街道を馬車が走っていた。西へと続くこの街道の先には、宗教都市レシェールがある。
灰色の空からこぼれ落ちてくる花の霙を窓越しに何とはなしにスフェルが眺めていると、彼の向かい側に座るセイランが声をかける。
「スフェル殿下、もうすぐレシェールに着きます。しかし、本当によろしかったのですか? 王族ともあろう殿下の供が私一人で。このように少人数での視察など……有り体にいえば教会関係者にナメてかかられます」
「そう言うから、お前を連れてきたし、馬車での旅にすることを了承したではないか。本来なら、私が単身、オリーブで訪問すれば事足りることだというのに」
己の従者の諫言に、スフェルは嘆息まじりにそう返す。セイランは溜め息をつきたいのはこっちだと胸中で思いながら、
「殿下はあまりにも王族の威厳や形式というものを軽んじすぎです。こうした少人数での電撃訪問で教会側の意表を突き、取り繕う暇を与えないようにするという殿下の意図はわからないわけではないですが……。ですが、せめて身の回りの世話をする侍女の一人くらいはお連れください」
「子供ではないのだから身の回りのことくらい、自分でできる。それに、私にはお前がいるのだから、何も問題はないだろう? 私の側には信頼できる者だけがいればそれでいい」
「でしたら、いい加減エミルを殿下の侍女として召し抱えられたらいかがです? 彼女であれば、書類上は我が家の末席に連なる身分ですから、誰にとやかく言われる心配もありませんし、何より殿下を裏切ることは絶対にありませんから」
スフェルは窓の外の空と同じように表情を曇らせる。ヘーゼルの双眸に物憂げな色を浮かべると、
「私の都合で、あの子の人生をこれ以上掻き乱すことがあってはならないだろう。あの子は窮屈な城よりも市井で穏やかに生きるべきだし、今回のような視察に同行させればあの子の身が危険に晒されかねない。それに、一度あの子には私のそばで働くことを断られているから、しつこく誘うつもりはない」
「要はエミルに嫌われたくないというだけの女々しい理由でしょうに……まったく、殿下は年ごろの娘に嫌われたくない父親か何かですか?」
「……そういうつもりはないのだが」
「常々申し上げておりますが、殿下はエミルに入れ込み過ぎです。それに、以前に殿下がエミルに城で働くように勧めたのは出会って間もないころのことです。あれから三年以上経ち、殿下との交流を重ねた今なら、彼女の考えが変わっている可能性も否めないでしょう?」
まあな、とスフェルは頷く。いつの間にか、遠くに見えていたはずのレシェールの街の門が間近に迫っていた。
「この話はまた、王都に帰ってからにしましょう。ここから先は、国内でありながら、敵地にも等しい場所です。くれぐれも食えないあの枢機卿団の掌で踊らされることのないよう、気を引き締めてください」
「ああ、無論だ。お前に言われずともわかっている」
車体の揺れ方が変わり、馬車が速度を落とし始める。馬車に施された王家の紋章に気づいたのか、門前で警備をする神殿騎士たちが俄かに慌てだすのが視界の先に見えていた。
突然訪問したスフェルたちを出迎えたのは、エイゼン・モールドと名乗る中年の枢機卿の一人だった。どこか哀愁が漂う風貌の、季節外れの厚手の真冬用の法衣を纏ったその男はいかにも迷惑だと言わんばかりの態度を隠すこともなく、スフェルたちを伴って、大聖堂内の回廊を進んでいた。
スフェルは王族としての権威を振り翳したがる性質ではないし、今回の彼の訪問は教会側にとって寝耳に水だったはずだ。しかし、明らかにろくな歓待をする気のないエイゼンの態度に、王族であるスフェルに対してこれはあまりにも不敬ではないかと、セイランは内心で怒りを募らせていた。
回廊を進んでいると、他よりも遥かに目を引くごてごてとした装飾の施された扉の前に差し掛かった。恐らくここが教皇の執務室なのだろうとスフェルが当たりをつけていると、扉越しに男の怒声が響いた。前を歩いていたエイゼンはちらりと扉へと一瞥をくれ、肩を竦める。その顔は静かな陰を帯びたままで、感情が読めない。
「殿下、失礼いたしました。先客があったのを失念しておりました。こちらでお待ちになられますか? 私めとしては面会のお約束を取り付けていただいた上で、公式に日を改めてご訪問いただけると助かるのですが」
悪びれる様子もない、さらりと棘を混ぜ込んだエイゼンの言葉に、構わない、とスフェルは鷹揚に首を横に振ってみせた。ここで気分を害した素振りを見せてしまっては、向こうの思う壺だ。
「ここで待たせてもらおう」
「左様でございますか……しかし、殿下はお忙しい身でいらっしゃるのでは? 事前に訪問のご連絡もいただけないくらいですから」
エイゼンはスフェルの予定を気にするふりをしながらも、嫌味を慇懃な口調の端々に滲ませてくる。それでもスフェルは苦手な作り物の笑みを習慣的に浮かべてみせると、
「エイゼン卿、お気遣い痛み入る。恥ずかしながら、今回は視察と言えども半分私的な旅行のようなものだ。急ぎの旅ではないので、待たせていただこう。こうして、教皇聖下に見える機会など、そうあるものでもないからな」
左様ですか、とエイゼンは頷く。しかし、スフェルの言葉に彼が納得しているようにはセイランには見えなかった。何としてでも教皇に会おうとするスフェルとどうにか招かれざる客である自分たちを追い返そうとするエイゼンの攻防は続く。
「ところで、エイゼン卿。教皇聖下へのご来客というのは一体どのような方だ? 中では随分と穏やかではない話題に興じられておられるようだが」
「ああ、とんだお耳汚しを失礼いたしました。田舎神父風情が教皇聖下に何やら話があるとのことでしたが、あのようなつまらぬ話で聖下にお時間を取らせるとは、何とも嘆かわしいことです」
「……つまらぬ話だと?」
スフェルの口から発せられた言葉が僅かに気色ばむ。彼のヘーゼルの双眸がエイゼンを突き刺すような鋭く強い色を帯びる。その目に浮かぶのははっきりとした非難の表情だった。
部屋の中から分厚い扉を隔てて漏れ聞こえてくるのは、神聖騎士によって村が占拠されただの、神聖騎士により引き起こされた山火事に村が巻き込まれただのという苦情だった。己の聴覚が拾い上げた単語を繋ぎ合わせ、スフェルは頭の中で推測を組み立てていく。
(もしやこれは……ヴェレーンの一件か)
この冬、国内北部のヴェレーン村において、悪名高い神聖騎士団による凶行が行なわれた。かの村では長らく指名手配されていた『紅の魔女』や『災いの子』が匿われていたなどという話もあるが、だからといって神聖騎士団による村の占領や、近隣のロイゼン山に火をつけるなどといった暴挙を認めるわけにはいかなかった。
ルシティア王国の国教を司る聖セレーデ教会の持つ権利をスフェルたち王家の人間は基本的に尊重してきた。力をつけた教会勢力の政治への口出しや、武力行使もある程度は黙認してきた。しかし、教皇が現在のネハン・グレナデンに変わってからというもの、実質的には盗賊や傭兵崩れの荒くれ者集団に過ぎない神聖騎士団による暴力に物を言わせる強引なやり口に、スフェルたちのような政務を担う者たちはほとほと閉口させられていた。
今回山火事に巻き込まれて甚大な被害を負ったヴェレーンの民も、ヴェレーンの一件のそもそもの引き金となった異能者たちも、スフェルからすれば等しく守るべきルシティア王国の国民である。教会側の強硬的で野蛮な行ないにより、民を傷つけられてスフェルは黙っているつもりはなく、この度、彼が視察という名目でレシェールに乗り込むに至ったのもそれが理由だった。
(ネハン・グレナデンのやり方はあまりに目に余る。彼らはやり過ぎた)
そもそも『悪魔の力』をその身に宿す異能者は危険だから殺さねばならないという教義に対してスフェルは懐疑的だ。何かあってからでは遅い、危険の芽は早々に摘んでおくべきだというのは彼とて為政者の端くれとして理解していないわけではない。それでもただ生きているだけで命を奪われなければならないというのは彼には受け入れ難かった。
(このようなことを続ける教会を、腐り切った内部体制を看過しておくわけにはいかない。このままでは何度だってヴェレーンと同じことを繰り返す。強引にでも介入して、現状を変えていかなければ、残るのは荒みきった人心と傷ついた国土だけだ)
扉の向こうからは神聖騎士団の横暴を訴える、真摯な男の声が聞こえてくる。スフェルは自分の心が動くのを感じた。
(枢機卿団をはじめとする教会上層部は腐り切っている。しかし、このようにまっすぐな心を持った、聖職者として正しい人間だっている)
各地の礼拝堂に勤めているような下位の聖職者には、現教皇のやりかたをよく思わないまともな聖職者も多いと聞く。彼らと協力することができたなら、今のこの状況を変えることができるだろうか。
部屋の中で怒声が上がった。先ほどとは違う、不快感を露わにした老人の声だった。続いて何か重量があるものが叩きつけられる音が響く。
「……殿下」
セイランが腰のロングソードの柄に手をやり、主人を庇うように前に出る。藍色の瞳は警戒で細められている。
室内で暴力が振るわれたであろうことは容易に想像がついた。恐らく、暴力に訴えたのは神父の訴えに神経を逆撫でされたのであろう教皇だ。
(教会を束ねる人物がそのような野蛮な……いや、こういう人物の下だからこそ、神聖騎士団などというものが幅を利かせていられる)
「不愉快だ、さっさと出て行くがよい!」
再び怒声が響く。失礼いたします、という男の声とともにギィと重い扉が開く。
部屋の中から姿を現したのは、金髪碧眼の壮年の男だった。人当たりの良さそうな柔和な顔は、頬が紫色に腫れ上がり、血の筋が走っている。
男の体がふらつき、たたらを踏んだ。スフェルが目線で合図すると、セイランがすっと進み出て、男の身体を受け止める。
「大丈夫か」
スフェルは懐からハンカチを取り出すと、男へと差し出す。ありがとうございます、と男は弱々しく礼を述べると、スフェルからハンカチを受け取り、傷口へと当てがう。
「少し冷やしたほうがいいかも知れないな。セイラン、どこかで氷水をもらってきてくれないか?」
「ですが、今お側を離れるのは……」
スフェルの頼みにセイランは渋い顔をする。男は苦笑すると、
「お気遣いいただきすみません。これでも、調薬の知識のある身ですから、このくらいであれば自分でどうにか対処できます」
「しかし……」
エイゼンは冷ややかな眼差しを何か言いたげに顔を曇らせているスフェルへと向けると、
「殿下、本人もこう申しておりますし、これ以上のお心遣いは無用です。それにこのような者にかかわられてはせっかくのお召し物が汚れるかと」
ああ、とスフェルは服の袖口に付着した男の血液に興味なさげに一瞥をくれると、
「それが何だ? 目の前の怪我人に比べたら、服が汚れることくらい些事に過ぎないだろう」
こともなげにそう言ってのけた、目の前の見るからに上質な服に身を包んだ人物の正体に思い至ったらしく、男の青い目が驚きに染まっていく。アッシュベージュの髪にヘーゼルの双眸。エイゼンが口にした殿下という敬称。この特徴に当てはまる人物はこの国にはただ一人しか存在しない。
「もしや……王弟殿下でいらっしゃいますか……?」
男は自分の態度が不敬に当たることに気づいたらしく、その場に跪き、頭を下げようとする。いい、とスフェルは男を押し留め、
「動くな、今はそういうのは気にしなくていい。傷に障るだろう?
私はスフェル・ローデリア。こちらは私の従者のセイラン・ゼーヴェだ。よければ、あなたの名を教えてもらえないだろうか」
「レイモン・ツェルヒと申します。北方のヴェレーンで神父をしている者です」
レイモン・ツェルヒ。スフェルはその名を深く胸に刻み込む。今後、教会の有り様に介入していくのであれば、彼とは深く関わっていくことになる予感がした。
「レイモン神父。よければ、ヴェレーンの件について、後で話を聞かせてもらえないだろうか。及ばずながら、少しくらいは力になれることがあるかもしれない。たとえば……たった今教皇聖下に奏上されていた件とかな」
余計なことを、と言わんばかりのエイゼンの視線がこめかみに突き刺さるが、スフェルは無視をする。真っ直ぐすぎる主のこのような言動に慣れきってしまっているセイランは、最早嗜める気にもなれず、やれやれと呆れの色をほのかに表情筋に滲ませるのみだった。
回廊の外に見える中庭を少し季節遅れの氷雨が濡らしている。すぐ背後まで迫った春の足音に紛れて、激動の時代がひたひたと忍び寄ってきていた。
灰色の空からこぼれ落ちてくる花の霙を窓越しに何とはなしにスフェルが眺めていると、彼の向かい側に座るセイランが声をかける。
「スフェル殿下、もうすぐレシェールに着きます。しかし、本当によろしかったのですか? 王族ともあろう殿下の供が私一人で。このように少人数での視察など……有り体にいえば教会関係者にナメてかかられます」
「そう言うから、お前を連れてきたし、馬車での旅にすることを了承したではないか。本来なら、私が単身、オリーブで訪問すれば事足りることだというのに」
己の従者の諫言に、スフェルは嘆息まじりにそう返す。セイランは溜め息をつきたいのはこっちだと胸中で思いながら、
「殿下はあまりにも王族の威厳や形式というものを軽んじすぎです。こうした少人数での電撃訪問で教会側の意表を突き、取り繕う暇を与えないようにするという殿下の意図はわからないわけではないですが……。ですが、せめて身の回りの世話をする侍女の一人くらいはお連れください」
「子供ではないのだから身の回りのことくらい、自分でできる。それに、私にはお前がいるのだから、何も問題はないだろう? 私の側には信頼できる者だけがいればそれでいい」
「でしたら、いい加減エミルを殿下の侍女として召し抱えられたらいかがです? 彼女であれば、書類上は我が家の末席に連なる身分ですから、誰にとやかく言われる心配もありませんし、何より殿下を裏切ることは絶対にありませんから」
スフェルは窓の外の空と同じように表情を曇らせる。ヘーゼルの双眸に物憂げな色を浮かべると、
「私の都合で、あの子の人生をこれ以上掻き乱すことがあってはならないだろう。あの子は窮屈な城よりも市井で穏やかに生きるべきだし、今回のような視察に同行させればあの子の身が危険に晒されかねない。それに、一度あの子には私のそばで働くことを断られているから、しつこく誘うつもりはない」
「要はエミルに嫌われたくないというだけの女々しい理由でしょうに……まったく、殿下は年ごろの娘に嫌われたくない父親か何かですか?」
「……そういうつもりはないのだが」
「常々申し上げておりますが、殿下はエミルに入れ込み過ぎです。それに、以前に殿下がエミルに城で働くように勧めたのは出会って間もないころのことです。あれから三年以上経ち、殿下との交流を重ねた今なら、彼女の考えが変わっている可能性も否めないでしょう?」
まあな、とスフェルは頷く。いつの間にか、遠くに見えていたはずのレシェールの街の門が間近に迫っていた。
「この話はまた、王都に帰ってからにしましょう。ここから先は、国内でありながら、敵地にも等しい場所です。くれぐれも食えないあの枢機卿団の掌で踊らされることのないよう、気を引き締めてください」
「ああ、無論だ。お前に言われずともわかっている」
車体の揺れ方が変わり、馬車が速度を落とし始める。馬車に施された王家の紋章に気づいたのか、門前で警備をする神殿騎士たちが俄かに慌てだすのが視界の先に見えていた。
突然訪問したスフェルたちを出迎えたのは、エイゼン・モールドと名乗る中年の枢機卿の一人だった。どこか哀愁が漂う風貌の、季節外れの厚手の真冬用の法衣を纏ったその男はいかにも迷惑だと言わんばかりの態度を隠すこともなく、スフェルたちを伴って、大聖堂内の回廊を進んでいた。
スフェルは王族としての権威を振り翳したがる性質ではないし、今回の彼の訪問は教会側にとって寝耳に水だったはずだ。しかし、明らかにろくな歓待をする気のないエイゼンの態度に、王族であるスフェルに対してこれはあまりにも不敬ではないかと、セイランは内心で怒りを募らせていた。
回廊を進んでいると、他よりも遥かに目を引くごてごてとした装飾の施された扉の前に差し掛かった。恐らくここが教皇の執務室なのだろうとスフェルが当たりをつけていると、扉越しに男の怒声が響いた。前を歩いていたエイゼンはちらりと扉へと一瞥をくれ、肩を竦める。その顔は静かな陰を帯びたままで、感情が読めない。
「殿下、失礼いたしました。先客があったのを失念しておりました。こちらでお待ちになられますか? 私めとしては面会のお約束を取り付けていただいた上で、公式に日を改めてご訪問いただけると助かるのですが」
悪びれる様子もない、さらりと棘を混ぜ込んだエイゼンの言葉に、構わない、とスフェルは鷹揚に首を横に振ってみせた。ここで気分を害した素振りを見せてしまっては、向こうの思う壺だ。
「ここで待たせてもらおう」
「左様でございますか……しかし、殿下はお忙しい身でいらっしゃるのでは? 事前に訪問のご連絡もいただけないくらいですから」
エイゼンはスフェルの予定を気にするふりをしながらも、嫌味を慇懃な口調の端々に滲ませてくる。それでもスフェルは苦手な作り物の笑みを習慣的に浮かべてみせると、
「エイゼン卿、お気遣い痛み入る。恥ずかしながら、今回は視察と言えども半分私的な旅行のようなものだ。急ぎの旅ではないので、待たせていただこう。こうして、教皇聖下に見える機会など、そうあるものでもないからな」
左様ですか、とエイゼンは頷く。しかし、スフェルの言葉に彼が納得しているようにはセイランには見えなかった。何としてでも教皇に会おうとするスフェルとどうにか招かれざる客である自分たちを追い返そうとするエイゼンの攻防は続く。
「ところで、エイゼン卿。教皇聖下へのご来客というのは一体どのような方だ? 中では随分と穏やかではない話題に興じられておられるようだが」
「ああ、とんだお耳汚しを失礼いたしました。田舎神父風情が教皇聖下に何やら話があるとのことでしたが、あのようなつまらぬ話で聖下にお時間を取らせるとは、何とも嘆かわしいことです」
「……つまらぬ話だと?」
スフェルの口から発せられた言葉が僅かに気色ばむ。彼のヘーゼルの双眸がエイゼンを突き刺すような鋭く強い色を帯びる。その目に浮かぶのははっきりとした非難の表情だった。
部屋の中から分厚い扉を隔てて漏れ聞こえてくるのは、神聖騎士によって村が占拠されただの、神聖騎士により引き起こされた山火事に村が巻き込まれただのという苦情だった。己の聴覚が拾い上げた単語を繋ぎ合わせ、スフェルは頭の中で推測を組み立てていく。
(もしやこれは……ヴェレーンの一件か)
この冬、国内北部のヴェレーン村において、悪名高い神聖騎士団による凶行が行なわれた。かの村では長らく指名手配されていた『紅の魔女』や『災いの子』が匿われていたなどという話もあるが、だからといって神聖騎士団による村の占領や、近隣のロイゼン山に火をつけるなどといった暴挙を認めるわけにはいかなかった。
ルシティア王国の国教を司る聖セレーデ教会の持つ権利をスフェルたち王家の人間は基本的に尊重してきた。力をつけた教会勢力の政治への口出しや、武力行使もある程度は黙認してきた。しかし、教皇が現在のネハン・グレナデンに変わってからというもの、実質的には盗賊や傭兵崩れの荒くれ者集団に過ぎない神聖騎士団による暴力に物を言わせる強引なやり口に、スフェルたちのような政務を担う者たちはほとほと閉口させられていた。
今回山火事に巻き込まれて甚大な被害を負ったヴェレーンの民も、ヴェレーンの一件のそもそもの引き金となった異能者たちも、スフェルからすれば等しく守るべきルシティア王国の国民である。教会側の強硬的で野蛮な行ないにより、民を傷つけられてスフェルは黙っているつもりはなく、この度、彼が視察という名目でレシェールに乗り込むに至ったのもそれが理由だった。
(ネハン・グレナデンのやり方はあまりに目に余る。彼らはやり過ぎた)
そもそも『悪魔の力』をその身に宿す異能者は危険だから殺さねばならないという教義に対してスフェルは懐疑的だ。何かあってからでは遅い、危険の芽は早々に摘んでおくべきだというのは彼とて為政者の端くれとして理解していないわけではない。それでもただ生きているだけで命を奪われなければならないというのは彼には受け入れ難かった。
(このようなことを続ける教会を、腐り切った内部体制を看過しておくわけにはいかない。このままでは何度だってヴェレーンと同じことを繰り返す。強引にでも介入して、現状を変えていかなければ、残るのは荒みきった人心と傷ついた国土だけだ)
扉の向こうからは神聖騎士団の横暴を訴える、真摯な男の声が聞こえてくる。スフェルは自分の心が動くのを感じた。
(枢機卿団をはじめとする教会上層部は腐り切っている。しかし、このようにまっすぐな心を持った、聖職者として正しい人間だっている)
各地の礼拝堂に勤めているような下位の聖職者には、現教皇のやりかたをよく思わないまともな聖職者も多いと聞く。彼らと協力することができたなら、今のこの状況を変えることができるだろうか。
部屋の中で怒声が上がった。先ほどとは違う、不快感を露わにした老人の声だった。続いて何か重量があるものが叩きつけられる音が響く。
「……殿下」
セイランが腰のロングソードの柄に手をやり、主人を庇うように前に出る。藍色の瞳は警戒で細められている。
室内で暴力が振るわれたであろうことは容易に想像がついた。恐らく、暴力に訴えたのは神父の訴えに神経を逆撫でされたのであろう教皇だ。
(教会を束ねる人物がそのような野蛮な……いや、こういう人物の下だからこそ、神聖騎士団などというものが幅を利かせていられる)
「不愉快だ、さっさと出て行くがよい!」
再び怒声が響く。失礼いたします、という男の声とともにギィと重い扉が開く。
部屋の中から姿を現したのは、金髪碧眼の壮年の男だった。人当たりの良さそうな柔和な顔は、頬が紫色に腫れ上がり、血の筋が走っている。
男の体がふらつき、たたらを踏んだ。スフェルが目線で合図すると、セイランがすっと進み出て、男の身体を受け止める。
「大丈夫か」
スフェルは懐からハンカチを取り出すと、男へと差し出す。ありがとうございます、と男は弱々しく礼を述べると、スフェルからハンカチを受け取り、傷口へと当てがう。
「少し冷やしたほうがいいかも知れないな。セイラン、どこかで氷水をもらってきてくれないか?」
「ですが、今お側を離れるのは……」
スフェルの頼みにセイランは渋い顔をする。男は苦笑すると、
「お気遣いいただきすみません。これでも、調薬の知識のある身ですから、このくらいであれば自分でどうにか対処できます」
「しかし……」
エイゼンは冷ややかな眼差しを何か言いたげに顔を曇らせているスフェルへと向けると、
「殿下、本人もこう申しておりますし、これ以上のお心遣いは無用です。それにこのような者にかかわられてはせっかくのお召し物が汚れるかと」
ああ、とスフェルは服の袖口に付着した男の血液に興味なさげに一瞥をくれると、
「それが何だ? 目の前の怪我人に比べたら、服が汚れることくらい些事に過ぎないだろう」
こともなげにそう言ってのけた、目の前の見るからに上質な服に身を包んだ人物の正体に思い至ったらしく、男の青い目が驚きに染まっていく。アッシュベージュの髪にヘーゼルの双眸。エイゼンが口にした殿下という敬称。この特徴に当てはまる人物はこの国にはただ一人しか存在しない。
「もしや……王弟殿下でいらっしゃいますか……?」
男は自分の態度が不敬に当たることに気づいたらしく、その場に跪き、頭を下げようとする。いい、とスフェルは男を押し留め、
「動くな、今はそういうのは気にしなくていい。傷に障るだろう?
私はスフェル・ローデリア。こちらは私の従者のセイラン・ゼーヴェだ。よければ、あなたの名を教えてもらえないだろうか」
「レイモン・ツェルヒと申します。北方のヴェレーンで神父をしている者です」
レイモン・ツェルヒ。スフェルはその名を深く胸に刻み込む。今後、教会の有り様に介入していくのであれば、彼とは深く関わっていくことになる予感がした。
「レイモン神父。よければ、ヴェレーンの件について、後で話を聞かせてもらえないだろうか。及ばずながら、少しくらいは力になれることがあるかもしれない。たとえば……たった今教皇聖下に奏上されていた件とかな」
余計なことを、と言わんばかりのエイゼンの視線がこめかみに突き刺さるが、スフェルは無視をする。真っ直ぐすぎる主のこのような言動に慣れきってしまっているセイランは、最早嗜める気にもなれず、やれやれと呆れの色をほのかに表情筋に滲ませるのみだった。
回廊の外に見える中庭を少し季節遅れの氷雨が濡らしている。すぐ背後まで迫った春の足音に紛れて、激動の時代がひたひたと忍び寄ってきていた。



