(――ッ!?)
自室で文机に向かっていた時雨は、自分の領域が強力な何かに侵されたことに気づいて顔を上げた。その力の気配は時雨自身のものより遥かに強大だ。
「――漣」
混乱を気取らせない低く落ち着いた声で、時雨は自分の右腕の名を呼ぶ。彼の声と共に小さな泡がぷくぷくと宙を泳ぐ。床の間ではカキツバタが緩やかな水の流れを受けて揺れていた。
「失礼いたします」
障子が開き、チャコールグレーのスーツに白いスタンドカラーシャツを着た若い男が姿を見せた。その姿は淡く水の膜を帯びている。
「どうなさいましたか、時雨様。今しがたの件でしょうか」
よく切れる刃のように冷静な漣の言葉に、時雨はそうだと頷いた。彼は言葉にしなくても自分の意を汲んでくれて助かる。
「お前も感じたか、漣」
「はい。あれだけの強大な力ともあれば、時雨様の眷属であれば誰もが感じ取れるでしょう」
それもそうだな、と時雨は頷く。自分の眷属である水の精霊たちにはそのくらいの力はある。
「時雨様、あれをどうなさるおつもりですか。恐れながら、現在の時雨様ではあれだけの力の持ち主を祓うことは叶わないかと存じます」
わかっている、と時雨は立ち上がると浅葱色の絽着物の裾を糺した。漣に指摘されずとも、自分自身の無力さは時雨自身が一番よくわかっているつもりだった。
「あれが悪きモノとも限らない。私が見てくるから、漣はこの屋敷と紅雨のことを頼む」
「お待ちください、時雨様。そのくらいのこと、私にお任せくだされば……」
いや、と時雨は漣の言葉尻を制した。本来ならばそうすべきだということはわかっていた。だけど、今回ばかりは自分が行くべきだと時雨の直感が告げていた。
「――私が行く。行かなければならない気がするんだ」
ですが、と漣は食い下がろうとする。それ以上言ってくれるな、と時雨は首を横に振った。漣は時雨の意思を汲める分、気を回しすぎる嫌いがある。
すぐに戻る、と時雨は漣に背を向け、部屋を出ていった。時雨の薄藍の羽織の背中を見つめる漣はそれ以上、何も言わなかった。
時雨が障子を閉めた音が伝播して水を揺らす。遠ざかる時雨の足音が静かに響いていた。
時雨は沈んだ庭の石燈籠の間を抜け、早足で屋敷を出た。ちゃぽんと音を立て、頭上で水が揺れた。
何かに急かされるようにして、彼は点々と続く川底の石の上に歩を進めていく。瞳と同じ青藍の組紐で結えた長いぬばたまの髪が揺れ、黒下駄の底が砂利を踏む音が響いた。遥か高い場所で揺蕩う川面は顔を覗かせ始めた月の光を柔らかく反射している。
領域を侵した何者かの気配は川と川の境界にあった。時雨は墨江川の方角へと足を向ける。川の中をオイカワやスズキが泳いですれ違っていった。
時雨が猛川の支流である墨江川へと足を踏み入れると、古い水門の脚に引っかかるようにして、いささか古風な出立ちの少女が倒れていた。少女には意識がなく、青白い頬は朱色の水門と対照的だった。川藻がひらひらと少女の頬を撫でている。
(――彼女だ)
時雨は心臓がどくんと鳴るのを感じた。強い力を発しているのは目の前の少女に他ならなかった。
ただの人間ではない。けれども人の身である少女をこのままにすれば、遅からず命を落とすだろう。
悪いモノには見えない。時雨は少女を一旦自分の眷属にすることを決断した。そうでもしなければ彼女はこのまま水死してしまう。
時雨は少女の脇に膝を折ってしゃがみ込む。そして、彼は少女の額に手を触れると、低く落ち着いた声音で祝詞を唱え始めた。
「――清き流れの名の下に、此処に新たなる契りを結ばん。吾は此の水脈の主、水の祝福を汝に与えん」
歌うようなその声は薄い水の膜となり、少女の身体を包んでいく。彼女の額に薄い水色の紋が浮かび、溶け込んでいった。
「……ん……」
少女が身じろぎをした。気がついたか、と時雨が声をかけると、彼女はゆっくりと瞼を開いた。
「ここは……?」
「――ここは私の領域。猛川と墨江川の境界だ」
少女が身体を起こすのを手伝ってやりながら、時雨は彼女の問いに答えた。そして、今度は時雨が問いを返す。
「――君は何者だ? 私の領域で何をしている?」
「わたしは、澄花……雨霧、澄花……。わたし、死のうと思って、岩停橋から身を投げて……」
自殺? と時雨は眉を顰めた。澄花は十代後半の少女に見えるが、何がそれほど彼女を追い込んだのだろう。
「ところで……あなたは誰なんですか……?」
「――失礼した。君の名を訊く前に私が名乗るべきだったな。私は時雨。猛川の水神だ」
「……水神、様……?」
澄花の目が丸くなった。時雨はこれまで澄花が出会った男性の誰よりも美しい。人間ではなかったからなのかと思うと納得できる。
「それで、一体何があった? 君さえよければ聞かせて欲しい」
「――わたし、雨女なんです。今日もわたしのせいで修学旅行が中止になっちゃって」
悲しげに澄花は目を伏せる。彼女は躊躇いがちに身の上を語り始めた。
「昔から、学校行事も家族旅行もわたしのせいでいつも雨ばかりで。皆、最初は雨女がいるから雨が降っても仕方ないねと笑っていたんです。だけど、あまりにも雨が続くうちに、皆わたしを冷ややかな目で見るようになっていきました。
今日もそのせいで陰口を叩かれて、暴力を振るわれて。だけど、先生たちも含めて誰も庇ってなんてくれませんでした。皆わたしを疎ましく思っているから。わたしさえいなければ、って思っているから」
彼女の声にはだんだんと涙の色が混ざりつつあった。湿り気を帯びた声で彼女は話を続ける。
「学校にわたしの居場所はありません。家族だって、本当のところはどう思っているか。
わたしは皆と同じように普通に生きたかった。普通に友達と学生生活を送って、家族と笑い合って生きていたかった。でも……わたしのこの特殊な体質がそれを許してくれないんです。――わたしが雨女だから」
「――それは得難い貴重な力だ」
思わず時雨は口を挟んだ。澄花が疎んじているのは雨催いの巫女の力だ。しかし、澄花は眦を吊り上げ、思わずといったふうに語気荒く反論する。その目からは涙がぽろぽろとこぼれ落ちていて、その雫のきらめきを綺麗だと時雨は思った。
「どこがですか!? こんなのわたしにとっては呪いと同じです。あなたに何がわかるんですか」
わかっていないのは君の方だ、と時雨は青藍の双眸で澄花を見据えた。思わず澄花は涙が引っ込むのを感じた。時雨の双眸はどこまでも透き通っていて、澄花は吸い込まれてしまいそうな錯覚を覚える。
「恥ずかしながら、私は水神としては無力だ。私では乾きからこの地を守り切ることはできない。君のその力は私にとって、喉から手が出るほど欲してやまないものなんだ」
「……」
「――澄花。私と取引をしないか?」
「取引き?」
「私と夫婦となってくれないか。勿論、仮初の関係で構わない。望むものがあれば何だって与えるし、居場所が欲しいというのなら此処を居場所にすればいい。――私には君の力が必要なんだ」
「――え?」
澄花は目を瞬いた。時雨は今何を口にしたのだろう。聞き間違いでなければ夫婦になって欲しいと言われた気がする。澄花は恐る恐る訊ねた。
「……あなたは、わたしを必要としてくれるんですか? こんなわたしを受け容れてくれるんですか?」
「――無論だ。我々水の神は嘘偽りは口にしない。水が穢れるからな」
そう告げると、時雨はごつごつと骨ばった手を澄花へと差し出す。神秘的な中に混ざる男性的な色香に澄花の心臓はどくりと脈打った。
「――澄花。どうか私の手を取ってくれないか。何度でも言う。――私には君が必要だ」
躊躇いがちに澄花は自身の右手を伸ばした。小さく白いその手を時雨は絡めとった。そして、時雨は誓いの言葉を口にする。
「――この水底にて、我は汝と神婚の契りを結ばん。この身に宿る水の理をもって、雨催いの巫女を伴侶と定め、天地を結ぶ絆を、ここに成さん。
雨は空より降り、地を潤し、生命を繋ぐ。汝の祈りは我が理と重なり、結ばれし縁は、巡りゆく流れを変えん。
此の契り続く限り、総ての生命に瑞雨は恵みをもたらさん」
時雨の声は細く白い水の糸へと姿を変えていく。水の糸は絡め合った二人の手に纏わりつくと結び目を作った。それは二人の魂を契約によって結びつけるものだった。
水の糸を通じて澄花と魂が繋がるのを感じて、時雨は歓喜で震えそうになった。彼女から漂う強い雨の匂いに酔ってしまいそうだった。
これはこの地を守るために強いた仮初の関係だということを忘れてはならない。蝶々結びになった糸が水の中へ溶けていくのを見届けると、時雨は己に言い聞かせるかのように澄花に告げる。
「――澄花。私と君の結婚は成った。しかし、これは仮初の契約の関係だ。君が私を愛せずとも構わない。君が私にその力を貸してくれる限りは、何があっても君を守ろう」
その言葉に嘘はないと澄花は感じた。彼はきっと自分を傷つけない。信じたいと思えるだけのものが時雨にはあった。
「そのままの格好では風邪をひく。私の屋敷に――君の家に案内しよう」
時雨は優しい声でそう言うと、澄花をそっと立ち上がらせる。そして、時雨は澄花の手を引いて、屋敷の方へ踵を返した。澄花は抗うことなく、時雨に己を預けた。
――こうして、雨女と水神の結婚生活は幕を開けた。
かこん、と鹿おどしの音が鳴った。庭の所々に配置された岩は優しい色の苔に彩られ、水中なのに緑の世界にいるようだった。一歩歩くごとに小さなあぶくがふわふわと立ち上ってくる。
鹿おどしの水が流れる先ではすっと伸びた茎の先にカキツバタが優美な紫色の花弁を揺らしている。月明かりが差し込んでくる水面は遥か頭上で、ここは本当に川の世界なのだと澄花に実感させた。
石燈籠の間の飛び石の上を時雨に手を引かれて澄花が連れてこられたのは、堂々とした佇まいの見事な屋敷だった。わあ、と澄花は思わず息を漏らす。
黒や燻銀の瓦が何層にも重なり合った重厚感溢れる瓦葺きの屋根。白い漆喰壁に黒茶に染め上げられた檜の柱。深い軒と庇が形作る陰影からは品格とこの屋敷が重ねてきた歴史の長さを感じさせた。
がらららっと玄関の格子戸が開き、チャコールグレーのスーツに身を包んだ若い男性が姿を現した。ちょうどいい、と時雨は男性へと視線を向ける。
「澄花。紹介しよう。あれは私の右腕で……」
「――時雨様!!」
時雨の言葉を語気鋭く遮ったのは漣だった。漣はつかつかと二人のそばへと歩み寄ってくると、開口一番に時雨を咎める言葉を口にした。
「時雨様、一体、どういうおつもりですか! また私に黙って眷属をお増やしになられましたね!」
「漣、落ち着いてくれ。彼女を助けるには私の眷属とする他なかったんだ」
「いえ、落ち着いてなどいられません! 見れば、出かけられた時と魂の有り様が変わられているご様子。それに、その娘は何なのですか!?」
「彼女は澄花。私の領域に入り込んだ者であり――雨催いの巫女だ。そして、私の妻でもある」
な、と漣は言葉を失って固まった。一方の澄花も二人の会話の間で飛び交う聞き覚えのない単語に戸惑いを隠せなかった。
「眷属……? 雨催いの巫女って……?」
はぁ、と漣は溜息をついた。己の主は穏やかで善良である一方、時々言葉足らずな嫌いがある。
「……時雨様。まさか、彼女に詳しいことを何も説明しておられないのですか……?」
「仕方がないだろう。あのまま放っておけば、澄花は死んでいた。それに出会ったばかりの傷ついた彼女に複雑な祭事の話をしたところで混乱するだけだろう?」
「時雨様。事情は理解しましたが、貴方は後でお説教です。心優しいのは美徳でいらっしゃいますが、度が過ぎればそれも欠点となり得ます」
「肝に銘じるよ。それより水鞠を呼んでくれ。澄花の世話をさせたい。紅雨のところからも水霜を借りてきて、澄花の部屋を用意させてくれ」
「――は。承知いたしました」
納得いかなさげな表情を浮かべながらも、漣はこうべを垂れる。そして、土間に革靴を揃えて脱ぐと、漣は屋敷の中へ戻っていった。キィキィと時折家鳴りが響く。
入りなさい、と時雨に促され、澄花は躊躇いがちに敷居を跨ぐ。彼女の足の動きに合わせて、水が波紋を描く。その様をまるで水の衣のようだと澄花は思った。
「……お邪魔します」
「それは適切ではないな。君は私の妻――この家の女主人だ。今日から此処は君の家になったんだ」
お世話になります、と澄花は小さく呟く。いつか、自然とただいまと言えるようになる日が来るのだろうか。そんなことを思いながら、澄花は家の中へと上がり込む。
「――ようこそ、我が家へ。私は君を歓迎するよ」
時雨は白皙の美貌の口元をふっと緩めた。澄花を見つめる青藍の瞳には優しい光が浮かんでいた。
湯船に裸身を沈めると、澄花はふう、と息を吐いた。湯の温かさが冷え切った身体に染み渡っていく。澄花の視界では幾重もの水の膜が陽炎のように揺蕩っている。
(あ……いい匂い)
うっすらと紫に色づいた湯からは甘く柔らかい花の香りがする。急にこの屋敷で暮らすことになった自分の気持ちをほぐすため、水鞠が心を砕いてくれたのだろう。
「奥様、お湯加減はいかがですか?」
すりガラスの扉の向こう側で小柄な年嵩の女性の姿が揺れる。彼女は名を水鞠といい、時雨の指示で澄花の風呂と着替えの支度をしてくれていた。
「あ……その、丁度いい、です」
ありがとうございます、と扉越しに澄花は水鞠に礼を言う。いえいえ、と水鞠が微笑んだ気配がした。
「奥様のお世話ができるのは光栄なことですから。――あ、そうそう、奥様のお召し物は私のほうでお洗濯しておきますね」
「いろいろご面倒をおかけしてすみません……」
「こういうときは、"ありがとう"ですよ、奥様。ところで、奥様は一人でお着物をお召しになれますか?」
「いえ……その、一人ではちょっと難しくて……」
「でしたら、上がられたらお手伝いさせていただきますね」
ありがとうございます、と再び礼を言うと、澄花は浴室の天井を見上げた。洗ったままの髪が水の流れに誘われてふわりと広がる。
(……本当に、不思議)
川の中のはずなのに苦しくはない。宙を水泡がシャボン玉のようにきらきらと揺蕩っている。幻想的でとても不思議な光景だった。
思えば長い一日だった。朝、修学旅行に向かうために羽田空港へ赴いたけれど、台風で飛行機が飛ばなくなって。その後、家に帰るに帰れずに、岩停橋から川へと身を投げて。そして、猛川と墨江川の境界で時雨と出会い、仮初の夫婦としての契りを交わして。運命とは数奇なものだ。
先ほど、時雨や漣が口にした"眷属"や"雨催いの巫女"といった言葉。これらについても後で改めて時雨が説明してくれるらしい。否、説明させると漣が言っていた。
ふう、と澄花は息を吐いた。今は成り行きに身を任せる他ない。時雨も水鞠も悪い人ではない。漣も自分に向ける視線は厳しいが、悪意があるようには見えない。
(うん……大丈夫。少し、落ち着いたかも)
湯の温もりと香りに包まれた時間が、ほんの少し澄花の心をほぐしてくれていた。あまり水鞠を待たせてはならないと、澄花は浴槽から出る。ざぷりと薄紫色の水面が揺れ、ほんの少しひんやりとした空気が裸身を撫でる。
浴室内を満たす水がまるで生き物のように、するりと澄花の全身を包んだ。まるで水のカプセルに閉じ込められてしまったみたい。そんな感想が澄花の思考の隅を掠めていった。
「水鞠さん、そろそろ出ますね」
「替えのお下着をご用意してありますので、身につけられましたらお声がけくださいね」
そう言うと、水鞠は脱衣所の衝立の向こう側へと姿を消した。澄花はすりガラスの扉をガラガラと開くと浴室から出て、水鞠が用意してくれたタオルで全身を拭う。そして、下着と足袋を身につけると、澄花は水鞠を呼んだ。
「それではお着物を着付けさせていただきますね。紅雨様のものですので、奥様のお好みに合うかわかりませんが……」
「あの、水鞠さん。澄花でいいです。奥様って呼ばれるの、落ち着かなくて……」
「それでは、澄花様。こちらを着ていただけますか? ワンピースのように着てくださって大丈夫ですよ」
水鞠に肌襦袢を渡され、澄花はそれに袖を通した。肌襦袢を着終えると、てきぱきと水鞠は無駄のない動作で澄花に長襦袢を着付けていく。
衣紋を抜き、澄花の胸の下で水鞠は腰紐と伊達締めを締めた。横隔膜が押さえつけられ、呼吸が少し浅くなるが、少しだけ背筋がしゃんとするのを澄花は感じた。
そして、慣れた手つきで水鞠は藤色に睡蓮の意匠の着物を澄花の背後から着せかせると、背中心と裾線を合わせていく。
前幅を決め、下前を巻くと、はだけないようにまた腰紐で固定していく。あまりの工程の多さに澄花は目をまわしそうだった。
水鞠は左右の身八つ口から手を入れ、おはしょりを整えていく。そして、再び腰紐と伊達締めで胸元を固定すると、クリームイエローの帯を取り出した。
「慣れないと少し苦しいかもしれませんけど、我慢なさってくださいね」
そう言いながら、慣れた手つきで水鞠は澄花の胴に帯を二回巻き、蝶々結びにした。そして、彼女は帯の残りをきゅっと折りたたんで、結び目の裏に差し込んだ。柔らかな兵児帯が羽を広げ、儚げな少女の背中を控えめに彩っている。
「次はお髪を整えますね。時雨様にお目にかかるのですから、うんと可愛くしないと」
水鞠は櫛で澄花の髪を梳ると、二本の三つ編みを作る。そのまま両の三つ編みを逆の耳元へと回してピンで固定すると、最後に白藤がしゃらしゃらと鳴る簪を右耳の上から差し込んだ。ひんやりとした金属が地肌の上を滑ると同時に、清楚で愛らしい意匠のそれを澄花は自分をここに繋ぎ止めるための楔のように感じた。
「――ほら、できましたよ」
澄花は水鞠に手鏡を手渡され、そっとそれを覗き込む。反転した世界から、慣れない服装に身を包んだ不安げな少女がこちらを見つめ返していた。背後では淡く光る水泡がふわふわと宙を泳いでいる。
「いいですか、澄花様。笑顔はあなたを魅力的にする最強の魔法です。それを忘れないでくださいね」
水鞠の言葉に背を押されて、澄花は笑顔を作ろうとする。しかし、口角を上げようとしても表情がまるで動かない。そんな澄花に大丈夫ですよ、と水鞠は優しく声をかけた。
「さて、時雨様がお待ちです。行きましょうか」
こちらです、と水鞠は黒柿の板戸をすっと開ける。澄花は水鞠の後について脱衣所を出た。
水鞠の手腕は完璧だ。しかし、澄花はまるで服に着られているような――どこか自分が噛み合っていない気がしてならなかった。
ほんわりと淡い光を放つ水泡が宙を漂いながら、廊下を照らしている。水鞠に先導され、澄花は雨戸の閉じた廊下を歩いていた。時折、板張りの床がキシキシと鳴る。
澄花の纏った着物の裾が僅かに水の抵抗を受け、足がいつもより重く感じられた。床の上に歩を進めるたび、水に逆らうような感覚がかすかに残る。
水鞠はある部屋の前に立つと、時雨様、と障子越しに声をかけた。
「澄花様をお連れいたしました」
入りなさい、と低い男性の声が静かに返ってくる。失礼します、と澄花は障子を開ける。
文机に向かっていた男性が澄花を振り返った。時雨だった。青藍の双眸は穏やかに凪いだ夜の水底を想起させた。
「待っていたよ、澄花。水鞠はもう下がりなさい。ご苦労だった」
それでは失礼いたします、と水鞠は一礼すると、時雨の部屋の障子を閉じて去っていった。
澄花は失礼にならない程度に、時雨の部屋へとそっと視線を巡らせる。
黒檀の床の間では、青磁の花瓶に庭に咲いていたカキツバタが活けられている。その後ろに飾られた掛け軸に描かれているのは龍だろうか。
イグサの優しい香りが立ち上る畳の縁は新橋色の観世水柄で彩られている。行燈の中では淡い光を纏った水泡がふわふわと泳いでいた。
床の間とは逆側の秘色色の漆喰の壁には飾り棚が設られている。飾り棚には青海波の意匠の藍鼠の香炉が置かれており煙を燻らせている。煙からは雨が降り出す寸前の香りがした。
桐の文机の上にはガラスの水盤が置かれている。しかし、そこには水がたたえられているだけで、花は活けられていない。代わりに水盤の底には時雨の屋敷を中心に、澄花にも見覚えのある地名がびっしりと書き連ねられていた。
座りなさい、と時雨は澄花に座布団を勧める。
「失礼します」
澄花は一礼すると、座布団の横に膝をついた。慣れない着物の裾をどうにかして整えると、そっと身体を座布団の上へと移す。腰を下ろしたあと、澄花は背筋をすっと伸ばした。肩に感じる重さは着物によるものか、全身を包む水によるものか。――はたまた目の前の美しい水神から放たれる存在感によるものか。
「――澄花。すまなかった。言葉が足りないと漣にこってり絞られたよ。君もこのままだとわからないことばかりだろう。きちんと順を追って話そう」
「……お願いします」
「まずは私が君を見つけたときのことだ。君は川底で気を失っていた。そのまま放っておけばすぐにでも生命を落としかねない状況だったから、君を私の眷属にさせてもらった」
「その、眷属っていうのは何なのですか?」
「君も漣や水鞠、水霜には会っただろう? 彼らは私の眷属で、水の精霊だ。君も私の眷属となったことで水の精霊となった。――だから、この川底にいても息が苦しくないだろう?」
「あ……」
澄花の口から息が漏れる。ぷくぷくと小さな泡が宙へと解けて消えた。
ずっと不思議に思っていたが、目覚めたときから呼吸が苦しくなかったのはそういうことだったのか。腑に落ちると同時に自分が人ならざるものになってしまったという事実が恐ろしくて、澄花は自分の体を掻き抱く。柔らかな水を指先が裂いた。
怖い。気持ち悪い。そんな思いが込み上げてくる。手も足も変わらずあるにもかかわらず、自分が自分でなくなってしまったようなそんな錯覚を覚える。そんな澄花を落ち着かせようと、大丈夫だ、と時雨は静かな声で告げた。
「怖がらなくても君は君――澄花のままだ。それに君が本気で望めば、私は眷属の加護を解こう――つまり、君が望むなら人間に戻ることも可能だということだ」
時雨の言葉にほっとして、澄花は胸を撫で下ろした。強張った彼女の表情が氷解していくのを見ながら、時雨は言葉を継ぐ。
「それと、雨催いの巫女についても説明しないといけないのだったな」
時雨の落ち着いた低い声に澄花は耳を傾ける。その声は優しく屋根を叩く雨音によく似ていた。
時雨が語ったのはこのようなことだった。
太古の昔から、雲を呼び、雨の恵みを大地にもたらす力を持つ女性が時折人の世に現れるとされている。その者は雨催いの巫女と呼ばれ、歴史の片隅に名を連ねてきた。
巫女が祈りを捧げれば、日照りに苦しむ土地はたちどころに潤い、作物は勢いよく育ったという。
だが、恵みも過ぎれば人は感謝を忘れ、憎悪を覚えるようになる。
長雨により雲が天を覆い尽くす日が続けば、人々は掌を返し、悪き呪術師の仕業だと巫女へと唾を吐き、石を投げた。洪水が起きることがあれば、何の罪もない巫女を生贄として、川へ沈めることもあったという。
時は流れ、いつしか野蛮な風習こそ廃れていった。それでも人々の記憶の奥底には雨を呼ぶ女の存在が刻まれ続けた。かつては雨催いの巫女と呼ばれた存在は、名を変え、今は雨女と呼ばれている。
「わたしがその、雨催いの巫女なんですね?」
「そうだ」
澄花は表情を曇らせた。これまで自分のせいで学校行事や家族旅行が天気に恵まれなかったのは事実だ。それどころか、何でもないときでも自分が家から出ればたちどころに雨がぱらつき始める始末だ。
「わたし……自分が時雨様の仰るような大層な人物だとは思えません。いるだけで雨が降る。ただ、それだけです」
「それは、君がこれまでの巫女に比べて遥かに強い力を持っているからだろう。だから、祈りなどという手順を踏まなくても、自然と君の周りに雨雲が集まってくる」
そのせいでどれだけ周りから疎まれてきたか。辛かった。悲しかった。この力のせいで何のイベントも楽しむことができなくて。いつのころからか人の輪に入れなくなり、言葉の暴力を向けられるようになって。今日みたいに直接的な暴力を振るわれたことだってないわけじゃない。
澄花は唇を噛む。そうでもしていないと泣き出してしまいそうだった。澄花、と時雨は青藍の透き通った双眸で、表面で涙が揺蕩う彼女の黒瞳を覗き込むと静かに言葉を紡ぐ。
「君が制御のできないその力を恐れ、疎んじていることはわかっている。しかし、私たちは先ほどの婚姻を以て契約関係となった。制御できないその力の手綱を私に預けてみないか」
「時雨様に……ですか?」
「そうだ。先ほども言ったが、これは取引だ。私は君のその力が欲しい。君のその力は私に足りない力を補って余りある素晴らしい力だ。私にその力を貸してくれるのならば、君が欲するすべて――物だって、居場所だっていくらだって与えよう。これは互いにとって有意義な話だというのは、君もわかるだろう?」
こくり、と澄花は頷いた。皆に疎まれ、行き場のない澄花にとってもこれは悪い話ではない。そして、この取引を時雨が真摯に持ちかけてきていることが魂から魂に伝わってきていた。
ふ、と時雨は口元を綻ばせた。神秘的なまでの白皙の美貌が途端に静かで柔らかな印象に変わる。
「――澄花。君に出会えたのは奇跡だ。君に出会えて本当に良かった。この地は……君のおかげで救われる」
「大袈裟な……」
「大袈裟などではない。今年に入ってから、この地には数えるほどしか雨が降っていない」
「――え?」
澄花は目を瞬かせた。そんなはずはない。今日はとんでもない大雨だったし、今月だけでも幾度となく雨は降っている。
「このままでは今年もこの地は梅雨入りすることもなく、夏場は日照りと水不足に悩まされるだろう。そうすれば作物は育たず、人々は夏の暑さで弱っていくだろう。人死にだって少なからず出る。私は今年――二〇四〇年をそんな年にしたくはない」
「にせん、よんじゅう……ねん……?」
澄花は息を呑んだ。自分が生きていたのは二〇二五年のはずだ。
「そんな……嘘、ですよね……? 今は二〇二五年のはずで……」
「いや、今は二〇四〇年だ。二〇四〇年の五月二十二日だ」
二人は顔を見合わせる。そして、なるほどな、と時雨は独りごちた。
「川に呼ばれてしまう人の中には、稀に時を超えてしまう者がいる。水難事故に遭ったまま、骸が見つからずに行方不明になってしまう者がいるのは君も知っているだろう? ああいった者たちは、大概が過去や未来へと飛ばされてしまっているんだ」
妙だとは思っていたんだ、と時雨は袂から何かを取り出した。それを見て、あ、と澄花は思わず声を上げる。
「わたしのスマホ……!」
「上着のポケットに入っていたからと、水鞠から預かっていた。返しておこう」
澄花の手よりも少し大きい長方形の筐体を時雨は彼女へと手渡した。スミレとカスミソウの押し花で作られたスマホケースは紛れもなく澄花のものだ。
「すまーとふぉん、だったか。随分と古風な物を持っていると思っていたんだ。今の人たちは体内に埋め込んだまいくろちっぷとやらで、個人情報や銀行口座の管理、決済やら連絡やらまですべてやってしまうというからな。そのような端末、今は博物館か骨董品店でしか見かけないと聞く」
え、と澄花は呆気に取られた。澄花にとって、スマホは老若男女すべてが持っている生活必需品だ。しかし、時雨が告げた技術の進歩は今が二〇四〇年であるという事実を裏付けするに足るものだった。
「それに、制服の着こなしも今の時代にしてはやけに古めかしかった。しかし、君が時を超えてやってきたというのなら、すべてのことに説明がつく」
時雨は淡々とそう言ってのけたが、澄花は混乱で目の前が真っ暗になりそうだった。
今が十五年後の世界だということは理解した。きっといまごろ地上では妹の陽菜は立派な社会人になっている。両親はまだ嘱託再雇用でまだ働いているか、年金暮らしをしているかもしれない。十五年というのはそれだけの年月だ。
けれど、十五年前の世界では自分は一体どういう扱いになっているのか。入水自殺? それとも単なる行方不明? 家族はどう思っているのだろうか。学校は? 警察は? 自分は果たして探してもらえるのだろうか。それともいなくなってせいせいしたと言われるだけなのだろうか。
ニュースになったり、自宅に記者が詰めかけたりしないだろうか。まだ小学生の陽菜にまで、影響が及ばないとも限らない。学校で陽菜が友達に何か言われたり、記者に付き纏われたりしないか心配だった。
「気分が悪そうだな。今夜はこれまでにしよう。水霜が部屋を調えてくれたはずだ。部屋まで送っていく」
時雨は顔色が悪い澄花を気遣って声をかける。澄花の華奢な背中と膝の裏に手を回して抱き上げると、時雨は立ち上がった。
彼は障子を開けると、澄花を抱きかかえたまま部屋を出た。部屋の中では無数の水泡が揺蕩っている。藍鼠の香炉からは降り出す前の雨の香りが漂い続けていた。
明かりの消えた部屋の中、澄花は格子状に組まれた天井を見つめていた。暗闇の中でも淡い光を纏った水泡がふわふわと漂っているのがわかる。ふう、と小さく息を漏らすと、シャボン玉のように宙にあぶくが生み出された。
取手に桜の意匠があしらわれた白木の桐箪笥。揃いの意匠の鏡台の上には練り香水や櫛の入った螺鈿細工の小箱が置かれている。障子にも桜の透かし彫りが施されており、白藤色の漆喰壁に掛けられた掛け軸に金魚は今にでも宙を泳ぎだしそうだった。
今は壁際に寄せられている猫脚の文机は丸みを帯びたころんとしたフォルムが愛らしい。これらすべてが今日突然転がり込んできた自分のために用意されたのだと思うと、何だか身分不相応で勿体無いような気がした。
澄花は寝返りを打った。枕と掛け布団は若紫の手毬柄で、布地に描かれた丸い模様が水泡を彷彿とさせる。背中を受け止める敷布団は水の中に沈んでいくかのような柔らかさがあった。改めてここは水神の屋敷なのだと澄花は認識する。
ここは二〇四〇年の世界で、自分は時雨の仮初の妻となった。そして、ここでは自分は雨催いの巫女と呼ばれる存在で、今や人間ではない。時雨が嘘偽りを口にしていないことだけはわかったが、それでも信じられない思いだった。
(時雨様はわたしを見つけて、必要としてくれた)
長年自分を悩ませてきた雨女としての力を誰かが必要としてくれる日が来るなど、夢にも思っていなかった。この力は自分にとって疎ましいもの以外の何物でもなかったのだから。
あのとき、時雨の手を取った自分の判断が正しかったのかどうかはわからない。流されるようにして彼と夫婦になったが、これでよかったのだろうか。
けれど、彼のことは信頼していいと自分の直感が告げていた。あんなにまっすぐな透明な目で嘘をつく人はいない。彼のことを異性として愛する日が来るかどうかはまだわからないけれど、彼のそばにいることは嫌ではないような気がした。
(ここが、わたしの居場所になればいい――)
気にかかることはいろいろある。けれど、今はそのことだけを祈りながら、澄花は目を閉じた。
真っ暗になった世界の中、さらさらと穏やかに流れていく川の音が澄花の聴覚を満たす。不安に揺れていた心がほんの少しずつ癒やされていくのを感じる。静かで穏やかな川の音はまるで時雨の有り様のようだった。
おやすみなさい、と澄花は誰に向けてでもなく口の中で呟く。そして、彼女はせせらぐ水の音に身を委ね、眠りの闇の向こう側へと意識を手放した。
(……また、水嵩が減っている)
時雨は文机に向かい、水盤を見つめていた。猛川の水嵩を示す、水盤の水量が減っている。
上流域を司る水神からの報せを運んできた魚も言っていた。もう上流は駄目だと。河口に近いこの地域もあとどれだけ護れるだろう。
今の時雨にできるのは澄花の力に縋ることだけだ。彼女の雨催いの巫女の力は、近年悩まされ続けている日照りによる水不足を解決し得る最後の切り札だった。
今日、時雨は澄花を眷属とし、妻に迎えた。しかし、二人の間には男女としての情があるわけではない。澄花を手元に置いておくためには、彼女に嫌われるようなことがあってはならない。彼女が望む言葉をかけ、望むものを与え続ける必要があった。
(この川を――この地域に生きるすべての生命を守るためなら、私はなんだってする。――私はこの地を守る水神なのだから)
澄花は一体どんなものを好むのだろうか。好きな食べ物は? 好きな色は? 好きな花は? 今の自分は彼女が雨催いの巫女であるということと、その力を疎んで川に身を投げたこと以外何も知らない。
漣に言って何か気の利いたものを用意させようか。それとも水鞠に頼んで彼女が好きなものを聞き出してもらおうか。宙を揺蕩う水泡の淡い光を見つめながら、時雨はそんなことを考える。
(――いや、やめておこう)
澄花の夫は自分だ。仮初の契約上の関係とはいえ、彼女を繋ぎ止める努力は自分でするべきだ。
明日は彼女に何を贈ろうか。彼女は喜ぶだろうか。それとも戸惑うのだろうか。
先ほど、自分の部屋を訪れたときの澄花はとても愛らしかった。水鞠が紅雨の着物を借りてきて支度をしたのだろうが、彼女のために誂えたかのように似合っていた。そんな彼女に贈るならば――
この川の現状に思い詰めてばかりいた毎日に、ほんの少し彩りが生まれた気がして時雨は口元を綻ばせる。彼の青藍の双眸にはいつの間にか優しい光が宿っていた。
自室で文机に向かっていた時雨は、自分の領域が強力な何かに侵されたことに気づいて顔を上げた。その力の気配は時雨自身のものより遥かに強大だ。
「――漣」
混乱を気取らせない低く落ち着いた声で、時雨は自分の右腕の名を呼ぶ。彼の声と共に小さな泡がぷくぷくと宙を泳ぐ。床の間ではカキツバタが緩やかな水の流れを受けて揺れていた。
「失礼いたします」
障子が開き、チャコールグレーのスーツに白いスタンドカラーシャツを着た若い男が姿を見せた。その姿は淡く水の膜を帯びている。
「どうなさいましたか、時雨様。今しがたの件でしょうか」
よく切れる刃のように冷静な漣の言葉に、時雨はそうだと頷いた。彼は言葉にしなくても自分の意を汲んでくれて助かる。
「お前も感じたか、漣」
「はい。あれだけの強大な力ともあれば、時雨様の眷属であれば誰もが感じ取れるでしょう」
それもそうだな、と時雨は頷く。自分の眷属である水の精霊たちにはそのくらいの力はある。
「時雨様、あれをどうなさるおつもりですか。恐れながら、現在の時雨様ではあれだけの力の持ち主を祓うことは叶わないかと存じます」
わかっている、と時雨は立ち上がると浅葱色の絽着物の裾を糺した。漣に指摘されずとも、自分自身の無力さは時雨自身が一番よくわかっているつもりだった。
「あれが悪きモノとも限らない。私が見てくるから、漣はこの屋敷と紅雨のことを頼む」
「お待ちください、時雨様。そのくらいのこと、私にお任せくだされば……」
いや、と時雨は漣の言葉尻を制した。本来ならばそうすべきだということはわかっていた。だけど、今回ばかりは自分が行くべきだと時雨の直感が告げていた。
「――私が行く。行かなければならない気がするんだ」
ですが、と漣は食い下がろうとする。それ以上言ってくれるな、と時雨は首を横に振った。漣は時雨の意思を汲める分、気を回しすぎる嫌いがある。
すぐに戻る、と時雨は漣に背を向け、部屋を出ていった。時雨の薄藍の羽織の背中を見つめる漣はそれ以上、何も言わなかった。
時雨が障子を閉めた音が伝播して水を揺らす。遠ざかる時雨の足音が静かに響いていた。
時雨は沈んだ庭の石燈籠の間を抜け、早足で屋敷を出た。ちゃぽんと音を立て、頭上で水が揺れた。
何かに急かされるようにして、彼は点々と続く川底の石の上に歩を進めていく。瞳と同じ青藍の組紐で結えた長いぬばたまの髪が揺れ、黒下駄の底が砂利を踏む音が響いた。遥か高い場所で揺蕩う川面は顔を覗かせ始めた月の光を柔らかく反射している。
領域を侵した何者かの気配は川と川の境界にあった。時雨は墨江川の方角へと足を向ける。川の中をオイカワやスズキが泳いですれ違っていった。
時雨が猛川の支流である墨江川へと足を踏み入れると、古い水門の脚に引っかかるようにして、いささか古風な出立ちの少女が倒れていた。少女には意識がなく、青白い頬は朱色の水門と対照的だった。川藻がひらひらと少女の頬を撫でている。
(――彼女だ)
時雨は心臓がどくんと鳴るのを感じた。強い力を発しているのは目の前の少女に他ならなかった。
ただの人間ではない。けれども人の身である少女をこのままにすれば、遅からず命を落とすだろう。
悪いモノには見えない。時雨は少女を一旦自分の眷属にすることを決断した。そうでもしなければ彼女はこのまま水死してしまう。
時雨は少女の脇に膝を折ってしゃがみ込む。そして、彼は少女の額に手を触れると、低く落ち着いた声音で祝詞を唱え始めた。
「――清き流れの名の下に、此処に新たなる契りを結ばん。吾は此の水脈の主、水の祝福を汝に与えん」
歌うようなその声は薄い水の膜となり、少女の身体を包んでいく。彼女の額に薄い水色の紋が浮かび、溶け込んでいった。
「……ん……」
少女が身じろぎをした。気がついたか、と時雨が声をかけると、彼女はゆっくりと瞼を開いた。
「ここは……?」
「――ここは私の領域。猛川と墨江川の境界だ」
少女が身体を起こすのを手伝ってやりながら、時雨は彼女の問いに答えた。そして、今度は時雨が問いを返す。
「――君は何者だ? 私の領域で何をしている?」
「わたしは、澄花……雨霧、澄花……。わたし、死のうと思って、岩停橋から身を投げて……」
自殺? と時雨は眉を顰めた。澄花は十代後半の少女に見えるが、何がそれほど彼女を追い込んだのだろう。
「ところで……あなたは誰なんですか……?」
「――失礼した。君の名を訊く前に私が名乗るべきだったな。私は時雨。猛川の水神だ」
「……水神、様……?」
澄花の目が丸くなった。時雨はこれまで澄花が出会った男性の誰よりも美しい。人間ではなかったからなのかと思うと納得できる。
「それで、一体何があった? 君さえよければ聞かせて欲しい」
「――わたし、雨女なんです。今日もわたしのせいで修学旅行が中止になっちゃって」
悲しげに澄花は目を伏せる。彼女は躊躇いがちに身の上を語り始めた。
「昔から、学校行事も家族旅行もわたしのせいでいつも雨ばかりで。皆、最初は雨女がいるから雨が降っても仕方ないねと笑っていたんです。だけど、あまりにも雨が続くうちに、皆わたしを冷ややかな目で見るようになっていきました。
今日もそのせいで陰口を叩かれて、暴力を振るわれて。だけど、先生たちも含めて誰も庇ってなんてくれませんでした。皆わたしを疎ましく思っているから。わたしさえいなければ、って思っているから」
彼女の声にはだんだんと涙の色が混ざりつつあった。湿り気を帯びた声で彼女は話を続ける。
「学校にわたしの居場所はありません。家族だって、本当のところはどう思っているか。
わたしは皆と同じように普通に生きたかった。普通に友達と学生生活を送って、家族と笑い合って生きていたかった。でも……わたしのこの特殊な体質がそれを許してくれないんです。――わたしが雨女だから」
「――それは得難い貴重な力だ」
思わず時雨は口を挟んだ。澄花が疎んじているのは雨催いの巫女の力だ。しかし、澄花は眦を吊り上げ、思わずといったふうに語気荒く反論する。その目からは涙がぽろぽろとこぼれ落ちていて、その雫のきらめきを綺麗だと時雨は思った。
「どこがですか!? こんなのわたしにとっては呪いと同じです。あなたに何がわかるんですか」
わかっていないのは君の方だ、と時雨は青藍の双眸で澄花を見据えた。思わず澄花は涙が引っ込むのを感じた。時雨の双眸はどこまでも透き通っていて、澄花は吸い込まれてしまいそうな錯覚を覚える。
「恥ずかしながら、私は水神としては無力だ。私では乾きからこの地を守り切ることはできない。君のその力は私にとって、喉から手が出るほど欲してやまないものなんだ」
「……」
「――澄花。私と取引をしないか?」
「取引き?」
「私と夫婦となってくれないか。勿論、仮初の関係で構わない。望むものがあれば何だって与えるし、居場所が欲しいというのなら此処を居場所にすればいい。――私には君の力が必要なんだ」
「――え?」
澄花は目を瞬いた。時雨は今何を口にしたのだろう。聞き間違いでなければ夫婦になって欲しいと言われた気がする。澄花は恐る恐る訊ねた。
「……あなたは、わたしを必要としてくれるんですか? こんなわたしを受け容れてくれるんですか?」
「――無論だ。我々水の神は嘘偽りは口にしない。水が穢れるからな」
そう告げると、時雨はごつごつと骨ばった手を澄花へと差し出す。神秘的な中に混ざる男性的な色香に澄花の心臓はどくりと脈打った。
「――澄花。どうか私の手を取ってくれないか。何度でも言う。――私には君が必要だ」
躊躇いがちに澄花は自身の右手を伸ばした。小さく白いその手を時雨は絡めとった。そして、時雨は誓いの言葉を口にする。
「――この水底にて、我は汝と神婚の契りを結ばん。この身に宿る水の理をもって、雨催いの巫女を伴侶と定め、天地を結ぶ絆を、ここに成さん。
雨は空より降り、地を潤し、生命を繋ぐ。汝の祈りは我が理と重なり、結ばれし縁は、巡りゆく流れを変えん。
此の契り続く限り、総ての生命に瑞雨は恵みをもたらさん」
時雨の声は細く白い水の糸へと姿を変えていく。水の糸は絡め合った二人の手に纏わりつくと結び目を作った。それは二人の魂を契約によって結びつけるものだった。
水の糸を通じて澄花と魂が繋がるのを感じて、時雨は歓喜で震えそうになった。彼女から漂う強い雨の匂いに酔ってしまいそうだった。
これはこの地を守るために強いた仮初の関係だということを忘れてはならない。蝶々結びになった糸が水の中へ溶けていくのを見届けると、時雨は己に言い聞かせるかのように澄花に告げる。
「――澄花。私と君の結婚は成った。しかし、これは仮初の契約の関係だ。君が私を愛せずとも構わない。君が私にその力を貸してくれる限りは、何があっても君を守ろう」
その言葉に嘘はないと澄花は感じた。彼はきっと自分を傷つけない。信じたいと思えるだけのものが時雨にはあった。
「そのままの格好では風邪をひく。私の屋敷に――君の家に案内しよう」
時雨は優しい声でそう言うと、澄花をそっと立ち上がらせる。そして、時雨は澄花の手を引いて、屋敷の方へ踵を返した。澄花は抗うことなく、時雨に己を預けた。
――こうして、雨女と水神の結婚生活は幕を開けた。
かこん、と鹿おどしの音が鳴った。庭の所々に配置された岩は優しい色の苔に彩られ、水中なのに緑の世界にいるようだった。一歩歩くごとに小さなあぶくがふわふわと立ち上ってくる。
鹿おどしの水が流れる先ではすっと伸びた茎の先にカキツバタが優美な紫色の花弁を揺らしている。月明かりが差し込んでくる水面は遥か頭上で、ここは本当に川の世界なのだと澄花に実感させた。
石燈籠の間の飛び石の上を時雨に手を引かれて澄花が連れてこられたのは、堂々とした佇まいの見事な屋敷だった。わあ、と澄花は思わず息を漏らす。
黒や燻銀の瓦が何層にも重なり合った重厚感溢れる瓦葺きの屋根。白い漆喰壁に黒茶に染め上げられた檜の柱。深い軒と庇が形作る陰影からは品格とこの屋敷が重ねてきた歴史の長さを感じさせた。
がらららっと玄関の格子戸が開き、チャコールグレーのスーツに身を包んだ若い男性が姿を現した。ちょうどいい、と時雨は男性へと視線を向ける。
「澄花。紹介しよう。あれは私の右腕で……」
「――時雨様!!」
時雨の言葉を語気鋭く遮ったのは漣だった。漣はつかつかと二人のそばへと歩み寄ってくると、開口一番に時雨を咎める言葉を口にした。
「時雨様、一体、どういうおつもりですか! また私に黙って眷属をお増やしになられましたね!」
「漣、落ち着いてくれ。彼女を助けるには私の眷属とする他なかったんだ」
「いえ、落ち着いてなどいられません! 見れば、出かけられた時と魂の有り様が変わられているご様子。それに、その娘は何なのですか!?」
「彼女は澄花。私の領域に入り込んだ者であり――雨催いの巫女だ。そして、私の妻でもある」
な、と漣は言葉を失って固まった。一方の澄花も二人の会話の間で飛び交う聞き覚えのない単語に戸惑いを隠せなかった。
「眷属……? 雨催いの巫女って……?」
はぁ、と漣は溜息をついた。己の主は穏やかで善良である一方、時々言葉足らずな嫌いがある。
「……時雨様。まさか、彼女に詳しいことを何も説明しておられないのですか……?」
「仕方がないだろう。あのまま放っておけば、澄花は死んでいた。それに出会ったばかりの傷ついた彼女に複雑な祭事の話をしたところで混乱するだけだろう?」
「時雨様。事情は理解しましたが、貴方は後でお説教です。心優しいのは美徳でいらっしゃいますが、度が過ぎればそれも欠点となり得ます」
「肝に銘じるよ。それより水鞠を呼んでくれ。澄花の世話をさせたい。紅雨のところからも水霜を借りてきて、澄花の部屋を用意させてくれ」
「――は。承知いたしました」
納得いかなさげな表情を浮かべながらも、漣はこうべを垂れる。そして、土間に革靴を揃えて脱ぐと、漣は屋敷の中へ戻っていった。キィキィと時折家鳴りが響く。
入りなさい、と時雨に促され、澄花は躊躇いがちに敷居を跨ぐ。彼女の足の動きに合わせて、水が波紋を描く。その様をまるで水の衣のようだと澄花は思った。
「……お邪魔します」
「それは適切ではないな。君は私の妻――この家の女主人だ。今日から此処は君の家になったんだ」
お世話になります、と澄花は小さく呟く。いつか、自然とただいまと言えるようになる日が来るのだろうか。そんなことを思いながら、澄花は家の中へと上がり込む。
「――ようこそ、我が家へ。私は君を歓迎するよ」
時雨は白皙の美貌の口元をふっと緩めた。澄花を見つめる青藍の瞳には優しい光が浮かんでいた。
湯船に裸身を沈めると、澄花はふう、と息を吐いた。湯の温かさが冷え切った身体に染み渡っていく。澄花の視界では幾重もの水の膜が陽炎のように揺蕩っている。
(あ……いい匂い)
うっすらと紫に色づいた湯からは甘く柔らかい花の香りがする。急にこの屋敷で暮らすことになった自分の気持ちをほぐすため、水鞠が心を砕いてくれたのだろう。
「奥様、お湯加減はいかがですか?」
すりガラスの扉の向こう側で小柄な年嵩の女性の姿が揺れる。彼女は名を水鞠といい、時雨の指示で澄花の風呂と着替えの支度をしてくれていた。
「あ……その、丁度いい、です」
ありがとうございます、と扉越しに澄花は水鞠に礼を言う。いえいえ、と水鞠が微笑んだ気配がした。
「奥様のお世話ができるのは光栄なことですから。――あ、そうそう、奥様のお召し物は私のほうでお洗濯しておきますね」
「いろいろご面倒をおかけしてすみません……」
「こういうときは、"ありがとう"ですよ、奥様。ところで、奥様は一人でお着物をお召しになれますか?」
「いえ……その、一人ではちょっと難しくて……」
「でしたら、上がられたらお手伝いさせていただきますね」
ありがとうございます、と再び礼を言うと、澄花は浴室の天井を見上げた。洗ったままの髪が水の流れに誘われてふわりと広がる。
(……本当に、不思議)
川の中のはずなのに苦しくはない。宙を水泡がシャボン玉のようにきらきらと揺蕩っている。幻想的でとても不思議な光景だった。
思えば長い一日だった。朝、修学旅行に向かうために羽田空港へ赴いたけれど、台風で飛行機が飛ばなくなって。その後、家に帰るに帰れずに、岩停橋から川へと身を投げて。そして、猛川と墨江川の境界で時雨と出会い、仮初の夫婦としての契りを交わして。運命とは数奇なものだ。
先ほど、時雨や漣が口にした"眷属"や"雨催いの巫女"といった言葉。これらについても後で改めて時雨が説明してくれるらしい。否、説明させると漣が言っていた。
ふう、と澄花は息を吐いた。今は成り行きに身を任せる他ない。時雨も水鞠も悪い人ではない。漣も自分に向ける視線は厳しいが、悪意があるようには見えない。
(うん……大丈夫。少し、落ち着いたかも)
湯の温もりと香りに包まれた時間が、ほんの少し澄花の心をほぐしてくれていた。あまり水鞠を待たせてはならないと、澄花は浴槽から出る。ざぷりと薄紫色の水面が揺れ、ほんの少しひんやりとした空気が裸身を撫でる。
浴室内を満たす水がまるで生き物のように、するりと澄花の全身を包んだ。まるで水のカプセルに閉じ込められてしまったみたい。そんな感想が澄花の思考の隅を掠めていった。
「水鞠さん、そろそろ出ますね」
「替えのお下着をご用意してありますので、身につけられましたらお声がけくださいね」
そう言うと、水鞠は脱衣所の衝立の向こう側へと姿を消した。澄花はすりガラスの扉をガラガラと開くと浴室から出て、水鞠が用意してくれたタオルで全身を拭う。そして、下着と足袋を身につけると、澄花は水鞠を呼んだ。
「それではお着物を着付けさせていただきますね。紅雨様のものですので、奥様のお好みに合うかわかりませんが……」
「あの、水鞠さん。澄花でいいです。奥様って呼ばれるの、落ち着かなくて……」
「それでは、澄花様。こちらを着ていただけますか? ワンピースのように着てくださって大丈夫ですよ」
水鞠に肌襦袢を渡され、澄花はそれに袖を通した。肌襦袢を着終えると、てきぱきと水鞠は無駄のない動作で澄花に長襦袢を着付けていく。
衣紋を抜き、澄花の胸の下で水鞠は腰紐と伊達締めを締めた。横隔膜が押さえつけられ、呼吸が少し浅くなるが、少しだけ背筋がしゃんとするのを澄花は感じた。
そして、慣れた手つきで水鞠は藤色に睡蓮の意匠の着物を澄花の背後から着せかせると、背中心と裾線を合わせていく。
前幅を決め、下前を巻くと、はだけないようにまた腰紐で固定していく。あまりの工程の多さに澄花は目をまわしそうだった。
水鞠は左右の身八つ口から手を入れ、おはしょりを整えていく。そして、再び腰紐と伊達締めで胸元を固定すると、クリームイエローの帯を取り出した。
「慣れないと少し苦しいかもしれませんけど、我慢なさってくださいね」
そう言いながら、慣れた手つきで水鞠は澄花の胴に帯を二回巻き、蝶々結びにした。そして、彼女は帯の残りをきゅっと折りたたんで、結び目の裏に差し込んだ。柔らかな兵児帯が羽を広げ、儚げな少女の背中を控えめに彩っている。
「次はお髪を整えますね。時雨様にお目にかかるのですから、うんと可愛くしないと」
水鞠は櫛で澄花の髪を梳ると、二本の三つ編みを作る。そのまま両の三つ編みを逆の耳元へと回してピンで固定すると、最後に白藤がしゃらしゃらと鳴る簪を右耳の上から差し込んだ。ひんやりとした金属が地肌の上を滑ると同時に、清楚で愛らしい意匠のそれを澄花は自分をここに繋ぎ止めるための楔のように感じた。
「――ほら、できましたよ」
澄花は水鞠に手鏡を手渡され、そっとそれを覗き込む。反転した世界から、慣れない服装に身を包んだ不安げな少女がこちらを見つめ返していた。背後では淡く光る水泡がふわふわと宙を泳いでいる。
「いいですか、澄花様。笑顔はあなたを魅力的にする最強の魔法です。それを忘れないでくださいね」
水鞠の言葉に背を押されて、澄花は笑顔を作ろうとする。しかし、口角を上げようとしても表情がまるで動かない。そんな澄花に大丈夫ですよ、と水鞠は優しく声をかけた。
「さて、時雨様がお待ちです。行きましょうか」
こちらです、と水鞠は黒柿の板戸をすっと開ける。澄花は水鞠の後について脱衣所を出た。
水鞠の手腕は完璧だ。しかし、澄花はまるで服に着られているような――どこか自分が噛み合っていない気がしてならなかった。
ほんわりと淡い光を放つ水泡が宙を漂いながら、廊下を照らしている。水鞠に先導され、澄花は雨戸の閉じた廊下を歩いていた。時折、板張りの床がキシキシと鳴る。
澄花の纏った着物の裾が僅かに水の抵抗を受け、足がいつもより重く感じられた。床の上に歩を進めるたび、水に逆らうような感覚がかすかに残る。
水鞠はある部屋の前に立つと、時雨様、と障子越しに声をかけた。
「澄花様をお連れいたしました」
入りなさい、と低い男性の声が静かに返ってくる。失礼します、と澄花は障子を開ける。
文机に向かっていた男性が澄花を振り返った。時雨だった。青藍の双眸は穏やかに凪いだ夜の水底を想起させた。
「待っていたよ、澄花。水鞠はもう下がりなさい。ご苦労だった」
それでは失礼いたします、と水鞠は一礼すると、時雨の部屋の障子を閉じて去っていった。
澄花は失礼にならない程度に、時雨の部屋へとそっと視線を巡らせる。
黒檀の床の間では、青磁の花瓶に庭に咲いていたカキツバタが活けられている。その後ろに飾られた掛け軸に描かれているのは龍だろうか。
イグサの優しい香りが立ち上る畳の縁は新橋色の観世水柄で彩られている。行燈の中では淡い光を纏った水泡がふわふわと泳いでいた。
床の間とは逆側の秘色色の漆喰の壁には飾り棚が設られている。飾り棚には青海波の意匠の藍鼠の香炉が置かれており煙を燻らせている。煙からは雨が降り出す寸前の香りがした。
桐の文机の上にはガラスの水盤が置かれている。しかし、そこには水がたたえられているだけで、花は活けられていない。代わりに水盤の底には時雨の屋敷を中心に、澄花にも見覚えのある地名がびっしりと書き連ねられていた。
座りなさい、と時雨は澄花に座布団を勧める。
「失礼します」
澄花は一礼すると、座布団の横に膝をついた。慣れない着物の裾をどうにかして整えると、そっと身体を座布団の上へと移す。腰を下ろしたあと、澄花は背筋をすっと伸ばした。肩に感じる重さは着物によるものか、全身を包む水によるものか。――はたまた目の前の美しい水神から放たれる存在感によるものか。
「――澄花。すまなかった。言葉が足りないと漣にこってり絞られたよ。君もこのままだとわからないことばかりだろう。きちんと順を追って話そう」
「……お願いします」
「まずは私が君を見つけたときのことだ。君は川底で気を失っていた。そのまま放っておけばすぐにでも生命を落としかねない状況だったから、君を私の眷属にさせてもらった」
「その、眷属っていうのは何なのですか?」
「君も漣や水鞠、水霜には会っただろう? 彼らは私の眷属で、水の精霊だ。君も私の眷属となったことで水の精霊となった。――だから、この川底にいても息が苦しくないだろう?」
「あ……」
澄花の口から息が漏れる。ぷくぷくと小さな泡が宙へと解けて消えた。
ずっと不思議に思っていたが、目覚めたときから呼吸が苦しくなかったのはそういうことだったのか。腑に落ちると同時に自分が人ならざるものになってしまったという事実が恐ろしくて、澄花は自分の体を掻き抱く。柔らかな水を指先が裂いた。
怖い。気持ち悪い。そんな思いが込み上げてくる。手も足も変わらずあるにもかかわらず、自分が自分でなくなってしまったようなそんな錯覚を覚える。そんな澄花を落ち着かせようと、大丈夫だ、と時雨は静かな声で告げた。
「怖がらなくても君は君――澄花のままだ。それに君が本気で望めば、私は眷属の加護を解こう――つまり、君が望むなら人間に戻ることも可能だということだ」
時雨の言葉にほっとして、澄花は胸を撫で下ろした。強張った彼女の表情が氷解していくのを見ながら、時雨は言葉を継ぐ。
「それと、雨催いの巫女についても説明しないといけないのだったな」
時雨の落ち着いた低い声に澄花は耳を傾ける。その声は優しく屋根を叩く雨音によく似ていた。
時雨が語ったのはこのようなことだった。
太古の昔から、雲を呼び、雨の恵みを大地にもたらす力を持つ女性が時折人の世に現れるとされている。その者は雨催いの巫女と呼ばれ、歴史の片隅に名を連ねてきた。
巫女が祈りを捧げれば、日照りに苦しむ土地はたちどころに潤い、作物は勢いよく育ったという。
だが、恵みも過ぎれば人は感謝を忘れ、憎悪を覚えるようになる。
長雨により雲が天を覆い尽くす日が続けば、人々は掌を返し、悪き呪術師の仕業だと巫女へと唾を吐き、石を投げた。洪水が起きることがあれば、何の罪もない巫女を生贄として、川へ沈めることもあったという。
時は流れ、いつしか野蛮な風習こそ廃れていった。それでも人々の記憶の奥底には雨を呼ぶ女の存在が刻まれ続けた。かつては雨催いの巫女と呼ばれた存在は、名を変え、今は雨女と呼ばれている。
「わたしがその、雨催いの巫女なんですね?」
「そうだ」
澄花は表情を曇らせた。これまで自分のせいで学校行事や家族旅行が天気に恵まれなかったのは事実だ。それどころか、何でもないときでも自分が家から出ればたちどころに雨がぱらつき始める始末だ。
「わたし……自分が時雨様の仰るような大層な人物だとは思えません。いるだけで雨が降る。ただ、それだけです」
「それは、君がこれまでの巫女に比べて遥かに強い力を持っているからだろう。だから、祈りなどという手順を踏まなくても、自然と君の周りに雨雲が集まってくる」
そのせいでどれだけ周りから疎まれてきたか。辛かった。悲しかった。この力のせいで何のイベントも楽しむことができなくて。いつのころからか人の輪に入れなくなり、言葉の暴力を向けられるようになって。今日みたいに直接的な暴力を振るわれたことだってないわけじゃない。
澄花は唇を噛む。そうでもしていないと泣き出してしまいそうだった。澄花、と時雨は青藍の透き通った双眸で、表面で涙が揺蕩う彼女の黒瞳を覗き込むと静かに言葉を紡ぐ。
「君が制御のできないその力を恐れ、疎んじていることはわかっている。しかし、私たちは先ほどの婚姻を以て契約関係となった。制御できないその力の手綱を私に預けてみないか」
「時雨様に……ですか?」
「そうだ。先ほども言ったが、これは取引だ。私は君のその力が欲しい。君のその力は私に足りない力を補って余りある素晴らしい力だ。私にその力を貸してくれるのならば、君が欲するすべて――物だって、居場所だっていくらだって与えよう。これは互いにとって有意義な話だというのは、君もわかるだろう?」
こくり、と澄花は頷いた。皆に疎まれ、行き場のない澄花にとってもこれは悪い話ではない。そして、この取引を時雨が真摯に持ちかけてきていることが魂から魂に伝わってきていた。
ふ、と時雨は口元を綻ばせた。神秘的なまでの白皙の美貌が途端に静かで柔らかな印象に変わる。
「――澄花。君に出会えたのは奇跡だ。君に出会えて本当に良かった。この地は……君のおかげで救われる」
「大袈裟な……」
「大袈裟などではない。今年に入ってから、この地には数えるほどしか雨が降っていない」
「――え?」
澄花は目を瞬かせた。そんなはずはない。今日はとんでもない大雨だったし、今月だけでも幾度となく雨は降っている。
「このままでは今年もこの地は梅雨入りすることもなく、夏場は日照りと水不足に悩まされるだろう。そうすれば作物は育たず、人々は夏の暑さで弱っていくだろう。人死にだって少なからず出る。私は今年――二〇四〇年をそんな年にしたくはない」
「にせん、よんじゅう……ねん……?」
澄花は息を呑んだ。自分が生きていたのは二〇二五年のはずだ。
「そんな……嘘、ですよね……? 今は二〇二五年のはずで……」
「いや、今は二〇四〇年だ。二〇四〇年の五月二十二日だ」
二人は顔を見合わせる。そして、なるほどな、と時雨は独りごちた。
「川に呼ばれてしまう人の中には、稀に時を超えてしまう者がいる。水難事故に遭ったまま、骸が見つからずに行方不明になってしまう者がいるのは君も知っているだろう? ああいった者たちは、大概が過去や未来へと飛ばされてしまっているんだ」
妙だとは思っていたんだ、と時雨は袂から何かを取り出した。それを見て、あ、と澄花は思わず声を上げる。
「わたしのスマホ……!」
「上着のポケットに入っていたからと、水鞠から預かっていた。返しておこう」
澄花の手よりも少し大きい長方形の筐体を時雨は彼女へと手渡した。スミレとカスミソウの押し花で作られたスマホケースは紛れもなく澄花のものだ。
「すまーとふぉん、だったか。随分と古風な物を持っていると思っていたんだ。今の人たちは体内に埋め込んだまいくろちっぷとやらで、個人情報や銀行口座の管理、決済やら連絡やらまですべてやってしまうというからな。そのような端末、今は博物館か骨董品店でしか見かけないと聞く」
え、と澄花は呆気に取られた。澄花にとって、スマホは老若男女すべてが持っている生活必需品だ。しかし、時雨が告げた技術の進歩は今が二〇四〇年であるという事実を裏付けするに足るものだった。
「それに、制服の着こなしも今の時代にしてはやけに古めかしかった。しかし、君が時を超えてやってきたというのなら、すべてのことに説明がつく」
時雨は淡々とそう言ってのけたが、澄花は混乱で目の前が真っ暗になりそうだった。
今が十五年後の世界だということは理解した。きっといまごろ地上では妹の陽菜は立派な社会人になっている。両親はまだ嘱託再雇用でまだ働いているか、年金暮らしをしているかもしれない。十五年というのはそれだけの年月だ。
けれど、十五年前の世界では自分は一体どういう扱いになっているのか。入水自殺? それとも単なる行方不明? 家族はどう思っているのだろうか。学校は? 警察は? 自分は果たして探してもらえるのだろうか。それともいなくなってせいせいしたと言われるだけなのだろうか。
ニュースになったり、自宅に記者が詰めかけたりしないだろうか。まだ小学生の陽菜にまで、影響が及ばないとも限らない。学校で陽菜が友達に何か言われたり、記者に付き纏われたりしないか心配だった。
「気分が悪そうだな。今夜はこれまでにしよう。水霜が部屋を調えてくれたはずだ。部屋まで送っていく」
時雨は顔色が悪い澄花を気遣って声をかける。澄花の華奢な背中と膝の裏に手を回して抱き上げると、時雨は立ち上がった。
彼は障子を開けると、澄花を抱きかかえたまま部屋を出た。部屋の中では無数の水泡が揺蕩っている。藍鼠の香炉からは降り出す前の雨の香りが漂い続けていた。
明かりの消えた部屋の中、澄花は格子状に組まれた天井を見つめていた。暗闇の中でも淡い光を纏った水泡がふわふわと漂っているのがわかる。ふう、と小さく息を漏らすと、シャボン玉のように宙にあぶくが生み出された。
取手に桜の意匠があしらわれた白木の桐箪笥。揃いの意匠の鏡台の上には練り香水や櫛の入った螺鈿細工の小箱が置かれている。障子にも桜の透かし彫りが施されており、白藤色の漆喰壁に掛けられた掛け軸に金魚は今にでも宙を泳ぎだしそうだった。
今は壁際に寄せられている猫脚の文机は丸みを帯びたころんとしたフォルムが愛らしい。これらすべてが今日突然転がり込んできた自分のために用意されたのだと思うと、何だか身分不相応で勿体無いような気がした。
澄花は寝返りを打った。枕と掛け布団は若紫の手毬柄で、布地に描かれた丸い模様が水泡を彷彿とさせる。背中を受け止める敷布団は水の中に沈んでいくかのような柔らかさがあった。改めてここは水神の屋敷なのだと澄花は認識する。
ここは二〇四〇年の世界で、自分は時雨の仮初の妻となった。そして、ここでは自分は雨催いの巫女と呼ばれる存在で、今や人間ではない。時雨が嘘偽りを口にしていないことだけはわかったが、それでも信じられない思いだった。
(時雨様はわたしを見つけて、必要としてくれた)
長年自分を悩ませてきた雨女としての力を誰かが必要としてくれる日が来るなど、夢にも思っていなかった。この力は自分にとって疎ましいもの以外の何物でもなかったのだから。
あのとき、時雨の手を取った自分の判断が正しかったのかどうかはわからない。流されるようにして彼と夫婦になったが、これでよかったのだろうか。
けれど、彼のことは信頼していいと自分の直感が告げていた。あんなにまっすぐな透明な目で嘘をつく人はいない。彼のことを異性として愛する日が来るかどうかはまだわからないけれど、彼のそばにいることは嫌ではないような気がした。
(ここが、わたしの居場所になればいい――)
気にかかることはいろいろある。けれど、今はそのことだけを祈りながら、澄花は目を閉じた。
真っ暗になった世界の中、さらさらと穏やかに流れていく川の音が澄花の聴覚を満たす。不安に揺れていた心がほんの少しずつ癒やされていくのを感じる。静かで穏やかな川の音はまるで時雨の有り様のようだった。
おやすみなさい、と澄花は誰に向けてでもなく口の中で呟く。そして、彼女はせせらぐ水の音に身を委ね、眠りの闇の向こう側へと意識を手放した。
(……また、水嵩が減っている)
時雨は文机に向かい、水盤を見つめていた。猛川の水嵩を示す、水盤の水量が減っている。
上流域を司る水神からの報せを運んできた魚も言っていた。もう上流は駄目だと。河口に近いこの地域もあとどれだけ護れるだろう。
今の時雨にできるのは澄花の力に縋ることだけだ。彼女の雨催いの巫女の力は、近年悩まされ続けている日照りによる水不足を解決し得る最後の切り札だった。
今日、時雨は澄花を眷属とし、妻に迎えた。しかし、二人の間には男女としての情があるわけではない。澄花を手元に置いておくためには、彼女に嫌われるようなことがあってはならない。彼女が望む言葉をかけ、望むものを与え続ける必要があった。
(この川を――この地域に生きるすべての生命を守るためなら、私はなんだってする。――私はこの地を守る水神なのだから)
澄花は一体どんなものを好むのだろうか。好きな食べ物は? 好きな色は? 好きな花は? 今の自分は彼女が雨催いの巫女であるということと、その力を疎んで川に身を投げたこと以外何も知らない。
漣に言って何か気の利いたものを用意させようか。それとも水鞠に頼んで彼女が好きなものを聞き出してもらおうか。宙を揺蕩う水泡の淡い光を見つめながら、時雨はそんなことを考える。
(――いや、やめておこう)
澄花の夫は自分だ。仮初の契約上の関係とはいえ、彼女を繋ぎ止める努力は自分でするべきだ。
明日は彼女に何を贈ろうか。彼女は喜ぶだろうか。それとも戸惑うのだろうか。
先ほど、自分の部屋を訪れたときの澄花はとても愛らしかった。水鞠が紅雨の着物を借りてきて支度をしたのだろうが、彼女のために誂えたかのように似合っていた。そんな彼女に贈るならば――
この川の現状に思い詰めてばかりいた毎日に、ほんの少し彩りが生まれた気がして時雨は口元を綻ばせる。彼の青藍の双眸にはいつの間にか優しい光が宿っていた。



