「――新入生の皆様の今後のご活躍をお祈りし、歓迎の挨拶とさせていただきます」
在校生代表の挨拶をそう締め括った生徒会長の男子生徒が壇上で一礼しているのを見ながら、ふああ、と莉子は欠伸をする。長かった入学式もようやく終わりだろうか。おざなりな拍手をしながら、莉子はそんなことを考える。
高校生としての自覚を持てだとか、この学校の名に恥じない行動を心掛けろなどと言った、非常にありがたくて退屈な話をこの一時間ほど延々と聞かされ続けたせいで眠くて仕方がない。昼食が済んだ午後にそんな話を聞かせ続けるなんて、寝ろと言っているようなものである。
入学式の司会を務めていた生徒会の女子生徒の声が散会を告げ始めたとき、莉子は右隣に座っていた見知らぬ少女にねえねえ、と肩を叩かれた。ロングヘアをハーフツインにし、うっすらとナチュラルメイクをした可愛らしい少女だ。中学までの莉子の友人にはいなかったタイプに見える。
「ふふ、眠そうだねえ。どこの中学から来たの? あ、わたし、城本愛香っていいます」
甘い声で横から人懐っこく話しかけてきた愛香に対し、ぱちぱちと莉子は目を瞬かせると名乗り返した。
「私は清水莉子。彩咲市内にある宮本中ってとこの出身だよ。城本さんはどこの中学から来たの?」
体育館の出口に近いクラスから順に、少しずつ人波が動き出していた。しかし、新入生は八百名余りと人数が多く、遅々として流れは進んでいかない。待ちくたびれた生徒たちがざわざわと話す声があちらこちらから聞こえてくる。今の莉子と愛香のように、初対面同士で自己紹介をし合っている生徒も少なからずいるのだろう。
「同じクラスでしょ、愛香でいいよ。ねえ、莉子って呼んでいい?」
いいよ、と莉子は首を縦に振った。すると、愛香は嬉しそうに笑う。笑うと笑窪ができ、弧を描く唇の端から八重歯が覗くのが彼女の愛らしさに拍車をかけている。
「それじゃ、莉子。これからよろしくね。それで中学の話だけど、わたし、ここの内部生なの。だから入学式っていってもあんまり実感ないんだ。だけど、ここの学校のことなら大抵知ってるからなんでも聞いてね」
莉子が入学した琴吹学園高校は自由な校風が売りの中高一貫校だ。莉子の住む彩咲市からは電車で二十分ほどの大針市内にある学校で、高校から編入するにはそれなりの偏差値を要求される。莉子と違って別に極端に苦手な科目が存在しない和希は偏差値的にはもう少し上の高校に進学できたにもかかわらず、なぜか莉子と同じこの学校で今日の入学式を迎えていた。確か、和希は隣のD組だったはずだ。
やがて、隣のクラスの列が緩やかに動き出した。列の先頭にいた和希と一瞬視線が交錯する。莉子に気づくと、和希は小さく手を振った。それに対し、莉子も小さく手を上げて応じる。
「ね、今の人彼氏?」
莉子と和希のやりとりに気づいたらしい愛香がいたずらっぽい口調で尋ねてきた。莉子は違うよ、ときっぱりとそれを否定する。
「今のは同中の友達。ていうか、幼馴染」
「ふうん……幼馴染、ねえ」
愛香は訝るようにそう繰り返した。愛香は何か甘酸っぱい話を期待しているのかもしれないが、生憎、莉子と和希の関係は彼女の期待に添えそうなものではない。どちらかといえば家族ぐるみで姉弟のように育った(和希のほうが誕生日は先だが)、ただの腐れ縁の幼馴染だ。現在進行系で色気のある関係でもなければ、将来的に色気のある関係になる予定もない。
和希たちのクラスが体育館を出ていくと、今度は莉子たちのクラスの列が動き出した。莉子と愛香は自分たちの教室に向かうべく、座面がぺったんこになったパイプ椅子から腰を上げる。愛香は制服のベージュのチェックのスカートとハーフツインに結った髪をひらひらさせながら莉子の後ろをついてくると、背中越しに新たな話題を振ってきた。
「ねえねえ、莉子。さっき、宮本中出身って言ってたでしょ? この学校に宮本中の魔法使いの子が入学したらしいって噂なんだけど知らない? 同じ中学なんでしょ?」
「ああそれ? それって私のことだよ」
莉子がさらっとそう言った。愛香は小動物のようにくりくりとした大きな目を更に大きく見開いて、すごーいと声を高くした。
「莉子、魔法使いなの!? 本当に!?」
「本当本当。それに別にそんなすごくないよ。魔法使いだからって別にそんな特別なこともないし。普通だよ、普通」
「えー、そんなことないよ! 魔法使いが入学してくるって、それこそ芸能人が入学してくるくらいの大ニュースだもん」
大袈裟だよ、と莉子は苦笑したが、愛香は大きな目を興奮と感激できらきらと輝かせていた。
「それじゃあ、あの噂も本当? お母さんがあの幻の凄腕占い師、ミラージュ☆ユイだっていう話。雑誌とかテレビで引っ張りだこの」
「あー……うん。それも本当」
げんなりとした気分で莉子は愛香の言葉を肯定した。既に四十五歳であるにもかかわらず、年甲斐のない母親の痛々しい芸名を聞く度に恥ずかしくなる。どこの女児向けアニメの主人公だよと突っ込みたくなるネーミングだが、黒い仮面とロングドレスの年齢不詳のヴィランのようなビジュアルで売っているのだから始末に負えない。
「というか、愛香は一体どこでそんな話を仕入れてきたの……?」
「え、だって、わたし、ミラージュ☆ユイのファンだもん。そのくらい知ってるよー。いつも雑誌の巻末の占いコーナー読んでるし、公式ファンクラブも入ってるし」
「……」
莉子は唖然とした。まさか自分の母親にファンクラブがあるとは思っていなかった。それも公式の。言われてみれば最近、ウェブ向けの仕事が多いとかこぼしていたような気がするが、要はそういうことだったのかと莉子は遅まきながら理解する。
「お母さんのことはともかく、せっかくだから仲良くしよ。三年間クラス替えもないし」
「う、うん」
愛香の可愛らしい微笑みに気圧され、思わず莉子は頷いた。友達が母親のファンというのは何だか気恥ずかしい感じはするが、まあいいかと莉子は思い直す。
長年一緒だった和希とクラスが別れてしまった今、同じクラスに宮本中出身の知り合いはいない。しかし、愛香という友達が早々にできたことは高校生活の滑り出しとして悪くはなさそうだった。
自分にとって高校生活は一体どんな三年間になるのだろうと、莉子は思いを馳せる。このときの莉子は自分の高校生活が波乱に満ちたものになるなど、これっぽっちも予想はしていなかった。
◆◆◆
キーンコーンカーンコーン、とチャイムが六限目の授業の終わりを告げた。苦手な国語の授業から解放されて、莉子はぐっと伸びをする。
上二段活用だの下一段活用だのと一気にいろいろ言われたところで違いもいまいちよくわからないし、いまいち覚えきれる気がしない。ゴールデンウィーク明けには初めての中間テストが控えているが、このままでは早々に赤点を取る可能性すらあった。
まあ、そうなったらそうなったで仕方ないか。莉子は早々に直近の未来のことを諦めると、教科書とルーズリーフ、筆記用具を校章が刺繍された学校指定の真新しいスクールバッグに放り込む。どうせ古典の文法なんて高校を卒業したらいらなくなるものだ。
椅子から立ちあがろうとしたとき、後ろの席から人気のデパコスブランドのロゴが入ったシャーペンで愛香が莉子の茶色いブレザーの背中をつっついてきた。どうかした、と莉子は愛香を振り返る。
「ねえねえ、莉子。今日この後ちょっと寄り道してかない? すっごく大きいクレープ売ってるお店があるんだけど、食べに行こうよ」
「うん、いいけど……あ、ちょっと待って」
莉子はケースにスミレの押し花があしらわれたスマホをブレザーのポケットから取り出した。画面を指でタップして、メッセージアプリで莉子は素早く二通のメッセージを送った。片方は和希宛、もう片方はプリムラ宛だ。
「よし、オッケー。それじゃ愛香、行こっか」
莉子はスマホをポケットにしまいながらそう言った。スマホが震えて、新しいメッセージの受信を主張していたが、莉子は無視をする。
「うん。で、誰にメッセージ送ってたの? もしかしてこの前のD組の彼氏?」
愛香はいかにも興味津々といったふうに先程莉子がメッセージを送っていた相手について詮索する。しかし、だからそんなんじゃないよ、と莉子は愛香の言葉を否定した。
「あいつは彼氏なんじゃなくて、ただの幼馴染。和希には先帰っといてって伝えただけ。あと、家族にはちょっと寄り道して帰るから、って」
ふうん、と愛香はいまいち納得しきっていない顔をする。
「幼馴染ねえ……でも、幼馴染って言ったって男子と女子なわけでしょ? もう高校生なんだし、少女漫画的には何か進展があったって良くない?」
「いや、全然愛香が期待してるような関係じゃないから。ただの腐れ縁の幼馴染ってだけで、お互いに恋愛対象って感じじゃないし」
えーつまんない、と愛香は莉子と一緒に教室を出ながら頬を膨らませる。あのねえ、と莉子は溜息をついた。
「現実は少女漫画じゃないんだから、大体そんなもんでしょ。っていうか、いい加減離れられるかって思ってたのに何で和希と同じ高校になっちゃったかなあ。あいつ、もうちょっと上の高校行けたはずなのに」
昇降口で上履きを脱いでローファーに履き替えながら莉子がぼやくと、先に靴を履き替え終わっていた愛香はふふ、と含み笑いをした。
「えー、そんなの簡単なことでしょ? どう考えたって、莉子と一緒にいたかったからに決まってるよ」
それはないって、と莉子は愛香と肩を並べて歩き出す。花がまばらになって葉が茂りだした校門脇の桜がほんのりと赤みを帯び始めた空に揺れていた。
「……ねえ、愛香。あのサイズ、本当に食べるの?」
駅前の広場のベンチで同じ制服に身を包んだ学生たちが巨大なクレープを相手に奮闘しているのを横目に莉子は問うた。
「うん、高校生になったし、そろそろいけるんじゃないかと思って。先月、卒業式の後に友達とチャレンジしてみたときはギブアップしちゃったんだけど」
愛らしく舌をぺろっと出してみせながら愛香はそんなことをのたまってみせる。しかし、莉子はぶんぶんと首を横に振り、おかしいでしょうとそれを否定する。莉子の前下がりボブの毛先が激しく揺れた。
「いやいやいやいや! 先月だめだったのに高校生になったから食べれるってどういう理屈!? 普通に考えてそれは無理があるんじゃない!?」
そうかなあ、と愛香は小首を傾げる。高さが四十センチ、直径も十五センチほどはありそうな生クリームがぎっしりのクレープを莉子は一人で食べきれる自信は微塵もない。仕方なく莉子は愛香へと一つの提案をすることにした。
「あのさ、私これ食べるの初めてだし、今日は私のやつを半分こにしない? 今日食べてみて私がいけそうだったら今度は一人一個で挑戦してみたらいいんじゃないかな」
しょうがないなあ、と愛香は莉子の提案を承諾する。愛香は学校指定の黒いスクールバッグから、ガーリーなファッションが人気のブランドの白とピンクのバイカラーが可愛らしい長財布を取り出すと、小銭入れの中を弄った。
「はい、二百五十円。半分こなんだから、お金も割り勘ね」
うっすらとさりげないピンクに染まった華奢な指先が伸びてきて、莉子へと百円玉二枚と十円玉五枚を手渡した。
「あ、うん」
莉子は愛香から小銭を受け取ると、「それじゃ行ってくるから、愛香はここでベンチ取っといて」店舗となっている白いプレハブの前へと並ぶ。莉子の前には同じ制服の学生が何人も並んでいた。従業員の男によって、絶え間なく様々な味のクレープが作り続けられ、続々と行列が捌かれていく。イチゴカスタードにチョコバナナ、キャラメルバターに黒蜜抹茶あずき。他の生徒たちが手にしている通常サイズのクレープでさえまあまあ大きいが、周囲の様子を見る限り、今から愛香に唆され、莉子が頼もうとしているクレープは更に大きい。莉子よりも二、三グループくらい前に並んでいた女子三人組がちょうど莉子たちが頼もうとしていたのと同じクレープを一人一個頼み、あまりの大きさに圧倒されて泣きそうになっていた。莉子がきちんと愛香を諌めていなければ、今ごろ自分たちもああなっていた可能性が高い。
(いやあ……あの大きさじゃ、二人がかりでも食べきれるか怪しいな。ちゃんと愛香を止めておいてよかった。一人一個だなんてあれは無謀)
前に並んでいた同じ学校と思われるカップルが通常サイズのイチゴクレープと抹茶クレープを持って立ち去ると、ようやく莉子に注文の順番が回ってきた。
「ハイパーメガトン神盛りデラックスチョコクレープ一つ」
莉子は内心、戦々恐々としながら店員の三十代前半くらいの男性に注文を告げる。かなり大きいですよ、と店員に念を押されたが、莉子は苦笑して頷いた。
「五百円になります」
莉子はキャッシュトレイの上に五百円玉を一枚置いた。「ちょうどのお預かりになります」莉子から代金を受け取ると、店員は丸い鉄板に生地を広げて焼き始めた。生地が焼き上がり、ごてごてと大量のトッピングが施されていく様を眺めながら、これは思った以上にしんどそうだと莉子は顔を引き攣らせた。今、気のせいでなければ、通常のワンピースカットのガトーショコラやベイクドチーズケーキがそのまま乗せられやしなかったか。莉子の背を冷や汗が伝っていく。
(こ、これ本当に今から食べるの……!? 食べられるの……!?)
そうしているうちに、愛香と二人がかりで食べるにしてもあまりにもボリューミーなクレープが出来上がり、クレープとプラスチック製のスプーン二本を莉子は店員の男性から受け取った。ずっしりとした重みを両腕に感じながら、莉子はベンチで待つ愛香の元へと戻っていった。
「お待たせ」
莉子がクレープとを手渡すと、愛香はにこっと無邪気な笑みをこぼした。
「ほら、莉子、座って」
はしゃぐ愛香に促され、うん、と頷くと莉子は左隣に腰を下ろす。ケースからピンク色のウサギの耳が生えたスマホで様々な角度から写真を撮ると愛香は満足したのか、プラスチック製の小さなスプーンを手に取った。
「それじゃ食べよっか」
いただきます、と手を合わせると莉子と愛香はクレープを食べ始めた。甘くて美味しかったのは最初だけで、だんだんと胃の中をクレープの生クリームが圧迫していく。莉子は次第に今感じているのが美味しさなのか、気持ち悪さなのかわからなくなっていった。きっとここまでくると、どっちでもあり、どっちでもない。
二人は三十分近く時間をかけてクレープを食べ進めながら、満腹感と絶望感から目をそらすために、いろいろと他愛のない話をした。クラスの友達の話、今流行っているドラマの話、勉強の話――途中からは早々にギブアップした愛香が一方的に話し、莉子がクレープと格闘しながら相槌を打っているだけにはなっていたが、不思議なくらいに話題は尽きなかった。
どうにか巨大すぎるクレープを胃に押し込むことに成功した莉子は、膨らみすぎて苦しい腹を押さえながら、先ほどの国語の授業へと言及する。
「そういえば私、国語本当無理なんだよね。さっきの六限目も全然わけわからなかったし。ラ変とかナ変とか何なのあれ」
「あれは覚えちゃえばなんてことないよ? ラ変は『あり、おり、はべり、いまそかり』だし、ナ変は死ぬと往ぬだけだもん。簡単でしょ?」
「全然簡単じゃないよー! 覚えること多すぎだし、それ何の呪文だよって感じ」
そういえばさ、と愛香は莉子の口元についたホイップクリームを指先で拭いながら、
「呪文といえばさ、莉子は何か呪文唱えて魔法使ったりするの? ファンタジー映画の主人公みたいに」
「私はそれはやらないなあ。魔法使いってそれぞれに専門分野があるんだけど、うちの家系は代々占いやおまじない特化だから」
「えーそうなの?、でも、ミラージュ☆ユイはテレビで占いの技を披露するときにいっつも何かそれっぽい呪文みたいなの唱えてない?」
「あれはその……テレビ用の演出だから……」
愛香が言っている呪文というのはおそらく結子がテレビで口にしている、自意識過剰な中学生が書いた痛々しいポエムみたいなアレのことだろう。普通に占いをやるためにはあんなのは実は必要ないし、見栄えのために魔法ではなくちょっとした手品まで織り交ぜて、派手な演出を行なっているというのが実情だ。スタジオを炎が噴き上げたり、背後を羽根が舞い散ったり、魔力の波が押し寄せたり、カードが客席中を駆け巡ったりなど、回を増すごとに演出が派手になっていくのを莉子はいつも頭の痛い思いで見ている。そして結子が仮面で顔が出ないのをいいことに、常にすごくノリノリでそれらを行なっているという事実が頭の痛さにより拍車をかけていた。
そうなんだあ、と納得したのかしていないのか、愛香は無垢な瞳をきらきらさせながら、こんなことを言いだした。
「じゃあ、莉子はどんなふうに占いをやるの? わたし、見てみたいなあ。何か占ってよ!」
そうやって愛香にせがまれ、いいけどと言いながら莉子は赤と紫のアネモネが刺繍されたハンカチとタロットカードをバッグから取り出した。愛香は莉子のハンカチを指差すと、わあっと声を上げた。
「そのハンカチ、かわいいね」
「ありがと。これ自分でやったんだ」
すごーい、と愛香ははしゃいだ声を上げ、莉子にこう聞いた。
「莉子は刺繍が趣味なの?」
「刺繍っていうか、手芸全般かな。まあ、刺繍とかレジンやるのは特に好きだけど」
莉子はそう話しながら、占いの準備を整えるべく、体内の自分の魔力を練り上げていく。これからやるのは直近の未来のことを見るだけの簡単な占いだ。ミツカは家に置いてきてしまっているが、そのくらいならば莉子の魔力だけでも余裕でお釣りが出る。
「それで、愛香は何を占ってほしいの?」
莉子が問うと、愛香はうーんと逡巡した様子を見せる。
「色々あるけど、やっぱり一番はわたしとゆうくんのことかなあ」
「ゆうくんって?」
いきなり現れた知らない固有名詞に莉子は困惑する。えっとねえ、と愛香は可愛らしくはにかむ。とろんとした憂いと熱を帯びた眼差しは恋する乙女そのものだ。
「わたしの好きな人。ちっちゃいころからずっと好きって言ってるのに、全然相手にしてもらえないんだよね。妹扱い、っていうのかなあ」
大きな目をうるうるとさせながらそういった愛香を見ながら、それも仕方ないだろうと莉子は内心で思った。いくら可愛くてもこんな甘いスイーツのようにぽわぽわふわふわした夢見がちな女の子が相手ではそんなふうにもなるだろう。莉子が男だったとしても、彼女を可愛いと思いこそすれ、異性として――恋愛対象として意識するのは難しい。
「わたし本気なのに。ゆうくんがこの学校に来るって聞いて、外部進学する予定だったのやめたくらいだもん」
「そ、そうなんだ……」
ゆうくんとやらに対する愛香の熱情に少し引きながら莉子はタロットカードを切っていく。占いの準備を終えた莉子は、ハンカチの上にカードの束を置いた。カードは莉子の魔力をまとって、きらきらと静謐な光を放っている。これは占いの準備ができた証拠だ。
「それじゃあ、これからさくっと一番簡単な占いをやってみるね。愛香、私の手を握って、そのゆうくんっていう人のことを考えていてくれる?」
莉子が左手を愛香へと差し出すと、彼女は右手で莉子の手へと触れた。愛香が手に力を込めると、莉子は意識を集中させながら、金色の紋様が刻まれた深紅のカードへと右手をかざす。人差し指にはまった共鳴石は沈黙を貫いている一方で、莉子の右手は自身の魔力の放つ燐光をまとっていく。
二十二枚のカードが莉子の右腕を取り巻くようにふわりと宙に舞い上がり、時計回りにくるくると回り始めた。莉子の手から放射状に広がる魔力を帯びたカードが放つ光の強さを増す。
莉子が右の手のひらを天へと向けると、一枚のカードが莉子の手のひらへと舞い降りてきた。残りのカードの回転が次第に緩やかになり、ベンチの上に広げたハンカチの上へと収束していくと、カードと莉子の手がまとった青白い光は宙に溶けるようにすっと消えていった。
莉子は手にしたカードに視線をやると、眉根を寄せた。あまり結果が良くない。
(塔の逆位置……?)
塔のカードは、アクシデントや破壊などの意味合いを持っており、お世辞にも縁起がいいとは言い難い。それの逆位置ともなれば、良くも悪くも決して穏やかではない。
こんな単純な占いだというのに、自分が集中力が足りていなかったとでもいうのだろうか。莉子が結果を訝しんでいると、愛香は不思議そうな顔をして、どうしたのと聞いてきた。
「ああうん、何でもない」
莉子はかぶりを振ると、慎重に手の中のカードの意味を読み解こうとする。あまり下手なことを言って、愛香を不安がらせたりはしたくなかった。
「そうだなあ……これは、近いうちに何かアクシデントに見舞われるかもしれないけれど、それを機に関係性に変化が生まれるかもしれない、ってところかな」
塔のカードの意味を精一杯好意的に解釈した結果を莉子は告げる。アクシデントって、と不安そうに愛香は表情を曇らせた。先ほどまでのとろけるような甘い表情がすっかり鳴りを潜めてしまった愛香に少し罪悪感を覚え、莉子はこんなことを提案した。
「うーん、今日は一枚だけだから細かいことはわからないんだけど、不安だったら気休め程度でよかったら、何かお守り作ってこようか? ちょっとしたおまじないなんだけど、ないよりいいでしょ?」
「いいの?」
「うん。作って明日持ってくるよ。それじゃ今日はそろそろ帰ろっか」
クレープのせいでお腹いっぱいだよ、と苦笑すると、話を切り上げ、莉子はカードとハンカチをスクールバッグの中へ片付けていく。「わたし、クレープのゴミ捨ててくるね」「うん、ありがと。お願い」クレープの包み紙と二人が使っていたプラスチックスプーンをひとまとめにすると、愛香はゴミ箱へとそれらを捨てに行く。
莉子が片付けをしている間に、ゴミを処分して戻ってきた愛香は、莉子へと憧れと羨望の入り混じった視線と言葉を向けた。
「それにしても、莉子は取り柄があっていいなあ。わたしは別に何が得意ってわけじゃないもん。ねえ、莉子は将来はやっぱり、お母さんみたいに占いの仕事をするの?」
「……え?」
何気ない愛香の言葉に莉子はバッグのファスナーを閉めようとしていた手を止める。こうして愛香に聞かれるまで、莉子にとってのゴールは魔法使い認定資格を取得することのままになっていて、この先の将来のことなど考えたことすらなかった。さすがに結子のように派手にメディアに露出するような仕事はやりたくないが、かといって普通に一般企業に就職して働くのとかというとそれも何だか違うような気もする。何も答えられずに莉子が固まっていると、あれ、と意外そうに愛香は片眉を上げた。
「……もしかして、何かわたし聞いちゃいけないこと聞いちゃったかな?」
「ううん、そんなことない、けど……」
動揺で莉子の語尾が震えた。自分にとっての魔法使いという職業や占いというものの立ち位置がわからなくて、そんなことないと言い切ることが出来なかった。将来の姿を今の自分から思い描けないというのはこんなにも心細いものなのかと莉子は初めて知った。
「うちの学校、一応自称進学校だから、魔法使いとしてやりたいことがあるならちゃんと言ったほうがいいよ。来月の三者面談とかでもたぶん聞かれると思うし」
「そ、そうなんだ」
引き攣り笑いを浮かべながら莉子はベンチから立ち上がる。占いの仕事をするの? 、という先程の愛香の問いが頭の中で反響し続けていた。
莉子が通学に使っている鉄道路線の高架の向こう側へ赤々と燃える夕日が沈んでいこうとしていた。
◆◆◆
莉子は誰かが帰宅した気配を感じて、一階のダイニングへと顔を出した。今さっき、ガチャリと玄関の鍵が閉まる音が聞こえたが、一体誰だろうか。
時刻はまだ二十一時を回ったばかりで、仕事で基本的に帰宅が遅い結子にしてはやけに早い。そして、滅多に家で顔を合わせることのない樹来がこんな時間に帰ってくる可能性はもっとない。
台所の隅で、明らかにプリムラではないサイズ感の人間が冷蔵庫の中を漁っているのを莉子は視界に捉えた。すっと莉子の視線から温度が消える。莉子はその人影に冷え冷えとした視線を向けながら、きつい声を浴びせた。
「何やってんの、お兄ちゃん。珍しく帰ってきたと思ったら、泥棒の真似事?」
莉子に嫌味をぶつけられ、冷蔵庫の中身を物色していた茶色く染めた髪をウルフカットにした青年が缶ビールを手に顔を上げた。
「あれ、お前、莉子? 何でいんの?」
「それはこっちの台詞だってば。週一で帰って来れば多いほうのお兄ちゃんが何で家にいるの?」
「いや、お前が知らないだけで週四くらいでは帰ってきてるっつの」
ほとんど朝帰りだけどねー、と言いながら、脱衣所の洗面台にお湯を張って入浴を楽しんでいたプリムラがラベンダー色のネグリジェに身を包んで姿を現した。湯上がりの小さな体からは、入浴剤として湯に浮かべていた花の匂いがほのかに香っている。
「うわ、虫ババア。お前もいたのか」
神経を敢えて逆撫でするかのような樹来の物言いにプリムラは紫色の目を吊り上げた。そして彼女は口調を荒らげて樹来へと言い返す。
「虫ババアって何よ! こんなにかわいい花の妖精捕まえて、失礼にも程があるでしょ! それにそのビール、あたしのじゃない! 返しなさいよ樹来!」
樹来は一本ぐらいいーじゃねーかよと言いながら、憤慨するプリムラへ缶ビールを放り投げる。
「投げるなーっ!」
プリムラは高い声でそう叫んだ。繊細な銀糸の刺繍が施された袖口から伸びた細い腕が、弧を描きながら宙を舞うビールの缶をキャッチする。
「お、唐揚げあるじゃん」
プリムラから興味を失ったらしい樹来は開けっ放しの冷蔵庫の中から唐揚げの乗った小皿を目敏く見つける。樹来がそれに手を伸ばそうとすると、莉子はさっとその皿を取り上げた。
「お兄ちゃん、それママのだから。うちにお兄ちゃんのご飯なんてないよ」
コンビニで何か買ってこれば、と莉子が冷たく言い放つ。冷たい態度を貫く妹へと、樹来はなんでだよと口を尖らせる。ビールの缶をダイニングテーブルの上に置くと、やれやれと苦笑しながらプリムラはネグリジェの上から小さなフリルエプロンを身につけ始めた。
「しょうがないわねー。魚でも焼いてあげるから、それでも食べときなさい」
「えー、絶対それ飲めないやつじゃね?」
樹来が文句を言うと、プリムラは冷蔵庫から鮭の切り身が入った青いビニール袋を取り出しながらこう言い返した。
「樹来はどうせ毎日合コン三昧で毎日お酒ばかり飲んでいるんだから、たまには休肝日ってことにしときなさい」
「プリムラ、お前だって毎日酒飲んでんだろ。虫のくせに」
白い蝶の羽をぱたぱたとさせながらフライパンで鮭を焼こうとしていたプリムラは、きっと眦を釣り上げて樹来を振り返ると憤慨する。
「虫って言うんじゃないわよ! それにあたしはいいの! あんたみたいなちゃらんぽらんな遊び人と違って、毎日ちゃんと家のこと全部やってるんだから! ご褒美くらいないとこんな生活やってらんないわよ」
ちゃらんぽらんと言えばさ、と莉子は麦茶を冷蔵庫から出してグラスに注ぎながら、常々純粋に疑問に思っていたことを口にした。
「そういえば、何でお兄ちゃんって教育学部なんて選んだの? 先生なんて柄じゃないじゃん」
「うっせーな。あ、俺にも麦茶くれ」
「やだよ、自分でやってよ。そんなことより、さっきの答え教えてよ」
樹来が自分の分の麦茶をグラスに注いでいると、コンロのほうから魚が焼き上がる香ばしい香りが漂ってきた。鮭を焼いている間にも色々と用意をしていたらしく、プリムラが一品ずつおかずを運んでくる。
プリムラは食事の乗った皿を抱えて、調理台とダイニングテーブルを何回か往復した。すると、ダイニングテーブルの上には鮭の塩焼きにほうれん草のおひたし、茶碗に盛られた白米にネギとわかめの味噌汁といった体に優しそうな和定食ができあがった。
「ん。いただきます」
樹来は軽く手を合わせると、味噌汁の入った漆器の碗を手に取った。「……うっめ」そして、彼は出汁の効いたプリムラ特製の味噌汁を啜りながら、先程莉子に聞かれたことへの答えを話し始める。
「俺の場合は、いろいろ学部受けたんだけど、教育学部しか受かんなかったの。これ以上、他のところ受けるつもりだったら、バイト代かお年玉の貯金で受験料払えってそこのこわーいプリムラねーさんが言うからいたしかたなく」
ネグリジェの裾を縛って濡れないようにしながらシンクでフライパンを洗っていたプリムラが一瞬振り返って樹来を睨みつけた。しかし、襟足の長い後頭部に刺さったプリムラの視線を適当に受け流しながら、樹来は箸を動かし続ける。よほど腹が減っていたらしく、食卓の上のおかずが吸い込まれるように樹来の胃の中に消えていく。
「じゃあ、プリムラが何も言わなかったらどこ行ってたの?」
「まあ、今の学校の今の学部行ってたんじゃね? どうせ他全部落ちてたし、女子のレベル高い大学行けりゃどこでもよかったし」
明らかに遊ぶことしか考えていない兄の顔を莉子は最低、と睨みつけた。しかし、樹来は妹の罵倒などどこ吹く風で、プリムラに白米のおかわりを要求した。
「なあ、メシまだある?」
「明日の莉子のお弁当の分がなくなるから駄目よ」
「じゃあ、莉子、お前明日昼メシ抜きな」
「本当に最低」
妹に最低と連呼されても特に堪えた感じはなく、樹来は行儀悪くテーブルに肘をついたまま、茶碗に残っていた白米をかきこんでいく。
「ごっそさん」
樹来は食事を終えると、席を立って今度は冷凍庫を漁り始める。そして、キウイ味のアイスキャンディを引っ張り出してくると、樹来はそれに歯を立てた。
「うおっ、染みる」
思わずといったふうに樹来は左頬を押さえた。そんな兄へ莉子は白けた浴びせかける。
「どうせ虫歯かなんかでしょ。お兄ちゃん、夜遊びばっかで歯なんてろくに磨いてないんだから」
「磨いてるっつーの! 口クセェと、キスしようとしたときに女子に逃げられるし、そんなんじゃワンチャンも何もねえからな」
うわあ、と軽蔑で莉子は頬を引き攣らせる。さすがに明言は避けたが、要は樹来はハイエナのように常にワンチャンを狙い続けているヤリモク男なのだと莉子は悟った。毎晩毎晩合コン三昧していると思ったら、そんなことばかりしていたのかと思うと我が兄ながらぞっとする。こいつは女の敵だ。
「プリムラー、お兄ちゃんマジでキショいんだけど! どうにかしてよー!」
嫌悪のあまり莉子がプリムラに泣きつくと、彼女は布巾で拭き終わったフライパンをシンクの下に片付けながら、無理ねと断言した。
「無理って……お兄ちゃんをこんなふうに育てたのプリムラじゃんー! どうすんの、この下半身の欲望だけで生きてるみたいな男! お兄ちゃんそろそろ就活の準備始めなきゃなのに、こんなの世の中に出しちゃまずいって!」
「莉子、お前おにーさま捕まえてこんなの呼ばわりとかいい度胸してんな? ってか就活かー、そういやそんなんもあったな。この前の就職ガイダンスほとんど寝てたから完全に忘れてたわ」
舌先で小さくなったアイスキャンディを舐りながら、樹来はテーブルの上に頬杖をつく。というか、この男、下半身の欲望云々に関しては否定しないのか。樹来に向けられる莉子の眼差しと語調がますます険しさを増す。
「お兄ちゃんなんて、こんなので充分でしょ。そんなので本当に就活どうすんの? 行きたい業界とか会社とか何かないわけ?」
莉子の問いに樹来は食べ終わったアイスの棒を咥えながらどうでもよさそうに、特にねえなあと即答した。
「俺はお前と違って、魔法使いの適性もなかったから、行けるところに行ければ何でもいいっていうか。ま、うちの大学はそれなりにネームバリューはあるからどうにかなるだろ」
樹来は莉子と異なり、魔法使いとしての才能はない。莉子は幼いころから結子によって、彼女が得意とする占いについてのあれこれを叩き込まれてきたが、樹来はごく普通の一般人として育ってきた。
「ま、何もしなくても誰かが養ってくれて、女に囲まれてちやほやしてもらえる職場があれば永久就職すっけどな」
ニヤリと下品な笑みを浮かべてヒモ志望発言をした樹来を莉子はうわっと汚いものを見る目で見る。この男は一体どこまで最低な女好きなのか。こんなのと血が繋がっていると思うと怖気が走る。
「本当ありえないんだけど。同じ空間にいると何かその最低さがうつりそうだからどっか行って」
「お前から話振ってきたくせになんなの。へいへい、わかりましたー、おにーさまは退散しますよ、っと」
樹来は立ち上がってゴミ箱にアイスの棒を放り込む。階段を上がって自室に戻ろうとした樹来をプリムラは待ってと呼び止める。
「樹来、上行くのはいいけどうるさくしないように。最近、ミツカ――怖がりなアルマジロの使い魔が莉子の部屋にいるんだけど、騒がしくするとたぶん怯えるから」
へー、と樹来は面白いことを聞いたと言わんばかりの顔をすると、どすどすと足音を立てて二階へと階段を上がっていく。ほどなくしてばん、と乱暴にドアが開かれる音が階上で響いた。
「ぴゃああああああ! 何なんですかこの人! ミツカのことをいじめないでくださいいいい!」
莉子の部屋から怯えきったミツカのキーキーとした悲鳴が響いてきた。
「ああもう、プリムラが余計なこと言うから……」
恨みがましい目で莉子はプリムラを見る。あんなふうに怯えてしまったミツカを宥めるのはなかなかに面倒くさい。
「ごめん、莉子……樹来の性格考えればああなるわよね」
プリムラは莉子へと謝罪の言葉を述べると、食べ終わった後の樹来の食器を一つずつシンクへと運んでいく。プリムラは洗剤のついたスポンジを取ると食器を洗い始めた。彼女は味噌汁の入っていた碗を相手取りながら、何気なさを装って莉子に話を切り出した。
「それで莉子はどうしたの? いきなり、樹来なんかに進路の話なんか振って。何かあった?」
うっ、と一瞬莉子は言葉に詰まった。仕事で多忙な結子に代わって、莉子を幼いときから育ててきたプリムラには、莉子の様子が少しおかしいことはお見通しだったようだ。莉子は手の中の麦茶のグラスを見つめながら、ぽつぽつと言葉を紡ぎ始める。
「愛香――高校の友達に今日簡単な占いを一個やってあげたんだけど、そのときに将来はママみたいに占いの仕事をするのかって聞かれて」
うん、とプリムラは洗剤のついた食器を水で流しながら相槌を打つと、莉子に話の続きを促した。
「私、ついこの前まで、魔法使い認定資格の取得目指してたじゃん? 高校受験もあったのに同時並行で結構頑張ってたと思うし」
莉子は春休みのうちに資格を取ってしまいたくて、高校受験の勉強と並行して魔法使い認定試験の勉強をしていた。高校受験が佳境となった冬場はかなり苦しい思いを強いられたが、その甲斐あってどちらもどうにか切り抜けることができた。
「だけど、私、今日言われて初めて気づいたんだよね。私のゴールってずっと魔法使い認定試験のままで、次のことなんて全然考えてなかったって」
プリムラは洗った食器を水切りラックに干すと、結んでいたラベンダー色のネグリジェの裾を解いた。そして彼女は冷蔵庫の中から食べかけのあたりめの袋を出してくると莉子へと勧める。
「莉子、食べる?」
「私はいいや。っていうかプリムラ、私の話聞いてる?」
聞いてるって、とプリムラはもぐもぐと大好物のあたりめをかじりながら、こう言った。
「要は急に将来のことを突きつけられちゃって、莉子は戸惑っちゃったわけでしょ? 不安になるのもわからないでもないわ」
でもね、とプリムラは諭すように言葉を続ける。幼い顔立ちに反して、その紫色の双眸にはまるで母親のような優しい光を宿していた。
「莉子、そういうところは真面目よね。さすがに莉子まで樹来みたいになられても困るけど、もう少し気楽に考えてもいいんじゃない? たとえば、今の莉子は何に興味があるかとか、そういうのを基準に考えてみてもいいと思うわ」
興味のあること、と莉子は口の中で小さく繰り返す。そういうふうに将来のことを考えてみようと思ったことはなかったなあ、と莉子は思う。それにね、とプリムラは莉子の耳元に口を寄せると、冗談めかした口調でとっておきの内緒話を囁いた。
「莉子、知ってる? 結子が高校生くらいのときなんてね、将来はあたしのことを見世物にしてぼろ儲けしてやるとか言ってたのよ。いくらあたしが世にも珍しい有能でキュートな妖精だからって、あれはあんまりだと思ったわ」
プリムラの言葉に莉子はぷっと吹き出した。いかにも、”面白ければそれでいい”を信条に生きている結子であれば言いそうなことだ。自分の母親の適当さに莉子はほんの少し救われた気がした。
「何それ、めっちゃママっぽい」
でしょ、と言いながらプリムラはあたりめの袋の口をくるくると丸めると輪ゴムで留める。ほんの少し莉子の表情が和らいだことに安心したのか、プリムラは冷蔵庫にあたりめの残りをしまい直すと、花がらの小さなフリルエプロンを脱ぎ始めた。
「せっかくお風呂入ったのに、樹来のせいでまた汗かいちゃったわ。着替えたいし、もう一回入ってこよっと」
フリルエプロンをダイニングチェアの背に掛けると、プリムラは脱衣所のほうへと白い羽を羽ばたかせて飛んでいった。程なくして、洗面台にお湯を溜めていると思しき水音が聞こえ始める。
莉子はグラスの麦茶を飲み干すと立ち上がる。シンクでグラスを洗って水切りラックに干すと、莉子は奥にある母親の部屋のドアを開けた。いろいろなハーブの混ざり合ったような独特な匂い――莉子にとっては幼いころから嗅ぎ慣れた、どこか安心する匂いが嗅覚を満たした。
まだ主が帰ってきていない部屋に足を踏み入れると、莉子は電気をつける。作業机の隣にある棚を物色して、莉子は愛香にお守りを作るために必要なものを探していった。
まずはアロマオイルだ。愛香が好みそうなのはローズやジャスミン、イランイラン辺りだろうか。どれを使うかは作りながら考えようと、莉子はアロマオイルの瓶を三つとも棚から取った。
(目的考えたら、ナナカマドとクローバー辺りが欲しいかなあ……)
続いて莉子はドライフラワーの小瓶を吟味していく。目的の瓶を見つけて顔を上げると、視界にリナリアの小瓶が映り込み、彼女はなんとはなしにそれを手に取った。
(あ、これいいな……もしかしたら使えるかも)
リナリアの小瓶を抱えると莉子は結子の部屋を出ようとする。しかし、ふいに壁に飾られた写真の少女と目が合って足を止めた。
莉子とよく似た面差しの少女だった。色褪せた写真の中で、どこかの学校の制服に身を包んだ少女は桃色の髪の妖精の少女と戯れていた。
(昔のママとプリムラだ……)
今でこそミラージュ☆ユイなどというふざけた名前で凄腕占い師としてバリバリ稼いでいる結子だが、ちゃんと学生だったころがあったのだと思うと莉子は何だか安心する。結子の傍らのプリムラの姿は、今と微塵も変わっていなくて少し笑えてくる。
(これがプリムラを見世物にして稼ぐなんて言っていたころのママかあ……。それに比べたら、今のママってあんなのだけど、真っ当に生きてる方だよね。それにママは、今の自分自身を、仕事をたぶんちゃんと楽しんでる――だってママはいつだってあんなにいきいきとしてるから)
高校生のころは無茶苦茶なことを言っていたという結子だって、今は一人前の大人として、そして立派な魔法使いとして生きている。それもおそらくは自分で楽しいと思えることを仕事にしている。それはすごく幸せなことなのだということは莉子にもわかった。
何が結子に占いの道で生きていくことを決意させたのかはわからない。しかし、そんな結子ですらどうにかなったのだから、きっと莉子もいつかはちゃんと自分の進むべき道を見つけられるに違いないということだけは信じられそうだった。大丈夫、と莉子は自分に言い聞かせると、電気を消して結子の部屋を出る。
今日の夕方に感じた心細さはいつの間にか幾分かマシになっていた。学校は進路がどうのこうのと迫ってくるかも知れないが、自分の進むべき道は自分のペースで少しずつ決めていけばいいのだと思えた。
誰もいないダイニングを通り抜けようとして、ウォールナットのテーブルの上に置かれているカゴにバナナが盛られているのが莉子の視界に入った。ミツカに持っていってあげよう、と莉子はカゴからバナナを一本手に取ると、階段を上がっていった。
◆◆◆
「莉子おおおお、さっきのあの人なんだったんですかあああ! ミツカ、すっごく怖かったんですよううう!」
数本の小瓶とバナナを腕に抱えて、莉子が自分の部屋のドアを後ろ手に閉めると、途端に黒い瞳に涙を溜めたミツカが泣きついてきた。莉子とミツカ双方の共鳴石に灯る光がゆらゆらと不安定に明滅を繰り返しているのが、何よりもミツカの混乱を雄弁に物語っている。あー、と莉子はうんざりしたような表情を浮かべると、樹来に代わって謝罪した。
「ごめん、ミツカ。アレ、うちの馬鹿兄貴。何された?」
「ミツカがクッションの上で寝てたら、あの人、ミツカのこといきなり掴み上げて……それで、ミツカとクッションをお手玉みたいにぽんぽん投げたんですううう」
話しているうちに再び恐怖が蘇ってきてしまったのか、ミツカは己の定位置であるホットケーキの形を模したビーズクッションの上で丸くなってぶるぶると震えだす。
「こ、怖かったですううう……怖かったですうううう……」
莉子は持っていた小瓶を勉強机に置くと、かがみ込んで恐怖に啜り泣くミツカの黄褐色の甲羅を宥めるように撫でた。
「ごめんね。お兄ちゃんには厳しく言っておくようにプリムラには伝えておくから。とは言っても、お兄ちゃんは朝帰りが多いし、遭遇することも多いだろうから気をつけてね。ミツカは基本的に夜行性だから、あの馬鹿兄貴と生活リズムが似てるしさ。いくらプリムラが注意したところで、あの性格だからちょっかいかけてくることもあるだろうし、私が家にいないときは自分でどうにか自衛して」
「は、はいぃぃ……」
球体から元に戻り、涙で濡れた顔をミツカは覗かせる。そうだ、と莉子はダイニングから持ってきたバナナをミツカに見せる。ちら、とミツカの黒い目がバナナを見た。
「ミツカ、おやつ食べない?」
食べますう、とミツカがまだ湿り気の残る声で言うと、莉子は勉強机にティッシュを敷いた。莉子は皮を剥き、食べやすいように小さくちぎったバナナをティッシュの上に並べると、ミツカの胴体を掴んで抱き上げる。
「ぴゃっ」
驚いたのか、ミツカは一瞬びくりと体を震わせ、抗うように爪をバタバタさせた。
「ごめんごめん」
「びっくりさせないでくださいようう……」
莉子が机の上にミツカの体を下ろすと、ミツカはちらりと恨みがましそうな視線を莉子へと向ける。「ほら、ミツカ。どうぞ」莉子にバナナを勧められると、ミツカはもしゃもしゃとそれを食べ始めた。
好物を与えられたことで少し気分が落ち着いたのか、次第にミツカの前足の共鳴石が元の静かな光を取り戻していく。先程のような魔力が不安定な状態が続けば、ミツカが凶魔化を起こしてしまう可能性があった。とりあえずのストレスケアはしてあげられただろうか、と莉子は安堵する。
ミツカがバナナを食べているのを視界の隅で眺めながら、莉子は机の引き出しを開いた。黄色い看板のバラエティショップで買い置きしていた小さな不織布の袋とリボン、スキンケア用のコットンとピンセットを取り出すと、莉子は先程結子の部屋から持ってきた小瓶の蓋を緩めていく。
ドライフラワーの入った小瓶から、莉子はピンセットで赤い実が愛らしいナナカマドと四葉のクローバーを取り出して、淡いピンクの不織布の袋へと少しずつ詰めていく。結子の部屋から他のドライフラワーと一緒に持ってきたリナリアを入れるべきか入れないべきかと莉子は逡巡する。アクシデントから身を守るだけの効能なら、身の安全を祈るナナカマドや幸運を招くためのクローバーだけで充分だが、莉子としては少しくらいはできたばかりの友人の恋を応援してあげたいような気もする。
(よし、やっぱりこれも入れよう)
リナリアの花言葉は”この恋に気づいて”。ゆうくんなる人物に片思いをしている愛香にぴったりの花言葉だ。愛香の恋に少しでも進展があるといいと思いながら、小瓶の蓋を開けると、莉子は不織布の袋へとピンセットで紫色の花を入れた。
「莉子、それは何をやっているんですか?」
バナナを食べ終わったミツカが莉子の作業に興味を持ったらしく、手元を覗き込んできた。
「これ? これは、お守りのサシェを作ってるの。今日、友達に占いをやってあげたんだけど、あんまり結果が良くなかったから」
そう説明してやりながら、莉子はアロマオイルを選ぶ。一番愛香らしいのはローズだが、彼女の恋に進展を望むのなら、思い切って催淫効果があるというイランイランを使ってみるのもいいかも知れない。
莉子はコットンを出すとイランイランのアロマオイルを何滴か垂らした。奥ゆかしい甘さと大人の妖艶さを合わせ持ったオリエンタルな花の匂い――イランイランの香りが立ち上り、莉子の鼻腔を刺激する。莉子はコットンを不織布の袋に入れ、口を銀色のリボンで縛った。
「後はこれに魔力を込めてやれば完成なんだけれど……ねえ、ミツカ。せっかくだから一緒にやってみる?」
莉子の提案にミツカは怪訝そうな顔をする。
「ミツカがですか……? 莉子ならミツカの手なんて借りなくても、このくらい余裕なのではないですか?」、
「それはそうなんだけど……私が今後もミツカとやっていくなら、いざというときにちゃんとミツカの魔力を扱えるようにしておかないといけないでしょ? 訓練とか練習だと思って協力してよ。これは私にとってもミツカにとっても必要なことだよ」
「わかりました。ミツカでよければいくらでも使ってやってください」
ミツカが納得すると、莉子は意識を集中してミツカとの繋がりを感じ取ろうとした。穏やかに光る二つの共鳴石の間に細い光の糸が走る。莉子は二人の魔力の波長を合わせるべく、己の魔力を調整していった。
「ミツカ、少し魔力借りるね。きつかったらやめるからすぐ言って」
莉子は魔力の糸を切らないように気をつけながら、慎重に糸を指で手繰り寄せていくと、自分の体内にミツカの魔力を取り込んでいった。莉子は自分の魔力とミツカの魔力という太さの違う二本の糸を一本の紐のように撚り上げていく様を脳裏に思い描く。さほど強くも濃くもないけれど質の良いミツカの魔力をどのように自分の魔力に絡めていくか、自分とミツカの魔力をどのくらいの比率で練り上げていくか――そんなことを考えながら、莉子は自分の感覚に従って、魔力の具合を調整していく。
よし、と体内で魔力を錬成し終えると、莉子は自分で作ったサシェを手のひらで包み込んだ。魔力の光が莉子の手をベールのように包んでいく。愛香の幸運を願いながら、莉子はそっと手のひらから練り上げた魔力を解き放った。
莉子とミツカの魔力を帯びた薄ピンクの不織布の袋が青白い燐光を纏う。このくらい、と適当なところで流れ出る魔力を莉子が己の身の内に封じ込めると、サシェの光り方は次第に落ち着いていった。
薄ピンクの袋がうっすらと発光するに留まるようになったことを確認すると、莉子はミツカとの間に張られた魔力の糸を爪の先で切り、集中を解く。そして、莉子はすぐにミツカの具合を案じる言葉をかけた。
「ミツカ、大丈夫?」
莉子がミツカにそう聞くと、ミツカは疲れた顔で机の上にへたりこむ。ミツカから借り受ける魔力の量は最小限に留めたはずだったが、それでも初めて魔法使いに魔力を供給したミツカには負担だったようだ。
「魔法使いの方に魔力を供給するのってこういう感じなんですね……なんだか、ミツカ、体に力が入らないですう……」
「慣れないうちは使い魔側にも負担がかかるらしいからある程度は仕方ないかな。慣れたらたぶんこのくらいじゃ疲れなくなってくるはずだよ。プリムラいわく、だけど」
「あの、莉子……ミツカ、どうでしたか? ミツカ、少しでも莉子のお役に立てましたか……?」
役立たずと罵られることを恐れているのか、おずおずとそんな質問をしてきたミツカに莉子はぐっと親指を上げてみせる。契約を結んですぐのころは、使い魔から魔力を引き出すのに手こずるなんていう話をよく聞くが、初回でこれなら上等だ。
「はじめての割にはいい感じだったんじゃない? ミツカから供給されてた魔力、途切れたりしないでちゃんと安定してたし。これだけできれば上出来、上出来」
それを聞いて安心したのか、ミツカは脱力したようにくたっと体を伸ばした。莉子はミツカの甲羅をよしよしと手で撫でてやる。
「ミツカ、お疲れ。そうだ、手伝ってくれたお礼に何か持ってきてあげる」
そう言うと莉子は椅子から立ち上がり、部屋を出る。階段を下りると、莉子は台所へと足を踏み入れ、冷蔵庫を開けた。何かミツカが好きそうなものはなかったかな、と莉子は野菜室を探っていく。使い魔の失った分の魔力を補填してやるには何か栄養のあるものを与えてやるのが一番手っ取り早い。
(――お、リンゴ発見)
莉子は野菜室からリンゴを取り出すと、シンクで軽く水洗いした。水切りラックに干してあった包丁とまな板を取ると、包丁をリンゴに這わせるようにして皮を剥いていく。そして、莉子は八等分になるようにリンゴを切っていった。
「お皿、お皿っと」
莉子は食器棚から皿を二枚持ってくると、リンゴを四つずつ乗せる。それから、包丁とまな板をシンクで洗って水切りラックに干し直すと、莉子は台所を後にした。とんとんと足音を鳴らしながら、リンゴの乗った皿を持って階段を上ると、莉子は部屋のドアを肘で押し開ける。
「ミツカ、お待たせ」
莉子の机の上でくたっとしたまま、疲労でうつらうつらとしていたミツカは、リンゴの甘い匂いに反応して目を開ける。
「あ、リンゴ……」
「ミツカ、リンゴ持ってきたよ。――ほら、食べな」
ミツカの前にリンゴの皿を片方置いてやると、莉子は自分も椅子へと腰を下ろす。これまで気だるそうにしていたのが嘘のようにぱっと黒い目を輝かせるとミツカはリンゴを齧り始めた。シャコシャコと音を立てて、機嫌良くミツカがリンゴを食べているのを眺めながら、莉子も自分の分のリンゴに口をつける。ミツカは途轍もない勢いでリンゴを食べている。よっぽど好きなのだろうと、その様子が微笑ましくて莉子は小さく笑った。プリムラに頼んで、リンゴは必ずミツカのために冷蔵庫にストックしておいてもらうようにしよう。
莉子は自分の分のリンゴを食べ終えると、ミツカへと話しかけた。
「ねえ、ミツカ。変なこと聞くようなんだけどさ」
「ふぁい……、莉子、どうしたんですか?」
ミツカは口の中のものを飲み下すと、莉子のことを振り返って小首を傾げる。
「ミツカはさ、将来、使い魔としてどうなりたいとかってあるの?」
ミツカですか、ミツカは戸惑ったような表情を浮かべた。ええと、としばらくミツカは躊躇った様子を見せていたが、やがて意を決したように口を開いた。
「ミツカはまだまだ使い魔として未熟な身です。だから、ミツカにこの先のことを聞かれても難しいですけど……それでも、ミツカが今、どうありたいかというのは一応あるつもりです」
「どうありたいかって?」
「こんなこと言うと生意気って思われそうですけど……ミツカは魔力だって少ないし、賢くもないですけど、それでもできる限り、使役してくれる魔法使いの方の支えになれる存在でありたいって思ってます」
ミツカの答えに莉子はへえ、と声を漏らす。いつもびくびくとして、己を卑下してばかりいるミツカが自分の在り方についてきちんと考えているのが少し意外だった。
「まあ、これはムツナの受け売りなんですけどね……」
居心地悪そうにそう言い添えたミツカに、莉子はムツナって、と聞き返す。
「ミツカの大事なお友達です」
そう答えるとミツカは黒い目を細め、大切な宝物に触れるようにムツナについて話し始めた。
◆◆◆
ミツカはとても怖がりなアルマジロだ。時折、身の回りでおきる不可解な現象の数々に怯えては丸まって震え、オオカミやライオンどころか子猫にさえしょっちゅう追いかけ回されては穴ぐらに飛び込んで恐怖に涙をこぼすような日々を送っていた。
ミツカがムツナに出会ったのは、ミツカがイタチに襲われ、逃げ遅れたときのことだった。
(ミツカ、イタチなんかに食べられて、死んじゃうんですか……? 怖い、死にたくない……誰か、誰かミツカのことを助けてください……!)
丸まって身を守ることすら間に合わず、柔らかな腹部に牙を突き立てられかけていたミツカが恐怖と諦観に目を閉じようとしたとき、どこからともなく黄褐色の生き物が現れた。その生き物はイタチを威嚇し、追い払ってくれた。
ミツカのことを助けてくれた、彼女より一回り大きな体を持つその生き物――それがムツオビアルマジロのムツナだった。ムツナはぼろぼろと涙を流すミツカを振り返り、優しくこう聞いた。
「大丈夫?」
アルマジロとは本来、別の個体と群れて暮らす生き物ではない。しかし、一人では到底生きていけそうになかったミツカからムツナは離れることはなく、それからずっと側に居続けた。
縄張り意識が強く、単独行動を是とするアルマジロらしく、ミツカは自分から離れようとしないムツナのことをしばらくは拒み続けていた。しかし、付かず離れずの距離で根気強く優しい言葉を投げかけ続けるムツナにミツカは次第に心を開くようになっていった。
仲良くになるにつれ、ムツナはミツカがアルマジロとして一人でも生きられるように様々なことを教えてくれるようになった。その度にムツナへの尊敬を深めていったミツカはあるとき、自分が抱え続けてきた悩みごとを告白した。
「ムツナ、聞いてください。昔からミツカの周りでは変なことがよく起こるんです。寝床がいきなり水浸しになったりだとか、背中に花が咲いたりだとか、一つ一つは小さなことなんですけど、ミツカ、怖くって」
ムツナはミツカの話を聞いて、少し考え込む素振りを見せた。
「それはミツカが私と同じで、ちょっとだけ魔力を持ってるからかもしれない。たぶん、制御できていないミツカの魔力が悪さをして、ミツカの周りで怪奇現象を引き起こしているんだと思うよ。私もそんなに詳しいわけじゃないけど、よかったらミツカも魔力の制御の仕方、一緒に勉強してみない?」
自分を脅かし続ける不可解な現象の数々がどうにかなるなら、と臆病なミツカにしては珍しく、ムツナと共に魔力の勉強をすることを即決した。
それからというものミツカとムツナは少しずつ移動を繰り返しながら、魔力の勉強をして暮らした。そして、幾年かが過ぎ、ミツカがなんとか魔力の扱い方を覚えたころ、JWUの職員だという男が二人に接触してきた。
JWUの職員は、新たに立ち上げ予定の使い魔サブスクサービスのために、ミツカとムツナを使い魔としてスカウトしたいという話を持ちかけてきた。しかし、その話を聞かされたミツカはそれを拒否した。
自分なんかが役に立てるとも思えなかったし、どこの誰とも知れない人間の元へ行くのは怖かった。そして、何よりムツナと離れ離れになるのが嫌だった。
けれど、そんなミツカに反して、ムツナはやりたいと言った。
「この力が誰かの役に立つのなら、私はやってみたい。この力がまだ知らない誰かの支えになれるなんて素敵じゃない? 私は誰かの――魔法使いの人の支えになれる自分でいたい」
そう言ったムツナの姿がミツカには眩しく見えた。そして、ミツカは他の誰より憧れ、尊敬する親友のムツナのようになりたいと思い、自身も使い魔のサブスクサービスに協力することを了承したのだった。
◆◆◆
「あのときのムツナは本当に格好良くって。誰よりも尊敬する友達のムツナみたいになりたいってミツカは思ったんです。だからミツカもミツカなりに、魔法使いの人の支えになれるように頑張りたいって思ってます」
「いいじゃん。立派なことだと思うよ」
そうでしょうか、といまいち自信なさげにするミツカに、「自信持ちなよ」と莉子は彼女の志を肯定した。
「ところで、莉子はどうしていきなりそんなことをミツカに聞いたんですか?」
ミツカは当然の疑問を莉子へぶつける。そりゃそうだよね、と莉子は苦笑する。何の脈絡もなく、そんなことを聞かれれば不思議に思うのは当然だ。莉子は今日の夕方の出来事をミツカへと話した
「友達に聞かれたんだよね。将来は占いを仕事にするのかって。そしたら、私、魔法使い認定資格を取ることがゴールのままになってて、将来のことなんてまったく考えてなかったことに気付かされて」
だけどさ、と莉子は言葉を続ける。
「ミツカの話を聞いていて、今は自分のできることを頑張るっていうのも一つの答えなのかもって思った。ミツカ、ありがとね」
「み、ミツカはお礼を言われるようなことは……」
ミツカは恐縮したように体を縮こまらせる。すると、その拍子にミツカの頭と尻尾が甲羅の中に入ってしまった。
「あ」
ついうっかり丸まってしまったことにミツカは慌てたように声を上げた。ミツカは手足をばたつかせながら体を球体から元に戻す。
「ミツカは何もしてないです。だけどミツカは、莉子がどんな選択をしても、使い魔として全力で支えるまでです。もっとも、ミツカの力で出来ることなんてすごく限られてますけど」
そんなことないよ、と莉子はかぶりを振る。この臆病で自己肯定感の低いアルマジロの存在が、言葉が今はとても心強い。
「ミツカがいてくれてよかった」
そう言うと、莉子はミツカの頭を指先で撫でる。ミツカは莉子の顔を直視できないのか、わたわたとあちこちに視線を向けていたかと思うと、喉の奥から情けない声を漏らした。
「ぴゃ、ぴゃあ……」
褒められ慣れていないミツカは限界を迎えたのか、再びくるんと球体化して、自分の甲羅の中にこもってしまった。その体はかたかたと震えている。
仕方ないなあ、と丸まって一人で悶絶している相棒に苦笑した莉子の視界にふと入学式の前日から置かれたままの手芸屋の紙袋が映った。そうだった、と莉子は思い出してがさがさと袋からライトグレーのチェック柄と黒のドット柄のダブルガーゼの端切れを取り出した。
莉子は座ったまま体を上に伸ばすと、机の上のラックから花の彫刻が刻まれた使い込まれた裁縫箱をそっとおろした。裁縫箱を開けると、針に白い縫い糸を通し、莉子は二枚の布を裏返しにして縫い合わせ始めた。
しばらくして、二枚の布の外周を返し口を残して縫い合わせ終わると莉子は手を止める。返し口から布を表返すと、内側に隠れていた柄が露わになる。そして、縫い代を内側に織り込んでまち針で止めると、布の外周にステッチを施していった。
針を縫い針から刺繍針に持ち替えると、莉子は針の穴に三本取りにした黄色の刺繍糸を通す。そして、ライトグレーのチェック柄の面に、レーゼデイジーステッチでタンポポの花を刺繍し始めた。タンポポの花を刺し終えると、糸をグリーンに変え、アウトラインステッチで茎を、サテンステッチで葉を布の上に刻んでいった。
莉子がハンカチを作り終えると、いつの間にかミツカは球体になったまますやすやと寝息を立てていた。魔力を使っただけでなく、樹来いじめられたこともあって疲弊していたのだろう。そんなミツカをいじらしく思いながら、莉子はもう一度体内で魔力を練る。ほどなくして、莉子の手を淡い魔力の光が覆い始めた。
莉子は完成させたばかりのハンカチの上に手を翳すと、自身の魔力を込めた。彼女が刻んだ縫い目の一つ一つが魔力を帯びてほのかに光り始める。
(よし、こんなものか)
莉子はハンカチから手を離すと、体内の魔力を収束させる。練り上げられた魔力の塊がすっと体内で霧散していくのを莉子は感じた。
(……あ、やば)
いつの間にか春の夜は更け、机の隅に置いたスマホの時計は深夜二時を回っていた。いい加減もう寝ないと明日に響く。
「――おやすみ、ミツカ」
そう呟くと、莉子はミツカを起こさないように静かに椅子から立ち上がる。時間が時間ということもあって瞼が重い。作ったサシェとハンカチを床においたスクールバッグの中に滑り込ませると、部屋の電気を消し、莉子はマットレスと花柄の掛け布団の間に体を潜り込ませた。
夜の静寂の中、どこからかやけに宵っ張りな春告鳥が子守唄を歌っている。カーテンの外では、暗い空のあちらこちらで春星が朧に光を降らせていた。
◆◆◆
翌朝、莉子が身支度を終えてダイニングへ降りていくと、結子が大根とにんじんの味噌汁を啜っていた。夕方から夜に仕事が集中しがちな結子にしては珍しいことだった。
「あれ、ママ。何で起きてるの?」
「何って仕事よ仕事。今日、十時から都内で仕事なの。ウェブ向けコンテンツの取材と撮影だって。まったくもう、最近そんなのばかりで嫌になっちゃうわ。警察に申請も出して、安くない場所代も払ってるっていうのにこれじゃあ全然本業の仕事ができやしない」
朝から昨夜のおかずの唐揚げを頬張りながら、結子はぶつくさと何やら文句を言っている。確かに結子は最近メディア露出の仕事ばかりで、本業としての占い師の仕事がろくにできていない。莉子が結子の向かいに腰を下ろすと、結子はこんなことを言い出した。
「ねえ、莉子。場所代もったいないし、私の代わりに仕事しない? あんたの腕なら申し分ないでしょ」
「やだよ、駅前の飲み屋街のとこでしょ。あの辺酔っ払い多いし」
それもそうねえ、と結子はテーブルの上に肘をつく。そして、行儀悪く右手に握りしめた箸でぐちゃぐちゃと納豆をかき混ぜながら結子は人の悪い笑みを浮かべると、名案とばかりにこんなことを言い足してきた。
「酔っぱらいに絡まれるのが怖いなら、和希くんに一緒にいてもらいなさいよ。男の子が一緒にいればそうそう変な人に絡まれることはないだろうし、仮に何かあっても和希くんなら必ず莉子のことを守ってくれると思うわよ?」
そのとき、フリルエプロン姿のプリムラがメープルシロップが滴り落ちそうなくらいかけられたフレンチトーストの乗った皿を運んできた。彼女は莉子の前に皿を置くと、自分の主人をを諌める。
「高校生が二人であんなところにいたら、間違いなく警察に補導されるわね。結子の店が繁盛するのなんてだいたい夜遅くなんだから。そもそも結子、高校生の二十二時以降の労働は労働基準法で禁止されているわよ。個人事業主とはいえそのくらいわかってるわよね?」
「もう、わかってるって。ちょっと言ってみただけじゃない。本当にプリムラが小煩いのは昔から変わらないわね」
「……あたしにそうさせてるのは一体どこの誰だったかしら?」
プリムラに半眼で睨まれると、知らないわねえ、と結子は嘯きながら納豆に刻んだネギを混ぜる。これ以上小姑めいた妖精の小言を食らいたくなかったのか、結子は話題を変える。
「ところで莉子、昨日私の部屋からドライフラワーとかアロマオイルの瓶いくつか持っていかなかった? 昨夜、店で出す用のお守り作ろうとしたら、いくつかなくなってたんだけど」
「ああうん、ちょっとお守りのサシェ作りたくて借りた。帰ったら返しとくよ」
結子は本業の占いだけでも相場より高い金額を取っているが、それでは飽き足らずに客に手作りのお守りを売りつけて更なる利益を得ている。一流の魔法使いの作ったものということもあり効果は抜群で、客からの評判も非常に良いが、その高い売上のせいで毎年確定申告が大変だとプリムラがぼやいていた(家事だけではなく、プリムラは毎年の確定申告のような経理的なことまで結子に押し付けられている)。
結子はよくかき混ぜた納豆を白米の上にかけ箸で口に運びながら、莉子をじっと見る。テーブルの上に置いたケトルのお湯で、マグカップにインスタントコーヒーを淹れていた莉子は視線に気づくと、何、と聞いた。
「飲むなら自分で淹れるか、プリムラにやってもらうかしてよ」
莉子の言葉にやだやだ、と結子は箸を持ったままの手を顔の前で振った。箸と箸の間では納豆の糸が蜘蛛の巣を作っている。
「ケチねえ。まったく、誰に似たのかしら」
そう言うと結子は白い蝶の羽を羽ばたかせながら、家事に勤しんでいる花の妖精へと一瞥をくれる。何よ、というやや棘を含んだ声がプリムラから返ってくる。しかし、結子は意に介したふうもなく、話を続ける。
「まあ、そんなことはどうでもいいんだけど。莉子の制服姿を見るのも久しぶりね。入学式以来?」
「かもね。ママ、大抵朝は寝てるし、夕方は仕事でいないから」
高校はどう? とい珍しく親らしいこと聞いてきた結子に莉子は意外さで目を瞬かせた。普段は娘を自分の使い魔に任せきりにしているくせ彼女の発言だとは思えなかった。草青むこの季節に時期外れの大雪でも降るんじゃなかろうか。
「別に。普通だよ」
「そう? 何か将来のことで悩んでるらしいってプリムラから聞いてるんだけど」
どうってことないと莉子は流そうとしたが、緑茶の入っていた湯呑みにインスタントコーヒーを淹れようとしながら結子にそうさらりと言われて、莉子は食べかけのフレンチトーストをフォークごと取り落としかけた。そして、莉子はメープルシロップまみれになった皿へと視線を落とすと、うんまあ、と居心地悪げに言った。
「ちょっと、友達に将来の進路のこと聞かれただけ。ねえ、何でママは今の仕事してるの? 私と同じくらいの年のときは何か無茶苦茶なこと言ってたらしいってプリムラから聞いたけど」
湯呑みにケトルに残っていたお湯を注ぐと、そんなこともあったわねえ、と結子は懐かしそうな顔をする。
「私は今も昔も自分にできることをやっているだけよ。私にはたまたま魔法使いとしての才覚も、あんたのおばあちゃんに仕込んでもらった占いの技術もあったから。
だけどね、莉子。おばあちゃんと違って、私は魔法使いの血と技術を残したいとかそんなことは考えてないの。だから、別にあんたは魔法使いなんてものに囚われなくたっていいのよ。
将来の選択肢を多く残すために、認定資格も取らせたし、高校もそれなりのとこに行かせたけど、他にやりたいことができたら、魔法使い以外の道を選んだっていいの」
結子の話を聞き、莉子はフォークを動かす手を止める。いつも割と適当なところが目立つ結子がこんなことを考えていたとは思っていなかった。やっぱり今日は大雪になるに違いない。バッグに傘は入っていただろうか。そんなことを考えている莉子をよそに、結子は話を続けていく。
「まあ、私に言えるのは、莉子は今は高校生活を楽しんで、色々な経験を積みなさいってことかな。あんたの学校はまあ……自称進学校とかいうやつだから進路とかうるさそうだけど、結局、最後に決めるのはあんた自身だしね。
私が一つ言ってあげられることがあるとしたら、あんたにとってどんな経験も無駄にはならないってこと。今のあんたにしかできないことをやりたいように、やりたいだけやりなさい。犯罪や危ないことに首を突っ込まない限りは、私もプリムラも止めるつもりはないし、お父さんだって何も言わないはずよ。そうやって経験を重ねた分だけ、あんたの視野は広がるし、視野が広がればあんたという人間に深みが出る。だから今は普通に年齢相応に毎日を頑張って生きればいい――勉強も、遊びも、魔法も……あと恋なんかもね」
朝から思いがけず深い話をされて、莉子は呆けた。やりたいようにしていいという結子の言葉が心の中でゆっくりと染み渡って、安堵へと変わっていく。自分は自分でいいのだという事実が揺らいでいた自分の中に降りてきて、目の前の靄が晴れたような気がした。
そのとき、プリムラが白地に水色の花柄のランチクロスに包まれた弁当箱を持って飛んできて、呆けたままだった莉子を急かした。
「莉子、そろそろ行かないと遅刻!」
もうそんな時間かと莉子はブレザーのポケットからスマホを出して、ロック画面の時計を確認する。時刻は午前七時四十五分を回っていた。そろそろ出ないと電車に乗り遅れてしまう。慌てて残りのフレンチトーストをコーヒーで流し込むと莉子は立ち上がった。
プリムラから弁当を受け取ってダイニングテーブルの下に置いていたスクールバッグに押し込むと、莉子はティッシュで口元を拭った。「ごちそうさま!」莉子はそう叫ぶと、スクールバッグを持ってばたばたと慌ただしく玄関へと向かった。膝丈のベージュのチェック柄のスカートの裾が翻る。
莉子が玄関でローファーに足を突っ込もうとしていると、がちゃんと外の門の扉が開く音がした。扉の向こう側に幼いころから慣れ親しんだ気配が立ったかと思うと、インターホンが鳴った。
プリムラはインターホンモニターへと飛んでいくと、応答ボタンを押した。「あ、和希」「プリムラ、おはよ。莉子は? 待ってたんだけど、今日全然来ないから迎えにきた」「今玄関よ。もう出れると思うわ」プリムラはインターホンモニター越しに和希と何言か会話を交わすと、靴を履いている莉子の背中へと向かって叫んだ。」
「莉子ー、和希来たわよー」
「わかってるー!」
そう叫び返すと、莉子は上り框に置いたスクールバッグを持って立ち上がった。そして、いってきます、と莉子は玄関のドアを開ける。
「莉子、おはよう」
玄関ポーチには莉子と同じブレザーにベージュのチェック柄のスラックスに身を包んだスマートマッシュの少年が立っていた。おはよ、と莉子は和希に挨拶を返す。
「今日遅かったから、俺の方から来ちゃったけど、どうしたの? 莉子、寝坊でもした?」
「ううん、ちょっとママと話してただけ。それより早くいかないと。電車来ちゃう!」
急ぐよ、莉子は和希の茶色いブレザーの腕を掴むと走り始める。二人が走り去った後には、深紅の桜蘂が残されていた。
◆◆◆
莉子は教室で愛香と弁当を食べているときに、ふと思い出したことがあって箸を止めた。今朝は遅刻すれすれで教室に駆け込んだせいでそれどころじゃなかったが、鞄の中には愛香のために作ってきたサシェがある。莉子は机の脇にかけたスクールバッグを開き、ピンク色の小さな袋を取り出すと机を挟んで向かい合って座る愛香の前にそれを置いた。昨日込めた莉子とミツカの魔力が不織布の繊維に絡みついてかすかな光を放っている。
「そういえば愛香、これ渡すの忘れてた。昨日言ってた通り、占いの結果が微妙だったから作ってきたんだ。気休めにしかならないかもしれないけど、嫌じゃなかったらバッグにでも入れといて」
莉子からサシェを受け取ると、愛香はきらきらと目を輝かせる。ありがとー、と薄紅色の唇を綻ばせた彼女の頬に笑窪が浮かぶ。
「莉子すごーい! こんなの作れるんだ、かわいいー!」
イランイランの香りがする不織布の袋に鼻を近づけて匂いを嗅ぐと、「なんかいい匂いするー……」愛香はうっとりとした顔をした。これだけ喜んでもらえるのなら、作った甲斐があるというものだ。
(さて……愛香はいいとして、和希にはいつ渡すかな……。今朝はばたばたしててそれどころじゃなかったし、だからといって今行って渡すのも悪目立ちするし……。でも帰りに改まってっていうのもそれはそれでなんだかなあ……)
いい年して手作りのプレゼントなど、和希が喜んでくれる保証もない。莉子が鞄の中のハンカチの処遇に頭を悩ませているのをよそに、愛香は大きなサテンのリボンがかわいらしいペンケースにサシェをしまうと、こちらへと身を乗り出してきた。
「莉子、知ってる? 隣のD組の友達からメッセージ来てたんだけど、さっきの四限の体育で骨折した男子がいたらしいよ」
「へえ、そうなんだ」
D組といえば和希のクラスだなあなどと思いながら、莉子はプリムラによるお手製弁当のミートボールを箸でつつき始めた。どこの誰だか知らないが、ゴールデンウィークを控えて骨折とは何とも災難なことだ。
そんなことを思いながら、莉子が弁当を食べ進めていると、教室の戸口がざわついた。なんだろう、と弁当から顔を上げた莉子の視線とクラスメイトたちの視線が交錯する。気のせいか、クラス中の注目が自分に集まっているような気がする。
「清水さん、彼氏来てるよ」
購買部に行った帰りらしい、メロンパンとチョココロネを手にした女子は莉子と愛香に近づいてくるとそう言った。クラスメイトたちが自分を見て何やらひそひそ言っているのが聞こえてくる。
「彼氏って……」
莉子が戸口の方を見ると、和希が立っていた。入学早々悪目立ちしてしまったことに莉子はため息をつくと、箸を置いて立ち上がる。
「ごめん愛香、ちょっと行ってくるね」
「はいはい、ごゆっくり。もう莉子、違うって言ってたくせにやっぱり付き合ってたんじゃん」
少し拗ねた様子の愛香に、莉子は違うって、と一応弁解を試みる。しかし、莉子の言葉はが愛香の耳に届いた様子はなかった。
(もう……変に目立ちたくないから、学校ではクラスまで来たりしないでって言ったのに……)
好奇に満ちた視線の集中砲火を浴びせられ、和希に文句を言いたい気持ちでいっぱいだった。莉子は早足に教室の戸口へと向かうと、和希のブレザーの腕をひっつかんだ。誰かがヒュウと口笛を吹いたのが聞こえた。なんでこんな辱めを受けないといけないんだ。全部和希が悪い。
莉子は有無を言わせずに和希を非常階段まで引きずっていった。辺りに人気がないことを確認すると、莉子は開口一番に和希へと怒声を浴びせた。
「もう! 教室まで来て何の用なの!? 用があるならメッセージ送るとかにしてよね! 和希のせいでクラス中に変な勘違いされたじゃん!」
「俺はそれでもいいけど……」
口の中で何やらごにょごにょ言っている和希に莉子はよくない、と言い返す。何が悲しくて和希なんかと噂にならなければならないんだ。それで、と莉子は腰に両手を当てると、わざわざ教室まで訪ねてきた理由を問い質す。
「一体何の用なの? これでろくな話じゃなかったら、呪いかけてやるんだから。移動教室で教室間違えて恥かく程度のやつ」
「それ微妙に嫌なやつじゃんか……。ていうかそういう悪いことに力使ったのがバレるとプリムラに怒られるんじゃなかったっけ?」
莉子は聞こえなーい、と耳を塞ぐ。和希はやれやれと肩を竦めると、自分のスマホを取り出した。スマホのロックを解除すると、和希は莉子へとメッセージアプリの画面を見せる。
「それはともかくとして……何で莉子、プリムラからの電話出ないんだ? 莉子と連絡がつかないって、プリムラから俺にメッセージ来てるんだけど」
――莉子と急ぎで連絡取りたいんだけど、何回かけてもあの子電話に出ないの。悪いんだけど、和希連絡取れる?
プリムラと和希のチャット画面に書かれた文面を読み、おかしいなと莉子は首を捻った。プリムラから電話なんて来た覚えはない。
莉子はブレザーのポケットを探り、自分のスマホを引っ張り出す。指先でタップしても、電源ボタンを押しても、画面に光が灯る様子はない。そういえば、昨夜はいろいろやっていて夜更かししてしまったせいで、スマホをほったらかしでそのまま寝てしまったような覚えがある。
「あ……昨夜、スマホ充電するの忘れてたような……」
「まったく……。プリムラにはそうメッセージ返しとくね」
和希がメッセージアプリにプリムラへの返事を入力しているのを横目に、莉子はそもそもの疑問を口にする。
「っていうか、私に急ぎってプリムラは何の用だったわけ? あんたにまで連絡来るってなかなかないと思うんだけど」
「さあ……?」
「あんたねえ……」
和希がプリムラにメッセージを送ると同時に、まるで待ち構えていたかのように既読がついた。次の瞬間には、和希のスマホが震え、プリムラからの着信を告げる。和希は莉子と視線を交わし合うと、緑色の受話器のボタンを押し、莉子にも聞こえるようにスピーカーモードにする。
「もしもし、和希? 莉子も今一緒?」
珍しく緊迫したプリムラの声がスピーカーから響いた。何だか嫌な予感がする。莉子はプリムラの気迫に狼狽えながらどうしたの、と聞いた。
「ミツカがいなくなったのよ」
え、と莉子が絶句した。プリムラは苦々しげに言葉の続きを継ぎ、何があったのかを説明してくれた。
「今朝十時くらいだったかしら。ミツカが朝ごはんを食べに下に来たときに、樹来とうっかり鉢合わせしちゃったのよ。樹来、昨日は帰りが早かったから、その分早く起きちゃったみたいで。それで、樹来が尻尾掴もうとしたら、怖がって庭に逃げちゃったの。それでそのまま地面をを掘って、脱走してどこかにいっちゃったみたいで……」
あの馬鹿兄貴、と莉子は毒づく。珍しくまともな時間に家にいて、比較的まともな生活をしていると思ったら本当にろくなことをしない。
「で、諸悪の根源のお兄ちゃんは?」
「どうしても外せない講義があるとかで、珍しく大学行ったわよ。仕方ないから、あたし一人で近所は一通り探してみたんだけど、どこにも見当たらなくて。もしかしたら莉子のところに行ってる可能性もあるかと思って連絡してみたんだけど……」
「それこそあり得ないでしょ。うちから学校まで一体何キロあると思ってるの?」
プリムラの言葉に莉子は反論した。しかし、あのさ、と莉子とプリムラの会話に和希が口を挟む。
「ミツカって、あの使い魔のアルマジロだよね? それなんだけど、ちょっと気になることがあって」
気になることって、と莉子は聞き返す。スピーカーの向こう側でプリムラも怪訝そうに声を上げていた。
「俺のクラス、さっきの時間、体育だったんだけどさ」
「ああ、道理で臭いと思ったら。和希、今あんた汗と柑橘系の匂いが混ざって絶妙に臭いよ」
和希はしょんぼりと眉尻を下げる。莉子に臭がられないように配慮して使ったはずの制汗剤が裏目に出て、変な匂いになってしまっている自覚はあった。
「それは俺も自覚してる……じゃなくて、莉子、余計な茶々入れないでよ。さっきの授業で、ちょっと時間が余ったから、男子全員でドッヂボールしてたんだよ。最初は普通のボールでやってたんだけど、何かのタイミングでボールが違うものと入れ替わっちゃってさ。ボールが入れ替わった直後なんだけど、ボールが当たった奴が怪我しちゃって……。そいつ、結局、骨折してるっぽいから病院行くとかで早退してったんだけど、今思えば、あれってミツカだったんじゃないかって……何か黄土色っぽい色してたし、何かぴゃあって悲鳴も聞こえた気がするし」
莉子は手でこめかみを押さえた。先ほど、愛香から聞かされた噂話の真相はこういうことだったのかと思うと頭が痛い。
「プリムラ、たぶんミツカは学校のどこかにいると思う。和希、体育やってたのって、体育館? それとも校庭?」
体育館、と和希が答えると、オッケーと莉子は頷いた。これ以上ミツカが校内で何かやらかさないうちに早く捕まえないといけない。それが魔法使いたる自分の責任だ。
「それじゃプリムラ、ミツカのことはこっちで探してみる。和希、一緒に来て」
「えええ……莉子、俺、五限、英語の小テストあるから教室戻りたいんだけど……」
いいから来て、と莉子は有無を言わさず、和希の前腕を掴んだ。
「和希、悪いけど付き合ってあげて」
苦笑混じりのプリムラの声に頼まれて、和希はわかったよ、とため息をついた。プリムラにまで頼まれたらさすがに断れない。和希は後で教師に怒られる覚悟を決めた。
「プリムラ、こっちでミツカ見つけたらまた連絡する」
「うん、授業あるところ悪いんだけどお願いね。ミツカを早く見つけてあげて」
「わかった」
それじゃ、と莉子は勝手に和希のスマホを操作して通話を切った。スマホの画面には十三時四十分と表示されている。昼休みも終わりかけている以上、ミツカがまだ体育館に留まっているかわからなかったが、他に手がかりがない以上、行ってみる以外の選択肢はなかった。
「和希、行くよ」
莉子は和希の腕を掴んだまま歩き出す。仕方ないなあと言いながらも、和希は莉子の手を振り解くことはしなかった。
リノリウムの廊下に割れ気味なチャイムが響く。廊下には五限目の授業のために教室移動をする生徒たちの姿が見え始めていた。
◆◆◆
五限の授業で体育館を利用するのか、ジャージ姿の女子が集まり始めていた。莉子たちとは学年が異なるのか、体育館履きのラインの色が違っている。莉子は和希と一緒に体育館の入り口から中を覗き込むと、四限の体育の授業のことを改めて確認していく。
「で、ここにミツカが紛れ込んでたって? 何時くらいの話?」
「チャイム鳴る少し前のはずだから、十二時四十分くらいじゃないかな?」
「その後、ミツカがどこ行ったかわからない?」
「骨折騒ぎで大騒ぎになっちゃって、それどころじゃなかったから、そこまではちょっと……」
肝心なところで役に立たない、と莉子は胸中で毒づいた。他所へ行ってしまったのか、まだ体育館のどこかに隠れているのかミツカの足取りは判然としない。しかし、一旦はこの体育館の中を一通り探してみるほかなさそうだった。ワンチャン体育館倉庫のボール入れの中にでも丸まって紛れ込んでいたりしないだろうか。
「ねえ、莉子って、魔法使いなら、自分の使い魔の場所くらいわかったりしないの? その指のリングで呼び出せたりとかさ」
和希の疑問に、莉子はあのねえと顔の前にローズクォーツのリングが嵌まった人差し指を立てる。
「そんなことができるなら、こんなふうに探し回ったりせずに最初からそうしてるに決まってるでしょ。最初に来たタツロウみたいに魔力が濃くて多ければ、それを頼りに探すこともできるんだけど、ミツカは魔力量が少ないから魔力の気配を追いかけて探すことは無理。
あと、この共鳴石っていうのもそこまで便利なものじゃないの。この石で使い魔に命令を強制できるのは、私の目が届く範囲――要はこの石が光っている間だけ。つまり、ミツカがどこにいるかわからない以上、これは何の役にも立たないただのアクセサリーってわけ」
使い魔へ命令を下せたり、魔力の供給を受けることができるのが共鳴石の効果の範囲内というのがこの契約形式の最大のデメリットだ。永久契約であれば、使い魔の所在がわからずとも呼び出すことくらい朝飯前だ。体の中にある互いの血が呼び合うからだ。
(ないものねだりしたって仕方ない。――行くか)
かぶりを振って、無理やり意識を切り替えると、莉子は体育館に足を踏み入れようとした。その瞬間、背後から近づいてきた二人組の女子が気になる会話をしているのを聴覚が捉えた。
「さっき、昼休みにパート練で音楽棟に行ったんだけどさ。誰もいないはずの練習室からピアノの音がしてたんだよね」
「何それ、ホラーじゃん」
「ずっと不協和音がしてるから気になって練習どころじゃなくって、確認してみようって話になって。トロンボーンのみんなでじゃんけんしたら私が負けちゃったから、仕方なく様子を見に練習室の中に入ったらぴゃーって悲鳴がして」
「何それ、ますますホラーじゃん」
上級生の女子二人の会話を聞いた莉子と和希は顔を見合わせる。どう思う、と莉子は和希に意見を請うた。
「ミツカかもしれないね」
「だよね。音楽棟、だっけ? 行ってみよう」
莉子と和希は踵を返すと、体育館を後にする。五限目の開始を告げる本鈴が鳴り響いていた。
◆◆◆
「ミツカいないね……」
「いないな……」
音楽室の前に並んだ六つの個室――吹奏楽部や音楽科の学生が主に使用する練習室をくまなく探し終えた莉子と和希は顔を合わせるとため息をついた。音楽室と準備室も音楽教師の瀬野にちくちくと文句を言われながらも一通り確認させてもらったが、ミツカの姿はなく、捜索状況は芳しくなかった。
ミツカの行方は杳として知れない。一体どこに行ってしまったのだろうと、莉子と和希はキュッキュとまだ汚れのない上履きのゴム底を鳴らしながら、仕方なく階段を降りていく。
渡り廊下の柱にかけられたアナログ時計は午後二時過ぎを示している。プリムラの話から考えると、ミツカが脱走してから既に四時間が経過している。あの臆病な子は一体どこで何をしているのだろうか。見知らぬ場所や人を怖がり、丸まって泣いて震えているのではないだろうか。
「どうしよう……」
莉子は不意に足を止めると、弱音をこぼした。
この学校は広い。単に中高一貫のマンモス校であるだけではなく、高校二年生以降に多数の学科に分かれるという特徴があるため、敷地内に通常なら考えられない数の設備が存在していた。この学校には通常の授業が行なわれる本校舎の他に、先程訪れた音楽棟、体育館などがある体育棟、美術や工芸の授業が行なわれる芸術棟、情報処理の勉強のために最新の機材が導入されたデジタル棟、実験のための設備が充実した科学棟など、他にも数多くの校舎が存在している。そのように広大なこの学校の中をたった二人で、一匹のアルマジロを探して回るなど、あまりにも無理がある。
けれど、莉子は一人前の魔法使いとして、ミツカを連れ戻さなければならなかった。仮初とはいえ、ミツカの主として莉子にはその責任があった。
一人前の魔法使いとしての資格があるからこそ、莉子はJWUに使い魔の使役を許可されている。管理能力がないと見做されれば、最悪の場合、せっかく取得した認定資格を剥奪される可能性もあった。
(認定資格を取ったとはいえ、使い魔の管理もできないんじゃ、半人前のときと何も変わらない……こんなんじゃ、情けなくて一人前の魔法使いだなんて名乗れないよ……)
莉子は唇を噛むと、ぐっと拳を握りしめる。この先魔法使いとして生きていきたいのかはわからなかったが、己の失態によって魔法使いとして生きる選択肢が奪われてしまうのはどうしてかとても嫌だった。魔法使いでなくなったただの十五歳の自分は、何一つとして取り柄のない人間だ。そのことがひどく心許ない。爪が食い込んだ手のひらが痛みを訴えていたが、莉子はあえて無視をする。
「莉子?」
少し前を歩いていた和希が振り返る。俯く莉子の方へ和希は歩み寄ると、少し膝を屈めて目線を合わせると、優しい声音でこう聞いた。
「どうしたの? ミツカのことが心配?」
それもあるけど、と莉子は蚊の鳴くような声で言う。情けなさで視界が滲んだ。
「私、こんなときなのに自分の心配してた……こんなふうに使い魔の管理も出来なくて、JWUにせっかく取った認定資格取り上げられたらどうしよう、って。こんなんじゃ魔法使い失格だ、って。魔法使いとして生きていけなくなったとき、私には何が残るんだろうって……」
莉子の口から不安が溢れ出る。和希を前にすると、胸の中に渦巻いていた不安を不思議なくらい吐き出すことができた。
ぽた、ぽた、とリノリウムの床を透明な雫が濡らす。和希は制服のスラックスからネイビーとグレーのストライプ柄のハンカチを取り出すと、莉子へと渡してやった。莉子は黙ってそれを受け取ると、顔を埋めた。莉子の喉の奥から小さな嗚咽が漏れ出すのを聞きながら、和希はかけるべき言葉を探して口を開けたり閉じたりしていた。
「莉子、俺は……」
和希が意を決して口を開き、莉子の背に手を伸ばそうとしたとき、聞き覚えのある特徴的な悲鳴が遠くで響いた。
「ぴゃっ、ぴゃあああああああああっっっ!!」
莉子の心臓がどくんと大きく鳴った。莉子ははっとして顔を上げる。
「ミツカの声……!」
ミツカの声がした方角――科学棟のほうから、濃い魔力の気配が漂ってくるのを莉子は感じた。莉子の視界にミツカがいないのは明らかなのに、右手のローズクォーツのリングが不安定に揺れる濁った色の光を放ち始める。
(どうして共鳴石が……? それに、これはミツカの魔力……? だけど、ミツカにしては魔力の気配が濃すぎるような……一体、何が……?)
何だか嫌な予感がした。しかし、今はその正体について考えている場合ではなく、一刻でも早くミツカを捕まえなければならない。
「和希。たぶん、ミツカは科学棟にいる。――行くよ」
莉子はハンカチで涙を拭うと、正面に見える科学棟へと向かって走り出した。和希はその背中を追いかける。二人の足音が、人気のない渡り廊下でばたばたと反響していた。
◆◆◆
莉子と和希が駆け込んだときの第三化学実験室の状況は惨憺たるものだった。
禍々しく濁った光を放つ球体が室内を跳ねまわっては備品を破壊して回っていて、今年、リノベーションしたばかりだという室内は見る影もなくなっていた。
机の下に隠れるように指示を出す中年の男性教師の叫び声。割れて天井から降り注ぐ蛍光灯の破片。倒れた棚から転がり落ちて、中身を床に撒き散らしている薬品の小瓶たち。隣の準備室の壁ごと突き破られた板書途中の黒板。ぴゃあああ、と悲痛な叫び声を上げながら、目にも止まらない速度で球体が動き回る度に教室の内部が破壊されていく。
「ミツ、カ……?」
莉子は濁った光の中心にいるものの正体を悟り、呆然としながらその名を呼んだ。しかし、莉子の声が届いていないのか、ミツカが反応を示す様子はない。けれど、痛々しい悲鳴も、黄褐色の鱗に覆われた丸まった体も、間違いなく自分の使い魔であるミツカのものだった。
二つの共鳴石はミツカの悲鳴に呼応するように、濁った光を断続的に発し続けている。教室の中には、ミツカにしては強く、煮詰められたような濃さの汚染された魔力が満ちている。
莉子がミツカと過ごした時間はまださほど長くはない。しかし、今のミツカの様子が常軌を逸しているということくらいは理解できた。
怖がりで、卑屈なミツオビアルマジロのミツカ。いつも何かに怯えていて、涙で潤みがちな黒瞳は赤く、異様な空気を湛えている。そして、普段は彼女自身を守っている固い甲羅は鈍器となり、眠くて退屈なだけの授業が行なわれていた教室を蹂躙していた。
(これって、もしかして……!)
使い魔が自我を失って、暴走する現象。莉子はそれに心当たりがあった。
「凶魔化……!?」
「莉子、凶魔化って?」
「簡単に言うと、極限状態におかれた使い魔が暴走する現象かな」
莉子がざっくりと説明してやると、なるほどと和希は腑に落ちたような表情を浮かべる。
「要するにいっくんにいじめられたり、校内で騒ぎになるうちにミツカのメンタルが限界になっちゃったっていうこと?」
たぶんそういうこと、と莉子は重々しく頷いた。莉子は意識を集中して、部屋の中に満ちる汚染されたものではないミツカ本来の魔力の気配を探るが、いつもよりはるかに弱い反応しか感じられない。
それでもどうかミツカに届くようにと強く念じながらすうっと息を吸い込むと、莉子は腹に力を込めて叫んだ。
「ミツカ! やめなさい! 止まって!」
莉子の大音声が第三化学実験室に響き渡ると、彼女の右手のリングからほとんど視認できないほどの細く弱々しい糸が伸びうっすらと光を放った。そして、共鳴石を介して莉子の命令が届いたのか、ドカッと床と下の階の天井を派手にぶち抜いたのを最後にミツカは動きを止めた。
ミツカの濁った魔力の流出が止まり、垂れ流されていたミツカの濃い魔力の気配が消えるのを莉子は感じた。右手の人差し指にはまった共鳴石もいつもの光を取り戻していく。普段通りに戻ったミツカが我に返ったように啜り泣き始めたのを莉子は床の穴から見た。ミツカは今、真下の第一地学実験室にいる。
「和希。下行くよ。今ならミツカを捕まえられる」
莉子は和希を伴って、第三化学実験室を飛び出すと、一段とばしで階段を駆け降りていった。
第三化学実験室の弁償にJWUの保険は適用されてくれるのだろうかといったことが莉子の脳裏を過ぎったが、今は一旦置いておくことにする。後処理の話はミツカを捕獲してから考えるべきだ。
第三化学実験室の真下にある第一地学実験室の扉を莉子が開けると、そこには何もいなかった。天井に上の階から貫通した穴は確かに存在していたが、探していたアルマジロの姿はどこにもない。莉子の共鳴石が反応を示さないことからも、ミツカがもうここにはいないことは明らかだった。こんな短時間でミツカは一体どこへ行ってしまったというのだろうか。
「莉子、ここ」
和希が教室の後ろのキャビネットの陰に穴を見つけて指差した。その穴はミツカであればぎりぎり通れそうなサイズであり、ここから逃げられたであろうことは明白だった。
(ようやく見つけたと思ったのに……)
ミツカが再び逃げ出したのは、自分のしたことが恐ろしくなったからだろうか。自分の主人である莉子に合わせる顔がないと思ったからだろうか。どちらにせよ、ミツカが考えそうなことではある。
(ああもう……)
上の階の惨状を思えば到底割り切れそうになかったが、仕方ない、と莉子は無理矢理仕切り直すことにする。先程の凶魔化でミツカは疲弊しているはずだ。それならば、彼女が行きそうなところなどある程度限られてくる。
「ミツカはあんまり魔力量が多くないから、凶魔化中に垂れ流した魔力を回復させるためにどこかで休もうとするはず。あの子は怖がりだから、次に向かうとしたらたぶんあんまり人が来ないところだと思う」
人が来ないところか、と和希は腕を組みながら、キャビネットに寄りかかる。和希は穴の空いた天井を見上げながら、脳内に校内の見取り図を思い浮かべる。しかし、しばらくの後に彼は駄目だと首を横に振った。
「……全然絞れない。これだけ教室があれば、人が来ないところなんてたぶんいくらでもある。さすがにこの学校広すぎだよ……」
だよね、と莉子もげんなりとした顔で同意する。入学してすぐのオリエンテーションの際に一通り校内を案内してもらったはずだが、教室の数が多すぎて、どこに何があるかまるで把握できていない。
「もうこれは思いつく場所をしらみ潰しに探すしかないね。ごめん和希、もうちょっとだけ付き合って」
「わかった。もうちょっとと言わず、ここまで来たら最後まで付き合うよ」
どうせ授業サボった事実は消えないしね、と優等生で特待生の和希は遠い目をした。今日の小テストがどれだけ成績に響くかわからないが、莉子に付き合うことは自分が決めたことだ。
「それじゃあ、行こうか。ミツカを探しに」
「うん」
天井をミツカに突き破られた衝撃で壁から落ちた丸いアナログ時計は、床の上で午後二時十三分を示し続けている。ミツカがもたらした恐怖から解放された階上の第三化学実験室が蜂の巣をつついたような騒ぎになっているのを天井の穴越しに聞きながら、莉子と和希はその場を後にした。
◆◆◆
階段下の穴からミツカが頭を出すと、そこは見知らぬ場所だった。
塗料のようなものがこびりついたステンレスの流し。絵の具や粘土の匂いが混ざり合って漂うリノリウムの廊下。
ミツカは、莉子が通っている学校という場所を彷徨い歩いていた。しかし、記憶にある限り、この場所を訪れるのは初めてのことだった。
先程の凶魔化で大量に魔力を失った体を引きずるようにしてミツカはゆっくりと廊下を歩いていく。魔力不足でふらふらとする体をどこか落ち着ける場所で休めたかった。
(莉子、どこにいるんですか……?)
家で樹来に脅かされ、莉子が昼間いるという学校とやらまで勢いで逃げてきたものの、ミツカはいまだに莉子に会えてはいなかった。
(だけどミツカ、さっき、莉子の声を聞いた気がします……)
凶魔化している最中に、おぼろげながらもミツカは莉子に名前を呼ばれた記憶があった。自分が凶魔化して暴れ回ったという事実が恐ろしくて、我に返ってすぐに逃げ出してきてしまったが、莉子はきっと近くにいるに違いないとミツカは確信していた。
(莉子を探しに行くためにも、一度休まないと……)
よろけながらも、爪の生えた手足をとてとてと必死に動かしながら歩き回るうちにミツカは中途半端に開いたままのドアを見つけた。ミツカがドアの隙間から部屋の中を覗き込むと、うっすらと甘い匂いがした。
(あ……、リンゴの匂い……)
好物のリンゴの匂いに引き寄せられるように、よたよたとしながらもミツカは薄暗く、人気のない部屋に足を踏み入れる。匂いの元を探して部屋の中をミツカが歩き回ると、部屋の隅にリンゴが大量に入った段ボール箱があった。
(ここなら少し休めそうです……誰もいませんし、何もミツカの怖いものはありませんから)
ミツカは段ボールの縁に爪を引っ掛けて体を持ち上げると、箱の中に入り込む。そして、大量のリンゴの中に体を埋めると、ミツカはくるんと丸くなった。
好きなものの匂いに包まれているうちに、不安と恐怖でいっぱいだった心がほんの少し和らいでくるのを感じる。それと同時に強烈な眠気と疲労感が押し寄せてきて、ミツカはうとうとと船を漕ぎ始めた。
キーンコーンカーンコーンという音を聴覚の表面に捉え、ミツカの意識はゆっくりと浮上した。
体が覚醒していくにつれて五感が機能を取り戻していき、ミツカは自分が意識を失う前とは別の場所にいることを悟る。ここはどこ、とミツカはただでさえ甲羅が固い体を強ばらせた。
大量のリンゴの中にいたはずがいつの間にか固い木の机の上に乗せられているし、部屋も薄暗かったはずなのに蛍光灯の白い光が皓々と天井から降り注いでいる。ミツカは体を丸めたまま、がたがたと震え始めた。
何よりも、先ほどまでは無人だったはずの部屋の中に同じ服装をした知らない人間が溢れかえっているのがミツカにとっては恐ろしかった。
「なあ、お前のそれ、リンゴじゃなくね?」
「え、マジで?」
知らない少年二人の声が何事か話しているのをミツカの聴覚が捉える。
(だ、れ……? 知らない人……莉子じゃ、ない。怖い怖い怖い怖い……ッ!)
ミツカはつぶらな黒い目をぎゅっと固く瞑った。少年の片方が何だこれと呟きながら、デッサン用の鉛筆の先でミツカの甲羅をつんつんと突っついてくる。ミツカはたまらずに飛び上がり、悲鳴を上げた。
「ぴゃっ、ぴゃあああああああ!!」
◆◆◆
「ぴゃっ、ぴゃあああああああ!!」
芸術棟の一階の廊下を歩いていたとき、莉子と和希がミツカの悲鳴を聞いたのはまったくの偶然だった。近いね、と莉子は小さく呟く。
数秒の後、少し先にある美術室がにわかに騒がしくなった。「何だこれ!?」「危ない!」「机の下に入りなさい!」混乱する教師や生徒たちの声が響いてくる。
「美術室か……莉子、行こう」
和希に促され、莉子はうんと頷いた。今度こそミツカを捕まえないといけない。莉子は廊下を早足で進み、美術室へと近づいていく。
教室の前側のドアの引き手を掴んで深呼吸をすると、莉子はスパァァンとドアを開け放った。そして、彼女は己の使い魔の名を叫んだ。
「――ミツカ!」
ただでさえ騒がしかった教室が闖入者が現れたことにより、更にざわめき立った。同時にぱりんという音が響き、教室の後ろの窓ガラスが砕け散った。黄土色の鱗に包まれた球体が回転と勢いを伴って、破られた窓から外へと飛び出していった。
「あっ」
和希は窓辺へと駆け寄って外を覗き込む。しかし、窓の下の地面にはアルマジロの姿はなく、明らかにミツカが掘ったと思われる真新しい穴があるだけだった。
「莉子……ごめん、また逃げられたみたいだ」
そんなあ、と莉子は力なく美術室の戸口に座り込む。先程から追い詰めてはぎりぎりのところで逃げられることの繰り返しで、莉子もいい加減疲れてきていた。昼食を途中で切り上げる羽目になったせいで、お腹も空いている。
「……ちょっと、あなた」
頭上から不意に呼びかけられた莉子は顔を上げる。視線の先には、こめかみに青筋を立てた美術教師の顔があって、莉子はひっと顔を引き攣らせた。
◆◆◆
莉子が和希と共に美術教師の坂井にたっぷりと叱られ、美術室を離れたころには七限目の授業が始まっていた。
坂井の説教から解放された後、二人は念のため、校庭に出て、美術室の窓の下を確認してみた。しかし、時間が経ち過ぎていてミツカの足取りはわからなかった。
「まったく、ミツカってばどこいっちゃったかなあ」
莉子がため息をつくと、そうだね、と和希は苦笑する。
「せっかく見つけたのに、またミツカに逃げられちゃったもんね」
そうそう、と莉子は心底げんなりした顔をする。これではまた振り出しだ。
「教室戻ったらいたりしないよねえ? って、そんな上手い話あるわけないか。そんなに簡単に捕まるようなら、午後中駆けずり回った意味もないし」
ははは、と莉子は乾いた笑い声を開ける。その目は疲労で生気がない。
「それはそうなんだけど……探すアテもないし、一回戻ってみようよ。それで駄目なら一回ちょっと休もう。焦るのも、ミツカが心配なのもわかるけど、莉子、すごく疲れた顔してる」
「うん……」
そんな話をしながら、莉子と和希は芸術棟を出た。二人は駄目元で、自分たちの教室がある本校舎へと向かって歩いていく。渡り廊下からは、体育の授業で五十メートル走のタイムを測っているどこかのクラスの男子生徒たちの姿が見えた。あれは莉子も何日か前に体育の授業でやった体力テストの一つだろう。
平和な体育の授業風景を横目に、渡り廊下から本校舎へと繋がる階段を登ろうとしたとき、莉子は先ほどよりもはるかに濃度の高いミツカの魔力の気配を感じて顔色を変えた。同時に莉子が指にはめた共鳴石のリングがちかっと強い光を放った。ミツカの暴走を示唆するように、その色は暗い穢れを帯びていた。
先ほどの第三化学実験室のときとは比較にならないほどに濁った光を灯しながら、莉子の共鳴石は激しい明滅を繰り返している。ひどく乱れた魔力の波長から、莉子はミツカの限界が近いことを悟った。
「和希! たぶんミツカがどこかの教室で凶魔化してる! あの子、さっきも凶魔化したばかりなのに、こんな量の魔力をこんな濃度で垂れ流し続けたら死んじゃう!」
そう叫ぶと、莉子はベージュのチェック柄のプリーツスカートの裾を翻しながら、階段を駆け上り始める。和希は莉子の背中を追いかけながら、疑問を口にした。
「莉子、使い魔っていうのは魔力を使い過ぎると死んじゃうものなの?」
「使い魔っていうか魔法使いも同じなんだけど、魔力を垂れ流し続けるっていうのは血を流し続けてるのと同じようなものなの。生き物が血を流し続けたらどうなるか、わかるでしょ?」
なるほどと和希は緊張した面持ちで頷く。そう言われて事の重大さが理解できないほど和希は愚鈍ではない。
「ぴゃあっ、ぴゃああああああああ!!」
二人が本校舎の廊下に足を踏み入れると、断末魔の叫びかと錯覚するほど苦しげなミツカの悲鳴が響き渡った。ミツカの悲鳴に混ざるようにして、ドンッと教室の引き戸が外れて吹き飛ぶ音が響く。教室の戸口から何か丸いものが飛び出してきたかと思うと、廊下の壁にぶつかって跳ね返る。”それ”は床や天井にぶつかりながら、再び教室の中へと転がり込む。再び教室の中に入り込んできた”それ”に、室内で生徒たちの悲鳴が上がる。
”それ”がぶつかった箇所から、ぱらぱらと石膏の破片が落ちた。壁や天井には何か丸いものがめり込んだ跡が生々しく残っている。床の一部もリノリウムが剥がれ、下のコンクリートがむき出しになっていた。
”それ”が転がり込んでいった教室の入り口に下げられたプレートがポロリと通路に落ちる。落ちたプレートには1‐E――莉子のクラスであることを示す文字が刻まれていた。
知り合ったばかりのクラスメイトたちの顔が莉子の脳裏に次々と浮かんだ。ミツカのせいで――自分の管理不行き届きのせいで、誰も怪我していないだろうか。莉子は名前と顔がまだ一致しきっていない彼らの身を案じながら、ドアのなくなった戸口から教室へと飛び込んだ。教室の中では、第三化学実験室のときと同様に禍々しい光を纏ったミツカが暴れ回っていて、莉子が室内に踏み込むや否や、彼女へと目掛けて飛んできた。
「莉子!」
莉子に続いて教室へと足を踏み入れた和希がこちらに飛んでくるミツカの存在に気づいて、警告を発した。「……ッ!」莉子は負傷を覚悟して、ぎゅっと目を閉じた。しかし、すんでのところで和希の腕に背後から抱き寄せられ、覚悟していた衝撃が莉子を襲うことはなかった。ミツカは教室の出入り口にほど近い壁にぶつかると、その勢いを殺さないまま跳ね返った。
ミツカは縦横無尽に教室内を蹂躙し続ける。凶器と化した彼女の体がどこかにぶつかる度に教室内の何かが壊れていく。
「机の下に入って!」
混乱する教室内にまだ若い男性の声が響いた。スーツ姿の若い男性教師――莉子のクラスの担任であり、数学教師でもある森沢が教科書で頭を庇いながら、学生たちに身を守る行動を取るように促している。
ちょうど黒板の前に立って、不等式の問題を解こうとしていた愛香が恐怖で泣きそうになりながら、その場にしゃがみ込もうとしているのが莉子の視界に入った。
「愛香っ! 教卓の下に……!」
莉子は安全な場所に身を隠すように促すが、愛香は恐怖でその場にへたり込んだまま動かない。愛香のいる場所に遮蔽物はなく、暴走したミツカが突っ込んでくるのも時間の問題だ。
どうにかして友人を守ろうと、莉子は和希の腕を振りほどき、愛香の元へと走り寄ろうとする。刹那、ミツカの体が莉子の鼻先をひゅっと掠めて飛んでいった。そのままミツカは派手な音を立てながら教室の後ろにあるロッカーに激突すると、その勢いを利用して跳ね返って宙を舞う。
濁って汚れた魔力を垂れ流しながら、丸まったまま宙を舞うミツカが何かをうわ言のように繰り返していることに莉子は気がついた。その言葉は卑屈で臆病だけれど、争いを好まない彼女にしては攻撃的で莉子は唇を噛む。凶魔化によって、ミツカの意識は完全に呑まれてしまっている。
「ぴゃっ……ミツ、カ……こわ、い……の、ぴゃああっ……やだ……、こわす……ぴゃあっ……ぜん、ぶ……ミ……ツカ、ころす……ぴゃあああっ……」
「ミツカ!」
莉子は教室内を蹂躙するアルマジロの名を呼ぶが、苦悶の声を上げ続ける彼女の耳に届いている様子はない。一抹の希望に縋るように、莉子は右手の人差し指にはめたローズクォーツのリングに意識を集中させるが、先ほどは微かに感じられたはずのミツカ本来の魔力の気配を今はまったく感じ取ることができなかった。
(お願い、届いて……! 届けってば……! 私に気づいて! 反応してよ! ミツカ!!)
莉子は自分の魔力の出力を上げ、無理やりミツカのほうへと光の糸を伸ばそうとする。やがて、弱々しくか細い光の糸がミツカへと向かって伸び始めたが、それは彼女に届くことはなく、途中で空気中に霧散して消えてしまった。
(嘘……これじゃ、ミツカに止めろって命令することもできない……)
莉子はあくまでも占いやおまじないを得意とする魔法使いだ。自分自身の魔力を行使したところでゲームの魔法使いのように魔法を使って何かと戦えるわけではない。魔法を使って戦う術を持っていれば、ミツカをねじ伏せ、無力化することができたかもしれないが、莉子にはそれは能わない。それはつまるところ、今の莉子にはミツカを止める手段がないことを意味していた。
「ぴゃっ……ミツ、カ……こわ、す……ぴゃああっ……ころす……いや……、ぴゃあっ……でも……ミ……ツ……、カ、こわい……ぴゃあああっ……やだ……」
固い甲羅を床や壁、天井にバウンドさせながら暴れ回るミツカの口から、微かだけれど確かに意志のある言葉が漏れ出していた。しかし、黒いはずの目は赤色の妖しい光を放っており、明らかに正気ではない。
(壊すとか、殺すとか……あの子は怖がりだけど、本来ならそんなことしたいなんて思わないはず。ううん、むしろ、正気に戻ったときに自分のしたことに気づいたら、傷ついて、今以上に自分に自信をなくしちゃう。
私とミツカはJWUのサブスクサービスで結ばれた仮初の関係だけど、今は私があの子の主人。私があの子の心を守らないと……!)
ミツカの暴走がひどすぎて、共鳴石での制御ができない今、莉子にできることはただ一つしかなかった。
(今、私ができること――それは、ミツカを信じて呼びかけることだけ……!)
共鳴石が使い物にならなかった以上、何の強制力もないただの言葉がミツカに届く可能性は低い。しかし、ミツカは怖いものを壊し、殺したいと言った口で壊したり殺したりするのを嫌だとも言った。凶魔化して暴走するミツカの中に本来のミツカとしての自我が少しでも残っていることに賭けるほかなかった。ミツカの説得に失敗したら、今度こそ怪我をするかもしれない。ミツカがこちらに突っ込んで来ることがあれば、最悪の場合、死ぬ可能性だってある。そう思うと、莉子の体は震えた。
「莉子」
和希が震えている莉子の手をそっと握る。大丈夫、と和希は目の前の光景に顔を引き攣らせながらも、真摯な声でこう言った。
「莉子のことは俺が守るよ。万が一、ミツカが莉子のほうに突っ込んできたら、俺が盾になる。莉子に怪我されたくないし、よっぽど当たりどころが悪くない限り、一回くらいなら死ぬこともないだろうから」
馬鹿じゃないの、と莉子は強張らせていた表情をほんの少しだけ緩めると、軽口を叩き返した。
「和希のくせにカッコつけるとか百年どころか千年ぐらいは余裕で早いって。――それに大丈夫、ミツカのためにもそんなことにはさせないから」
莉子は和希の手を一瞬ぎゅっと握り返すと、その手を離した。すうっと、莉子は深く息を吸い込むと、大音声を張った。届け。届け。自分の言葉がミツカの意識を少しでもこちらに引き戻せたらと願いながら、莉子は正気を失ったミツカの目を見据える。
「ミツカ、聞きなさい! あんた、昨夜、私になんて言ったか覚えてる!? ミツカ、あんたは、『魔法使いの支えになれる存在でありたい』って言ったの!」
莉子の言葉に反応したのか、ミツカの瞳がほんの一瞬だけ彼女本来の色を取り戻して揺れる。共鳴石に灯る光も少しずつ元の色を取り戻していき、弱々しいけれど確かな魔力の輝きを放った。
「ぴゃあああっ……り、こ……? ぴゃあっ……」
「そう、私。私は、今のあんたの主人の莉子。あんたが今でも、魔法使いの――私の支えになりたいって思ってるならこんなことしてる場合じゃないでしょ。ミツカ、私のことを思うなら、戻ってきなさい。本来のあんた自身を取り戻すの」
ミツカは莉子の名前を呼ぶと、ぼろぼろと大粒の涙をこぼし始めた。目には正気が戻ってはいたが、体にまとわりつく濁った魔力の出力は止まらず、ミツカの動きは止まらない。助けて、とミツカは泣きながら莉子へと訴えた。
「莉子、莉子っ……ミツカのことを助けてくださいっ……! ミツカの意志とは関係なく、魔力が勝手に体から出ていっちゃうんですっ……! ミツカの魔力が、ミツカのことを勝手に動かしてるみたいで……ミツカ、自分じゃ止まれないんですっ……!」
「ミツカ、ちゃんと自分で言えたね。偉いじゃん。あとは私に任せて」
莉子はふっと笑みを浮かべると、右手の人差し指へと意識を集中させる。共鳴石のリングでちかちかと淡い光が揺れる。しかし、その光は先程までのように濁ったものではなく、清らかさを取り戻しつつあった。
(よし……これなら大丈夫。――いける)
ミツカ本来の微かな魔力の気配だけでなく、今は共鳴石を通じて莉子の名を呼ぶミツカの心の存在を感じられるような気がした。今の自分ならミツカのことを受け止め、きっとこの状態から救い出してあげられると信じられた。
(――いけ……!)
莉子は自分の魔力を練ると、それを共鳴石の中へと籠める。すると、共鳴石からうっすらとした一筋の光が迸った。今度は途中で消えることなく、光の糸はミツカの共鳴石へと向かってまっすぐに伸びていった。か細く弱々しいけれど、ミツカが自分の意識を取り戻している今は、先ほどと違って魔力の糸がきちんと二人を繋いだ。時折、二人の間で光が揺らぐことはあっても、途切れることはない。
(ミツカは今、凶魔化の影響で魔力が足りていないし、残った魔力も汚れてしまっている……だけど、ミツカに私の魔力を分けてあげて、代わりに私がミツカの魔力を吸収してあげれば……!)
ミツカの魔力量は元々多くないため、彼女が今体内に残している汚れた魔力を引き受けたところで、莉子にはさしたるダメージはない。後で自分の魔力を浄化しなければいけない手間は発生するが、今のこの状況においてはそんなことは些事でしかなかった。
共鳴石同士を繋ぐ光の糸を通じて、莉子は互いの魔力の波長をすり合わせていく。莉子は光の糸を指先で繰りながら、自分の体を通じて魔力が循環する様を思い描いた。
ミツカの体に莉子は己の魔力をほんの少し注ぎ込む。同時にミツカの汚れた魔力を光の糸を通じて莉子は自分の体に吸収していく。魔力が緩やかに互いの体の中を巡っていく。
体に取り込まれた汚れた魔力の影響で、わずかに吐き気が込み上げてきたが、莉子は魔力の流れを止めることはしなかった。莉子は自分の魔力とミツカの魔力を入れ替え、凶魔化によって汚れてしまったミツカの体の中を浄化し続けた。
莉子が自分の体にミツカの魔力を取り込んだことによって、徐々にミツカの体にまとわりついた禍々しい魔力の光が薄れ始めた。汚れた魔力の光が消えていくにつれて、ミツカの体が宙を舞う速度が徐々に遅くなっていく。
「ミツカ、止まりなさい。あんたもう、自分の意志で止まれるでしょ」
莉子の言葉に反応してミツカの動きが完全に静止する直前、硬い甲羅が黒板の上に設置されたスピーカーにごん、と音を立ててぶつかった。あ、と和希が声を上げる。ミツカは黒板の上部に前足の爪を引っ掛けたままの体勢で静止しているが、ミツカがぶつかったことで壁から外れてしまったスピーカーの落下は止まらない。
この騒動のせいで忘れかかっていた、逆位置の”塔”のカードのことが不意に莉子の脳裏に蘇った。塔のカードの持つ意味を思い出して、莉子は顔色を変える。スピーカーが落ちていくその軌道の先には、蹲っている愛香の姿がある。
「愛香っ……!」
莉子が友人の名を呼ぶよりも先に、落ちてくるスピーカーの落ちてくる先に担任教師にして数学教師である森沢が体を滑り込ませた。「痛っ」まるでゴールでサッカーボールを受け止めるかのように、森沢はスピーカーを体全体で抱き込んで、勢いを殺せないまま教壇から転がり落ちていく。
「ゆうくんっ……!」
床に強かに体を打ち付けた今年大学を卒業したばかりの新任教師へと愛香は目を潤ませながら縋り付いた。
「ゆうくん、ゆうくんってば! 大丈夫? 怪我してない?」
森沢は痛そうに顔を顰めて上半身を起き上がらせながら、愛香の無事を確認する言葉をかけた。
「それはこっちの台詞だ。愛香、怪我してないか? 愛香に何かあったら俺は……!」
森沢は自分が教え子にかけるべきでない言葉を口走りかけたことにはっとして口を噤んだ。どうしたの、と愛香は不思議そうに首を傾げる。
「……ゆうくん?」
自分を案じる純真で潤みがちな双眸に、森沢は居心地悪げに中に視線を彷徨わせる。彼の頬と耳がほんのりと赤みを帯びている。
「……っ、何でもない。愛香……じゃなくて城本さん、悪いけど、保健室まで一緒に来てもらってもいいか?」
サッカーやってたからどうにかなると思ったんだけどなと自分の状態を確認しながら、そんなふうにこぼす森沢を立ち上がらせると、愛香は心配そうな顔で彼に付き添って教室を出て行った。その背を見送りながら、なるほど、と遅まきながら莉子はゆうくんの正体について理解する。入学式の日に聞いたきりで完全に忘れていたが、確か森沢の下の名前は優冬といったはずだった。そういう関係であるのなら、森沢が頑なに愛香の気持ちに応えなかったことも頷ける。彼は応えなかったのではない。応えたくても応えられなかったのだろう。
莉子は体が少しふらつくのを感じた。体内に取り込んだミツカの魔力は微々たる量ではあったが、汚染された魔力は毒となって莉子の体を蝕んでいた。和希がさっと莉子の体を支える。
「莉子、大丈夫? 顔色悪いよ」
「大丈夫。ちょっとふらふらして気持ち悪いだけだから。それよりミツカを早く下ろしてあげないと」
黒板の上部からぶら下がったまま、自力で降りられずにぴゃあぴゃあと悲鳴をあげているミツカを莉子は背伸びをして抱き下ろす。ようやく自分のもとに戻ってきた軽い体を莉子はそっと抱きしめた。
「おかえり、ミツカ」
「莉子……ごっ、ごめんなさいっ……ミツカ、いっぱい莉子に迷惑かけて……! いっぱいいろんなもの壊して、莉子のことも傷つけようとしてっ……!」
そんなこといいよ、と莉子は首を横に振った。
「ミツカがこうやって戻ってきてくれただけで、私は充分だよ。さっきは私の声に応えてくれてありがとう」
腕の中でぴいぴいと再び泣き始めたミツカの甲羅を莉子は宥めるように撫でた。莉子はミツカの泣き声を聞きながら、森沢に付き添って保健室へ向かった友人のことに思いを馳せる。
(そういえば、愛香はどうしたかな。雨降って地固まったってことなのかな。あの”塔”の逆位置ってそういうことだよね)
愛香は自分の片思いだと言っていたが、さっきの森沢の反応を見るに、完全に脈なしだとは思えない。もしかするとこれを機に何か進展があるかもしれないと莉子の女の勘が告げていた。
ミツカがめちゃくちゃにしてしまった教室の中へ窓枠から外れかけたカーテンを揺らしながら、穏やかな風が吹き込んでくる。窓の外では、春の茜空の下にいつも通りの平穏な風景が広がっていた。
◆◆◆
「しっかし、こってり絞られたねえ」
濃紺の空の下、和希と一緒に駅へ向かう道を歩きながら、莉子はげっそりとした様子で歩きながらそうこぼした。
教室での騒動にある程度収拾がついた後、莉子と和希は校長室へと呼び出され、初めてまともに顔を見ることとなった校長に午後の授業のサボりから今回の騒動についてまで、長々と注意を受けた。二人が叱られている間、ミツカは莉子の腕の中で体を丸めてがたがた震えながら、「莉子は悪くないんですう、全部ミツカが悪いんですう」と弁解らしきものを繰り返し口にしていた。
学校を出たころにはもう既に夜七時を回っていた。あの後、体内に入ったミツカの汚染された魔力は浄化したとはいえ、まだ若干ふらつきは残っているし、学校中を走り回って疲れたしでへとへとだ。そして、昼食が中途半端になってしまったせいでいい加減空腹だった。行く手に宵闇の中に家の形を模したマークがあしらわれた黄色いコンビニの看板が光っているのを見つけると、莉子はそちらを指差す。
「ねえ、和希。コンビニ寄ってこうよ。私、お腹減りすぎていい加減限界」
「俺も。何か軽いものでも食べてから帰ろうか。よりにもよって体育の後に昼抜きだったし」
「……それはほんとごめん」
さすがに今日のことは謝っても謝りきれなかった。春休み中も使い魔のことでは、いろいろと和希を振り回して迷惑をかけてはきたが、今日のことはその比ではない。
「お詫びに何か奢るよ。肉まんでいい? 私も食べたいし。ミツカにも何か買ってあげる」
莉子はそう言うと、コンビニの扉を押し開けた。「っと」和希はドアハンドルを莉子から受け取ると、店へと足を踏み入れる。陽気なメロディの入店音が店内に響く。
「ミツカはいいですよう。ミツカは今日、莉子にたくさん迷惑をかけた身の上ですから」
ミツカはふるふると莉子の腕の中で固い甲羅に覆われた体を震わせると、莉子の申し出を辞退した。だめだよ、と莉子は否を唱えると、腕の中のミツカの顔を覗き込む。ミツカはひどく恐縮したような顔をしていた。
「私が魔力補ってあげたとはいえ、二回も凶魔化したんだから疲れてるでしょ。疲れたときはしっかり食べてしっかり休まなきゃ駄目だよ」
プリムラの受け売りだけどね、と莉子が言い添えると、ミツカは静かになった。どうやら使い魔の大先輩であるプリムラの言葉はミツカにとって重みが違うらしい。
二人と一匹は狭い店内を一回りし、ミツカが食べられそうなものを探した。店内のスピーカーでは女の声による新発売のホットスナックについての宣伝が延々と流れていた。四種のチーズが詰まった二倍サイズのフライドチキンは魅力的ではあるが、今は疲れすぎてとてもじゃないがそんな気分ではない。腹が減っているのは確かだが、もう少し軽いものでいい。何だか胃もたれしそうだ。
店の奥にある肉や卵などの生鮮食品が細々と扱われているコーナーでバナナを見つけると、莉子はそれを手に取った。バナナを持ってレジへ行き、莉子は初老の男性店員に肉まんとピザまんを一つずつ購入する旨を伝えた。
「肉まん一つ、ピザまん一つですね。……ところでお客様、店内へのペットの持ち込みはご遠慮いただきたいのですが……」
「ミツカは莉子のペットじゃなく使い魔ですよう」
店員の言葉にむっとしたようにミツカは莉子の腕の中でそう主張した。店員は莉子とミツカを物言いたげに見比べる。和希はともかくとして、一般人は喋るアルマジロなど目にする機会はそうそうないし、対応に困るのも当然だ(尤も、自分で飼育でもしていない限り、普通のアルマジロですら日本ではなかなか見かけることはないのだが)。それもそれが魔法使いの使い魔などと言われたら尚更だ。
「……」
結局、店員はそれ以上何も言わずに中華まん二つをトングで掴んで紙袋へ詰めた。そして、店員はバナナをレジに通し、いくつかボタンを叩くと、カスタマディスプレイに支払額を表示させる。
「三百九十四円になります」
「これでお願いします」
莉子はスマホケースに挟んだICカードを店員へと見せた。ピッピッと店員がレジを操作すると、カードリーダーが光りだす。
莉子はカードリーダーにICカードをスマホごと翳す。すると、ピヨンと電子音が響き、決済が完了したことを知らせた。
「ありがとうございました」
店員は中華まんの入った紙袋とバナナを莉子たちのほうへと押しやった。莉子は和希に向かって顎をしゃくると、代わりに買ったものを持つように促した。
はいはい、と和希が莉子に代わって紙袋とバナナを受け取り、二人と一匹は店の外へ出る。店の外へ出ると、莉子は膝を折って屈み込み、ミツカをそっと地面に下ろした。そして、ブレザーのポケットを弄ってポケットティッシュを取り出すと、莉子はミツカの前にそれを敷いた。
「和希、それちょうだい。バナナ」
莉子は和希の返事も待たずに彼の手からバナナを奪い取り、シュガースポットが転々と浮いた黄色い皮を剥き始めた。莉子は小さくちぎったバナナを地面に敷いたティッシュの並べてやると、ミツカへとそれを勧めた。
「はい、ミツカ。どうぞ」
「ありがとうございます、莉子。お言葉に甘えていただきますぅ」
ミツカは長い舌を伸ばすとバナナを食べ始めた。もしゃもしゃとミツカがバナナを食べているのを横目にスクールバッグの中に手を突っ込んで、莉子は一枚の布を取り出した。
「和希、これ。私が作ったものだけど、よかったらもらって。今日散々和希のこと振り回しちゃったし、和希のハンカチ昼間汚しちゃったし。借りたハンカチは今度洗って返すから」
ぶっきらぼうな早口でそう言うと、莉子は昨夜作ったハンカチを和希へと渡した。照れ臭いのか目を泳がせている莉子へと和希は柔らかく微笑みかけると、ありがとうとそれを受け取った。
「大事にするね。何なら額に入れて部屋に飾る」
「いや、ハンカチなんだから普通に使ってよ……ハンカチの一枚くらい、そんな手間のかかるものでもないからどうしてもっていうならまた作ってあげないでもないから」
じゃあさ、と和希は莉子からもらったハンカチを丁寧に畳んでブレザーのポケットにしまうと、こんなことを言い出した。
「今日俺が貸したハンカチ。あれさ、何か刺繍入れて返してよ。俺、莉子が作ってくれるもの、昔から大好きだから。持ってるだけで不思議と幸せな気持ちになれるから」
「……別にいいけど」
莉子が昔から和希に渡すもののモチーフに好んで使うタンポポは、”幸せ”という意味を持つ彼の誕生花だ。花が本来持つ力を莉子が魔法で増幅させているのだから、和希がそう感じるのは当たり前のことではあるのだが、面と向かってそんなことを言われると小っ恥ずかしいことの上ない。莉子は敢えて棘を含んだ口調で、先ほど購入したピザまんを和希へと要求した。
「そんなことはどうでもいいから、あたしのピザまん取ってよ。早く食べないと冷めちゃうじゃん」
はいはい、と和希は皮がオレンジ色の中華まんを取り出すと莉子へ手渡した。地面にしゃがみこんだまま莉子がピザまんに齧りつくのを見ながら、和希もコンビニの外壁に寄りかかりながら自分の分の肉まんに口をつけた。和希は黙々と肉まんを食べ進めながら、何とはなしに春宵の空を見上げた。
二人が住む辺りに比べて、学校のあるこの辺りは建物が少なく、空が広い。普段なら気づくことも少ない星々が命を燃やしながら、濃紺のキャンバスの上でその存在を主張している。夜空に浮かんだ北斗七星を眺めながら二人で黙って中華まんをかじっていると、和希が不意に口を開いた。
「莉子さ、今日、格好良かったよ。昼間、こんなんじゃ魔法使い失格だって莉子は言ってたけど、全然そんなことないと思う。俺からしたら莉子はすごく立派な魔法使いに見えたよ。それこそ、莉子のお母さんにも引けをとらないような、さ。それでもまだ、将来のことが不安だって言うならさ」
和希はしっかりと莉子の顔を見た。和希の目は見たことないくらい優しげな光を湛えていて、何だか莉子は変な気分がした。
「吐き出して楽になるなら、いつでも俺に話してよ。今までと同じように、俺はこれからもちゃんと莉子のそばにいるから。莉子が迷って悩んで苦しむくらいならいつだって言ってよ。少しでも莉子の気持ちが軽くなるように、一緒に抱えて考えることくらいは俺にだってできるから」
何それ、と莉子は吹き出した。こうして冗談めかしておかないと、何だか変な意味に捉えてしまいそうだった。
「はいはい、ありがと。だけど何それ、小説とかドラマの受け売り? さっきから和希のくせに生意気だよ」
軽い調子で笑い飛ばす莉子に、「伝わらないか……」和希は何故か悄然と項垂れていた。
「それはともかくさ。まだ将来っていってもピンとは来てないけど、今日の一件で今の自分がどうなりたいのかは見えた気がする」
莉子はピザまんを食べ終わった後に残った紙を四つ折りにしてゴミ箱へ放り込むと、和希の目をまっすぐに見返した。その眼差しには昼間のような弱気さはなく、莉子本来の強気さと勝ち気さが宿っていた。
「私、自分の大事なものをちゃんと守れるようになりたい。一応魔法使いとしては一人前ってことにはなってるけどまだまだ未熟だし、魔法使いとしても一人の人間としても、成長してちゃんと強くなりたい」
「莉子……」
バナナを食べ終えたミツカは、眩しいものを見るように莉子のことを見上げる。普段びくびくしてばかりのミツカにしては珍しく、彼女は意を決したように話を切り出した。
「莉子。短い間でしたが、莉子には大変お世話になりました。莉子とミツカ、今日をもってお別れしませんか?」
莉子はミツカの体を抱き上げると目線を合わせる。そして、努めて優しい口調で、どうしたのと彼女は聞いた。
「もしかして、これからも私とやっていくのが嫌になった? うちの住環境が嫌とかだったら、あの馬鹿兄貴は家から追い出して二度と帰ってこれないようにするけど」
違います、とミツカは莉子の手の中で体を震わせる。面白半分で自分にちょっかいをかけてくる樹来のことは苦手だったが、莉子との別れをミツカが決意したのはもう少し前向きな理由だった。
「ミツカ、今のミツカのままで莉子のそばにいるのは恥ずかしいって思ったんです。今日もミツカは怖いって気持ちに飲み込まれて、二回も凶魔化して、色々なものを壊して、莉子に迷惑をかけてしまいました。
だからミツカ、莉子と同じようにミツカも成長して強くなりたいって思ったんです。今日みたいなことを繰り返して、もうこんな不甲斐ない思いはしたくないんです。
莉子、お願いします。ミツカに成長の機会を与えると思って、ミツカを解放してもらえませんか?」
ミツカの真剣な眼差しと視線が交錯する。莉子はミツカの意志の固さを感じ取ると、溜息をつく。まさかこの子がこんなにもはっきりと自分の意志表示ができるようになる日が来るとは思ってもいなかった。
「ミツカ……一応、確認するけど本気なんだね?」
「はい」
ミツカはこくりと頷いた。仕方ないなあ、と莉子は優しくミツカの顔を見つめる。
「まったく、そんなふうに言われたら引き止められないじゃん。成長したいっていう使い魔の意志を尊重しないのは、魔法使いとしても一人の人間としても最低だもん」
莉子は自分の右手の人差し指にはめられたローズクォーツの共鳴石へと視線を落とした。共鳴石の力を使えば、ミツカを引き止めることくらい造作もなかったがそんな真似はしたくなかった。そんなふうにして強制された関係は歪だし、きっとミツカは心の何処かで莉子のことを恨むだろう。自分が一緒にいたいというわがままを貫くために、力でミツカの意志を捻じ曲げるべきではない。
「……わかったよ、帰ったらあんたをJWUに帰すための手続きを進めよっか」
私結構ミツカのことは気に入ってたんだけどなあ、と莉子が残念そうに漏らすと、ミツカの黒い瞳が潤んだ。ミツカの喉の奥から嗚咽が漏れ出したと思うと、彼女は大声を上げて泣き始めた。
「うわああああん、莉子おおおっ……!」
泣きじゃくるミツカの背中を莉子はよしよしと撫でてやる。腕に抱いたミツカの輪郭が二重にブレる。ミツカがいなくなる、その事実はふわふわと遠く感じるのに、勝手に自分の中を何かが込み上げてくる。
涙で滲み始めた莉子の視界の隅に和希が夜空を仰ぎながら、目元に手を当てているのが映った。何で当事者でもないのに和希がもらい泣きしてるんだ。泣き虫だけは本当に小さいころから治らないな、となどとどうでもいいことを頭の隅で考えていた莉子の眼窩から透明な雫が溢れだして、頬を伝った。しかし、莉子は最後くらいは毅然としていたくて、ブレザーの袖口で乱暴に目元を拭う。寂しいという身勝手な感情が莉子の鼻の奥をつんと刺激した。
「えぐっ……莉子っ、最後にもう一つだけ、ひくっ……お願いが、あるんですっ……聞いて、もらえますか……?」
えぐえぐと泣きながら、ミツカが口にした言葉に、なあにと莉子は続きを促した。すると、ミツカは泣きながら、遠い未来のもしもの話を口にした。
「もし、いつか……ひくっ……ミツカ、がっ……いつか、どこに出しても恥ずかしくない、一人前の使い魔になれたとき……えぐっ……まだ、莉子の隣に、決まった使い魔が、いなかったら……ミツカのことをっ……、また、莉子の……お側に、置いてくれません、かっ……?」
ミツカのお願いに莉子はふっと笑みを浮かべた。頬に一筋涙の跡が残る、不器用な笑顔だった。
「ミツカは本当にしょうがない子だね。いいよ、約束してあげる。だからミツカ、頑張っておいで。私も成長して強くなれるように頑張るから」
そう言うと、莉子はミツカの前足からすっとローズクォーツのリングを抜く。すると、生命の時を終えた星のように、二つの共鳴石から光が消えていった。莉子はミツカを抱いたまま、自分の手からも共鳴石のリングを抜くと、ブレザーの内ポケットへとしまった。
「ミツカ……短い間だったけど今までありがとね」
ミツカの耳元で囁くと、莉子は黄褐色の甲羅に優しく頬擦りをした。ミツカは涙でべとべとになった顔をぶんぶんと激しく横に振る。
「ふぇっ……お礼を、言うのは……ミツカのっ、ほうですよぅっ……えぐっ……ミツカ、莉子に出会えてっ……本当に、よかった、ですぅ……えぐっ……初めて、出会った魔法使いが莉子で……本当に良かった、です……」
「ミツカ……」
自分はミツカにとって、本当に良い主人だっただろうか。凶魔化までさせてしまったというのに、自分は彼女にこう言ってもらうに値する魔法使いだろうか。ミツカと過ごしたこれまでの日々が脳裏を過る。
初対面のとき、怯えてテラスの下で丸まっていたミツカ。先輩使い魔であるプリムラにくっついて回るミツカ。樹来に脅かされて怯えていたミツカ。夢中でリンゴを頬張るミツカ。将来のことに悩む莉子へと魔法使いの方の支えになれる存在でありたいと語ったミツカ。最初は卑屈で臆病なミツカのことを面倒だと思うこともあったものの、いつしか莉子にとって彼女は大事な存在となっていた。凶魔化しながらも、助けて、と自分を信じて縋ってくれたときのミツカの声と目がまだ頭から離れない。莉子、と遠慮がちに自分を呼ぶミツカの声も、莉子の部屋のホットケーキ型のビーズクッションの上で眠っていた姿も、ぴゃあぴゃあと怯えてあげる悲鳴すらも失いたくなかった。
(ああ……私……)
今日はこのような大変な事態になってしまったものの、ミツカと過ごしたこの短い日々が楽しかったのだと莉子は今になって気づいた。濃密な日々に詰まった何気ない出来事の数々が大事な思い出だった。
ミツカの甲羅にぽた、ぽたと水滴が落ちる。せめて、笑ってミツカを送り出してやりたかったけれど、今の自分にはまだそんなことは出来そうになかった。いかないで、と口にするのは簡単だったけれど、そんな言葉でミツカのことを縛ってしまうのは自分の矜持が許さなくて、莉子は歯を食いしばった。
「莉子……」
和希は自身も涙で目を潤ませながらも体を屈めると、ひくっひくっと上下動する莉子の背にそっと触れた。莉子は顔を伏せたまま、嗚咽を漏らし続けた。
夜空に浮かぶ星座たちが時の彼方から、一つの別れと二つの門出を静かに見守っている。過ぎる春と一人と一匹の別れを惜しむように朧月が地上へと柔らかな光を降らせていた。
◆◆◆
ミツカの事件から一週間が過ぎたころのある日の昼休み、莉子はいつも通り愛香と弁当を食べていた。人気アイドルの熱愛がどうだとかゴールデンウィークに予定されているミラージュ☆ユイの地上波の特番(結子の娘であるはずの莉子も愛香に聞かされて初めて知った)がどうだとかと他愛のない話題を一通り終えた後、愛香が口にした言葉に莉子は思わず口の中のゆで卵を吹き出しそうになった。
「それにしても、あの日の莉子、すっごくカッコよかったよねえ。なんかファンタジー映画の主人公みたいだった!」
事件の日のことを思い出しているのか、げほげほと咳き込む莉子をよそに愛香はイチゴサンドを手にしたまま愛らしい顔にうっとりとした表情を浮かべた。どこかぽわぽわとしたところのある友人の頭の中では、あのときの自分の言動はかなり美化されて記憶されているのだろうと思うと莉子はげんなりする。
「クラスの人みんなに、何か映画の主人公みたいな魔法使いの人って覚えられ方しちゃってて心底恥ずかしいんだけど……。先生たちは先生たちで、私のこと問題児みたいな目で見てくるし」
あの日を境に、学校中が自分を見る目が変化したことは確かだ。同じクラスどころか、名前も知らない他の学年やクラスの生徒にあれが噂の魔法使いかと一方的に指を差されることも多い。なんで私の高校生活こんなふうになっちゃったかなあと嘆きながら、莉子は箸でプリムラお手製のオムレツをつっつき回す。滑り出しは好調だと思っていた高校生活が台無しだ。この先の三年間が思いやられる。
「っていうか、愛香は人のこと映画の主人公みたいだったって言うけどさ、愛香と森沢先生こそ何か少女漫画みたいだったよ」
ちょっとした意趣返しのつもりで莉子がそう言うと、愛香はそうかなあ、と満更でもなさそうな顔をする。あれ以来、森沢は愛香と個人的に親しそうなことについて、事あるごとにクラスメイトたちにからかわれている。その度に返答に詰まってあわあわとする森沢に教師の威厳など最早ない。
「愛香ってあの後、結局、先生と何か進展ってあったの? 先生が愛香を庇ったあと、随分といちゃいちゃしてたみたいに見えたけど。っていうか、そもそも何でゆうくんって人とのことを占ってほしいって言ってきたときに、ゆうくんが先生だって教えてくれなかったの?」
「だって、少女漫画とかでも先生と生徒って禁断の恋って感じじゃない? 莉子って魔法使いJKなんてファンタジーな職業やってる割に、結構リアリストだから、こういうこと言ったら引くんじゃないかと思って」
まあそうかもね、と莉子が言うと、ひどーいと愛香は頬を膨らませた。愛香がゆうくんとやらに合わせて進学予定を変更したと言っていた時点で莉子は内心でドン引きしていたが、今後の二人の友情のためにそれは言わないでおく。何に重きを置くかなど個人の自由だ。莉子がどうこう言うことではない。
「あ、でも莉子には言っておこうかな。あの日、あの後、ゆうくんが保健室で言ってくれたの。わたしが高校を卒業した後も気持ちが変わらないようなら、そのときは一度ちゃんと今後のことについて話をしようって。もしかしたら、莉子がくれたお守りのおかげかも」
愛香は机から身を乗り出して、莉子に顔を寄せると少し照れたような顔でそんなことを囁いた。ああそう、と莉子は気のない返事をする。きっと、あのサシェに入れたリナリアの花が二人の関係をほんの少しだけ進展させてくれたのだろう。莉子の作るお守りにはそれだけの力がある。それはそうと、とフルーツティーの紙パックを手で弄びながら愛香は話題を切り替えた。
「ねえ、クレープ今日リベンジしにいかない? お守りのお礼にご馳走させて。というか、莉子もこの前のでどんな感じかわかっただろうし、今日こそあの大きいのを一人一個チャレンジしたい!」
懲りないねえ、と莉子は頬杖をつきながら呆れたように言う。前回は二人で半分こにしたはずなのに、愛香が早々に満腹になり、莉子が残りを全て食べる羽目になったことはまだ記憶に新しい。
「気持ちだけもらっとく。というか、私今日無理だよ。用事あるからすぐ帰らないと」
「用事って?」
「この前の件でミツカ――アルマジロの使い魔の子がJWUに帰っちゃって。それで、夕方に新しい使い魔の子が来るから、今日は早く帰らなきゃいけないんだ」
「ふうん」
莉子は箸でマカロニサラダを口に運びながら、教室の戸口から窓までゆっくりと視線を巡らせていく。
ミツカの凶魔化の爪痕が残っていたこの教室には、莉子がJWUに申請して手配してもらった業者が土日のうちに入り、何事もなかったかのように綺麗になっていた。ミツカにぶち抜かれた戸板は綺麗なものに交換され、あちこちにミツカがめり込んだ跡が残っていた壁や天井は見事に修繕されている。黒板の上のスピーカーも元通りの位置につけ直されている。
(こうやって、毎日がちょっとずつ元に戻っていくんだな……ミツカのいない毎日が当たり前になっていくんだ……)
莉子は日常の中からミツカの痕跡が消えていくことに一抹の寂しさを覚える。それでも、莉子はミツカのいた日々のことをこの先、一生忘れないだろうと思った。
(それはそうと、切り替えないと。今日から新しい使い魔の子が来るんだから。ミツカはミツカ、新しい子は新しい子だもん。ミツカのことを未練がましく引きずったまま接するようじゃ、新しい子に失礼だし)
今度は一体どんな子が来るのだろう。今度は一体どんな時間を一緒に過ごし、どんな話をするのだろう。今度の出会いは自分に一体何をもたらすのだろう。
新たな出会いへの期待に心を躍らせながらも、莉子はミツカと交わした約束をしっかりと胸に刻み込んだ。ミツカといつかまた会える日までに、自分はもっと強くならないといけない。人としても、魔法使いとしてももっと成長しないといけない。あの子の決意に恥じない自分でいないといけない。
緑の匂いが混ざった風が外から吹き込んできて、真新しいカーテンを卯波のように揺らす。葉桜の枝が見える窓の外の空は今日も晴れていた。
在校生代表の挨拶をそう締め括った生徒会長の男子生徒が壇上で一礼しているのを見ながら、ふああ、と莉子は欠伸をする。長かった入学式もようやく終わりだろうか。おざなりな拍手をしながら、莉子はそんなことを考える。
高校生としての自覚を持てだとか、この学校の名に恥じない行動を心掛けろなどと言った、非常にありがたくて退屈な話をこの一時間ほど延々と聞かされ続けたせいで眠くて仕方がない。昼食が済んだ午後にそんな話を聞かせ続けるなんて、寝ろと言っているようなものである。
入学式の司会を務めていた生徒会の女子生徒の声が散会を告げ始めたとき、莉子は右隣に座っていた見知らぬ少女にねえねえ、と肩を叩かれた。ロングヘアをハーフツインにし、うっすらとナチュラルメイクをした可愛らしい少女だ。中学までの莉子の友人にはいなかったタイプに見える。
「ふふ、眠そうだねえ。どこの中学から来たの? あ、わたし、城本愛香っていいます」
甘い声で横から人懐っこく話しかけてきた愛香に対し、ぱちぱちと莉子は目を瞬かせると名乗り返した。
「私は清水莉子。彩咲市内にある宮本中ってとこの出身だよ。城本さんはどこの中学から来たの?」
体育館の出口に近いクラスから順に、少しずつ人波が動き出していた。しかし、新入生は八百名余りと人数が多く、遅々として流れは進んでいかない。待ちくたびれた生徒たちがざわざわと話す声があちらこちらから聞こえてくる。今の莉子と愛香のように、初対面同士で自己紹介をし合っている生徒も少なからずいるのだろう。
「同じクラスでしょ、愛香でいいよ。ねえ、莉子って呼んでいい?」
いいよ、と莉子は首を縦に振った。すると、愛香は嬉しそうに笑う。笑うと笑窪ができ、弧を描く唇の端から八重歯が覗くのが彼女の愛らしさに拍車をかけている。
「それじゃ、莉子。これからよろしくね。それで中学の話だけど、わたし、ここの内部生なの。だから入学式っていってもあんまり実感ないんだ。だけど、ここの学校のことなら大抵知ってるからなんでも聞いてね」
莉子が入学した琴吹学園高校は自由な校風が売りの中高一貫校だ。莉子の住む彩咲市からは電車で二十分ほどの大針市内にある学校で、高校から編入するにはそれなりの偏差値を要求される。莉子と違って別に極端に苦手な科目が存在しない和希は偏差値的にはもう少し上の高校に進学できたにもかかわらず、なぜか莉子と同じこの学校で今日の入学式を迎えていた。確か、和希は隣のD組だったはずだ。
やがて、隣のクラスの列が緩やかに動き出した。列の先頭にいた和希と一瞬視線が交錯する。莉子に気づくと、和希は小さく手を振った。それに対し、莉子も小さく手を上げて応じる。
「ね、今の人彼氏?」
莉子と和希のやりとりに気づいたらしい愛香がいたずらっぽい口調で尋ねてきた。莉子は違うよ、ときっぱりとそれを否定する。
「今のは同中の友達。ていうか、幼馴染」
「ふうん……幼馴染、ねえ」
愛香は訝るようにそう繰り返した。愛香は何か甘酸っぱい話を期待しているのかもしれないが、生憎、莉子と和希の関係は彼女の期待に添えそうなものではない。どちらかといえば家族ぐるみで姉弟のように育った(和希のほうが誕生日は先だが)、ただの腐れ縁の幼馴染だ。現在進行系で色気のある関係でもなければ、将来的に色気のある関係になる予定もない。
和希たちのクラスが体育館を出ていくと、今度は莉子たちのクラスの列が動き出した。莉子と愛香は自分たちの教室に向かうべく、座面がぺったんこになったパイプ椅子から腰を上げる。愛香は制服のベージュのチェックのスカートとハーフツインに結った髪をひらひらさせながら莉子の後ろをついてくると、背中越しに新たな話題を振ってきた。
「ねえねえ、莉子。さっき、宮本中出身って言ってたでしょ? この学校に宮本中の魔法使いの子が入学したらしいって噂なんだけど知らない? 同じ中学なんでしょ?」
「ああそれ? それって私のことだよ」
莉子がさらっとそう言った。愛香は小動物のようにくりくりとした大きな目を更に大きく見開いて、すごーいと声を高くした。
「莉子、魔法使いなの!? 本当に!?」
「本当本当。それに別にそんなすごくないよ。魔法使いだからって別にそんな特別なこともないし。普通だよ、普通」
「えー、そんなことないよ! 魔法使いが入学してくるって、それこそ芸能人が入学してくるくらいの大ニュースだもん」
大袈裟だよ、と莉子は苦笑したが、愛香は大きな目を興奮と感激できらきらと輝かせていた。
「それじゃあ、あの噂も本当? お母さんがあの幻の凄腕占い師、ミラージュ☆ユイだっていう話。雑誌とかテレビで引っ張りだこの」
「あー……うん。それも本当」
げんなりとした気分で莉子は愛香の言葉を肯定した。既に四十五歳であるにもかかわらず、年甲斐のない母親の痛々しい芸名を聞く度に恥ずかしくなる。どこの女児向けアニメの主人公だよと突っ込みたくなるネーミングだが、黒い仮面とロングドレスの年齢不詳のヴィランのようなビジュアルで売っているのだから始末に負えない。
「というか、愛香は一体どこでそんな話を仕入れてきたの……?」
「え、だって、わたし、ミラージュ☆ユイのファンだもん。そのくらい知ってるよー。いつも雑誌の巻末の占いコーナー読んでるし、公式ファンクラブも入ってるし」
「……」
莉子は唖然とした。まさか自分の母親にファンクラブがあるとは思っていなかった。それも公式の。言われてみれば最近、ウェブ向けの仕事が多いとかこぼしていたような気がするが、要はそういうことだったのかと莉子は遅まきながら理解する。
「お母さんのことはともかく、せっかくだから仲良くしよ。三年間クラス替えもないし」
「う、うん」
愛香の可愛らしい微笑みに気圧され、思わず莉子は頷いた。友達が母親のファンというのは何だか気恥ずかしい感じはするが、まあいいかと莉子は思い直す。
長年一緒だった和希とクラスが別れてしまった今、同じクラスに宮本中出身の知り合いはいない。しかし、愛香という友達が早々にできたことは高校生活の滑り出しとして悪くはなさそうだった。
自分にとって高校生活は一体どんな三年間になるのだろうと、莉子は思いを馳せる。このときの莉子は自分の高校生活が波乱に満ちたものになるなど、これっぽっちも予想はしていなかった。
◆◆◆
キーンコーンカーンコーン、とチャイムが六限目の授業の終わりを告げた。苦手な国語の授業から解放されて、莉子はぐっと伸びをする。
上二段活用だの下一段活用だのと一気にいろいろ言われたところで違いもいまいちよくわからないし、いまいち覚えきれる気がしない。ゴールデンウィーク明けには初めての中間テストが控えているが、このままでは早々に赤点を取る可能性すらあった。
まあ、そうなったらそうなったで仕方ないか。莉子は早々に直近の未来のことを諦めると、教科書とルーズリーフ、筆記用具を校章が刺繍された学校指定の真新しいスクールバッグに放り込む。どうせ古典の文法なんて高校を卒業したらいらなくなるものだ。
椅子から立ちあがろうとしたとき、後ろの席から人気のデパコスブランドのロゴが入ったシャーペンで愛香が莉子の茶色いブレザーの背中をつっついてきた。どうかした、と莉子は愛香を振り返る。
「ねえねえ、莉子。今日この後ちょっと寄り道してかない? すっごく大きいクレープ売ってるお店があるんだけど、食べに行こうよ」
「うん、いいけど……あ、ちょっと待って」
莉子はケースにスミレの押し花があしらわれたスマホをブレザーのポケットから取り出した。画面を指でタップして、メッセージアプリで莉子は素早く二通のメッセージを送った。片方は和希宛、もう片方はプリムラ宛だ。
「よし、オッケー。それじゃ愛香、行こっか」
莉子はスマホをポケットにしまいながらそう言った。スマホが震えて、新しいメッセージの受信を主張していたが、莉子は無視をする。
「うん。で、誰にメッセージ送ってたの? もしかしてこの前のD組の彼氏?」
愛香はいかにも興味津々といったふうに先程莉子がメッセージを送っていた相手について詮索する。しかし、だからそんなんじゃないよ、と莉子は愛香の言葉を否定した。
「あいつは彼氏なんじゃなくて、ただの幼馴染。和希には先帰っといてって伝えただけ。あと、家族にはちょっと寄り道して帰るから、って」
ふうん、と愛香はいまいち納得しきっていない顔をする。
「幼馴染ねえ……でも、幼馴染って言ったって男子と女子なわけでしょ? もう高校生なんだし、少女漫画的には何か進展があったって良くない?」
「いや、全然愛香が期待してるような関係じゃないから。ただの腐れ縁の幼馴染ってだけで、お互いに恋愛対象って感じじゃないし」
えーつまんない、と愛香は莉子と一緒に教室を出ながら頬を膨らませる。あのねえ、と莉子は溜息をついた。
「現実は少女漫画じゃないんだから、大体そんなもんでしょ。っていうか、いい加減離れられるかって思ってたのに何で和希と同じ高校になっちゃったかなあ。あいつ、もうちょっと上の高校行けたはずなのに」
昇降口で上履きを脱いでローファーに履き替えながら莉子がぼやくと、先に靴を履き替え終わっていた愛香はふふ、と含み笑いをした。
「えー、そんなの簡単なことでしょ? どう考えたって、莉子と一緒にいたかったからに決まってるよ」
それはないって、と莉子は愛香と肩を並べて歩き出す。花がまばらになって葉が茂りだした校門脇の桜がほんのりと赤みを帯び始めた空に揺れていた。
「……ねえ、愛香。あのサイズ、本当に食べるの?」
駅前の広場のベンチで同じ制服に身を包んだ学生たちが巨大なクレープを相手に奮闘しているのを横目に莉子は問うた。
「うん、高校生になったし、そろそろいけるんじゃないかと思って。先月、卒業式の後に友達とチャレンジしてみたときはギブアップしちゃったんだけど」
愛らしく舌をぺろっと出してみせながら愛香はそんなことをのたまってみせる。しかし、莉子はぶんぶんと首を横に振り、おかしいでしょうとそれを否定する。莉子の前下がりボブの毛先が激しく揺れた。
「いやいやいやいや! 先月だめだったのに高校生になったから食べれるってどういう理屈!? 普通に考えてそれは無理があるんじゃない!?」
そうかなあ、と愛香は小首を傾げる。高さが四十センチ、直径も十五センチほどはありそうな生クリームがぎっしりのクレープを莉子は一人で食べきれる自信は微塵もない。仕方なく莉子は愛香へと一つの提案をすることにした。
「あのさ、私これ食べるの初めてだし、今日は私のやつを半分こにしない? 今日食べてみて私がいけそうだったら今度は一人一個で挑戦してみたらいいんじゃないかな」
しょうがないなあ、と愛香は莉子の提案を承諾する。愛香は学校指定の黒いスクールバッグから、ガーリーなファッションが人気のブランドの白とピンクのバイカラーが可愛らしい長財布を取り出すと、小銭入れの中を弄った。
「はい、二百五十円。半分こなんだから、お金も割り勘ね」
うっすらとさりげないピンクに染まった華奢な指先が伸びてきて、莉子へと百円玉二枚と十円玉五枚を手渡した。
「あ、うん」
莉子は愛香から小銭を受け取ると、「それじゃ行ってくるから、愛香はここでベンチ取っといて」店舗となっている白いプレハブの前へと並ぶ。莉子の前には同じ制服の学生が何人も並んでいた。従業員の男によって、絶え間なく様々な味のクレープが作り続けられ、続々と行列が捌かれていく。イチゴカスタードにチョコバナナ、キャラメルバターに黒蜜抹茶あずき。他の生徒たちが手にしている通常サイズのクレープでさえまあまあ大きいが、周囲の様子を見る限り、今から愛香に唆され、莉子が頼もうとしているクレープは更に大きい。莉子よりも二、三グループくらい前に並んでいた女子三人組がちょうど莉子たちが頼もうとしていたのと同じクレープを一人一個頼み、あまりの大きさに圧倒されて泣きそうになっていた。莉子がきちんと愛香を諌めていなければ、今ごろ自分たちもああなっていた可能性が高い。
(いやあ……あの大きさじゃ、二人がかりでも食べきれるか怪しいな。ちゃんと愛香を止めておいてよかった。一人一個だなんてあれは無謀)
前に並んでいた同じ学校と思われるカップルが通常サイズのイチゴクレープと抹茶クレープを持って立ち去ると、ようやく莉子に注文の順番が回ってきた。
「ハイパーメガトン神盛りデラックスチョコクレープ一つ」
莉子は内心、戦々恐々としながら店員の三十代前半くらいの男性に注文を告げる。かなり大きいですよ、と店員に念を押されたが、莉子は苦笑して頷いた。
「五百円になります」
莉子はキャッシュトレイの上に五百円玉を一枚置いた。「ちょうどのお預かりになります」莉子から代金を受け取ると、店員は丸い鉄板に生地を広げて焼き始めた。生地が焼き上がり、ごてごてと大量のトッピングが施されていく様を眺めながら、これは思った以上にしんどそうだと莉子は顔を引き攣らせた。今、気のせいでなければ、通常のワンピースカットのガトーショコラやベイクドチーズケーキがそのまま乗せられやしなかったか。莉子の背を冷や汗が伝っていく。
(こ、これ本当に今から食べるの……!? 食べられるの……!?)
そうしているうちに、愛香と二人がかりで食べるにしてもあまりにもボリューミーなクレープが出来上がり、クレープとプラスチック製のスプーン二本を莉子は店員の男性から受け取った。ずっしりとした重みを両腕に感じながら、莉子はベンチで待つ愛香の元へと戻っていった。
「お待たせ」
莉子がクレープとを手渡すと、愛香はにこっと無邪気な笑みをこぼした。
「ほら、莉子、座って」
はしゃぐ愛香に促され、うん、と頷くと莉子は左隣に腰を下ろす。ケースからピンク色のウサギの耳が生えたスマホで様々な角度から写真を撮ると愛香は満足したのか、プラスチック製の小さなスプーンを手に取った。
「それじゃ食べよっか」
いただきます、と手を合わせると莉子と愛香はクレープを食べ始めた。甘くて美味しかったのは最初だけで、だんだんと胃の中をクレープの生クリームが圧迫していく。莉子は次第に今感じているのが美味しさなのか、気持ち悪さなのかわからなくなっていった。きっとここまでくると、どっちでもあり、どっちでもない。
二人は三十分近く時間をかけてクレープを食べ進めながら、満腹感と絶望感から目をそらすために、いろいろと他愛のない話をした。クラスの友達の話、今流行っているドラマの話、勉強の話――途中からは早々にギブアップした愛香が一方的に話し、莉子がクレープと格闘しながら相槌を打っているだけにはなっていたが、不思議なくらいに話題は尽きなかった。
どうにか巨大すぎるクレープを胃に押し込むことに成功した莉子は、膨らみすぎて苦しい腹を押さえながら、先ほどの国語の授業へと言及する。
「そういえば私、国語本当無理なんだよね。さっきの六限目も全然わけわからなかったし。ラ変とかナ変とか何なのあれ」
「あれは覚えちゃえばなんてことないよ? ラ変は『あり、おり、はべり、いまそかり』だし、ナ変は死ぬと往ぬだけだもん。簡単でしょ?」
「全然簡単じゃないよー! 覚えること多すぎだし、それ何の呪文だよって感じ」
そういえばさ、と愛香は莉子の口元についたホイップクリームを指先で拭いながら、
「呪文といえばさ、莉子は何か呪文唱えて魔法使ったりするの? ファンタジー映画の主人公みたいに」
「私はそれはやらないなあ。魔法使いってそれぞれに専門分野があるんだけど、うちの家系は代々占いやおまじない特化だから」
「えーそうなの?、でも、ミラージュ☆ユイはテレビで占いの技を披露するときにいっつも何かそれっぽい呪文みたいなの唱えてない?」
「あれはその……テレビ用の演出だから……」
愛香が言っている呪文というのはおそらく結子がテレビで口にしている、自意識過剰な中学生が書いた痛々しいポエムみたいなアレのことだろう。普通に占いをやるためにはあんなのは実は必要ないし、見栄えのために魔法ではなくちょっとした手品まで織り交ぜて、派手な演出を行なっているというのが実情だ。スタジオを炎が噴き上げたり、背後を羽根が舞い散ったり、魔力の波が押し寄せたり、カードが客席中を駆け巡ったりなど、回を増すごとに演出が派手になっていくのを莉子はいつも頭の痛い思いで見ている。そして結子が仮面で顔が出ないのをいいことに、常にすごくノリノリでそれらを行なっているという事実が頭の痛さにより拍車をかけていた。
そうなんだあ、と納得したのかしていないのか、愛香は無垢な瞳をきらきらさせながら、こんなことを言いだした。
「じゃあ、莉子はどんなふうに占いをやるの? わたし、見てみたいなあ。何か占ってよ!」
そうやって愛香にせがまれ、いいけどと言いながら莉子は赤と紫のアネモネが刺繍されたハンカチとタロットカードをバッグから取り出した。愛香は莉子のハンカチを指差すと、わあっと声を上げた。
「そのハンカチ、かわいいね」
「ありがと。これ自分でやったんだ」
すごーい、と愛香ははしゃいだ声を上げ、莉子にこう聞いた。
「莉子は刺繍が趣味なの?」
「刺繍っていうか、手芸全般かな。まあ、刺繍とかレジンやるのは特に好きだけど」
莉子はそう話しながら、占いの準備を整えるべく、体内の自分の魔力を練り上げていく。これからやるのは直近の未来のことを見るだけの簡単な占いだ。ミツカは家に置いてきてしまっているが、そのくらいならば莉子の魔力だけでも余裕でお釣りが出る。
「それで、愛香は何を占ってほしいの?」
莉子が問うと、愛香はうーんと逡巡した様子を見せる。
「色々あるけど、やっぱり一番はわたしとゆうくんのことかなあ」
「ゆうくんって?」
いきなり現れた知らない固有名詞に莉子は困惑する。えっとねえ、と愛香は可愛らしくはにかむ。とろんとした憂いと熱を帯びた眼差しは恋する乙女そのものだ。
「わたしの好きな人。ちっちゃいころからずっと好きって言ってるのに、全然相手にしてもらえないんだよね。妹扱い、っていうのかなあ」
大きな目をうるうるとさせながらそういった愛香を見ながら、それも仕方ないだろうと莉子は内心で思った。いくら可愛くてもこんな甘いスイーツのようにぽわぽわふわふわした夢見がちな女の子が相手ではそんなふうにもなるだろう。莉子が男だったとしても、彼女を可愛いと思いこそすれ、異性として――恋愛対象として意識するのは難しい。
「わたし本気なのに。ゆうくんがこの学校に来るって聞いて、外部進学する予定だったのやめたくらいだもん」
「そ、そうなんだ……」
ゆうくんとやらに対する愛香の熱情に少し引きながら莉子はタロットカードを切っていく。占いの準備を終えた莉子は、ハンカチの上にカードの束を置いた。カードは莉子の魔力をまとって、きらきらと静謐な光を放っている。これは占いの準備ができた証拠だ。
「それじゃあ、これからさくっと一番簡単な占いをやってみるね。愛香、私の手を握って、そのゆうくんっていう人のことを考えていてくれる?」
莉子が左手を愛香へと差し出すと、彼女は右手で莉子の手へと触れた。愛香が手に力を込めると、莉子は意識を集中させながら、金色の紋様が刻まれた深紅のカードへと右手をかざす。人差し指にはまった共鳴石は沈黙を貫いている一方で、莉子の右手は自身の魔力の放つ燐光をまとっていく。
二十二枚のカードが莉子の右腕を取り巻くようにふわりと宙に舞い上がり、時計回りにくるくると回り始めた。莉子の手から放射状に広がる魔力を帯びたカードが放つ光の強さを増す。
莉子が右の手のひらを天へと向けると、一枚のカードが莉子の手のひらへと舞い降りてきた。残りのカードの回転が次第に緩やかになり、ベンチの上に広げたハンカチの上へと収束していくと、カードと莉子の手がまとった青白い光は宙に溶けるようにすっと消えていった。
莉子は手にしたカードに視線をやると、眉根を寄せた。あまり結果が良くない。
(塔の逆位置……?)
塔のカードは、アクシデントや破壊などの意味合いを持っており、お世辞にも縁起がいいとは言い難い。それの逆位置ともなれば、良くも悪くも決して穏やかではない。
こんな単純な占いだというのに、自分が集中力が足りていなかったとでもいうのだろうか。莉子が結果を訝しんでいると、愛香は不思議そうな顔をして、どうしたのと聞いてきた。
「ああうん、何でもない」
莉子はかぶりを振ると、慎重に手の中のカードの意味を読み解こうとする。あまり下手なことを言って、愛香を不安がらせたりはしたくなかった。
「そうだなあ……これは、近いうちに何かアクシデントに見舞われるかもしれないけれど、それを機に関係性に変化が生まれるかもしれない、ってところかな」
塔のカードの意味を精一杯好意的に解釈した結果を莉子は告げる。アクシデントって、と不安そうに愛香は表情を曇らせた。先ほどまでのとろけるような甘い表情がすっかり鳴りを潜めてしまった愛香に少し罪悪感を覚え、莉子はこんなことを提案した。
「うーん、今日は一枚だけだから細かいことはわからないんだけど、不安だったら気休め程度でよかったら、何かお守り作ってこようか? ちょっとしたおまじないなんだけど、ないよりいいでしょ?」
「いいの?」
「うん。作って明日持ってくるよ。それじゃ今日はそろそろ帰ろっか」
クレープのせいでお腹いっぱいだよ、と苦笑すると、話を切り上げ、莉子はカードとハンカチをスクールバッグの中へ片付けていく。「わたし、クレープのゴミ捨ててくるね」「うん、ありがと。お願い」クレープの包み紙と二人が使っていたプラスチックスプーンをひとまとめにすると、愛香はゴミ箱へとそれらを捨てに行く。
莉子が片付けをしている間に、ゴミを処分して戻ってきた愛香は、莉子へと憧れと羨望の入り混じった視線と言葉を向けた。
「それにしても、莉子は取り柄があっていいなあ。わたしは別に何が得意ってわけじゃないもん。ねえ、莉子は将来はやっぱり、お母さんみたいに占いの仕事をするの?」
「……え?」
何気ない愛香の言葉に莉子はバッグのファスナーを閉めようとしていた手を止める。こうして愛香に聞かれるまで、莉子にとってのゴールは魔法使い認定資格を取得することのままになっていて、この先の将来のことなど考えたことすらなかった。さすがに結子のように派手にメディアに露出するような仕事はやりたくないが、かといって普通に一般企業に就職して働くのとかというとそれも何だか違うような気もする。何も答えられずに莉子が固まっていると、あれ、と意外そうに愛香は片眉を上げた。
「……もしかして、何かわたし聞いちゃいけないこと聞いちゃったかな?」
「ううん、そんなことない、けど……」
動揺で莉子の語尾が震えた。自分にとっての魔法使いという職業や占いというものの立ち位置がわからなくて、そんなことないと言い切ることが出来なかった。将来の姿を今の自分から思い描けないというのはこんなにも心細いものなのかと莉子は初めて知った。
「うちの学校、一応自称進学校だから、魔法使いとしてやりたいことがあるならちゃんと言ったほうがいいよ。来月の三者面談とかでもたぶん聞かれると思うし」
「そ、そうなんだ」
引き攣り笑いを浮かべながら莉子はベンチから立ち上がる。占いの仕事をするの? 、という先程の愛香の問いが頭の中で反響し続けていた。
莉子が通学に使っている鉄道路線の高架の向こう側へ赤々と燃える夕日が沈んでいこうとしていた。
◆◆◆
莉子は誰かが帰宅した気配を感じて、一階のダイニングへと顔を出した。今さっき、ガチャリと玄関の鍵が閉まる音が聞こえたが、一体誰だろうか。
時刻はまだ二十一時を回ったばかりで、仕事で基本的に帰宅が遅い結子にしてはやけに早い。そして、滅多に家で顔を合わせることのない樹来がこんな時間に帰ってくる可能性はもっとない。
台所の隅で、明らかにプリムラではないサイズ感の人間が冷蔵庫の中を漁っているのを莉子は視界に捉えた。すっと莉子の視線から温度が消える。莉子はその人影に冷え冷えとした視線を向けながら、きつい声を浴びせた。
「何やってんの、お兄ちゃん。珍しく帰ってきたと思ったら、泥棒の真似事?」
莉子に嫌味をぶつけられ、冷蔵庫の中身を物色していた茶色く染めた髪をウルフカットにした青年が缶ビールを手に顔を上げた。
「あれ、お前、莉子? 何でいんの?」
「それはこっちの台詞だってば。週一で帰って来れば多いほうのお兄ちゃんが何で家にいるの?」
「いや、お前が知らないだけで週四くらいでは帰ってきてるっつの」
ほとんど朝帰りだけどねー、と言いながら、脱衣所の洗面台にお湯を張って入浴を楽しんでいたプリムラがラベンダー色のネグリジェに身を包んで姿を現した。湯上がりの小さな体からは、入浴剤として湯に浮かべていた花の匂いがほのかに香っている。
「うわ、虫ババア。お前もいたのか」
神経を敢えて逆撫でするかのような樹来の物言いにプリムラは紫色の目を吊り上げた。そして彼女は口調を荒らげて樹来へと言い返す。
「虫ババアって何よ! こんなにかわいい花の妖精捕まえて、失礼にも程があるでしょ! それにそのビール、あたしのじゃない! 返しなさいよ樹来!」
樹来は一本ぐらいいーじゃねーかよと言いながら、憤慨するプリムラへ缶ビールを放り投げる。
「投げるなーっ!」
プリムラは高い声でそう叫んだ。繊細な銀糸の刺繍が施された袖口から伸びた細い腕が、弧を描きながら宙を舞うビールの缶をキャッチする。
「お、唐揚げあるじゃん」
プリムラから興味を失ったらしい樹来は開けっ放しの冷蔵庫の中から唐揚げの乗った小皿を目敏く見つける。樹来がそれに手を伸ばそうとすると、莉子はさっとその皿を取り上げた。
「お兄ちゃん、それママのだから。うちにお兄ちゃんのご飯なんてないよ」
コンビニで何か買ってこれば、と莉子が冷たく言い放つ。冷たい態度を貫く妹へと、樹来はなんでだよと口を尖らせる。ビールの缶をダイニングテーブルの上に置くと、やれやれと苦笑しながらプリムラはネグリジェの上から小さなフリルエプロンを身につけ始めた。
「しょうがないわねー。魚でも焼いてあげるから、それでも食べときなさい」
「えー、絶対それ飲めないやつじゃね?」
樹来が文句を言うと、プリムラは冷蔵庫から鮭の切り身が入った青いビニール袋を取り出しながらこう言い返した。
「樹来はどうせ毎日合コン三昧で毎日お酒ばかり飲んでいるんだから、たまには休肝日ってことにしときなさい」
「プリムラ、お前だって毎日酒飲んでんだろ。虫のくせに」
白い蝶の羽をぱたぱたとさせながらフライパンで鮭を焼こうとしていたプリムラは、きっと眦を釣り上げて樹来を振り返ると憤慨する。
「虫って言うんじゃないわよ! それにあたしはいいの! あんたみたいなちゃらんぽらんな遊び人と違って、毎日ちゃんと家のこと全部やってるんだから! ご褒美くらいないとこんな生活やってらんないわよ」
ちゃらんぽらんと言えばさ、と莉子は麦茶を冷蔵庫から出してグラスに注ぎながら、常々純粋に疑問に思っていたことを口にした。
「そういえば、何でお兄ちゃんって教育学部なんて選んだの? 先生なんて柄じゃないじゃん」
「うっせーな。あ、俺にも麦茶くれ」
「やだよ、自分でやってよ。そんなことより、さっきの答え教えてよ」
樹来が自分の分の麦茶をグラスに注いでいると、コンロのほうから魚が焼き上がる香ばしい香りが漂ってきた。鮭を焼いている間にも色々と用意をしていたらしく、プリムラが一品ずつおかずを運んでくる。
プリムラは食事の乗った皿を抱えて、調理台とダイニングテーブルを何回か往復した。すると、ダイニングテーブルの上には鮭の塩焼きにほうれん草のおひたし、茶碗に盛られた白米にネギとわかめの味噌汁といった体に優しそうな和定食ができあがった。
「ん。いただきます」
樹来は軽く手を合わせると、味噌汁の入った漆器の碗を手に取った。「……うっめ」そして、彼は出汁の効いたプリムラ特製の味噌汁を啜りながら、先程莉子に聞かれたことへの答えを話し始める。
「俺の場合は、いろいろ学部受けたんだけど、教育学部しか受かんなかったの。これ以上、他のところ受けるつもりだったら、バイト代かお年玉の貯金で受験料払えってそこのこわーいプリムラねーさんが言うからいたしかたなく」
ネグリジェの裾を縛って濡れないようにしながらシンクでフライパンを洗っていたプリムラが一瞬振り返って樹来を睨みつけた。しかし、襟足の長い後頭部に刺さったプリムラの視線を適当に受け流しながら、樹来は箸を動かし続ける。よほど腹が減っていたらしく、食卓の上のおかずが吸い込まれるように樹来の胃の中に消えていく。
「じゃあ、プリムラが何も言わなかったらどこ行ってたの?」
「まあ、今の学校の今の学部行ってたんじゃね? どうせ他全部落ちてたし、女子のレベル高い大学行けりゃどこでもよかったし」
明らかに遊ぶことしか考えていない兄の顔を莉子は最低、と睨みつけた。しかし、樹来は妹の罵倒などどこ吹く風で、プリムラに白米のおかわりを要求した。
「なあ、メシまだある?」
「明日の莉子のお弁当の分がなくなるから駄目よ」
「じゃあ、莉子、お前明日昼メシ抜きな」
「本当に最低」
妹に最低と連呼されても特に堪えた感じはなく、樹来は行儀悪くテーブルに肘をついたまま、茶碗に残っていた白米をかきこんでいく。
「ごっそさん」
樹来は食事を終えると、席を立って今度は冷凍庫を漁り始める。そして、キウイ味のアイスキャンディを引っ張り出してくると、樹来はそれに歯を立てた。
「うおっ、染みる」
思わずといったふうに樹来は左頬を押さえた。そんな兄へ莉子は白けた浴びせかける。
「どうせ虫歯かなんかでしょ。お兄ちゃん、夜遊びばっかで歯なんてろくに磨いてないんだから」
「磨いてるっつーの! 口クセェと、キスしようとしたときに女子に逃げられるし、そんなんじゃワンチャンも何もねえからな」
うわあ、と軽蔑で莉子は頬を引き攣らせる。さすがに明言は避けたが、要は樹来はハイエナのように常にワンチャンを狙い続けているヤリモク男なのだと莉子は悟った。毎晩毎晩合コン三昧していると思ったら、そんなことばかりしていたのかと思うと我が兄ながらぞっとする。こいつは女の敵だ。
「プリムラー、お兄ちゃんマジでキショいんだけど! どうにかしてよー!」
嫌悪のあまり莉子がプリムラに泣きつくと、彼女は布巾で拭き終わったフライパンをシンクの下に片付けながら、無理ねと断言した。
「無理って……お兄ちゃんをこんなふうに育てたのプリムラじゃんー! どうすんの、この下半身の欲望だけで生きてるみたいな男! お兄ちゃんそろそろ就活の準備始めなきゃなのに、こんなの世の中に出しちゃまずいって!」
「莉子、お前おにーさま捕まえてこんなの呼ばわりとかいい度胸してんな? ってか就活かー、そういやそんなんもあったな。この前の就職ガイダンスほとんど寝てたから完全に忘れてたわ」
舌先で小さくなったアイスキャンディを舐りながら、樹来はテーブルの上に頬杖をつく。というか、この男、下半身の欲望云々に関しては否定しないのか。樹来に向けられる莉子の眼差しと語調がますます険しさを増す。
「お兄ちゃんなんて、こんなので充分でしょ。そんなので本当に就活どうすんの? 行きたい業界とか会社とか何かないわけ?」
莉子の問いに樹来は食べ終わったアイスの棒を咥えながらどうでもよさそうに、特にねえなあと即答した。
「俺はお前と違って、魔法使いの適性もなかったから、行けるところに行ければ何でもいいっていうか。ま、うちの大学はそれなりにネームバリューはあるからどうにかなるだろ」
樹来は莉子と異なり、魔法使いとしての才能はない。莉子は幼いころから結子によって、彼女が得意とする占いについてのあれこれを叩き込まれてきたが、樹来はごく普通の一般人として育ってきた。
「ま、何もしなくても誰かが養ってくれて、女に囲まれてちやほやしてもらえる職場があれば永久就職すっけどな」
ニヤリと下品な笑みを浮かべてヒモ志望発言をした樹来を莉子はうわっと汚いものを見る目で見る。この男は一体どこまで最低な女好きなのか。こんなのと血が繋がっていると思うと怖気が走る。
「本当ありえないんだけど。同じ空間にいると何かその最低さがうつりそうだからどっか行って」
「お前から話振ってきたくせになんなの。へいへい、わかりましたー、おにーさまは退散しますよ、っと」
樹来は立ち上がってゴミ箱にアイスの棒を放り込む。階段を上がって自室に戻ろうとした樹来をプリムラは待ってと呼び止める。
「樹来、上行くのはいいけどうるさくしないように。最近、ミツカ――怖がりなアルマジロの使い魔が莉子の部屋にいるんだけど、騒がしくするとたぶん怯えるから」
へー、と樹来は面白いことを聞いたと言わんばかりの顔をすると、どすどすと足音を立てて二階へと階段を上がっていく。ほどなくしてばん、と乱暴にドアが開かれる音が階上で響いた。
「ぴゃああああああ! 何なんですかこの人! ミツカのことをいじめないでくださいいいい!」
莉子の部屋から怯えきったミツカのキーキーとした悲鳴が響いてきた。
「ああもう、プリムラが余計なこと言うから……」
恨みがましい目で莉子はプリムラを見る。あんなふうに怯えてしまったミツカを宥めるのはなかなかに面倒くさい。
「ごめん、莉子……樹来の性格考えればああなるわよね」
プリムラは莉子へと謝罪の言葉を述べると、食べ終わった後の樹来の食器を一つずつシンクへと運んでいく。プリムラは洗剤のついたスポンジを取ると食器を洗い始めた。彼女は味噌汁の入っていた碗を相手取りながら、何気なさを装って莉子に話を切り出した。
「それで莉子はどうしたの? いきなり、樹来なんかに進路の話なんか振って。何かあった?」
うっ、と一瞬莉子は言葉に詰まった。仕事で多忙な結子に代わって、莉子を幼いときから育ててきたプリムラには、莉子の様子が少しおかしいことはお見通しだったようだ。莉子は手の中の麦茶のグラスを見つめながら、ぽつぽつと言葉を紡ぎ始める。
「愛香――高校の友達に今日簡単な占いを一個やってあげたんだけど、そのときに将来はママみたいに占いの仕事をするのかって聞かれて」
うん、とプリムラは洗剤のついた食器を水で流しながら相槌を打つと、莉子に話の続きを促した。
「私、ついこの前まで、魔法使い認定資格の取得目指してたじゃん? 高校受験もあったのに同時並行で結構頑張ってたと思うし」
莉子は春休みのうちに資格を取ってしまいたくて、高校受験の勉強と並行して魔法使い認定試験の勉強をしていた。高校受験が佳境となった冬場はかなり苦しい思いを強いられたが、その甲斐あってどちらもどうにか切り抜けることができた。
「だけど、私、今日言われて初めて気づいたんだよね。私のゴールってずっと魔法使い認定試験のままで、次のことなんて全然考えてなかったって」
プリムラは洗った食器を水切りラックに干すと、結んでいたラベンダー色のネグリジェの裾を解いた。そして彼女は冷蔵庫の中から食べかけのあたりめの袋を出してくると莉子へと勧める。
「莉子、食べる?」
「私はいいや。っていうかプリムラ、私の話聞いてる?」
聞いてるって、とプリムラはもぐもぐと大好物のあたりめをかじりながら、こう言った。
「要は急に将来のことを突きつけられちゃって、莉子は戸惑っちゃったわけでしょ? 不安になるのもわからないでもないわ」
でもね、とプリムラは諭すように言葉を続ける。幼い顔立ちに反して、その紫色の双眸にはまるで母親のような優しい光を宿していた。
「莉子、そういうところは真面目よね。さすがに莉子まで樹来みたいになられても困るけど、もう少し気楽に考えてもいいんじゃない? たとえば、今の莉子は何に興味があるかとか、そういうのを基準に考えてみてもいいと思うわ」
興味のあること、と莉子は口の中で小さく繰り返す。そういうふうに将来のことを考えてみようと思ったことはなかったなあ、と莉子は思う。それにね、とプリムラは莉子の耳元に口を寄せると、冗談めかした口調でとっておきの内緒話を囁いた。
「莉子、知ってる? 結子が高校生くらいのときなんてね、将来はあたしのことを見世物にしてぼろ儲けしてやるとか言ってたのよ。いくらあたしが世にも珍しい有能でキュートな妖精だからって、あれはあんまりだと思ったわ」
プリムラの言葉に莉子はぷっと吹き出した。いかにも、”面白ければそれでいい”を信条に生きている結子であれば言いそうなことだ。自分の母親の適当さに莉子はほんの少し救われた気がした。
「何それ、めっちゃママっぽい」
でしょ、と言いながらプリムラはあたりめの袋の口をくるくると丸めると輪ゴムで留める。ほんの少し莉子の表情が和らいだことに安心したのか、プリムラは冷蔵庫にあたりめの残りをしまい直すと、花がらの小さなフリルエプロンを脱ぎ始めた。
「せっかくお風呂入ったのに、樹来のせいでまた汗かいちゃったわ。着替えたいし、もう一回入ってこよっと」
フリルエプロンをダイニングチェアの背に掛けると、プリムラは脱衣所のほうへと白い羽を羽ばたかせて飛んでいった。程なくして、洗面台にお湯を溜めていると思しき水音が聞こえ始める。
莉子はグラスの麦茶を飲み干すと立ち上がる。シンクでグラスを洗って水切りラックに干すと、莉子は奥にある母親の部屋のドアを開けた。いろいろなハーブの混ざり合ったような独特な匂い――莉子にとっては幼いころから嗅ぎ慣れた、どこか安心する匂いが嗅覚を満たした。
まだ主が帰ってきていない部屋に足を踏み入れると、莉子は電気をつける。作業机の隣にある棚を物色して、莉子は愛香にお守りを作るために必要なものを探していった。
まずはアロマオイルだ。愛香が好みそうなのはローズやジャスミン、イランイラン辺りだろうか。どれを使うかは作りながら考えようと、莉子はアロマオイルの瓶を三つとも棚から取った。
(目的考えたら、ナナカマドとクローバー辺りが欲しいかなあ……)
続いて莉子はドライフラワーの小瓶を吟味していく。目的の瓶を見つけて顔を上げると、視界にリナリアの小瓶が映り込み、彼女はなんとはなしにそれを手に取った。
(あ、これいいな……もしかしたら使えるかも)
リナリアの小瓶を抱えると莉子は結子の部屋を出ようとする。しかし、ふいに壁に飾られた写真の少女と目が合って足を止めた。
莉子とよく似た面差しの少女だった。色褪せた写真の中で、どこかの学校の制服に身を包んだ少女は桃色の髪の妖精の少女と戯れていた。
(昔のママとプリムラだ……)
今でこそミラージュ☆ユイなどというふざけた名前で凄腕占い師としてバリバリ稼いでいる結子だが、ちゃんと学生だったころがあったのだと思うと莉子は何だか安心する。結子の傍らのプリムラの姿は、今と微塵も変わっていなくて少し笑えてくる。
(これがプリムラを見世物にして稼ぐなんて言っていたころのママかあ……。それに比べたら、今のママってあんなのだけど、真っ当に生きてる方だよね。それにママは、今の自分自身を、仕事をたぶんちゃんと楽しんでる――だってママはいつだってあんなにいきいきとしてるから)
高校生のころは無茶苦茶なことを言っていたという結子だって、今は一人前の大人として、そして立派な魔法使いとして生きている。それもおそらくは自分で楽しいと思えることを仕事にしている。それはすごく幸せなことなのだということは莉子にもわかった。
何が結子に占いの道で生きていくことを決意させたのかはわからない。しかし、そんな結子ですらどうにかなったのだから、きっと莉子もいつかはちゃんと自分の進むべき道を見つけられるに違いないということだけは信じられそうだった。大丈夫、と莉子は自分に言い聞かせると、電気を消して結子の部屋を出る。
今日の夕方に感じた心細さはいつの間にか幾分かマシになっていた。学校は進路がどうのこうのと迫ってくるかも知れないが、自分の進むべき道は自分のペースで少しずつ決めていけばいいのだと思えた。
誰もいないダイニングを通り抜けようとして、ウォールナットのテーブルの上に置かれているカゴにバナナが盛られているのが莉子の視界に入った。ミツカに持っていってあげよう、と莉子はカゴからバナナを一本手に取ると、階段を上がっていった。
◆◆◆
「莉子おおおお、さっきのあの人なんだったんですかあああ! ミツカ、すっごく怖かったんですよううう!」
数本の小瓶とバナナを腕に抱えて、莉子が自分の部屋のドアを後ろ手に閉めると、途端に黒い瞳に涙を溜めたミツカが泣きついてきた。莉子とミツカ双方の共鳴石に灯る光がゆらゆらと不安定に明滅を繰り返しているのが、何よりもミツカの混乱を雄弁に物語っている。あー、と莉子はうんざりしたような表情を浮かべると、樹来に代わって謝罪した。
「ごめん、ミツカ。アレ、うちの馬鹿兄貴。何された?」
「ミツカがクッションの上で寝てたら、あの人、ミツカのこといきなり掴み上げて……それで、ミツカとクッションをお手玉みたいにぽんぽん投げたんですううう」
話しているうちに再び恐怖が蘇ってきてしまったのか、ミツカは己の定位置であるホットケーキの形を模したビーズクッションの上で丸くなってぶるぶると震えだす。
「こ、怖かったですううう……怖かったですうううう……」
莉子は持っていた小瓶を勉強机に置くと、かがみ込んで恐怖に啜り泣くミツカの黄褐色の甲羅を宥めるように撫でた。
「ごめんね。お兄ちゃんには厳しく言っておくようにプリムラには伝えておくから。とは言っても、お兄ちゃんは朝帰りが多いし、遭遇することも多いだろうから気をつけてね。ミツカは基本的に夜行性だから、あの馬鹿兄貴と生活リズムが似てるしさ。いくらプリムラが注意したところで、あの性格だからちょっかいかけてくることもあるだろうし、私が家にいないときは自分でどうにか自衛して」
「は、はいぃぃ……」
球体から元に戻り、涙で濡れた顔をミツカは覗かせる。そうだ、と莉子はダイニングから持ってきたバナナをミツカに見せる。ちら、とミツカの黒い目がバナナを見た。
「ミツカ、おやつ食べない?」
食べますう、とミツカがまだ湿り気の残る声で言うと、莉子は勉強机にティッシュを敷いた。莉子は皮を剥き、食べやすいように小さくちぎったバナナをティッシュの上に並べると、ミツカの胴体を掴んで抱き上げる。
「ぴゃっ」
驚いたのか、ミツカは一瞬びくりと体を震わせ、抗うように爪をバタバタさせた。
「ごめんごめん」
「びっくりさせないでくださいようう……」
莉子が机の上にミツカの体を下ろすと、ミツカはちらりと恨みがましそうな視線を莉子へと向ける。「ほら、ミツカ。どうぞ」莉子にバナナを勧められると、ミツカはもしゃもしゃとそれを食べ始めた。
好物を与えられたことで少し気分が落ち着いたのか、次第にミツカの前足の共鳴石が元の静かな光を取り戻していく。先程のような魔力が不安定な状態が続けば、ミツカが凶魔化を起こしてしまう可能性があった。とりあえずのストレスケアはしてあげられただろうか、と莉子は安堵する。
ミツカがバナナを食べているのを視界の隅で眺めながら、莉子は机の引き出しを開いた。黄色い看板のバラエティショップで買い置きしていた小さな不織布の袋とリボン、スキンケア用のコットンとピンセットを取り出すと、莉子は先程結子の部屋から持ってきた小瓶の蓋を緩めていく。
ドライフラワーの入った小瓶から、莉子はピンセットで赤い実が愛らしいナナカマドと四葉のクローバーを取り出して、淡いピンクの不織布の袋へと少しずつ詰めていく。結子の部屋から他のドライフラワーと一緒に持ってきたリナリアを入れるべきか入れないべきかと莉子は逡巡する。アクシデントから身を守るだけの効能なら、身の安全を祈るナナカマドや幸運を招くためのクローバーだけで充分だが、莉子としては少しくらいはできたばかりの友人の恋を応援してあげたいような気もする。
(よし、やっぱりこれも入れよう)
リナリアの花言葉は”この恋に気づいて”。ゆうくんなる人物に片思いをしている愛香にぴったりの花言葉だ。愛香の恋に少しでも進展があるといいと思いながら、小瓶の蓋を開けると、莉子は不織布の袋へとピンセットで紫色の花を入れた。
「莉子、それは何をやっているんですか?」
バナナを食べ終わったミツカが莉子の作業に興味を持ったらしく、手元を覗き込んできた。
「これ? これは、お守りのサシェを作ってるの。今日、友達に占いをやってあげたんだけど、あんまり結果が良くなかったから」
そう説明してやりながら、莉子はアロマオイルを選ぶ。一番愛香らしいのはローズだが、彼女の恋に進展を望むのなら、思い切って催淫効果があるというイランイランを使ってみるのもいいかも知れない。
莉子はコットンを出すとイランイランのアロマオイルを何滴か垂らした。奥ゆかしい甘さと大人の妖艶さを合わせ持ったオリエンタルな花の匂い――イランイランの香りが立ち上り、莉子の鼻腔を刺激する。莉子はコットンを不織布の袋に入れ、口を銀色のリボンで縛った。
「後はこれに魔力を込めてやれば完成なんだけれど……ねえ、ミツカ。せっかくだから一緒にやってみる?」
莉子の提案にミツカは怪訝そうな顔をする。
「ミツカがですか……? 莉子ならミツカの手なんて借りなくても、このくらい余裕なのではないですか?」、
「それはそうなんだけど……私が今後もミツカとやっていくなら、いざというときにちゃんとミツカの魔力を扱えるようにしておかないといけないでしょ? 訓練とか練習だと思って協力してよ。これは私にとってもミツカにとっても必要なことだよ」
「わかりました。ミツカでよければいくらでも使ってやってください」
ミツカが納得すると、莉子は意識を集中してミツカとの繋がりを感じ取ろうとした。穏やかに光る二つの共鳴石の間に細い光の糸が走る。莉子は二人の魔力の波長を合わせるべく、己の魔力を調整していった。
「ミツカ、少し魔力借りるね。きつかったらやめるからすぐ言って」
莉子は魔力の糸を切らないように気をつけながら、慎重に糸を指で手繰り寄せていくと、自分の体内にミツカの魔力を取り込んでいった。莉子は自分の魔力とミツカの魔力という太さの違う二本の糸を一本の紐のように撚り上げていく様を脳裏に思い描く。さほど強くも濃くもないけれど質の良いミツカの魔力をどのように自分の魔力に絡めていくか、自分とミツカの魔力をどのくらいの比率で練り上げていくか――そんなことを考えながら、莉子は自分の感覚に従って、魔力の具合を調整していく。
よし、と体内で魔力を錬成し終えると、莉子は自分で作ったサシェを手のひらで包み込んだ。魔力の光が莉子の手をベールのように包んでいく。愛香の幸運を願いながら、莉子はそっと手のひらから練り上げた魔力を解き放った。
莉子とミツカの魔力を帯びた薄ピンクの不織布の袋が青白い燐光を纏う。このくらい、と適当なところで流れ出る魔力を莉子が己の身の内に封じ込めると、サシェの光り方は次第に落ち着いていった。
薄ピンクの袋がうっすらと発光するに留まるようになったことを確認すると、莉子はミツカとの間に張られた魔力の糸を爪の先で切り、集中を解く。そして、莉子はすぐにミツカの具合を案じる言葉をかけた。
「ミツカ、大丈夫?」
莉子がミツカにそう聞くと、ミツカは疲れた顔で机の上にへたりこむ。ミツカから借り受ける魔力の量は最小限に留めたはずだったが、それでも初めて魔法使いに魔力を供給したミツカには負担だったようだ。
「魔法使いの方に魔力を供給するのってこういう感じなんですね……なんだか、ミツカ、体に力が入らないですう……」
「慣れないうちは使い魔側にも負担がかかるらしいからある程度は仕方ないかな。慣れたらたぶんこのくらいじゃ疲れなくなってくるはずだよ。プリムラいわく、だけど」
「あの、莉子……ミツカ、どうでしたか? ミツカ、少しでも莉子のお役に立てましたか……?」
役立たずと罵られることを恐れているのか、おずおずとそんな質問をしてきたミツカに莉子はぐっと親指を上げてみせる。契約を結んですぐのころは、使い魔から魔力を引き出すのに手こずるなんていう話をよく聞くが、初回でこれなら上等だ。
「はじめての割にはいい感じだったんじゃない? ミツカから供給されてた魔力、途切れたりしないでちゃんと安定してたし。これだけできれば上出来、上出来」
それを聞いて安心したのか、ミツカは脱力したようにくたっと体を伸ばした。莉子はミツカの甲羅をよしよしと手で撫でてやる。
「ミツカ、お疲れ。そうだ、手伝ってくれたお礼に何か持ってきてあげる」
そう言うと莉子は椅子から立ち上がり、部屋を出る。階段を下りると、莉子は台所へと足を踏み入れ、冷蔵庫を開けた。何かミツカが好きそうなものはなかったかな、と莉子は野菜室を探っていく。使い魔の失った分の魔力を補填してやるには何か栄養のあるものを与えてやるのが一番手っ取り早い。
(――お、リンゴ発見)
莉子は野菜室からリンゴを取り出すと、シンクで軽く水洗いした。水切りラックに干してあった包丁とまな板を取ると、包丁をリンゴに這わせるようにして皮を剥いていく。そして、莉子は八等分になるようにリンゴを切っていった。
「お皿、お皿っと」
莉子は食器棚から皿を二枚持ってくると、リンゴを四つずつ乗せる。それから、包丁とまな板をシンクで洗って水切りラックに干し直すと、莉子は台所を後にした。とんとんと足音を鳴らしながら、リンゴの乗った皿を持って階段を上ると、莉子は部屋のドアを肘で押し開ける。
「ミツカ、お待たせ」
莉子の机の上でくたっとしたまま、疲労でうつらうつらとしていたミツカは、リンゴの甘い匂いに反応して目を開ける。
「あ、リンゴ……」
「ミツカ、リンゴ持ってきたよ。――ほら、食べな」
ミツカの前にリンゴの皿を片方置いてやると、莉子は自分も椅子へと腰を下ろす。これまで気だるそうにしていたのが嘘のようにぱっと黒い目を輝かせるとミツカはリンゴを齧り始めた。シャコシャコと音を立てて、機嫌良くミツカがリンゴを食べているのを眺めながら、莉子も自分の分のリンゴに口をつける。ミツカは途轍もない勢いでリンゴを食べている。よっぽど好きなのだろうと、その様子が微笑ましくて莉子は小さく笑った。プリムラに頼んで、リンゴは必ずミツカのために冷蔵庫にストックしておいてもらうようにしよう。
莉子は自分の分のリンゴを食べ終えると、ミツカへと話しかけた。
「ねえ、ミツカ。変なこと聞くようなんだけどさ」
「ふぁい……、莉子、どうしたんですか?」
ミツカは口の中のものを飲み下すと、莉子のことを振り返って小首を傾げる。
「ミツカはさ、将来、使い魔としてどうなりたいとかってあるの?」
ミツカですか、ミツカは戸惑ったような表情を浮かべた。ええと、としばらくミツカは躊躇った様子を見せていたが、やがて意を決したように口を開いた。
「ミツカはまだまだ使い魔として未熟な身です。だから、ミツカにこの先のことを聞かれても難しいですけど……それでも、ミツカが今、どうありたいかというのは一応あるつもりです」
「どうありたいかって?」
「こんなこと言うと生意気って思われそうですけど……ミツカは魔力だって少ないし、賢くもないですけど、それでもできる限り、使役してくれる魔法使いの方の支えになれる存在でありたいって思ってます」
ミツカの答えに莉子はへえ、と声を漏らす。いつもびくびくとして、己を卑下してばかりいるミツカが自分の在り方についてきちんと考えているのが少し意外だった。
「まあ、これはムツナの受け売りなんですけどね……」
居心地悪そうにそう言い添えたミツカに、莉子はムツナって、と聞き返す。
「ミツカの大事なお友達です」
そう答えるとミツカは黒い目を細め、大切な宝物に触れるようにムツナについて話し始めた。
◆◆◆
ミツカはとても怖がりなアルマジロだ。時折、身の回りでおきる不可解な現象の数々に怯えては丸まって震え、オオカミやライオンどころか子猫にさえしょっちゅう追いかけ回されては穴ぐらに飛び込んで恐怖に涙をこぼすような日々を送っていた。
ミツカがムツナに出会ったのは、ミツカがイタチに襲われ、逃げ遅れたときのことだった。
(ミツカ、イタチなんかに食べられて、死んじゃうんですか……? 怖い、死にたくない……誰か、誰かミツカのことを助けてください……!)
丸まって身を守ることすら間に合わず、柔らかな腹部に牙を突き立てられかけていたミツカが恐怖と諦観に目を閉じようとしたとき、どこからともなく黄褐色の生き物が現れた。その生き物はイタチを威嚇し、追い払ってくれた。
ミツカのことを助けてくれた、彼女より一回り大きな体を持つその生き物――それがムツオビアルマジロのムツナだった。ムツナはぼろぼろと涙を流すミツカを振り返り、優しくこう聞いた。
「大丈夫?」
アルマジロとは本来、別の個体と群れて暮らす生き物ではない。しかし、一人では到底生きていけそうになかったミツカからムツナは離れることはなく、それからずっと側に居続けた。
縄張り意識が強く、単独行動を是とするアルマジロらしく、ミツカは自分から離れようとしないムツナのことをしばらくは拒み続けていた。しかし、付かず離れずの距離で根気強く優しい言葉を投げかけ続けるムツナにミツカは次第に心を開くようになっていった。
仲良くになるにつれ、ムツナはミツカがアルマジロとして一人でも生きられるように様々なことを教えてくれるようになった。その度にムツナへの尊敬を深めていったミツカはあるとき、自分が抱え続けてきた悩みごとを告白した。
「ムツナ、聞いてください。昔からミツカの周りでは変なことがよく起こるんです。寝床がいきなり水浸しになったりだとか、背中に花が咲いたりだとか、一つ一つは小さなことなんですけど、ミツカ、怖くって」
ムツナはミツカの話を聞いて、少し考え込む素振りを見せた。
「それはミツカが私と同じで、ちょっとだけ魔力を持ってるからかもしれない。たぶん、制御できていないミツカの魔力が悪さをして、ミツカの周りで怪奇現象を引き起こしているんだと思うよ。私もそんなに詳しいわけじゃないけど、よかったらミツカも魔力の制御の仕方、一緒に勉強してみない?」
自分を脅かし続ける不可解な現象の数々がどうにかなるなら、と臆病なミツカにしては珍しく、ムツナと共に魔力の勉強をすることを即決した。
それからというものミツカとムツナは少しずつ移動を繰り返しながら、魔力の勉強をして暮らした。そして、幾年かが過ぎ、ミツカがなんとか魔力の扱い方を覚えたころ、JWUの職員だという男が二人に接触してきた。
JWUの職員は、新たに立ち上げ予定の使い魔サブスクサービスのために、ミツカとムツナを使い魔としてスカウトしたいという話を持ちかけてきた。しかし、その話を聞かされたミツカはそれを拒否した。
自分なんかが役に立てるとも思えなかったし、どこの誰とも知れない人間の元へ行くのは怖かった。そして、何よりムツナと離れ離れになるのが嫌だった。
けれど、そんなミツカに反して、ムツナはやりたいと言った。
「この力が誰かの役に立つのなら、私はやってみたい。この力がまだ知らない誰かの支えになれるなんて素敵じゃない? 私は誰かの――魔法使いの人の支えになれる自分でいたい」
そう言ったムツナの姿がミツカには眩しく見えた。そして、ミツカは他の誰より憧れ、尊敬する親友のムツナのようになりたいと思い、自身も使い魔のサブスクサービスに協力することを了承したのだった。
◆◆◆
「あのときのムツナは本当に格好良くって。誰よりも尊敬する友達のムツナみたいになりたいってミツカは思ったんです。だからミツカもミツカなりに、魔法使いの人の支えになれるように頑張りたいって思ってます」
「いいじゃん。立派なことだと思うよ」
そうでしょうか、といまいち自信なさげにするミツカに、「自信持ちなよ」と莉子は彼女の志を肯定した。
「ところで、莉子はどうしていきなりそんなことをミツカに聞いたんですか?」
ミツカは当然の疑問を莉子へぶつける。そりゃそうだよね、と莉子は苦笑する。何の脈絡もなく、そんなことを聞かれれば不思議に思うのは当然だ。莉子は今日の夕方の出来事をミツカへと話した
「友達に聞かれたんだよね。将来は占いを仕事にするのかって。そしたら、私、魔法使い認定資格を取ることがゴールのままになってて、将来のことなんてまったく考えてなかったことに気付かされて」
だけどさ、と莉子は言葉を続ける。
「ミツカの話を聞いていて、今は自分のできることを頑張るっていうのも一つの答えなのかもって思った。ミツカ、ありがとね」
「み、ミツカはお礼を言われるようなことは……」
ミツカは恐縮したように体を縮こまらせる。すると、その拍子にミツカの頭と尻尾が甲羅の中に入ってしまった。
「あ」
ついうっかり丸まってしまったことにミツカは慌てたように声を上げた。ミツカは手足をばたつかせながら体を球体から元に戻す。
「ミツカは何もしてないです。だけどミツカは、莉子がどんな選択をしても、使い魔として全力で支えるまでです。もっとも、ミツカの力で出来ることなんてすごく限られてますけど」
そんなことないよ、と莉子はかぶりを振る。この臆病で自己肯定感の低いアルマジロの存在が、言葉が今はとても心強い。
「ミツカがいてくれてよかった」
そう言うと、莉子はミツカの頭を指先で撫でる。ミツカは莉子の顔を直視できないのか、わたわたとあちこちに視線を向けていたかと思うと、喉の奥から情けない声を漏らした。
「ぴゃ、ぴゃあ……」
褒められ慣れていないミツカは限界を迎えたのか、再びくるんと球体化して、自分の甲羅の中にこもってしまった。その体はかたかたと震えている。
仕方ないなあ、と丸まって一人で悶絶している相棒に苦笑した莉子の視界にふと入学式の前日から置かれたままの手芸屋の紙袋が映った。そうだった、と莉子は思い出してがさがさと袋からライトグレーのチェック柄と黒のドット柄のダブルガーゼの端切れを取り出した。
莉子は座ったまま体を上に伸ばすと、机の上のラックから花の彫刻が刻まれた使い込まれた裁縫箱をそっとおろした。裁縫箱を開けると、針に白い縫い糸を通し、莉子は二枚の布を裏返しにして縫い合わせ始めた。
しばらくして、二枚の布の外周を返し口を残して縫い合わせ終わると莉子は手を止める。返し口から布を表返すと、内側に隠れていた柄が露わになる。そして、縫い代を内側に織り込んでまち針で止めると、布の外周にステッチを施していった。
針を縫い針から刺繍針に持ち替えると、莉子は針の穴に三本取りにした黄色の刺繍糸を通す。そして、ライトグレーのチェック柄の面に、レーゼデイジーステッチでタンポポの花を刺繍し始めた。タンポポの花を刺し終えると、糸をグリーンに変え、アウトラインステッチで茎を、サテンステッチで葉を布の上に刻んでいった。
莉子がハンカチを作り終えると、いつの間にかミツカは球体になったまますやすやと寝息を立てていた。魔力を使っただけでなく、樹来いじめられたこともあって疲弊していたのだろう。そんなミツカをいじらしく思いながら、莉子はもう一度体内で魔力を練る。ほどなくして、莉子の手を淡い魔力の光が覆い始めた。
莉子は完成させたばかりのハンカチの上に手を翳すと、自身の魔力を込めた。彼女が刻んだ縫い目の一つ一つが魔力を帯びてほのかに光り始める。
(よし、こんなものか)
莉子はハンカチから手を離すと、体内の魔力を収束させる。練り上げられた魔力の塊がすっと体内で霧散していくのを莉子は感じた。
(……あ、やば)
いつの間にか春の夜は更け、机の隅に置いたスマホの時計は深夜二時を回っていた。いい加減もう寝ないと明日に響く。
「――おやすみ、ミツカ」
そう呟くと、莉子はミツカを起こさないように静かに椅子から立ち上がる。時間が時間ということもあって瞼が重い。作ったサシェとハンカチを床においたスクールバッグの中に滑り込ませると、部屋の電気を消し、莉子はマットレスと花柄の掛け布団の間に体を潜り込ませた。
夜の静寂の中、どこからかやけに宵っ張りな春告鳥が子守唄を歌っている。カーテンの外では、暗い空のあちらこちらで春星が朧に光を降らせていた。
◆◆◆
翌朝、莉子が身支度を終えてダイニングへ降りていくと、結子が大根とにんじんの味噌汁を啜っていた。夕方から夜に仕事が集中しがちな結子にしては珍しいことだった。
「あれ、ママ。何で起きてるの?」
「何って仕事よ仕事。今日、十時から都内で仕事なの。ウェブ向けコンテンツの取材と撮影だって。まったくもう、最近そんなのばかりで嫌になっちゃうわ。警察に申請も出して、安くない場所代も払ってるっていうのにこれじゃあ全然本業の仕事ができやしない」
朝から昨夜のおかずの唐揚げを頬張りながら、結子はぶつくさと何やら文句を言っている。確かに結子は最近メディア露出の仕事ばかりで、本業としての占い師の仕事がろくにできていない。莉子が結子の向かいに腰を下ろすと、結子はこんなことを言い出した。
「ねえ、莉子。場所代もったいないし、私の代わりに仕事しない? あんたの腕なら申し分ないでしょ」
「やだよ、駅前の飲み屋街のとこでしょ。あの辺酔っ払い多いし」
それもそうねえ、と結子はテーブルの上に肘をつく。そして、行儀悪く右手に握りしめた箸でぐちゃぐちゃと納豆をかき混ぜながら結子は人の悪い笑みを浮かべると、名案とばかりにこんなことを言い足してきた。
「酔っぱらいに絡まれるのが怖いなら、和希くんに一緒にいてもらいなさいよ。男の子が一緒にいればそうそう変な人に絡まれることはないだろうし、仮に何かあっても和希くんなら必ず莉子のことを守ってくれると思うわよ?」
そのとき、フリルエプロン姿のプリムラがメープルシロップが滴り落ちそうなくらいかけられたフレンチトーストの乗った皿を運んできた。彼女は莉子の前に皿を置くと、自分の主人をを諌める。
「高校生が二人であんなところにいたら、間違いなく警察に補導されるわね。結子の店が繁盛するのなんてだいたい夜遅くなんだから。そもそも結子、高校生の二十二時以降の労働は労働基準法で禁止されているわよ。個人事業主とはいえそのくらいわかってるわよね?」
「もう、わかってるって。ちょっと言ってみただけじゃない。本当にプリムラが小煩いのは昔から変わらないわね」
「……あたしにそうさせてるのは一体どこの誰だったかしら?」
プリムラに半眼で睨まれると、知らないわねえ、と結子は嘯きながら納豆に刻んだネギを混ぜる。これ以上小姑めいた妖精の小言を食らいたくなかったのか、結子は話題を変える。
「ところで莉子、昨日私の部屋からドライフラワーとかアロマオイルの瓶いくつか持っていかなかった? 昨夜、店で出す用のお守り作ろうとしたら、いくつかなくなってたんだけど」
「ああうん、ちょっとお守りのサシェ作りたくて借りた。帰ったら返しとくよ」
結子は本業の占いだけでも相場より高い金額を取っているが、それでは飽き足らずに客に手作りのお守りを売りつけて更なる利益を得ている。一流の魔法使いの作ったものということもあり効果は抜群で、客からの評判も非常に良いが、その高い売上のせいで毎年確定申告が大変だとプリムラがぼやいていた(家事だけではなく、プリムラは毎年の確定申告のような経理的なことまで結子に押し付けられている)。
結子はよくかき混ぜた納豆を白米の上にかけ箸で口に運びながら、莉子をじっと見る。テーブルの上に置いたケトルのお湯で、マグカップにインスタントコーヒーを淹れていた莉子は視線に気づくと、何、と聞いた。
「飲むなら自分で淹れるか、プリムラにやってもらうかしてよ」
莉子の言葉にやだやだ、と結子は箸を持ったままの手を顔の前で振った。箸と箸の間では納豆の糸が蜘蛛の巣を作っている。
「ケチねえ。まったく、誰に似たのかしら」
そう言うと結子は白い蝶の羽を羽ばたかせながら、家事に勤しんでいる花の妖精へと一瞥をくれる。何よ、というやや棘を含んだ声がプリムラから返ってくる。しかし、結子は意に介したふうもなく、話を続ける。
「まあ、そんなことはどうでもいいんだけど。莉子の制服姿を見るのも久しぶりね。入学式以来?」
「かもね。ママ、大抵朝は寝てるし、夕方は仕事でいないから」
高校はどう? とい珍しく親らしいこと聞いてきた結子に莉子は意外さで目を瞬かせた。普段は娘を自分の使い魔に任せきりにしているくせ彼女の発言だとは思えなかった。草青むこの季節に時期外れの大雪でも降るんじゃなかろうか。
「別に。普通だよ」
「そう? 何か将来のことで悩んでるらしいってプリムラから聞いてるんだけど」
どうってことないと莉子は流そうとしたが、緑茶の入っていた湯呑みにインスタントコーヒーを淹れようとしながら結子にそうさらりと言われて、莉子は食べかけのフレンチトーストをフォークごと取り落としかけた。そして、莉子はメープルシロップまみれになった皿へと視線を落とすと、うんまあ、と居心地悪げに言った。
「ちょっと、友達に将来の進路のこと聞かれただけ。ねえ、何でママは今の仕事してるの? 私と同じくらいの年のときは何か無茶苦茶なこと言ってたらしいってプリムラから聞いたけど」
湯呑みにケトルに残っていたお湯を注ぐと、そんなこともあったわねえ、と結子は懐かしそうな顔をする。
「私は今も昔も自分にできることをやっているだけよ。私にはたまたま魔法使いとしての才覚も、あんたのおばあちゃんに仕込んでもらった占いの技術もあったから。
だけどね、莉子。おばあちゃんと違って、私は魔法使いの血と技術を残したいとかそんなことは考えてないの。だから、別にあんたは魔法使いなんてものに囚われなくたっていいのよ。
将来の選択肢を多く残すために、認定資格も取らせたし、高校もそれなりのとこに行かせたけど、他にやりたいことができたら、魔法使い以外の道を選んだっていいの」
結子の話を聞き、莉子はフォークを動かす手を止める。いつも割と適当なところが目立つ結子がこんなことを考えていたとは思っていなかった。やっぱり今日は大雪になるに違いない。バッグに傘は入っていただろうか。そんなことを考えている莉子をよそに、結子は話を続けていく。
「まあ、私に言えるのは、莉子は今は高校生活を楽しんで、色々な経験を積みなさいってことかな。あんたの学校はまあ……自称進学校とかいうやつだから進路とかうるさそうだけど、結局、最後に決めるのはあんた自身だしね。
私が一つ言ってあげられることがあるとしたら、あんたにとってどんな経験も無駄にはならないってこと。今のあんたにしかできないことをやりたいように、やりたいだけやりなさい。犯罪や危ないことに首を突っ込まない限りは、私もプリムラも止めるつもりはないし、お父さんだって何も言わないはずよ。そうやって経験を重ねた分だけ、あんたの視野は広がるし、視野が広がればあんたという人間に深みが出る。だから今は普通に年齢相応に毎日を頑張って生きればいい――勉強も、遊びも、魔法も……あと恋なんかもね」
朝から思いがけず深い話をされて、莉子は呆けた。やりたいようにしていいという結子の言葉が心の中でゆっくりと染み渡って、安堵へと変わっていく。自分は自分でいいのだという事実が揺らいでいた自分の中に降りてきて、目の前の靄が晴れたような気がした。
そのとき、プリムラが白地に水色の花柄のランチクロスに包まれた弁当箱を持って飛んできて、呆けたままだった莉子を急かした。
「莉子、そろそろ行かないと遅刻!」
もうそんな時間かと莉子はブレザーのポケットからスマホを出して、ロック画面の時計を確認する。時刻は午前七時四十五分を回っていた。そろそろ出ないと電車に乗り遅れてしまう。慌てて残りのフレンチトーストをコーヒーで流し込むと莉子は立ち上がった。
プリムラから弁当を受け取ってダイニングテーブルの下に置いていたスクールバッグに押し込むと、莉子はティッシュで口元を拭った。「ごちそうさま!」莉子はそう叫ぶと、スクールバッグを持ってばたばたと慌ただしく玄関へと向かった。膝丈のベージュのチェック柄のスカートの裾が翻る。
莉子が玄関でローファーに足を突っ込もうとしていると、がちゃんと外の門の扉が開く音がした。扉の向こう側に幼いころから慣れ親しんだ気配が立ったかと思うと、インターホンが鳴った。
プリムラはインターホンモニターへと飛んでいくと、応答ボタンを押した。「あ、和希」「プリムラ、おはよ。莉子は? 待ってたんだけど、今日全然来ないから迎えにきた」「今玄関よ。もう出れると思うわ」プリムラはインターホンモニター越しに和希と何言か会話を交わすと、靴を履いている莉子の背中へと向かって叫んだ。」
「莉子ー、和希来たわよー」
「わかってるー!」
そう叫び返すと、莉子は上り框に置いたスクールバッグを持って立ち上がった。そして、いってきます、と莉子は玄関のドアを開ける。
「莉子、おはよう」
玄関ポーチには莉子と同じブレザーにベージュのチェック柄のスラックスに身を包んだスマートマッシュの少年が立っていた。おはよ、と莉子は和希に挨拶を返す。
「今日遅かったから、俺の方から来ちゃったけど、どうしたの? 莉子、寝坊でもした?」
「ううん、ちょっとママと話してただけ。それより早くいかないと。電車来ちゃう!」
急ぐよ、莉子は和希の茶色いブレザーの腕を掴むと走り始める。二人が走り去った後には、深紅の桜蘂が残されていた。
◆◆◆
莉子は教室で愛香と弁当を食べているときに、ふと思い出したことがあって箸を止めた。今朝は遅刻すれすれで教室に駆け込んだせいでそれどころじゃなかったが、鞄の中には愛香のために作ってきたサシェがある。莉子は机の脇にかけたスクールバッグを開き、ピンク色の小さな袋を取り出すと机を挟んで向かい合って座る愛香の前にそれを置いた。昨日込めた莉子とミツカの魔力が不織布の繊維に絡みついてかすかな光を放っている。
「そういえば愛香、これ渡すの忘れてた。昨日言ってた通り、占いの結果が微妙だったから作ってきたんだ。気休めにしかならないかもしれないけど、嫌じゃなかったらバッグにでも入れといて」
莉子からサシェを受け取ると、愛香はきらきらと目を輝かせる。ありがとー、と薄紅色の唇を綻ばせた彼女の頬に笑窪が浮かぶ。
「莉子すごーい! こんなの作れるんだ、かわいいー!」
イランイランの香りがする不織布の袋に鼻を近づけて匂いを嗅ぐと、「なんかいい匂いするー……」愛香はうっとりとした顔をした。これだけ喜んでもらえるのなら、作った甲斐があるというものだ。
(さて……愛香はいいとして、和希にはいつ渡すかな……。今朝はばたばたしててそれどころじゃなかったし、だからといって今行って渡すのも悪目立ちするし……。でも帰りに改まってっていうのもそれはそれでなんだかなあ……)
いい年して手作りのプレゼントなど、和希が喜んでくれる保証もない。莉子が鞄の中のハンカチの処遇に頭を悩ませているのをよそに、愛香は大きなサテンのリボンがかわいらしいペンケースにサシェをしまうと、こちらへと身を乗り出してきた。
「莉子、知ってる? 隣のD組の友達からメッセージ来てたんだけど、さっきの四限の体育で骨折した男子がいたらしいよ」
「へえ、そうなんだ」
D組といえば和希のクラスだなあなどと思いながら、莉子はプリムラによるお手製弁当のミートボールを箸でつつき始めた。どこの誰だか知らないが、ゴールデンウィークを控えて骨折とは何とも災難なことだ。
そんなことを思いながら、莉子が弁当を食べ進めていると、教室の戸口がざわついた。なんだろう、と弁当から顔を上げた莉子の視線とクラスメイトたちの視線が交錯する。気のせいか、クラス中の注目が自分に集まっているような気がする。
「清水さん、彼氏来てるよ」
購買部に行った帰りらしい、メロンパンとチョココロネを手にした女子は莉子と愛香に近づいてくるとそう言った。クラスメイトたちが自分を見て何やらひそひそ言っているのが聞こえてくる。
「彼氏って……」
莉子が戸口の方を見ると、和希が立っていた。入学早々悪目立ちしてしまったことに莉子はため息をつくと、箸を置いて立ち上がる。
「ごめん愛香、ちょっと行ってくるね」
「はいはい、ごゆっくり。もう莉子、違うって言ってたくせにやっぱり付き合ってたんじゃん」
少し拗ねた様子の愛香に、莉子は違うって、と一応弁解を試みる。しかし、莉子の言葉はが愛香の耳に届いた様子はなかった。
(もう……変に目立ちたくないから、学校ではクラスまで来たりしないでって言ったのに……)
好奇に満ちた視線の集中砲火を浴びせられ、和希に文句を言いたい気持ちでいっぱいだった。莉子は早足に教室の戸口へと向かうと、和希のブレザーの腕をひっつかんだ。誰かがヒュウと口笛を吹いたのが聞こえた。なんでこんな辱めを受けないといけないんだ。全部和希が悪い。
莉子は有無を言わせずに和希を非常階段まで引きずっていった。辺りに人気がないことを確認すると、莉子は開口一番に和希へと怒声を浴びせた。
「もう! 教室まで来て何の用なの!? 用があるならメッセージ送るとかにしてよね! 和希のせいでクラス中に変な勘違いされたじゃん!」
「俺はそれでもいいけど……」
口の中で何やらごにょごにょ言っている和希に莉子はよくない、と言い返す。何が悲しくて和希なんかと噂にならなければならないんだ。それで、と莉子は腰に両手を当てると、わざわざ教室まで訪ねてきた理由を問い質す。
「一体何の用なの? これでろくな話じゃなかったら、呪いかけてやるんだから。移動教室で教室間違えて恥かく程度のやつ」
「それ微妙に嫌なやつじゃんか……。ていうかそういう悪いことに力使ったのがバレるとプリムラに怒られるんじゃなかったっけ?」
莉子は聞こえなーい、と耳を塞ぐ。和希はやれやれと肩を竦めると、自分のスマホを取り出した。スマホのロックを解除すると、和希は莉子へとメッセージアプリの画面を見せる。
「それはともかくとして……何で莉子、プリムラからの電話出ないんだ? 莉子と連絡がつかないって、プリムラから俺にメッセージ来てるんだけど」
――莉子と急ぎで連絡取りたいんだけど、何回かけてもあの子電話に出ないの。悪いんだけど、和希連絡取れる?
プリムラと和希のチャット画面に書かれた文面を読み、おかしいなと莉子は首を捻った。プリムラから電話なんて来た覚えはない。
莉子はブレザーのポケットを探り、自分のスマホを引っ張り出す。指先でタップしても、電源ボタンを押しても、画面に光が灯る様子はない。そういえば、昨夜はいろいろやっていて夜更かししてしまったせいで、スマホをほったらかしでそのまま寝てしまったような覚えがある。
「あ……昨夜、スマホ充電するの忘れてたような……」
「まったく……。プリムラにはそうメッセージ返しとくね」
和希がメッセージアプリにプリムラへの返事を入力しているのを横目に、莉子はそもそもの疑問を口にする。
「っていうか、私に急ぎってプリムラは何の用だったわけ? あんたにまで連絡来るってなかなかないと思うんだけど」
「さあ……?」
「あんたねえ……」
和希がプリムラにメッセージを送ると同時に、まるで待ち構えていたかのように既読がついた。次の瞬間には、和希のスマホが震え、プリムラからの着信を告げる。和希は莉子と視線を交わし合うと、緑色の受話器のボタンを押し、莉子にも聞こえるようにスピーカーモードにする。
「もしもし、和希? 莉子も今一緒?」
珍しく緊迫したプリムラの声がスピーカーから響いた。何だか嫌な予感がする。莉子はプリムラの気迫に狼狽えながらどうしたの、と聞いた。
「ミツカがいなくなったのよ」
え、と莉子が絶句した。プリムラは苦々しげに言葉の続きを継ぎ、何があったのかを説明してくれた。
「今朝十時くらいだったかしら。ミツカが朝ごはんを食べに下に来たときに、樹来とうっかり鉢合わせしちゃったのよ。樹来、昨日は帰りが早かったから、その分早く起きちゃったみたいで。それで、樹来が尻尾掴もうとしたら、怖がって庭に逃げちゃったの。それでそのまま地面をを掘って、脱走してどこかにいっちゃったみたいで……」
あの馬鹿兄貴、と莉子は毒づく。珍しくまともな時間に家にいて、比較的まともな生活をしていると思ったら本当にろくなことをしない。
「で、諸悪の根源のお兄ちゃんは?」
「どうしても外せない講義があるとかで、珍しく大学行ったわよ。仕方ないから、あたし一人で近所は一通り探してみたんだけど、どこにも見当たらなくて。もしかしたら莉子のところに行ってる可能性もあるかと思って連絡してみたんだけど……」
「それこそあり得ないでしょ。うちから学校まで一体何キロあると思ってるの?」
プリムラの言葉に莉子は反論した。しかし、あのさ、と莉子とプリムラの会話に和希が口を挟む。
「ミツカって、あの使い魔のアルマジロだよね? それなんだけど、ちょっと気になることがあって」
気になることって、と莉子は聞き返す。スピーカーの向こう側でプリムラも怪訝そうに声を上げていた。
「俺のクラス、さっきの時間、体育だったんだけどさ」
「ああ、道理で臭いと思ったら。和希、今あんた汗と柑橘系の匂いが混ざって絶妙に臭いよ」
和希はしょんぼりと眉尻を下げる。莉子に臭がられないように配慮して使ったはずの制汗剤が裏目に出て、変な匂いになってしまっている自覚はあった。
「それは俺も自覚してる……じゃなくて、莉子、余計な茶々入れないでよ。さっきの授業で、ちょっと時間が余ったから、男子全員でドッヂボールしてたんだよ。最初は普通のボールでやってたんだけど、何かのタイミングでボールが違うものと入れ替わっちゃってさ。ボールが入れ替わった直後なんだけど、ボールが当たった奴が怪我しちゃって……。そいつ、結局、骨折してるっぽいから病院行くとかで早退してったんだけど、今思えば、あれってミツカだったんじゃないかって……何か黄土色っぽい色してたし、何かぴゃあって悲鳴も聞こえた気がするし」
莉子は手でこめかみを押さえた。先ほど、愛香から聞かされた噂話の真相はこういうことだったのかと思うと頭が痛い。
「プリムラ、たぶんミツカは学校のどこかにいると思う。和希、体育やってたのって、体育館? それとも校庭?」
体育館、と和希が答えると、オッケーと莉子は頷いた。これ以上ミツカが校内で何かやらかさないうちに早く捕まえないといけない。それが魔法使いたる自分の責任だ。
「それじゃプリムラ、ミツカのことはこっちで探してみる。和希、一緒に来て」
「えええ……莉子、俺、五限、英語の小テストあるから教室戻りたいんだけど……」
いいから来て、と莉子は有無を言わさず、和希の前腕を掴んだ。
「和希、悪いけど付き合ってあげて」
苦笑混じりのプリムラの声に頼まれて、和希はわかったよ、とため息をついた。プリムラにまで頼まれたらさすがに断れない。和希は後で教師に怒られる覚悟を決めた。
「プリムラ、こっちでミツカ見つけたらまた連絡する」
「うん、授業あるところ悪いんだけどお願いね。ミツカを早く見つけてあげて」
「わかった」
それじゃ、と莉子は勝手に和希のスマホを操作して通話を切った。スマホの画面には十三時四十分と表示されている。昼休みも終わりかけている以上、ミツカがまだ体育館に留まっているかわからなかったが、他に手がかりがない以上、行ってみる以外の選択肢はなかった。
「和希、行くよ」
莉子は和希の腕を掴んだまま歩き出す。仕方ないなあと言いながらも、和希は莉子の手を振り解くことはしなかった。
リノリウムの廊下に割れ気味なチャイムが響く。廊下には五限目の授業のために教室移動をする生徒たちの姿が見え始めていた。
◆◆◆
五限の授業で体育館を利用するのか、ジャージ姿の女子が集まり始めていた。莉子たちとは学年が異なるのか、体育館履きのラインの色が違っている。莉子は和希と一緒に体育館の入り口から中を覗き込むと、四限の体育の授業のことを改めて確認していく。
「で、ここにミツカが紛れ込んでたって? 何時くらいの話?」
「チャイム鳴る少し前のはずだから、十二時四十分くらいじゃないかな?」
「その後、ミツカがどこ行ったかわからない?」
「骨折騒ぎで大騒ぎになっちゃって、それどころじゃなかったから、そこまではちょっと……」
肝心なところで役に立たない、と莉子は胸中で毒づいた。他所へ行ってしまったのか、まだ体育館のどこかに隠れているのかミツカの足取りは判然としない。しかし、一旦はこの体育館の中を一通り探してみるほかなさそうだった。ワンチャン体育館倉庫のボール入れの中にでも丸まって紛れ込んでいたりしないだろうか。
「ねえ、莉子って、魔法使いなら、自分の使い魔の場所くらいわかったりしないの? その指のリングで呼び出せたりとかさ」
和希の疑問に、莉子はあのねえと顔の前にローズクォーツのリングが嵌まった人差し指を立てる。
「そんなことができるなら、こんなふうに探し回ったりせずに最初からそうしてるに決まってるでしょ。最初に来たタツロウみたいに魔力が濃くて多ければ、それを頼りに探すこともできるんだけど、ミツカは魔力量が少ないから魔力の気配を追いかけて探すことは無理。
あと、この共鳴石っていうのもそこまで便利なものじゃないの。この石で使い魔に命令を強制できるのは、私の目が届く範囲――要はこの石が光っている間だけ。つまり、ミツカがどこにいるかわからない以上、これは何の役にも立たないただのアクセサリーってわけ」
使い魔へ命令を下せたり、魔力の供給を受けることができるのが共鳴石の効果の範囲内というのがこの契約形式の最大のデメリットだ。永久契約であれば、使い魔の所在がわからずとも呼び出すことくらい朝飯前だ。体の中にある互いの血が呼び合うからだ。
(ないものねだりしたって仕方ない。――行くか)
かぶりを振って、無理やり意識を切り替えると、莉子は体育館に足を踏み入れようとした。その瞬間、背後から近づいてきた二人組の女子が気になる会話をしているのを聴覚が捉えた。
「さっき、昼休みにパート練で音楽棟に行ったんだけどさ。誰もいないはずの練習室からピアノの音がしてたんだよね」
「何それ、ホラーじゃん」
「ずっと不協和音がしてるから気になって練習どころじゃなくって、確認してみようって話になって。トロンボーンのみんなでじゃんけんしたら私が負けちゃったから、仕方なく様子を見に練習室の中に入ったらぴゃーって悲鳴がして」
「何それ、ますますホラーじゃん」
上級生の女子二人の会話を聞いた莉子と和希は顔を見合わせる。どう思う、と莉子は和希に意見を請うた。
「ミツカかもしれないね」
「だよね。音楽棟、だっけ? 行ってみよう」
莉子と和希は踵を返すと、体育館を後にする。五限目の開始を告げる本鈴が鳴り響いていた。
◆◆◆
「ミツカいないね……」
「いないな……」
音楽室の前に並んだ六つの個室――吹奏楽部や音楽科の学生が主に使用する練習室をくまなく探し終えた莉子と和希は顔を合わせるとため息をついた。音楽室と準備室も音楽教師の瀬野にちくちくと文句を言われながらも一通り確認させてもらったが、ミツカの姿はなく、捜索状況は芳しくなかった。
ミツカの行方は杳として知れない。一体どこに行ってしまったのだろうと、莉子と和希はキュッキュとまだ汚れのない上履きのゴム底を鳴らしながら、仕方なく階段を降りていく。
渡り廊下の柱にかけられたアナログ時計は午後二時過ぎを示している。プリムラの話から考えると、ミツカが脱走してから既に四時間が経過している。あの臆病な子は一体どこで何をしているのだろうか。見知らぬ場所や人を怖がり、丸まって泣いて震えているのではないだろうか。
「どうしよう……」
莉子は不意に足を止めると、弱音をこぼした。
この学校は広い。単に中高一貫のマンモス校であるだけではなく、高校二年生以降に多数の学科に分かれるという特徴があるため、敷地内に通常なら考えられない数の設備が存在していた。この学校には通常の授業が行なわれる本校舎の他に、先程訪れた音楽棟、体育館などがある体育棟、美術や工芸の授業が行なわれる芸術棟、情報処理の勉強のために最新の機材が導入されたデジタル棟、実験のための設備が充実した科学棟など、他にも数多くの校舎が存在している。そのように広大なこの学校の中をたった二人で、一匹のアルマジロを探して回るなど、あまりにも無理がある。
けれど、莉子は一人前の魔法使いとして、ミツカを連れ戻さなければならなかった。仮初とはいえ、ミツカの主として莉子にはその責任があった。
一人前の魔法使いとしての資格があるからこそ、莉子はJWUに使い魔の使役を許可されている。管理能力がないと見做されれば、最悪の場合、せっかく取得した認定資格を剥奪される可能性もあった。
(認定資格を取ったとはいえ、使い魔の管理もできないんじゃ、半人前のときと何も変わらない……こんなんじゃ、情けなくて一人前の魔法使いだなんて名乗れないよ……)
莉子は唇を噛むと、ぐっと拳を握りしめる。この先魔法使いとして生きていきたいのかはわからなかったが、己の失態によって魔法使いとして生きる選択肢が奪われてしまうのはどうしてかとても嫌だった。魔法使いでなくなったただの十五歳の自分は、何一つとして取り柄のない人間だ。そのことがひどく心許ない。爪が食い込んだ手のひらが痛みを訴えていたが、莉子はあえて無視をする。
「莉子?」
少し前を歩いていた和希が振り返る。俯く莉子の方へ和希は歩み寄ると、少し膝を屈めて目線を合わせると、優しい声音でこう聞いた。
「どうしたの? ミツカのことが心配?」
それもあるけど、と莉子は蚊の鳴くような声で言う。情けなさで視界が滲んだ。
「私、こんなときなのに自分の心配してた……こんなふうに使い魔の管理も出来なくて、JWUにせっかく取った認定資格取り上げられたらどうしよう、って。こんなんじゃ魔法使い失格だ、って。魔法使いとして生きていけなくなったとき、私には何が残るんだろうって……」
莉子の口から不安が溢れ出る。和希を前にすると、胸の中に渦巻いていた不安を不思議なくらい吐き出すことができた。
ぽた、ぽた、とリノリウムの床を透明な雫が濡らす。和希は制服のスラックスからネイビーとグレーのストライプ柄のハンカチを取り出すと、莉子へと渡してやった。莉子は黙ってそれを受け取ると、顔を埋めた。莉子の喉の奥から小さな嗚咽が漏れ出すのを聞きながら、和希はかけるべき言葉を探して口を開けたり閉じたりしていた。
「莉子、俺は……」
和希が意を決して口を開き、莉子の背に手を伸ばそうとしたとき、聞き覚えのある特徴的な悲鳴が遠くで響いた。
「ぴゃっ、ぴゃあああああああああっっっ!!」
莉子の心臓がどくんと大きく鳴った。莉子ははっとして顔を上げる。
「ミツカの声……!」
ミツカの声がした方角――科学棟のほうから、濃い魔力の気配が漂ってくるのを莉子は感じた。莉子の視界にミツカがいないのは明らかなのに、右手のローズクォーツのリングが不安定に揺れる濁った色の光を放ち始める。
(どうして共鳴石が……? それに、これはミツカの魔力……? だけど、ミツカにしては魔力の気配が濃すぎるような……一体、何が……?)
何だか嫌な予感がした。しかし、今はその正体について考えている場合ではなく、一刻でも早くミツカを捕まえなければならない。
「和希。たぶん、ミツカは科学棟にいる。――行くよ」
莉子はハンカチで涙を拭うと、正面に見える科学棟へと向かって走り出した。和希はその背中を追いかける。二人の足音が、人気のない渡り廊下でばたばたと反響していた。
◆◆◆
莉子と和希が駆け込んだときの第三化学実験室の状況は惨憺たるものだった。
禍々しく濁った光を放つ球体が室内を跳ねまわっては備品を破壊して回っていて、今年、リノベーションしたばかりだという室内は見る影もなくなっていた。
机の下に隠れるように指示を出す中年の男性教師の叫び声。割れて天井から降り注ぐ蛍光灯の破片。倒れた棚から転がり落ちて、中身を床に撒き散らしている薬品の小瓶たち。隣の準備室の壁ごと突き破られた板書途中の黒板。ぴゃあああ、と悲痛な叫び声を上げながら、目にも止まらない速度で球体が動き回る度に教室の内部が破壊されていく。
「ミツ、カ……?」
莉子は濁った光の中心にいるものの正体を悟り、呆然としながらその名を呼んだ。しかし、莉子の声が届いていないのか、ミツカが反応を示す様子はない。けれど、痛々しい悲鳴も、黄褐色の鱗に覆われた丸まった体も、間違いなく自分の使い魔であるミツカのものだった。
二つの共鳴石はミツカの悲鳴に呼応するように、濁った光を断続的に発し続けている。教室の中には、ミツカにしては強く、煮詰められたような濃さの汚染された魔力が満ちている。
莉子がミツカと過ごした時間はまださほど長くはない。しかし、今のミツカの様子が常軌を逸しているということくらいは理解できた。
怖がりで、卑屈なミツオビアルマジロのミツカ。いつも何かに怯えていて、涙で潤みがちな黒瞳は赤く、異様な空気を湛えている。そして、普段は彼女自身を守っている固い甲羅は鈍器となり、眠くて退屈なだけの授業が行なわれていた教室を蹂躙していた。
(これって、もしかして……!)
使い魔が自我を失って、暴走する現象。莉子はそれに心当たりがあった。
「凶魔化……!?」
「莉子、凶魔化って?」
「簡単に言うと、極限状態におかれた使い魔が暴走する現象かな」
莉子がざっくりと説明してやると、なるほどと和希は腑に落ちたような表情を浮かべる。
「要するにいっくんにいじめられたり、校内で騒ぎになるうちにミツカのメンタルが限界になっちゃったっていうこと?」
たぶんそういうこと、と莉子は重々しく頷いた。莉子は意識を集中して、部屋の中に満ちる汚染されたものではないミツカ本来の魔力の気配を探るが、いつもよりはるかに弱い反応しか感じられない。
それでもどうかミツカに届くようにと強く念じながらすうっと息を吸い込むと、莉子は腹に力を込めて叫んだ。
「ミツカ! やめなさい! 止まって!」
莉子の大音声が第三化学実験室に響き渡ると、彼女の右手のリングからほとんど視認できないほどの細く弱々しい糸が伸びうっすらと光を放った。そして、共鳴石を介して莉子の命令が届いたのか、ドカッと床と下の階の天井を派手にぶち抜いたのを最後にミツカは動きを止めた。
ミツカの濁った魔力の流出が止まり、垂れ流されていたミツカの濃い魔力の気配が消えるのを莉子は感じた。右手の人差し指にはまった共鳴石もいつもの光を取り戻していく。普段通りに戻ったミツカが我に返ったように啜り泣き始めたのを莉子は床の穴から見た。ミツカは今、真下の第一地学実験室にいる。
「和希。下行くよ。今ならミツカを捕まえられる」
莉子は和希を伴って、第三化学実験室を飛び出すと、一段とばしで階段を駆け降りていった。
第三化学実験室の弁償にJWUの保険は適用されてくれるのだろうかといったことが莉子の脳裏を過ぎったが、今は一旦置いておくことにする。後処理の話はミツカを捕獲してから考えるべきだ。
第三化学実験室の真下にある第一地学実験室の扉を莉子が開けると、そこには何もいなかった。天井に上の階から貫通した穴は確かに存在していたが、探していたアルマジロの姿はどこにもない。莉子の共鳴石が反応を示さないことからも、ミツカがもうここにはいないことは明らかだった。こんな短時間でミツカは一体どこへ行ってしまったというのだろうか。
「莉子、ここ」
和希が教室の後ろのキャビネットの陰に穴を見つけて指差した。その穴はミツカであればぎりぎり通れそうなサイズであり、ここから逃げられたであろうことは明白だった。
(ようやく見つけたと思ったのに……)
ミツカが再び逃げ出したのは、自分のしたことが恐ろしくなったからだろうか。自分の主人である莉子に合わせる顔がないと思ったからだろうか。どちらにせよ、ミツカが考えそうなことではある。
(ああもう……)
上の階の惨状を思えば到底割り切れそうになかったが、仕方ない、と莉子は無理矢理仕切り直すことにする。先程の凶魔化でミツカは疲弊しているはずだ。それならば、彼女が行きそうなところなどある程度限られてくる。
「ミツカはあんまり魔力量が多くないから、凶魔化中に垂れ流した魔力を回復させるためにどこかで休もうとするはず。あの子は怖がりだから、次に向かうとしたらたぶんあんまり人が来ないところだと思う」
人が来ないところか、と和希は腕を組みながら、キャビネットに寄りかかる。和希は穴の空いた天井を見上げながら、脳内に校内の見取り図を思い浮かべる。しかし、しばらくの後に彼は駄目だと首を横に振った。
「……全然絞れない。これだけ教室があれば、人が来ないところなんてたぶんいくらでもある。さすがにこの学校広すぎだよ……」
だよね、と莉子もげんなりとした顔で同意する。入学してすぐのオリエンテーションの際に一通り校内を案内してもらったはずだが、教室の数が多すぎて、どこに何があるかまるで把握できていない。
「もうこれは思いつく場所をしらみ潰しに探すしかないね。ごめん和希、もうちょっとだけ付き合って」
「わかった。もうちょっとと言わず、ここまで来たら最後まで付き合うよ」
どうせ授業サボった事実は消えないしね、と優等生で特待生の和希は遠い目をした。今日の小テストがどれだけ成績に響くかわからないが、莉子に付き合うことは自分が決めたことだ。
「それじゃあ、行こうか。ミツカを探しに」
「うん」
天井をミツカに突き破られた衝撃で壁から落ちた丸いアナログ時計は、床の上で午後二時十三分を示し続けている。ミツカがもたらした恐怖から解放された階上の第三化学実験室が蜂の巣をつついたような騒ぎになっているのを天井の穴越しに聞きながら、莉子と和希はその場を後にした。
◆◆◆
階段下の穴からミツカが頭を出すと、そこは見知らぬ場所だった。
塗料のようなものがこびりついたステンレスの流し。絵の具や粘土の匂いが混ざり合って漂うリノリウムの廊下。
ミツカは、莉子が通っている学校という場所を彷徨い歩いていた。しかし、記憶にある限り、この場所を訪れるのは初めてのことだった。
先程の凶魔化で大量に魔力を失った体を引きずるようにしてミツカはゆっくりと廊下を歩いていく。魔力不足でふらふらとする体をどこか落ち着ける場所で休めたかった。
(莉子、どこにいるんですか……?)
家で樹来に脅かされ、莉子が昼間いるという学校とやらまで勢いで逃げてきたものの、ミツカはいまだに莉子に会えてはいなかった。
(だけどミツカ、さっき、莉子の声を聞いた気がします……)
凶魔化している最中に、おぼろげながらもミツカは莉子に名前を呼ばれた記憶があった。自分が凶魔化して暴れ回ったという事実が恐ろしくて、我に返ってすぐに逃げ出してきてしまったが、莉子はきっと近くにいるに違いないとミツカは確信していた。
(莉子を探しに行くためにも、一度休まないと……)
よろけながらも、爪の生えた手足をとてとてと必死に動かしながら歩き回るうちにミツカは中途半端に開いたままのドアを見つけた。ミツカがドアの隙間から部屋の中を覗き込むと、うっすらと甘い匂いがした。
(あ……、リンゴの匂い……)
好物のリンゴの匂いに引き寄せられるように、よたよたとしながらもミツカは薄暗く、人気のない部屋に足を踏み入れる。匂いの元を探して部屋の中をミツカが歩き回ると、部屋の隅にリンゴが大量に入った段ボール箱があった。
(ここなら少し休めそうです……誰もいませんし、何もミツカの怖いものはありませんから)
ミツカは段ボールの縁に爪を引っ掛けて体を持ち上げると、箱の中に入り込む。そして、大量のリンゴの中に体を埋めると、ミツカはくるんと丸くなった。
好きなものの匂いに包まれているうちに、不安と恐怖でいっぱいだった心がほんの少し和らいでくるのを感じる。それと同時に強烈な眠気と疲労感が押し寄せてきて、ミツカはうとうとと船を漕ぎ始めた。
キーンコーンカーンコーンという音を聴覚の表面に捉え、ミツカの意識はゆっくりと浮上した。
体が覚醒していくにつれて五感が機能を取り戻していき、ミツカは自分が意識を失う前とは別の場所にいることを悟る。ここはどこ、とミツカはただでさえ甲羅が固い体を強ばらせた。
大量のリンゴの中にいたはずがいつの間にか固い木の机の上に乗せられているし、部屋も薄暗かったはずなのに蛍光灯の白い光が皓々と天井から降り注いでいる。ミツカは体を丸めたまま、がたがたと震え始めた。
何よりも、先ほどまでは無人だったはずの部屋の中に同じ服装をした知らない人間が溢れかえっているのがミツカにとっては恐ろしかった。
「なあ、お前のそれ、リンゴじゃなくね?」
「え、マジで?」
知らない少年二人の声が何事か話しているのをミツカの聴覚が捉える。
(だ、れ……? 知らない人……莉子じゃ、ない。怖い怖い怖い怖い……ッ!)
ミツカはつぶらな黒い目をぎゅっと固く瞑った。少年の片方が何だこれと呟きながら、デッサン用の鉛筆の先でミツカの甲羅をつんつんと突っついてくる。ミツカはたまらずに飛び上がり、悲鳴を上げた。
「ぴゃっ、ぴゃあああああああ!!」
◆◆◆
「ぴゃっ、ぴゃあああああああ!!」
芸術棟の一階の廊下を歩いていたとき、莉子と和希がミツカの悲鳴を聞いたのはまったくの偶然だった。近いね、と莉子は小さく呟く。
数秒の後、少し先にある美術室がにわかに騒がしくなった。「何だこれ!?」「危ない!」「机の下に入りなさい!」混乱する教師や生徒たちの声が響いてくる。
「美術室か……莉子、行こう」
和希に促され、莉子はうんと頷いた。今度こそミツカを捕まえないといけない。莉子は廊下を早足で進み、美術室へと近づいていく。
教室の前側のドアの引き手を掴んで深呼吸をすると、莉子はスパァァンとドアを開け放った。そして、彼女は己の使い魔の名を叫んだ。
「――ミツカ!」
ただでさえ騒がしかった教室が闖入者が現れたことにより、更にざわめき立った。同時にぱりんという音が響き、教室の後ろの窓ガラスが砕け散った。黄土色の鱗に包まれた球体が回転と勢いを伴って、破られた窓から外へと飛び出していった。
「あっ」
和希は窓辺へと駆け寄って外を覗き込む。しかし、窓の下の地面にはアルマジロの姿はなく、明らかにミツカが掘ったと思われる真新しい穴があるだけだった。
「莉子……ごめん、また逃げられたみたいだ」
そんなあ、と莉子は力なく美術室の戸口に座り込む。先程から追い詰めてはぎりぎりのところで逃げられることの繰り返しで、莉子もいい加減疲れてきていた。昼食を途中で切り上げる羽目になったせいで、お腹も空いている。
「……ちょっと、あなた」
頭上から不意に呼びかけられた莉子は顔を上げる。視線の先には、こめかみに青筋を立てた美術教師の顔があって、莉子はひっと顔を引き攣らせた。
◆◆◆
莉子が和希と共に美術教師の坂井にたっぷりと叱られ、美術室を離れたころには七限目の授業が始まっていた。
坂井の説教から解放された後、二人は念のため、校庭に出て、美術室の窓の下を確認してみた。しかし、時間が経ち過ぎていてミツカの足取りはわからなかった。
「まったく、ミツカってばどこいっちゃったかなあ」
莉子がため息をつくと、そうだね、と和希は苦笑する。
「せっかく見つけたのに、またミツカに逃げられちゃったもんね」
そうそう、と莉子は心底げんなりした顔をする。これではまた振り出しだ。
「教室戻ったらいたりしないよねえ? って、そんな上手い話あるわけないか。そんなに簡単に捕まるようなら、午後中駆けずり回った意味もないし」
ははは、と莉子は乾いた笑い声を開ける。その目は疲労で生気がない。
「それはそうなんだけど……探すアテもないし、一回戻ってみようよ。それで駄目なら一回ちょっと休もう。焦るのも、ミツカが心配なのもわかるけど、莉子、すごく疲れた顔してる」
「うん……」
そんな話をしながら、莉子と和希は芸術棟を出た。二人は駄目元で、自分たちの教室がある本校舎へと向かって歩いていく。渡り廊下からは、体育の授業で五十メートル走のタイムを測っているどこかのクラスの男子生徒たちの姿が見えた。あれは莉子も何日か前に体育の授業でやった体力テストの一つだろう。
平和な体育の授業風景を横目に、渡り廊下から本校舎へと繋がる階段を登ろうとしたとき、莉子は先ほどよりもはるかに濃度の高いミツカの魔力の気配を感じて顔色を変えた。同時に莉子が指にはめた共鳴石のリングがちかっと強い光を放った。ミツカの暴走を示唆するように、その色は暗い穢れを帯びていた。
先ほどの第三化学実験室のときとは比較にならないほどに濁った光を灯しながら、莉子の共鳴石は激しい明滅を繰り返している。ひどく乱れた魔力の波長から、莉子はミツカの限界が近いことを悟った。
「和希! たぶんミツカがどこかの教室で凶魔化してる! あの子、さっきも凶魔化したばかりなのに、こんな量の魔力をこんな濃度で垂れ流し続けたら死んじゃう!」
そう叫ぶと、莉子はベージュのチェック柄のプリーツスカートの裾を翻しながら、階段を駆け上り始める。和希は莉子の背中を追いかけながら、疑問を口にした。
「莉子、使い魔っていうのは魔力を使い過ぎると死んじゃうものなの?」
「使い魔っていうか魔法使いも同じなんだけど、魔力を垂れ流し続けるっていうのは血を流し続けてるのと同じようなものなの。生き物が血を流し続けたらどうなるか、わかるでしょ?」
なるほどと和希は緊張した面持ちで頷く。そう言われて事の重大さが理解できないほど和希は愚鈍ではない。
「ぴゃあっ、ぴゃああああああああ!!」
二人が本校舎の廊下に足を踏み入れると、断末魔の叫びかと錯覚するほど苦しげなミツカの悲鳴が響き渡った。ミツカの悲鳴に混ざるようにして、ドンッと教室の引き戸が外れて吹き飛ぶ音が響く。教室の戸口から何か丸いものが飛び出してきたかと思うと、廊下の壁にぶつかって跳ね返る。”それ”は床や天井にぶつかりながら、再び教室の中へと転がり込む。再び教室の中に入り込んできた”それ”に、室内で生徒たちの悲鳴が上がる。
”それ”がぶつかった箇所から、ぱらぱらと石膏の破片が落ちた。壁や天井には何か丸いものがめり込んだ跡が生々しく残っている。床の一部もリノリウムが剥がれ、下のコンクリートがむき出しになっていた。
”それ”が転がり込んでいった教室の入り口に下げられたプレートがポロリと通路に落ちる。落ちたプレートには1‐E――莉子のクラスであることを示す文字が刻まれていた。
知り合ったばかりのクラスメイトたちの顔が莉子の脳裏に次々と浮かんだ。ミツカのせいで――自分の管理不行き届きのせいで、誰も怪我していないだろうか。莉子は名前と顔がまだ一致しきっていない彼らの身を案じながら、ドアのなくなった戸口から教室へと飛び込んだ。教室の中では、第三化学実験室のときと同様に禍々しい光を纏ったミツカが暴れ回っていて、莉子が室内に踏み込むや否や、彼女へと目掛けて飛んできた。
「莉子!」
莉子に続いて教室へと足を踏み入れた和希がこちらに飛んでくるミツカの存在に気づいて、警告を発した。「……ッ!」莉子は負傷を覚悟して、ぎゅっと目を閉じた。しかし、すんでのところで和希の腕に背後から抱き寄せられ、覚悟していた衝撃が莉子を襲うことはなかった。ミツカは教室の出入り口にほど近い壁にぶつかると、その勢いを殺さないまま跳ね返った。
ミツカは縦横無尽に教室内を蹂躙し続ける。凶器と化した彼女の体がどこかにぶつかる度に教室内の何かが壊れていく。
「机の下に入って!」
混乱する教室内にまだ若い男性の声が響いた。スーツ姿の若い男性教師――莉子のクラスの担任であり、数学教師でもある森沢が教科書で頭を庇いながら、学生たちに身を守る行動を取るように促している。
ちょうど黒板の前に立って、不等式の問題を解こうとしていた愛香が恐怖で泣きそうになりながら、その場にしゃがみ込もうとしているのが莉子の視界に入った。
「愛香っ! 教卓の下に……!」
莉子は安全な場所に身を隠すように促すが、愛香は恐怖でその場にへたり込んだまま動かない。愛香のいる場所に遮蔽物はなく、暴走したミツカが突っ込んでくるのも時間の問題だ。
どうにかして友人を守ろうと、莉子は和希の腕を振りほどき、愛香の元へと走り寄ろうとする。刹那、ミツカの体が莉子の鼻先をひゅっと掠めて飛んでいった。そのままミツカは派手な音を立てながら教室の後ろにあるロッカーに激突すると、その勢いを利用して跳ね返って宙を舞う。
濁って汚れた魔力を垂れ流しながら、丸まったまま宙を舞うミツカが何かをうわ言のように繰り返していることに莉子は気がついた。その言葉は卑屈で臆病だけれど、争いを好まない彼女にしては攻撃的で莉子は唇を噛む。凶魔化によって、ミツカの意識は完全に呑まれてしまっている。
「ぴゃっ……ミツ、カ……こわ、い……の、ぴゃああっ……やだ……、こわす……ぴゃあっ……ぜん、ぶ……ミ……ツカ、ころす……ぴゃあああっ……」
「ミツカ!」
莉子は教室内を蹂躙するアルマジロの名を呼ぶが、苦悶の声を上げ続ける彼女の耳に届いている様子はない。一抹の希望に縋るように、莉子は右手の人差し指にはめたローズクォーツのリングに意識を集中させるが、先ほどは微かに感じられたはずのミツカ本来の魔力の気配を今はまったく感じ取ることができなかった。
(お願い、届いて……! 届けってば……! 私に気づいて! 反応してよ! ミツカ!!)
莉子は自分の魔力の出力を上げ、無理やりミツカのほうへと光の糸を伸ばそうとする。やがて、弱々しくか細い光の糸がミツカへと向かって伸び始めたが、それは彼女に届くことはなく、途中で空気中に霧散して消えてしまった。
(嘘……これじゃ、ミツカに止めろって命令することもできない……)
莉子はあくまでも占いやおまじないを得意とする魔法使いだ。自分自身の魔力を行使したところでゲームの魔法使いのように魔法を使って何かと戦えるわけではない。魔法を使って戦う術を持っていれば、ミツカをねじ伏せ、無力化することができたかもしれないが、莉子にはそれは能わない。それはつまるところ、今の莉子にはミツカを止める手段がないことを意味していた。
「ぴゃっ……ミツ、カ……こわ、す……ぴゃああっ……ころす……いや……、ぴゃあっ……でも……ミ……ツ……、カ、こわい……ぴゃあああっ……やだ……」
固い甲羅を床や壁、天井にバウンドさせながら暴れ回るミツカの口から、微かだけれど確かに意志のある言葉が漏れ出していた。しかし、黒いはずの目は赤色の妖しい光を放っており、明らかに正気ではない。
(壊すとか、殺すとか……あの子は怖がりだけど、本来ならそんなことしたいなんて思わないはず。ううん、むしろ、正気に戻ったときに自分のしたことに気づいたら、傷ついて、今以上に自分に自信をなくしちゃう。
私とミツカはJWUのサブスクサービスで結ばれた仮初の関係だけど、今は私があの子の主人。私があの子の心を守らないと……!)
ミツカの暴走がひどすぎて、共鳴石での制御ができない今、莉子にできることはただ一つしかなかった。
(今、私ができること――それは、ミツカを信じて呼びかけることだけ……!)
共鳴石が使い物にならなかった以上、何の強制力もないただの言葉がミツカに届く可能性は低い。しかし、ミツカは怖いものを壊し、殺したいと言った口で壊したり殺したりするのを嫌だとも言った。凶魔化して暴走するミツカの中に本来のミツカとしての自我が少しでも残っていることに賭けるほかなかった。ミツカの説得に失敗したら、今度こそ怪我をするかもしれない。ミツカがこちらに突っ込んで来ることがあれば、最悪の場合、死ぬ可能性だってある。そう思うと、莉子の体は震えた。
「莉子」
和希が震えている莉子の手をそっと握る。大丈夫、と和希は目の前の光景に顔を引き攣らせながらも、真摯な声でこう言った。
「莉子のことは俺が守るよ。万が一、ミツカが莉子のほうに突っ込んできたら、俺が盾になる。莉子に怪我されたくないし、よっぽど当たりどころが悪くない限り、一回くらいなら死ぬこともないだろうから」
馬鹿じゃないの、と莉子は強張らせていた表情をほんの少しだけ緩めると、軽口を叩き返した。
「和希のくせにカッコつけるとか百年どころか千年ぐらいは余裕で早いって。――それに大丈夫、ミツカのためにもそんなことにはさせないから」
莉子は和希の手を一瞬ぎゅっと握り返すと、その手を離した。すうっと、莉子は深く息を吸い込むと、大音声を張った。届け。届け。自分の言葉がミツカの意識を少しでもこちらに引き戻せたらと願いながら、莉子は正気を失ったミツカの目を見据える。
「ミツカ、聞きなさい! あんた、昨夜、私になんて言ったか覚えてる!? ミツカ、あんたは、『魔法使いの支えになれる存在でありたい』って言ったの!」
莉子の言葉に反応したのか、ミツカの瞳がほんの一瞬だけ彼女本来の色を取り戻して揺れる。共鳴石に灯る光も少しずつ元の色を取り戻していき、弱々しいけれど確かな魔力の輝きを放った。
「ぴゃあああっ……り、こ……? ぴゃあっ……」
「そう、私。私は、今のあんたの主人の莉子。あんたが今でも、魔法使いの――私の支えになりたいって思ってるならこんなことしてる場合じゃないでしょ。ミツカ、私のことを思うなら、戻ってきなさい。本来のあんた自身を取り戻すの」
ミツカは莉子の名前を呼ぶと、ぼろぼろと大粒の涙をこぼし始めた。目には正気が戻ってはいたが、体にまとわりつく濁った魔力の出力は止まらず、ミツカの動きは止まらない。助けて、とミツカは泣きながら莉子へと訴えた。
「莉子、莉子っ……ミツカのことを助けてくださいっ……! ミツカの意志とは関係なく、魔力が勝手に体から出ていっちゃうんですっ……! ミツカの魔力が、ミツカのことを勝手に動かしてるみたいで……ミツカ、自分じゃ止まれないんですっ……!」
「ミツカ、ちゃんと自分で言えたね。偉いじゃん。あとは私に任せて」
莉子はふっと笑みを浮かべると、右手の人差し指へと意識を集中させる。共鳴石のリングでちかちかと淡い光が揺れる。しかし、その光は先程までのように濁ったものではなく、清らかさを取り戻しつつあった。
(よし……これなら大丈夫。――いける)
ミツカ本来の微かな魔力の気配だけでなく、今は共鳴石を通じて莉子の名を呼ぶミツカの心の存在を感じられるような気がした。今の自分ならミツカのことを受け止め、きっとこの状態から救い出してあげられると信じられた。
(――いけ……!)
莉子は自分の魔力を練ると、それを共鳴石の中へと籠める。すると、共鳴石からうっすらとした一筋の光が迸った。今度は途中で消えることなく、光の糸はミツカの共鳴石へと向かってまっすぐに伸びていった。か細く弱々しいけれど、ミツカが自分の意識を取り戻している今は、先ほどと違って魔力の糸がきちんと二人を繋いだ。時折、二人の間で光が揺らぐことはあっても、途切れることはない。
(ミツカは今、凶魔化の影響で魔力が足りていないし、残った魔力も汚れてしまっている……だけど、ミツカに私の魔力を分けてあげて、代わりに私がミツカの魔力を吸収してあげれば……!)
ミツカの魔力量は元々多くないため、彼女が今体内に残している汚れた魔力を引き受けたところで、莉子にはさしたるダメージはない。後で自分の魔力を浄化しなければいけない手間は発生するが、今のこの状況においてはそんなことは些事でしかなかった。
共鳴石同士を繋ぐ光の糸を通じて、莉子は互いの魔力の波長をすり合わせていく。莉子は光の糸を指先で繰りながら、自分の体を通じて魔力が循環する様を思い描いた。
ミツカの体に莉子は己の魔力をほんの少し注ぎ込む。同時にミツカの汚れた魔力を光の糸を通じて莉子は自分の体に吸収していく。魔力が緩やかに互いの体の中を巡っていく。
体に取り込まれた汚れた魔力の影響で、わずかに吐き気が込み上げてきたが、莉子は魔力の流れを止めることはしなかった。莉子は自分の魔力とミツカの魔力を入れ替え、凶魔化によって汚れてしまったミツカの体の中を浄化し続けた。
莉子が自分の体にミツカの魔力を取り込んだことによって、徐々にミツカの体にまとわりついた禍々しい魔力の光が薄れ始めた。汚れた魔力の光が消えていくにつれて、ミツカの体が宙を舞う速度が徐々に遅くなっていく。
「ミツカ、止まりなさい。あんたもう、自分の意志で止まれるでしょ」
莉子の言葉に反応してミツカの動きが完全に静止する直前、硬い甲羅が黒板の上に設置されたスピーカーにごん、と音を立ててぶつかった。あ、と和希が声を上げる。ミツカは黒板の上部に前足の爪を引っ掛けたままの体勢で静止しているが、ミツカがぶつかったことで壁から外れてしまったスピーカーの落下は止まらない。
この騒動のせいで忘れかかっていた、逆位置の”塔”のカードのことが不意に莉子の脳裏に蘇った。塔のカードの持つ意味を思い出して、莉子は顔色を変える。スピーカーが落ちていくその軌道の先には、蹲っている愛香の姿がある。
「愛香っ……!」
莉子が友人の名を呼ぶよりも先に、落ちてくるスピーカーの落ちてくる先に担任教師にして数学教師である森沢が体を滑り込ませた。「痛っ」まるでゴールでサッカーボールを受け止めるかのように、森沢はスピーカーを体全体で抱き込んで、勢いを殺せないまま教壇から転がり落ちていく。
「ゆうくんっ……!」
床に強かに体を打ち付けた今年大学を卒業したばかりの新任教師へと愛香は目を潤ませながら縋り付いた。
「ゆうくん、ゆうくんってば! 大丈夫? 怪我してない?」
森沢は痛そうに顔を顰めて上半身を起き上がらせながら、愛香の無事を確認する言葉をかけた。
「それはこっちの台詞だ。愛香、怪我してないか? 愛香に何かあったら俺は……!」
森沢は自分が教え子にかけるべきでない言葉を口走りかけたことにはっとして口を噤んだ。どうしたの、と愛香は不思議そうに首を傾げる。
「……ゆうくん?」
自分を案じる純真で潤みがちな双眸に、森沢は居心地悪げに中に視線を彷徨わせる。彼の頬と耳がほんのりと赤みを帯びている。
「……っ、何でもない。愛香……じゃなくて城本さん、悪いけど、保健室まで一緒に来てもらってもいいか?」
サッカーやってたからどうにかなると思ったんだけどなと自分の状態を確認しながら、そんなふうにこぼす森沢を立ち上がらせると、愛香は心配そうな顔で彼に付き添って教室を出て行った。その背を見送りながら、なるほど、と遅まきながら莉子はゆうくんの正体について理解する。入学式の日に聞いたきりで完全に忘れていたが、確か森沢の下の名前は優冬といったはずだった。そういう関係であるのなら、森沢が頑なに愛香の気持ちに応えなかったことも頷ける。彼は応えなかったのではない。応えたくても応えられなかったのだろう。
莉子は体が少しふらつくのを感じた。体内に取り込んだミツカの魔力は微々たる量ではあったが、汚染された魔力は毒となって莉子の体を蝕んでいた。和希がさっと莉子の体を支える。
「莉子、大丈夫? 顔色悪いよ」
「大丈夫。ちょっとふらふらして気持ち悪いだけだから。それよりミツカを早く下ろしてあげないと」
黒板の上部からぶら下がったまま、自力で降りられずにぴゃあぴゃあと悲鳴をあげているミツカを莉子は背伸びをして抱き下ろす。ようやく自分のもとに戻ってきた軽い体を莉子はそっと抱きしめた。
「おかえり、ミツカ」
「莉子……ごっ、ごめんなさいっ……ミツカ、いっぱい莉子に迷惑かけて……! いっぱいいろんなもの壊して、莉子のことも傷つけようとしてっ……!」
そんなこといいよ、と莉子は首を横に振った。
「ミツカがこうやって戻ってきてくれただけで、私は充分だよ。さっきは私の声に応えてくれてありがとう」
腕の中でぴいぴいと再び泣き始めたミツカの甲羅を莉子は宥めるように撫でた。莉子はミツカの泣き声を聞きながら、森沢に付き添って保健室へ向かった友人のことに思いを馳せる。
(そういえば、愛香はどうしたかな。雨降って地固まったってことなのかな。あの”塔”の逆位置ってそういうことだよね)
愛香は自分の片思いだと言っていたが、さっきの森沢の反応を見るに、完全に脈なしだとは思えない。もしかするとこれを機に何か進展があるかもしれないと莉子の女の勘が告げていた。
ミツカがめちゃくちゃにしてしまった教室の中へ窓枠から外れかけたカーテンを揺らしながら、穏やかな風が吹き込んでくる。窓の外では、春の茜空の下にいつも通りの平穏な風景が広がっていた。
◆◆◆
「しっかし、こってり絞られたねえ」
濃紺の空の下、和希と一緒に駅へ向かう道を歩きながら、莉子はげっそりとした様子で歩きながらそうこぼした。
教室での騒動にある程度収拾がついた後、莉子と和希は校長室へと呼び出され、初めてまともに顔を見ることとなった校長に午後の授業のサボりから今回の騒動についてまで、長々と注意を受けた。二人が叱られている間、ミツカは莉子の腕の中で体を丸めてがたがた震えながら、「莉子は悪くないんですう、全部ミツカが悪いんですう」と弁解らしきものを繰り返し口にしていた。
学校を出たころにはもう既に夜七時を回っていた。あの後、体内に入ったミツカの汚染された魔力は浄化したとはいえ、まだ若干ふらつきは残っているし、学校中を走り回って疲れたしでへとへとだ。そして、昼食が中途半端になってしまったせいでいい加減空腹だった。行く手に宵闇の中に家の形を模したマークがあしらわれた黄色いコンビニの看板が光っているのを見つけると、莉子はそちらを指差す。
「ねえ、和希。コンビニ寄ってこうよ。私、お腹減りすぎていい加減限界」
「俺も。何か軽いものでも食べてから帰ろうか。よりにもよって体育の後に昼抜きだったし」
「……それはほんとごめん」
さすがに今日のことは謝っても謝りきれなかった。春休み中も使い魔のことでは、いろいろと和希を振り回して迷惑をかけてはきたが、今日のことはその比ではない。
「お詫びに何か奢るよ。肉まんでいい? 私も食べたいし。ミツカにも何か買ってあげる」
莉子はそう言うと、コンビニの扉を押し開けた。「っと」和希はドアハンドルを莉子から受け取ると、店へと足を踏み入れる。陽気なメロディの入店音が店内に響く。
「ミツカはいいですよう。ミツカは今日、莉子にたくさん迷惑をかけた身の上ですから」
ミツカはふるふると莉子の腕の中で固い甲羅に覆われた体を震わせると、莉子の申し出を辞退した。だめだよ、と莉子は否を唱えると、腕の中のミツカの顔を覗き込む。ミツカはひどく恐縮したような顔をしていた。
「私が魔力補ってあげたとはいえ、二回も凶魔化したんだから疲れてるでしょ。疲れたときはしっかり食べてしっかり休まなきゃ駄目だよ」
プリムラの受け売りだけどね、と莉子が言い添えると、ミツカは静かになった。どうやら使い魔の大先輩であるプリムラの言葉はミツカにとって重みが違うらしい。
二人と一匹は狭い店内を一回りし、ミツカが食べられそうなものを探した。店内のスピーカーでは女の声による新発売のホットスナックについての宣伝が延々と流れていた。四種のチーズが詰まった二倍サイズのフライドチキンは魅力的ではあるが、今は疲れすぎてとてもじゃないがそんな気分ではない。腹が減っているのは確かだが、もう少し軽いものでいい。何だか胃もたれしそうだ。
店の奥にある肉や卵などの生鮮食品が細々と扱われているコーナーでバナナを見つけると、莉子はそれを手に取った。バナナを持ってレジへ行き、莉子は初老の男性店員に肉まんとピザまんを一つずつ購入する旨を伝えた。
「肉まん一つ、ピザまん一つですね。……ところでお客様、店内へのペットの持ち込みはご遠慮いただきたいのですが……」
「ミツカは莉子のペットじゃなく使い魔ですよう」
店員の言葉にむっとしたようにミツカは莉子の腕の中でそう主張した。店員は莉子とミツカを物言いたげに見比べる。和希はともかくとして、一般人は喋るアルマジロなど目にする機会はそうそうないし、対応に困るのも当然だ(尤も、自分で飼育でもしていない限り、普通のアルマジロですら日本ではなかなか見かけることはないのだが)。それもそれが魔法使いの使い魔などと言われたら尚更だ。
「……」
結局、店員はそれ以上何も言わずに中華まん二つをトングで掴んで紙袋へ詰めた。そして、店員はバナナをレジに通し、いくつかボタンを叩くと、カスタマディスプレイに支払額を表示させる。
「三百九十四円になります」
「これでお願いします」
莉子はスマホケースに挟んだICカードを店員へと見せた。ピッピッと店員がレジを操作すると、カードリーダーが光りだす。
莉子はカードリーダーにICカードをスマホごと翳す。すると、ピヨンと電子音が響き、決済が完了したことを知らせた。
「ありがとうございました」
店員は中華まんの入った紙袋とバナナを莉子たちのほうへと押しやった。莉子は和希に向かって顎をしゃくると、代わりに買ったものを持つように促した。
はいはい、と和希が莉子に代わって紙袋とバナナを受け取り、二人と一匹は店の外へ出る。店の外へ出ると、莉子は膝を折って屈み込み、ミツカをそっと地面に下ろした。そして、ブレザーのポケットを弄ってポケットティッシュを取り出すと、莉子はミツカの前にそれを敷いた。
「和希、それちょうだい。バナナ」
莉子は和希の返事も待たずに彼の手からバナナを奪い取り、シュガースポットが転々と浮いた黄色い皮を剥き始めた。莉子は小さくちぎったバナナを地面に敷いたティッシュの並べてやると、ミツカへとそれを勧めた。
「はい、ミツカ。どうぞ」
「ありがとうございます、莉子。お言葉に甘えていただきますぅ」
ミツカは長い舌を伸ばすとバナナを食べ始めた。もしゃもしゃとミツカがバナナを食べているのを横目にスクールバッグの中に手を突っ込んで、莉子は一枚の布を取り出した。
「和希、これ。私が作ったものだけど、よかったらもらって。今日散々和希のこと振り回しちゃったし、和希のハンカチ昼間汚しちゃったし。借りたハンカチは今度洗って返すから」
ぶっきらぼうな早口でそう言うと、莉子は昨夜作ったハンカチを和希へと渡した。照れ臭いのか目を泳がせている莉子へと和希は柔らかく微笑みかけると、ありがとうとそれを受け取った。
「大事にするね。何なら額に入れて部屋に飾る」
「いや、ハンカチなんだから普通に使ってよ……ハンカチの一枚くらい、そんな手間のかかるものでもないからどうしてもっていうならまた作ってあげないでもないから」
じゃあさ、と和希は莉子からもらったハンカチを丁寧に畳んでブレザーのポケットにしまうと、こんなことを言い出した。
「今日俺が貸したハンカチ。あれさ、何か刺繍入れて返してよ。俺、莉子が作ってくれるもの、昔から大好きだから。持ってるだけで不思議と幸せな気持ちになれるから」
「……別にいいけど」
莉子が昔から和希に渡すもののモチーフに好んで使うタンポポは、”幸せ”という意味を持つ彼の誕生花だ。花が本来持つ力を莉子が魔法で増幅させているのだから、和希がそう感じるのは当たり前のことではあるのだが、面と向かってそんなことを言われると小っ恥ずかしいことの上ない。莉子は敢えて棘を含んだ口調で、先ほど購入したピザまんを和希へと要求した。
「そんなことはどうでもいいから、あたしのピザまん取ってよ。早く食べないと冷めちゃうじゃん」
はいはい、と和希は皮がオレンジ色の中華まんを取り出すと莉子へ手渡した。地面にしゃがみこんだまま莉子がピザまんに齧りつくのを見ながら、和希もコンビニの外壁に寄りかかりながら自分の分の肉まんに口をつけた。和希は黙々と肉まんを食べ進めながら、何とはなしに春宵の空を見上げた。
二人が住む辺りに比べて、学校のあるこの辺りは建物が少なく、空が広い。普段なら気づくことも少ない星々が命を燃やしながら、濃紺のキャンバスの上でその存在を主張している。夜空に浮かんだ北斗七星を眺めながら二人で黙って中華まんをかじっていると、和希が不意に口を開いた。
「莉子さ、今日、格好良かったよ。昼間、こんなんじゃ魔法使い失格だって莉子は言ってたけど、全然そんなことないと思う。俺からしたら莉子はすごく立派な魔法使いに見えたよ。それこそ、莉子のお母さんにも引けをとらないような、さ。それでもまだ、将来のことが不安だって言うならさ」
和希はしっかりと莉子の顔を見た。和希の目は見たことないくらい優しげな光を湛えていて、何だか莉子は変な気分がした。
「吐き出して楽になるなら、いつでも俺に話してよ。今までと同じように、俺はこれからもちゃんと莉子のそばにいるから。莉子が迷って悩んで苦しむくらいならいつだって言ってよ。少しでも莉子の気持ちが軽くなるように、一緒に抱えて考えることくらいは俺にだってできるから」
何それ、と莉子は吹き出した。こうして冗談めかしておかないと、何だか変な意味に捉えてしまいそうだった。
「はいはい、ありがと。だけど何それ、小説とかドラマの受け売り? さっきから和希のくせに生意気だよ」
軽い調子で笑い飛ばす莉子に、「伝わらないか……」和希は何故か悄然と項垂れていた。
「それはともかくさ。まだ将来っていってもピンとは来てないけど、今日の一件で今の自分がどうなりたいのかは見えた気がする」
莉子はピザまんを食べ終わった後に残った紙を四つ折りにしてゴミ箱へ放り込むと、和希の目をまっすぐに見返した。その眼差しには昼間のような弱気さはなく、莉子本来の強気さと勝ち気さが宿っていた。
「私、自分の大事なものをちゃんと守れるようになりたい。一応魔法使いとしては一人前ってことにはなってるけどまだまだ未熟だし、魔法使いとしても一人の人間としても、成長してちゃんと強くなりたい」
「莉子……」
バナナを食べ終えたミツカは、眩しいものを見るように莉子のことを見上げる。普段びくびくしてばかりのミツカにしては珍しく、彼女は意を決したように話を切り出した。
「莉子。短い間でしたが、莉子には大変お世話になりました。莉子とミツカ、今日をもってお別れしませんか?」
莉子はミツカの体を抱き上げると目線を合わせる。そして、努めて優しい口調で、どうしたのと彼女は聞いた。
「もしかして、これからも私とやっていくのが嫌になった? うちの住環境が嫌とかだったら、あの馬鹿兄貴は家から追い出して二度と帰ってこれないようにするけど」
違います、とミツカは莉子の手の中で体を震わせる。面白半分で自分にちょっかいをかけてくる樹来のことは苦手だったが、莉子との別れをミツカが決意したのはもう少し前向きな理由だった。
「ミツカ、今のミツカのままで莉子のそばにいるのは恥ずかしいって思ったんです。今日もミツカは怖いって気持ちに飲み込まれて、二回も凶魔化して、色々なものを壊して、莉子に迷惑をかけてしまいました。
だからミツカ、莉子と同じようにミツカも成長して強くなりたいって思ったんです。今日みたいなことを繰り返して、もうこんな不甲斐ない思いはしたくないんです。
莉子、お願いします。ミツカに成長の機会を与えると思って、ミツカを解放してもらえませんか?」
ミツカの真剣な眼差しと視線が交錯する。莉子はミツカの意志の固さを感じ取ると、溜息をつく。まさかこの子がこんなにもはっきりと自分の意志表示ができるようになる日が来るとは思ってもいなかった。
「ミツカ……一応、確認するけど本気なんだね?」
「はい」
ミツカはこくりと頷いた。仕方ないなあ、と莉子は優しくミツカの顔を見つめる。
「まったく、そんなふうに言われたら引き止められないじゃん。成長したいっていう使い魔の意志を尊重しないのは、魔法使いとしても一人の人間としても最低だもん」
莉子は自分の右手の人差し指にはめられたローズクォーツの共鳴石へと視線を落とした。共鳴石の力を使えば、ミツカを引き止めることくらい造作もなかったがそんな真似はしたくなかった。そんなふうにして強制された関係は歪だし、きっとミツカは心の何処かで莉子のことを恨むだろう。自分が一緒にいたいというわがままを貫くために、力でミツカの意志を捻じ曲げるべきではない。
「……わかったよ、帰ったらあんたをJWUに帰すための手続きを進めよっか」
私結構ミツカのことは気に入ってたんだけどなあ、と莉子が残念そうに漏らすと、ミツカの黒い瞳が潤んだ。ミツカの喉の奥から嗚咽が漏れ出したと思うと、彼女は大声を上げて泣き始めた。
「うわああああん、莉子おおおっ……!」
泣きじゃくるミツカの背中を莉子はよしよしと撫でてやる。腕に抱いたミツカの輪郭が二重にブレる。ミツカがいなくなる、その事実はふわふわと遠く感じるのに、勝手に自分の中を何かが込み上げてくる。
涙で滲み始めた莉子の視界の隅に和希が夜空を仰ぎながら、目元に手を当てているのが映った。何で当事者でもないのに和希がもらい泣きしてるんだ。泣き虫だけは本当に小さいころから治らないな、となどとどうでもいいことを頭の隅で考えていた莉子の眼窩から透明な雫が溢れだして、頬を伝った。しかし、莉子は最後くらいは毅然としていたくて、ブレザーの袖口で乱暴に目元を拭う。寂しいという身勝手な感情が莉子の鼻の奥をつんと刺激した。
「えぐっ……莉子っ、最後にもう一つだけ、ひくっ……お願いが、あるんですっ……聞いて、もらえますか……?」
えぐえぐと泣きながら、ミツカが口にした言葉に、なあにと莉子は続きを促した。すると、ミツカは泣きながら、遠い未来のもしもの話を口にした。
「もし、いつか……ひくっ……ミツカ、がっ……いつか、どこに出しても恥ずかしくない、一人前の使い魔になれたとき……えぐっ……まだ、莉子の隣に、決まった使い魔が、いなかったら……ミツカのことをっ……、また、莉子の……お側に、置いてくれません、かっ……?」
ミツカのお願いに莉子はふっと笑みを浮かべた。頬に一筋涙の跡が残る、不器用な笑顔だった。
「ミツカは本当にしょうがない子だね。いいよ、約束してあげる。だからミツカ、頑張っておいで。私も成長して強くなれるように頑張るから」
そう言うと、莉子はミツカの前足からすっとローズクォーツのリングを抜く。すると、生命の時を終えた星のように、二つの共鳴石から光が消えていった。莉子はミツカを抱いたまま、自分の手からも共鳴石のリングを抜くと、ブレザーの内ポケットへとしまった。
「ミツカ……短い間だったけど今までありがとね」
ミツカの耳元で囁くと、莉子は黄褐色の甲羅に優しく頬擦りをした。ミツカは涙でべとべとになった顔をぶんぶんと激しく横に振る。
「ふぇっ……お礼を、言うのは……ミツカのっ、ほうですよぅっ……えぐっ……ミツカ、莉子に出会えてっ……本当に、よかった、ですぅ……えぐっ……初めて、出会った魔法使いが莉子で……本当に良かった、です……」
「ミツカ……」
自分はミツカにとって、本当に良い主人だっただろうか。凶魔化までさせてしまったというのに、自分は彼女にこう言ってもらうに値する魔法使いだろうか。ミツカと過ごしたこれまでの日々が脳裏を過る。
初対面のとき、怯えてテラスの下で丸まっていたミツカ。先輩使い魔であるプリムラにくっついて回るミツカ。樹来に脅かされて怯えていたミツカ。夢中でリンゴを頬張るミツカ。将来のことに悩む莉子へと魔法使いの方の支えになれる存在でありたいと語ったミツカ。最初は卑屈で臆病なミツカのことを面倒だと思うこともあったものの、いつしか莉子にとって彼女は大事な存在となっていた。凶魔化しながらも、助けて、と自分を信じて縋ってくれたときのミツカの声と目がまだ頭から離れない。莉子、と遠慮がちに自分を呼ぶミツカの声も、莉子の部屋のホットケーキ型のビーズクッションの上で眠っていた姿も、ぴゃあぴゃあと怯えてあげる悲鳴すらも失いたくなかった。
(ああ……私……)
今日はこのような大変な事態になってしまったものの、ミツカと過ごしたこの短い日々が楽しかったのだと莉子は今になって気づいた。濃密な日々に詰まった何気ない出来事の数々が大事な思い出だった。
ミツカの甲羅にぽた、ぽたと水滴が落ちる。せめて、笑ってミツカを送り出してやりたかったけれど、今の自分にはまだそんなことは出来そうになかった。いかないで、と口にするのは簡単だったけれど、そんな言葉でミツカのことを縛ってしまうのは自分の矜持が許さなくて、莉子は歯を食いしばった。
「莉子……」
和希は自身も涙で目を潤ませながらも体を屈めると、ひくっひくっと上下動する莉子の背にそっと触れた。莉子は顔を伏せたまま、嗚咽を漏らし続けた。
夜空に浮かぶ星座たちが時の彼方から、一つの別れと二つの門出を静かに見守っている。過ぎる春と一人と一匹の別れを惜しむように朧月が地上へと柔らかな光を降らせていた。
◆◆◆
ミツカの事件から一週間が過ぎたころのある日の昼休み、莉子はいつも通り愛香と弁当を食べていた。人気アイドルの熱愛がどうだとかゴールデンウィークに予定されているミラージュ☆ユイの地上波の特番(結子の娘であるはずの莉子も愛香に聞かされて初めて知った)がどうだとかと他愛のない話題を一通り終えた後、愛香が口にした言葉に莉子は思わず口の中のゆで卵を吹き出しそうになった。
「それにしても、あの日の莉子、すっごくカッコよかったよねえ。なんかファンタジー映画の主人公みたいだった!」
事件の日のことを思い出しているのか、げほげほと咳き込む莉子をよそに愛香はイチゴサンドを手にしたまま愛らしい顔にうっとりとした表情を浮かべた。どこかぽわぽわとしたところのある友人の頭の中では、あのときの自分の言動はかなり美化されて記憶されているのだろうと思うと莉子はげんなりする。
「クラスの人みんなに、何か映画の主人公みたいな魔法使いの人って覚えられ方しちゃってて心底恥ずかしいんだけど……。先生たちは先生たちで、私のこと問題児みたいな目で見てくるし」
あの日を境に、学校中が自分を見る目が変化したことは確かだ。同じクラスどころか、名前も知らない他の学年やクラスの生徒にあれが噂の魔法使いかと一方的に指を差されることも多い。なんで私の高校生活こんなふうになっちゃったかなあと嘆きながら、莉子は箸でプリムラお手製のオムレツをつっつき回す。滑り出しは好調だと思っていた高校生活が台無しだ。この先の三年間が思いやられる。
「っていうか、愛香は人のこと映画の主人公みたいだったって言うけどさ、愛香と森沢先生こそ何か少女漫画みたいだったよ」
ちょっとした意趣返しのつもりで莉子がそう言うと、愛香はそうかなあ、と満更でもなさそうな顔をする。あれ以来、森沢は愛香と個人的に親しそうなことについて、事あるごとにクラスメイトたちにからかわれている。その度に返答に詰まってあわあわとする森沢に教師の威厳など最早ない。
「愛香ってあの後、結局、先生と何か進展ってあったの? 先生が愛香を庇ったあと、随分といちゃいちゃしてたみたいに見えたけど。っていうか、そもそも何でゆうくんって人とのことを占ってほしいって言ってきたときに、ゆうくんが先生だって教えてくれなかったの?」
「だって、少女漫画とかでも先生と生徒って禁断の恋って感じじゃない? 莉子って魔法使いJKなんてファンタジーな職業やってる割に、結構リアリストだから、こういうこと言ったら引くんじゃないかと思って」
まあそうかもね、と莉子が言うと、ひどーいと愛香は頬を膨らませた。愛香がゆうくんとやらに合わせて進学予定を変更したと言っていた時点で莉子は内心でドン引きしていたが、今後の二人の友情のためにそれは言わないでおく。何に重きを置くかなど個人の自由だ。莉子がどうこう言うことではない。
「あ、でも莉子には言っておこうかな。あの日、あの後、ゆうくんが保健室で言ってくれたの。わたしが高校を卒業した後も気持ちが変わらないようなら、そのときは一度ちゃんと今後のことについて話をしようって。もしかしたら、莉子がくれたお守りのおかげかも」
愛香は机から身を乗り出して、莉子に顔を寄せると少し照れたような顔でそんなことを囁いた。ああそう、と莉子は気のない返事をする。きっと、あのサシェに入れたリナリアの花が二人の関係をほんの少しだけ進展させてくれたのだろう。莉子の作るお守りにはそれだけの力がある。それはそうと、とフルーツティーの紙パックを手で弄びながら愛香は話題を切り替えた。
「ねえ、クレープ今日リベンジしにいかない? お守りのお礼にご馳走させて。というか、莉子もこの前のでどんな感じかわかっただろうし、今日こそあの大きいのを一人一個チャレンジしたい!」
懲りないねえ、と莉子は頬杖をつきながら呆れたように言う。前回は二人で半分こにしたはずなのに、愛香が早々に満腹になり、莉子が残りを全て食べる羽目になったことはまだ記憶に新しい。
「気持ちだけもらっとく。というか、私今日無理だよ。用事あるからすぐ帰らないと」
「用事って?」
「この前の件でミツカ――アルマジロの使い魔の子がJWUに帰っちゃって。それで、夕方に新しい使い魔の子が来るから、今日は早く帰らなきゃいけないんだ」
「ふうん」
莉子は箸でマカロニサラダを口に運びながら、教室の戸口から窓までゆっくりと視線を巡らせていく。
ミツカの凶魔化の爪痕が残っていたこの教室には、莉子がJWUに申請して手配してもらった業者が土日のうちに入り、何事もなかったかのように綺麗になっていた。ミツカにぶち抜かれた戸板は綺麗なものに交換され、あちこちにミツカがめり込んだ跡が残っていた壁や天井は見事に修繕されている。黒板の上のスピーカーも元通りの位置につけ直されている。
(こうやって、毎日がちょっとずつ元に戻っていくんだな……ミツカのいない毎日が当たり前になっていくんだ……)
莉子は日常の中からミツカの痕跡が消えていくことに一抹の寂しさを覚える。それでも、莉子はミツカのいた日々のことをこの先、一生忘れないだろうと思った。
(それはそうと、切り替えないと。今日から新しい使い魔の子が来るんだから。ミツカはミツカ、新しい子は新しい子だもん。ミツカのことを未練がましく引きずったまま接するようじゃ、新しい子に失礼だし)
今度は一体どんな子が来るのだろう。今度は一体どんな時間を一緒に過ごし、どんな話をするのだろう。今度の出会いは自分に一体何をもたらすのだろう。
新たな出会いへの期待に心を躍らせながらも、莉子はミツカと交わした約束をしっかりと胸に刻み込んだ。ミツカといつかまた会える日までに、自分はもっと強くならないといけない。人としても、魔法使いとしてももっと成長しないといけない。あの子の決意に恥じない自分でいないといけない。
緑の匂いが混ざった風が外から吹き込んできて、真新しいカーテンを卯波のように揺らす。葉桜の枝が見える窓の外の空は今日も晴れていた。



