「使い魔?」
高校進学を控えた春休みのある日の夕方、帰宅した母親の結子から書類の入った茶封筒を手渡され、莉子はそう聞き返した。
「そうよ」
結子は頷くと、上り框でローズブラウンのスエードパンプスを脱ぐ。そして、結子は玄関から台所へ来ると、ダイニングチェアの上にライトグレーのミドルバッグを放り出した。彼女はシンクで蛇口を捻って両手を濡らすと、ハンドソープを泡立て始める。彼女は両手で泡をこねくり回しながら、なんてことはない調子で話を続けていく。
「莉子、この春休みに魔法使いの認定資格を取ったでしょう? もう一人前なんだから、そろそろ使い魔くらいいないと」
それはそうだけど、と言いながらも莉子は戸惑った。結子の言う通りではあるのは間違いないけれど、まだ一人前になったという意識は薄かった。一人前の魔法使いには使い魔がつきものということは理解していたが、まだそれが自身のことだという実感がない。
現代の日本には魔法使いと呼ばれる人々が少数いる。昔の関東大震災や戦争の折に、スパイの嫌疑をかけられて、大勢の魔法使いが殺されてしまったが、今も確かにそう呼ばれる人々は存在している。
少なくなってしまった魔法使いたちの支援のため、戦後に立ち上げられたのが、全日本魔法使い連盟――通称JWUである。現代の日本で生きる魔法使いたちは、この機関により迫害されることなく生きる権利を保証され、その才能を活かして生きるための援助を受けることができる。普段は駅前でひっそりと占いの仕事をしている母親の結子も、時折”凄腕占い師”としてJWUからテレビや雑誌の仕事を斡旋してもらうことで、関西へ単身赴任中の一般人の夫に代わって家計を支えていた。
莉子は代々魔法使いを排出してきた家系――魔法使いの名門・清水家で育った少女だ。兄の樹来や入婿の父親は違うが、母親の結子も祖母の史子も魔法使いである。血は争えないとでもいうのか、幼いころから才覚を示していた莉子自身もこの春休みに、中学校卒業後から受けることができるJWUの認定試験に合格し、一人前の魔法使いとしての資格を手にしていた。
莉子は書類を封筒から出し、ウォールナットのダイニングテーブルの上に広げていく。一枚の紙を手に取ると莉子は怪訝そうに、その紙面に記されていた単語を拾って読み上げた。
「使い魔サブスク……月額九八〇〇円……?」
一体何なんだこれは。莉子は首をひねった。ああそれ、と結子は蛇口の水を止め、手をタオルで拭くと頭の上で疑問符を並べている娘へと向き直る。
「JWUの新サービスよ。今日、ちょうど駅前の支部に行く用事があったから、面白そうだし莉子の名義で契約しといたわ」
あっけらかんとした結子の説明に莉子は更に困惑を深めた。なんでこの人は面白そうだからなどというろくでもない理由で、何の相談もなしに娘の名前で好き勝手してくれているんだ。莉子は小さく溜息をつく。
「契約しといた、って……。それにママ、使い魔のサブスクって一体なんなの?」
音楽や動画サービスのサブスクであれば、莉子自身も使用しているし理解できる。服やバッグのサブスクというのも存在は耳にしたことがあるし、理解ができる範囲ではある。しかし、使い魔のサブスクなどというものは現代っ子かつ、魔法使いの家系に生まれ育った莉子でも聞いたことがなかった。しかし、結子は莉子が何に困惑しているのかわからないように、そのままの意味だけど、とさらりと口にする。
「何って、これは毎月それだけ払えば、好きな使い魔を使い放題、いくらでも取っ替え引っ替えし放題ってサービスよ」
でもママ、と莉子は口ごもる。直近の魔法使い認定試験の勉強に使用したテキストでは、使い魔選びは魔法使いにとって非常に大切なことであり、相性次第では魔法使いの魔法の効果を飛躍的に向上させることができると書かれていた。それに莉子の常識では、使い魔というのはおいそれと乗り換えられるものではない。
「使い魔って一度契約したら一生連れ添わないといけないものなんじゃないの? 使い魔選びは婿選びよりも大事だっておばあちゃんも言ってたし」
莉子が結子とそんな話をしていると、ふわふわとした桃色のミディアムヘアに紫色の目をした妖精の少女が洗濯物の布巾を持って飛んできた。妖精の少女は布巾を片腕に抱き、ちっちっちっと愛らしい顔の前で小さく細い指を振ってみせる。
「莉子、そんなのもう古いってば。現代っ子のくせに、いつまでそんな昭和のカビ臭い価値観のままなわけ?」
妖精の少女――結子の使い魔であるプリムラにそう謗られて、え、と莉子は固まった。そうそう、とプリムラの言葉に結子は訳知り顔で相槌を打つと、言葉を続ける。
「今は何だってサブスクの時代でしょう? 音楽や動画だけじゃなく、服とかバッグとか、化粧品とかコンタクトレンズとか。それで、時流に乗って、JWUもそういったサービスを始めたのよ。若い魔法使いが減り続けている現状をどうにかしよう、ってね」
結子の言う通り、いくら魔法使いの名家の出であっても、魔法使いとして生きる若者は減ってきている。いくらJWUの支援があっても普通の職業についたほうが実入りがいいことや、使い魔の存在を重荷に感じる者が増えてきていることも関係している。古くは卑弥呼や聖徳太子など、この国の歴史を支えてきた者たちは皆一様に魔法使いだ。JWUはそういった人々が歴史の表舞台から姿を消していくことを危惧し、若い魔法使いが少ない現状の改善を試みていた。
「だからって、使い魔なんて魔法使いにとってめちゃくちゃ大事なものをサブスクでってどうなの?」
魔法使いの世界が抱える問題を理解していても、こればかりはどうなのだろうと莉子は疑問を口にする。まったく、と呆れたように白い蝶の羽が生えた少女は肩を竦める。そして、彼女は食器の入ったアンティークのキャビネットの引き出しに布巾をしまい終わると、呆れ顔でふわりと舞い上がった。白いレースのワンピースの裾と甘い花の残り香が宙に揺れる。
「莉子は本当に頭が固いわね。このサービスは今どきの魔法使いが使い魔の存在を重荷に思わないように、ライトにいろいろ試してみたり、必要に応じて最適な使い魔に乗り換えられるようにって始まったものなのよ。必要ないときは解約しちゃえばいいし、逆に取っ替え引っ替えする過程で相性のいい使い魔がいれば、あたしと結子みたいに永久契約してもいいんだし」
永久契約とは、魔法使いと使い魔が双方の血液を各々の体内に取り込んで交わす従来の契約方式であり、これを交わした魔法使いと使い魔はどちらかが死ぬまで連れ添うことを強いられる。
使役する使い魔を一生変えることができないというデメリットはあるが、魔法使いは永久契約を交わすことで、どこにいても使い魔の魔力を引き出すことができ、使い魔への命令を下すことができるようになるのだった。
家事が一段落ついたプリムラは、彼女の小さな体躯に比べるとやたらと大きなおやつのチーズかまぼこを冷蔵庫から出すと、ぺりぺりと慣れたふうに透明なビニールを剥いでいく。そして、彼女はチーズかまぼこに齧り付き、口をもごもごとさせながら説明を続ける。
「それにね、このサービスって、魔法使い側が希望しても、正当な理由があればあたしたち使い魔の側が使役されるのを拒否することができるの。お互いのミスマッチで魔法使いも不幸にならないし、使い魔も不幸にならない、これってwin‐winじゃない?」
「……プリムラ、やけに詳しいね?」
莉子は呆れ半分、感心半分に母親の使い魔を見やる。プリムラは口の中のチーズかまぼこを飲み下すと、レースのワンピースの平たい胸をどやっと張ってみせる。
「だって、使い魔の労働問題はあたしの一番の関心事だもん。三十年くらい前にこういうサービスがあったら、あたし、絶対結子なんかと契約しなかったのに」
なんかって何よー、といつの間にか麦茶を持ってリビングのソファに移動していた結子の声が飛んでくる。本来の使い魔の役割とは違うことでこき使われているプリムラの日々の暮らしぶりを知っている莉子は、あははと乾いた笑い声を立てることしかできなかった。
使い魔の役割は己の魔力を提供し、魔法使いの術の威力を増幅させること――魔法使いが本来よりも高いポテンシャルで術を行使できるように手助けすることだ。
結子は高校生のころにプリムラと永久契約を交わしたが、元々高い魔力を持つ彼女がプリムラに力を借りなければならないことはあまりない。唯一結子がプリムラを本来の役割で使役するのは、皇室の神事のために呼び出されるときくらいだ。
そのため、プリムラは普段はあまり本来の使い魔としての仕事はほとんどしておらず、代わりに結子によって家事全般を押し付けられていた。そのため、プリムラは炊事に洗濯に掃除、買い物に至るまで、その辺の主婦と同等以上にこなすことができる。家計の管理能力に至っては結子以上だし、莉子も幼いころは仕事で忙しい結子の代わりにプリムラに面倒を見てもらったり、遊んでもらったりしていた。最早プリムラの存在なしでは清水家は回らないと言っても過言ではない。
プリムラはチーズかまぼこを食べながら、ぶつぶつと結子への日頃の文句を呟いている。それを聴覚の表面で聞き流しながら、莉子はダイニングテーブルの上に広げた書類に視線を滑らせていく。そして、莉子はQRコードが印刷された一枚の紙に目を止めると、何これと呟いた。
「面倒なアプリ登録は一切なし……、このQRコードからアクセスですぐにご利用いただけます……?」
チーズかまぼこを食べ終わったプリムラはゴミ箱に外装のビニールを捨てると、テーブルの上へと降り立った。プリムラはどれどれと莉子の手元の書類を覗き込む。
「ウェブカタログだって。莉子、見てみたら?」
ほら、とプリムラはテーブルの上に広げられた大量の書類の山からごそごそとIDと初期パスワードらしきものが書かれた紙を発掘してくると莉子へと渡した。莉子はプリムラから紙を受け取ると、ギンガムチェックのパンツのポケットからスミレの押し花で作られたケースに嵌まったスマホを取り出す。「莉子、これよ」プリムラに促されるままに莉子はスマホを操作して、カメラアプリのリーダー画面を開くと、プリムラが指で指し示しているQRコードを読み込ませた。
スマホの画面にログイン画面らしきものが表示されると、莉子はプリムラに渡された紙に書かれている内容を指で入力していった。画面の表示が切り替わり、様々な生き物の写真が掲載されたページが画面に映し出される。
カタログ画面にはプリムラのような魔法生物から、犬や猫のような愛玩動物、果てにはミジンコと多岐にわたる生き物の写真が並んでいた。へえ、と莉子は声を漏らす。それにしても、サイトの構造や使い魔たちの写真のアングルが何かに酷似しているような。使い魔たちの口元にはなぜかハートのスタンプが押されているし、カタログ画面も「派遣可能」「即日派遣可能」「写メ日記」「口コミ一覧」「動画から探す」「紹介動画」などといったどこかで見たような構造になっている。というか今の時代に写メって。平成の途中に取り残されてしまったガラケー世代のおじさんたちの感性をサイトの端々から感じる。
(あ……これ、お兄ちゃんがよくタブレットで見てるデリヘルのサイトにそっくりなんだ……なんでJWUはこんなサイトの造りにしちゃったんだ……)
軟派で女好きでろくでなしの兄を持ったせいで、妙な類似性に気づいてしまった自分に莉子は心底げんなりとする。というか、絶対JWUのシステム担当者は風俗を普段から愛用している変態おじさんに違いない。はぁぁぁぁと莉子は長い溜息をつくと、スマホの画面を上から下へと繰りながら、それにしてもと呟いた。
「随分色々いるんだね……私、使い魔ってみんなプリムラみたいなのばっかりかと思ってた。それかおばあちゃんのとこにいるノーチェみたいな黒猫とか。あとは昔のアニメ映画だとカラスが使役されてたりしたよね」
そんなのばっかりなわけないでしょ、とプリムラは呆れた顔をする。魔法使いとして一流の家系で育ってしまった莉子にとって馴染みがないだけで、高位から下位にわたって使い魔にも様々な種類が存在しており、得意不得意も種によって大きく異なる。
「魔法使いにだって色々いるんだから、使い魔にだって色々いるに決まってるでしょ。それにあたしみたいなのは珍しいんだからね」
プリムラの言葉に莉子は確かに、と頷いた。プリムラのように家事の得意な使い魔が珍しいのはさることながら、こんなに世俗にまみれてしまった嗜好の花の妖精は世の中を探しても彼女くらいのものだろう。
「言われてみれば、ビールとあたりめが好きな花の妖精は珍しいかも。花の妖精が好きなのって普通は果物とか花の蜜だもんね」
莉子が納得したように言うと、プリムラは不満げにぷくうっと頬を愛らしく膨らませる。そうじゃなくて! とプリムラは声を荒らげる。
「あのねえ、莉子は普段から一緒に暮らしているせいでありがたみがわかっていないかもしれないけど! あたし、これでもそこそこ高位の使い魔だから結構希少なの!」
「ああ……」
言われてみればそうだったと莉子はプリムラの言い分に納得する。本来、プリムラは家事なんかをさせておくにはもったいないほどの階級の使い魔だ。普段、結子がこうやってプリムラを無駄遣いしているのが当たり前になりすぎていて、莉子は本人に言われるまで完全に忘れていた。
使い魔には階級のようなものがある。魔法使いに供給できる魔力量は、使い魔の階級に比例する。使い魔の階級が高くなればなるほど魔力の制御が難しくなるため、プリムラのような階級の高い使い魔を使役するには、魔法使い側にも相応の魔力が要求される。
莉子は結子ほどではないとはいえ、弱冠十五歳にして平均以上の魔力と制御能力を持つ優秀な魔法使いだ。そのことを中学を卒業してすぐに魔法使い認定試験に合格したという事実が裏打ちしている。おそらくは一部の超高位な使い魔を除けば、使い魔などいくらでも選びたい放題の身分である。しかし、その選択肢の多さがかえって莉子を悩ませていた。
「それにしても、使い魔かあ……私にはどんな子が合うんだろう……?」
「それを探る意味でも色々試してみたらいいんじゃない? そのためのサブスクでしょ?」
「それは、まあ……そうなんだけど……」
正論を述べるプリムラに莉子は相槌を打つ。それはそうと、とプリムラは舞い上がると左手を華奢な腰に当てがった。細くて小さな右手の人差し指を莉子の鼻先に突きつけると、
「いい、莉子? これから使い魔と付き合っていく上で大事なことを言うわ。これは永久契約を交わすかどうかに関わらず、とても大事なことよ。
まず、明らかに自分と釣り合わなさそうな相手を無理に使役しようとしないこと。莉子は魔力爆発ってわかるわよね?」
うん、と莉子は頷く。魔力爆発については、ついこの前まで勉強していた認定試験のテキストで読んだ覚えがある。
「使い魔の魔力があまりに多すぎて、制御が効かずに大量の魔力が魔法使いの体内に流れ込んできちゃうことで起きるんだよね?」
よろしい、とプリムラは莉子の教科書通りの回答に満足げな表情を浮かべる。そして彼女は莉子のために補足を口にした。
「魔法使いの許容量を超えて使い魔の魔力が取り込まれてしまうと、受け止めきれなくなった魔力が体内から放出されて、意図しない現象を引き起こしてしまうの。時にはこれが原因で山崩れや大津波が起きるような大事故に発展する場合があるから注意が必要よ。まあ、莉子は結子に似て、魔力の許容量は多いほうだからそうそうそんなことは起きないと思うけどね」
自身の魔力の量と、体内に受け入れられる魔力の量は異なる。イメージとしては、体内に魔力を蓄えるためのタンクがあり、そのタンクには自身の魔力と使い魔から供給された魔力が蓄えられるようになっている感じだ。莉子自身の魔力量自体は平均より少し上ぐらいだが、彼女の持つ魔力のタンクは魔法使いとしては大きい方であるため、足りない魔力を使い魔に供給してもらえさえすれば、更なるポテンシャルを発揮できる可能性を秘めていた。
そして二つ目、とプリムラは華奢な指をもう一本立てると話を続ける。
「凶魔化に気をつけること。使い魔って皆が皆、あたしみたいに自分のコンディションをしっかり管理できるわけじゃないの。あたしみたいにしっかり自分で息抜きができる個体はいいけど、そうじゃない子は何らかの原因で心身が限界になった結果、自我を失って暴走することがあるのよ。まあ、ストレスから己を守るためのある種の逃避行動ね」
「凶魔化中に使い魔が撒き散らす魔力って、確か私たち魔法使いにとっては毒なんだよね? それに凶魔化中に魔力を失いすぎると、最悪、使い魔が死んじゃう場合だってあったはず」
凶魔化した使い魔の魔力は汚染されており、体内に取り込んでしまうと、使役者の体調に異変を及ぼす可能性がある。また、それだけでなく、魔力が生命力と直結している使い魔たちが凶魔化して魔力を垂れ流し続けると、死に至ることもあり得た。そんなことを引き起こさないようにするには、魔法使いと使い魔が日頃からしっかりとコミュニケーションを取り、使い魔に過度な負担がかからないようにきっちり管理する必要がある。
わかっているならいいわ、と安心したようにプリムラは微笑むと、もう一言だけ注意事項を付け足した。
「そんなふうにして使い魔を失うのは魔法使いの恥――その無能さの証のようなものだっていうことも、莉子は言うまでもなくわかってるわね? というか、こういうのは本当はあたしじゃなく、結子が話すべきなんだけど、今はあっちでテレビにご執心みたいだから」
プリムラが肩をすくめると、「何か言ったー?」刑事ドラマの再放送から目を離さないまま、リビングから結子が間延びした声をよこした。プリムラはぷりぷりとしながら、ソファで麦茶を飲みながらクライマックスに差し掛かった刑事ドラマを凝視している結子へと怒鳴り返した。
「母親なら娘の教育くらい自分でしなさいって言ったのよ!」
しかし、結子の関心は連続殺人犯の正体に向けられたままで、プリムラの声など聞こえていないようだった。ああもう、とぼやくとプリムラは冷蔵庫から二本目のチーズかまぼこを持ってきて、フィルムを剥がし始める。プリムラは日々のあれこれを食欲にぶつけることで、凶魔化しないように自分でストレスを管理しているのだろう。そんなことを思いながら、莉子は椅子から立ち上がって水切りラックからグラスを取り、冷蔵庫の麦茶を注ぐ。
莉子が麦茶を飲みながら使い魔サブスクのウェブカタログを流し見していると、しばらくして、主人公の決め台詞とともに主題歌が流れ出したタイミングで、再びリビングから結子の声が飛んできた。
「あ、そうそう莉子ー」
「どうしたの、ママ」
話を振ってきたのは結子のほうだというのに、何だったかしらと彼女はテレビのリモコンを手に首を傾げた。結子がチャンネルを回すと、テレビショッピングの声が聞こえだした。男の声が淀みのない巧みな話術で布団圧縮機を宣伝しているのをちらちらと見ながら、結子はまあいいわとかぶりを振った。
「何か莉子に言っておくことがあったはずなんだけど……思い出したら言うわ」
わかった、と莉子は頷くとスマホをパンツのポケットにしまった。結子の興味は今や完全にテレビショッピングの布団圧縮機に移っている。
「それよりもこの布団圧縮機ってプリムラでも使えるのかしら? そろそろ冬物の服とか布団とか片付けないといけないんだけど」
「結子はなんで何でもかんでもあたしにやらせようとするのよ……たまには自分でやったらどうなのよ? あと、言っとくけど、今月の家計でそんなもの買ってる余裕はないわよ。莉子の入学金とか、樹来と莉子の授業料とか払ったばっかりなんだから。年度末は何かとお金がかかるんだから、節約するかもっとメディアの仕事増やして稼いでくるなりしなさいよね」
ここぞとばかりに小言を並び立ててくるプリムラに、えーと結子は不服そうに返事をする。莉子はそれを横目にグラスの中の麦茶を飲み干すとシンクに持っていき、ダイニングテーブルに広げていた書類を封筒の中にしまい直していった。
「ママ、使い魔のことはもうちょっと考えてみるね」
「考えるのはいいけど、春休みのうちには決めるのよー」
はいはい、と莉子は結子の言葉を聞き流しながら適当に返事をする。そして、彼女は書類の詰まった分厚い茶封筒を抱えて、自室のある二階へと階段を上っていった。
◆◆◆
その日の夜、莉子は自室でベージュのチェック柄のハンカチを手に針を動かしていた。机の上には庭にある結子の花壇から摘んできた一輪の赤いアネモネの花があった。これは花の妖精であるプリムラに良さそうなものを目利きしてもらったものだ。
机の上においた花を参考に赤い糸でハンカチに模様を刻みながら、莉子は考え事をしていた。机の端には使い魔サブスクに関する書類が詰まった茶封筒が無造作に置かれている。
(サブスクサービス、ねえ……)
莉子は針を動かし、布の上でサテンステッチを繰り返しながら、どうしたものだろうか、と思う。
(いくら気軽に考えていいって言われたってさ……使役するなら使役するでやっぱり責任って発生するわけじゃない? 魔法使いなら使役する以上、その子の生涯に責任を持ってあげる必要があるわけでしょ?)
昔と今では魔法使いと使い魔の関係性は変化しつつあるらしいとはいえ、魔法使いにとって使い魔が大事な相棒であるということに変わりはない。そう考えると、莉子としてはどうしても使い魔選びには慎重にならざるを得なかった。少なくともウェブカタログで見かけた使い魔を適当に派遣してもらうような真似は自分にはできそうにない。
それに、生まれたときから常に結子の使い魔であるプリムラがいる環境で育ってきた莉子には、使い魔がころころ変わるというのがどうにも想像しにくかった。莉子にとっての魔法使いと使い魔の関係というのは、結子とプリムラのようにこれまでもこれからもずっと一緒に生きていくものだという先入観がどうしても拭えなかった。プリムラには価値観が古臭いと言われてしまいそうだけれど、莉子にとって、使い魔とはそういう存在だった。
「痛っ」
考えごとに気を取られていた莉子は、指先に走った鋭い痛みに声を上げた。うっかり針で指を刺してしまったようで、指先に血が滲んでいる。あーあ、と莉子は机にハンカチと針を置くと肩を落とす。
このように気もそぞろでは、今夜は趣味の刺繍もあまり捗りそうにはない。アネモネの花びらはまだ半分ほどしかできていないが、今夜はこのくらいにしておいたほうがよさそうだ。莉子は布を汚さないように針を抜いて、作りかけの作品を裁縫箱の中に片付けていく。そして、莉子は机の引き出しからリボン柄がおしゃれなローズブラウンのポーチを取り出して、絆創膏を指に巻いた。
絆創膏のゴミをゴミ箱に捨てようとした莉子の視界に不意に使い魔サブスクの封筒が映った。莉子はなんとはなしに机の上に封筒の中身を広げる。春休み中には決めると結子に言ってしまった手前、使い魔のことを考えないわけにはいかない。いつまでも先延ばしにしておける問題ではなかった。
契約内容やら利用説明がまとめられた冊子を莉子は絆創膏を巻いた指でぺらぺらと繰っていく。約款やら何やらがつらつらと綴られた無駄に難しい文章のほとんどが意味もわからぬまま莉子の脳を素通りしていった。
何もかもが頭に入ってこない。まだ二十二時過ぎと、寝るには少し早い時間だったが、今日はもう寝てしまったほうが良さそうだった。
(ああもう……全部明日でいいや。刺繍も使い魔サブスクも。全部めんどくさくなってきた)
何の解決にもならないことを承知で莉子は何もかもを明日に先送りにすることを決め、椅子から立ち上がる。いつも寝る前に飲んでいるチャイでも淹れようと、散らかった机の上はそのままに莉子は部屋を出ていった。カーテンの閉じられた窓の外では、藍色の夜空から朧な春星が柔らかな光を地上へと降らせていた。
◆◆◆
翌朝、冴え返った寒さで莉子はベッドから出られずにいた。カーテン越しに差し込んでくる日差しはいかにも春和景明といったふうではあったが、何となく肌寒くて布団の温かさが恋しくて離れがたい。
夢と現の狭間で行ったり来たりを繰り返していた莉子は、意識の隅でスマホの着信音を聞いた気がして、意識をこちら側へと引き戻した。眠気にどうにか抗いながら目をこすってスマホの画面を確認すると、浅野和希と発信者名が表示されていた。
(……もう、何なの面倒くさいなあ……。和希のくせに私のことを叩き起こすなんて、どうでもいい用だったらどうしてやろうか)
ふあああと欠伸を噛み殺しながら、莉子は画面に表示された緑色の受話器のアイコンをタップし、通話に応答する。
「もしもし、和希ぃ? こんな朝っぱらから何の用?」
「朝っぱら、ってもう十一時なんだけど……。そんな生活しててプリムラに怒られない?」
莉子のいかにも眠そうな低い声に、幼馴染の少年がスマホの向こう側で苦笑するのが聞こえた。何よ、と莉子は叩き起こされた不機嫌さで口を尖らせる。
「……用がないなら切るよ」
険のある口調でそう言うと、莉子は赤い受話器のアイコンへ指を伸ばし、強制的に通話を終了させようとする。それを感じ取ったのか、ちょっと待ってってば、と慌てたように和希は莉子を引き止める。
「莉子、何かうちの庭にドラゴンみたいなのがいるんだけど、心当たりない?」
ドラゴン? と聞き返すと、莉子は眉をひそめた。
(ドラゴン、ねえ……)
莉子自身に心当たりはないが、そんな魔法生物に関与しうるのは魔法使いである自分たち清水家の人間――結子か莉子以外にあり得ない。どうやら我が家が原因で面倒なことが起きているようだと思いながら、莉子はベッドから体を起こす。花冷えの寒さがパジャマの裾から覗く素足を刺した。
「ちょっと外見てみてよ。何かゲームのボスみたいなでっかい黒いやつがうちの庭にいるんだ」
和希に促され、莉子は白地に黄色い花が散りばめられたカーテンを開いて窓の外を見る。春雲の流れる円清の下、隣の浅野家の庭には確かにドラゴンと思しき黒い巨体が鎮座していた。
(何だろう……ママがなんかしたのかな……? 私には何も思い当たることはないし……)
莉子は隣家の家の屋根よりも頭一つ分大きな黒いドラゴンを眺めながら、うーん、と唸った。何か知らないかママに電話してみようか。今日は再来月号のファッション誌の占いページの取材があるとか言っていた気がするが、運が良ければ電話が繋がるはずだ。
そのとき、コンコンと部屋の外から軽くドアがノックされた。莉子が返事をするよりも早く部屋のドアが開き、白いレースのドレスの上から小花柄のフリルエプロンをした妖精の少女が部屋に入ってきた。
「あれ、プリムラ? ちょうどよかった、聞きたいことが」
あるんだけど、と言いかけた莉子の言葉を遮り、プリムラは一気にこう捲し立てた。
「莉子! よかった、起きてたみたいね。莉子宛てのドラゴンが間違ってお隣に届いちゃったみたいだから、すぐ行ってきてちょうだい!」
「は? 私宛て? 全然心当たりないんだけど、どういうこと? プリムラ、説明してよ。和希、プリムラがドラゴンについて何か知ってるみたい」
莉子は戸惑いながら、スマホをスピーカーモードに切り替えて、プリムラにも話が聞こえるようにしてやる。プリムラは莉子の右肩の上にちょこんと座ると、今起きている自体について説明し始めた。
「ごめんね、和希。ドラゴンのことなんだけど、結子が莉子のために使い魔サブスクで頼んだやつが間違って届いちゃったみたい」
「莉子のお母さんが? それに使い魔サブスクってなんのこと? プリムラ、話が見えないんだけど」
魔法使いではない和希には話が理解できなかったらしく、スマホのスピーカーから困惑したような少年の声が返ってくる。プリムラは今しがたの説明を和希にも伝わるように噛み砕き直す。
「JWUっていう魔法使いのための組織があるんだけど、そこが昨今の時流に乗って使い魔のサブスクサービスを始めたのよ。それで、結子が言うには、昨日JWUで使い魔サブスクの契約をしたときにたまたまドラゴンに空きがあるって聞いて、面白半分で手配してもらっちゃったらしいの。たぶん、和希の家の庭にいるドラゴンはうちと間違って届いちゃったんだと思うわ」
「はあっ!?」
プリムラの口から語られた後半の言葉に莉子の声が思わず高くなる。莉子は額に手を当てるとがっくりと項垂れた。
「ああもうっ……! なんであの人はそういうことするかなあ……。ていうか、何でママはそういう大事なことを昨日のうちに教えておいてくれなかったわけ!?」
莉子が喚くと、プリムラは気の毒そうな色を紫の双眸に浮かべてこう言った。
「忘れてたって言ってたわよ」
「……」
あまりのことに莉子は言葉を失って黙り込む。そして、結子が昨日の夕方何か言いかけて思い出せずじまいだった話はこのことだったのかと莉子は遅まきながら理解した。電話の向こう側から、幼馴染の少年が苦笑する声が聞こえる。そういうわけだから、とプリムラはスマホへと向き直ると、この後の話を進めようとする。
「和希、これから莉子を行かせるわ。すぐそのドラゴンはこっちで引き取るから」
「やだよ、何で私なの? プリムラ行ってきてよ」
むすっとしながら、莉子は不機嫌にプリムラの言葉を遮って畳み掛ける。寝ているところを起こされた上に、結子の尻拭いをさせられるなんて冗談じゃなかった。
苛立ちに任せ、莉子は窓ガラスと網戸を開ける。「えっ、ちょっと何っ!」プリムラの抗議の声など聞こえないふりをして、莉子は肩の上のプリムラの胴を乱暴に掴んだ。
「ちょっと! 莉子ってば何するのよう!」
細い手足をばたばたとして暴れる妖精の少女を莉子はぽいっと外へと放り出し、ピシャリと窓を閉めた。締め出される形となったプリムラは、何やらしばらく騒いでいたが、やがて諦めたように白い蝶の羽を羽ばたかせて、隣家のほうへと飛んでいった。
「……莉子、何したの?」
おずおずと尋ねてくる和希の声に、ふんと莉子は鼻を鳴らした。
「別に。とにかくドラゴンなんて私は知らないし、その件についてはこれからプリムラがそっち行くから」
じゃあね、と一方的に通話を切ると、莉子は仰向けにベッドに倒れ込んだ。手に持ったままのスマホで、SNSのアプリを起動すると目を通していく。SNS上では莉子の中学時代の友人たちが、どこそこに行っただの、何を食べただの、今日のコーデがどうだのといったことを発信していた。ふうん、と半ば無関心に莉子はそれらの内容に目を通し、機械的にいいねをつけていった。
綺麗に加工された他人の日常を眺め終わると、今度はログインボーナスをゲットするべく、ソシャゲのアプリを起動した。ログインボーナスでガチャチケットをゲットすると、そのままいつもの流れでデイリークエストを一通り黙々とこなしていく。
毎朝のルーティンをすべてこなし終えるころには、莉子の頭は冷えていた。自分がやったわけではないとはいえ仕方ない、と諦めて莉子は再びベッドから起き上がる。ドラゴンをどうするかはともかくとして、着替えて一応様子を見に行こう。結子に文句を言うのも、誤配をしたJWUにクレームをいれるのもその後だ。
もそもそと白とベージュのボーダー柄のパジャマを脱ぐと、莉子はクローゼットを開ける。クローゼットの中身を吟味し、この春に買ったばかりのブルーのストライプのシャツワンピースとホワイトタックパンツを取り出すと、莉子は着替え始めた。
◆◆◆
不意に吹き過ぎていった和風が肌寒くて莉子は首を縮こめた。何かアウターを羽織ってくるべきだったかと少し後悔しながらも、莉子は玄関の扉に鍵を掛けると門扉に手をかける。
莉子は普段プリムラが世話をしている、色とりどりのチューリップが咲き誇る花壇に一瞥をくれると家の敷地から出る。そして、彼女は徒歩数秒の隣の浅野家の庭へと赴いた。
「……お待たせ。さっき電話もらったから、一応来た」
莉子が声を掛けると、巨大なドラゴンを前に何やら話をしていた青いチェックシャツの上にGジャンを羽織った少年と全長三十センチほどの妖精の少女が彼女を見た。「莉子、おはよう。良かった、来てくれて」清潔感のあるスマートマッシュの少年――和希は柔らかく口元を綻ばせた。一方のプリムラは莉子の姿を認めると、細い腰に両手を当て、呆れたようにため息をつく。
「まったくもう、やっと来たわね。莉子ってば何してたのよ」
「……別に。それで、そいつが和希の言ってたドラゴン?」
莉子の問いにうん、と和希は頷いた。和希は目の前のドラゴンを手で示すと、事情を説明し始める。
「今朝、庭でどーんって音がして目が覚めたんだ。朝なのに外がやけに暗いなと思って、庭を見たらこいつがいてさ」
マジでびっくりしたよ、と言う和希に莉子は少なからず申し訳なさを覚える。確かに寝起きにこんなものが自分の家の庭にいたら驚くだろう。莉子は謝罪の言葉を口にした。
「ごめん、和希。ママが全面的に悪いとはいえ、迷惑かけて。……それにしても、JWUも結構やること杜撰だよね。今回はまだうちと関わりのある和希んちだったからよかったけど、普通の家の庭にこんなのいきなり現れたら大騒ぎになるでしょうが。後で絶対クレーム入れてやる」
「……そうね」
苦々しげにプリムラは莉子の言葉に同意を示す。二人のやり取りを見ていた和希は「……そういえば」何かを思い出したように、縁側に置いてあった封筒を持ってきた。
「うちの郵便受けにこんなのも入ってたよ。莉子宛てみたい」
和希はA5サイズの封筒を莉子へと手渡した。封筒の表には「清水莉子様」と明朝体で印字されている。
受け取った封筒の中身を莉子が確認すると、何枚かの書類と黒い石でできたリングが二つ入っていた。リング二つを莉子は手のひらの上に出すと、まじまじとそれを見つめる。
「これ、何?」
莉子が疑問を口にすると、プリムラが蝶の羽を羽ばたかせて彼女の肩口へと飛んできて、手元のリングを覗き込んだ。ああこれね、とプリムラは訳知り顔で独りごちるとこう言った。
「それ、共鳴石ってやつじゃない?」
共鳴石? 、と耳慣れない単語に莉子は思わず聞き返した。そう、とプリムラは頷くと、知っている知識を披露する。
「永久契約を交わさずに使い魔を使役するのに必要ってらしいって聞いたことがあるわ。これで魔法使いと使い魔、互いの魔力を接続させて制御を図るとか何だとか。実物を見るのはあたしも初めてだし、それ以上のことは知らないわ。そっちの紙に詳しいことは書いてあるんじゃない?」
読んでみなさいよ、とプリムラに促され、莉子はがさがさと書類を開く。紙面に印刷された文字を視線でなぞっていくにつれて、莉子の眉間の皺が深くなっていった。難解な文面にうんうん唸りながら、どうにか莉子は要点を理解していく。
「うーんと、よくわからないけど、これを私とこいつにつければいいわけ?」
細かい部分をかなり端折った理解をした莉子にプリムラは嘆息する。彼女は莉子の手元の書類の内容を確認すると、肩を竦める。
「まあ、合ってはいるけど……ちょっと理解が雑すぎない? よくそんなんで高校受験大丈夫だったわね……」
「国語苦手だから完全に捨てて、その分理科と社会で点数稼いだもん。それでちゃんと進学決まったんだから別にいいでしょ」
「あんた、そんなんだと大人になったとき苦労するわよ……」
頭が痛いとでも言わんばかりにこめかみを押さえながらプリムラは言う。二人のやりとりを和希は苦笑いしながら見ていた。
莉子は国語が苦手だ。とりわけ契約書類などに書かれているような小難しい文章を読むのが苦手で、目で文字を追っているとだんだんと眠くなってくる。昨日結子から渡された使い魔サブスクの書類もざっくりと斜め読みはしたものの、さほど内容を理解してはいなかった。
(そういえば……)
共鳴石の詳しい説明のような瑣末事よりも、莉子はこのドラゴンが自分に御しきれるかということの方が気になった。このドラゴンは家より多少大きい程度で、さほど大型な方ではないとはいえども超高位に分類される使い魔であることには違いない。しかし、莉子の魔力の許容量であれば大抵の使い魔相手では魔力爆発を起こすことはないだろうと、昨日プリムラが太鼓判を押していたのを思い出して、まあ大丈夫だろうと莉子は思い直した。
「さて、そこのドラゴンさん? ちょっといい?」
莉子は黒いドラゴンの前に立ち、腰に手を当てると臆することなくそう言い放った。「ドラゴンって……さっきの書類に名前書いてあったじゃない……」何か言いたげにプリムラが莉子を見たが、莉子は気づかないふりをする。
下萌の地面を這うミミズをむしゃむしゃと食べていたドラゴンは、莉子の声に反応してむくりと頭を上げた。黒い鱗に包まれた長い首が天へと向かって伸び、屋根の棟木の高さにある金の目と莉子の視線が交錯する。ふむ、とドラゴンは莉子の姿を認めると金の目を細める。
「お前がワシの主人になるという莉子殿か。ワシはタツロウという。以後、見知りおき願おう」
どことなく偉そうな口調で名乗ったタツロウに、莉子はどうも、とそっけない挨拶を返す。ドラゴンと対等に言葉を交わす莉子を和希は興味深そうに見ていた。その姿はあくまで自然体で余裕があって、和希の目には何だか格好良く映った。
「プリムラ……莉子って何かすごいね。あんな大きくて強そうなドラゴンにあんなふうに口を利くなんて」
「魔法使いなんて皆あんなものよ。最初からあんまりおどおどしてると使い魔にナメられるからね」
魔法使いが使い魔にナメられたら終わりよ、とプリムラは言う。そういうものなのか、と思いながら和希は一人と一匹のやりとりを見守り続ける。莉子は淡々とした調子を崩すことなく、本題へと切り込んでいく。
「タツロウ。単刀直入に言うんだけど、どれでもいいから手を出してもらえる? 私があんたを使役するにはこの共鳴石とやらをつけないといけないみたいなの」
応、と返事をするとタツロウは右前足を莉子のほうへと差し出した。莉子は巨大すぎる爪にそっとオニキスでできたリングを嵌める。莉子も自身の右手の人差し指に、タツロウにつけたのと同じリングをくぐらせた。
途端に双方のリングが激しくばちばちと発光し始める。二つのリングを繋ぐように激しい光を放つ魔力の帯が出現すると、莉子は体内に大きな力の奔流が急激に流れ込んでくるのを感じた。
「えっ、ちょっ、待って、何これ」
莉子は焦りで声を上げた。明らかに自分で制御しきれない量の魔力がタツロウから流れ込んできている。体内で多すぎる魔力が行き場をなくして暴れている。タツロウの魔力が莉子の魔力の許容量を超えているのだ。
「ねえ、プリムラ。あれ大丈夫なの?」
静電気のように全身に帯びた魔力がちかちかと明滅している莉子の姿に、和希はそばを漂っているプリムラへと尋ねた。まずいわね、とプリムラは人形のように愛らしい顔を曇らせる。そのとき、莉子の悲鳴が響いた。
「うっ、うわあああああ!」
「和希! 危ないからなるべく離れて! 何が起こるかわからないわ!」
プリムラは莉子の悲鳴を受け、咄嗟に和希へと向けて警告を発する。そして、彼女自身も降りかかる危険へと備え、白い蝶の羽を羽ばたかせて雲雀東風の吹く空へと舞い上がった。
刹那、莉子の全身を伝って、受け止められなくなったタツロウの魔力が大放出された。ビリビリと空を引き裂くように紫電が走る。ふっと、空が暗くなったかと思うと、莉子の体を中心としてドーン、と大爆発が起きた。一瞬、視界が真っ白になる程の光が辺り一面を覆った。
みしみしという嫌な音がして、浅野家の大きな掃き出し窓へとクモの巣状の亀裂が走る。パリンという音とともに窓ガラスが砕け散り、地面へと降り注いだ。
しばらくして空が晴れ、場に静寂が戻ると、プリムラは莉子のそばへと舞い降りた。彼女は二人へと声をかけ、安否を確認する。
「莉子。和希も大丈夫?」
大丈夫、と莉子は地面に座り込んだ。全身が脱力感と疲労感に覆われ、立っていられなかった。せっかくの買ったばかりの服も、今しがたの爆発に巻き込まれてずたぼろだ。
「プリムラ、今のは何だったの?」
まだ何か起こるんじゃないかと警戒しながら、和希はたった今起きたことに対する説明を請うた。これはね、とプリムラは和希のために、何が起きたのかを話し始める。
「魔力爆発って言って、莉子が受け止めきれなかったタツロウの魔力が引き起こしたものよ。魔法使いの体内には魔力を蓄えるタンクみたいなものがあるんだけれど、今のは共鳴石を通じて莉子に流れ込んだタツロウの魔力がタンクの許容量を超えて溢れ出してしまったの。莉子ならドラゴンクラス相手でもぎりぎりどうにかなるんじゃないかってあたしも思ってたんだけど、ちょっと読みが甘かったみたいね」
「つまり、莉子にはタツロウの魔力が多すぎて、こういうことになったってこと?」
和希がプリムラの説明を要約すると、大体そんな感じね、と彼女はは同意を示した。プリムラは爆発に巻き込まれて一部損壊した和希の家を見やると、ふう、と小さく息をつく。
「何にせよ、このくらいで済んでくれてよかったわ。ドラゴン相手じゃ、最悪市内全域が吹っ飛んだとしてもおかしくなかったし」
「え……今のそんなことになる可能性あったの!?」
プリムラが口にした可能性の話に、和希は驚嘆した。「それなら、これで済んだのは不幸中の幸いか……」和希は複雑そうに呟くと、自分の家の惨状と座り込んだままの莉子へと視線を走らせる。魔力が暴走した際に、着ていたシャツワンピースに裂け目こそできてしまっていたが、莉子自身に目立った怪我はない。思うところはあるものの、和希はそのことに何より安堵を覚えた。
「プリムラ。どうしよう。力が入らない……」
莉子が情けない声を漏らす。仕方のない子ねとプリムラは呆れたように、
「さっきの魔力爆発のときに自分の魔力まで大量に出ていっちゃったんでしょ。放っておけばそのうち治ると思うわよ」
和希は自分の服についた土をはたいて落とすと、自分のGジャンを脱ぐ。そして、彼は莉子の肩にそれを羽織らせてやりながら、彼女を気遣う言葉をかけた。
「莉子、大丈夫?」
「……うん。なんとか」
ぼろぼろになった莉子へと和希は手を差し伸べ、彼女を立ち上がらせた。力の入らない体を和希に寄りかからせて立つ莉子は、知らない間に少し逞しくなったその体に、和希のくせに、とほのかな苛立ちを覚える。そっと肩を抱いてくれるその手が生意気だ。
「莉子殿、失礼した。どうやらプリムラ殿が言っておられたように、ワシの魔力は莉子殿には少々多すぎたようだな。ワシらはあまり相性がよくないように思うが、莉子殿はどうだ?」
タツロウの問いにそうだね、と莉子は和希の腕の中で疲れたように同意を示した。タツロウの魔力を制御するのは莉子には難しそうだった。このまま一緒にいては、今日のような事故が何度でも起こることだろう。
「あんたを使役するのはちょっと私には荷が重いかな。今日の今日で悪いけど、JWUに帰ってもらっていい?」
「あいわかった」
タツロウは莉子の言葉をあっさりと了承した。「手を出して。共鳴石取るから」莉子に促されると、タツロウは右前足を彼女の前へと突き出した。莉子がふらふらしながらタツロウの爪から黒いリングを抜くと、先ほどまでが嘘のようにリングから光が失われていく。
莉子は自分の手からも共鳴石のリングを抜いた。そして、汚れてしまったタックパンツのポケットへと、莉子は共鳴石を二つまとめてぞんざいにつっこんだ。
「さて、と」
プリムラが和希へと向き直る。この事態を収拾するため、これからの話をする必要があった。
「窓ガラスの件は結子が帰ってきたら改めて謝りに来させるから。莉子、ちょっと休んだら駅前のJWU支部で保険の申請書もらってきなさいよ。この手の魔法事故は保険金降りるから、それで和希んちの窓ガラスは弁償しなさい」
「……私そういう難しいやつ苦手なんだけど……」
ええええ、と莉子は弱音を吐く。しかし、しっかり者の花の妖精は腰に手を当てると、駄目よ、と莉子を諌めた。
「まーたそういうこと言って。タツロウの引き取り申請はタブレットであたしがやっておいてあげるから、せめてそのくらいはやりなさいよ」
えー、となおも不満そうな顔をする莉子を和希はとりなすようにこう言った。
「ほら、何だったら俺も莉子と一緒に行くからさ。後で迎えに行くよ」
わかったってば、と莉子はむくれたような顔をする。和希にまで駄々っ子を宥めるように扱われるのは何だか面白くなかった。
それじゃあ後で、と莉子はぶっきらぼうに言うと踵を返す。とにかく今は一度帰って着替えたかったし、少し休みたかった。
地面に散らばったガラスの破片が春の陽光を受けてきらきらと宝石のように輝いている。いつの間にか時刻は正午をまわり、空の天辺に達した太陽が春嵐が過ぎ去ったかのように荒れ果てた庭を照らしていた。
◆◆◆
タツロウの事件から二日が経った花曇りの日の昼のことだった。午前中、降りそぼっていた紅雨は鳴りを潜め、道路のあちらこちらで水たまりが波紋を描いていた。
(あーでもない、こーでもない……ああもう、わっけわかんないっ……)
昼食を済ませた後、莉子は自分が起こしてしまった魔力爆発の後始末をするべく、ひいひい言いながら自室で机に向かっていた。先日、あの後和希に付き添ってもらって、駅前のJWUの支部まで行って保険の申請書をもらってきたはいいが、記入例を見ても一体どこに何を書けばいいのかさっぱりわけがわからない。苦手科目の問題集の解けない難問を前にしたときのように、手にしたボールペンは遅々として動かず、何だか頭が痛くなりそうだ。
「うーん……」
赤と白のドット柄のボールペンのノックカバーを齧りそうになりながら莉子が無意識に唸り声を上げていると、不意にこつこつと窓ガラスが外側から叩かれる音がした。何だろう、と莉子はボールペンから手を離すと、窓の方を振り返った。
「……?」
窓枠に紫色の羽根のカラスが一羽止まり、部屋の中を怜悧な目で覗き込んできていた。その姿を認めた莉子は、そういえばと合点する。
莉子は、タツロウの一件の後、使い魔サブスクのウェブカタログでカラスを見つけて、自分の元に派遣してもらえるように手配していた。カラスを選んだのは外国のアニメ映画の影響で正統派の使い魔という安易な理由だ。それにサイトに書かれた階級的にタツロウのときのようなことは起こらなさそうだったし、サイト上の状況を見る限り、すぐに派遣してもらえそうだったのが何よりの決め手となった。
莉子は椅子から立ち上がると、がらがらと引き違い窓を開ける。紫色のカラスは部屋の中に入ってきて、くちばしの先でくわえた封書を莉子の手元へと落とすと、莉子の椅子の背へととまった。
莉子は宛名に自分の名前が書かれた封筒を破って開けると、中の書類と黄色の共鳴石を検めた。この石は色的にシトリンだろうか。金運を招く石が共鳴石に使われている辺りが、何とも貴金属を好むカラスらしい。
「あなたがカラスのレイ? 私は莉子。これからよろしく」
莉子はざっと同封されていた書類の内容を流し見すると、カラスへと話しかけた。「よろしくお願いします」レイは莉子に口先だけは慇懃に挨拶を返す。
ピンクゴールドのフレームがお洒落な置き鏡。カラーボックスの上できらきらと輝くアクセサリーたち。ラメやグリッターが華やかなコスメの数々。壁面収納のフックにぶら下がった家の鍵。
部屋中に散らばる刺激的な物の数々に、レイはそわそわと落ち着かなく視線を動かしている。何か珍しいものでもあるのだろうかと莉子が思っていると、机の上に転がっていたメタリックピンクのワイヤレスイアホンを目掛けてレイはいきなりカァと一鳴きして飛び上がった。
「あっ!」
莉子はレイからイアホンを守ろうと手を伸ばすが、レイはすっとその腕の中を滑空してすり抜けた。そしてレイは紫色の嘴でイアホンをくわえると、開けたままの窓からそのまま外へと出て行ってしまった。淡いブルーグレーの空に飛び立っていってしまったレイへと向かって莉子は声を張り上げる。
「ちょっと! レイ! 待ちなさい!」
莉子は慌ててレイを呼び止めたがもう遅かった。黄色の共鳴石のリングは二つとも莉子の手にある。
タツロウの一件の後、莉子がプリムラに聞いた話によると、共鳴石がその効果を発揮するには三つの条件があるらしい。
一つ目は、魔法使いと使い魔の双方が同じ共鳴石を装着していること。
二つ目は使い魔が魔法使いの目の届く範囲にいること。
三つ目は魔法使いと使い魔双方の共鳴石に光が灯っていること。
せめて、リングを装着した後であれば、レイを呼び戻すこともできたかもやしれなかった。しかし、リングが二つとも手元にある以上、今の共鳴石に単なるアクセサリー以上の意味はない。
「もうっ、あのイアホン、めっちゃ高いのに! 私の二九八〇〇円!」
あの馬鹿カラス、と莉子は毒づいた。先ほど、レイに持ち去られてしまったイアホンは、高校の入学祝いと魔法使い認定試験の合格祝いを兼ねて、京都に単身赴任中の父親から送ってもらったものだった。まだ、数えるほどしか使っていないというのに、こんな形で早々に紛失してしまうのはあまりに惜しい。
(イアホンは取り戻さなきゃだし、何よりレイを連れ戻さないと。手配してもらった使い魔に逃げられたとなったら、また補償金やら何やら面倒なことになる)
先日のタツロウの件の手続きで手一杯だというのに、これ以上厄介事を抱え込みたくない。莉子はああもう仕方ない、とレイを追いかけることを覚悟を決める。空を飛べるプリムラに手伝ってもらえれば、どうにかレイを追い込むことができるかもしれない。心許ない心算を胸の内で練りながら、莉子はスマホと家の鍵を手に取った。そして、彼女は部屋を飛び出して、一段飛ばしでどすどすと階段を駆け降りていく。
「プリムラ!」
台所のガラス戸を開け放ち、莉子は頼りになる妖精の少女の名を呼ぶ。が、台所はおろか、一階のどこにも生き物の気配はない。
(……あ、しまった。そういえば)
テレビCMでやっていた新発売のビールを買いにスーパーまで行くなどと言って、少し前に彼女が出かけていったことを莉子は思い出した。間の悪さに思わず莉子の口からちっと行儀悪く舌打ちが漏れる。早々にアテが外れてしまった。
莉子は苛立ちを募らせながら玄関へと戻ると、靴箱からオレンジのハイカットスニーカーを出した。彼女はスニーカーに足を突っ込みながら、スマホの画面をタップして和希へと通話を掛ける。トゥルルルルという電子音が何コールか鳴り響いた後に、もしもしと和希の声が通話に応じた。
「莉子? どうかした?」
「カラス捕まえるから協力して! 後でジュース奢るから!」
「え、ちょっと、莉子、一体それはどういう……」
「とにかく今すぐうちの前まで来て! 詳しいことは後で説明する!」
「う、うん……」
電話の向こうで和希が何かを聞きたそうにしていたが、莉子の勢いに気圧されて彼は言葉を喉の奥に飲み込んだ。それじゃ後で、と莉子は構わず通話を切ると、玄関を出て鍵を閉めた。
(そういえば、物置に昔お兄ちゃんが使ってた虫取り網があったはず……あれ、使えないかな)
莉子には五歳上の樹来という名の兄がいる。莉子と同様、樹来も幼いころはプリムラに面倒を見てもらっていた。莉子とは違ってやんちゃだった樹来は、プリムラを虫呼ばわりして、よくこの虫取り網で彼女のことを追い回して遊んでいた。そのときの虫取り網がまだ物置の中で保管されている――やんちゃな樹来の悪魔の所業を恐れたプリムラによって封印されているはずだった。
莉子は白いワイドパンツのポケットに玄関の鍵とスマホを突っ込むと、庭先の物置を開けた。物置の中に上体を突っ込み、莉子が目的の物を探して中を物色していると、隣の家からネイビーのカットソーとオックスフォードシャツをレイヤードスタイルにした少年が出てきて、彼女の名を呼んだ。
「莉子。電話じゃよくわからなかったけど、今度はカラスがどうしたって?」
莉子は物置に上体を突っ込んだまま、ああうんと和希に返事を寄越した。そして、彼女はがさごそと物置の中を漁りながら、和希へと現状の説明をする。
「例の使い魔サブスクでカラスの子を頼んでみたんだけど、共鳴石つける前に逃げられちゃって」
「共鳴石ってあれだっけ? この前のドラゴンにつけてたリングみたいな」
うん、と相槌を打ちながら、莉子は物置の奥に仕舞い込まれていた目的の物にを見つけると手を伸ばす。
「……よし、あった。手配してもらった使い魔に逃げられたなんて知れたら、JWUに補償金とかいうの取られるし、さっさと連れ戻さないと。それに何より、あいつわたしのイアホン持ってったから絶対捕まえなきゃ。あれ結構高いやつなんだから、このまま泣き寝入りなんてしたくないもん」
莉子は物置の中に眠っていた虫取り網を手に取ると、外構のフェンス越しに和希へとそれを渡した。和希は虫取り網を受け取ると、懐かしいねとそれに視線を落とす。
「これって昔、いっくんが使ってたやつだよね? プリムラ捕まえて遊んでたやつ」
「うん、そう。それはそうと、早くカラスを追いかけなきゃ。普通のより、だいぶ紫っぽい色だったから目立つとは思うんだけど」
「莉子、カラスがどっちに行ったかわかる?」
たぶんあっち、と莉子が方角を指で示すと、わかったと和希は頷いて歩き出した。出したものをぞんざいに物置に放り込むと、莉子はその背を追いかける。出したものをしまっただけなのに、なぜか閉まらなくなってしまったので、物置の扉は開け放ったままにしておいた。
莉子の家から二つ先の曲がり角に差し掛かったとき、二人はスーパー帰りのプリムラと行きあった。花とハートが散りばめられたピンクのエコバッグにビールの六缶パックを入れて鼻歌交じりに宙を飛ぶ花の妖精は、紫色の双眸を機嫌良く細めていた。
「プリムラ! 紫色のカラス見てない!?」
莉子はプリムラを大声で呼び止めると、勢い込んでそう聞いた。「……カラス?」プリムラは一瞬きょとんとした顔をしたが、やがて状況を理解したのか、その表情は莉子を咎めるものへと変わっていく。
「さっき、それっぽい鳥がスーパーの向かいの公園のほうに飛んでいくのを見たけど。……まさか莉子、使い魔に逃げられたんじゃないでしょうね? カラスの使い魔を頼んだって昨日言ってた気がするんだけど」
う、と莉子はきまりの悪さで言葉を詰まらせる。やっぱりか、とプリムラは嘆息すると、莉子へと小言を並び立てる。
「莉子、あなた、もう一人前の魔法使いなんでしょう? だったら、自分の使い魔の管理くらいできなきゃだめじゃない。ましてや逃げられるだなんて言語道断よ。ナメられてるにもほどがあるわ」
「……」
プリムラの言い分はもっともなもので、莉子は何も言い返せなかった。プリムラの言葉が胸にぐさぐさと突き刺さって痛い。プリムラはしばらくエコバッグの中をごそごそと弄っていたかと思うと、缶ビールを一本取り出して謝罪とともに和希へと渡そうとする。
「ごめん和希、これ一本あげるから莉子のこと手伝ってあげてくれる? あたしも家に荷物置いたらそっち行くから」
いやいやいや、と酒を渡してこようとするプリムラを和希は手で押し留めながら苦笑する。
「それは全然構わないんだけど、プリムラ、ビールはいいから。俺まだ十五。未成年にお酒勧めないでよ」
「あら、樹来は中学の終わりくらいから普通にお酒飲んでたけど?」
プリムラは可愛らしく小首を傾げてみせながら、およそ保護者(代理のようなもの)とは思えぬことを宣った。
「ちょっとプリムラ、うちの馬鹿兄貴と和希を一緒にしないでよ」
すっとぼけたプリムラの発言を遮って、莉子は畳み掛ける。
「っていうか、お兄ちゃんのことはどうでもいいから、あのカラスを追いかけるよ」
じゃあね、と言うと莉子は路上に残る水たまりをオレンジのハイカットスニーカーの底で跳ね上げながら走り出した。和希も虫取り網を担ぎ直すと、前を行くピンクのVネックカーディガンの背を追う。
そそ風がそっと地上に残る水の匂いを巻き上げ、その場を吹き過ぎていく。公園のほうから飛ばされてきた薄桃色の花びらが水気を帯びて、アスファルトの上に張り付いていた。
プリムラが言っていた通り、レイは公園のブランコの脇にある桜の木の枝の上で羽を休めていた。莉子は戦利品をくちばしの先に咥えて得意げな表情を浮かべる紫色のカラスの姿を認めると、毅然とした態度でその名を呼んだ。
「見つけた! レイ、降りてきなさい!」
しかし、レイは莉子の言葉に従うことはなく、代わりに頭上から嘲りの視線を返してきた。共鳴石を装着していない以上、莉子の言葉に強制力はなく、単なるお願い以上の意味はない。そして、レイ側も主従関係を結んでいるわけではない莉子のお願いを聞き入れる理由はなかった。悔しさで莉子はぐっと唇を噛む。
「共鳴石なしで、ワタシに言うことを聞かせられるとでも? 油断しておられるからこういうことになるのですよ」
飄々とした口調でそう言うと、レイは小馬鹿にしたようにカァと鳴いてみせる。「っ……もうっ!」莉子は苛立ちを露わにしながら、和希へと向かって叫んだ。
「和希! その網であのカラス捕まえて!」
「了解」
和希は虫取り網を手に背伸びをする。が、網はレイのいる枝にわずかに届かない。網が当たった一つ下の枝から落ちたピンク色の花びらが、はらりと宙に舞った。
莉子は届きそうで届かないというじれったい状況に歯噛みする。そして、彼女は状況を打開すべく、こんなことを言い出した。
「和希、私をおんぶしてくれない? そしたら届くでしょ?」
え、と和希は固まる。虫取り網の柄がすっと和希の手の中を滑り落ち、ぱたりと地面へと転がった。
「何、和希、嫌なの?」
不服そうに莉子は唇を尖らせる。和希は困ったように眉尻を下げ、年相応に曲線を描く莉子の体のラインを意識の外に追いやろうと視線を泳がせる。好きな女の子の胸やらお尻やらに密着されて反応せずにいられるほど、和希も紳士ではない。彼はどうにか莉子を思いとどまらせるべく、それとなく説得を試みる。
「あの、嫌とかそういうんではないんだけど、俺たちあと何日かしたら高校生だよ? 莉子は女の子だし、そういうのって俺はどうかって思うんだよね」
「何それ。和希のくせに何言ってるの」
白けた目で莉子は和希の発言を一蹴する。多感な年ごろの少年の葛藤をレイは木の上からくだらないとでも言いたげに見下ろしていた。
とにかく、と和希は虫取り網を拾い上げると、きっぱりとした口調でこう断じてみせた。
「莉子にそんなことさせるくらいなら、俺が木に登るから」
「和希、木なんか登れるの? 小学校のとき、上り棒できなくて泣いてなかった?」
いつの話をしてるんだよ、と和希は苦笑しながら木に手をかける。いつまでも頼りなくて泣き虫の幼馴染のままだと思われているのは正直面白くない。
和希は脇の下に虫取り網を挟むと、両腕を木の幹に回し、胸を押し付ける。そして右足の甲も幹に押し付けると、左足を幹の後ろに回して引き付けた。
そのまま、和希は両足で幹を挟み込んで固定したまま上へと体を伸ばすと、今度は上半身で体を支え直し、下半身を一気に引き上げた。下半身が上に上がると、再び足で体を支え直し、和希はまた上部へと体を伸ばす。
(あれ、意外と……)
莉子が思っていたよりも危なげなく、するすると和希は木を登っていった。木の幹を掴む手は何だか大人の男性のものみたいにいつの間にか力強くなっていて、生意気、と莉子は小さく呟く。
レイが止まる枝のあたりまで登ると、和希は虫取り網を掴み直してぐっと、上へと手を伸ばした。網がレイを捉えた瞬間、「うわっ」バランスを崩した和希の体が木から落ちかける。和希は網を持っていないほうの手で近くにあった太い枝に掴んでぶら下がった。
「……何してるの?」
家に荷物を置いてから、二人を追いかけてきたらしいプリムラが和希の頭上に飛んできて困惑したように声をかけた。確かにこの場にいま来たばかりのプリムラからしたら、どうして和希が今にも木から落ちそうになっているのかわけのわからない状況だろう。
「持ってきた網じゃあのカラスに届かなかったから、おんぶしてって言っんだけど……和希がそのくらいなら自分が木に登るって聞かなくて」
「あー……そんなこと言ったらまあ、こうもなるわね。今のでだいたい把握したわ」
桜の木の下にいた莉子の説明を受け、得心したらしく、プリムラは同情的な視線を和希へと向けた。そして、プリムラは樹上の和希が手に持った網の中でばたばたと暴れている紫色のカラスに一瞥をくれると、莉子へこう聞いた。
「それで、あれがさっき言ってたカラスの使い魔?」
「そう。……あ」
虫取り網のネットの間からキラキラ光るものが落ちる。莉子はそれが地面につく前に手を伸ばして受け止めた。
「ふう。私の二九八〇〇円……」
イアホンが無事、手元に戻ってきたことに安堵している莉子を妖精の少女はちょっと、と嗜める。プリムラの視線の先には虫取り網の中でもがくレイの姿がある。
「莉子、そんなことよりあれどうするのよ」
そうだった、と莉子は白いワイドパンツのポケットにイアホンをしまう。そして、莉子はイアホンと入れ替わりに取り出したスマホからゴールドのチェーンストラップを外すとプリムラへと渡した。
「プリムラ、これで網の口を縛っちゃってよ。そしたら逃げられないでしょ?」
「そうね、わかったわ」
プリムラはチェーンストラップを受け取って、レイが入っている虫取り網の口をぐるぐると縛ると、和希へと声をかける。全体重を支えている和希の左手はぷるぷると震え、限界を迎えかけていた。
「和希、もう網から手を離して大丈夫よ。莉子は下で網をキャッチして」
いくよ、と和希は莉子に声をかけると、虫取り網から手を放した。ペットボトル飲料一本とほぼ同等の重量のものを内包した網はひゅっと速度を伴って落下していく。木の下で待ち構えていた莉子は落ちてきた網を両腕で受け止めた。ずっしりとした重みが両腕にのしかかり、危うく莉子はそれを取り落としそうになるがどうにかこらえる。手の中の網では紫のカラスがなおももぞもぞともがき続けている。
(こんなカラス、こっちから願い下げだ。家に帰ったらすぐにJWUに送り返してやる)
人の大事なものを持ち逃げする悪癖がある上に、主人である魔法使いを馬鹿にした態度を取るような使い魔など御しきれる気がまるでしない。自分を手こずらせてくれたカラスが網の中から恨みがましげにこちらを見ているのに気づくと、莉子は舌を出してやった。その様子を空中で見ていたプリムラはどっちもどっちねと独りごちた。
「……っと」
和希はどうにか木から降りると、ネイビーのカットソーの袖口で汗を拭った。他でもない莉子の手前、格好つけてみせたものの、先ほど木から落ちかけたせいで冷や汗が止まらない。それにずっと枝からぶら下がり続けていた左手から握力が失せている。
「疲れた……」
和希はそう呟くと、公園の入り口にある赤い自販機のほうへと歩いていった。とりあえず、気分を落ち着けるためにも何か飲みたい気分だった。ローズウッドの木目調のケースに嵌ったスマホを和希はコーデュロイパンツの尻ポケットから取り出すと、自販機のミルクティーのボタンを押した。和希がスマホを自販機にかざして、飲み物の代金を払おうとしていると、カラスの入った網を持った莉子が追いついてきた。彼女は和希が自分で飲み物を買おうとしているのを見咎めて、あっと声を上げた。
「私奢るって言ったのに」
「いいよ、そんなの。別に俺、何か奢ってほしくて莉子のこと手伝ったんじゃないしさ。それより、莉子も何か飲む?」
ゴトンと音を立てて落ちてきたミルクティーの缶を和希が自販機から取り出しながら聞くと、莉子は首を横に振った。
「ううん、いい。……って、うわ、何それ」
莉子はちらりと見えた和希のスマホの待ち受け画面の画像に顔を引き攣らせた。セーラー服に身を包んだ莉子と学ラン姿の和希。その背後には八分咲きの桜の木と中学校の校門が写っている。それは中学校の卒業式のときに結子が撮った莉子と和希のツーショットだった。
「ほら、これ綺麗に撮れてたし、せっかくの記念だからさ。プリムラに頼んで送ってもらったんだけどだめだった?」
「だめではないけどさあ……でも普通、そんなもん待ち受けにする?」
信じられないものを見るような目で莉子は和希を非難する。
「好きな子の写真を待ち受けにするのってそんなおかしいことかな……?」
「和希も和希だけど、莉子も莉子よねえ……」
和希が困惑したように呟くのを聞きながら、プリムラは二人の頭上をひらひらと飛びながら苦笑を漏らした。この分では和希の想いが報われる日は遠い。というか、そんな日が来るかどうかすら定かではない。
さっさと出せと言わんばかりにレイがカァカァと文句を言う声が、桜の花びらが舞う公園に響いている。淡い色合いの春の虹が地面の水たまりの中でゆらゆらと揺れていた。
◆◆◆
「……何がどうしてこうなったの?」
莉子は三つ首の大型犬――ケルベロスのドゥリーを前に溜息をついた。家を訪ねてきたJWUの職員が、莉子宛だと言ってこのケルベロスと一通の封書を置いていったのがつい数分前のことだ。
このケルベロスに莉子はまったく心当たりがない。なぜなら、この使い魔を頼んだのは、今ばたばたと出かける支度をしている母親の結子だからだ。
(なんっていうか、デジャヴっていうか……これ、タツロウのときと同じパターンじゃない?)
莉子は数日前にカラスの使い魔に逃げられ、和希に手伝ってもらって追いかけ回す羽目になったばかりだ。それなのに、次こそはと慎重に使い魔を選ぼうとしていた矢先におきた出来事がこれだ。何だか頭が痛くなってくる。結子はバッグの中に書類とスマホを一緒くたに突っ込みながら、のほほんとした口調でこんなことを宣った。
「莉子、犬とかみたいに馴染みのある生き物のほうがいいんじゃないかって言ってたでしょう? それで、ウェブカタログでこの子を見かけたから頼んでおいたのよ。かわいいでしょう?」
「……」
目の前のドゥリーはどう見てもかわいいというよりはどちらかというといかついの部類だ。そもそもなんでこの人は面白半分に娘の使い魔を勝手に手配しているんだ。
「拙者、かわいい!? かわいい!?」「拙者の愛らしさの前では全米が震撼しちゃうやつっすね!」「かわいいは正義とはこのことっすか!」三つの頭が同時に騒ぎながら、一本しかない尻尾をぶんぶんと激しく振っている。その様子を眺めていた莉子はより一層げんなりとした気分になってくる。
「かわいいかどうかはともかくとして……犬? これ、本当に犬?」
結子の独特な感性に頭を悩ませながら、莉子は疑問を口にする。ドゥリーは土佐犬のような外見には似合わない、子犬じみた声でキャンと一鳴きすると、
「拙者ならばお手もお座りも待てもプロ級ですぞ! あと、数独とクロスワードがめっちゃ得意なんで、拙者に掛かればどんな難問でも瞬殺っす! どうっすか、莉子どん、拙者超賢くないっすか!?」「あと知恵の輪も得意っすよ!」「拙者マジすごすぎっす!」
ああうんそうだね、と莉子はおざなりな同意をする。数独がどんなものだったかいまいち思い出せないが、ケルベロスなどというファンタジーな生き物であるだけあって、普通の犬よりだいぶ賢いのであろうことは推して知れた。しかし、三つの頭が同時に言葉を発するのでうるさくて仕方がない。
それはともかくとして、この前のレイのときと同じ轍を踏む前に、さっさとドゥリーに共鳴石をつけてしまわなければならない。先程、ドゥリーを連れてきたJWUの職員が持ってきた封筒からタイガーアイの共鳴石を取り出すと、莉子はこう切り出した。
「とりあえずドゥリー、共鳴石つけさせてくれない?」
「もちろんですぞ! ただ莉子どん、拙者から一つお願いがあるんすけど、よろしいか?」
「お願い?」
莉子は眉根を寄せた。ケルベロスは魔法生物であり、プリムラと同様に使い魔としての位階は高い。交換条件として一体何を要求されるのかと、莉子としては身構えざるを得なかった。
「毎日、朝と夕方に散歩に連れて行って欲しいのですぞ!」「マーキングとクン活は犬の責務っすから!」「ご近所の巡回も大事な任務っす!」
ああそう、と莉子は脱力した。というかケルベロスって犬なのか。要求がめちゃくちゃ犬じみている。
悪いやつではなさそうだけれどこのテンションに付き合うのは少ししんどいな、などと考えつつ、莉子は自分の右手にタイガーアイでできた共鳴石のリングを嵌める。
「とりあえずわかったから、手出して」
莉子が促すと、多少の硬さを感じる黒い肉球のついた右前足をドゥリーはお手をするように差し出した。ドゥリーの前足を掴むと、莉子は茶色い石でできたリングを装着する。
すると、莉子の手とドゥリーの前足の共鳴石に琥珀色の光が灯った。光り方にタツロウのときのような激しさはなく、体内に大量の魔力が流れ込んでくる様子もない。ドゥリーの魔力は莉子の中に流れ込むか流れ込まないかといったところで絶妙なバランスを保っていた。
(良かった……安定しているみたいだし、これなら魔力暴走が起きる可能性はなさそう)
タツロウのときの二の舞いにならなかったことに莉子が胸を撫で下ろしていると、浴室の掃除をしていたプリムラが台所へと戻ってきた。家事が一段落したのか、休憩とばかりに彼女は冷蔵庫から徳用と書かれたカルパスの袋を引っ張り出してくる。
「食べる?」
プリムラは袋から一本カルパスを取り出すと、ドゥリーの三つあるうちの頭の一つのそばに持っていく。「わん!」まるで犬のような返事をすると、ドゥリーはカルパスを一口に頬張った。
(……あれ?)
ドゥリーがカルパスを咀嚼しているのを眺めていた莉子はとあることに気づいた。よく考えたら犬の世話の仕方をろくに知らない。
「ママ、私、犬の世話の仕方わからないんだけどどうしよう? ……まあ、ドゥリーを犬って言っていいのかは謎だけど」
口の中のカルパスを飲み下すと、ドゥリーはわふ、と三つの頭を傾げながら莉子を見た。カルパスがよっぽど気に入ったのか、一様に口元から涎を垂らしている。結子は玄関でシルバーのスクエアトゥパンプスを履きながら、泣きついてきた娘の疑問をばっさりと両断した。
「そんなのネットで調べたらいくらでも出るでしょ。それに何年か前まで、和希くんちで何か犬飼ってなかった? ルディくんだったっけ?」
「ああ……確かに。そういえば飼ってたね。シベリアンハスキーだったっけ?」
「だったら、和希くんに聞けばいいんじゃない? 莉子が聞けばいくらだって教えてくれるでしょ」
結子の言う通り、確かに和希に聞くのが手っ取り早そうだった。経験者の言うことのほうが、ネットに氾濫する玉石混淆の情報より余程頼りになる。
「それじゃあ行ってくるわね。鍵、閉めといてね」
結子はブラックのギャザーバッグを持つと、家を出ていった。ガチャン、とドアが閉まるのを見送ると、莉子はダイニングテーブルの上に置いていたスマホを手に取った。そして、彼女はメッセージアプリを起動させると、指を画面になぞらせて和希宛のメッセージを打ち込んでいく。
『和希、前、犬飼ってたよね? 犬の世話教えて』
莉子がメッセージを送ると、数秒の後に既読がついた。間髪を容れずに、ぴるるるるとスマホが鳴り始める。莉子が緑色の受話器のアイコンをタップして、スマホを耳に押し当てると、困惑したような和希の声が聞こえてきた。
「莉子、犬って今度はどうしたの?」
「それがさー、ママが勝手に私の使い魔頼んじゃって、ケルベロスが来ちゃったんだよね」
ケルベロス? と和希がスマホの向こう側から聞き返してきた。声の気配から和希の困惑が深まっているのを感じる。
「莉子、ケルベロスってあれだよね? RPGとかに出てくるのと同じなら、三つ首の大型犬みたいな」
「そう、それ。本人たちも犬だって主張してるし、犬のやりかたでいいから世話の仕方を教えてくれない? それと、とりあえずはまず散歩に連れていかなきゃいけないみたいで」
「わかった、ルディのときのを取ってあるはずだから、後でハーネスとか餌入れとか持っていくよ」
「ありがと。よろしく」
莉子は礼を言うと通話を切った。和希に来てもらう約束を無事取り付けられたので、ひとまずはどうにかなりそうだ。
「惚れた弱みがあるとはいえ、和希も大変ねえ」
「……何のこと?」
「昔からとはいえ、あの子も苦労するわね……」
もう高校生になるというのに、一体いつになればこの二人の仲は進展するのだろう。今のところ莉子にその気がなさそうなのが問題ね、とプリムラは和希に同情しながら、カルパスを齧る。ドゥリーの三つの頭がカルパスを食べるプリムラのことをじっと見ていた。ドゥリーがプリムラを見る視線に気づいた莉子は、どれだけカルパスが気に入ったんだよと内心で呆れた。というか、犬に人間の食べ物ばかり与えるのは健康上よろしくないのではないだろうか(ケルベロスは厳密には犬ではないけれど)。
電話を切って十分ほど経つと、ぴろぴろと玄関のインターホンが鳴った。麦茶をストローで飲んでいたプリムラはインターホンモニターへと飛んでいくと、来訪者が誰かを確かめる。
「莉子。和希来たよ」
「ああうん……そういえば鍵開けっぱなしだからそのまま入ってもらって。和希だし、別にいいでしょ?」
「莉子……あんたって子は本当に不用心なんだから」
プリムラは紫の目で莉子を軽く睨む。莉子は肩を竦めて、プリムラの非難じみた視線を受け流した。
ガチャリと玄関の扉が開く音が響き、お邪魔します、と和希が段ボールを持って家に入ってきた。和希は玄関で靴を脱ぎ、台所に姿を表すと段ボールを床に置く。そして、彼はドゥリーを見ると目を丸くした。
「わあ……本当にケルベロスだ。ゲームとかで見たまんまだね」
和希の声が興奮で高くなる。はしゃいだふうに話す和希の声を聞きながら、莉子はこれだから男はと胸中で毒づいた。もう高校生になるというのに、家でゲームばかりやっていた小学生のころから何ら情緒が成長していない。莉子の呆れ返ったような視線に気がつくと、和希は体裁を取り繕うかのように軽く咳払いをした。
「えーと……莉子、とりあえずこの子を散歩すればいいんだっけ?」
和希の言葉に、莉子はうんそう、と首を縦に振る。すると、散歩という言葉に反応し、ドゥリーはまるで本物の犬のように、興奮でぱたぱたと激しく尻尾を振りながらにわかに騒ぎ始めた。
「莉子どん、莉子どん、この御仁は?」「悪いやつじゃなさそうっす!」「拙者と遊んでくれるっすか?」
「こいつは私の幼馴染の和希。今からあんたの散歩に連れてってくれるから」
莉子がそう説明してやると、ドゥリーは和希にまとわりつくようにくるくると回り始める。
「和希どん、和希どん! 拙者はドゥリーですぞ! 早く散歩に連れてってくだされ!」「散歩ですと!」「わくわくが止まらないっす!」
和希はドゥリーの勢いにやや気圧されながらも、膝を折ってかがみ込むと床に置いた段ボールを開く。すると、待ちきれないとでも言わんばかりに、体格の良いドゥリーがカーキのパーカーの背中にじゃれついた。
「う、おっ」
和希は前につんのめる。背中にのしかかる体重が重い。背中にかかる数十キロの重みからどうにか逃れると、和希は箱の中からグリーンの迷彩柄のハーネスとリードを取り出した。
和希はドゥリーと正面から向き合い、どうしたものかと逡巡した。これの散歩はなかなかに骨が折れそうだった。
そんな和希の思考を知ってか知らずか、ドゥリーは三枚の舌を駆使して和希の顔をべろべろと舐める。どうやら、自身の現在の主人であるはずの莉子以上に和希のことを気に入ったようだった(もしかすると散歩係認定されただけかもしれないが)。
「あらあら、和希ってば顔がべとべとじゃないの」
和希がドゥリーにじゃれつかれ、唾液で顔をべとべとにされていることに気づくと、プリムラは清潔なタオルを探して洗面所へと飛んでいった。そして、彼女は白いタオルを手に台所へと舞い戻ってくると、ドゥリーにじゃれつかれないように気をつけながら(舐め回されたくないのはさることながら、サイズ感的にじゃれつかれると命の危険がある)、和希へとタオルを手渡した。
「ありがと、プリムラ」
和希はプリムラから渡されたタオルで顔を拭うと、ドゥリーの胴体にハーネスを装着する。そして、ハーネスの金具にリードを取りつけると、和希は立ち上がった。
「よし、できた。莉子、ドゥリーの散歩に行くから一緒に来て。今日のところは俺がドゥリーのリードは持っとくよ。あと、ドゥリーは普通の犬じゃないから必要かわからないんだけど、一応水の入ったペットボトルとビニール袋用意してもらっていい?」
うん、と返事をすると莉子は台所のシンクの隅で干していた空のペットボトルに水道の水を詰める。そして、背後のダイニングテーブルに放置されていたコンビニのビニール袋を手に取ると、莉子は玄関へと向かった。
「和希、お待たせ」
玄関では既に散歩が待ち遠しくて仕方ないドゥリーに引っ張っていかれた和希が黒のキャンバススニーカーを履き終えて待っていた。和希のデニムパンツにドゥリーが三つのいかつい顔を代わる代わる擦り付けているのを横目に莉子は自分のベージュのスニーカーに足を入れる。この短時間で和希はずいぶんとドゥリーに気に入られたようだった。
(これだけ気に入られているなら、散歩は今後和希に任せてもいいかも。こんな大きい犬、私の腕力じゃ散歩するのも大変そうだし)
和希を戦力として脳内で皮算用して今後のドゥリーの世話について、莉子は靴紐を結びながら思考を巡らせる。ありだな、とほくそ笑みながら、靴を履き終えた莉子は上り框から腰を上げると、台所で和希が持ってきた箱の中身を覗き込んでいたプリムラへと声をかけた。
「プリムラ、それじゃ行ってくるね」
「はいはい、ごゆっくり。――和希、頑張ってね」
莉子が相変わらず施錠されないままになっていたドアを開けると、何だか含みのあるプリムラの発言が家の中から二人と一頭の背を追いかけてきた。「う、うん」和希は返事をすると、ドゥリーのリードを手に莉子の後について家を出た。
家を出てガチャンと音を立てて門扉を押し開けると、待ちきれなかったかのようにドゥリーが玄関ポーチから飛び出した。「うっ、うわああっ!」いきなり車のような速度で走り出したドゥリーに引っ張られ、和希はずるんと転倒する。そのまま、リードを握ったままの和希はドゥリーの膂力に抗えずに、猛スピード地面をで引き摺られていく。彼のカーキのパーカーが、インディゴのデニムパンツが摩擦に耐えきれずに急速にボロ布と化していく。
「和希!」
遠ざかっていくドゥリーと和希を追いかけて、莉子は走り出した。莉子のライトパープルのマーメイドスカートの裾が春の風を受けて揺れ動く。
莉子は全速力でドゥリーたちを追いかけ続けた。しかし、莉子が走る速度よりもドゥリーたちのほうが早く、どんどん距離が開いていく。
(あ……まずい……)
走り続けるうちにいくつも曲がり角を通り過ぎ、向かう先に車通りの多い幹線道路が見えてきて莉子は顔を青ざめさせた。このままではドゥリーも和希も危ない。このままの勢いで幹線道路に突っ込んでいったら、両者とも車に撥ねられかねない。
(そういえば、これって……)
走る速度は緩めずに莉子は自分の右手に嵌めたタイガーアイのリングに視線を落とした。今の今まで完全に忘れていたが、共鳴石には使い魔の魔力を借りるだけでなく、現在の主人である莉子の命令を強制する作用があったはずだ。
よし、と意を決すると、莉子は視界の先にかろうじて小さく見えるドゥリーへと琥珀色の光が灯る右手の人差し指を向けた。すると、ドゥリーのほうへと、魔力でできた琥珀色の光の糸がするすると伸び始める。両者の間に魔力の糸がぴんと張られたのを確認すると、莉子は大音声で叫んだ。
「――ドゥリー! 止まって!」
車が絶え間なく走る大通りに突っ込む直前で、キュキュッという音を立ててドゥリーが急ブレーキするのを莉子は視線の先に見た。どうやら、自分の命令はぎりぎりのところで間に合ったらしい。安堵のあまり、莉子はその場に座り込むと、ぜえぜえと肩で息をした。
(うーん……これは、ちょっと問題あり、かなあ)
ドゥリーに悪気がないのはわかる。しかし、テンションが上がる度に力の強いこの犬もどきに引きずり回されるのは命の危険を感じる。事実、和希はドゥリーの暴走によってずたぼろの擦り傷まみれになったし、莉子自身も同じ目に遭ったら、とてもじゃないが引きずり回されながらドゥリーに命令を下す余裕などないだろう。
(魔法使いたるもの、使い魔を使役するならば、使い魔に対して責任を持つべし。認定試験のテキストにも書いてあった。だけど、私じゃドゥリーの暴走を物理的に御しきれないし、何かあったときに責任を負いきれない)
ドゥリーは魔力的というよりは膂力的な意味で自分の手には余る。莉子はドゥリーと今後やっていくのは難しいと判断し、早々にJWUに送り返すことを決めた。
全力疾走を強いられたせいで汗ばんだ肌を撫でていく春の風がひんやりとして心地よい。霞の空に春雲がゆったりと棚引いていた。
◆◆◆
莉子が高校の入学式を翌日に控えた日のことだった。プリムラが作ってくれた昼食のガパオライスを莉子が食べていると、玄関のインターホンが何者かの訪いを告げた。
「プリムラ、出てくれない?」
行儀悪くスプーンを咥えたまま、莉子はもごもごとそう言った。プリムラはもう、と呆れたような顔をすると、食事の手を止める。
「結子といい莉子といい、なんでこう妖精使いが荒いのかしら……」
ぶつぶつと文句を言いながら、プリムラはインターホンモニターのところまで蝶の羽を羽ばたかせて飛んでいった。そしてインターホンモニターの応答ボタンを押すと、プリムラは何やら来訪者と話し込み始めた。
「プリムラー。誰ー?」
この感じは和希が来たわけでもなければ、面倒なセールスマンや宗教勧誘が訪ねてきたわけでもなさそうだ。プリムラは和希だったらさっさと家に上げてしまうし、セールスマンや宗教勧誘なら秒で追い返すことができるプロの主婦だ(と言ったら本人には怒られるのだが)。
プリムラは話に区切りがつき、インターホンモニターを消すと、莉子を振り返った。
「莉子。あんたが頼んでた使い魔の子が来たって」
「使い魔? 私、何頼んでたっけ?」
莉子は首を傾げると、ガパオライスの最後の一口をスプーンで口の中に放り込む。あのねえ、とプリムラは嘆息する。
「そのくらいちゃんと覚えておきなさいよ。莉子の使い魔でしょ」
莉子は口の中に残る辛味とハーブの余韻を楽しみながら、自分の記憶を掘り起こした。一体何を頼んだんだったか。ウェブカタログの「即日派遣可能」のページを開いていた覚えはあるが、眠気に侵食された記憶はひどくおぼろげだ。
「昨日の夜、すぐ手配してもらえそうな子を選んだ覚えはあるけど、眠かったからよく覚えてないんだよね。何だっけ、アリクイとかだっけ?」
「今来てたJWUの職員の人はミツオビアルマジロとか言ってたわよ……。本当はうちの玄関で受け渡ししたかったらしいんだけど、着いた途端に怖がってテラスの下に入っちゃったからあとはよしなにしてくれって」
長々とプリムラが来訪者と話し込んでいたのはそういうことだったのかと莉子は得心する。ごちそうさま、と莉子は食べ終わった後の皿を流しへと持っていきながら、JWUの対応の雑さに対する文句を口にする。
「……それにしてもJWUって、そういうとこ結構いい加減だよね。この前のタツロウのときだって、和希んちに誤配されてたし。今回はちゃんと受け渡ししないで帰るなんて。このサブスクサービスちょっとやばくない?」
「まあそれは否定できないわね。とはいえ、まだこのサービスって今年できたばっかりのやつらしいし、多少の穴は仕方ないんじゃないの? 結子もできたばかりで月々の料金も安くなってたし、面白そうだったから契約してみたって言ってたし」
まあ今後に期待ってことよね、とプリムラは苦笑した。しかし、この調子では将来的に杜撰な運営が改善されるのかは甚だ疑わしいと莉子は思った。
「っていうか、ママの本音ってどう考えても後者だよね……」
莉子は半眼でそう突っ込む。基本的に、何が自分にとって面白いかという基準で生きている結子は、おそらくはその程度の動機でこのサブスクサービスを契約してきたのだろう。自分にはもう永久契約を交わしているプリムラがいるからと、娘の使い魔選びで遊んでいる感がぷんぷんする。「うーん、まあそうね」莉子の話に付き合うのが面倒になったのか、プリムラは適当な相槌を打つと、白いレースのワンピースの裾をはためかせて玄関の方へと飛んでいった。程なくして、玄関のドアが開閉する音が響く。たぶんプリムラはテラスの下に入り込んでしまったというアルマジロの使い魔の様子でも見に行ったのだろう。
莉子は皿とスプーンを盥に入れると、水道の水につけ、汚れを浮かせていく。そして、食器洗い用のピンク色のスポンジを手に取ると、食器用洗剤を数滴垂らして泡立たせた。台所に虹色に光る小さなシャボン玉がふわふわと漂う。
予洗いを済ませた食器を莉子はスポンジで洗うと、水道水で洗剤をすすいでいく。食器から洗剤を洗い流すと、莉子はそれらを水切りラックへと立てかけていった。
濡れた手をタオルで拭うと、莉子はダイニングテーブルに置いていたスマホを手に取った。そして、自分も使い魔の様子を確認するべく、莉子は玄関へと向かい、健康サンダルを引っ掛けて外へ出る。上り框に敷かれた玄関マットの上には、莉子宛の封書が置かれていた。おそらく、この中に今日来た使い魔の共鳴石が入っているのだろう。
「ほら、怖くないからでてきなさい」
莉子が外に出ると、地面へと下りたプリムラがリビングの掃き出し窓から続くヒノキのウッドテラスの下に向かって呼びかけていた。莉子はオフホワイトのフレアスカートの裾が地面に付かないように気を配りながらしゃがみ込むと、テラスの下を覗き込む。
日光の差し込まないテラスの下は昼間でも薄暗い。莉子がスマホのライトでテラスの下を照らすと、黄褐色の球体が奥の方に転がっているのが見えた。「ぴゃっ」いきなり辺りが明るくなったことに驚いたのか、球体から小さな悲鳴が上がった。
「プリムラ、あれ何?」
「あんたの使い魔でしょ。アルマジロだし、怖がって丸くなっちゃったんじゃないの?」
プリムラの言葉にふうん、と莉子は相槌を打つ。そういえばどこかでアルマジロは怯えると丸まるらしいだとか聞いたことがあるような気がする。
プリムラが様子を見に、莉子に先んじて外へ出てからもう既に五分以上が経過している。これでは埒が明かないだろうと思った莉子は一度立ち上がり、庭から玄関ポーチへと戻る。
猫の形をかたどった黒いスチールの傘立てから、先日、カラスの使い魔を捕獲するために物置から出した虫取り網を莉子は引き抜いた。虫取り網を携えて庭に戻ると、莉子はそれをテラスの下へと突っ込む。そして、つんつんと黄褐色の鱗が生えた球体を網の柄の先端でつっついた。
「ぴゃあっっ」
黄褐色の球体は驚いたようにバウンドした。そして、静かになったかと思うと、がたがたと震え出す。「おーい」莉子が再度虫取り網でつっつくと、球体はびくっと体を震わせる。
「ミ、ミツカをいじめないでください……ミツカが何をしたっていうんですかあ……こわいです、帰りたいですう……」
今にも泣き出しそうな哀れな声でそう訴えてくる丸まったアルマジロを前に、莉子は溜息をついた。とんでもなく臆病な子が来たものだ。
「あのねえ、別にいじめてないし、あんただってまだ何もしてないでしょ。ミツカとかいったっけ? 私は清水莉子。私、あんたの手配をJWUに頼んだ魔法使いなんだけど、ここから出てきてくれない?」
「う、嘘ですよう……ミツカのことなんかを必要とする魔法使いなんているわけないんですう。使い魔サブスクのサービスが始まってから、今まで誰もミツカのことなんて見向きもしてくれませんでしたし。きっと、さっきのJWUの職員さんだって、仕事のない穀潰しのミツカに愛想が尽きて、ここに捨てていったに違いないんですう!」
やたらと卑屈なアルマジロの発言に、莉子は苦虫を噛み潰したような顔をした。そして、莉子はどうにかしろと言わんばかりの視線をプリムラへと向ける。
「何であたしなのよ」
「だってプリムラは使い魔としては大先輩でしょ。それにこういうのは同じ使い魔のプリムラがフォローしたほうがよくない?」
「またそんな適当なこと言って……あの子は莉子の使い魔でしょ」
莉子とプリムラがひそひそと言い合っていると、それを聞き咎めたミツカがキーキーと喚き出す。
「そうやってミツカを面倒なものみたいに! ええそうですよ、どうせミツカは面倒な女で、ゴミカスみたいな使い魔ですよう! ミツカは無駄に世界の酸素を消費するだけの出来損ないなんですう!」
誰もそんなこと言ってないじゃん、とあまりにも被害妄想が過ぎるアルマジロに莉子は肩を竦めた。甲高いミツカの声で耳の奥がキーンとする。
莉子の家は魔法使いの家としてある程度地域の理解を得ているとはいえ、これ以上ミツカに騒がれては近所迷惑になってしまいそうだ。彼女の喚き声は結構響く。先日のタツロウの騒ぎで、警察から厳重注意を受けたばかりだというのに、これ以上トラブルを起こすわけにはいかなかった。
「……プリムラ」
莉子が母親の使い魔の名を呼ぶ。彼女は言外にプリムラに行ってどうにかしてこいと告げていた。長年の付き合いでそれを理解したプリムラは、仕方ないわね、と地面へと舞い降りる。そして彼女は小さな華奢な足を動かして、ウッドテラスの下へと入っていった。
莉子はプリムラがミツカを連れて出てくるのを待ち続けたが、待てど暮らせど出てくる様子はない。十分経過したころには莉子はすっかり待つのに飽きて、ウッドテラスでスマホを弄り始めた。莉子は音楽のサブスクアプリを起動させると、暇つぶしに最近SNSで人気の兄弟デュオの曲を聞きながら歌詞を口ずさむ。
プリムラがどうにかミツカを宥めすかしてウッドテラスの下から連れ出せたのは、プリムラがウッドテラスの下に潜って三十分後のことだった。
「莉子」
ミツカを連れて、ウッドテラスの下から出てきたプリムラが疲れた顔で名を呼ぶと、莉子は顔を上げる。あの面倒見の良いプリムラをここまで憔悴させるとは、どうやらミツカはよっぽどの難敵だったようだ。
「プリムラ、お疲れ」
プリムラはこちらに一瞥をくれて軽く頷くと、蝶の羽を羽ばたかせて宙に舞い上がる。彼女はよろよろと墜落しそうになりながらも、リビングの掃き出し窓を開けて家の中へと戻っていった。
莉子はプリムラとミツカのこの三十分間のやりとりなどほぼ聞き流していたが、プリムラの様子から相当大変だったのだろうということが窺えた。この分では自分も彼女には手を焼かされそうだと覚悟を決めると、莉子はミツカと向き合った。
ミツカはもう丸まってこそいなかったが、怯えの色と涙を湛えた黒い目で莉子のことを見上げていた。「よっと」スマホのチェーンストラップを腕に通して、莉子はウッドテラスから下りると、地面から無造作にミツカの体を掴み上げる。
「ぴゃあああっ」
ミツカから悲鳴が漏れたが、そんなことを気にしていてはいつまでも何も進まない。莉子はミツカと目線を合わせると、早々に本題を切り出した。
「ミツカ。共鳴石つけさせてくれない?」
「は……はいぃぃ!? な、何を仰ってるんですかぁっ!?」
ミツカは声を裏返らせて、信じられないとでも言いたげな目で莉子の顔を見た。ミツカは莉子の手の中でがたがたと震えながら、自己肯定感の欠片もない言葉を次々と口にし始める。
「莉子様は本気でミツカを使役するおつもりなのですか? ミツカが言うのもなんですけど、ミツカなんて絶対やめておいたほうがいいですよう。ミツカ、かわいくもかっこよくもないし、魔力量も少ないし、何もできない役立たずだし……」
自分などやめたほうがいいと、涙目で理由を並べ立てるミツカへと莉子は噛んで含めるようにこう言葉をかけた。
「まだ何もしていないうちから、やめておいたほうがいいとかそんなことをミツカ一人で勝手に判断しないでくれる? 私たちが合うかどうかなんてちょっとくらい試してみないとわからなくない?」
「それは……だけど、莉子様は本当にミツカでよいのですか?」
「だから、それを判断するための材料を私にくれって話でしょ」
莉子はミツカを持ったまま、もう一度ウッドテラスの上にのぼると、リビングの掃き出し窓をこつこつと叩きながらプリムラの名を呼ぶ。しばらくすると、キイッという音ともに掃き出し窓が開き、幸せそうに頬をピンク色に染めたプリムラがビールの缶を両手に抱えた状態で姿を現した。プリムラは紫色の目をとろんとさせて、頬を缶に擦り寄せている。見た目は人形のように愛らしい少女のそれなのに、やっていることが完全に中年のおっさんだ。
「はぁぁ……疲れにはやっぱりアルコールが効くわあ……あら、莉子ぉ、どうしたのお?」
微妙に呂律が回っていないプリムラに、莉子は嫌そうに顔をしかめる。薄紅色の可憐な唇から漏れる吐息がやたらとアルコール臭い。おそらく今飲んでいるのは既に一本目ではない。
「うわっ、酒くさっ! プリムラってば昼から飲まないでよね」
先ほど、粘り強く相手をしてくれた妖精の変貌ぶりにミツカも驚いたように目を丸くしていた。
「莉子様……確か、花の妖精というのは花の蜜か果物しか召し上がらないはずなのでは……?」
「プリムラはちょっと特殊なの。うちに長くいるせいで、俗世にまみれちゃったっていうか」
「だって、世の中おいしいものがいっぱいあるじゃなあい? それに、結子ときたら妖精使いが荒くてしょうがないから、飲まなきゃやってらんないわよう」
あーはいはい、と莉子はプリムラの言葉を聴覚の表面で適当に聞き流すと、そんなことより、と用件を告げる。
「プリムラ、共鳴石持ってきてよ。玄関にあった封筒、あの中にどうせ入ってるんでしょ?」
「はいはあい」
妙に陽気な口調で莉子の頼みを了承すると、とプリムラはリビングのマホガニーでできたローテーブルにビールの缶を置く。からんからんと空き缶がテーブルの上で倒れる音がした。しかし、それにも構わず、プリムラはダイニングの方へとふらふらと飛んでいく。
どんっ。ぼとっ。プリムラが何かにぶつかる鈍い音がして、「痛っ……ひゃあっ」悲鳴が聞こえたのを最後に家の中は静寂に包まれた。
「あの……莉子様、今のは……?」
一体何事かと怯えの色を露わにして、ミツカが恐る恐るといったふうにそう聞いてきた。莉子は苦笑する。
「たぶん、壁にでもぶつかって墜落したんでしょ。大丈夫、割とよくあることだから気にしないで。なんかごめんね、あんなのが使い魔の先輩で」
いえ、と何ともいえない顔でミツカは首を横に振る。台所でじゃーっと水音が響く。おそらく酔いを覚ましているのだろうが、見た目に反してやることなすことおっさんくさい。
「まあ、あんなんでも全然使い魔としてやってけてるんだからさ。ミツカもそんなに構えなくていいと思うよ。もうちょっと気楽に行こ、気楽に」
「そういうものでしょうか……」
莉子とミツカがそんな会話をしていると、あんなんとは何よー、と口を尖らせながら、腕にピンク色の共鳴石を二つ抱えたプリムラが戻ってきた。どうやら台所のシンクで水を浴びてきたようで、桃色の髪や白いドレスの裾からぽたぽたと水滴がしたたりおちている。
「別に誰のこととは言ってないじゃん。それよりその共鳴石、早くこっちに渡してよ」
はいはい、とプリムラはジト目で莉子の顔を見ながらも、腕に抱えていたローズクォーツの共鳴石を一つ手渡した。ありがと、と莉子は共鳴石を受け取ると、ミツカに手を出すように促した。
「莉子様……本当に、本当にミツカでいいんですか?」
「ミツカ、何度も同じことを言わせないで。あと、様づけはいらないから。普通に莉子でいいよ」
わかりました、とミツカはためらいがちに頷くと、黄褐色の爪を莉子のほうへと差し出した。
「それでは、よろしくお願いします……莉子」
莉子はよろしく、とローズクォーツのリングをミツカの前足へと嵌める。
「プリムラ、私の分もちょうだい」
莉子がプリムラのほうへと右手の人差し指を向けると、プリムラは手に持っていた共鳴石のリングを莉子の指へとくぐらせた。莉子とミツカの共鳴石が静かな光を放ち始める。本人の自己申告通り、ミツカの魔力量はさほど多くはない。しかし、魔力の質はそう悪いものではなく、安定していた。
「あの……ミツカの魔力、こんなのですけど、本当にいいんですか……?」
申し訳なさそうに尋ねるミツカの黒い目には涙が浮いている。莉子は大丈夫だよ、とにっと笑ってみせる。
「ミツカの魔力、別に悲観するほど悪い感じじゃないよ。それに、魔力量が多すぎて魔力爆発起きちゃうよりよっぽどいいし。
前にママが勝手にドラゴン頼んじゃったことがあったんだけど、魔力量が多すぎて、私じゃ制御しきれなくってさ。魔力爆発起きちゃって、和希んち――隣の家の窓は割れるわ、面倒な保険の申請をする羽目になるわで散々だったよ」
それはそうとさ、と莉子は話題を変える。莉子はアルマジロ――ミツカのことについて知りたかった。
「ミツカってアルマジロなわけでしょ? とりあえずアルマジロって何食べるのか教えてよ。何もあげないってわけにいかないし、かといってプリムラじゃないんだから、ビールとおつまみってわけにもいかないだろうし」
「人を呑んだくれみたいに……普通のごはんだって食べるわよ」
プリムラは莉子を軽く睨みながら、その発言を訂正したが、「別に事実じゃん」莉子はどこ吹く風で受け流した。
「それで、ミツカのごはんでしたよね」
これを聞くと嫌がったり気持ち悪がったりする人も多いんですけど、とミツカは申し訳なさそうに前置きをすると、
「あの、ミツカはアルマジロなのでミミズやコオロギを食べます……」
コオロギって確かゴキブリみたいなやつじゃん、と莉子はそれらしき虫を脳裏に思い浮かべて顔を引き攣らせた。莉子は十代半ばの女子らしく、人並みに虫が不得手だ。
プリムラがリビングのテレビラックに置かれていたタブレットを持って飛んでくる。窓際のフローリングにタブレットを置くと、彼女は小さな手で画面にぺたぺたと触れながら、何かを検索し始めた。
プリムラはしばらくタブレットで何かを調べていたが、とあるウェブページを開くと、タブレットを莉子のほうへと向けてきた。
「莉子、アルマジロのごはんって、必ずしも虫じゃなくても大丈夫みたいよ。ネットで調べてみたら、ドッグフードとかキャットフードでもいいって」
「そうなんだ。ミツカ、そういうのでも大丈夫?」
莉子が聞くと、ミツカはこくんと小さく頷いた。
「ミツカはごはんをいただけるのであれば、莉子のご判断に従うまでですう」
オッケー、と莉子は返事をすると、プリムラへと買い物を頼んだ。
「それじゃあプリムラ、何かよさそうなの見繕ってネットで箱買いしといてよ。支払いはママのカードでよろしく」
わかったわよ、とプリムラは了承すると、ブラウザを閉じて、通販サイトのアプリを起動させる。彼女はミツカの餌をタブレットで見繕いながら莉子へと言った。
「でも、届くまでにたぶん何日か掛かるだろうから、それまでの分はどっかで買ってきてよね」
「はーい。それじゃ、これからホームセンターでも行ってくるかなあ。あっ、今日和希暇かな」
荷物持ちに呼んでやろ、と莉子はスマホの画面をローズクォーツのリングがついた指先でつついて、和希へと通話をかける。その様子を見ながら、プリムラはしみじみと言う。
「……いつものことだけど、和希も可哀想よね」
「プリムラ様、和希様というのは一体どなたなのですか?」
和希が一体誰で、莉子とどんな関係なのかを知らないミツカが莉子の手の中で首を傾げる。ああそうか知らないわよね、とプリムラはミツカへと和希のことを説明してやった。
「隣に住んでる莉子の幼馴染よ。莉子のことが好きみたいで、何かいろいろ付き合わされまくってるの。莉子のほうは特に何も思ってないみたいだから、都合のいい男みたいになっちゃってて可哀想なんだけど」
プリムラとミツカの会話を莉子のスマホのマイクが捉えてしまっていたのか、「都合のいい男って……プリムラ、さすがに俺の認識ひどくない?」憮然とした少年の声がスピーカの向こうから聞こえてきた。
「和希の認識なんてそれで充分でしょ。それじゃまた後で」
莉子はそう言って通話を切ると、掴んだままだったミツカの体をウッドテラスの床板へと下ろす。
「それじゃ私、この後出かけてくるから。ミツカはプリムラと留守番ね。プリムラ、私が出かけてる間にミツカに家のこといろいろ説明しといてよ」
やれやれとプリムラは肩をすくめる。何やかんやといろいろ用事を押し付けてくる辺り、母親が母親なら娘も娘だ。
「まったく、妖精使い荒いところは本当に結子そっくりよね。ミツカ、莉子が無茶なこと言うようなら、あたしに言ってよね」
ほら行くわよ、とプリムラは豪速の先輩風を吹かせながら、ミツカを手招きする。
ミツカはこくんと頷くと、とてとてと四本の足を動かし、窓の桟を乗り越えて家の中へと入っていった。視界からミツカの姿が消えたことで、莉子の共鳴石からすっと光が消える。
莉子も庭履き用の健康サンダルをウッドテラスに脱ぎ捨てると、外出の準備をするため、家の中へと戻っていった。
◆◆◆
先程の電話から一時間後、莉子は和希を伴って近所のショッピングモールに隣接するホームセンターを訪れていた。当然のように和希に買い物かごを持たせて莉子は店内を歩きながら、きょろきょろと辺りを見回す。同じモール内のアパレルショップの類はよく来るが、ホームセンターに関しては勝手がわからない。
「ドッグフードとかキャットフードってどの辺にあるんだろ。ホームセンターってあんまり来ないからよくわかんないんだよね」
和希は天井からぶら下がった番号の札を数えながら、あっち、と突き当りの方を指さした。
「ルディが生きてたころと変わってないなら、たぶんもっと奥の方じゃないかな。突き当たりのペット売ってるところのちょっと手前」
ふうん、と莉子は気のない相槌を打つ。そして、きょろきょろと彷徨わせていた視線を一点に止めると、あっと莉子ははしゃいだ声を上げた。
「和希見て見て、あそこのレジ前のとこ、お菓子安売りしてる! 冬物のチョコレートの大袋のやつ」
お菓子の大袋の山の方に吸い寄せられかけた莉子の若葉色のVネックニットの腕を和希は掴んで引き止める。こんな調子じゃいつまでも目的の売り場にたどり着けない。
「ほら、莉子行くよ。そんなのにいちいち引っかかってたらいつまで経っても用事終わらないから。俺たち、明日入学式なんだから、早く帰って準備とかしたほうがいいだろうしさ」
わかったよ、と少し拗ねたような顔をしながら、莉子は和希の後について店内の奥へと進んでいく。そんな様子の二人を天井からぶら下がった茶色い害虫の姿のぬいぐるみがしらけた目で眺めていた。
清掃用品が陳列された一角を抜けると、にわかにペットフードの扱いが増えてきた。莉子と和希は多種多様な缶詰を吟味していく。
「ドッグフードとかキャットフードってこれ? この缶詰のやつ」
目の前の棚にあった缶詰を手に取り取ると、莉子は和希へとそう聞いた。そうそう、と和希は頷く。
「年齢とか用途でもちょっとずつ違ってるからいろいろ見比べてみよっか」
「一番安いやつじゃだめなの? ミツカがルディみたいに贅沢覚えたら困るし。ルディって気がついたら、ご飯はヨーグルトかけないと食べなくなってたし、水も味のしない野菜スープみたいなのしか飲まなくなってた覚えがあるんだけど」
莉子の指摘に和希はばつが悪そうに、指先で頬を掻く。生前のルディは食に関してはわがまま放題だった。その原因は和希にある。
「あれはちょっと俺がルディを甘やかしすぎたんだよ……。安いご飯あげてたら嫌がるようになっちゃったから、ヨーグルトとかかけてごまかしてたら味をしめちゃってさ……。だから、そうならないためにもミツカには適切なご飯を選んであげたほうがいいと思うな……」
あはは、と遠い目で笑う和希のことは無視して、莉子は売り場のドッグフードの缶詰を見比べていく。一つ上の段にしきりにテレビCMで宣伝されているウェットフードを見つけ、これは? 、と莉子は問うた。
「ああそれ? それ評判いいよ。ほら、これネットの口コミ」
黒のスキニーパンツのポケットからスマホを出すと、和希はぺたぺたと画面をタップし、通販サイトの商品ページを表示させた。そのページには目の前にある商品が表示されており、評価は星四・五と高い。レビューにも好意的な意見が多く見受けられた。
(あれ……まだこいつこんなもの持ってたんだ)
和希のスマホケースの下には、年齢には不似合いなちゃちい造りのストラップがぶら下がっている。そのことに気づいた莉子はわずかに目を見開いた。そのストラップは昔、莉子がまだ幼稚園に通っていたころに作った、アクリル板に和希の誕生花のタンポポを挟んだだけのお粗末なものだった。
(最近、使い魔のことでいろいろ迷惑かけっぱなしだからな……いくら相手が和希だとはいえ、いい加減そろそろ何かお礼しないと)
なにかいい案はないだろうか。莉子は脳内で考えを巡らせる。少なくともこれよりはマシなものにしたい。レジンのストラップじゃ二番煎じだし、サシェを使ったお守りは和希が持つには些か女子っぽすぎる。うーん、と無意識に莉子が唸っていると、どうしたの、と和希は怪訝そうに莉子の顔を覗き込んだ。
「莉子、これはあんまり気に入らない? 何か他の探す?」
その言葉に莉子の思考は現実に引き戻された。今はミツカのご飯のことが先だ。和希へのお礼なんて、はるかに優先度は下だ。
「ううん、なんでもない。これにしとこっか」
莉子はどさどさと何個もドッグフードの缶を和希が持つ灰色の買い物カゴに放り込んだ。「うおっ」ずっしりと缶詰の重みが和希の腕にのしかかる。数日分だけと聞いていたはずなのにやたらと多い缶詰に疑問を覚え、和希はあれ、と首を傾げた。
「……そんなに買うの? プリムラがネットで箱買いしてくれるから、今日買うのはちょっとで言いって話じゃないかった?」
「だって、まとめ買いした方が安くなるってそこの値札のとこに書いてあるし。それに……」
「それに?」
何でもない、と莉子は首を横に振る。せっかく荷物持ちが一緒にいるのだから、買えるだけ買わないと損だという本音は飲み込んでおくことにした。
「さて、ミツカのごはんはもうこれでいいよね? ところで、この後一箇所寄りたいとこあるんだけどいい?」
「いいけど、どこ行くの?」
「手芸屋。ちょっと欲しいものできた」
「了解。だけど、あんまり遅くならないようにしないとね。莉子、この前も手芸屋行ったとき、三時間くらいずっと買い物してたし」
「失礼な。三時間は言いすぎでしょ。せいぜい二時間」
むっとして言い返すと、行くよ、と莉子は踵を返す。やれやれと肩を竦めるとスマホをスキニーパンツのポケットに仕舞い直し、ずっしりと重いかごを持って和希は莉子の春らしい色のニットの背中を追いかけた。
高校進学を控えた春休みのある日の夕方、帰宅した母親の結子から書類の入った茶封筒を手渡され、莉子はそう聞き返した。
「そうよ」
結子は頷くと、上り框でローズブラウンのスエードパンプスを脱ぐ。そして、結子は玄関から台所へ来ると、ダイニングチェアの上にライトグレーのミドルバッグを放り出した。彼女はシンクで蛇口を捻って両手を濡らすと、ハンドソープを泡立て始める。彼女は両手で泡をこねくり回しながら、なんてことはない調子で話を続けていく。
「莉子、この春休みに魔法使いの認定資格を取ったでしょう? もう一人前なんだから、そろそろ使い魔くらいいないと」
それはそうだけど、と言いながらも莉子は戸惑った。結子の言う通りではあるのは間違いないけれど、まだ一人前になったという意識は薄かった。一人前の魔法使いには使い魔がつきものということは理解していたが、まだそれが自身のことだという実感がない。
現代の日本には魔法使いと呼ばれる人々が少数いる。昔の関東大震災や戦争の折に、スパイの嫌疑をかけられて、大勢の魔法使いが殺されてしまったが、今も確かにそう呼ばれる人々は存在している。
少なくなってしまった魔法使いたちの支援のため、戦後に立ち上げられたのが、全日本魔法使い連盟――通称JWUである。現代の日本で生きる魔法使いたちは、この機関により迫害されることなく生きる権利を保証され、その才能を活かして生きるための援助を受けることができる。普段は駅前でひっそりと占いの仕事をしている母親の結子も、時折”凄腕占い師”としてJWUからテレビや雑誌の仕事を斡旋してもらうことで、関西へ単身赴任中の一般人の夫に代わって家計を支えていた。
莉子は代々魔法使いを排出してきた家系――魔法使いの名門・清水家で育った少女だ。兄の樹来や入婿の父親は違うが、母親の結子も祖母の史子も魔法使いである。血は争えないとでもいうのか、幼いころから才覚を示していた莉子自身もこの春休みに、中学校卒業後から受けることができるJWUの認定試験に合格し、一人前の魔法使いとしての資格を手にしていた。
莉子は書類を封筒から出し、ウォールナットのダイニングテーブルの上に広げていく。一枚の紙を手に取ると莉子は怪訝そうに、その紙面に記されていた単語を拾って読み上げた。
「使い魔サブスク……月額九八〇〇円……?」
一体何なんだこれは。莉子は首をひねった。ああそれ、と結子は蛇口の水を止め、手をタオルで拭くと頭の上で疑問符を並べている娘へと向き直る。
「JWUの新サービスよ。今日、ちょうど駅前の支部に行く用事があったから、面白そうだし莉子の名義で契約しといたわ」
あっけらかんとした結子の説明に莉子は更に困惑を深めた。なんでこの人は面白そうだからなどというろくでもない理由で、何の相談もなしに娘の名前で好き勝手してくれているんだ。莉子は小さく溜息をつく。
「契約しといた、って……。それにママ、使い魔のサブスクって一体なんなの?」
音楽や動画サービスのサブスクであれば、莉子自身も使用しているし理解できる。服やバッグのサブスクというのも存在は耳にしたことがあるし、理解ができる範囲ではある。しかし、使い魔のサブスクなどというものは現代っ子かつ、魔法使いの家系に生まれ育った莉子でも聞いたことがなかった。しかし、結子は莉子が何に困惑しているのかわからないように、そのままの意味だけど、とさらりと口にする。
「何って、これは毎月それだけ払えば、好きな使い魔を使い放題、いくらでも取っ替え引っ替えし放題ってサービスよ」
でもママ、と莉子は口ごもる。直近の魔法使い認定試験の勉強に使用したテキストでは、使い魔選びは魔法使いにとって非常に大切なことであり、相性次第では魔法使いの魔法の効果を飛躍的に向上させることができると書かれていた。それに莉子の常識では、使い魔というのはおいそれと乗り換えられるものではない。
「使い魔って一度契約したら一生連れ添わないといけないものなんじゃないの? 使い魔選びは婿選びよりも大事だっておばあちゃんも言ってたし」
莉子が結子とそんな話をしていると、ふわふわとした桃色のミディアムヘアに紫色の目をした妖精の少女が洗濯物の布巾を持って飛んできた。妖精の少女は布巾を片腕に抱き、ちっちっちっと愛らしい顔の前で小さく細い指を振ってみせる。
「莉子、そんなのもう古いってば。現代っ子のくせに、いつまでそんな昭和のカビ臭い価値観のままなわけ?」
妖精の少女――結子の使い魔であるプリムラにそう謗られて、え、と莉子は固まった。そうそう、とプリムラの言葉に結子は訳知り顔で相槌を打つと、言葉を続ける。
「今は何だってサブスクの時代でしょう? 音楽や動画だけじゃなく、服とかバッグとか、化粧品とかコンタクトレンズとか。それで、時流に乗って、JWUもそういったサービスを始めたのよ。若い魔法使いが減り続けている現状をどうにかしよう、ってね」
結子の言う通り、いくら魔法使いの名家の出であっても、魔法使いとして生きる若者は減ってきている。いくらJWUの支援があっても普通の職業についたほうが実入りがいいことや、使い魔の存在を重荷に感じる者が増えてきていることも関係している。古くは卑弥呼や聖徳太子など、この国の歴史を支えてきた者たちは皆一様に魔法使いだ。JWUはそういった人々が歴史の表舞台から姿を消していくことを危惧し、若い魔法使いが少ない現状の改善を試みていた。
「だからって、使い魔なんて魔法使いにとってめちゃくちゃ大事なものをサブスクでってどうなの?」
魔法使いの世界が抱える問題を理解していても、こればかりはどうなのだろうと莉子は疑問を口にする。まったく、と呆れたように白い蝶の羽が生えた少女は肩を竦める。そして、彼女は食器の入ったアンティークのキャビネットの引き出しに布巾をしまい終わると、呆れ顔でふわりと舞い上がった。白いレースのワンピースの裾と甘い花の残り香が宙に揺れる。
「莉子は本当に頭が固いわね。このサービスは今どきの魔法使いが使い魔の存在を重荷に思わないように、ライトにいろいろ試してみたり、必要に応じて最適な使い魔に乗り換えられるようにって始まったものなのよ。必要ないときは解約しちゃえばいいし、逆に取っ替え引っ替えする過程で相性のいい使い魔がいれば、あたしと結子みたいに永久契約してもいいんだし」
永久契約とは、魔法使いと使い魔が双方の血液を各々の体内に取り込んで交わす従来の契約方式であり、これを交わした魔法使いと使い魔はどちらかが死ぬまで連れ添うことを強いられる。
使役する使い魔を一生変えることができないというデメリットはあるが、魔法使いは永久契約を交わすことで、どこにいても使い魔の魔力を引き出すことができ、使い魔への命令を下すことができるようになるのだった。
家事が一段落ついたプリムラは、彼女の小さな体躯に比べるとやたらと大きなおやつのチーズかまぼこを冷蔵庫から出すと、ぺりぺりと慣れたふうに透明なビニールを剥いでいく。そして、彼女はチーズかまぼこに齧り付き、口をもごもごとさせながら説明を続ける。
「それにね、このサービスって、魔法使い側が希望しても、正当な理由があればあたしたち使い魔の側が使役されるのを拒否することができるの。お互いのミスマッチで魔法使いも不幸にならないし、使い魔も不幸にならない、これってwin‐winじゃない?」
「……プリムラ、やけに詳しいね?」
莉子は呆れ半分、感心半分に母親の使い魔を見やる。プリムラは口の中のチーズかまぼこを飲み下すと、レースのワンピースの平たい胸をどやっと張ってみせる。
「だって、使い魔の労働問題はあたしの一番の関心事だもん。三十年くらい前にこういうサービスがあったら、あたし、絶対結子なんかと契約しなかったのに」
なんかって何よー、といつの間にか麦茶を持ってリビングのソファに移動していた結子の声が飛んでくる。本来の使い魔の役割とは違うことでこき使われているプリムラの日々の暮らしぶりを知っている莉子は、あははと乾いた笑い声を立てることしかできなかった。
使い魔の役割は己の魔力を提供し、魔法使いの術の威力を増幅させること――魔法使いが本来よりも高いポテンシャルで術を行使できるように手助けすることだ。
結子は高校生のころにプリムラと永久契約を交わしたが、元々高い魔力を持つ彼女がプリムラに力を借りなければならないことはあまりない。唯一結子がプリムラを本来の役割で使役するのは、皇室の神事のために呼び出されるときくらいだ。
そのため、プリムラは普段はあまり本来の使い魔としての仕事はほとんどしておらず、代わりに結子によって家事全般を押し付けられていた。そのため、プリムラは炊事に洗濯に掃除、買い物に至るまで、その辺の主婦と同等以上にこなすことができる。家計の管理能力に至っては結子以上だし、莉子も幼いころは仕事で忙しい結子の代わりにプリムラに面倒を見てもらったり、遊んでもらったりしていた。最早プリムラの存在なしでは清水家は回らないと言っても過言ではない。
プリムラはチーズかまぼこを食べながら、ぶつぶつと結子への日頃の文句を呟いている。それを聴覚の表面で聞き流しながら、莉子はダイニングテーブルの上に広げた書類に視線を滑らせていく。そして、莉子はQRコードが印刷された一枚の紙に目を止めると、何これと呟いた。
「面倒なアプリ登録は一切なし……、このQRコードからアクセスですぐにご利用いただけます……?」
チーズかまぼこを食べ終わったプリムラはゴミ箱に外装のビニールを捨てると、テーブルの上へと降り立った。プリムラはどれどれと莉子の手元の書類を覗き込む。
「ウェブカタログだって。莉子、見てみたら?」
ほら、とプリムラはテーブルの上に広げられた大量の書類の山からごそごそとIDと初期パスワードらしきものが書かれた紙を発掘してくると莉子へと渡した。莉子はプリムラから紙を受け取ると、ギンガムチェックのパンツのポケットからスミレの押し花で作られたケースに嵌まったスマホを取り出す。「莉子、これよ」プリムラに促されるままに莉子はスマホを操作して、カメラアプリのリーダー画面を開くと、プリムラが指で指し示しているQRコードを読み込ませた。
スマホの画面にログイン画面らしきものが表示されると、莉子はプリムラに渡された紙に書かれている内容を指で入力していった。画面の表示が切り替わり、様々な生き物の写真が掲載されたページが画面に映し出される。
カタログ画面にはプリムラのような魔法生物から、犬や猫のような愛玩動物、果てにはミジンコと多岐にわたる生き物の写真が並んでいた。へえ、と莉子は声を漏らす。それにしても、サイトの構造や使い魔たちの写真のアングルが何かに酷似しているような。使い魔たちの口元にはなぜかハートのスタンプが押されているし、カタログ画面も「派遣可能」「即日派遣可能」「写メ日記」「口コミ一覧」「動画から探す」「紹介動画」などといったどこかで見たような構造になっている。というか今の時代に写メって。平成の途中に取り残されてしまったガラケー世代のおじさんたちの感性をサイトの端々から感じる。
(あ……これ、お兄ちゃんがよくタブレットで見てるデリヘルのサイトにそっくりなんだ……なんでJWUはこんなサイトの造りにしちゃったんだ……)
軟派で女好きでろくでなしの兄を持ったせいで、妙な類似性に気づいてしまった自分に莉子は心底げんなりとする。というか、絶対JWUのシステム担当者は風俗を普段から愛用している変態おじさんに違いない。はぁぁぁぁと莉子は長い溜息をつくと、スマホの画面を上から下へと繰りながら、それにしてもと呟いた。
「随分色々いるんだね……私、使い魔ってみんなプリムラみたいなのばっかりかと思ってた。それかおばあちゃんのとこにいるノーチェみたいな黒猫とか。あとは昔のアニメ映画だとカラスが使役されてたりしたよね」
そんなのばっかりなわけないでしょ、とプリムラは呆れた顔をする。魔法使いとして一流の家系で育ってしまった莉子にとって馴染みがないだけで、高位から下位にわたって使い魔にも様々な種類が存在しており、得意不得意も種によって大きく異なる。
「魔法使いにだって色々いるんだから、使い魔にだって色々いるに決まってるでしょ。それにあたしみたいなのは珍しいんだからね」
プリムラの言葉に莉子は確かに、と頷いた。プリムラのように家事の得意な使い魔が珍しいのはさることながら、こんなに世俗にまみれてしまった嗜好の花の妖精は世の中を探しても彼女くらいのものだろう。
「言われてみれば、ビールとあたりめが好きな花の妖精は珍しいかも。花の妖精が好きなのって普通は果物とか花の蜜だもんね」
莉子が納得したように言うと、プリムラは不満げにぷくうっと頬を愛らしく膨らませる。そうじゃなくて! とプリムラは声を荒らげる。
「あのねえ、莉子は普段から一緒に暮らしているせいでありがたみがわかっていないかもしれないけど! あたし、これでもそこそこ高位の使い魔だから結構希少なの!」
「ああ……」
言われてみればそうだったと莉子はプリムラの言い分に納得する。本来、プリムラは家事なんかをさせておくにはもったいないほどの階級の使い魔だ。普段、結子がこうやってプリムラを無駄遣いしているのが当たり前になりすぎていて、莉子は本人に言われるまで完全に忘れていた。
使い魔には階級のようなものがある。魔法使いに供給できる魔力量は、使い魔の階級に比例する。使い魔の階級が高くなればなるほど魔力の制御が難しくなるため、プリムラのような階級の高い使い魔を使役するには、魔法使い側にも相応の魔力が要求される。
莉子は結子ほどではないとはいえ、弱冠十五歳にして平均以上の魔力と制御能力を持つ優秀な魔法使いだ。そのことを中学を卒業してすぐに魔法使い認定試験に合格したという事実が裏打ちしている。おそらくは一部の超高位な使い魔を除けば、使い魔などいくらでも選びたい放題の身分である。しかし、その選択肢の多さがかえって莉子を悩ませていた。
「それにしても、使い魔かあ……私にはどんな子が合うんだろう……?」
「それを探る意味でも色々試してみたらいいんじゃない? そのためのサブスクでしょ?」
「それは、まあ……そうなんだけど……」
正論を述べるプリムラに莉子は相槌を打つ。それはそうと、とプリムラは舞い上がると左手を華奢な腰に当てがった。細くて小さな右手の人差し指を莉子の鼻先に突きつけると、
「いい、莉子? これから使い魔と付き合っていく上で大事なことを言うわ。これは永久契約を交わすかどうかに関わらず、とても大事なことよ。
まず、明らかに自分と釣り合わなさそうな相手を無理に使役しようとしないこと。莉子は魔力爆発ってわかるわよね?」
うん、と莉子は頷く。魔力爆発については、ついこの前まで勉強していた認定試験のテキストで読んだ覚えがある。
「使い魔の魔力があまりに多すぎて、制御が効かずに大量の魔力が魔法使いの体内に流れ込んできちゃうことで起きるんだよね?」
よろしい、とプリムラは莉子の教科書通りの回答に満足げな表情を浮かべる。そして彼女は莉子のために補足を口にした。
「魔法使いの許容量を超えて使い魔の魔力が取り込まれてしまうと、受け止めきれなくなった魔力が体内から放出されて、意図しない現象を引き起こしてしまうの。時にはこれが原因で山崩れや大津波が起きるような大事故に発展する場合があるから注意が必要よ。まあ、莉子は結子に似て、魔力の許容量は多いほうだからそうそうそんなことは起きないと思うけどね」
自身の魔力の量と、体内に受け入れられる魔力の量は異なる。イメージとしては、体内に魔力を蓄えるためのタンクがあり、そのタンクには自身の魔力と使い魔から供給された魔力が蓄えられるようになっている感じだ。莉子自身の魔力量自体は平均より少し上ぐらいだが、彼女の持つ魔力のタンクは魔法使いとしては大きい方であるため、足りない魔力を使い魔に供給してもらえさえすれば、更なるポテンシャルを発揮できる可能性を秘めていた。
そして二つ目、とプリムラは華奢な指をもう一本立てると話を続ける。
「凶魔化に気をつけること。使い魔って皆が皆、あたしみたいに自分のコンディションをしっかり管理できるわけじゃないの。あたしみたいにしっかり自分で息抜きができる個体はいいけど、そうじゃない子は何らかの原因で心身が限界になった結果、自我を失って暴走することがあるのよ。まあ、ストレスから己を守るためのある種の逃避行動ね」
「凶魔化中に使い魔が撒き散らす魔力って、確か私たち魔法使いにとっては毒なんだよね? それに凶魔化中に魔力を失いすぎると、最悪、使い魔が死んじゃう場合だってあったはず」
凶魔化した使い魔の魔力は汚染されており、体内に取り込んでしまうと、使役者の体調に異変を及ぼす可能性がある。また、それだけでなく、魔力が生命力と直結している使い魔たちが凶魔化して魔力を垂れ流し続けると、死に至ることもあり得た。そんなことを引き起こさないようにするには、魔法使いと使い魔が日頃からしっかりとコミュニケーションを取り、使い魔に過度な負担がかからないようにきっちり管理する必要がある。
わかっているならいいわ、と安心したようにプリムラは微笑むと、もう一言だけ注意事項を付け足した。
「そんなふうにして使い魔を失うのは魔法使いの恥――その無能さの証のようなものだっていうことも、莉子は言うまでもなくわかってるわね? というか、こういうのは本当はあたしじゃなく、結子が話すべきなんだけど、今はあっちでテレビにご執心みたいだから」
プリムラが肩をすくめると、「何か言ったー?」刑事ドラマの再放送から目を離さないまま、リビングから結子が間延びした声をよこした。プリムラはぷりぷりとしながら、ソファで麦茶を飲みながらクライマックスに差し掛かった刑事ドラマを凝視している結子へと怒鳴り返した。
「母親なら娘の教育くらい自分でしなさいって言ったのよ!」
しかし、結子の関心は連続殺人犯の正体に向けられたままで、プリムラの声など聞こえていないようだった。ああもう、とぼやくとプリムラは冷蔵庫から二本目のチーズかまぼこを持ってきて、フィルムを剥がし始める。プリムラは日々のあれこれを食欲にぶつけることで、凶魔化しないように自分でストレスを管理しているのだろう。そんなことを思いながら、莉子は椅子から立ち上がって水切りラックからグラスを取り、冷蔵庫の麦茶を注ぐ。
莉子が麦茶を飲みながら使い魔サブスクのウェブカタログを流し見していると、しばらくして、主人公の決め台詞とともに主題歌が流れ出したタイミングで、再びリビングから結子の声が飛んできた。
「あ、そうそう莉子ー」
「どうしたの、ママ」
話を振ってきたのは結子のほうだというのに、何だったかしらと彼女はテレビのリモコンを手に首を傾げた。結子がチャンネルを回すと、テレビショッピングの声が聞こえだした。男の声が淀みのない巧みな話術で布団圧縮機を宣伝しているのをちらちらと見ながら、結子はまあいいわとかぶりを振った。
「何か莉子に言っておくことがあったはずなんだけど……思い出したら言うわ」
わかった、と莉子は頷くとスマホをパンツのポケットにしまった。結子の興味は今や完全にテレビショッピングの布団圧縮機に移っている。
「それよりもこの布団圧縮機ってプリムラでも使えるのかしら? そろそろ冬物の服とか布団とか片付けないといけないんだけど」
「結子はなんで何でもかんでもあたしにやらせようとするのよ……たまには自分でやったらどうなのよ? あと、言っとくけど、今月の家計でそんなもの買ってる余裕はないわよ。莉子の入学金とか、樹来と莉子の授業料とか払ったばっかりなんだから。年度末は何かとお金がかかるんだから、節約するかもっとメディアの仕事増やして稼いでくるなりしなさいよね」
ここぞとばかりに小言を並び立ててくるプリムラに、えーと結子は不服そうに返事をする。莉子はそれを横目にグラスの中の麦茶を飲み干すとシンクに持っていき、ダイニングテーブルに広げていた書類を封筒の中にしまい直していった。
「ママ、使い魔のことはもうちょっと考えてみるね」
「考えるのはいいけど、春休みのうちには決めるのよー」
はいはい、と莉子は結子の言葉を聞き流しながら適当に返事をする。そして、彼女は書類の詰まった分厚い茶封筒を抱えて、自室のある二階へと階段を上っていった。
◆◆◆
その日の夜、莉子は自室でベージュのチェック柄のハンカチを手に針を動かしていた。机の上には庭にある結子の花壇から摘んできた一輪の赤いアネモネの花があった。これは花の妖精であるプリムラに良さそうなものを目利きしてもらったものだ。
机の上においた花を参考に赤い糸でハンカチに模様を刻みながら、莉子は考え事をしていた。机の端には使い魔サブスクに関する書類が詰まった茶封筒が無造作に置かれている。
(サブスクサービス、ねえ……)
莉子は針を動かし、布の上でサテンステッチを繰り返しながら、どうしたものだろうか、と思う。
(いくら気軽に考えていいって言われたってさ……使役するなら使役するでやっぱり責任って発生するわけじゃない? 魔法使いなら使役する以上、その子の生涯に責任を持ってあげる必要があるわけでしょ?)
昔と今では魔法使いと使い魔の関係性は変化しつつあるらしいとはいえ、魔法使いにとって使い魔が大事な相棒であるということに変わりはない。そう考えると、莉子としてはどうしても使い魔選びには慎重にならざるを得なかった。少なくともウェブカタログで見かけた使い魔を適当に派遣してもらうような真似は自分にはできそうにない。
それに、生まれたときから常に結子の使い魔であるプリムラがいる環境で育ってきた莉子には、使い魔がころころ変わるというのがどうにも想像しにくかった。莉子にとっての魔法使いと使い魔の関係というのは、結子とプリムラのようにこれまでもこれからもずっと一緒に生きていくものだという先入観がどうしても拭えなかった。プリムラには価値観が古臭いと言われてしまいそうだけれど、莉子にとって、使い魔とはそういう存在だった。
「痛っ」
考えごとに気を取られていた莉子は、指先に走った鋭い痛みに声を上げた。うっかり針で指を刺してしまったようで、指先に血が滲んでいる。あーあ、と莉子は机にハンカチと針を置くと肩を落とす。
このように気もそぞろでは、今夜は趣味の刺繍もあまり捗りそうにはない。アネモネの花びらはまだ半分ほどしかできていないが、今夜はこのくらいにしておいたほうがよさそうだ。莉子は布を汚さないように針を抜いて、作りかけの作品を裁縫箱の中に片付けていく。そして、莉子は机の引き出しからリボン柄がおしゃれなローズブラウンのポーチを取り出して、絆創膏を指に巻いた。
絆創膏のゴミをゴミ箱に捨てようとした莉子の視界に不意に使い魔サブスクの封筒が映った。莉子はなんとはなしに机の上に封筒の中身を広げる。春休み中には決めると結子に言ってしまった手前、使い魔のことを考えないわけにはいかない。いつまでも先延ばしにしておける問題ではなかった。
契約内容やら利用説明がまとめられた冊子を莉子は絆創膏を巻いた指でぺらぺらと繰っていく。約款やら何やらがつらつらと綴られた無駄に難しい文章のほとんどが意味もわからぬまま莉子の脳を素通りしていった。
何もかもが頭に入ってこない。まだ二十二時過ぎと、寝るには少し早い時間だったが、今日はもう寝てしまったほうが良さそうだった。
(ああもう……全部明日でいいや。刺繍も使い魔サブスクも。全部めんどくさくなってきた)
何の解決にもならないことを承知で莉子は何もかもを明日に先送りにすることを決め、椅子から立ち上がる。いつも寝る前に飲んでいるチャイでも淹れようと、散らかった机の上はそのままに莉子は部屋を出ていった。カーテンの閉じられた窓の外では、藍色の夜空から朧な春星が柔らかな光を地上へと降らせていた。
◆◆◆
翌朝、冴え返った寒さで莉子はベッドから出られずにいた。カーテン越しに差し込んでくる日差しはいかにも春和景明といったふうではあったが、何となく肌寒くて布団の温かさが恋しくて離れがたい。
夢と現の狭間で行ったり来たりを繰り返していた莉子は、意識の隅でスマホの着信音を聞いた気がして、意識をこちら側へと引き戻した。眠気にどうにか抗いながら目をこすってスマホの画面を確認すると、浅野和希と発信者名が表示されていた。
(……もう、何なの面倒くさいなあ……。和希のくせに私のことを叩き起こすなんて、どうでもいい用だったらどうしてやろうか)
ふあああと欠伸を噛み殺しながら、莉子は画面に表示された緑色の受話器のアイコンをタップし、通話に応答する。
「もしもし、和希ぃ? こんな朝っぱらから何の用?」
「朝っぱら、ってもう十一時なんだけど……。そんな生活しててプリムラに怒られない?」
莉子のいかにも眠そうな低い声に、幼馴染の少年がスマホの向こう側で苦笑するのが聞こえた。何よ、と莉子は叩き起こされた不機嫌さで口を尖らせる。
「……用がないなら切るよ」
険のある口調でそう言うと、莉子は赤い受話器のアイコンへ指を伸ばし、強制的に通話を終了させようとする。それを感じ取ったのか、ちょっと待ってってば、と慌てたように和希は莉子を引き止める。
「莉子、何かうちの庭にドラゴンみたいなのがいるんだけど、心当たりない?」
ドラゴン? と聞き返すと、莉子は眉をひそめた。
(ドラゴン、ねえ……)
莉子自身に心当たりはないが、そんな魔法生物に関与しうるのは魔法使いである自分たち清水家の人間――結子か莉子以外にあり得ない。どうやら我が家が原因で面倒なことが起きているようだと思いながら、莉子はベッドから体を起こす。花冷えの寒さがパジャマの裾から覗く素足を刺した。
「ちょっと外見てみてよ。何かゲームのボスみたいなでっかい黒いやつがうちの庭にいるんだ」
和希に促され、莉子は白地に黄色い花が散りばめられたカーテンを開いて窓の外を見る。春雲の流れる円清の下、隣の浅野家の庭には確かにドラゴンと思しき黒い巨体が鎮座していた。
(何だろう……ママがなんかしたのかな……? 私には何も思い当たることはないし……)
莉子は隣家の家の屋根よりも頭一つ分大きな黒いドラゴンを眺めながら、うーん、と唸った。何か知らないかママに電話してみようか。今日は再来月号のファッション誌の占いページの取材があるとか言っていた気がするが、運が良ければ電話が繋がるはずだ。
そのとき、コンコンと部屋の外から軽くドアがノックされた。莉子が返事をするよりも早く部屋のドアが開き、白いレースのドレスの上から小花柄のフリルエプロンをした妖精の少女が部屋に入ってきた。
「あれ、プリムラ? ちょうどよかった、聞きたいことが」
あるんだけど、と言いかけた莉子の言葉を遮り、プリムラは一気にこう捲し立てた。
「莉子! よかった、起きてたみたいね。莉子宛てのドラゴンが間違ってお隣に届いちゃったみたいだから、すぐ行ってきてちょうだい!」
「は? 私宛て? 全然心当たりないんだけど、どういうこと? プリムラ、説明してよ。和希、プリムラがドラゴンについて何か知ってるみたい」
莉子は戸惑いながら、スマホをスピーカーモードに切り替えて、プリムラにも話が聞こえるようにしてやる。プリムラは莉子の右肩の上にちょこんと座ると、今起きている自体について説明し始めた。
「ごめんね、和希。ドラゴンのことなんだけど、結子が莉子のために使い魔サブスクで頼んだやつが間違って届いちゃったみたい」
「莉子のお母さんが? それに使い魔サブスクってなんのこと? プリムラ、話が見えないんだけど」
魔法使いではない和希には話が理解できなかったらしく、スマホのスピーカーから困惑したような少年の声が返ってくる。プリムラは今しがたの説明を和希にも伝わるように噛み砕き直す。
「JWUっていう魔法使いのための組織があるんだけど、そこが昨今の時流に乗って使い魔のサブスクサービスを始めたのよ。それで、結子が言うには、昨日JWUで使い魔サブスクの契約をしたときにたまたまドラゴンに空きがあるって聞いて、面白半分で手配してもらっちゃったらしいの。たぶん、和希の家の庭にいるドラゴンはうちと間違って届いちゃったんだと思うわ」
「はあっ!?」
プリムラの口から語られた後半の言葉に莉子の声が思わず高くなる。莉子は額に手を当てるとがっくりと項垂れた。
「ああもうっ……! なんであの人はそういうことするかなあ……。ていうか、何でママはそういう大事なことを昨日のうちに教えておいてくれなかったわけ!?」
莉子が喚くと、プリムラは気の毒そうな色を紫の双眸に浮かべてこう言った。
「忘れてたって言ってたわよ」
「……」
あまりのことに莉子は言葉を失って黙り込む。そして、結子が昨日の夕方何か言いかけて思い出せずじまいだった話はこのことだったのかと莉子は遅まきながら理解した。電話の向こう側から、幼馴染の少年が苦笑する声が聞こえる。そういうわけだから、とプリムラはスマホへと向き直ると、この後の話を進めようとする。
「和希、これから莉子を行かせるわ。すぐそのドラゴンはこっちで引き取るから」
「やだよ、何で私なの? プリムラ行ってきてよ」
むすっとしながら、莉子は不機嫌にプリムラの言葉を遮って畳み掛ける。寝ているところを起こされた上に、結子の尻拭いをさせられるなんて冗談じゃなかった。
苛立ちに任せ、莉子は窓ガラスと網戸を開ける。「えっ、ちょっと何っ!」プリムラの抗議の声など聞こえないふりをして、莉子は肩の上のプリムラの胴を乱暴に掴んだ。
「ちょっと! 莉子ってば何するのよう!」
細い手足をばたばたとして暴れる妖精の少女を莉子はぽいっと外へと放り出し、ピシャリと窓を閉めた。締め出される形となったプリムラは、何やらしばらく騒いでいたが、やがて諦めたように白い蝶の羽を羽ばたかせて、隣家のほうへと飛んでいった。
「……莉子、何したの?」
おずおずと尋ねてくる和希の声に、ふんと莉子は鼻を鳴らした。
「別に。とにかくドラゴンなんて私は知らないし、その件についてはこれからプリムラがそっち行くから」
じゃあね、と一方的に通話を切ると、莉子は仰向けにベッドに倒れ込んだ。手に持ったままのスマホで、SNSのアプリを起動すると目を通していく。SNS上では莉子の中学時代の友人たちが、どこそこに行っただの、何を食べただの、今日のコーデがどうだのといったことを発信していた。ふうん、と半ば無関心に莉子はそれらの内容に目を通し、機械的にいいねをつけていった。
綺麗に加工された他人の日常を眺め終わると、今度はログインボーナスをゲットするべく、ソシャゲのアプリを起動した。ログインボーナスでガチャチケットをゲットすると、そのままいつもの流れでデイリークエストを一通り黙々とこなしていく。
毎朝のルーティンをすべてこなし終えるころには、莉子の頭は冷えていた。自分がやったわけではないとはいえ仕方ない、と諦めて莉子は再びベッドから起き上がる。ドラゴンをどうするかはともかくとして、着替えて一応様子を見に行こう。結子に文句を言うのも、誤配をしたJWUにクレームをいれるのもその後だ。
もそもそと白とベージュのボーダー柄のパジャマを脱ぐと、莉子はクローゼットを開ける。クローゼットの中身を吟味し、この春に買ったばかりのブルーのストライプのシャツワンピースとホワイトタックパンツを取り出すと、莉子は着替え始めた。
◆◆◆
不意に吹き過ぎていった和風が肌寒くて莉子は首を縮こめた。何かアウターを羽織ってくるべきだったかと少し後悔しながらも、莉子は玄関の扉に鍵を掛けると門扉に手をかける。
莉子は普段プリムラが世話をしている、色とりどりのチューリップが咲き誇る花壇に一瞥をくれると家の敷地から出る。そして、彼女は徒歩数秒の隣の浅野家の庭へと赴いた。
「……お待たせ。さっき電話もらったから、一応来た」
莉子が声を掛けると、巨大なドラゴンを前に何やら話をしていた青いチェックシャツの上にGジャンを羽織った少年と全長三十センチほどの妖精の少女が彼女を見た。「莉子、おはよう。良かった、来てくれて」清潔感のあるスマートマッシュの少年――和希は柔らかく口元を綻ばせた。一方のプリムラは莉子の姿を認めると、細い腰に両手を当て、呆れたようにため息をつく。
「まったくもう、やっと来たわね。莉子ってば何してたのよ」
「……別に。それで、そいつが和希の言ってたドラゴン?」
莉子の問いにうん、と和希は頷いた。和希は目の前のドラゴンを手で示すと、事情を説明し始める。
「今朝、庭でどーんって音がして目が覚めたんだ。朝なのに外がやけに暗いなと思って、庭を見たらこいつがいてさ」
マジでびっくりしたよ、と言う和希に莉子は少なからず申し訳なさを覚える。確かに寝起きにこんなものが自分の家の庭にいたら驚くだろう。莉子は謝罪の言葉を口にした。
「ごめん、和希。ママが全面的に悪いとはいえ、迷惑かけて。……それにしても、JWUも結構やること杜撰だよね。今回はまだうちと関わりのある和希んちだったからよかったけど、普通の家の庭にこんなのいきなり現れたら大騒ぎになるでしょうが。後で絶対クレーム入れてやる」
「……そうね」
苦々しげにプリムラは莉子の言葉に同意を示す。二人のやり取りを見ていた和希は「……そういえば」何かを思い出したように、縁側に置いてあった封筒を持ってきた。
「うちの郵便受けにこんなのも入ってたよ。莉子宛てみたい」
和希はA5サイズの封筒を莉子へと手渡した。封筒の表には「清水莉子様」と明朝体で印字されている。
受け取った封筒の中身を莉子が確認すると、何枚かの書類と黒い石でできたリングが二つ入っていた。リング二つを莉子は手のひらの上に出すと、まじまじとそれを見つめる。
「これ、何?」
莉子が疑問を口にすると、プリムラが蝶の羽を羽ばたかせて彼女の肩口へと飛んできて、手元のリングを覗き込んだ。ああこれね、とプリムラは訳知り顔で独りごちるとこう言った。
「それ、共鳴石ってやつじゃない?」
共鳴石? 、と耳慣れない単語に莉子は思わず聞き返した。そう、とプリムラは頷くと、知っている知識を披露する。
「永久契約を交わさずに使い魔を使役するのに必要ってらしいって聞いたことがあるわ。これで魔法使いと使い魔、互いの魔力を接続させて制御を図るとか何だとか。実物を見るのはあたしも初めてだし、それ以上のことは知らないわ。そっちの紙に詳しいことは書いてあるんじゃない?」
読んでみなさいよ、とプリムラに促され、莉子はがさがさと書類を開く。紙面に印刷された文字を視線でなぞっていくにつれて、莉子の眉間の皺が深くなっていった。難解な文面にうんうん唸りながら、どうにか莉子は要点を理解していく。
「うーんと、よくわからないけど、これを私とこいつにつければいいわけ?」
細かい部分をかなり端折った理解をした莉子にプリムラは嘆息する。彼女は莉子の手元の書類の内容を確認すると、肩を竦める。
「まあ、合ってはいるけど……ちょっと理解が雑すぎない? よくそんなんで高校受験大丈夫だったわね……」
「国語苦手だから完全に捨てて、その分理科と社会で点数稼いだもん。それでちゃんと進学決まったんだから別にいいでしょ」
「あんた、そんなんだと大人になったとき苦労するわよ……」
頭が痛いとでも言わんばかりにこめかみを押さえながらプリムラは言う。二人のやりとりを和希は苦笑いしながら見ていた。
莉子は国語が苦手だ。とりわけ契約書類などに書かれているような小難しい文章を読むのが苦手で、目で文字を追っているとだんだんと眠くなってくる。昨日結子から渡された使い魔サブスクの書類もざっくりと斜め読みはしたものの、さほど内容を理解してはいなかった。
(そういえば……)
共鳴石の詳しい説明のような瑣末事よりも、莉子はこのドラゴンが自分に御しきれるかということの方が気になった。このドラゴンは家より多少大きい程度で、さほど大型な方ではないとはいえども超高位に分類される使い魔であることには違いない。しかし、莉子の魔力の許容量であれば大抵の使い魔相手では魔力爆発を起こすことはないだろうと、昨日プリムラが太鼓判を押していたのを思い出して、まあ大丈夫だろうと莉子は思い直した。
「さて、そこのドラゴンさん? ちょっといい?」
莉子は黒いドラゴンの前に立ち、腰に手を当てると臆することなくそう言い放った。「ドラゴンって……さっきの書類に名前書いてあったじゃない……」何か言いたげにプリムラが莉子を見たが、莉子は気づかないふりをする。
下萌の地面を這うミミズをむしゃむしゃと食べていたドラゴンは、莉子の声に反応してむくりと頭を上げた。黒い鱗に包まれた長い首が天へと向かって伸び、屋根の棟木の高さにある金の目と莉子の視線が交錯する。ふむ、とドラゴンは莉子の姿を認めると金の目を細める。
「お前がワシの主人になるという莉子殿か。ワシはタツロウという。以後、見知りおき願おう」
どことなく偉そうな口調で名乗ったタツロウに、莉子はどうも、とそっけない挨拶を返す。ドラゴンと対等に言葉を交わす莉子を和希は興味深そうに見ていた。その姿はあくまで自然体で余裕があって、和希の目には何だか格好良く映った。
「プリムラ……莉子って何かすごいね。あんな大きくて強そうなドラゴンにあんなふうに口を利くなんて」
「魔法使いなんて皆あんなものよ。最初からあんまりおどおどしてると使い魔にナメられるからね」
魔法使いが使い魔にナメられたら終わりよ、とプリムラは言う。そういうものなのか、と思いながら和希は一人と一匹のやりとりを見守り続ける。莉子は淡々とした調子を崩すことなく、本題へと切り込んでいく。
「タツロウ。単刀直入に言うんだけど、どれでもいいから手を出してもらえる? 私があんたを使役するにはこの共鳴石とやらをつけないといけないみたいなの」
応、と返事をするとタツロウは右前足を莉子のほうへと差し出した。莉子は巨大すぎる爪にそっとオニキスでできたリングを嵌める。莉子も自身の右手の人差し指に、タツロウにつけたのと同じリングをくぐらせた。
途端に双方のリングが激しくばちばちと発光し始める。二つのリングを繋ぐように激しい光を放つ魔力の帯が出現すると、莉子は体内に大きな力の奔流が急激に流れ込んでくるのを感じた。
「えっ、ちょっ、待って、何これ」
莉子は焦りで声を上げた。明らかに自分で制御しきれない量の魔力がタツロウから流れ込んできている。体内で多すぎる魔力が行き場をなくして暴れている。タツロウの魔力が莉子の魔力の許容量を超えているのだ。
「ねえ、プリムラ。あれ大丈夫なの?」
静電気のように全身に帯びた魔力がちかちかと明滅している莉子の姿に、和希はそばを漂っているプリムラへと尋ねた。まずいわね、とプリムラは人形のように愛らしい顔を曇らせる。そのとき、莉子の悲鳴が響いた。
「うっ、うわあああああ!」
「和希! 危ないからなるべく離れて! 何が起こるかわからないわ!」
プリムラは莉子の悲鳴を受け、咄嗟に和希へと向けて警告を発する。そして、彼女自身も降りかかる危険へと備え、白い蝶の羽を羽ばたかせて雲雀東風の吹く空へと舞い上がった。
刹那、莉子の全身を伝って、受け止められなくなったタツロウの魔力が大放出された。ビリビリと空を引き裂くように紫電が走る。ふっと、空が暗くなったかと思うと、莉子の体を中心としてドーン、と大爆発が起きた。一瞬、視界が真っ白になる程の光が辺り一面を覆った。
みしみしという嫌な音がして、浅野家の大きな掃き出し窓へとクモの巣状の亀裂が走る。パリンという音とともに窓ガラスが砕け散り、地面へと降り注いだ。
しばらくして空が晴れ、場に静寂が戻ると、プリムラは莉子のそばへと舞い降りた。彼女は二人へと声をかけ、安否を確認する。
「莉子。和希も大丈夫?」
大丈夫、と莉子は地面に座り込んだ。全身が脱力感と疲労感に覆われ、立っていられなかった。せっかくの買ったばかりの服も、今しがたの爆発に巻き込まれてずたぼろだ。
「プリムラ、今のは何だったの?」
まだ何か起こるんじゃないかと警戒しながら、和希はたった今起きたことに対する説明を請うた。これはね、とプリムラは和希のために、何が起きたのかを話し始める。
「魔力爆発って言って、莉子が受け止めきれなかったタツロウの魔力が引き起こしたものよ。魔法使いの体内には魔力を蓄えるタンクみたいなものがあるんだけれど、今のは共鳴石を通じて莉子に流れ込んだタツロウの魔力がタンクの許容量を超えて溢れ出してしまったの。莉子ならドラゴンクラス相手でもぎりぎりどうにかなるんじゃないかってあたしも思ってたんだけど、ちょっと読みが甘かったみたいね」
「つまり、莉子にはタツロウの魔力が多すぎて、こういうことになったってこと?」
和希がプリムラの説明を要約すると、大体そんな感じね、と彼女はは同意を示した。プリムラは爆発に巻き込まれて一部損壊した和希の家を見やると、ふう、と小さく息をつく。
「何にせよ、このくらいで済んでくれてよかったわ。ドラゴン相手じゃ、最悪市内全域が吹っ飛んだとしてもおかしくなかったし」
「え……今のそんなことになる可能性あったの!?」
プリムラが口にした可能性の話に、和希は驚嘆した。「それなら、これで済んだのは不幸中の幸いか……」和希は複雑そうに呟くと、自分の家の惨状と座り込んだままの莉子へと視線を走らせる。魔力が暴走した際に、着ていたシャツワンピースに裂け目こそできてしまっていたが、莉子自身に目立った怪我はない。思うところはあるものの、和希はそのことに何より安堵を覚えた。
「プリムラ。どうしよう。力が入らない……」
莉子が情けない声を漏らす。仕方のない子ねとプリムラは呆れたように、
「さっきの魔力爆発のときに自分の魔力まで大量に出ていっちゃったんでしょ。放っておけばそのうち治ると思うわよ」
和希は自分の服についた土をはたいて落とすと、自分のGジャンを脱ぐ。そして、彼は莉子の肩にそれを羽織らせてやりながら、彼女を気遣う言葉をかけた。
「莉子、大丈夫?」
「……うん。なんとか」
ぼろぼろになった莉子へと和希は手を差し伸べ、彼女を立ち上がらせた。力の入らない体を和希に寄りかからせて立つ莉子は、知らない間に少し逞しくなったその体に、和希のくせに、とほのかな苛立ちを覚える。そっと肩を抱いてくれるその手が生意気だ。
「莉子殿、失礼した。どうやらプリムラ殿が言っておられたように、ワシの魔力は莉子殿には少々多すぎたようだな。ワシらはあまり相性がよくないように思うが、莉子殿はどうだ?」
タツロウの問いにそうだね、と莉子は和希の腕の中で疲れたように同意を示した。タツロウの魔力を制御するのは莉子には難しそうだった。このまま一緒にいては、今日のような事故が何度でも起こることだろう。
「あんたを使役するのはちょっと私には荷が重いかな。今日の今日で悪いけど、JWUに帰ってもらっていい?」
「あいわかった」
タツロウは莉子の言葉をあっさりと了承した。「手を出して。共鳴石取るから」莉子に促されると、タツロウは右前足を彼女の前へと突き出した。莉子がふらふらしながらタツロウの爪から黒いリングを抜くと、先ほどまでが嘘のようにリングから光が失われていく。
莉子は自分の手からも共鳴石のリングを抜いた。そして、汚れてしまったタックパンツのポケットへと、莉子は共鳴石を二つまとめてぞんざいにつっこんだ。
「さて、と」
プリムラが和希へと向き直る。この事態を収拾するため、これからの話をする必要があった。
「窓ガラスの件は結子が帰ってきたら改めて謝りに来させるから。莉子、ちょっと休んだら駅前のJWU支部で保険の申請書もらってきなさいよ。この手の魔法事故は保険金降りるから、それで和希んちの窓ガラスは弁償しなさい」
「……私そういう難しいやつ苦手なんだけど……」
ええええ、と莉子は弱音を吐く。しかし、しっかり者の花の妖精は腰に手を当てると、駄目よ、と莉子を諌めた。
「まーたそういうこと言って。タツロウの引き取り申請はタブレットであたしがやっておいてあげるから、せめてそのくらいはやりなさいよ」
えー、となおも不満そうな顔をする莉子を和希はとりなすようにこう言った。
「ほら、何だったら俺も莉子と一緒に行くからさ。後で迎えに行くよ」
わかったってば、と莉子はむくれたような顔をする。和希にまで駄々っ子を宥めるように扱われるのは何だか面白くなかった。
それじゃあ後で、と莉子はぶっきらぼうに言うと踵を返す。とにかく今は一度帰って着替えたかったし、少し休みたかった。
地面に散らばったガラスの破片が春の陽光を受けてきらきらと宝石のように輝いている。いつの間にか時刻は正午をまわり、空の天辺に達した太陽が春嵐が過ぎ去ったかのように荒れ果てた庭を照らしていた。
◆◆◆
タツロウの事件から二日が経った花曇りの日の昼のことだった。午前中、降りそぼっていた紅雨は鳴りを潜め、道路のあちらこちらで水たまりが波紋を描いていた。
(あーでもない、こーでもない……ああもう、わっけわかんないっ……)
昼食を済ませた後、莉子は自分が起こしてしまった魔力爆発の後始末をするべく、ひいひい言いながら自室で机に向かっていた。先日、あの後和希に付き添ってもらって、駅前のJWUの支部まで行って保険の申請書をもらってきたはいいが、記入例を見ても一体どこに何を書けばいいのかさっぱりわけがわからない。苦手科目の問題集の解けない難問を前にしたときのように、手にしたボールペンは遅々として動かず、何だか頭が痛くなりそうだ。
「うーん……」
赤と白のドット柄のボールペンのノックカバーを齧りそうになりながら莉子が無意識に唸り声を上げていると、不意にこつこつと窓ガラスが外側から叩かれる音がした。何だろう、と莉子はボールペンから手を離すと、窓の方を振り返った。
「……?」
窓枠に紫色の羽根のカラスが一羽止まり、部屋の中を怜悧な目で覗き込んできていた。その姿を認めた莉子は、そういえばと合点する。
莉子は、タツロウの一件の後、使い魔サブスクのウェブカタログでカラスを見つけて、自分の元に派遣してもらえるように手配していた。カラスを選んだのは外国のアニメ映画の影響で正統派の使い魔という安易な理由だ。それにサイトに書かれた階級的にタツロウのときのようなことは起こらなさそうだったし、サイト上の状況を見る限り、すぐに派遣してもらえそうだったのが何よりの決め手となった。
莉子は椅子から立ち上がると、がらがらと引き違い窓を開ける。紫色のカラスは部屋の中に入ってきて、くちばしの先でくわえた封書を莉子の手元へと落とすと、莉子の椅子の背へととまった。
莉子は宛名に自分の名前が書かれた封筒を破って開けると、中の書類と黄色の共鳴石を検めた。この石は色的にシトリンだろうか。金運を招く石が共鳴石に使われている辺りが、何とも貴金属を好むカラスらしい。
「あなたがカラスのレイ? 私は莉子。これからよろしく」
莉子はざっと同封されていた書類の内容を流し見すると、カラスへと話しかけた。「よろしくお願いします」レイは莉子に口先だけは慇懃に挨拶を返す。
ピンクゴールドのフレームがお洒落な置き鏡。カラーボックスの上できらきらと輝くアクセサリーたち。ラメやグリッターが華やかなコスメの数々。壁面収納のフックにぶら下がった家の鍵。
部屋中に散らばる刺激的な物の数々に、レイはそわそわと落ち着かなく視線を動かしている。何か珍しいものでもあるのだろうかと莉子が思っていると、机の上に転がっていたメタリックピンクのワイヤレスイアホンを目掛けてレイはいきなりカァと一鳴きして飛び上がった。
「あっ!」
莉子はレイからイアホンを守ろうと手を伸ばすが、レイはすっとその腕の中を滑空してすり抜けた。そしてレイは紫色の嘴でイアホンをくわえると、開けたままの窓からそのまま外へと出て行ってしまった。淡いブルーグレーの空に飛び立っていってしまったレイへと向かって莉子は声を張り上げる。
「ちょっと! レイ! 待ちなさい!」
莉子は慌ててレイを呼び止めたがもう遅かった。黄色の共鳴石のリングは二つとも莉子の手にある。
タツロウの一件の後、莉子がプリムラに聞いた話によると、共鳴石がその効果を発揮するには三つの条件があるらしい。
一つ目は、魔法使いと使い魔の双方が同じ共鳴石を装着していること。
二つ目は使い魔が魔法使いの目の届く範囲にいること。
三つ目は魔法使いと使い魔双方の共鳴石に光が灯っていること。
せめて、リングを装着した後であれば、レイを呼び戻すこともできたかもやしれなかった。しかし、リングが二つとも手元にある以上、今の共鳴石に単なるアクセサリー以上の意味はない。
「もうっ、あのイアホン、めっちゃ高いのに! 私の二九八〇〇円!」
あの馬鹿カラス、と莉子は毒づいた。先ほど、レイに持ち去られてしまったイアホンは、高校の入学祝いと魔法使い認定試験の合格祝いを兼ねて、京都に単身赴任中の父親から送ってもらったものだった。まだ、数えるほどしか使っていないというのに、こんな形で早々に紛失してしまうのはあまりに惜しい。
(イアホンは取り戻さなきゃだし、何よりレイを連れ戻さないと。手配してもらった使い魔に逃げられたとなったら、また補償金やら何やら面倒なことになる)
先日のタツロウの件の手続きで手一杯だというのに、これ以上厄介事を抱え込みたくない。莉子はああもう仕方ない、とレイを追いかけることを覚悟を決める。空を飛べるプリムラに手伝ってもらえれば、どうにかレイを追い込むことができるかもしれない。心許ない心算を胸の内で練りながら、莉子はスマホと家の鍵を手に取った。そして、彼女は部屋を飛び出して、一段飛ばしでどすどすと階段を駆け降りていく。
「プリムラ!」
台所のガラス戸を開け放ち、莉子は頼りになる妖精の少女の名を呼ぶ。が、台所はおろか、一階のどこにも生き物の気配はない。
(……あ、しまった。そういえば)
テレビCMでやっていた新発売のビールを買いにスーパーまで行くなどと言って、少し前に彼女が出かけていったことを莉子は思い出した。間の悪さに思わず莉子の口からちっと行儀悪く舌打ちが漏れる。早々にアテが外れてしまった。
莉子は苛立ちを募らせながら玄関へと戻ると、靴箱からオレンジのハイカットスニーカーを出した。彼女はスニーカーに足を突っ込みながら、スマホの画面をタップして和希へと通話を掛ける。トゥルルルルという電子音が何コールか鳴り響いた後に、もしもしと和希の声が通話に応じた。
「莉子? どうかした?」
「カラス捕まえるから協力して! 後でジュース奢るから!」
「え、ちょっと、莉子、一体それはどういう……」
「とにかく今すぐうちの前まで来て! 詳しいことは後で説明する!」
「う、うん……」
電話の向こうで和希が何かを聞きたそうにしていたが、莉子の勢いに気圧されて彼は言葉を喉の奥に飲み込んだ。それじゃ後で、と莉子は構わず通話を切ると、玄関を出て鍵を閉めた。
(そういえば、物置に昔お兄ちゃんが使ってた虫取り網があったはず……あれ、使えないかな)
莉子には五歳上の樹来という名の兄がいる。莉子と同様、樹来も幼いころはプリムラに面倒を見てもらっていた。莉子とは違ってやんちゃだった樹来は、プリムラを虫呼ばわりして、よくこの虫取り網で彼女のことを追い回して遊んでいた。そのときの虫取り網がまだ物置の中で保管されている――やんちゃな樹来の悪魔の所業を恐れたプリムラによって封印されているはずだった。
莉子は白いワイドパンツのポケットに玄関の鍵とスマホを突っ込むと、庭先の物置を開けた。物置の中に上体を突っ込み、莉子が目的の物を探して中を物色していると、隣の家からネイビーのカットソーとオックスフォードシャツをレイヤードスタイルにした少年が出てきて、彼女の名を呼んだ。
「莉子。電話じゃよくわからなかったけど、今度はカラスがどうしたって?」
莉子は物置に上体を突っ込んだまま、ああうんと和希に返事を寄越した。そして、彼女はがさごそと物置の中を漁りながら、和希へと現状の説明をする。
「例の使い魔サブスクでカラスの子を頼んでみたんだけど、共鳴石つける前に逃げられちゃって」
「共鳴石ってあれだっけ? この前のドラゴンにつけてたリングみたいな」
うん、と相槌を打ちながら、莉子は物置の奥に仕舞い込まれていた目的の物にを見つけると手を伸ばす。
「……よし、あった。手配してもらった使い魔に逃げられたなんて知れたら、JWUに補償金とかいうの取られるし、さっさと連れ戻さないと。それに何より、あいつわたしのイアホン持ってったから絶対捕まえなきゃ。あれ結構高いやつなんだから、このまま泣き寝入りなんてしたくないもん」
莉子は物置の中に眠っていた虫取り網を手に取ると、外構のフェンス越しに和希へとそれを渡した。和希は虫取り網を受け取ると、懐かしいねとそれに視線を落とす。
「これって昔、いっくんが使ってたやつだよね? プリムラ捕まえて遊んでたやつ」
「うん、そう。それはそうと、早くカラスを追いかけなきゃ。普通のより、だいぶ紫っぽい色だったから目立つとは思うんだけど」
「莉子、カラスがどっちに行ったかわかる?」
たぶんあっち、と莉子が方角を指で示すと、わかったと和希は頷いて歩き出した。出したものをぞんざいに物置に放り込むと、莉子はその背を追いかける。出したものをしまっただけなのに、なぜか閉まらなくなってしまったので、物置の扉は開け放ったままにしておいた。
莉子の家から二つ先の曲がり角に差し掛かったとき、二人はスーパー帰りのプリムラと行きあった。花とハートが散りばめられたピンクのエコバッグにビールの六缶パックを入れて鼻歌交じりに宙を飛ぶ花の妖精は、紫色の双眸を機嫌良く細めていた。
「プリムラ! 紫色のカラス見てない!?」
莉子はプリムラを大声で呼び止めると、勢い込んでそう聞いた。「……カラス?」プリムラは一瞬きょとんとした顔をしたが、やがて状況を理解したのか、その表情は莉子を咎めるものへと変わっていく。
「さっき、それっぽい鳥がスーパーの向かいの公園のほうに飛んでいくのを見たけど。……まさか莉子、使い魔に逃げられたんじゃないでしょうね? カラスの使い魔を頼んだって昨日言ってた気がするんだけど」
う、と莉子はきまりの悪さで言葉を詰まらせる。やっぱりか、とプリムラは嘆息すると、莉子へと小言を並び立てる。
「莉子、あなた、もう一人前の魔法使いなんでしょう? だったら、自分の使い魔の管理くらいできなきゃだめじゃない。ましてや逃げられるだなんて言語道断よ。ナメられてるにもほどがあるわ」
「……」
プリムラの言い分はもっともなもので、莉子は何も言い返せなかった。プリムラの言葉が胸にぐさぐさと突き刺さって痛い。プリムラはしばらくエコバッグの中をごそごそと弄っていたかと思うと、缶ビールを一本取り出して謝罪とともに和希へと渡そうとする。
「ごめん和希、これ一本あげるから莉子のこと手伝ってあげてくれる? あたしも家に荷物置いたらそっち行くから」
いやいやいや、と酒を渡してこようとするプリムラを和希は手で押し留めながら苦笑する。
「それは全然構わないんだけど、プリムラ、ビールはいいから。俺まだ十五。未成年にお酒勧めないでよ」
「あら、樹来は中学の終わりくらいから普通にお酒飲んでたけど?」
プリムラは可愛らしく小首を傾げてみせながら、およそ保護者(代理のようなもの)とは思えぬことを宣った。
「ちょっとプリムラ、うちの馬鹿兄貴と和希を一緒にしないでよ」
すっとぼけたプリムラの発言を遮って、莉子は畳み掛ける。
「っていうか、お兄ちゃんのことはどうでもいいから、あのカラスを追いかけるよ」
じゃあね、と言うと莉子は路上に残る水たまりをオレンジのハイカットスニーカーの底で跳ね上げながら走り出した。和希も虫取り網を担ぎ直すと、前を行くピンクのVネックカーディガンの背を追う。
そそ風がそっと地上に残る水の匂いを巻き上げ、その場を吹き過ぎていく。公園のほうから飛ばされてきた薄桃色の花びらが水気を帯びて、アスファルトの上に張り付いていた。
プリムラが言っていた通り、レイは公園のブランコの脇にある桜の木の枝の上で羽を休めていた。莉子は戦利品をくちばしの先に咥えて得意げな表情を浮かべる紫色のカラスの姿を認めると、毅然とした態度でその名を呼んだ。
「見つけた! レイ、降りてきなさい!」
しかし、レイは莉子の言葉に従うことはなく、代わりに頭上から嘲りの視線を返してきた。共鳴石を装着していない以上、莉子の言葉に強制力はなく、単なるお願い以上の意味はない。そして、レイ側も主従関係を結んでいるわけではない莉子のお願いを聞き入れる理由はなかった。悔しさで莉子はぐっと唇を噛む。
「共鳴石なしで、ワタシに言うことを聞かせられるとでも? 油断しておられるからこういうことになるのですよ」
飄々とした口調でそう言うと、レイは小馬鹿にしたようにカァと鳴いてみせる。「っ……もうっ!」莉子は苛立ちを露わにしながら、和希へと向かって叫んだ。
「和希! その網であのカラス捕まえて!」
「了解」
和希は虫取り網を手に背伸びをする。が、網はレイのいる枝にわずかに届かない。網が当たった一つ下の枝から落ちたピンク色の花びらが、はらりと宙に舞った。
莉子は届きそうで届かないというじれったい状況に歯噛みする。そして、彼女は状況を打開すべく、こんなことを言い出した。
「和希、私をおんぶしてくれない? そしたら届くでしょ?」
え、と和希は固まる。虫取り網の柄がすっと和希の手の中を滑り落ち、ぱたりと地面へと転がった。
「何、和希、嫌なの?」
不服そうに莉子は唇を尖らせる。和希は困ったように眉尻を下げ、年相応に曲線を描く莉子の体のラインを意識の外に追いやろうと視線を泳がせる。好きな女の子の胸やらお尻やらに密着されて反応せずにいられるほど、和希も紳士ではない。彼はどうにか莉子を思いとどまらせるべく、それとなく説得を試みる。
「あの、嫌とかそういうんではないんだけど、俺たちあと何日かしたら高校生だよ? 莉子は女の子だし、そういうのって俺はどうかって思うんだよね」
「何それ。和希のくせに何言ってるの」
白けた目で莉子は和希の発言を一蹴する。多感な年ごろの少年の葛藤をレイは木の上からくだらないとでも言いたげに見下ろしていた。
とにかく、と和希は虫取り網を拾い上げると、きっぱりとした口調でこう断じてみせた。
「莉子にそんなことさせるくらいなら、俺が木に登るから」
「和希、木なんか登れるの? 小学校のとき、上り棒できなくて泣いてなかった?」
いつの話をしてるんだよ、と和希は苦笑しながら木に手をかける。いつまでも頼りなくて泣き虫の幼馴染のままだと思われているのは正直面白くない。
和希は脇の下に虫取り網を挟むと、両腕を木の幹に回し、胸を押し付ける。そして右足の甲も幹に押し付けると、左足を幹の後ろに回して引き付けた。
そのまま、和希は両足で幹を挟み込んで固定したまま上へと体を伸ばすと、今度は上半身で体を支え直し、下半身を一気に引き上げた。下半身が上に上がると、再び足で体を支え直し、和希はまた上部へと体を伸ばす。
(あれ、意外と……)
莉子が思っていたよりも危なげなく、するすると和希は木を登っていった。木の幹を掴む手は何だか大人の男性のものみたいにいつの間にか力強くなっていて、生意気、と莉子は小さく呟く。
レイが止まる枝のあたりまで登ると、和希は虫取り網を掴み直してぐっと、上へと手を伸ばした。網がレイを捉えた瞬間、「うわっ」バランスを崩した和希の体が木から落ちかける。和希は網を持っていないほうの手で近くにあった太い枝に掴んでぶら下がった。
「……何してるの?」
家に荷物を置いてから、二人を追いかけてきたらしいプリムラが和希の頭上に飛んできて困惑したように声をかけた。確かにこの場にいま来たばかりのプリムラからしたら、どうして和希が今にも木から落ちそうになっているのかわけのわからない状況だろう。
「持ってきた網じゃあのカラスに届かなかったから、おんぶしてって言っんだけど……和希がそのくらいなら自分が木に登るって聞かなくて」
「あー……そんなこと言ったらまあ、こうもなるわね。今のでだいたい把握したわ」
桜の木の下にいた莉子の説明を受け、得心したらしく、プリムラは同情的な視線を和希へと向けた。そして、プリムラは樹上の和希が手に持った網の中でばたばたと暴れている紫色のカラスに一瞥をくれると、莉子へこう聞いた。
「それで、あれがさっき言ってたカラスの使い魔?」
「そう。……あ」
虫取り網のネットの間からキラキラ光るものが落ちる。莉子はそれが地面につく前に手を伸ばして受け止めた。
「ふう。私の二九八〇〇円……」
イアホンが無事、手元に戻ってきたことに安堵している莉子を妖精の少女はちょっと、と嗜める。プリムラの視線の先には虫取り網の中でもがくレイの姿がある。
「莉子、そんなことよりあれどうするのよ」
そうだった、と莉子は白いワイドパンツのポケットにイアホンをしまう。そして、莉子はイアホンと入れ替わりに取り出したスマホからゴールドのチェーンストラップを外すとプリムラへと渡した。
「プリムラ、これで網の口を縛っちゃってよ。そしたら逃げられないでしょ?」
「そうね、わかったわ」
プリムラはチェーンストラップを受け取って、レイが入っている虫取り網の口をぐるぐると縛ると、和希へと声をかける。全体重を支えている和希の左手はぷるぷると震え、限界を迎えかけていた。
「和希、もう網から手を離して大丈夫よ。莉子は下で網をキャッチして」
いくよ、と和希は莉子に声をかけると、虫取り網から手を放した。ペットボトル飲料一本とほぼ同等の重量のものを内包した網はひゅっと速度を伴って落下していく。木の下で待ち構えていた莉子は落ちてきた網を両腕で受け止めた。ずっしりとした重みが両腕にのしかかり、危うく莉子はそれを取り落としそうになるがどうにかこらえる。手の中の網では紫のカラスがなおももぞもぞともがき続けている。
(こんなカラス、こっちから願い下げだ。家に帰ったらすぐにJWUに送り返してやる)
人の大事なものを持ち逃げする悪癖がある上に、主人である魔法使いを馬鹿にした態度を取るような使い魔など御しきれる気がまるでしない。自分を手こずらせてくれたカラスが網の中から恨みがましげにこちらを見ているのに気づくと、莉子は舌を出してやった。その様子を空中で見ていたプリムラはどっちもどっちねと独りごちた。
「……っと」
和希はどうにか木から降りると、ネイビーのカットソーの袖口で汗を拭った。他でもない莉子の手前、格好つけてみせたものの、先ほど木から落ちかけたせいで冷や汗が止まらない。それにずっと枝からぶら下がり続けていた左手から握力が失せている。
「疲れた……」
和希はそう呟くと、公園の入り口にある赤い自販機のほうへと歩いていった。とりあえず、気分を落ち着けるためにも何か飲みたい気分だった。ローズウッドの木目調のケースに嵌ったスマホを和希はコーデュロイパンツの尻ポケットから取り出すと、自販機のミルクティーのボタンを押した。和希がスマホを自販機にかざして、飲み物の代金を払おうとしていると、カラスの入った網を持った莉子が追いついてきた。彼女は和希が自分で飲み物を買おうとしているのを見咎めて、あっと声を上げた。
「私奢るって言ったのに」
「いいよ、そんなの。別に俺、何か奢ってほしくて莉子のこと手伝ったんじゃないしさ。それより、莉子も何か飲む?」
ゴトンと音を立てて落ちてきたミルクティーの缶を和希が自販機から取り出しながら聞くと、莉子は首を横に振った。
「ううん、いい。……って、うわ、何それ」
莉子はちらりと見えた和希のスマホの待ち受け画面の画像に顔を引き攣らせた。セーラー服に身を包んだ莉子と学ラン姿の和希。その背後には八分咲きの桜の木と中学校の校門が写っている。それは中学校の卒業式のときに結子が撮った莉子と和希のツーショットだった。
「ほら、これ綺麗に撮れてたし、せっかくの記念だからさ。プリムラに頼んで送ってもらったんだけどだめだった?」
「だめではないけどさあ……でも普通、そんなもん待ち受けにする?」
信じられないものを見るような目で莉子は和希を非難する。
「好きな子の写真を待ち受けにするのってそんなおかしいことかな……?」
「和希も和希だけど、莉子も莉子よねえ……」
和希が困惑したように呟くのを聞きながら、プリムラは二人の頭上をひらひらと飛びながら苦笑を漏らした。この分では和希の想いが報われる日は遠い。というか、そんな日が来るかどうかすら定かではない。
さっさと出せと言わんばかりにレイがカァカァと文句を言う声が、桜の花びらが舞う公園に響いている。淡い色合いの春の虹が地面の水たまりの中でゆらゆらと揺れていた。
◆◆◆
「……何がどうしてこうなったの?」
莉子は三つ首の大型犬――ケルベロスのドゥリーを前に溜息をついた。家を訪ねてきたJWUの職員が、莉子宛だと言ってこのケルベロスと一通の封書を置いていったのがつい数分前のことだ。
このケルベロスに莉子はまったく心当たりがない。なぜなら、この使い魔を頼んだのは、今ばたばたと出かける支度をしている母親の結子だからだ。
(なんっていうか、デジャヴっていうか……これ、タツロウのときと同じパターンじゃない?)
莉子は数日前にカラスの使い魔に逃げられ、和希に手伝ってもらって追いかけ回す羽目になったばかりだ。それなのに、次こそはと慎重に使い魔を選ぼうとしていた矢先におきた出来事がこれだ。何だか頭が痛くなってくる。結子はバッグの中に書類とスマホを一緒くたに突っ込みながら、のほほんとした口調でこんなことを宣った。
「莉子、犬とかみたいに馴染みのある生き物のほうがいいんじゃないかって言ってたでしょう? それで、ウェブカタログでこの子を見かけたから頼んでおいたのよ。かわいいでしょう?」
「……」
目の前のドゥリーはどう見てもかわいいというよりはどちらかというといかついの部類だ。そもそもなんでこの人は面白半分に娘の使い魔を勝手に手配しているんだ。
「拙者、かわいい!? かわいい!?」「拙者の愛らしさの前では全米が震撼しちゃうやつっすね!」「かわいいは正義とはこのことっすか!」三つの頭が同時に騒ぎながら、一本しかない尻尾をぶんぶんと激しく振っている。その様子を眺めていた莉子はより一層げんなりとした気分になってくる。
「かわいいかどうかはともかくとして……犬? これ、本当に犬?」
結子の独特な感性に頭を悩ませながら、莉子は疑問を口にする。ドゥリーは土佐犬のような外見には似合わない、子犬じみた声でキャンと一鳴きすると、
「拙者ならばお手もお座りも待てもプロ級ですぞ! あと、数独とクロスワードがめっちゃ得意なんで、拙者に掛かればどんな難問でも瞬殺っす! どうっすか、莉子どん、拙者超賢くないっすか!?」「あと知恵の輪も得意っすよ!」「拙者マジすごすぎっす!」
ああうんそうだね、と莉子はおざなりな同意をする。数独がどんなものだったかいまいち思い出せないが、ケルベロスなどというファンタジーな生き物であるだけあって、普通の犬よりだいぶ賢いのであろうことは推して知れた。しかし、三つの頭が同時に言葉を発するのでうるさくて仕方がない。
それはともかくとして、この前のレイのときと同じ轍を踏む前に、さっさとドゥリーに共鳴石をつけてしまわなければならない。先程、ドゥリーを連れてきたJWUの職員が持ってきた封筒からタイガーアイの共鳴石を取り出すと、莉子はこう切り出した。
「とりあえずドゥリー、共鳴石つけさせてくれない?」
「もちろんですぞ! ただ莉子どん、拙者から一つお願いがあるんすけど、よろしいか?」
「お願い?」
莉子は眉根を寄せた。ケルベロスは魔法生物であり、プリムラと同様に使い魔としての位階は高い。交換条件として一体何を要求されるのかと、莉子としては身構えざるを得なかった。
「毎日、朝と夕方に散歩に連れて行って欲しいのですぞ!」「マーキングとクン活は犬の責務っすから!」「ご近所の巡回も大事な任務っす!」
ああそう、と莉子は脱力した。というかケルベロスって犬なのか。要求がめちゃくちゃ犬じみている。
悪いやつではなさそうだけれどこのテンションに付き合うのは少ししんどいな、などと考えつつ、莉子は自分の右手にタイガーアイでできた共鳴石のリングを嵌める。
「とりあえずわかったから、手出して」
莉子が促すと、多少の硬さを感じる黒い肉球のついた右前足をドゥリーはお手をするように差し出した。ドゥリーの前足を掴むと、莉子は茶色い石でできたリングを装着する。
すると、莉子の手とドゥリーの前足の共鳴石に琥珀色の光が灯った。光り方にタツロウのときのような激しさはなく、体内に大量の魔力が流れ込んでくる様子もない。ドゥリーの魔力は莉子の中に流れ込むか流れ込まないかといったところで絶妙なバランスを保っていた。
(良かった……安定しているみたいだし、これなら魔力暴走が起きる可能性はなさそう)
タツロウのときの二の舞いにならなかったことに莉子が胸を撫で下ろしていると、浴室の掃除をしていたプリムラが台所へと戻ってきた。家事が一段落したのか、休憩とばかりに彼女は冷蔵庫から徳用と書かれたカルパスの袋を引っ張り出してくる。
「食べる?」
プリムラは袋から一本カルパスを取り出すと、ドゥリーの三つあるうちの頭の一つのそばに持っていく。「わん!」まるで犬のような返事をすると、ドゥリーはカルパスを一口に頬張った。
(……あれ?)
ドゥリーがカルパスを咀嚼しているのを眺めていた莉子はとあることに気づいた。よく考えたら犬の世話の仕方をろくに知らない。
「ママ、私、犬の世話の仕方わからないんだけどどうしよう? ……まあ、ドゥリーを犬って言っていいのかは謎だけど」
口の中のカルパスを飲み下すと、ドゥリーはわふ、と三つの頭を傾げながら莉子を見た。カルパスがよっぽど気に入ったのか、一様に口元から涎を垂らしている。結子は玄関でシルバーのスクエアトゥパンプスを履きながら、泣きついてきた娘の疑問をばっさりと両断した。
「そんなのネットで調べたらいくらでも出るでしょ。それに何年か前まで、和希くんちで何か犬飼ってなかった? ルディくんだったっけ?」
「ああ……確かに。そういえば飼ってたね。シベリアンハスキーだったっけ?」
「だったら、和希くんに聞けばいいんじゃない? 莉子が聞けばいくらだって教えてくれるでしょ」
結子の言う通り、確かに和希に聞くのが手っ取り早そうだった。経験者の言うことのほうが、ネットに氾濫する玉石混淆の情報より余程頼りになる。
「それじゃあ行ってくるわね。鍵、閉めといてね」
結子はブラックのギャザーバッグを持つと、家を出ていった。ガチャン、とドアが閉まるのを見送ると、莉子はダイニングテーブルの上に置いていたスマホを手に取った。そして、彼女はメッセージアプリを起動させると、指を画面になぞらせて和希宛のメッセージを打ち込んでいく。
『和希、前、犬飼ってたよね? 犬の世話教えて』
莉子がメッセージを送ると、数秒の後に既読がついた。間髪を容れずに、ぴるるるるとスマホが鳴り始める。莉子が緑色の受話器のアイコンをタップして、スマホを耳に押し当てると、困惑したような和希の声が聞こえてきた。
「莉子、犬って今度はどうしたの?」
「それがさー、ママが勝手に私の使い魔頼んじゃって、ケルベロスが来ちゃったんだよね」
ケルベロス? と和希がスマホの向こう側から聞き返してきた。声の気配から和希の困惑が深まっているのを感じる。
「莉子、ケルベロスってあれだよね? RPGとかに出てくるのと同じなら、三つ首の大型犬みたいな」
「そう、それ。本人たちも犬だって主張してるし、犬のやりかたでいいから世話の仕方を教えてくれない? それと、とりあえずはまず散歩に連れていかなきゃいけないみたいで」
「わかった、ルディのときのを取ってあるはずだから、後でハーネスとか餌入れとか持っていくよ」
「ありがと。よろしく」
莉子は礼を言うと通話を切った。和希に来てもらう約束を無事取り付けられたので、ひとまずはどうにかなりそうだ。
「惚れた弱みがあるとはいえ、和希も大変ねえ」
「……何のこと?」
「昔からとはいえ、あの子も苦労するわね……」
もう高校生になるというのに、一体いつになればこの二人の仲は進展するのだろう。今のところ莉子にその気がなさそうなのが問題ね、とプリムラは和希に同情しながら、カルパスを齧る。ドゥリーの三つの頭がカルパスを食べるプリムラのことをじっと見ていた。ドゥリーがプリムラを見る視線に気づいた莉子は、どれだけカルパスが気に入ったんだよと内心で呆れた。というか、犬に人間の食べ物ばかり与えるのは健康上よろしくないのではないだろうか(ケルベロスは厳密には犬ではないけれど)。
電話を切って十分ほど経つと、ぴろぴろと玄関のインターホンが鳴った。麦茶をストローで飲んでいたプリムラはインターホンモニターへと飛んでいくと、来訪者が誰かを確かめる。
「莉子。和希来たよ」
「ああうん……そういえば鍵開けっぱなしだからそのまま入ってもらって。和希だし、別にいいでしょ?」
「莉子……あんたって子は本当に不用心なんだから」
プリムラは紫の目で莉子を軽く睨む。莉子は肩を竦めて、プリムラの非難じみた視線を受け流した。
ガチャリと玄関の扉が開く音が響き、お邪魔します、と和希が段ボールを持って家に入ってきた。和希は玄関で靴を脱ぎ、台所に姿を表すと段ボールを床に置く。そして、彼はドゥリーを見ると目を丸くした。
「わあ……本当にケルベロスだ。ゲームとかで見たまんまだね」
和希の声が興奮で高くなる。はしゃいだふうに話す和希の声を聞きながら、莉子はこれだから男はと胸中で毒づいた。もう高校生になるというのに、家でゲームばかりやっていた小学生のころから何ら情緒が成長していない。莉子の呆れ返ったような視線に気がつくと、和希は体裁を取り繕うかのように軽く咳払いをした。
「えーと……莉子、とりあえずこの子を散歩すればいいんだっけ?」
和希の言葉に、莉子はうんそう、と首を縦に振る。すると、散歩という言葉に反応し、ドゥリーはまるで本物の犬のように、興奮でぱたぱたと激しく尻尾を振りながらにわかに騒ぎ始めた。
「莉子どん、莉子どん、この御仁は?」「悪いやつじゃなさそうっす!」「拙者と遊んでくれるっすか?」
「こいつは私の幼馴染の和希。今からあんたの散歩に連れてってくれるから」
莉子がそう説明してやると、ドゥリーは和希にまとわりつくようにくるくると回り始める。
「和希どん、和希どん! 拙者はドゥリーですぞ! 早く散歩に連れてってくだされ!」「散歩ですと!」「わくわくが止まらないっす!」
和希はドゥリーの勢いにやや気圧されながらも、膝を折ってかがみ込むと床に置いた段ボールを開く。すると、待ちきれないとでも言わんばかりに、体格の良いドゥリーがカーキのパーカーの背中にじゃれついた。
「う、おっ」
和希は前につんのめる。背中にのしかかる体重が重い。背中にかかる数十キロの重みからどうにか逃れると、和希は箱の中からグリーンの迷彩柄のハーネスとリードを取り出した。
和希はドゥリーと正面から向き合い、どうしたものかと逡巡した。これの散歩はなかなかに骨が折れそうだった。
そんな和希の思考を知ってか知らずか、ドゥリーは三枚の舌を駆使して和希の顔をべろべろと舐める。どうやら、自身の現在の主人であるはずの莉子以上に和希のことを気に入ったようだった(もしかすると散歩係認定されただけかもしれないが)。
「あらあら、和希ってば顔がべとべとじゃないの」
和希がドゥリーにじゃれつかれ、唾液で顔をべとべとにされていることに気づくと、プリムラは清潔なタオルを探して洗面所へと飛んでいった。そして、彼女は白いタオルを手に台所へと舞い戻ってくると、ドゥリーにじゃれつかれないように気をつけながら(舐め回されたくないのはさることながら、サイズ感的にじゃれつかれると命の危険がある)、和希へとタオルを手渡した。
「ありがと、プリムラ」
和希はプリムラから渡されたタオルで顔を拭うと、ドゥリーの胴体にハーネスを装着する。そして、ハーネスの金具にリードを取りつけると、和希は立ち上がった。
「よし、できた。莉子、ドゥリーの散歩に行くから一緒に来て。今日のところは俺がドゥリーのリードは持っとくよ。あと、ドゥリーは普通の犬じゃないから必要かわからないんだけど、一応水の入ったペットボトルとビニール袋用意してもらっていい?」
うん、と返事をすると莉子は台所のシンクの隅で干していた空のペットボトルに水道の水を詰める。そして、背後のダイニングテーブルに放置されていたコンビニのビニール袋を手に取ると、莉子は玄関へと向かった。
「和希、お待たせ」
玄関では既に散歩が待ち遠しくて仕方ないドゥリーに引っ張っていかれた和希が黒のキャンバススニーカーを履き終えて待っていた。和希のデニムパンツにドゥリーが三つのいかつい顔を代わる代わる擦り付けているのを横目に莉子は自分のベージュのスニーカーに足を入れる。この短時間で和希はずいぶんとドゥリーに気に入られたようだった。
(これだけ気に入られているなら、散歩は今後和希に任せてもいいかも。こんな大きい犬、私の腕力じゃ散歩するのも大変そうだし)
和希を戦力として脳内で皮算用して今後のドゥリーの世話について、莉子は靴紐を結びながら思考を巡らせる。ありだな、とほくそ笑みながら、靴を履き終えた莉子は上り框から腰を上げると、台所で和希が持ってきた箱の中身を覗き込んでいたプリムラへと声をかけた。
「プリムラ、それじゃ行ってくるね」
「はいはい、ごゆっくり。――和希、頑張ってね」
莉子が相変わらず施錠されないままになっていたドアを開けると、何だか含みのあるプリムラの発言が家の中から二人と一頭の背を追いかけてきた。「う、うん」和希は返事をすると、ドゥリーのリードを手に莉子の後について家を出た。
家を出てガチャンと音を立てて門扉を押し開けると、待ちきれなかったかのようにドゥリーが玄関ポーチから飛び出した。「うっ、うわああっ!」いきなり車のような速度で走り出したドゥリーに引っ張られ、和希はずるんと転倒する。そのまま、リードを握ったままの和希はドゥリーの膂力に抗えずに、猛スピード地面をで引き摺られていく。彼のカーキのパーカーが、インディゴのデニムパンツが摩擦に耐えきれずに急速にボロ布と化していく。
「和希!」
遠ざかっていくドゥリーと和希を追いかけて、莉子は走り出した。莉子のライトパープルのマーメイドスカートの裾が春の風を受けて揺れ動く。
莉子は全速力でドゥリーたちを追いかけ続けた。しかし、莉子が走る速度よりもドゥリーたちのほうが早く、どんどん距離が開いていく。
(あ……まずい……)
走り続けるうちにいくつも曲がり角を通り過ぎ、向かう先に車通りの多い幹線道路が見えてきて莉子は顔を青ざめさせた。このままではドゥリーも和希も危ない。このままの勢いで幹線道路に突っ込んでいったら、両者とも車に撥ねられかねない。
(そういえば、これって……)
走る速度は緩めずに莉子は自分の右手に嵌めたタイガーアイのリングに視線を落とした。今の今まで完全に忘れていたが、共鳴石には使い魔の魔力を借りるだけでなく、現在の主人である莉子の命令を強制する作用があったはずだ。
よし、と意を決すると、莉子は視界の先にかろうじて小さく見えるドゥリーへと琥珀色の光が灯る右手の人差し指を向けた。すると、ドゥリーのほうへと、魔力でできた琥珀色の光の糸がするすると伸び始める。両者の間に魔力の糸がぴんと張られたのを確認すると、莉子は大音声で叫んだ。
「――ドゥリー! 止まって!」
車が絶え間なく走る大通りに突っ込む直前で、キュキュッという音を立ててドゥリーが急ブレーキするのを莉子は視線の先に見た。どうやら、自分の命令はぎりぎりのところで間に合ったらしい。安堵のあまり、莉子はその場に座り込むと、ぜえぜえと肩で息をした。
(うーん……これは、ちょっと問題あり、かなあ)
ドゥリーに悪気がないのはわかる。しかし、テンションが上がる度に力の強いこの犬もどきに引きずり回されるのは命の危険を感じる。事実、和希はドゥリーの暴走によってずたぼろの擦り傷まみれになったし、莉子自身も同じ目に遭ったら、とてもじゃないが引きずり回されながらドゥリーに命令を下す余裕などないだろう。
(魔法使いたるもの、使い魔を使役するならば、使い魔に対して責任を持つべし。認定試験のテキストにも書いてあった。だけど、私じゃドゥリーの暴走を物理的に御しきれないし、何かあったときに責任を負いきれない)
ドゥリーは魔力的というよりは膂力的な意味で自分の手には余る。莉子はドゥリーと今後やっていくのは難しいと判断し、早々にJWUに送り返すことを決めた。
全力疾走を強いられたせいで汗ばんだ肌を撫でていく春の風がひんやりとして心地よい。霞の空に春雲がゆったりと棚引いていた。
◆◆◆
莉子が高校の入学式を翌日に控えた日のことだった。プリムラが作ってくれた昼食のガパオライスを莉子が食べていると、玄関のインターホンが何者かの訪いを告げた。
「プリムラ、出てくれない?」
行儀悪くスプーンを咥えたまま、莉子はもごもごとそう言った。プリムラはもう、と呆れたような顔をすると、食事の手を止める。
「結子といい莉子といい、なんでこう妖精使いが荒いのかしら……」
ぶつぶつと文句を言いながら、プリムラはインターホンモニターのところまで蝶の羽を羽ばたかせて飛んでいった。そしてインターホンモニターの応答ボタンを押すと、プリムラは何やら来訪者と話し込み始めた。
「プリムラー。誰ー?」
この感じは和希が来たわけでもなければ、面倒なセールスマンや宗教勧誘が訪ねてきたわけでもなさそうだ。プリムラは和希だったらさっさと家に上げてしまうし、セールスマンや宗教勧誘なら秒で追い返すことができるプロの主婦だ(と言ったら本人には怒られるのだが)。
プリムラは話に区切りがつき、インターホンモニターを消すと、莉子を振り返った。
「莉子。あんたが頼んでた使い魔の子が来たって」
「使い魔? 私、何頼んでたっけ?」
莉子は首を傾げると、ガパオライスの最後の一口をスプーンで口の中に放り込む。あのねえ、とプリムラは嘆息する。
「そのくらいちゃんと覚えておきなさいよ。莉子の使い魔でしょ」
莉子は口の中に残る辛味とハーブの余韻を楽しみながら、自分の記憶を掘り起こした。一体何を頼んだんだったか。ウェブカタログの「即日派遣可能」のページを開いていた覚えはあるが、眠気に侵食された記憶はひどくおぼろげだ。
「昨日の夜、すぐ手配してもらえそうな子を選んだ覚えはあるけど、眠かったからよく覚えてないんだよね。何だっけ、アリクイとかだっけ?」
「今来てたJWUの職員の人はミツオビアルマジロとか言ってたわよ……。本当はうちの玄関で受け渡ししたかったらしいんだけど、着いた途端に怖がってテラスの下に入っちゃったからあとはよしなにしてくれって」
長々とプリムラが来訪者と話し込んでいたのはそういうことだったのかと莉子は得心する。ごちそうさま、と莉子は食べ終わった後の皿を流しへと持っていきながら、JWUの対応の雑さに対する文句を口にする。
「……それにしてもJWUって、そういうとこ結構いい加減だよね。この前のタツロウのときだって、和希んちに誤配されてたし。今回はちゃんと受け渡ししないで帰るなんて。このサブスクサービスちょっとやばくない?」
「まあそれは否定できないわね。とはいえ、まだこのサービスって今年できたばっかりのやつらしいし、多少の穴は仕方ないんじゃないの? 結子もできたばかりで月々の料金も安くなってたし、面白そうだったから契約してみたって言ってたし」
まあ今後に期待ってことよね、とプリムラは苦笑した。しかし、この調子では将来的に杜撰な運営が改善されるのかは甚だ疑わしいと莉子は思った。
「っていうか、ママの本音ってどう考えても後者だよね……」
莉子は半眼でそう突っ込む。基本的に、何が自分にとって面白いかという基準で生きている結子は、おそらくはその程度の動機でこのサブスクサービスを契約してきたのだろう。自分にはもう永久契約を交わしているプリムラがいるからと、娘の使い魔選びで遊んでいる感がぷんぷんする。「うーん、まあそうね」莉子の話に付き合うのが面倒になったのか、プリムラは適当な相槌を打つと、白いレースのワンピースの裾をはためかせて玄関の方へと飛んでいった。程なくして、玄関のドアが開閉する音が響く。たぶんプリムラはテラスの下に入り込んでしまったというアルマジロの使い魔の様子でも見に行ったのだろう。
莉子は皿とスプーンを盥に入れると、水道の水につけ、汚れを浮かせていく。そして、食器洗い用のピンク色のスポンジを手に取ると、食器用洗剤を数滴垂らして泡立たせた。台所に虹色に光る小さなシャボン玉がふわふわと漂う。
予洗いを済ませた食器を莉子はスポンジで洗うと、水道水で洗剤をすすいでいく。食器から洗剤を洗い流すと、莉子はそれらを水切りラックへと立てかけていった。
濡れた手をタオルで拭うと、莉子はダイニングテーブルに置いていたスマホを手に取った。そして、自分も使い魔の様子を確認するべく、莉子は玄関へと向かい、健康サンダルを引っ掛けて外へ出る。上り框に敷かれた玄関マットの上には、莉子宛の封書が置かれていた。おそらく、この中に今日来た使い魔の共鳴石が入っているのだろう。
「ほら、怖くないからでてきなさい」
莉子が外に出ると、地面へと下りたプリムラがリビングの掃き出し窓から続くヒノキのウッドテラスの下に向かって呼びかけていた。莉子はオフホワイトのフレアスカートの裾が地面に付かないように気を配りながらしゃがみ込むと、テラスの下を覗き込む。
日光の差し込まないテラスの下は昼間でも薄暗い。莉子がスマホのライトでテラスの下を照らすと、黄褐色の球体が奥の方に転がっているのが見えた。「ぴゃっ」いきなり辺りが明るくなったことに驚いたのか、球体から小さな悲鳴が上がった。
「プリムラ、あれ何?」
「あんたの使い魔でしょ。アルマジロだし、怖がって丸くなっちゃったんじゃないの?」
プリムラの言葉にふうん、と莉子は相槌を打つ。そういえばどこかでアルマジロは怯えると丸まるらしいだとか聞いたことがあるような気がする。
プリムラが様子を見に、莉子に先んじて外へ出てからもう既に五分以上が経過している。これでは埒が明かないだろうと思った莉子は一度立ち上がり、庭から玄関ポーチへと戻る。
猫の形をかたどった黒いスチールの傘立てから、先日、カラスの使い魔を捕獲するために物置から出した虫取り網を莉子は引き抜いた。虫取り網を携えて庭に戻ると、莉子はそれをテラスの下へと突っ込む。そして、つんつんと黄褐色の鱗が生えた球体を網の柄の先端でつっついた。
「ぴゃあっっ」
黄褐色の球体は驚いたようにバウンドした。そして、静かになったかと思うと、がたがたと震え出す。「おーい」莉子が再度虫取り網でつっつくと、球体はびくっと体を震わせる。
「ミ、ミツカをいじめないでください……ミツカが何をしたっていうんですかあ……こわいです、帰りたいですう……」
今にも泣き出しそうな哀れな声でそう訴えてくる丸まったアルマジロを前に、莉子は溜息をついた。とんでもなく臆病な子が来たものだ。
「あのねえ、別にいじめてないし、あんただってまだ何もしてないでしょ。ミツカとかいったっけ? 私は清水莉子。私、あんたの手配をJWUに頼んだ魔法使いなんだけど、ここから出てきてくれない?」
「う、嘘ですよう……ミツカのことなんかを必要とする魔法使いなんているわけないんですう。使い魔サブスクのサービスが始まってから、今まで誰もミツカのことなんて見向きもしてくれませんでしたし。きっと、さっきのJWUの職員さんだって、仕事のない穀潰しのミツカに愛想が尽きて、ここに捨てていったに違いないんですう!」
やたらと卑屈なアルマジロの発言に、莉子は苦虫を噛み潰したような顔をした。そして、莉子はどうにかしろと言わんばかりの視線をプリムラへと向ける。
「何であたしなのよ」
「だってプリムラは使い魔としては大先輩でしょ。それにこういうのは同じ使い魔のプリムラがフォローしたほうがよくない?」
「またそんな適当なこと言って……あの子は莉子の使い魔でしょ」
莉子とプリムラがひそひそと言い合っていると、それを聞き咎めたミツカがキーキーと喚き出す。
「そうやってミツカを面倒なものみたいに! ええそうですよ、どうせミツカは面倒な女で、ゴミカスみたいな使い魔ですよう! ミツカは無駄に世界の酸素を消費するだけの出来損ないなんですう!」
誰もそんなこと言ってないじゃん、とあまりにも被害妄想が過ぎるアルマジロに莉子は肩を竦めた。甲高いミツカの声で耳の奥がキーンとする。
莉子の家は魔法使いの家としてある程度地域の理解を得ているとはいえ、これ以上ミツカに騒がれては近所迷惑になってしまいそうだ。彼女の喚き声は結構響く。先日のタツロウの騒ぎで、警察から厳重注意を受けたばかりだというのに、これ以上トラブルを起こすわけにはいかなかった。
「……プリムラ」
莉子が母親の使い魔の名を呼ぶ。彼女は言外にプリムラに行ってどうにかしてこいと告げていた。長年の付き合いでそれを理解したプリムラは、仕方ないわね、と地面へと舞い降りる。そして彼女は小さな華奢な足を動かして、ウッドテラスの下へと入っていった。
莉子はプリムラがミツカを連れて出てくるのを待ち続けたが、待てど暮らせど出てくる様子はない。十分経過したころには莉子はすっかり待つのに飽きて、ウッドテラスでスマホを弄り始めた。莉子は音楽のサブスクアプリを起動させると、暇つぶしに最近SNSで人気の兄弟デュオの曲を聞きながら歌詞を口ずさむ。
プリムラがどうにかミツカを宥めすかしてウッドテラスの下から連れ出せたのは、プリムラがウッドテラスの下に潜って三十分後のことだった。
「莉子」
ミツカを連れて、ウッドテラスの下から出てきたプリムラが疲れた顔で名を呼ぶと、莉子は顔を上げる。あの面倒見の良いプリムラをここまで憔悴させるとは、どうやらミツカはよっぽどの難敵だったようだ。
「プリムラ、お疲れ」
プリムラはこちらに一瞥をくれて軽く頷くと、蝶の羽を羽ばたかせて宙に舞い上がる。彼女はよろよろと墜落しそうになりながらも、リビングの掃き出し窓を開けて家の中へと戻っていった。
莉子はプリムラとミツカのこの三十分間のやりとりなどほぼ聞き流していたが、プリムラの様子から相当大変だったのだろうということが窺えた。この分では自分も彼女には手を焼かされそうだと覚悟を決めると、莉子はミツカと向き合った。
ミツカはもう丸まってこそいなかったが、怯えの色と涙を湛えた黒い目で莉子のことを見上げていた。「よっと」スマホのチェーンストラップを腕に通して、莉子はウッドテラスから下りると、地面から無造作にミツカの体を掴み上げる。
「ぴゃあああっ」
ミツカから悲鳴が漏れたが、そんなことを気にしていてはいつまでも何も進まない。莉子はミツカと目線を合わせると、早々に本題を切り出した。
「ミツカ。共鳴石つけさせてくれない?」
「は……はいぃぃ!? な、何を仰ってるんですかぁっ!?」
ミツカは声を裏返らせて、信じられないとでも言いたげな目で莉子の顔を見た。ミツカは莉子の手の中でがたがたと震えながら、自己肯定感の欠片もない言葉を次々と口にし始める。
「莉子様は本気でミツカを使役するおつもりなのですか? ミツカが言うのもなんですけど、ミツカなんて絶対やめておいたほうがいいですよう。ミツカ、かわいくもかっこよくもないし、魔力量も少ないし、何もできない役立たずだし……」
自分などやめたほうがいいと、涙目で理由を並べ立てるミツカへと莉子は噛んで含めるようにこう言葉をかけた。
「まだ何もしていないうちから、やめておいたほうがいいとかそんなことをミツカ一人で勝手に判断しないでくれる? 私たちが合うかどうかなんてちょっとくらい試してみないとわからなくない?」
「それは……だけど、莉子様は本当にミツカでよいのですか?」
「だから、それを判断するための材料を私にくれって話でしょ」
莉子はミツカを持ったまま、もう一度ウッドテラスの上にのぼると、リビングの掃き出し窓をこつこつと叩きながらプリムラの名を呼ぶ。しばらくすると、キイッという音ともに掃き出し窓が開き、幸せそうに頬をピンク色に染めたプリムラがビールの缶を両手に抱えた状態で姿を現した。プリムラは紫色の目をとろんとさせて、頬を缶に擦り寄せている。見た目は人形のように愛らしい少女のそれなのに、やっていることが完全に中年のおっさんだ。
「はぁぁ……疲れにはやっぱりアルコールが効くわあ……あら、莉子ぉ、どうしたのお?」
微妙に呂律が回っていないプリムラに、莉子は嫌そうに顔をしかめる。薄紅色の可憐な唇から漏れる吐息がやたらとアルコール臭い。おそらく今飲んでいるのは既に一本目ではない。
「うわっ、酒くさっ! プリムラってば昼から飲まないでよね」
先ほど、粘り強く相手をしてくれた妖精の変貌ぶりにミツカも驚いたように目を丸くしていた。
「莉子様……確か、花の妖精というのは花の蜜か果物しか召し上がらないはずなのでは……?」
「プリムラはちょっと特殊なの。うちに長くいるせいで、俗世にまみれちゃったっていうか」
「だって、世の中おいしいものがいっぱいあるじゃなあい? それに、結子ときたら妖精使いが荒くてしょうがないから、飲まなきゃやってらんないわよう」
あーはいはい、と莉子はプリムラの言葉を聴覚の表面で適当に聞き流すと、そんなことより、と用件を告げる。
「プリムラ、共鳴石持ってきてよ。玄関にあった封筒、あの中にどうせ入ってるんでしょ?」
「はいはあい」
妙に陽気な口調で莉子の頼みを了承すると、とプリムラはリビングのマホガニーでできたローテーブルにビールの缶を置く。からんからんと空き缶がテーブルの上で倒れる音がした。しかし、それにも構わず、プリムラはダイニングの方へとふらふらと飛んでいく。
どんっ。ぼとっ。プリムラが何かにぶつかる鈍い音がして、「痛っ……ひゃあっ」悲鳴が聞こえたのを最後に家の中は静寂に包まれた。
「あの……莉子様、今のは……?」
一体何事かと怯えの色を露わにして、ミツカが恐る恐るといったふうにそう聞いてきた。莉子は苦笑する。
「たぶん、壁にでもぶつかって墜落したんでしょ。大丈夫、割とよくあることだから気にしないで。なんかごめんね、あんなのが使い魔の先輩で」
いえ、と何ともいえない顔でミツカは首を横に振る。台所でじゃーっと水音が響く。おそらく酔いを覚ましているのだろうが、見た目に反してやることなすことおっさんくさい。
「まあ、あんなんでも全然使い魔としてやってけてるんだからさ。ミツカもそんなに構えなくていいと思うよ。もうちょっと気楽に行こ、気楽に」
「そういうものでしょうか……」
莉子とミツカがそんな会話をしていると、あんなんとは何よー、と口を尖らせながら、腕にピンク色の共鳴石を二つ抱えたプリムラが戻ってきた。どうやら台所のシンクで水を浴びてきたようで、桃色の髪や白いドレスの裾からぽたぽたと水滴がしたたりおちている。
「別に誰のこととは言ってないじゃん。それよりその共鳴石、早くこっちに渡してよ」
はいはい、とプリムラはジト目で莉子の顔を見ながらも、腕に抱えていたローズクォーツの共鳴石を一つ手渡した。ありがと、と莉子は共鳴石を受け取ると、ミツカに手を出すように促した。
「莉子様……本当に、本当にミツカでいいんですか?」
「ミツカ、何度も同じことを言わせないで。あと、様づけはいらないから。普通に莉子でいいよ」
わかりました、とミツカはためらいがちに頷くと、黄褐色の爪を莉子のほうへと差し出した。
「それでは、よろしくお願いします……莉子」
莉子はよろしく、とローズクォーツのリングをミツカの前足へと嵌める。
「プリムラ、私の分もちょうだい」
莉子がプリムラのほうへと右手の人差し指を向けると、プリムラは手に持っていた共鳴石のリングを莉子の指へとくぐらせた。莉子とミツカの共鳴石が静かな光を放ち始める。本人の自己申告通り、ミツカの魔力量はさほど多くはない。しかし、魔力の質はそう悪いものではなく、安定していた。
「あの……ミツカの魔力、こんなのですけど、本当にいいんですか……?」
申し訳なさそうに尋ねるミツカの黒い目には涙が浮いている。莉子は大丈夫だよ、とにっと笑ってみせる。
「ミツカの魔力、別に悲観するほど悪い感じじゃないよ。それに、魔力量が多すぎて魔力爆発起きちゃうよりよっぽどいいし。
前にママが勝手にドラゴン頼んじゃったことがあったんだけど、魔力量が多すぎて、私じゃ制御しきれなくってさ。魔力爆発起きちゃって、和希んち――隣の家の窓は割れるわ、面倒な保険の申請をする羽目になるわで散々だったよ」
それはそうとさ、と莉子は話題を変える。莉子はアルマジロ――ミツカのことについて知りたかった。
「ミツカってアルマジロなわけでしょ? とりあえずアルマジロって何食べるのか教えてよ。何もあげないってわけにいかないし、かといってプリムラじゃないんだから、ビールとおつまみってわけにもいかないだろうし」
「人を呑んだくれみたいに……普通のごはんだって食べるわよ」
プリムラは莉子を軽く睨みながら、その発言を訂正したが、「別に事実じゃん」莉子はどこ吹く風で受け流した。
「それで、ミツカのごはんでしたよね」
これを聞くと嫌がったり気持ち悪がったりする人も多いんですけど、とミツカは申し訳なさそうに前置きをすると、
「あの、ミツカはアルマジロなのでミミズやコオロギを食べます……」
コオロギって確かゴキブリみたいなやつじゃん、と莉子はそれらしき虫を脳裏に思い浮かべて顔を引き攣らせた。莉子は十代半ばの女子らしく、人並みに虫が不得手だ。
プリムラがリビングのテレビラックに置かれていたタブレットを持って飛んでくる。窓際のフローリングにタブレットを置くと、彼女は小さな手で画面にぺたぺたと触れながら、何かを検索し始めた。
プリムラはしばらくタブレットで何かを調べていたが、とあるウェブページを開くと、タブレットを莉子のほうへと向けてきた。
「莉子、アルマジロのごはんって、必ずしも虫じゃなくても大丈夫みたいよ。ネットで調べてみたら、ドッグフードとかキャットフードでもいいって」
「そうなんだ。ミツカ、そういうのでも大丈夫?」
莉子が聞くと、ミツカはこくんと小さく頷いた。
「ミツカはごはんをいただけるのであれば、莉子のご判断に従うまでですう」
オッケー、と莉子は返事をすると、プリムラへと買い物を頼んだ。
「それじゃあプリムラ、何かよさそうなの見繕ってネットで箱買いしといてよ。支払いはママのカードでよろしく」
わかったわよ、とプリムラは了承すると、ブラウザを閉じて、通販サイトのアプリを起動させる。彼女はミツカの餌をタブレットで見繕いながら莉子へと言った。
「でも、届くまでにたぶん何日か掛かるだろうから、それまでの分はどっかで買ってきてよね」
「はーい。それじゃ、これからホームセンターでも行ってくるかなあ。あっ、今日和希暇かな」
荷物持ちに呼んでやろ、と莉子はスマホの画面をローズクォーツのリングがついた指先でつついて、和希へと通話をかける。その様子を見ながら、プリムラはしみじみと言う。
「……いつものことだけど、和希も可哀想よね」
「プリムラ様、和希様というのは一体どなたなのですか?」
和希が一体誰で、莉子とどんな関係なのかを知らないミツカが莉子の手の中で首を傾げる。ああそうか知らないわよね、とプリムラはミツカへと和希のことを説明してやった。
「隣に住んでる莉子の幼馴染よ。莉子のことが好きみたいで、何かいろいろ付き合わされまくってるの。莉子のほうは特に何も思ってないみたいだから、都合のいい男みたいになっちゃってて可哀想なんだけど」
プリムラとミツカの会話を莉子のスマホのマイクが捉えてしまっていたのか、「都合のいい男って……プリムラ、さすがに俺の認識ひどくない?」憮然とした少年の声がスピーカの向こうから聞こえてきた。
「和希の認識なんてそれで充分でしょ。それじゃまた後で」
莉子はそう言って通話を切ると、掴んだままだったミツカの体をウッドテラスの床板へと下ろす。
「それじゃ私、この後出かけてくるから。ミツカはプリムラと留守番ね。プリムラ、私が出かけてる間にミツカに家のこといろいろ説明しといてよ」
やれやれとプリムラは肩をすくめる。何やかんやといろいろ用事を押し付けてくる辺り、母親が母親なら娘も娘だ。
「まったく、妖精使い荒いところは本当に結子そっくりよね。ミツカ、莉子が無茶なこと言うようなら、あたしに言ってよね」
ほら行くわよ、とプリムラは豪速の先輩風を吹かせながら、ミツカを手招きする。
ミツカはこくんと頷くと、とてとてと四本の足を動かし、窓の桟を乗り越えて家の中へと入っていった。視界からミツカの姿が消えたことで、莉子の共鳴石からすっと光が消える。
莉子も庭履き用の健康サンダルをウッドテラスに脱ぎ捨てると、外出の準備をするため、家の中へと戻っていった。
◆◆◆
先程の電話から一時間後、莉子は和希を伴って近所のショッピングモールに隣接するホームセンターを訪れていた。当然のように和希に買い物かごを持たせて莉子は店内を歩きながら、きょろきょろと辺りを見回す。同じモール内のアパレルショップの類はよく来るが、ホームセンターに関しては勝手がわからない。
「ドッグフードとかキャットフードってどの辺にあるんだろ。ホームセンターってあんまり来ないからよくわかんないんだよね」
和希は天井からぶら下がった番号の札を数えながら、あっち、と突き当りの方を指さした。
「ルディが生きてたころと変わってないなら、たぶんもっと奥の方じゃないかな。突き当たりのペット売ってるところのちょっと手前」
ふうん、と莉子は気のない相槌を打つ。そして、きょろきょろと彷徨わせていた視線を一点に止めると、あっと莉子ははしゃいだ声を上げた。
「和希見て見て、あそこのレジ前のとこ、お菓子安売りしてる! 冬物のチョコレートの大袋のやつ」
お菓子の大袋の山の方に吸い寄せられかけた莉子の若葉色のVネックニットの腕を和希は掴んで引き止める。こんな調子じゃいつまでも目的の売り場にたどり着けない。
「ほら、莉子行くよ。そんなのにいちいち引っかかってたらいつまで経っても用事終わらないから。俺たち、明日入学式なんだから、早く帰って準備とかしたほうがいいだろうしさ」
わかったよ、と少し拗ねたような顔をしながら、莉子は和希の後について店内の奥へと進んでいく。そんな様子の二人を天井からぶら下がった茶色い害虫の姿のぬいぐるみがしらけた目で眺めていた。
清掃用品が陳列された一角を抜けると、にわかにペットフードの扱いが増えてきた。莉子と和希は多種多様な缶詰を吟味していく。
「ドッグフードとかキャットフードってこれ? この缶詰のやつ」
目の前の棚にあった缶詰を手に取り取ると、莉子は和希へとそう聞いた。そうそう、と和希は頷く。
「年齢とか用途でもちょっとずつ違ってるからいろいろ見比べてみよっか」
「一番安いやつじゃだめなの? ミツカがルディみたいに贅沢覚えたら困るし。ルディって気がついたら、ご飯はヨーグルトかけないと食べなくなってたし、水も味のしない野菜スープみたいなのしか飲まなくなってた覚えがあるんだけど」
莉子の指摘に和希はばつが悪そうに、指先で頬を掻く。生前のルディは食に関してはわがまま放題だった。その原因は和希にある。
「あれはちょっと俺がルディを甘やかしすぎたんだよ……。安いご飯あげてたら嫌がるようになっちゃったから、ヨーグルトとかかけてごまかしてたら味をしめちゃってさ……。だから、そうならないためにもミツカには適切なご飯を選んであげたほうがいいと思うな……」
あはは、と遠い目で笑う和希のことは無視して、莉子は売り場のドッグフードの缶詰を見比べていく。一つ上の段にしきりにテレビCMで宣伝されているウェットフードを見つけ、これは? 、と莉子は問うた。
「ああそれ? それ評判いいよ。ほら、これネットの口コミ」
黒のスキニーパンツのポケットからスマホを出すと、和希はぺたぺたと画面をタップし、通販サイトの商品ページを表示させた。そのページには目の前にある商品が表示されており、評価は星四・五と高い。レビューにも好意的な意見が多く見受けられた。
(あれ……まだこいつこんなもの持ってたんだ)
和希のスマホケースの下には、年齢には不似合いなちゃちい造りのストラップがぶら下がっている。そのことに気づいた莉子はわずかに目を見開いた。そのストラップは昔、莉子がまだ幼稚園に通っていたころに作った、アクリル板に和希の誕生花のタンポポを挟んだだけのお粗末なものだった。
(最近、使い魔のことでいろいろ迷惑かけっぱなしだからな……いくら相手が和希だとはいえ、いい加減そろそろ何かお礼しないと)
なにかいい案はないだろうか。莉子は脳内で考えを巡らせる。少なくともこれよりはマシなものにしたい。レジンのストラップじゃ二番煎じだし、サシェを使ったお守りは和希が持つには些か女子っぽすぎる。うーん、と無意識に莉子が唸っていると、どうしたの、と和希は怪訝そうに莉子の顔を覗き込んだ。
「莉子、これはあんまり気に入らない? 何か他の探す?」
その言葉に莉子の思考は現実に引き戻された。今はミツカのご飯のことが先だ。和希へのお礼なんて、はるかに優先度は下だ。
「ううん、なんでもない。これにしとこっか」
莉子はどさどさと何個もドッグフードの缶を和希が持つ灰色の買い物カゴに放り込んだ。「うおっ」ずっしりと缶詰の重みが和希の腕にのしかかる。数日分だけと聞いていたはずなのにやたらと多い缶詰に疑問を覚え、和希はあれ、と首を傾げた。
「……そんなに買うの? プリムラがネットで箱買いしてくれるから、今日買うのはちょっとで言いって話じゃないかった?」
「だって、まとめ買いした方が安くなるってそこの値札のとこに書いてあるし。それに……」
「それに?」
何でもない、と莉子は首を横に振る。せっかく荷物持ちが一緒にいるのだから、買えるだけ買わないと損だという本音は飲み込んでおくことにした。
「さて、ミツカのごはんはもうこれでいいよね? ところで、この後一箇所寄りたいとこあるんだけどいい?」
「いいけど、どこ行くの?」
「手芸屋。ちょっと欲しいものできた」
「了解。だけど、あんまり遅くならないようにしないとね。莉子、この前も手芸屋行ったとき、三時間くらいずっと買い物してたし」
「失礼な。三時間は言いすぎでしょ。せいぜい二時間」
むっとして言い返すと、行くよ、と莉子は踵を返す。やれやれと肩を竦めるとスマホをスキニーパンツのポケットに仕舞い直し、ずっしりと重いかごを持って和希は莉子の春らしい色のニットの背中を追いかけた。



