止まったような気がした。水に包まれた初夏の庭が一瞬にして、氷に閉ざされてしまったかのように感じられた。
「――澄花様」
 低い声で名前を呼ばれ、澄花ははっとして石から手を離す。振り返ると、険しい表情を浮かべた水鞠がそこに立っていた。
「それは、時雨様の神力の源――御霊石(ごりょうせき)です。そして、この祠はこの屋敷と地上を結ぶ道です。儀式以外では軽々しく近づかれませんよう」
「ごめんなさい……わたし、知らなくて……」
 声が震えた。指先にはまだ石の温もりが生々しく残っている。
 いえ、と水鞠は首を横に振る。その声からは今し方の張り詰めた空気は消えていた。
「澄花様にはもっと早くにご説明すべきでした。これは私たち、時雨様の眷属にとってとても大切なもの。決して失われてはならないものなのです。この石に何かあれば――時雨様は消えてしまわれる」
「消え、て……?」
 澄花は絶句する。そのような大切なものに軽々しく触れてしまった自分の軽率さが呪わしかった。
「近年の日照りによる水不足に対応すべく、尽力された結果、時雨様は神力のほとんどを失ってしまわれました。水神の力の大きさは御霊石(ごりょうせき)の大きさに比例します。昔は大岩ほどもあった時雨様の御霊石(ごりょうせき)も今はこれほどの大きさとなってしまわれました」
「あ……」
 自分が初めてこの屋敷に連れて来られたときに、漣が青筋を立てて時雨に迫ってきた理由がようやく分かった気がした。きっと、時雨は残り少ない神力を使って、澄花を眷属とし、夫婦としての契約を結んだ。漣は時雨の身を案じていたのだ。
 それなのに、自分はこの屋敷に来てから何をしていたのだろう。時雨から与えられるものを享受するばかりで、自分から何かしようとはしていなかった。
 自分が雨催(あまもよ)いの巫女だという話は聞いた。そして、その力を時雨が欲しているということもわかっている。けれど、そのために自分が何をするべきなのか、何も分かってはいなかった。
(せめて、応えないと。時雨様に与えてもらった気持ちには――)
 時雨は澄花のことを知ろうとしてくれた。契約の関係でしかないにもかかわらずだ。ならば、自分もそうすべきだ。否、そうしたいと思った。
 時雨様の好まれるお茶は? 好きな着物の色は? 好きな香は? そんな些細なことでいい。少しずつ彼を知っていこうと思った。
 あれだけ悩んでいた手紙の書き出しに光明が見えた気がした。大丈夫だ。何を書いたって時雨はきっと手紙を受け取ってくれる。
 澄花は祠の前から腰を上げた。祠の脇では水の玉を纏わり付かせたツユクサが小さな青い花びらを水中に泳がせている。
 水脈(みお)が流れを変え始めたことを今の澄花はまだ知らなかった。――緩流のような日々がやがて己を翻弄する奔流と姿を変えることも。

 白い漆喰壁で覆われた蔵の中、二人の若い男性が密談を交わしていた。黒い瓦屋根と分厚い観音開きの扉が秘密をこの場に閉じ込めている。薄暗い空間にふわふわと舞う水泡が辺りをほのかに照らしている。
「――時雨様。もう六月に入ったというのに、沖縄や奄美ですら梅雨入りしていないと聞きます」
 漣は空中に指を走らせると、今後一か月の天気予報を描いた。水が半透明に染まり、三十個の太陽が浮かび上がる。
 そうだな、と時雨は頷く。彼の静かな声が薄闇の中にぽつりと波紋を落とした。ひんやりとして薄暗い蔵の棚には古い書物が所狭しと詰め込まれ、祭具が鈍い光を放っている。
 漣が言っていることは事実だった。そろそろこの辺りの地域も梅雨入りしてもおかしくない時期なのに、沖縄や奄美ですら梅雨入りをする様子はない。というか、天気図上に梅雨前線がそもそも存在していない。水神である時雨にとって頭の痛い話だった。
 猛川(たけりがわ)の水神である時雨にはこの国全体の気候をどうこうすることはできない。それでもせめて自分の領域下である水域の生命くらいは守りたかった。
「明日、六月五日は大安です。雨乞いの儀式を執り行なうには最適な日かと」
「それはそうだが……」
 澄花が時雨の妻としてこの屋敷に来て約二週間。時雨は彼女に何不自由ない生活を与えてきた。彼女と契約を交わした経緯を思えば、そろそろ彼女にその勤めを果たしてもらうべきだ。
 気乗りしない顔ですね、と漣は溜息をつく。この地に雨を降らせなければ、夏が来るころには干上がってしまう。どうにかして、時雨をその気にする必要があった。
「何を躊躇うことがありますか。まさか、儀式に支障があるほど、あの娘が好みではないとか」
「そうではない。澄花は愛らしい娘だ。それに契約とはいえ、まったく好みでもない娘に結婚を申し込むほど、私はまだ落ちぶれてはいない」
 ふうむ、と漣は唸った。毎日のように時雨は澄花に贈り物攻撃を続けていたが、彼女をここに繋ぎ止めておく以上の意味があったとは。
 ただ、と時雨は言いづらそうに眉尻を下げるともごもごと口を動かす。はあ、と漣は再び溜息をつく。
「時雨様……まさかとは思いますが、儀式での接吻が恥ずかしいとか仰いませんよね?」
「私が、ではない。澄花が恥ずかしがったり嫌がったりするのではないかと懸念している」
「今時、初めての接吻くらい、小学生でも経験しているそうですよ。ましてや、澄花様はもう高校三年生。統計によれば、それ以上の経験をしていてもおかしくはないご年齢――」
「漣。それ以上は聞きたくない」
 やめてくれ、と時雨は漣を制する。水の揺らぎはわかりやすく時雨の動揺を示していた。
 やれやれと漣はチャコールグレーのスーツの肩を小さくすくめた。先ほどまで天気予報が表示されていた空間では十代の男女の恋愛経験をまとめた半透明のグラフが背比べをしている。
 なんとなく、澄花に過去に他の男がいたかもしれないなんて話は聞きたくなかった。自分の妻は自分しか知らない自分だけのものであってほしかった。
(……らしくないな。一人の人間に入れ込むなど。私は水神――万物を愛し、恵みをもたらす神だ)
 澄花一人に心を砕くなどらしくない。そもそも彼女が自分に対してどのような感情を抱いているかもわからないのだ。
「漣。急な話で悪いが、先ほどの日程で儀式の準備を進めてくれ」
「承知いたしました。澄花様へのご説明はどうなさりますか?」
「私がする。それがせめてもの夫としての務めだろう」
 左様でございますか、と漣は恭しく頭を下げる。二人の間にはほんのりと黴の匂いが混ざった紙と墨の香りが漂っている。
 これとこれと、あとはこれと――時雨は澄花に儀式の説明をするべく、書物を手に取り始めた。

 青藤に浅縹。薄浅葱に薄花色。薄水色に楝色(おうちいろ)。朧花色に甕覗。雨の季節を思わせる色の奔流に澄花は目を奪われた。
 いかがですかな、と反物を並べながら、殿茶色の紗着物に身を包んだ紺色の髪の中年の男はにこやかに澄花に尋ねた。
 彼の名は天水(てんすい)。時雨が澄花のために墨江川(すみえがわ)の水神・翠雨(すいう)の元から寄越してもらった仕立て屋だった。
 こちらはいかがでしょう? こちらは? と澄花の脇に控えた水鞠は反物を手に取って澄花の身体にあてがっていく。水の浮力を受けた反物の端がはらりとたなびく。水鞠が手にした反物は素人目にも上等なものだと容易にわかった。
「水鞠さん、わたしにそのような着物はもったいないです。ただでさえ、箪笥の中にまだ袖を通していない着物もあるのに……」
「いえいえ、よろしいのですよ。澄花様がお気に召すものがあれば、何着でも仕立てて良いと仰ったのは時雨様なのですから。澄花様もご覧になってください」
「で、でも……」
 なおも尻込みし続ける澄花に、天水は人好きのする笑顔を浮かべると、そうですぞ、と畳み掛けた。
「先代の樹雨(きさめ)様――時雨様のお父上には大恩ある身です。樹雨(きさめ)様がお亡くなりになられ、私は翠雨様の眷属となりましたが、それでも樹雨(きさめ)様への感謝は忘れてはおりませぬ。どうか樹雨(きさめ)様への恩を返すためにも時雨様の奥方である貴女の着物を仕立てさせていただけないじゃろうか。この天水にはそれくらいしかできないのです」
 そう訴えかけられては澄花も強くは出られなかった。澄花はふと目に止まった薄花色の反物を手に取る。白や水色で染め抜かれた紫陽花の柄が可愛らしく、雨が降り出す前の空のようなくすんだ色も地味になりすぎない。
「ほう、それがお気に召しましたか」
 天水は相好を崩す。それでしたら、と彼は柳行李の中から着物に合いそうな帯や小物を取り出した。
「このお着物でしたら、銀鼠の帯に藤色の帯締めなどいかがでしょう。洗練された雰囲気になりますぞ」
 いえ、と水鞠は違う色の帯と帯締めを手に取る。
「澄花様でしたら、こちらの紅藤色の帯に山吹色の帯締めがお似合いになられるかと思います。澄花様のお可愛らしさが引き立ちますよ」
「いやいや、聞けば奥様は十八歳でいらっしゃるとのこと。お可愛らしいのも良いですが、時雨様の横に並び立つのであれば、相応の気品というものを――」
 天水も水鞠も双方譲らない。二人とも穏やかな笑みを浮かべているはずなのに、目が笑っていなかった。部屋を満たす水の気配が冷たいものに変わっていく。
 すっと澄花の部屋の外に人の気配が立つ。障子に映る長身痩躯の人影は時雨のものだった。
「澄花、私だ。入っても良いか?」
 はい、と澄花が返事をすると、すっと障子を開けて時雨が入ってきた。その手にはいくつもの書物が抱えられている。時雨は部屋の空気が北の海のような冷たさを帯びていることに気がつくと、訝しげに片眉を上げる。
 時雨は畳の上に広げられた反物の数々に目をやる。そして、天水の姿を認めると声をかけた。
「天水、息災であったようで何よりだ」
樹雨(きさめ)様がお亡くなりになって以来ですから、三百年ぶりくらいですかな。時雨様もすっかり水神としての貫禄が身につかれて、在りし日の樹雨(きさめ)様を思い出します」
「世辞などいらない。私は今も昔も弱く未熟な神のままだ。
 それはそうと、今回は翠雨殿にはご迷惑をおかけしたな。すまないが、翠雨殿にはよろしく伝えておいてくれ」
 ご迷惑だなんてとんでもない、と天水は優しい目を時雨に向けた。その眼差しはなんだか若い甥を見る叔父のようだと澄花は感じた。
「時雨様が奥方をお迎えになられたこと、翠雨様は大層喜んでおられましたぞ。お祝いにいくらでも仕立ててやるといい、と最上級の反物を行李いっぱいに翠雨様は持たせてくださいました」
「そうか。感謝する。ところで、どれを澄花の着物に仕立てるのかはもう決まったのか?」
 それが、と水鞠が口を挟んだ。
「澄花様が薄花色の反物をお気に召されたのですが、帯と帯締めの色をどうするかで、天水殿と意見が食い違っておりまして……。時雨様はやはり、澄花様はお可愛らしいほうがお好みですよね?」
「いやいや、水神の奥方ともなれば、相応の気品も――」
 水鞠と天水がぐいと時雨に迫る。しかし、なんだそんなことかと言わんばかりに時雨はこんなことを口にした。ぴんと緊張していた空気が水の中に霧散していく。
「どちらも(あがな)えば良いではないか。どちらを身につけるかはその時の澄花の気分で使い分ければいい。あと、私としてはそこの楝色(おうちいろ)の反物と薄浅葱の反物も好きだ。澄花の着物として仕立ててくれ」
 紺藤と花緑青も良いな、と時雨は長く骨ばった手で反物を指し示していく。このままではとんでもない枚数の着物を仕立ててもらうことになりそうで、澄花は慌てて時雨に待ったをかけた。
「時雨様! そんなにいただけません!」
「何故だ? 澄花の好みではなかったか?」
「いえ、そんなことは……」
 時雨の選んだ反物はどれも美しく、心惹かれるものばかりだった。だからこそ、受け取れなかった。自分はそんな美しい着物に相応しくない。
「なら、受け取って欲しい。私が澄花に贈りたいんだ。――駄目だろうか?」
 時雨の美しく透き通った青藍の双眸が澄花を射抜く。澄花は何も言えなかった。時雨のその目を向けられるとなんだか全身がむず痒くて逃げ出してしまいたくなる。
 お可愛らしいご夫婦ですなあ、と二人のやりとりを見ていた天水が感想を述べる。そうでしょう、と水鞠は彼の言葉を(がえん)ずる。
「水神としてはご立派になられたが、斯様な娘一人口説けないとは男としてはまだまだ青くていらっしゃる」
「そこが初々しくてよろしいんですよ。お二人とも、きっと気づいていらっしゃらないでしょうけれど――」
 水鞠はとあることを天水に耳打ちした。すると、納得したのかなるほどと天水は大きく頷いている。
「と、ところで時雨様は何か御用があったのでは……?」
 澄花が話を変えると、そうだった、と時雨は手に持った書物を彼女に渡した。これは? と澄花は首を傾げる。
「これは雨乞いの儀式に関する書物だ。急で申し訳ないが、明日の夜、雨乞いの儀式を執り行うことになった。それまでに目を通しておいて欲しい」
「わかりました。ところで、その儀式でわたしは何をしたらいいんですか? わたしの力が必要だということはわかっているのですが……」
「君はただ私と共にいてくれれば良い。……いや、違うな。一つ、君に協力してもらわねばならないことがある」
「なんですか?」
 時雨は申し訳なさそうな顔で"そのこと"を澄花に説明した。澄花の表情がみるみる強張り、顔色が紅潮していく。つられるようにして、時雨もなんだかそわそわと落ち着かない気持ちになった。二人の周りを舞う水泡がぱちぱちと弾けては、新たなあぶくを生んでいく。
「なるほど、これは確かに初々しくてお可愛らしいですな」
「天水殿もそう思われますでしょう?」
 水鞠と天水の生暖かい視線が背中に突き刺さる。澄花はあの日、時雨の手を取ってしまった己を初めて呪わしく思った。

(無理無理無理無理ーっ!!)
 白い湯帷子に身を包んだ澄花は全身を水で打たれていた。見上げる先には川の中だというのにごうごうと流れ落ちる瀑布がある。水音が静謐を裂く。澄花の視界は水飛沫の白で染まっていた。
 ここは時雨の屋敷の離れの裏だ。そこで今夜の雨乞いの儀式に備えて澄花は禊をしていた。
 穢れを断つために今朝から食事は抜いている。後はこうして身を清めて支度を整えるだけなのだが、なかなか覚悟が決まらない。
(だって絶対無理だって、恥ずかしすぎる……! 色々な人が見ている前でそんな破廉恥なこと……!)
 澄花には恋愛経験がない。昨日、時雨が持ちかけてきたそのことは、澄花にとってはメッセージアプリで日々他愛もない会話をし、一緒に出かけ、手を繋ぎ、食事をしたその延長線上にあることだった。
 時雨のことは決して嫌いではない。不器用ながらも自分に良くしてくれようとしてくれているのが伝わってくる。だけど、異性として好きかと言われると途端にわからなくなる。
(これがわたしの役目。割り切って受け入れないと……)
 これはあくまで契約だ。時雨とはそういう契約でここにいるのだ。澄花はその事実を頭に刻み込み直す。その事実がなぜか少し悲しく感じられた。
 流れ落ちる水が、髪を、湯帷子を、肌に張り付かせた。自分の頬を濡らしているのが何なのか、澄花は考えたくもなかった。考えてしまえば、開けないようにしていた扉をうっかり開いてしまいそうだった。
 滝の中に澄花は座り込むと膝を抱える。聴覚を満たす水の音は時雨の声に似ていた。たったそれだけのことでほんの少し気持ちが落ち着くような気がした。大丈夫だ。怖がらなくていい。そう言ってくれている気がした。
 いつまでそうしていただろうか。川面から差し込む陽の光はいつの間にか金色へと色を変えていた。
 このまま水の中に溶けてしまえればいいのに。そんな思いに後ろ髪を引かれながら、澄花は立ち上がる。足元の水がざぷりと鳴った。
 離れの中では、水鞠が支度のために待っている。澄花は足袋のまま玉砂利を踏んで歩き、沓脱石(くつぬぎいし)に足をかける。そして、縁側に上ると澄花は障子を開いた。
「お待たせしてすみません、水鞠さん」
「いえいえ、とんでもございません。それでは澄花様、お支度を進めましょうか」
 どうぞ、と水鞠は肌襦袢と長襦袢、新しい足袋と清潔なタオルを澄花に渡す。波の模様が彫られた衝立の向こう側で澄花は濡れそぼった湯帷子と足袋を脱ぐと華奢な裸身を拭っていった。
 澄花は身体を拭くと、手早く新しい足袋を履き、肌襦袢と長襦袢を身につける。長襦袢の衿には常とは違い、朱色の掛衿(かけえり)が縫い付けられていた。
「それでは澄花様、失礼いたしますね」
 水鞠は濡れそぼった澄花の髪をタオルで包むと、白衣(びゃくえ)差袴(さしこ)を手早く着せていく。白衣(びゃくえ)の上から白無地の千早を着せかけると、胸の前で朱色の紐を結んだ。
 続けて水鞠は澄花の髪を包んでいたタオルを解くと、櫛を通していく。そして澄花の髪を後ろで一つに纏めると、水鞠は水引きで結える。うなじから垂れ下がった髪は和紙で包み、その上から熨斗紙をつけて絵元結いにした。
 文机に置いていた化粧道具を取ると、水鞠は澄花の肌に軽く粉をはたいた。そして、目元と唇に紅を差していく。化粧をしたことのない澄花はたったそれだけのことなのに、自分が自分ではない誰かに変わっていってしまう気がした。
「澄花様、少々屈んでいただけますか?」
 澄花は言われるがままに朱色の袴の裾を広げて座る。水鞠は瑞雲の意匠が施された金の前天冠を澄花の頭に被せた。そして、彼女は冠に菖蒲の生花を何本も挿していった。一気に頭が重くなるのを澄花は感じた。これが契約とはいえ、時雨の傍らに立つ責任の重さなのだと思った。
「――澄花様。できましたよ。大変素敵です」
 枠に波模様が施された姿見の前に立つと、見知らぬ少女が不安げな顔で自分を見ていた。時雨は儀式の場でただ一緒にいてくれればそれでいいと言っていたが、自分が時雨の役に立たなかったらどうしようと思うと波のように不安が押し寄せてきた。彼女の不安を示すように水がゆらゆらと揺れ、視界に映る景色を歪める。
(――わたし、嫌なんだ。今のこの居場所がなくなってしまうのが……)
 もし、雨乞いの儀式で澄花の力が役に立たなければ、時雨は自分をこの屋敷から追い出すかもしれない。儀式でのあの行為を恥ずかしく思っているのは本当だが、それ以上にそんなことをこの期に及んで心配していた。
(……わたしは、本当にちっぽけだ)
 水神の妻であると言っても感覚は所詮高校三年生の少女のままだ。水神である時雨とは見ているものが違いすぎる。
 自分の矮小さを澄花は恥じた。ぎゅっと握った手のひらに爪が突き刺さる。儀式の刻限は刻一刻と迫っていた。

 庭の石灯篭の中を淡く発光する水泡がゆらゆらと泳いでいた。日はとうに暮れ、細く弧を描く月の白い光が水の世界に優しく降り注いでいる。
 中庭の祠へ向かって歩く澄花の目は時雨に向けられていた。時雨の美しさは普段から圧倒されるほどのものであるが、今宵の美しさはそれを遥かに凌駕していた。澄花の視線は抗いようもなく彼に引き寄せられ、どうしても目が離せなかった。
 その美しさに心がざわめき、胸の奥がひそかに締めつけられるような気配を感じる。痛いくらい心臓が鳴っていたが、ただ隣を歩く彼を見つめ続けることしかできなかった。言葉にできぬ想いが胸の奥で渦巻き、澄花は自らの動揺に戸惑いを覚えていた。
「どうかしたか、澄花。私の姿にどこかおかしなところがあっただろうか」
「いえ、ただ……時雨様がお美しくて……」
 時雨は、水を織り成すかのような絹の着物に身を包んでいた。
 羽織、着物、帯、袴――そのすべてが透けるほどの透明感と、とろけるような滑らかさを湛えている。
 夜の水底を思わせる優しい青藍が羽織の肩を染め、白藍の帯へと柔らかくグラデーションを描いている。帯を境に袴は次第に色を深め、今宵の時雨の装いはまるで川底の風景を切り取ったかのようだった。
 ぬばたまの髪は澄花と同じ水引で丁寧に結われている。顔には控えめな化粧が施され、なお一層の美しさを際立たせていた。
「そうか? いつもとそう変わらないが。澄花こそ、今日の装束もよく似合っているな。いつもは一輪のスミレのように愛らしいが、今日は冬空の下に咲く梅のように凛としている」
「そ、そんなことは……」
 澄花は顔を赤らめる。衣装に着られているような気後れが拭えず、まさかこのように褒められるとは夢にも思わなかった。
 いつもはおどおどと下を向いてばかりの自分が、凛としているなどと言われる日が来るとは思っていなかったのだ。
 そんなことを話しているうちに二人は紫陽花が咲き誇る竹垣の前を通り過ぎた。そして、祠の前で足を止めると、時雨は祝詞を口にする。
「――我、水を治めし者。此の地を潤さんがため、あわいの境へ踏み入ることを希わん。祈りに応え、一夜の路を開け」
 時雨が静かな声でそう唱えると、濃厚な水の気配が彼の腕に収束していった。時雨が祠の中の御霊石(ごりょうせき)へと触れると、途端に溢れる水のように青く淡く輝き出した。傍らの澄花の手を取ると、時雨は指を絡ませる。
「澄花、石に触れなさい」
 澄花は時雨の指が絡んだままの手を咄嗟に引っ込めようとした。その顔には戸惑いが浮かんでいる。
「でも、これはそんな軽々しく触れていいものではないはずでは……時雨様の力の源だって水鞠さんが……」
「大丈夫だ、触りなさい。他でもない私が許可しているんだ。正しい手順で扱いさえすれば、何も問題など起きはしない」
 そう断言され、澄花は時雨に誘(いざな)われるままに御霊石(ごりょうせき)へと手を伸ばす。ひんやりとした石の表面に指が触れた瞬間、二人の体を包む水の膜が発光し始めた。
「あ……」
 すうっと背筋を髪の毛ほどの細い何かが抜けていく気配がした。不思議な感覚に胸がざわつき、目の前の光景が一瞬揺らいだように感じられた。
 それが時雨の力に反応した自分の力の欠片であることを、そのときの澄花はまだ知らなかった。
 二人の姿が祠の中へと吸い込まれていく。一瞬ののちには、澄花の前天冠に挿されていた菖蒲のかすかな残り香以外、その場には何も残されてはいなかった。

 視界に飛び込んできた景色に澄花は既視感を覚えた。神社の境内の中に設られた控えめな鳥居と拝殿。そして、今は閉じられてしまった門の隙間から見える川沿いの道。間違いなくここを知っている。澄花はそう確信した。
「時雨様、ここは……」
 澄花が訊ねると、時雨は彼女が予想していた通りの答えを返した。
「ここは岩停(いわぬみ)町の八霧(やぎり)神社の境内だ。先ほど、私の神力をもって地上への道を開いた。今、我が家の祠とこの神社にある水神社の鳥居は繋がっている」
 やっぱり、と澄花は呟いた。澄花が姿を消した十五年前から変わらず、この場所はここにある。近所の家はだいぶ入れ替わりが進んだかもしれないが、両親や陽菜(はるな)は変わらずあの家に住んでいるかもしれない。十五年分の時を重ねた姿で。
「懐かしいか? ――帰りたいか?」
 あの日々が。あの日々へ。時雨はそう問うた。澄花は静かに首を横に振る。
「懐かしいとは、思います。けれど……帰りたいとは思わないません。雨女と陰口を叩かれていたあの日々には」
「……そうか」
 時雨は青藍の目を小さな拝殿へと向けた。拝殿の傍らには水神社と書かれた石碑が置かれている。
「妙なことを聞いて悪かった。さて、ここへ来た目的を果たすとしようか。――始めよう、雨乞いの儀式を」
「はい……あの、本当にその、するんですよね?」
 そうだ、と時雨は頷いた。そのとき拝殿前の鳥居から漣が姿を現した。その手には紙が結びつけられた、葉が青々と生い茂る枝が握られていた。
「――時雨様!」
「どうした、漣。ここは聖域だ。静粛にせよ」
「儀式に必要な玉串を忘れていったお方に言われたくありません! 大体、時雨様は澄花様を奥方に迎えてから浮かれ過ぎなんですよ!」
 え、と澄花は瞠目した。しかし、漣は澄花には目もくれず、つかつかと時雨に歩み寄ると榊の枝を鼻先に突きつけた。
 漣の背後では鳥居から一匹、また一匹と魚が姿を現し、宙を泳いでいく。視界の隅に映り込む不思議な光景に、漣の言葉に気を取られていた澄花は気づかなかった。
 こめかみに青筋を立てる漣に、時雨は小さく肩をすくめた。困ったようにその眉尻は下がっている。
「面目ない。漣、助かった。礼を言う」
「次はありませんからね。それと、帰ったらお説教です」
「お手柔らかに頼むよ。さて、澄花。今度こそ始めようか」
 いつの間にか境内がざわついていた。境内には明かりが灯り、人々が話し交わす声がする。
「え……いつの間にこんなに人が……? それにこの人たちは……?」
 賑やかに騒ぐ人々からは何となく水の匂いがするような気がした。感覚的に彼らは人間よりも水鞠や漣たちに近い。
「私の領域に住まう眷属たちだ。普段は本来の魚の姿を取っている者たちが多いから、澄花が知らない者ばかりだろうが、今回の儀式のために駆けつけてくれたようだ。皆、君に期待している」
 そう言われて何度も昨日から宥め続けた恐怖が再び澄花の胸に去来した。お前のせいだ。そう詰る冷たい人の目を澄花は数えきれないほど見てきた。何度経験しても、ぎゅっと胸を締め付けられる感覚には慣れない。
「我、この地を護りし水の神なり。傍らに侍る乙女は我が妻――雨に愛されし巫女なり。
 乙女よ、我に祝福を。今こそ我らが契りを果たすときぞ。我が手に恵みもたらすその力を分け与え給え」
 澄花はぎゅっと目を瞑った。何十対もの目が自分を凝視している。そのことが恥ずかしくて恐ろしくて仕方がなかった。
「――澄花」
 涼やかでどこか甘い声でそう囁くと、時雨は自分の腕の中へと澄花を抱き寄せる。そして、ひんやりとした骨張った指を澄花の頬に這わせると、彼はそっと大切なものを扱うかのように、彼女の唇の純潔を奪った。
「ん……」
 優しい感触に溶かされそうになりながらも、自分が忌み嫌ってきた力が時雨の助けになるようにと一心に祈った。時雨が澄花の力を扱う条件――それは、澄花が雨催(あまもよ)いの巫女の力を時雨のために振るいたいと心から願うことだった。
 時雨が手にした玉串の紙垂(しで)が澄花の力に反応して青く染まる。澄花の身体から淡い光の糸が無数に伸び、時雨を包んでいる。
 すうっと時雨の唇が、顔が、離れていく。顔に触れていた指が、体を抱きしめていた腕が、遠ざかっていく。
 澄花はなぜかそのことをとても残念に思った。優しげに微笑むその表情を、触れてくれる温もりを独り占めしたい。こんなときにも関わらずそんな気持ちが込み上げてきた。
 ありがとう、と囁くと時雨は拝殿へと向き直る。そして、彼は涼やかだけれど透明でどこまでも通る声で祝詞を謳った。
「――天地(あめつち)よ、我が祈りを聞け。この地は長く雨絶え、民は嘆きに沈む」
 時雨は玉串を掲げ、祈りの言葉を続けていく。その言葉の端々から時雨がどれだけ真摯にこの地のことを案じているかが心に染み込んでくるのを澄花は感じた。
「――この地に宿りし万物の生命に、天の恵みを。風よ、雲を喚び、この地に雨をもたらし給え」
 時雨の言葉に切実な響きが混ざっていく。時雨の眷属たちはどうなるかと固唾を呑んで事の趨勢を見守っている。
「――恵みの雫は大地を潤し、この地に生きるすべての生命に息吹を与えるだろう。願わくば、雨が永久(とこしえ)にこの地を潤わさんことを」
 時雨の言葉に応えるかのように、さぁっと一条の風が吹き抜けていった。風からはほのかに水の匂いが香り、時雨の眷属たちの顔が興奮を帯び始める。
「――我らの願い、天の神々に届け、干天の慈悲を賜わらん。かくて祈り、我らは待つ。恵みの雨がこの地を訪れることを――」
 時雨の青藍の双眸が眩く光り輝いた。彼の身体を包んでいた光の糸が流星のように雲ひとつない夜空を迸っていく。
 天泣だ、と誰かが言ったのを澄花の聴覚が捕らえた。ぽつ、ぽつ。冷たい雫が頬を伝うのを感じて、澄花ははっとして空を見る。冠に刺した菖蒲が湿り気を帯びた風を受けてさわさわと揺れた。
 いつの間にか、淡く光る雲が空を覆い尽くそうとしていた。地上へと光を落としていた細い月も雲間に顔を隠してしまっている。
 泣き出した空からこぼれ落ちた大粒の雫がぽたぽたと地面に染みを作っていく。刹那、ざーっと雨が降り出し、水滴が地上を叩いた。
「――時雨様!」
 袴の裾を持ち上げると、澄花は思わず時雨へと駆け寄った。雨が降って嬉しいと思ったことは、これが生まれて初めてだった。
 澄花、と時雨は駆け寄ってきた少女の名を呼ぶ。いまだに澄花の力の残滓を帯びて光る彼の両の目には泣き笑いのような色が浮かんでいた。
 時雨は思わずぎゅっと澄花の華奢な身体を抱きしめた。澄花は一瞬驚いたような顔をしたが、黙ってそれを受け入れた。
「――ありがとう、澄花。君のおかげで雨が降った。感謝してもしきれない。この地と無力な私を救ってくれて本当にありがとう」
「わたしは、大したことは何も……」
「君が私のそばにいてくれた、それは私にとってとても大きなことだ。君がいなければ私は愛するこの地に何もしてやることができなかった。ただ失われていく生命を見ていることしかできなかった」
 澄花は首筋が濡れるのを感じた。雨ではない。時雨の涙だった。
 澄花はそっと時雨の背中に自分の手を回した。自分より遥かに広い背中をまるで子供にしてやるように澄花はぽんぽんと撫でる。それくらいしか今の澄花が時雨にしてやれることはなかった。
 この人はどれだけの重圧を背負ってきたのだろう。どれだけの悔しさを味わってきたのだろう。自分の力が時雨の役に立つのなら、ここに――時雨のそばにいよう。状況に流されてではなく、初めて澄花は自分の意志でそう思えた。
 遠くで時雨の眷属たちの喝采が聞こえる。澄花は時雨と身を寄せ合ったまま雨の音を聞いていた。