ヴェレーンはこの季節、雪に閉ざされる山間の辺境の村である。村の東の外れにある墓地の裏手には滝があり、ラーウェ川へと流れ込んでいる。氷のように冷たい川の流れの先はシュオレ湖に繋がっていた。
湖畔には木造の風車小屋が佇んでいるが、湖面が凍ってしまっている今は、本来の役目を果たすことなく、雪解けの季節を待ちながら眠りについていた。
埃っぽい匂いのする黒いウールのカーテンが閉じられた風車小屋の室内で、ちらちらと赤い炎が揺れる暖炉にあたりながら、イーシュは不安げに溜息をついた。
「リスルさん……一旦は逃げ切れたってことでいいんでしょうか。村のほうから教会の追手がくる様子もないですし」
リスルとイーシュは、昨日の夕刻に神聖騎士団の僧兵たちと一悶着あった後、村の東の外れにある滝の裏の洞窟でしばらく息を潜めていた。ほっそりとした弧を描く白い月が空の一番高い場所に上ったころ、二人は滝下を流れる心臓が止まりそうなほどに冷たいラーウェ川へと飛び込んだ。そのまま、何時間かかけて河口を目指して、水の中を歩いてきた結果、二人は身を凍えさせながらここに辿り着いた。
「こんな場所、見つかるならとっくに見つかっているわよ。それがこの時間まで追っ手も何もきていないんだから、何日かの間、しばらく身を隠すくらいはどうにかなるんじゃないかと思うわ」
「微妙に怖いこと言いますね……」
要所要所で追手を誤魔化すための小細工をいくつか仕掛けてきてあったが、もしリスルの意図した通りに相手が騙されてくれていなければと思うと、イーシュはぞっとした。教会から派遣された捜索部隊に見つからないで逃げ切れるかどうかも、ただでさえ万全でない体調の自分たちが逃げ切るだけの体力が残されているかどうかも賭けで、すべてが危うい綱渡りの上で成立していた。
自分たちを逃してくれた神父たちはどうなっただろうか。教会から指名手配されている自分たちを庇い、親切にしてくれたあの人々は酷い目に遭っていないだろうか。あの荒くれ者揃いで悪名高い連中のことだ、彼らに乱暴を働いていない保証などどこにもない。
イーシュは、村に残してきてしまった優しい人々の身を案じながら、ゆらゆらと揺れる暖炉の炎を見つめる。憂いを帯びた濃茶の瞳を認めると、リスルは言った。
「イーシュ。今は身体を休めることを第一に考えなさい。元々疲れが溜まっていたところにこんな無茶をしたんだもの、もういい加減に体はぼろぼろよ。わたしもあなたも、ね」
「でも……」
「いいから。ね?」
リスルは強引にイーシュを埃の匂いがするベッドへと追いやった。戸棚にあった毛布を出してくると、リスルはその足元に腰を下ろして毛布に包まった。何だかこんなやりとりは久々な気がして、こんなときだというのにリスルの口元が自然と綻ぶ。生きていたころの弟の年よりイーシュのほうがいくつか上で容姿も特に似てはいないが、自分が普通の人間で、あんな事件さえなければ、こんな時間が今でも続いていたのかもしれない。
「リスルさん……?」
不審げにイーシュの声が投げかけられる。ああ、ごめんね、とリスルは彼を振り返り、
「弟のことをね、思い出していたのよ。イーシュよりいくつか年下だったんだけどね」
「弟さんって……」
きっと『アルクスの大火』で亡くなったのであろうリスルの家族のことを詳しく聞くのは憚られた。人の命を奪うことの重さをイーシュは身をもって知っている。それが大切な相手であれば、その苦しみは相当なものであることは想像に難くない。
「あの子はもう、とっくにこの世にはいないのだけれど……いいえ、違うわね……わたしがあの子を殺してしまったのよ」
「……」
自嘲気味に呟くリスルから、イーシュは気まずげに視線を外す。ごめんなさい、とリスルは黙り込んでしまったイーシュへと詫びる。あれは能力を制御できずに暴発させてしまった自分のせいなのだから、彼にこんなふうに気を遣わせることではない。それにどのみち、あの事件がなくとも、病弱な弟は大人になるまで生きていられたかわからないし、長年、異能を酷使し続けたせいでリスル自身の命も今や風前の灯だ。もし違う人生を歩んでいたとしても、今も誰一人欠けることなく家族と一緒にいられた可能性は低かった。
リスルはイーシュの灰色の髪をそっと撫でる。十四歳という難しい年頃の少年は少し気恥ずかしそうにしていたが、抵抗することはなく大人しくしていた。
イーシュがどんな感情をリスルに抱いているかも知らずに、こうやって年の離れた弟のように扱ってくることに関しては物申したくはあるが、イーシュとしてはこうやって彼女に触れられることは嫌いではなかった。こんなときだというのに、心臓がそわそわと騒ぎ出す。
「そうね、せっかくだから寝物語に昔話でもしましょうか」
リスルは過去を懐かしむように、穏やかな目でイーシュを見つめた。今ならば、これまで触れることのできなかった古傷を純粋な思い出として振り返ることができる気がした。イーシュは早くなった鼓動を悟られないように気をつけつつ、こくりと頷いた。彼女の綺麗な新緑の双眸に写った自身の姿が少し挙動不審気味に彼を見ていた。
「昔、南の田舎町にある少女がいました」
リスルは歌うような口調で語り始めた。
「少女は陽気で大らかな父親とおっとりとした母親、病弱な弟の四人家族で、葡萄を育てながら幸せに暮らしていました。
一見、普通であるように見えましたが、少女には生まれつきある特技がありました。少女は他人よりも勘が鋭く、天気や水のありかを当てること、天変地異をいち早く察知することができました。たまに人ならざる自然の声を聞くこともありましたが、少女はそれが身の内に宿った『悪魔の力』によるものとは知らず、特に違和感を覚えることはありませんでした」
リスルは穏やかな口調で滑らかに言葉を紡いでいく。本当にそんな感じだったな、と彼女は思う。自分には力が身近なもの過ぎて、あのころはその特異性に気づいていなかった。
「あるとき、レシェールで教皇の代替わりが行なわれました。新しい教皇は『悪魔の力』を厳しく取り締まりました。少女の能力についても教会の知るところとなり、少女は火刑に処せられることとなりました」
火刑と聞き、イーシュは身を震わせる。
「リスルさんは……」
イーシュは何か言いかけたが、言葉の続きが見つからなかったのか口籠る。その様にリスルは苦笑する。この子は繊細で優しい子だ。きっとイーシュはリスルのことを気遣おうとしてくれた。
「あのね、イーシュ。別にこれはわたしの話だなんて一言も言っていないわ。これはあくまである少女の話」
「……」
イーシュは明らかに納得していない顔で黙り込む。
「火刑に処せられた少女は、燃え盛る炎の中で”何か”の声を聞いたわ。少女はその声に導かれるまま、力を解き放ち――暴走させてしまった力により故郷の町を業火で包み、一夜にして燃やし尽くしてしまったの。焼け跡には何も残らなかった。少女も町から姿を消したわ。
去り際に少女は、傷ついた小鳥の命を救ったというわ。罪もない命をたくさん奪っておきながら偽善もいいところだとは思うけれど……せめてもの贖罪のつもりだったのかもしれないわね」
己を蔑むようにリスルは嗤った。そんな彼女の表情をイーシュは見ていられなくて、
「あの……俺にはよくわからないですけど。でもその人は神様でも何でもないただの人間なわけでしょう? なら、すべてを救うことなんてできないのは当たり前のことだし、せめて目の前の命だけでも救おうとして何がいけないんですか? それを偽善なんて言葉で扱き下ろすのってどうなんだろうって俺は思いますし、そういった状況下で他者に手を差し伸べられるだけその人は立派ですよ」
イーシュの言葉にリスルは明るいグリーンの瞳を見開いた。思いがけない肯定的な言葉が彼女の心をじんわりと温かくさせた。目の奥が熱くなるのを感じながら、リスルは、
「ありがとう。イーシュ」
「……別に、俺は何も」
イーシュは照れ隠しのつもりか目線を泳がせながらぼそりとそう呟いた。リスルはくすり、と小さく笑い声をこぼした。もう子供は休みなさい、と彼女が言うと、イーシュは何とも言えない顔で、
「そうやって世話を焼きたがるところ、リスルさんって、本当にお姉さんって感じですね」
「そうかしら?」
「ええ。うちの姉もそうやって何かと俺の世話を焼きたがりましたから。まあ、もう俺のことなんて覚えてないでしょうけど……」
寂しそうなイーシュの言葉にリスルはあれ、と思う。てっきり『フィエロの悪夢』の当事者である彼も家族と死に別れているのかと思っていたが、今の口ぶりでは彼の姉は生きているように聞こえた。
「イーシュのお姉さんは今は……?」
リスルは慎重に言葉を選びながら、イーシュへと問うた。
「生きてますよ。もっとも、過去の記憶はないみたいでしたけど……でも、あんな目に遭ったんだから、そのほうがきっと姉さんにとっても幸せでしょう」
「……」
返答に困ってリスルは沈黙した。何が幸せなのかはイーシュの姉自身が決めることとはいえ、この歳の少年がこんなふうに言うのは悲しいことだと思った。肉親が生きているとわかっているのに、別れを選ばざるを得なかったイーシュの心境を思うと、まるで自分のことのように胸が締め付けられた。
リスルの表情が曇ったことに気づいたイーシュは、
「別に、リスルさんがそんな顔をしなくても……」
「だって……お姉さんと離れ離れになることはきっと、イーシュにとって辛いことだったはずでしょう? 当時、あなたはまだ十一歳で、恐ろしい体験をした後にそんな苦しい選択をしないといけなかったなんて……」
イーシュが辿ってきた人生の惨さに、リスルの言葉尻が震えた。
「だからこそ、ですよ。村が盗賊に襲われたときに、能力が発現して……力を暴走させて、姉さん以外、村の人も盗賊も全員殺してしまったのは俺です。俺は、そんな得体の知れない力を持った自分のことが化け物みたいに思えて、恐ろしくなって逃げたんです。姉さんを王都の近くの街道沿いに置き去りにして。俺は……姉さんと一緒にいるのが怖かったから。一緒にいたら、いつか傷つけてしまいそうで」
「イーシュ……」
リスルにはイーシュの気持ちが痛いほどわかった。彼女自身も自らの手で故郷の町を焼き滅ぼしてしまったとき、自分は教会の言う通り、悪魔の祝福を受けた『魔女』なのだと思った。長い年月を経て、力の扱い方は覚えたものの、あのときに感じた己への恐怖は今も彼女自身に寄り添って離れない。
イーシュはぽつぽつと呟いた。
「あれから、姉さんの様子を見に、一度だけ王都に行ったんです。運良く誰かが姉さんを保護してくれたみたいで、姉さんは王都の礼拝堂に身を寄せていました。ただ、姉さんは記憶を失っていて……昔とは違う名前で呼ばれていました。
どういう経緯で知り合ったのかはわからないけれど、姉さんの近くには、”殿下”って呼ばれている男の人がいて……姉さんはもう、俺なんかが関わっちゃいけない世界で生きているんだなって感じました」
”殿下”と呼ばれていた青年は、イーシュの姉――ユーフェを”エミル”という神の使徒の一人と同じ名前で呼んでいた。その様子を陰からそっと見ていたイーシュは、安堵するとともに寂しさを感じた。あのころの面影は確かに残っているのに、彼の手の届かないところに彼女はいた。呆れたように名前を呼ぶその声はもう二度と彼に向けられることはない。あのとき、彼は自分の選択の意味を改めて噛み締めることとなった。
「俺の――俺たちの周りからは、皆、いなくなるんですね。俺はこんな得体の知れない力なんていらなかった。ただ、普通に生きたかったっ……じいちゃんと姉さんと一緒にいたかったっ……!」
沸き起こる感情を押し殺そうとするようにイーシュは吐き出す。しかし、その口から溢れる言葉は次第に湿り気を帯びていく。彼は自分の毛布を頭からすっぽり被ると寝台の上で寝返りを打ち、枕に顔を強く押し当てた。リスルは微かに震える頼りない背中をぽんぽんとさすってやる。
「そうね。わたしもそうだわ」
家族とともに平穏に暮らしていきたかったのはリスルだって同じだ。あのまま暮らしていけるなら、こんな力なんて欲しくなかった。
「……今はこうやって一緒にいてもきっといなくなるんですよね。リスルさんも」
「ええ、そうね。わたしはもう長くないもの」
そう言って微笑んだリスルの顔は疲れを感じさせた。やりきれない気分になって、イーシュは彼女へと言い募る。
「何で……何で、リスルさんはそうやって誰かのために力を……? 寿命を削ってまでリスルさんが誰かを助けるメリットなんて何もないじゃないですか……! それなのに、どうして……!」
「わたしはね、自分に助けられる力があるのがわかっていて、目の前の人をするような真似はしたくないの。それに、わたしは自分が教会の言うような悪魔に祝福された眷属なんかじゃない――『魔女』なんかじゃないって証明したかったのかもしれない」
「だからって……! 馬鹿なんですか、リスルさんは……!」
泣きそうな顔でそう詰ってくるイーシュに、リスルはただごめんねと言って抱きしめることしかできなかった。身体を包む柔らかな感触にイーシュは身じろぎしたが、その腕を振り解きはしなかった。
「イーシュ。わたしはあなたの傍にずっとはいられない。だけど、あともう少し……わたしの命の終わるその時までは一緒にいるから。約束するわ」
リスルがそう言うと、腕の中でイーシュは微かに頷いた。
あの日弟と交わした約束は守れなかったけれど、この約束こそは決して破らせないで欲しいと彼女は願った。
リスルとイーシュが湖畔の風車小屋に逃れてから三日が過ぎた。
肩から毛布を被り、椅子で眠っていたリスルは、明け方、イーシュによって揺り起こされた。
「リスルさん、起きてください。外が大変なことに……」
「ん……ふぁ……どうしたの、イーシュ」
眠い目を擦り、欠伸を噛み殺した間延びした声でリスルが応えると、イーシュは血相を変えて畳みかけた。
「外を見ればわかります! 山が燃えて……!」
山が燃えている。その言葉に反応して、リスルは完全に覚醒した。彼女は両頬を叩き、真顔になると立ち上がる。被っていた毛布を床に脱ぎ捨てると、彼女はイーシュに引っ張られるようにして小屋の外へ出た。
まだ夜の気配が色濃く残る暁の空の下、ヴェレーン村の向こう側にあるロイゼン山が赤く燃えていた。少女時代のトラウマを刺激され、リスルは口元を押さえて立ちすくむ。何とか絞り出した声も意味のない音にとなり、白い吐息と共に空気中へ霧散していく。
「な……」
山火事が起きていた。風向きが悪く、ヴェレーンへと炎が降りてくるのも時間の問題だった。
これに関われば自分はきっと、生きて朝日を見ることはないだろう。何となくそんな予感がした。
けれど、これは自分たちが招いた結果だ。リスルは我が身可愛さにこのままこの地を離れることなどできなかった。
「ロイゼン山へ行くわ。イーシュはここにいて」
ロイゼン山のある南西の方角へ走り出そうとするリスルをイーシュはその腕を掴んで止める。
「やめてください、危ないです。そもそも行って何をするつもりなんですか」
「わたしにできることをするの。《ヴィサス・ヴァルテン》の力をもってすれば、直接的な鎮火はできなくても、燃え広がる方向を変えることくらいはできるわ。緩衝帯を用意してそっちに炎を誘導してやれば……」
リスルは一人で木を切り倒して燃えるものを無くし、地面を掘って溝をつくることで延焼を食い止めるつもりだった。リスルがそれをイーシュに話すと、彼は首を大きく横に振った。
「無理ですよ! リスルさん一人でできることじゃないですよ! いくら異能があるっていったって、それ以外はリスルさんは普通の女の人じゃないですか! 無謀です!」
「無理でも無謀でもやらなきゃいけないの。これ以上、あの村に迷惑はかけられないもの。
イーシュ、気付いている? あの山火事、恐らくはあいつらの仕業よ」
「え……?」リスルの言葉にイーシュは唖然として固まった。彼は唇を戦慄かせながら、「あいつらって、あの捜索部隊の……? 何でそんな……?」
「大方、わたしたちが見つからないことに焦れて、手っ取り早く山を焼き払うことにしたってところでしょう。山に逃げ込んでいれば焼け出されてきたわたしたちを捕まえることができるし、そうじゃなくてもわたしたちに対する見せしめになる」
いかにも粗野なあいつらが考えそうなことだわ、とリスルは吐き捨てた。
「あいつらの思惑に乗せられるようで癪だけれど、わたしは行くわ。あの村に被害は出させない」
毅然としてそう告げたリスルをイーシュは押し留め、
「だからって、それはリスルさんが一人で行く理由にはなんないですよ。俺にも手伝わせてください。
ここに逃げてくるときだって言ったはずです。俺はリスルさんに守られるばかりは嫌だって。自分に今できることをしたいって思うのはリスルさんだけじゃないんです。俺だって同じです」
イーシュの焦茶の双眸に真摯な光を認め、リスルはやれやれとかぶりを振った。こうなったらこの子は恐らく意地でも聞かないだろう。
「仕方ないわね。ただ一つ、危なくなったらあなた一人でも絶対に逃げること。それだけは約束してちょうだい。それでいいなら一緒に来て、イーシュ」
リスルとイーシュは三日前とは逆に川上に向かってラーウェ川沿いを歩いていた。ヴェレーンに近づくと、風に流された煙が既に村へと降りてきていた。じきに朝が来るはずの空はまるで曇天のような灰色で覆われていた。
リスルは首元に巻いていた淡いベージュのチェック柄のストールを解くと、イーシュの口元を覆うようにぐるぐると巻いた。
「イーシュ、これで口を覆っておきなさい。あまり煙を吸うと、喉を痛めるわ」
リスルがモッズコートの袖口で口元を押さえながらそう言うと、イーシュは大人しく頷いた。
村の様子は気になるが、教会の捜索部隊が駐留している以上、あまり目立つわけにはいかない。リスルたちは村の中は通らずに、外縁に沿って西側にあるロイゼン山へ向かうことに決めた。
風車小屋の物置に保管されていた古びて錆の浮かぶ斧とシャベルを二人は担ぎ直し、その場を立ち去ろうとすると、聞き覚えのある声が響いた。
「シスター・リスル? それにイーシュ君も一緒だったんですね。無事でよかった」
「……レイモン神父」
人の良さそうな見知った壮年の男の顔を認め、リスルはその名を呼んだ。
「どうしてここに?」
「毎日夜明け前にここに参拝するのが私の日課なのですが……教会に戻ろうとしたら、山が燃えているのに気がつきまして。それより、シスター・リスル。あなたこそ、どうしてここへ?」
「わたしたちもあの山火事を見て……これからロイゼン山へ向かうところです」
リスルがそう答えると、神父の表情に厳しいものが浮かぶ。
「シスター・リスル。あなたは今すぐに、イーシュ君を連れて、この地を離れなさい。こんなことになった以上、村の人々はあなたたちに決して良い感情を抱くことはないでしょう。私たちとしてもあなたがたをこれ以上、庇い立てすることはできません」
レイモンの言葉に、わかっていますとリスルは頷いた。その上で彼女は、ですがと言葉を続ける。
「あの山火事はわたしたちが見つからないことに焦れて捜索部隊が暴走した結果なのでしょう?」
ええ、まあとレイモンは歯切れ悪く言葉を濁す。
「なら、わたしたちはわたしたちの招いた結果に対して責任を取るべきです。わたしたちはこれからロイゼン山に行って、山火事の対応をします。これ以上、この村に迷惑はかけられませんから」
「そうは言ってもあなたたち二人がロイゼン山に行って何になると言うのです? 何ができると言うのですか?」
突き放すようなことを言っておきながら、リスルたちの身を案じないでいられないレイモンの善良さにリスルは苦笑した。
「レイモン神父。わたしたちの力を使えば、通常よりも効率的にこの山火事に対応できるはずです。どうやら、わたしたちは教会が言うところの悪魔の祝福を受けた眷属とやららしいですから」
ついつい言葉の端に皮肉が混ざってしまって、リスルはしまったと思う。しかし、レイモンはそれに気付かなかったかのように、
「シスター・リスル、イーシュ君。道具が使い方によっては人を傷つけも助けもするように、きっとその力も使い方次第です。どうか……私に、その力は人の世に仇なすものではないのだと信じさせてください」
ええ、とリスルが頷いた。レイモンのその言葉が嬉しかった。
彼の善良さに付け入りたくはなかったが、リスルはどうしても彼へ伝えておきたいことがあった。なるべくなら、後顧の憂いは今のうちに断っておきたかった。
「わたしに何かあったときは、イーシュが一人で逃げられるよう、手を貸せとは言いませんが、出来れば見て見ぬ振りをしてあげてください。
レイモン神父、短い間でしたが、お世話になりました。わたしは……この地で生を終えてもいいと思う程度には、この村が好きでした」
彼女はレイモンにそう耳打ちをすると、斧を手に歩き始める。
「シスター・リスル……? ちょっと……!」
それでは、と歩き去るリスルの言葉に遺言めいたものを感じ、レイモンは彼女を咄嗟に引き留めようとする。しかし、彼女は振り返らなかった。
イーシュは黙ってそれまでのやりとりを見ていたが、レイモンの表情に胸騒ぎを覚えた。彼はレイモンに静かに黙礼すると、遠くなり始めた茶色い髪が流れる背中を追いかけた。
先を行くリスルに追いついたイーシュは、彼女と共に雪の積もった山道を歩いていた。辺りには煙が立ち込めていて、すぐそばにいるはずのリスルの姿さえも見失ってしまいそうなほどに視界が悪い。煙が目に染みて痛い。
リスルは辺りを探るようにしながら、慎重に歩みを進めていた。彼女は記憶の中の地図の情報を引っ張り出して、
「もう少し北寄りに進めば、崖になっていたはず。作業をするなら、たぶんそっちのほうがいいわね。元々燃えるものが少ないから、作業量を抑えられるわ」
方角すら怪しい中、二人はブーツの底で雪を踏みしめながら歩く。今の状況では、すぐにうっかり獣道へ迷い込んでしまう。
ふいにイーシュは体勢を崩し、足元を滑らせた。それまで立っていた場所の雪が崩れ、下へと落ちていく。咄嗟に持っていたシャベルを地面に突き立てたが、体重に耐えられずに傾いでいく。
「あっ」
声を上げたイーシュへとリスルの手が伸びてきて、腕を掴んだ。
「イーシュ、大丈夫?」
そういって引き上げてくれたリスルの腕は若い女性のものらしく華奢だった。イーシュは己を情けなく思いつつも、その腕に縋りながら這い上がる。
「ごめんなさい、わたしのミスね。思ってたよりもだいぶ進んでいたみたい」
「いえ……俺も注意不足だったので……。
ところで、ここが崖になっているってことはリスルさんが目指してたのはここですか?」
「そうみたいね。イーシュ、大丈夫そうなら、その辺りからずっと一直線に地面を掘って、溝を作ってくれる? わたしはこの辺りの木を切り倒すわ」
足元には気をつけてね、とイーシュへ注意を促すと、リスルは持ってきた斧の柄を両手で握り、振り上げようとする。しかし、気迫だけはそれっぽい感じを漂わせているが、姿勢がおかしいのかどことなく腰が引けている。生い茂る木々はどれも太く高かった。イーシュは何回目になるかわからないが、あまりにも無謀なことをしようとしていると思いが脳裏をよぎり、つい口を挟んでしまう。
「あの……リスルさん、斧を使ったことは……?」
「昔、教会の追手から逃げるときに投げつけてやったことならあるけれど……本来の使い方をしたことはないわね。それでもまあ、どうにかするわ。どうにかするしかないんだもの」
「無謀です……」
イーシュは半眼でリスルを見やりつつ、嘆息した。妙に気迫だけはこもっている理由については得心したものの、なぜ自分を含めて異能者というのはこうにも行き当たりばったりな発想になってしまうのだろうと頭を抱えざるを得ない。
(……あ)
イーシュはあることを思いつき、リスルに声をかける。
「あの、リスルさん。俺、一つ試してみたいことがあるので、この前みたいにフォローしてもらえませんか? 上手くいけば地道に木をどうにかしようとするより、効率がいいかもしれません。時間、ないんですよね?」
ええ、とリスルは斧を下ろして頷いた。
「それで、何をするの?」
「俺の力なら、木を切り倒すくらいのことは造作もないはずです。俺が力を押さえられなくなったら、俺を気絶させてください」
「わかったわ。けれど、用途がそれなら、力に形を持たせたほうが良さそうね」
「力に形を持たせる?」
イーシュが聞き返すと、ええ、とリスルは頷いた。
「物には用途によって適した形があるでしょう? あなたの力はちょっと木を切り倒すくらいのことに使うには大きすぎるの。この前は、ただ少し力を発動させればいいだけだから良かったけれど、今回は力を小さく絞った上で指向性を持たせる必要がある。だから、あなたが取り回しやすい形に力を変えてやったほうがいいのよ」
力の形を強くイメージするの、とリスルは言った。
自分の力が大きすぎるというのなら、きっと小さなもので構わないのだろうとイーシュは考える。
イーシュは頭の中で花を思い描いた。名前は知らないが、ヴェレーンの村長宅の庭にあった寒い季節に咲く薔薇によく似たスモーキーな色合いの花だ。何となくリスルに似ているような気がしていて、記憶に残っている。
小さな八重咲きの花を思いながら、イーシュは腹の底に力を込める。静かに呼吸を繰り返し、気持ちを落ち着かせていく。体の中で眠っていた力の奔流が沸き起こると同時にイーシュの双眸が琥珀色の輝きを宿し始める。暴走しそうな力を丹田に込めた力と己の意志で抑え込みながら、利き手へと纏わせていく。この前はここで力に呑まれかけた。リスルが意識を現実に引き戻してくれたから、あのときは事なきを得たが、正直怖い。
「大丈夫よ、イーシュ。落ち着いて。わたしがいるわ」
リスルの言葉にイーシュは頷き返した。弱気になりかけた心を叱咤し、手の中の力をイーシュはほんの僅かに解放した。
鈍色の光を帯びて、小さな金属の欠片がイーシュの指先に顕現する。彼は小さく息を呑み、意識的に腹に力を込め直す。今のところ失敗ではなさそうだが、うっかり気を緩めて力を暴走させるわけにはいかない。
彼の指先をぐるっと囲むように金属の欠片が連なり、八重咲きの花を形作っていった。幾重にも重なり合う花びらは冷たい銀色で、鋭く研ぎ澄まされている。
イーシュが生い茂る木の幹へと指先を向けると、彼が生み出した美しい金属の花は高速で回転しながら飛んでいった。それは木の幹を傷つけると、はらはらと銀色の欠片を散らしながら、イーシュの元へと戻ってくる。花びらの刃が触れた木が、切断面を露わにして傾いていく。
その様を呆然と眺めていたイーシュははっとして、体を突き破って出てこようと暴れている力に意志の力で蓋をする。体の中から湧き上がってきていた力の流れが消えていくのを感じる。ただの鋼の欠片となってイーシュの指先で浮遊していた花びらは力を失って、空中で霧散して消えていった。
「上手くいった……?」
信じられない思いでイーシュは呟く。彼の双眸は元の焦げ茶色に戻っていた。
リスルの監督の元とはいえ、自分で力を制御できたことが信じられなかった。
「ええ、成功みたいね。すごいわ、イーシュ」
リスルは微笑み、イーシュの髪を優しく撫でた。イーシュは子供扱いされることに多少憮然としつつも、悪い気はしなかった。
負担がかかりすぎないように何回かに分けてイーシュは力を使い、辺りに生えていた木を薙ぎ払った。周囲の木々をあらかた切り倒し終えるころには、イーシュも何となく力の制御の仕方がわかるようになってきていた。
イーシュの様子に注意を払いつつも、シャベルで地面を掘り進めていたリスルは、
「ありがとう。木はもうこのくらいで良さそうよ。イーシュのおかげで助かったわ」
少し休んでいて、と言ってリスルはシャベルを動かす速度を上げようとする。しかし、その腕の動きは重かった。彼女の細腕が悲鳴を上げている。
「リスルさん、俺代わりますよ。リスルさんのほうこそ休んでいてください」
慣れない力の制御でだいぶ疲れてはいたが、それを表面に出さないように気をつけながら、イーシュはリスルの手からシャベルを奪い取る。錆びついたシャベルには水分を多く含んだ泥がこびりついていて重かった。
イーシュは腰を入れて重いシャベルで地面を掘り返していきながら、先程、レイモンと別れたときのことをぽつりと口にした。
「リスルさん。先程、神父様と何を話していたんですか?」
「……え?」
イーシュが切り倒した木の残骸の上に腰を下ろしていたリスルの顔が一瞬強張った。彼女は慌てて取り繕うように、
「何でもないわ、気にしないで」
「何でもないって顔じゃなかったですよ、神父様。もしかしなくても……死ぬ気ですか、リスルさん」
「山火事の起きている山に立ち入るんだもの、その可能性は充分にあるでしょう? わたしに何かあったときに、あなたが無事に逃げ延びられるように、手助けはしなくてもいいから見逃してあげてほしいってお願いいしただけよ」
「……」
いまいち納得のいかない顔でイーシュはリスルを見やった。
リスルよりも若い自分に彼女がなるべく負担をかけまいと配慮してくれているのはわかる。しかし、リスルは何かを隠しているような気がした。
彼女に助けてもらい、守ってもらうことしかできないのが心苦しい。自分がもっと年齢を重ねた大人の男で、こんなふうに何もかもが未熟ではなければとイーシュは思う。けれど、今の自分は彼女にとって足手まとい以外の何物でもないに違いなかった。
リスルは切り株に腰を下ろしたまま目を閉じ、ほんの少し力を解放した。彼女の髪が紅に染まっていく。感覚を研ぎ澄まし、自然の中に宿る”モノ”の声に耳を傾ける。
ふいにふらりとリスルの体から力が抜けた。すぐに腹の底に力を込め、体勢を整えたが遅い。
「……あっ」
山を焼く炎の流れを探るだけのつもりだった力がリスルの体を逆流し、暴発した。彼女の華奢な身体が赤い光を伴って明滅する。轟々と音を立てて風が荒れ狂う。暴風に煽られた炎が火の粉を盛大に撒き散らしながら、東へと流されていく。
「……村が!」
そう叫んでリスルは立ち上がる。風に嬲られる髪は元の茶色に戻っていた。
「このままじゃヴェレーンが焼ける……!」
わたしのせいで、と悲壮な顔で声に出さずに呟いたリスルの手を、イーシュはシャベルから手を離して握った。何ができるわけでもないけれど、思わず出た動作だった。
「リスルさん、もしかして……」
これまで毅然と振る舞っていたリスルの顔は、寒さのせいだけでなく青白い。イーシュが握ったその手は微かに震えていた。
彼女の余命が幾許もないことは知っていた。しかし、彼女の異能――《レーヴェン・スルス》の代償がこれほどまでに彼女を蝕んでいるとは想像できていなかった。
「言わないで。大丈夫、わたしは大丈夫だから。それよりも今は……」
リスルは首を横に振り、そう言った。大丈夫というその言葉はまるで彼女自身に言い聞かせているかのようだった。イーシュにはそれが何だか痛々しく見えた。
「全然、大丈夫じゃないですよ。たぶん、俺が思うよりもずっと、リスルさんの身体はぼろぼろなんじゃないですか?
俺は……そんな人を村に向かわせられません。リスルさんはどこか安全な場所で休んでいてください。村には俺一人で戻ります。もしかしたら、こんな俺でも何かできることがあるかもしれない」
「いいえ、わたしも行くわ。この事態を招いたのはわたしだもの。たとえ、石を投げられようと、唾を吐きかけられようと、責任は取らないといけないわ。せめて、最期に……一人でも多くの命を救いたいの」
リスルは自嘲するように笑う。最期って、とイーシュは目を見開いた。
「責任、責任って、なんでリスルさんはそうやってすぐ自分で背負い込もうとするんですか! それになんでそうやって最初から生きることを諦めちゃうんですか! この力のせいで絶望して、死にたいって思い詰めていた俺を掬い上げてくれたリスルさんはどこにいっちゃったんですか!」
ぽろりとイーシュの昂った感情に呼応するかのように双眸から透明な雫が滴り落ちた。鼻の奥がつんとして塩辛い。しかし、イーシュの口から溢れ出る言葉は止まらない。
「なんでそうやって、いつもいつも正しくあろうとして、自分の身を削るようなことをしちゃうんですか! 俺はたとえ正しくなくても、『聖女』なんかじゃなくても、リスルさんがリスルさんのままでそこにいてくれたらそれでいいんです! だから……」
イーシュの顔がぐしゃりと歪んだ。リスルはそっとイーシュの肩へ手を置く。
「……ごめんね。だけど、わたしはやっぱりこうすることしか選べないみたい。
それにこのまま、あの村を見捨てて逃げれば、ただでさえ教会から追われる身のわたしたちの立場はより悪いものとなるわ。悪魔の祝福を受け、災いを齎す、って。わたしは……あなたの未来を守りたい」
俺の未来、とイーシュは濡れた目を紺色だったダッフルコートの袖口で乱暴に拭いながら怪訝そうに聞き返す。そうよ、とリスルは頷いた。
「きっと、いつまでもこんな時代は続かない。わたしは、あなたが人並みに幸せに生きていくための、その糸口を作りたい。
だから、わたしは行くわ。わたしにできる精一杯のことをしに行くの。だから……」
リスルはもう、イーシュが共に来ることを拒む言葉は言えなかった。この少年と交わした約束をなるべくなら破るような真似はしたくなかった。
「一緒に来て、イーシュ」
ずるいですよ、と泣き笑いのような表情を浮かべたイーシュにリスルは敢えて軽口を叩く。
「大人なんてそんなものよ、覚えておきなさい」
とにかく時間がない。今はただ村への道を急ぐしかできなかった。
「村に戻りましょう、イーシュ」
そう言って大股に踏み出しかけたリスルの体がよろけて傾いだ。イーシュはそっと背に手をあてがって彼女の体を支える。服越しに伝わる体温がひどく熱かった。彼女が無理を押してそれでも動こうとしていることを改めて突きつけられ、イーシュはひどく苦しく思った。
どうしてそんなに強くいられるのか。その問いを押し殺して、イーシュはリスルの腕を取り、焦らないように気をつけながら可能な限り早足で歩き始めた。
煤と泥にまみれた二人がヴェレーンに戻ると、村はめらめらと揺らめく炎に包まれていた。夜と朝の狭間の色に染まった空とは対照的な色に照らされて浮かび上がる景色は、二人が覚えている平和な村からは遠くかけ離れていた。
記憶の中のトラウマを想起して、リスルは慄然として一瞬その場で立ちすくんだ。
「炎が……」
リスルは口の中でそう呟いた。自分が引き起こしたということが共通している目の前の事態は、全てを失った娘時代の晩夏の夜を連想するのには充分すぎた。
ほんの一度、季節が移ろうだけの短い間だったとはいえ、身を寄せ、世話になったこの村をリスルは故郷の二の舞にはしたくなかった。
しかし、長年使い続けた《レーヴェン・スルス》の影響を受けて弱りきっている上に、疲労で万全には程遠い今の体調では《ヴィサス・ヴァルテン》の力を使って消火を試みるのは危険だった。先程、ロイゼン山で力を扱い切れずに暴走させてしまっている以上、ここでまた同じことが起きないとも限らない。焦る気持ちを押さえようとしながら、リスルは何かできることはないかと考え続ける。
「……神父様」
リスルの様子を何もいえないまま気遣わしげに見ていたイーシュは人の気配を感じて振り返る。煤けた法衣に身を包んだ人の良さそうなその人は、イーシュ君と彼の名を呼ぶと、苦い笑みを浮かべる。
「こうなるような気はしていましたが……どうして戻ってきてしまったのですか。先程、忠告はしたはずですよ」
「だって……わたしのせいですから。わたしがもっとしっかり力を扱えていればこんなことには……」
蚊の中ような声でリスルは答え、俯いた。茶色い巻毛が彼女の横顔に浮かんだ表情を隠した。
どういうことですか、とレイモンはイーシュに目配せした。イーシュは泥にまみれたブーツの先で背伸びをして、レイモンへと耳打ちした。
「さっき、リスルさんが山で力を使って山火事の状況を探ろうとしたときに力を暴発させてしまって……。どうにも異能の影響で体調がよくないみたいで、力を扱い切れなかったみたいなんです。それで、そのときに発生した強風で村の方に炎が流されてしまって……」
なるほど、話はわかりましたとレイモンは頷いた。そして、彼は身を屈めて俯くリスルと目線の高さを合わせると穏やかにいう。
「シスター・リスル。あなたがすべてを背負い込む必要はありません。確かにこの村にあのような者たちが訪れたことはあなたやイーシュ君に端を発することかもしれません。しかし、あのような狼藉者たちに村を占拠され、好き勝手させてしまったのは私たちこの村の者の責任でもあります。あなたたちの場所を炙り出すためとはいえ、手段を選ばず、このようなことを冒したのはあの者たちです。
結果はともあれ、あなたたち二人はこの村のために、手を尽くそうとしてくれました。その気持ちは尊いものだと、少なくとも私はそう思いますよ」
「でも……わたしのしたことは、許されることじゃない……」
「シスター・リスル。そして、イーシュ君も。よくお聞きなさい。人間とは得てして不完全な生き物です。完璧などありえません。
今あなたが抱いている感情――恐怖も、後悔も、足掻こうとする意志も、あなたたちを人間たらしめるものに他なりません。何かを思い、感じる心を捨て去ってしまったとき、きっと人は人ではいられなくなります。
だから、あなたたちは大丈夫です。あなたたちは不幸を齎す人ならぬモノ――悪魔の祝福を受けた眷族などではありません。私の立場でこういったことを言うべきではありませんが、教義など関係なくそう思います。
あなたたちは、珍しい特技と強く優しい心を持った普通の人間です。生きることに不器用な愛しいただの人の子なんです。
だから、不完全でいい。あなたたちの足りない部分は誰かが補えばいいのですから。そうやって人は支え合って生きていくのですから」
「レイモン神父……」
レイモンのその言葉はリスルの胸の中にそっと沁み渡り、長い間凍りついていた心をほんの少し溶かしてくれた気がした。悪魔の眷属だの化け物だのと教会勢力に追い回され続けてきたけれど、ようやく存在を受け入れてもらえたように思えた。ほんの少しだけ、自分に対して肯定的になってもいいのかもしれないと思った。リスルは顔を上げ、微笑みを浮かべた。グリーンの双眸を縁取る睫毛に透明な雫が揺れていた。
「もし、それでもあなたがどうしても自分を許せなくて、何かしたいと言うのなら、無理のない範囲で逃げ遅れた人の救助や救護活動の手伝いをしてください。村の男手を集めて、村長の指示のもとに消火活動を行なってはいますが、それらにまでは手が回りきっていないのが現状ですから」
イーシュは頷きかけたが、ある疑問が頭をよぎった。
「手伝うのはいいんですけど、リスルさんや俺が村の中を歩き回っていいんですか? 神聖騎士団だっているでしょうし、このような事態を招いた俺たちのことを村の人たちはよく思っていないんじゃないですか?」
「神聖騎士団なら、今は被害の少ないシュオレ湖の方であなたたちが焼け出されて逃げてくるのを手ぐすね引いて待っていますから、村の中にはいませんよ。それに、あなたたちのことについては私から皆に言い含めておきますから、安心してください」
わかりました、とイーシュは今度こそ頷き、頭一個分高い位置にあるリスルの顔を見据えた。焦茶の双眸には凛とした強い光が宿っていた。
「リスルさん、役割分担しましょう。俺は救助の方に回ります。なので、リスルさんは怪我人の看護をお願いします。薬草の知識、あるんでしたよね?」
「ええ、まあ……だけど、イーシュ、危ないわ」
リスルは頷きつつも顔を曇らせた。まだ年若い少年に危険な役回りを押しつけてしまうことを案じてのことだった。
「わかってますよ、大丈夫です。俺も充分に気をつけますから、だから……絶対に後で会いましょう。約束です」
そう告げると、イーシュは身を翻し、燃え盛る炎の中へと飛び込んでいった。リスルは双眸に不安の色を揺らめかせながら、迷いのないその背中を見送った。
「教会の地下に救護所を設けています。ついてきてください」
レイモンに促され、リスルもその場を後にする。まだもう少しだけ、自分という人間にできることがあるのなら、この村のために力を尽くそうと彼女は思った。
レイモンに案内され、礼拝堂の地下に造られたひんやりとした石造りの部屋に足を踏み入れた。先日、レイモンに導かれてロイゼン山から戻ってきた彼女とイーシュが一時的に身を隠していた場所だった。
床に敷かれた織物の上に並んで寝かせられた怪我人たちの呻き声やすすり泣きが反響して聞こえていた。逃げる途中で怪我や火傷を負った者が多く、その悲惨な光景はさながら戦場のようだった。
「シスター・リスル。シスター・アイリスと手分けして、怪我人の手当てをお願いします」
レイモンがそう言うと、かがみ込んで怪我人の傷の様子を見ていた腰まである黒のストレートヘアに菫色の瞳のシスター服の娘がちらりとこちらに一瞥をくれ、会釈をした。リスルも彼女へと会釈を返す。
レイモンは、すみませんがよろしくお願いしますね、とリスルへと頭を下げると、石段を駆け上っていった。それをちらりと見ながら、リスルは泥と煤で汚れた手を手近にあった洗面器の水で清めた。
リスルのそばに右足に怪我を負った中年の女性が寝かされていた。礼拝堂の斜向かいに住むマイアだった。リスルは膝を折り、マイアの傷を見ようとした。しかし、彼女がマイアに触れようとしたとき、その手が振り払われた。
「触るな……! あんた、『悪魔の力』を持つ『魔女』だろう!」
穢らわしいと言わんばかりに、表情を歪めてマイアはそう言い放った。その目の奥には得体の知れないものに対する恐怖が浮かんでいる。
先程、レイモンが事情を説明し、ここに集められた人々を言い含めてはくれていたが、人の負の感情というのはそう簡単に覆るものではない。
「わたしに対して何を言おうと、何を思おうとそれはあなたの勝手です。ですが、今は非常事態です。聞き分けてください」
リスルは静かな声で言い返した。しかし、リスルのその毅然とした態度が癪に触ったのか、マイアは喚き続ける。
「やめろ! 『魔女』なんかに触られたら足が腐る!」
「……お言葉ですけど、わたしが治療せずに放っておいても、その傷だと足が腐るかもしれませんよ」
「……」
リスルが冷静にそう告げると、女性はようやく静かになった。リスルの治療を受け入れる気になったというよりは、投げやりになってされるがままになったというふうではあったが、リスルはそれでも構わなかった。
リスルは彼女の右足の裂傷を確認し、傷口を洗った。ぱっくりと開いた傷を見ながら、これは何針か縫わないと駄目そうだとリスルは判断した。
「すみません、縫います。痛いかもしれませんが、我慢してください」
「……好きにしな」
マイアはぶっきらぼうにそう答えると、リスルから視線を逸らした。リスルは祭壇の上に揃えられたいくつかの薬の瓶と針、手燭を持ってくる。
リスルは茶色い液体の入った小瓶の中身を傷口に振り掛けて消毒し、糸を通した針を手燭の火で炙る。別の瓶に詰まった緑色の軟膏を傷口の周りに塗布し、なるべくマイアが痛みを感じることがないように感覚を鈍麻させた。
リスルはかつてレイモンに教えられた知識を思い出しながら、慎重に傷口を縫っていく。皮膚に針の先端を刺したとき、まだ痛覚が残っていたのか、女性は一瞬びくりと肩を震わせたが、何も言わなかった。
縫合が終わり、化膿止めの軟膏を塗って、傷口に当てがった清潔なガーゼの上から包帯をくるくると巻くとリスルは立ち上がった。怪我人はこのマイア以外にも大勢いる。次の患者の手当てをしなければならなかった。
先程のマイアとの問答が効いたのか、拍子抜けしそうになるほどにその後の処置はスムーズに進んだ。リスルに対して、疑念や恐怖の眼差しを向けてくる者はいても、噛みついてくるような者はもういなかった。
リスルが火傷を負った女性の処置をしていると、階段の上が途端に騒がしくなった。目を凝らすと、担架代わりのトタンに乗せられた人間が、何人かの男たちに担がれているのが見えた。
階段を降りてきた男たちが担いできた人物が小柄な老人であることに気づくと、リスルは目を見開いた。その老人は、村長のゼエンだった。
「何があったの?」
リスルはゼエンを担いできた男たちへと問うた。彼は頭から血を流しており、意識がない。耳や鼻からも赤い筋が伝っていた。
男たちの一人が舌打ち混じりに忌々しいものを見るようにリスルへ視線を向けると、
「消火活動の最中に上から木材が落ちてきた」
端的な説明にリスルはそう、と頷くと問いを重ねる。
「村長はすぐに意識を失ったの? 吐いたりはした?」
吐いてはおらず、頭を打った衝撃で気を失ったみたいだったと男は答えた。それを聞きながら、リスルはざっとゼエンの頭部を確認した。左耳の後ろに痣のようなものが見て取れて、彼女は険しい表情を浮かべた。
(耳の後ろに痣ができている……よくない兆候ね。こういうときって確か、脳が出血している可能性があったはず……)
放っておけば命の危険がある。秋から冬にかけての季節が一つ移ろうまでの短い間だったとはいえ、イーシュのことを受け入れて見守っていてくれたこの老人をリスルは死なせたくなかった。
今、リスルにできることは一つしかなかった。彼女はイーシュと交わした約束のことを思った。胸が痛かった。
(あの子との約束……守れなくなっちゃうわね……。だけど、わたしはこの人を死なせたくない……!)
ゼエンの体を床の敷物の上に横たえると、リスルは膝をついて地下の冷たい空気を静かに吸い込む。体内に取り込まれた空気によって膨らんだ腹にぐっと彼女は力を込めた。彼女は目を閉じ、意識を研ぎ澄ませた。先程のロイゼン山での失敗を思うと怖くはあったものの、ゼエンを救いたいという一心が彼女を突き動かしていた。
リスルは脳内で暖かく優しい光を思い描く。春の木漏れ日のような柔らかく包み込んでくれる光だ。リスルの髪が赤い色を帯び始める。《ヴィサス・ヴァルテン》の力を行使するときの炎のような赤色ではなく、早朝の水平線を染める淡い黄赤に近かった。
リスルはゆっくりと瞼を開く。その瞳はいつもの能力の発動を示す真紅ではなく、朝焼けに似た透明感のある朱色だった。彼女の手のひらに柔らかな光が宿る。彼女はゼエンの頭部に手のひらを翳す。
ゼエンの頭の傷口にまとわりついた光が彼の中へと吸い込まれていく。次第に彼の傷が塞がっていく。
リスルはいきなり体が重くなるのを感じた。リスルは床へと崩折れた。視界が真っ黒に染まる。意識が遠くなり、体から力が抜けていくのを感じたが、彼女は意志の力で無理矢理自分を繋ぎ止めようとする。
(駄目……わたしは、まだ死ねない……死ねないの……!)
頭をよぎったのはイーシュのことだった。ようやく自分の人生を歩き出す気力を取り戻したあの少年を残して逝ってしまえば、きっと彼の心に新たな傷を刻んでしまう。
リスルの視界に次第に光が戻ってくる。しかし、網膜に映る景色はピントが合わず霞んでいた。もう自分の力で動くこともままならないけれど、幸いにもまだほんの少しだけ自分には時間が残されていそうだった。
室内がざわついていた。聖女だ、と誰かが呟いたのが聞こえた。聖女という単語が怪我を負った人々の間を伝播していく。
「シスター・リスル……あんただったか」
リスルのすぐそばで掠れた老人の声がそう言った。
「村長……! お身体は大丈夫ですか? 頭が痛いだとか、吐き気がするだとかそういったことは?」
ゼエンが意識を取り戻し、うっすらと目を開いていた。大丈夫だと頷くと、ゼエンは血で汚れた顔に微笑みを浮かべる。
「人々の怪我や病を癒しながら国内を転々とする『聖女』……話には聞いたことがあった。今ので確信した。あんたのことだろう?」
「人によってはわたしのことをそう呼ぶこともありますが……わたしには過ぎた名です。わたしはわたしにできることをしているだけですから」
ゼエンの言葉にリスルは苦笑した。
ともかく、ゼエンの命を無事に繋ぐことができた。そのことへの安堵により、ふっと緊張の糸が切れ、リスルは意識を失った。
炎の波の中で壁が建物の焼け残った骨組みが黒々とその姿を浮かび上がらせていた。瓦礫が赤い光をちらつかせながら地面に折り重なっている。その様はさながら廃墟のようで不気味さを感じさせた。
イーシュは逃げ遅れた人がいないか確認しながら、崩れかけた建物を周っていた。まとわりついてくる空気が熱い。喉の粘膜を焼かれないようにイーシュは外套の袖口で鼻と口を覆う。
いつ崩れてくるともしれない、瓦礫と化した建物の残骸をイーシュは慎重に調べていく。先程も、柱を失った家の梁が落下してきて、消火活動の指揮を取っていた村長が頭を負傷し、運ばれていったのを見た。
近くから誰かの呻き声を聞いた気がして、イーシュは辺りを見回した。積み重なって倒れた家の柱の下から赤く焼け爛れた小さな人の手がのぞいていた。
「大丈夫ですか!」
イーシュは轟々と炎を上げる建物へと駆け寄り、柱の木材を押し上げようとした。焼けて炭になり始めているとはいえ、成長途中の少年が動かすにはそれは重過ぎた。べろりと手のひらの皮膚が剥ける。
小さく切れば動かすことができるかもしれないと、イーシュは思った。何かを切るにはお誂え向きの力が自分にはある。問題は自分がそれを一人で制御しきれるかどうかだった。
しかし、迷っているだけの余裕はない。イーシュ一人でもどうにか力を使いこなすしかなかった。失敗して力を暴走させてしまったらだとか、間違って下にいる人ごと切ってしまったらなどと躊躇してはいられなかった。
イーシュは目を閉じ、腹に力を込めた。意識を集中させ、鋼でできた花を思い描く。幸い、先程のロイゼン山での感覚はまだ覚えている。
体の中を背骨に沿ってせり上がってくる力の感覚を右腕へと誘導する。イーシュは琥珀色に光る目を見開くと、わずかに力を解放し、指先に鈍色の花を咲かせた。
イーシュは、鋼の花びらを太い木材にあてがい、慎重に切っていく。
額に汗が滲んだ。集中力が途切れれば、切ってはいけないものまで切ってしまいそうだった。
気道を焼かれたのか、喉がひどく痛かった。しかし、イーシュは手を動かすことをやめない。煙にやられて目も痛かった。しかし、今はそんな些事に構ってはいられない。
木材を小さく切り終え、イーシュは解放していた力を自らの中へ収めた。双眸が元の焦茶色へと戻っていく。
能力の行使で疲弊した体を叱咤し、気力でイーシュが木材をどけていくと、下敷きになっていた五歳ほどの幼い少年が姿を現した。確か、雑貨屋の息子で、名をルトといったはずだった。
イーシュはルトの腕を掴んで建物の下から引っ張り出した。すると、その直後、イーシュが木材をどけたことで支えを失った瓦礫が雪崩れ落ちてきた。イーシュはルトの小さな身体を間一髪のところでまだ火の手が及んでいない方へと突き飛ばす。それと同時にイーシュの体の上に瓦礫が降り注いだ。
逃げ遅れ、瓦礫の下敷きとなったイーシュを炎の波が包む。瞬く間にコートの裾へと炎が燃え移ってきていた。
イーシュはげほげほと激しく咳き込む。火傷を負った手のひらにわずかな量の赤い飛沫が散った。リスルの前では、どうしても格好をつけたくて、強がっていたが、いい加減身体が限界だった。走って逃げようにも、身体がに力が入らず、自分の上に重くのしかかる瓦礫の山をどけようにもびくともしない。もう、ここから逃げることはできそうになかった。
ただ、リスルの元へ戻りたかった。彼女が自分のことを呼ぶあの声が聞きたいと思った。弟扱いには不満を感じないではないが、あの綺麗な優しい目でもう一度自分のことを見てほしいと思った。
でも、もうそれももう叶わないかもしれないとイーシュは思った。けれど、こんな自分でも、最後にほんの少しくらいは誰かの役に立てたのなら、これも悪くないと思った。イーシュが好きなあの人なら、きっと自分の身に危険が及ぼうとも、こうしたに違いなかった。
イーシュの身体を業火が焼いていく。たんぱく質の焼ける匂いがした。無数に負った火傷のせいで全身が痛いのか熱いのかもうわからなかった。
リスルさんに会いたい、そう思ったのがイーシュの最後の記憶になった。
若い女の声に名前を呼ばれ、リスルは意識を取り戻した。リスルは自分の身体を揺すっていたシスター服に身を包んだ黒髪の女の姿を認め、掠れた声でその名を呼んだ。
「……シスター・アイリス」
「レイモン神父がお呼びです。動けますか?」
ええ、と頷くと、リスルはアイリスの手を借りて、冷たい床に敷かれた敷物から身を起こす。どうやら怪我人たちと一緒に寝かせられていたらしいとリスルは理解した。
立ち上がろうとすると、膝ががくりとなり、上体が泳いだ。さっとアイリスが手を差し伸べ、リスルの体を支える。どうやらもう、自力で立ち上がるだけの体力も残ってはいないようだとリスルは悟る。
ゼエンに対して、《レーヴェン・スルス》の力を行使したにも関わらず、命を落とさなかったことが奇跡に近い。もうほとんど自力で動くことすらままならないといえ、ぎりぎりのところでまだリスルは持ち堪えていた。
アイリスの肩を借りながら、リスルは石段を登っていく。
石段を上り終え、礼拝堂の隅へと出ると、側廊を通り、リスルは外へ出た。
夜が明けていた。朱と金のグラデーションが東の空を染めていた。
猛火に焼かれた地面はまだ熱さを残していたが、ところどころで小さな煙が上っている以外、炎は全て消し止められていた。炭になった建物の黒い残骸があちらこちらに点在していて、村は廃墟のようだった。
「……シスター・リスル」
躊躇いがちに男の声がリスルの名を呼んだ。
「レイモン神父」
煤と泥で黒く汚れ、あちこち焼け焦げた法衣を纏った壮年の男がそこにいた。
「シスター・リスル。村長を助けていただき、ありがとうございました。それで……あの、イーシュ君なのですが……」
言いにくそうに言葉尻を濁し、レイモンは目を伏せる。リスルは胸がざわつくのを感じた。嫌な予感が膨らんでいく。彼女はレイモンをきつい口調で問いただす。
「イーシュが……イーシュがどうしたっていうんですか、レイモン神父。答えてください!」
「イーシュ君は……あちらです。あちらにいます」
リスルはレイモン神父に示された方へと視線を向け、網膜に映った事実に息を呑んだ。視線の先で真っ黒に焼け焦げた小柄な人影が地面に横たわっていた。その顔には申し訳程度に布が掛けられている。
「詳しいことはわかりませんが、崩れた建物の下敷きになっていた子供を助け、イーシュ君自身は逃げ遅れたようです」
「イーシュ……! 何で……!」
リスルは身体を支えていたアイリスの腕を振り払い、イーシュの元へ行こうとする。しかし、リスルの足にはもう彼女の体重を支える力はなく、彼女は顔から突っ込むように地面へと倒れる。彼女は力の入らない腕を懸命に動かし、横たわるイーシュの元へと這っていく。
リスルは動かないイーシュの体を抱きしめると、その胸へと縋り付く。彼の体の深部まで達していそうな全身のひどい火傷に、リスルの目から涙が溢れた。そのとき、リスルは自分の耳元でどくりという脈動の音を確かに聞いた。とても弱くて小さい音だけれど、イーシュの心臓はまだ鼓動を刻んでいた。
「生きてる……! まだ、生きてるわ!」
リスルは自身の汚れた上着の肩口で乱暴に涙を拭うと、顔を上げる。ほんのりと縁が赤くなった目を閉じ、彼女は目の前の深く傷ついた少年を救いたいと強く願う。
リスルは心の中で眩い光を思う。イーシュを死の闇の中から引き戻すための朝の光だ。柔らかく美しい金色に照らされたこの世界で彼に今日という日の朝を迎えて欲しかった。
リスルの手に朝日と同じ色の光が柔らかく絡みつく。彼女の髪は淡い黄赤へと変化していた。
イーシュの体を金色の光が覆った。少しずつ傷が癒えていき、体表に滑らかな肌色が戻り始める。しかし、イーシュの意識は戻らない。
リスルは明け方の空を染める朱色の双眸を開く。イーシュの体を包む光が眩さを増す。
リスルは自分の体の機能が失われていくのを感じた。目の焦点が合わず、視界を闇が侵食していく。体が末端から動かなくなっていき、死の冷たさが指先から全身へと広がっていく。
今度こそ死ぬのだな、とリスルは思った。湖畔の風車小屋を出たときから、何となく今日が自分にとって最期の日になるのではないかと予感はしていた。けれど、最期にイーシュを救い、生涯を終えることができるのなら、構わないと思った。
イーシュには恨まれるかもしれないとは思う。けれど、リスルは彼に生きてほしかった。そのためなら、自分にほんの僅かに残った命の力を全て、彼の中へ注いでしまおうと思えた。
リスルの心臓が最後の鼓動を刻み、沈黙した。イーシュを包む光が薄れていき、冬の冷たい朝の空気の中へ消えていった。同時にリスルの髪と瞳も元の色を取り戻していく。
リスルは遠くなる意識の中で、自分の名前を呼ぶイーシュの声を聞いた。
(イーシュ……よかった……)
そう思ったのを最後にリスルの意識は死の闇の中へと飲み込まれていった。
彼女はもう動くことはなく、数多の命を救った奇跡の軌跡はここで途絶えた。
頬に冷たい風を感じた。瞼の裏側で眩しい朝の光の存在を感じ、イーシュはゆっくりと目を開く。
胸の上に重さを感じた。ぼんやりとしていた視界の焦点が次第に合っていき、イーシュはその正体を知った。
「リスルさん……?」
イーシュの体を抱きしめ、彼の胸に頬を寄せるようにして、リスルが眠っていた。安らかでどこか満足げな寝顔だった。
ゆっくりと体を起こしながら、そもそも自分はどうしてここにいるのかと、イーシュは訝しげに記憶を探る。救助活動中に生き埋めになっていた子供を《アイゼン・メテオール》の力を使って助け出した後、雪崩れ落ちてきた瓦礫の下敷きとなって身動きが取れなくなり、イーシュ自身は逃げ遅れたはずだった。しかし、身に纏った服こそ真っ黒に焼け焦げているが、体にはわずかな火傷一つない。喉や目が熱や煙にやられて痛むということもなく、不自然だった。
イーシュはリスルが息をしていないことに気づいた。そっと体に触れると、彼を抱きしめるリスルの腕は、熱を失い、ひどく強張っていた。
「何で……」
イーシュは呆然として呟いた。イーシュが意識を取り戻したことに気づいたレイモンは彼に近づくと、静かに首を横に振った。
「あなたは全身に大火傷を負い、瀕死の状態でした。シスター・リスルは、自らの命と引き換えにあなたの命を救うことを選び、その生を終えたのです」
「リスルさん……何でそんなこと……」
リスルは本当に馬鹿だとイーシュは思った。喉の奥から嗚咽が漏れる。
イーシュはこんなことは望んではいなかった。リスルが死ぬくらいなら、自分のことなんて見捨ててしまってほしかった。恨み言と一緒に涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。
レイモンは膝を折って、イーシュと目線を合わせ、
「……あなたたちがロイゼン山に向かう前に顔を合わせたときには、きっと彼女は既に自分の死を覚悟していたのでしょう。虫の知らせとでもいうのでしょうか。
そして、彼女はどのみち自分の死期が近いことを知っていたからこそ、その分あなたが生きることを望んだのでしょう。イーシュ君にとっては迷惑かもしれませんが、彼女はきっと、まだ若く、先のあるあなたに希望を見ていたのだと思います。
どうか、ただ一つ覚えていてください。彼女はあなたを大切に思っていて、幸せに生きてほしいと最後まで願っていたことを」
イーシュは泣きながら頷いた。
イーシュだって、彼女のことが大切だった。強くて、優しくて、格好良くて、美しい彼女のことが好きだった。だからこそ、彼女に憧れもしたし、ほのかな感情を抱きもした。まだ彼女に何も伝えられていないし、返すこともできていなかった。
イーシュはもう動かない彼女の体を抱きしめて、泣き続けた。
夜は完全に明け、淡い青へと色を変え始めた空に朝の光が白く降り注いでいた。
湖畔には木造の風車小屋が佇んでいるが、湖面が凍ってしまっている今は、本来の役目を果たすことなく、雪解けの季節を待ちながら眠りについていた。
埃っぽい匂いのする黒いウールのカーテンが閉じられた風車小屋の室内で、ちらちらと赤い炎が揺れる暖炉にあたりながら、イーシュは不安げに溜息をついた。
「リスルさん……一旦は逃げ切れたってことでいいんでしょうか。村のほうから教会の追手がくる様子もないですし」
リスルとイーシュは、昨日の夕刻に神聖騎士団の僧兵たちと一悶着あった後、村の東の外れにある滝の裏の洞窟でしばらく息を潜めていた。ほっそりとした弧を描く白い月が空の一番高い場所に上ったころ、二人は滝下を流れる心臓が止まりそうなほどに冷たいラーウェ川へと飛び込んだ。そのまま、何時間かかけて河口を目指して、水の中を歩いてきた結果、二人は身を凍えさせながらここに辿り着いた。
「こんな場所、見つかるならとっくに見つかっているわよ。それがこの時間まで追っ手も何もきていないんだから、何日かの間、しばらく身を隠すくらいはどうにかなるんじゃないかと思うわ」
「微妙に怖いこと言いますね……」
要所要所で追手を誤魔化すための小細工をいくつか仕掛けてきてあったが、もしリスルの意図した通りに相手が騙されてくれていなければと思うと、イーシュはぞっとした。教会から派遣された捜索部隊に見つからないで逃げ切れるかどうかも、ただでさえ万全でない体調の自分たちが逃げ切るだけの体力が残されているかどうかも賭けで、すべてが危うい綱渡りの上で成立していた。
自分たちを逃してくれた神父たちはどうなっただろうか。教会から指名手配されている自分たちを庇い、親切にしてくれたあの人々は酷い目に遭っていないだろうか。あの荒くれ者揃いで悪名高い連中のことだ、彼らに乱暴を働いていない保証などどこにもない。
イーシュは、村に残してきてしまった優しい人々の身を案じながら、ゆらゆらと揺れる暖炉の炎を見つめる。憂いを帯びた濃茶の瞳を認めると、リスルは言った。
「イーシュ。今は身体を休めることを第一に考えなさい。元々疲れが溜まっていたところにこんな無茶をしたんだもの、もういい加減に体はぼろぼろよ。わたしもあなたも、ね」
「でも……」
「いいから。ね?」
リスルは強引にイーシュを埃の匂いがするベッドへと追いやった。戸棚にあった毛布を出してくると、リスルはその足元に腰を下ろして毛布に包まった。何だかこんなやりとりは久々な気がして、こんなときだというのにリスルの口元が自然と綻ぶ。生きていたころの弟の年よりイーシュのほうがいくつか上で容姿も特に似てはいないが、自分が普通の人間で、あんな事件さえなければ、こんな時間が今でも続いていたのかもしれない。
「リスルさん……?」
不審げにイーシュの声が投げかけられる。ああ、ごめんね、とリスルは彼を振り返り、
「弟のことをね、思い出していたのよ。イーシュよりいくつか年下だったんだけどね」
「弟さんって……」
きっと『アルクスの大火』で亡くなったのであろうリスルの家族のことを詳しく聞くのは憚られた。人の命を奪うことの重さをイーシュは身をもって知っている。それが大切な相手であれば、その苦しみは相当なものであることは想像に難くない。
「あの子はもう、とっくにこの世にはいないのだけれど……いいえ、違うわね……わたしがあの子を殺してしまったのよ」
「……」
自嘲気味に呟くリスルから、イーシュは気まずげに視線を外す。ごめんなさい、とリスルは黙り込んでしまったイーシュへと詫びる。あれは能力を制御できずに暴発させてしまった自分のせいなのだから、彼にこんなふうに気を遣わせることではない。それにどのみち、あの事件がなくとも、病弱な弟は大人になるまで生きていられたかわからないし、長年、異能を酷使し続けたせいでリスル自身の命も今や風前の灯だ。もし違う人生を歩んでいたとしても、今も誰一人欠けることなく家族と一緒にいられた可能性は低かった。
リスルはイーシュの灰色の髪をそっと撫でる。十四歳という難しい年頃の少年は少し気恥ずかしそうにしていたが、抵抗することはなく大人しくしていた。
イーシュがどんな感情をリスルに抱いているかも知らずに、こうやって年の離れた弟のように扱ってくることに関しては物申したくはあるが、イーシュとしてはこうやって彼女に触れられることは嫌いではなかった。こんなときだというのに、心臓がそわそわと騒ぎ出す。
「そうね、せっかくだから寝物語に昔話でもしましょうか」
リスルは過去を懐かしむように、穏やかな目でイーシュを見つめた。今ならば、これまで触れることのできなかった古傷を純粋な思い出として振り返ることができる気がした。イーシュは早くなった鼓動を悟られないように気をつけつつ、こくりと頷いた。彼女の綺麗な新緑の双眸に写った自身の姿が少し挙動不審気味に彼を見ていた。
「昔、南の田舎町にある少女がいました」
リスルは歌うような口調で語り始めた。
「少女は陽気で大らかな父親とおっとりとした母親、病弱な弟の四人家族で、葡萄を育てながら幸せに暮らしていました。
一見、普通であるように見えましたが、少女には生まれつきある特技がありました。少女は他人よりも勘が鋭く、天気や水のありかを当てること、天変地異をいち早く察知することができました。たまに人ならざる自然の声を聞くこともありましたが、少女はそれが身の内に宿った『悪魔の力』によるものとは知らず、特に違和感を覚えることはありませんでした」
リスルは穏やかな口調で滑らかに言葉を紡いでいく。本当にそんな感じだったな、と彼女は思う。自分には力が身近なもの過ぎて、あのころはその特異性に気づいていなかった。
「あるとき、レシェールで教皇の代替わりが行なわれました。新しい教皇は『悪魔の力』を厳しく取り締まりました。少女の能力についても教会の知るところとなり、少女は火刑に処せられることとなりました」
火刑と聞き、イーシュは身を震わせる。
「リスルさんは……」
イーシュは何か言いかけたが、言葉の続きが見つからなかったのか口籠る。その様にリスルは苦笑する。この子は繊細で優しい子だ。きっとイーシュはリスルのことを気遣おうとしてくれた。
「あのね、イーシュ。別にこれはわたしの話だなんて一言も言っていないわ。これはあくまである少女の話」
「……」
イーシュは明らかに納得していない顔で黙り込む。
「火刑に処せられた少女は、燃え盛る炎の中で”何か”の声を聞いたわ。少女はその声に導かれるまま、力を解き放ち――暴走させてしまった力により故郷の町を業火で包み、一夜にして燃やし尽くしてしまったの。焼け跡には何も残らなかった。少女も町から姿を消したわ。
去り際に少女は、傷ついた小鳥の命を救ったというわ。罪もない命をたくさん奪っておきながら偽善もいいところだとは思うけれど……せめてもの贖罪のつもりだったのかもしれないわね」
己を蔑むようにリスルは嗤った。そんな彼女の表情をイーシュは見ていられなくて、
「あの……俺にはよくわからないですけど。でもその人は神様でも何でもないただの人間なわけでしょう? なら、すべてを救うことなんてできないのは当たり前のことだし、せめて目の前の命だけでも救おうとして何がいけないんですか? それを偽善なんて言葉で扱き下ろすのってどうなんだろうって俺は思いますし、そういった状況下で他者に手を差し伸べられるだけその人は立派ですよ」
イーシュの言葉にリスルは明るいグリーンの瞳を見開いた。思いがけない肯定的な言葉が彼女の心をじんわりと温かくさせた。目の奥が熱くなるのを感じながら、リスルは、
「ありがとう。イーシュ」
「……別に、俺は何も」
イーシュは照れ隠しのつもりか目線を泳がせながらぼそりとそう呟いた。リスルはくすり、と小さく笑い声をこぼした。もう子供は休みなさい、と彼女が言うと、イーシュは何とも言えない顔で、
「そうやって世話を焼きたがるところ、リスルさんって、本当にお姉さんって感じですね」
「そうかしら?」
「ええ。うちの姉もそうやって何かと俺の世話を焼きたがりましたから。まあ、もう俺のことなんて覚えてないでしょうけど……」
寂しそうなイーシュの言葉にリスルはあれ、と思う。てっきり『フィエロの悪夢』の当事者である彼も家族と死に別れているのかと思っていたが、今の口ぶりでは彼の姉は生きているように聞こえた。
「イーシュのお姉さんは今は……?」
リスルは慎重に言葉を選びながら、イーシュへと問うた。
「生きてますよ。もっとも、過去の記憶はないみたいでしたけど……でも、あんな目に遭ったんだから、そのほうがきっと姉さんにとっても幸せでしょう」
「……」
返答に困ってリスルは沈黙した。何が幸せなのかはイーシュの姉自身が決めることとはいえ、この歳の少年がこんなふうに言うのは悲しいことだと思った。肉親が生きているとわかっているのに、別れを選ばざるを得なかったイーシュの心境を思うと、まるで自分のことのように胸が締め付けられた。
リスルの表情が曇ったことに気づいたイーシュは、
「別に、リスルさんがそんな顔をしなくても……」
「だって……お姉さんと離れ離れになることはきっと、イーシュにとって辛いことだったはずでしょう? 当時、あなたはまだ十一歳で、恐ろしい体験をした後にそんな苦しい選択をしないといけなかったなんて……」
イーシュが辿ってきた人生の惨さに、リスルの言葉尻が震えた。
「だからこそ、ですよ。村が盗賊に襲われたときに、能力が発現して……力を暴走させて、姉さん以外、村の人も盗賊も全員殺してしまったのは俺です。俺は、そんな得体の知れない力を持った自分のことが化け物みたいに思えて、恐ろしくなって逃げたんです。姉さんを王都の近くの街道沿いに置き去りにして。俺は……姉さんと一緒にいるのが怖かったから。一緒にいたら、いつか傷つけてしまいそうで」
「イーシュ……」
リスルにはイーシュの気持ちが痛いほどわかった。彼女自身も自らの手で故郷の町を焼き滅ぼしてしまったとき、自分は教会の言う通り、悪魔の祝福を受けた『魔女』なのだと思った。長い年月を経て、力の扱い方は覚えたものの、あのときに感じた己への恐怖は今も彼女自身に寄り添って離れない。
イーシュはぽつぽつと呟いた。
「あれから、姉さんの様子を見に、一度だけ王都に行ったんです。運良く誰かが姉さんを保護してくれたみたいで、姉さんは王都の礼拝堂に身を寄せていました。ただ、姉さんは記憶を失っていて……昔とは違う名前で呼ばれていました。
どういう経緯で知り合ったのかはわからないけれど、姉さんの近くには、”殿下”って呼ばれている男の人がいて……姉さんはもう、俺なんかが関わっちゃいけない世界で生きているんだなって感じました」
”殿下”と呼ばれていた青年は、イーシュの姉――ユーフェを”エミル”という神の使徒の一人と同じ名前で呼んでいた。その様子を陰からそっと見ていたイーシュは、安堵するとともに寂しさを感じた。あのころの面影は確かに残っているのに、彼の手の届かないところに彼女はいた。呆れたように名前を呼ぶその声はもう二度と彼に向けられることはない。あのとき、彼は自分の選択の意味を改めて噛み締めることとなった。
「俺の――俺たちの周りからは、皆、いなくなるんですね。俺はこんな得体の知れない力なんていらなかった。ただ、普通に生きたかったっ……じいちゃんと姉さんと一緒にいたかったっ……!」
沸き起こる感情を押し殺そうとするようにイーシュは吐き出す。しかし、その口から溢れる言葉は次第に湿り気を帯びていく。彼は自分の毛布を頭からすっぽり被ると寝台の上で寝返りを打ち、枕に顔を強く押し当てた。リスルは微かに震える頼りない背中をぽんぽんとさすってやる。
「そうね。わたしもそうだわ」
家族とともに平穏に暮らしていきたかったのはリスルだって同じだ。あのまま暮らしていけるなら、こんな力なんて欲しくなかった。
「……今はこうやって一緒にいてもきっといなくなるんですよね。リスルさんも」
「ええ、そうね。わたしはもう長くないもの」
そう言って微笑んだリスルの顔は疲れを感じさせた。やりきれない気分になって、イーシュは彼女へと言い募る。
「何で……何で、リスルさんはそうやって誰かのために力を……? 寿命を削ってまでリスルさんが誰かを助けるメリットなんて何もないじゃないですか……! それなのに、どうして……!」
「わたしはね、自分に助けられる力があるのがわかっていて、目の前の人をするような真似はしたくないの。それに、わたしは自分が教会の言うような悪魔に祝福された眷属なんかじゃない――『魔女』なんかじゃないって証明したかったのかもしれない」
「だからって……! 馬鹿なんですか、リスルさんは……!」
泣きそうな顔でそう詰ってくるイーシュに、リスルはただごめんねと言って抱きしめることしかできなかった。身体を包む柔らかな感触にイーシュは身じろぎしたが、その腕を振り解きはしなかった。
「イーシュ。わたしはあなたの傍にずっとはいられない。だけど、あともう少し……わたしの命の終わるその時までは一緒にいるから。約束するわ」
リスルがそう言うと、腕の中でイーシュは微かに頷いた。
あの日弟と交わした約束は守れなかったけれど、この約束こそは決して破らせないで欲しいと彼女は願った。
リスルとイーシュが湖畔の風車小屋に逃れてから三日が過ぎた。
肩から毛布を被り、椅子で眠っていたリスルは、明け方、イーシュによって揺り起こされた。
「リスルさん、起きてください。外が大変なことに……」
「ん……ふぁ……どうしたの、イーシュ」
眠い目を擦り、欠伸を噛み殺した間延びした声でリスルが応えると、イーシュは血相を変えて畳みかけた。
「外を見ればわかります! 山が燃えて……!」
山が燃えている。その言葉に反応して、リスルは完全に覚醒した。彼女は両頬を叩き、真顔になると立ち上がる。被っていた毛布を床に脱ぎ捨てると、彼女はイーシュに引っ張られるようにして小屋の外へ出た。
まだ夜の気配が色濃く残る暁の空の下、ヴェレーン村の向こう側にあるロイゼン山が赤く燃えていた。少女時代のトラウマを刺激され、リスルは口元を押さえて立ちすくむ。何とか絞り出した声も意味のない音にとなり、白い吐息と共に空気中へ霧散していく。
「な……」
山火事が起きていた。風向きが悪く、ヴェレーンへと炎が降りてくるのも時間の問題だった。
これに関われば自分はきっと、生きて朝日を見ることはないだろう。何となくそんな予感がした。
けれど、これは自分たちが招いた結果だ。リスルは我が身可愛さにこのままこの地を離れることなどできなかった。
「ロイゼン山へ行くわ。イーシュはここにいて」
ロイゼン山のある南西の方角へ走り出そうとするリスルをイーシュはその腕を掴んで止める。
「やめてください、危ないです。そもそも行って何をするつもりなんですか」
「わたしにできることをするの。《ヴィサス・ヴァルテン》の力をもってすれば、直接的な鎮火はできなくても、燃え広がる方向を変えることくらいはできるわ。緩衝帯を用意してそっちに炎を誘導してやれば……」
リスルは一人で木を切り倒して燃えるものを無くし、地面を掘って溝をつくることで延焼を食い止めるつもりだった。リスルがそれをイーシュに話すと、彼は首を大きく横に振った。
「無理ですよ! リスルさん一人でできることじゃないですよ! いくら異能があるっていったって、それ以外はリスルさんは普通の女の人じゃないですか! 無謀です!」
「無理でも無謀でもやらなきゃいけないの。これ以上、あの村に迷惑はかけられないもの。
イーシュ、気付いている? あの山火事、恐らくはあいつらの仕業よ」
「え……?」リスルの言葉にイーシュは唖然として固まった。彼は唇を戦慄かせながら、「あいつらって、あの捜索部隊の……? 何でそんな……?」
「大方、わたしたちが見つからないことに焦れて、手っ取り早く山を焼き払うことにしたってところでしょう。山に逃げ込んでいれば焼け出されてきたわたしたちを捕まえることができるし、そうじゃなくてもわたしたちに対する見せしめになる」
いかにも粗野なあいつらが考えそうなことだわ、とリスルは吐き捨てた。
「あいつらの思惑に乗せられるようで癪だけれど、わたしは行くわ。あの村に被害は出させない」
毅然としてそう告げたリスルをイーシュは押し留め、
「だからって、それはリスルさんが一人で行く理由にはなんないですよ。俺にも手伝わせてください。
ここに逃げてくるときだって言ったはずです。俺はリスルさんに守られるばかりは嫌だって。自分に今できることをしたいって思うのはリスルさんだけじゃないんです。俺だって同じです」
イーシュの焦茶の双眸に真摯な光を認め、リスルはやれやれとかぶりを振った。こうなったらこの子は恐らく意地でも聞かないだろう。
「仕方ないわね。ただ一つ、危なくなったらあなた一人でも絶対に逃げること。それだけは約束してちょうだい。それでいいなら一緒に来て、イーシュ」
リスルとイーシュは三日前とは逆に川上に向かってラーウェ川沿いを歩いていた。ヴェレーンに近づくと、風に流された煙が既に村へと降りてきていた。じきに朝が来るはずの空はまるで曇天のような灰色で覆われていた。
リスルは首元に巻いていた淡いベージュのチェック柄のストールを解くと、イーシュの口元を覆うようにぐるぐると巻いた。
「イーシュ、これで口を覆っておきなさい。あまり煙を吸うと、喉を痛めるわ」
リスルがモッズコートの袖口で口元を押さえながらそう言うと、イーシュは大人しく頷いた。
村の様子は気になるが、教会の捜索部隊が駐留している以上、あまり目立つわけにはいかない。リスルたちは村の中は通らずに、外縁に沿って西側にあるロイゼン山へ向かうことに決めた。
風車小屋の物置に保管されていた古びて錆の浮かぶ斧とシャベルを二人は担ぎ直し、その場を立ち去ろうとすると、聞き覚えのある声が響いた。
「シスター・リスル? それにイーシュ君も一緒だったんですね。無事でよかった」
「……レイモン神父」
人の良さそうな見知った壮年の男の顔を認め、リスルはその名を呼んだ。
「どうしてここに?」
「毎日夜明け前にここに参拝するのが私の日課なのですが……教会に戻ろうとしたら、山が燃えているのに気がつきまして。それより、シスター・リスル。あなたこそ、どうしてここへ?」
「わたしたちもあの山火事を見て……これからロイゼン山へ向かうところです」
リスルがそう答えると、神父の表情に厳しいものが浮かぶ。
「シスター・リスル。あなたは今すぐに、イーシュ君を連れて、この地を離れなさい。こんなことになった以上、村の人々はあなたたちに決して良い感情を抱くことはないでしょう。私たちとしてもあなたがたをこれ以上、庇い立てすることはできません」
レイモンの言葉に、わかっていますとリスルは頷いた。その上で彼女は、ですがと言葉を続ける。
「あの山火事はわたしたちが見つからないことに焦れて捜索部隊が暴走した結果なのでしょう?」
ええ、まあとレイモンは歯切れ悪く言葉を濁す。
「なら、わたしたちはわたしたちの招いた結果に対して責任を取るべきです。わたしたちはこれからロイゼン山に行って、山火事の対応をします。これ以上、この村に迷惑はかけられませんから」
「そうは言ってもあなたたち二人がロイゼン山に行って何になると言うのです? 何ができると言うのですか?」
突き放すようなことを言っておきながら、リスルたちの身を案じないでいられないレイモンの善良さにリスルは苦笑した。
「レイモン神父。わたしたちの力を使えば、通常よりも効率的にこの山火事に対応できるはずです。どうやら、わたしたちは教会が言うところの悪魔の祝福を受けた眷属とやららしいですから」
ついつい言葉の端に皮肉が混ざってしまって、リスルはしまったと思う。しかし、レイモンはそれに気付かなかったかのように、
「シスター・リスル、イーシュ君。道具が使い方によっては人を傷つけも助けもするように、きっとその力も使い方次第です。どうか……私に、その力は人の世に仇なすものではないのだと信じさせてください」
ええ、とリスルが頷いた。レイモンのその言葉が嬉しかった。
彼の善良さに付け入りたくはなかったが、リスルはどうしても彼へ伝えておきたいことがあった。なるべくなら、後顧の憂いは今のうちに断っておきたかった。
「わたしに何かあったときは、イーシュが一人で逃げられるよう、手を貸せとは言いませんが、出来れば見て見ぬ振りをしてあげてください。
レイモン神父、短い間でしたが、お世話になりました。わたしは……この地で生を終えてもいいと思う程度には、この村が好きでした」
彼女はレイモンにそう耳打ちをすると、斧を手に歩き始める。
「シスター・リスル……? ちょっと……!」
それでは、と歩き去るリスルの言葉に遺言めいたものを感じ、レイモンは彼女を咄嗟に引き留めようとする。しかし、彼女は振り返らなかった。
イーシュは黙ってそれまでのやりとりを見ていたが、レイモンの表情に胸騒ぎを覚えた。彼はレイモンに静かに黙礼すると、遠くなり始めた茶色い髪が流れる背中を追いかけた。
先を行くリスルに追いついたイーシュは、彼女と共に雪の積もった山道を歩いていた。辺りには煙が立ち込めていて、すぐそばにいるはずのリスルの姿さえも見失ってしまいそうなほどに視界が悪い。煙が目に染みて痛い。
リスルは辺りを探るようにしながら、慎重に歩みを進めていた。彼女は記憶の中の地図の情報を引っ張り出して、
「もう少し北寄りに進めば、崖になっていたはず。作業をするなら、たぶんそっちのほうがいいわね。元々燃えるものが少ないから、作業量を抑えられるわ」
方角すら怪しい中、二人はブーツの底で雪を踏みしめながら歩く。今の状況では、すぐにうっかり獣道へ迷い込んでしまう。
ふいにイーシュは体勢を崩し、足元を滑らせた。それまで立っていた場所の雪が崩れ、下へと落ちていく。咄嗟に持っていたシャベルを地面に突き立てたが、体重に耐えられずに傾いでいく。
「あっ」
声を上げたイーシュへとリスルの手が伸びてきて、腕を掴んだ。
「イーシュ、大丈夫?」
そういって引き上げてくれたリスルの腕は若い女性のものらしく華奢だった。イーシュは己を情けなく思いつつも、その腕に縋りながら這い上がる。
「ごめんなさい、わたしのミスね。思ってたよりもだいぶ進んでいたみたい」
「いえ……俺も注意不足だったので……。
ところで、ここが崖になっているってことはリスルさんが目指してたのはここですか?」
「そうみたいね。イーシュ、大丈夫そうなら、その辺りからずっと一直線に地面を掘って、溝を作ってくれる? わたしはこの辺りの木を切り倒すわ」
足元には気をつけてね、とイーシュへ注意を促すと、リスルは持ってきた斧の柄を両手で握り、振り上げようとする。しかし、気迫だけはそれっぽい感じを漂わせているが、姿勢がおかしいのかどことなく腰が引けている。生い茂る木々はどれも太く高かった。イーシュは何回目になるかわからないが、あまりにも無謀なことをしようとしていると思いが脳裏をよぎり、つい口を挟んでしまう。
「あの……リスルさん、斧を使ったことは……?」
「昔、教会の追手から逃げるときに投げつけてやったことならあるけれど……本来の使い方をしたことはないわね。それでもまあ、どうにかするわ。どうにかするしかないんだもの」
「無謀です……」
イーシュは半眼でリスルを見やりつつ、嘆息した。妙に気迫だけはこもっている理由については得心したものの、なぜ自分を含めて異能者というのはこうにも行き当たりばったりな発想になってしまうのだろうと頭を抱えざるを得ない。
(……あ)
イーシュはあることを思いつき、リスルに声をかける。
「あの、リスルさん。俺、一つ試してみたいことがあるので、この前みたいにフォローしてもらえませんか? 上手くいけば地道に木をどうにかしようとするより、効率がいいかもしれません。時間、ないんですよね?」
ええ、とリスルは斧を下ろして頷いた。
「それで、何をするの?」
「俺の力なら、木を切り倒すくらいのことは造作もないはずです。俺が力を押さえられなくなったら、俺を気絶させてください」
「わかったわ。けれど、用途がそれなら、力に形を持たせたほうが良さそうね」
「力に形を持たせる?」
イーシュが聞き返すと、ええ、とリスルは頷いた。
「物には用途によって適した形があるでしょう? あなたの力はちょっと木を切り倒すくらいのことに使うには大きすぎるの。この前は、ただ少し力を発動させればいいだけだから良かったけれど、今回は力を小さく絞った上で指向性を持たせる必要がある。だから、あなたが取り回しやすい形に力を変えてやったほうがいいのよ」
力の形を強くイメージするの、とリスルは言った。
自分の力が大きすぎるというのなら、きっと小さなもので構わないのだろうとイーシュは考える。
イーシュは頭の中で花を思い描いた。名前は知らないが、ヴェレーンの村長宅の庭にあった寒い季節に咲く薔薇によく似たスモーキーな色合いの花だ。何となくリスルに似ているような気がしていて、記憶に残っている。
小さな八重咲きの花を思いながら、イーシュは腹の底に力を込める。静かに呼吸を繰り返し、気持ちを落ち着かせていく。体の中で眠っていた力の奔流が沸き起こると同時にイーシュの双眸が琥珀色の輝きを宿し始める。暴走しそうな力を丹田に込めた力と己の意志で抑え込みながら、利き手へと纏わせていく。この前はここで力に呑まれかけた。リスルが意識を現実に引き戻してくれたから、あのときは事なきを得たが、正直怖い。
「大丈夫よ、イーシュ。落ち着いて。わたしがいるわ」
リスルの言葉にイーシュは頷き返した。弱気になりかけた心を叱咤し、手の中の力をイーシュはほんの僅かに解放した。
鈍色の光を帯びて、小さな金属の欠片がイーシュの指先に顕現する。彼は小さく息を呑み、意識的に腹に力を込め直す。今のところ失敗ではなさそうだが、うっかり気を緩めて力を暴走させるわけにはいかない。
彼の指先をぐるっと囲むように金属の欠片が連なり、八重咲きの花を形作っていった。幾重にも重なり合う花びらは冷たい銀色で、鋭く研ぎ澄まされている。
イーシュが生い茂る木の幹へと指先を向けると、彼が生み出した美しい金属の花は高速で回転しながら飛んでいった。それは木の幹を傷つけると、はらはらと銀色の欠片を散らしながら、イーシュの元へと戻ってくる。花びらの刃が触れた木が、切断面を露わにして傾いていく。
その様を呆然と眺めていたイーシュははっとして、体を突き破って出てこようと暴れている力に意志の力で蓋をする。体の中から湧き上がってきていた力の流れが消えていくのを感じる。ただの鋼の欠片となってイーシュの指先で浮遊していた花びらは力を失って、空中で霧散して消えていった。
「上手くいった……?」
信じられない思いでイーシュは呟く。彼の双眸は元の焦げ茶色に戻っていた。
リスルの監督の元とはいえ、自分で力を制御できたことが信じられなかった。
「ええ、成功みたいね。すごいわ、イーシュ」
リスルは微笑み、イーシュの髪を優しく撫でた。イーシュは子供扱いされることに多少憮然としつつも、悪い気はしなかった。
負担がかかりすぎないように何回かに分けてイーシュは力を使い、辺りに生えていた木を薙ぎ払った。周囲の木々をあらかた切り倒し終えるころには、イーシュも何となく力の制御の仕方がわかるようになってきていた。
イーシュの様子に注意を払いつつも、シャベルで地面を掘り進めていたリスルは、
「ありがとう。木はもうこのくらいで良さそうよ。イーシュのおかげで助かったわ」
少し休んでいて、と言ってリスルはシャベルを動かす速度を上げようとする。しかし、その腕の動きは重かった。彼女の細腕が悲鳴を上げている。
「リスルさん、俺代わりますよ。リスルさんのほうこそ休んでいてください」
慣れない力の制御でだいぶ疲れてはいたが、それを表面に出さないように気をつけながら、イーシュはリスルの手からシャベルを奪い取る。錆びついたシャベルには水分を多く含んだ泥がこびりついていて重かった。
イーシュは腰を入れて重いシャベルで地面を掘り返していきながら、先程、レイモンと別れたときのことをぽつりと口にした。
「リスルさん。先程、神父様と何を話していたんですか?」
「……え?」
イーシュが切り倒した木の残骸の上に腰を下ろしていたリスルの顔が一瞬強張った。彼女は慌てて取り繕うように、
「何でもないわ、気にしないで」
「何でもないって顔じゃなかったですよ、神父様。もしかしなくても……死ぬ気ですか、リスルさん」
「山火事の起きている山に立ち入るんだもの、その可能性は充分にあるでしょう? わたしに何かあったときに、あなたが無事に逃げ延びられるように、手助けはしなくてもいいから見逃してあげてほしいってお願いいしただけよ」
「……」
いまいち納得のいかない顔でイーシュはリスルを見やった。
リスルよりも若い自分に彼女がなるべく負担をかけまいと配慮してくれているのはわかる。しかし、リスルは何かを隠しているような気がした。
彼女に助けてもらい、守ってもらうことしかできないのが心苦しい。自分がもっと年齢を重ねた大人の男で、こんなふうに何もかもが未熟ではなければとイーシュは思う。けれど、今の自分は彼女にとって足手まとい以外の何物でもないに違いなかった。
リスルは切り株に腰を下ろしたまま目を閉じ、ほんの少し力を解放した。彼女の髪が紅に染まっていく。感覚を研ぎ澄まし、自然の中に宿る”モノ”の声に耳を傾ける。
ふいにふらりとリスルの体から力が抜けた。すぐに腹の底に力を込め、体勢を整えたが遅い。
「……あっ」
山を焼く炎の流れを探るだけのつもりだった力がリスルの体を逆流し、暴発した。彼女の華奢な身体が赤い光を伴って明滅する。轟々と音を立てて風が荒れ狂う。暴風に煽られた炎が火の粉を盛大に撒き散らしながら、東へと流されていく。
「……村が!」
そう叫んでリスルは立ち上がる。風に嬲られる髪は元の茶色に戻っていた。
「このままじゃヴェレーンが焼ける……!」
わたしのせいで、と悲壮な顔で声に出さずに呟いたリスルの手を、イーシュはシャベルから手を離して握った。何ができるわけでもないけれど、思わず出た動作だった。
「リスルさん、もしかして……」
これまで毅然と振る舞っていたリスルの顔は、寒さのせいだけでなく青白い。イーシュが握ったその手は微かに震えていた。
彼女の余命が幾許もないことは知っていた。しかし、彼女の異能――《レーヴェン・スルス》の代償がこれほどまでに彼女を蝕んでいるとは想像できていなかった。
「言わないで。大丈夫、わたしは大丈夫だから。それよりも今は……」
リスルは首を横に振り、そう言った。大丈夫というその言葉はまるで彼女自身に言い聞かせているかのようだった。イーシュにはそれが何だか痛々しく見えた。
「全然、大丈夫じゃないですよ。たぶん、俺が思うよりもずっと、リスルさんの身体はぼろぼろなんじゃないですか?
俺は……そんな人を村に向かわせられません。リスルさんはどこか安全な場所で休んでいてください。村には俺一人で戻ります。もしかしたら、こんな俺でも何かできることがあるかもしれない」
「いいえ、わたしも行くわ。この事態を招いたのはわたしだもの。たとえ、石を投げられようと、唾を吐きかけられようと、責任は取らないといけないわ。せめて、最期に……一人でも多くの命を救いたいの」
リスルは自嘲するように笑う。最期って、とイーシュは目を見開いた。
「責任、責任って、なんでリスルさんはそうやってすぐ自分で背負い込もうとするんですか! それになんでそうやって最初から生きることを諦めちゃうんですか! この力のせいで絶望して、死にたいって思い詰めていた俺を掬い上げてくれたリスルさんはどこにいっちゃったんですか!」
ぽろりとイーシュの昂った感情に呼応するかのように双眸から透明な雫が滴り落ちた。鼻の奥がつんとして塩辛い。しかし、イーシュの口から溢れ出る言葉は止まらない。
「なんでそうやって、いつもいつも正しくあろうとして、自分の身を削るようなことをしちゃうんですか! 俺はたとえ正しくなくても、『聖女』なんかじゃなくても、リスルさんがリスルさんのままでそこにいてくれたらそれでいいんです! だから……」
イーシュの顔がぐしゃりと歪んだ。リスルはそっとイーシュの肩へ手を置く。
「……ごめんね。だけど、わたしはやっぱりこうすることしか選べないみたい。
それにこのまま、あの村を見捨てて逃げれば、ただでさえ教会から追われる身のわたしたちの立場はより悪いものとなるわ。悪魔の祝福を受け、災いを齎す、って。わたしは……あなたの未来を守りたい」
俺の未来、とイーシュは濡れた目を紺色だったダッフルコートの袖口で乱暴に拭いながら怪訝そうに聞き返す。そうよ、とリスルは頷いた。
「きっと、いつまでもこんな時代は続かない。わたしは、あなたが人並みに幸せに生きていくための、その糸口を作りたい。
だから、わたしは行くわ。わたしにできる精一杯のことをしに行くの。だから……」
リスルはもう、イーシュが共に来ることを拒む言葉は言えなかった。この少年と交わした約束をなるべくなら破るような真似はしたくなかった。
「一緒に来て、イーシュ」
ずるいですよ、と泣き笑いのような表情を浮かべたイーシュにリスルは敢えて軽口を叩く。
「大人なんてそんなものよ、覚えておきなさい」
とにかく時間がない。今はただ村への道を急ぐしかできなかった。
「村に戻りましょう、イーシュ」
そう言って大股に踏み出しかけたリスルの体がよろけて傾いだ。イーシュはそっと背に手をあてがって彼女の体を支える。服越しに伝わる体温がひどく熱かった。彼女が無理を押してそれでも動こうとしていることを改めて突きつけられ、イーシュはひどく苦しく思った。
どうしてそんなに強くいられるのか。その問いを押し殺して、イーシュはリスルの腕を取り、焦らないように気をつけながら可能な限り早足で歩き始めた。
煤と泥にまみれた二人がヴェレーンに戻ると、村はめらめらと揺らめく炎に包まれていた。夜と朝の狭間の色に染まった空とは対照的な色に照らされて浮かび上がる景色は、二人が覚えている平和な村からは遠くかけ離れていた。
記憶の中のトラウマを想起して、リスルは慄然として一瞬その場で立ちすくんだ。
「炎が……」
リスルは口の中でそう呟いた。自分が引き起こしたということが共通している目の前の事態は、全てを失った娘時代の晩夏の夜を連想するのには充分すぎた。
ほんの一度、季節が移ろうだけの短い間だったとはいえ、身を寄せ、世話になったこの村をリスルは故郷の二の舞にはしたくなかった。
しかし、長年使い続けた《レーヴェン・スルス》の影響を受けて弱りきっている上に、疲労で万全には程遠い今の体調では《ヴィサス・ヴァルテン》の力を使って消火を試みるのは危険だった。先程、ロイゼン山で力を扱い切れずに暴走させてしまっている以上、ここでまた同じことが起きないとも限らない。焦る気持ちを押さえようとしながら、リスルは何かできることはないかと考え続ける。
「……神父様」
リスルの様子を何もいえないまま気遣わしげに見ていたイーシュは人の気配を感じて振り返る。煤けた法衣に身を包んだ人の良さそうなその人は、イーシュ君と彼の名を呼ぶと、苦い笑みを浮かべる。
「こうなるような気はしていましたが……どうして戻ってきてしまったのですか。先程、忠告はしたはずですよ」
「だって……わたしのせいですから。わたしがもっとしっかり力を扱えていればこんなことには……」
蚊の中ような声でリスルは答え、俯いた。茶色い巻毛が彼女の横顔に浮かんだ表情を隠した。
どういうことですか、とレイモンはイーシュに目配せした。イーシュは泥にまみれたブーツの先で背伸びをして、レイモンへと耳打ちした。
「さっき、リスルさんが山で力を使って山火事の状況を探ろうとしたときに力を暴発させてしまって……。どうにも異能の影響で体調がよくないみたいで、力を扱い切れなかったみたいなんです。それで、そのときに発生した強風で村の方に炎が流されてしまって……」
なるほど、話はわかりましたとレイモンは頷いた。そして、彼は身を屈めて俯くリスルと目線の高さを合わせると穏やかにいう。
「シスター・リスル。あなたがすべてを背負い込む必要はありません。確かにこの村にあのような者たちが訪れたことはあなたやイーシュ君に端を発することかもしれません。しかし、あのような狼藉者たちに村を占拠され、好き勝手させてしまったのは私たちこの村の者の責任でもあります。あなたたちの場所を炙り出すためとはいえ、手段を選ばず、このようなことを冒したのはあの者たちです。
結果はともあれ、あなたたち二人はこの村のために、手を尽くそうとしてくれました。その気持ちは尊いものだと、少なくとも私はそう思いますよ」
「でも……わたしのしたことは、許されることじゃない……」
「シスター・リスル。そして、イーシュ君も。よくお聞きなさい。人間とは得てして不完全な生き物です。完璧などありえません。
今あなたが抱いている感情――恐怖も、後悔も、足掻こうとする意志も、あなたたちを人間たらしめるものに他なりません。何かを思い、感じる心を捨て去ってしまったとき、きっと人は人ではいられなくなります。
だから、あなたたちは大丈夫です。あなたたちは不幸を齎す人ならぬモノ――悪魔の祝福を受けた眷族などではありません。私の立場でこういったことを言うべきではありませんが、教義など関係なくそう思います。
あなたたちは、珍しい特技と強く優しい心を持った普通の人間です。生きることに不器用な愛しいただの人の子なんです。
だから、不完全でいい。あなたたちの足りない部分は誰かが補えばいいのですから。そうやって人は支え合って生きていくのですから」
「レイモン神父……」
レイモンのその言葉はリスルの胸の中にそっと沁み渡り、長い間凍りついていた心をほんの少し溶かしてくれた気がした。悪魔の眷属だの化け物だのと教会勢力に追い回され続けてきたけれど、ようやく存在を受け入れてもらえたように思えた。ほんの少しだけ、自分に対して肯定的になってもいいのかもしれないと思った。リスルは顔を上げ、微笑みを浮かべた。グリーンの双眸を縁取る睫毛に透明な雫が揺れていた。
「もし、それでもあなたがどうしても自分を許せなくて、何かしたいと言うのなら、無理のない範囲で逃げ遅れた人の救助や救護活動の手伝いをしてください。村の男手を集めて、村長の指示のもとに消火活動を行なってはいますが、それらにまでは手が回りきっていないのが現状ですから」
イーシュは頷きかけたが、ある疑問が頭をよぎった。
「手伝うのはいいんですけど、リスルさんや俺が村の中を歩き回っていいんですか? 神聖騎士団だっているでしょうし、このような事態を招いた俺たちのことを村の人たちはよく思っていないんじゃないですか?」
「神聖騎士団なら、今は被害の少ないシュオレ湖の方であなたたちが焼け出されて逃げてくるのを手ぐすね引いて待っていますから、村の中にはいませんよ。それに、あなたたちのことについては私から皆に言い含めておきますから、安心してください」
わかりました、とイーシュは今度こそ頷き、頭一個分高い位置にあるリスルの顔を見据えた。焦茶の双眸には凛とした強い光が宿っていた。
「リスルさん、役割分担しましょう。俺は救助の方に回ります。なので、リスルさんは怪我人の看護をお願いします。薬草の知識、あるんでしたよね?」
「ええ、まあ……だけど、イーシュ、危ないわ」
リスルは頷きつつも顔を曇らせた。まだ年若い少年に危険な役回りを押しつけてしまうことを案じてのことだった。
「わかってますよ、大丈夫です。俺も充分に気をつけますから、だから……絶対に後で会いましょう。約束です」
そう告げると、イーシュは身を翻し、燃え盛る炎の中へと飛び込んでいった。リスルは双眸に不安の色を揺らめかせながら、迷いのないその背中を見送った。
「教会の地下に救護所を設けています。ついてきてください」
レイモンに促され、リスルもその場を後にする。まだもう少しだけ、自分という人間にできることがあるのなら、この村のために力を尽くそうと彼女は思った。
レイモンに案内され、礼拝堂の地下に造られたひんやりとした石造りの部屋に足を踏み入れた。先日、レイモンに導かれてロイゼン山から戻ってきた彼女とイーシュが一時的に身を隠していた場所だった。
床に敷かれた織物の上に並んで寝かせられた怪我人たちの呻き声やすすり泣きが反響して聞こえていた。逃げる途中で怪我や火傷を負った者が多く、その悲惨な光景はさながら戦場のようだった。
「シスター・リスル。シスター・アイリスと手分けして、怪我人の手当てをお願いします」
レイモンがそう言うと、かがみ込んで怪我人の傷の様子を見ていた腰まである黒のストレートヘアに菫色の瞳のシスター服の娘がちらりとこちらに一瞥をくれ、会釈をした。リスルも彼女へと会釈を返す。
レイモンは、すみませんがよろしくお願いしますね、とリスルへと頭を下げると、石段を駆け上っていった。それをちらりと見ながら、リスルは泥と煤で汚れた手を手近にあった洗面器の水で清めた。
リスルのそばに右足に怪我を負った中年の女性が寝かされていた。礼拝堂の斜向かいに住むマイアだった。リスルは膝を折り、マイアの傷を見ようとした。しかし、彼女がマイアに触れようとしたとき、その手が振り払われた。
「触るな……! あんた、『悪魔の力』を持つ『魔女』だろう!」
穢らわしいと言わんばかりに、表情を歪めてマイアはそう言い放った。その目の奥には得体の知れないものに対する恐怖が浮かんでいる。
先程、レイモンが事情を説明し、ここに集められた人々を言い含めてはくれていたが、人の負の感情というのはそう簡単に覆るものではない。
「わたしに対して何を言おうと、何を思おうとそれはあなたの勝手です。ですが、今は非常事態です。聞き分けてください」
リスルは静かな声で言い返した。しかし、リスルのその毅然とした態度が癪に触ったのか、マイアは喚き続ける。
「やめろ! 『魔女』なんかに触られたら足が腐る!」
「……お言葉ですけど、わたしが治療せずに放っておいても、その傷だと足が腐るかもしれませんよ」
「……」
リスルが冷静にそう告げると、女性はようやく静かになった。リスルの治療を受け入れる気になったというよりは、投げやりになってされるがままになったというふうではあったが、リスルはそれでも構わなかった。
リスルは彼女の右足の裂傷を確認し、傷口を洗った。ぱっくりと開いた傷を見ながら、これは何針か縫わないと駄目そうだとリスルは判断した。
「すみません、縫います。痛いかもしれませんが、我慢してください」
「……好きにしな」
マイアはぶっきらぼうにそう答えると、リスルから視線を逸らした。リスルは祭壇の上に揃えられたいくつかの薬の瓶と針、手燭を持ってくる。
リスルは茶色い液体の入った小瓶の中身を傷口に振り掛けて消毒し、糸を通した針を手燭の火で炙る。別の瓶に詰まった緑色の軟膏を傷口の周りに塗布し、なるべくマイアが痛みを感じることがないように感覚を鈍麻させた。
リスルはかつてレイモンに教えられた知識を思い出しながら、慎重に傷口を縫っていく。皮膚に針の先端を刺したとき、まだ痛覚が残っていたのか、女性は一瞬びくりと肩を震わせたが、何も言わなかった。
縫合が終わり、化膿止めの軟膏を塗って、傷口に当てがった清潔なガーゼの上から包帯をくるくると巻くとリスルは立ち上がった。怪我人はこのマイア以外にも大勢いる。次の患者の手当てをしなければならなかった。
先程のマイアとの問答が効いたのか、拍子抜けしそうになるほどにその後の処置はスムーズに進んだ。リスルに対して、疑念や恐怖の眼差しを向けてくる者はいても、噛みついてくるような者はもういなかった。
リスルが火傷を負った女性の処置をしていると、階段の上が途端に騒がしくなった。目を凝らすと、担架代わりのトタンに乗せられた人間が、何人かの男たちに担がれているのが見えた。
階段を降りてきた男たちが担いできた人物が小柄な老人であることに気づくと、リスルは目を見開いた。その老人は、村長のゼエンだった。
「何があったの?」
リスルはゼエンを担いできた男たちへと問うた。彼は頭から血を流しており、意識がない。耳や鼻からも赤い筋が伝っていた。
男たちの一人が舌打ち混じりに忌々しいものを見るようにリスルへ視線を向けると、
「消火活動の最中に上から木材が落ちてきた」
端的な説明にリスルはそう、と頷くと問いを重ねる。
「村長はすぐに意識を失ったの? 吐いたりはした?」
吐いてはおらず、頭を打った衝撃で気を失ったみたいだったと男は答えた。それを聞きながら、リスルはざっとゼエンの頭部を確認した。左耳の後ろに痣のようなものが見て取れて、彼女は険しい表情を浮かべた。
(耳の後ろに痣ができている……よくない兆候ね。こういうときって確か、脳が出血している可能性があったはず……)
放っておけば命の危険がある。秋から冬にかけての季節が一つ移ろうまでの短い間だったとはいえ、イーシュのことを受け入れて見守っていてくれたこの老人をリスルは死なせたくなかった。
今、リスルにできることは一つしかなかった。彼女はイーシュと交わした約束のことを思った。胸が痛かった。
(あの子との約束……守れなくなっちゃうわね……。だけど、わたしはこの人を死なせたくない……!)
ゼエンの体を床の敷物の上に横たえると、リスルは膝をついて地下の冷たい空気を静かに吸い込む。体内に取り込まれた空気によって膨らんだ腹にぐっと彼女は力を込めた。彼女は目を閉じ、意識を研ぎ澄ませた。先程のロイゼン山での失敗を思うと怖くはあったものの、ゼエンを救いたいという一心が彼女を突き動かしていた。
リスルは脳内で暖かく優しい光を思い描く。春の木漏れ日のような柔らかく包み込んでくれる光だ。リスルの髪が赤い色を帯び始める。《ヴィサス・ヴァルテン》の力を行使するときの炎のような赤色ではなく、早朝の水平線を染める淡い黄赤に近かった。
リスルはゆっくりと瞼を開く。その瞳はいつもの能力の発動を示す真紅ではなく、朝焼けに似た透明感のある朱色だった。彼女の手のひらに柔らかな光が宿る。彼女はゼエンの頭部に手のひらを翳す。
ゼエンの頭の傷口にまとわりついた光が彼の中へと吸い込まれていく。次第に彼の傷が塞がっていく。
リスルはいきなり体が重くなるのを感じた。リスルは床へと崩折れた。視界が真っ黒に染まる。意識が遠くなり、体から力が抜けていくのを感じたが、彼女は意志の力で無理矢理自分を繋ぎ止めようとする。
(駄目……わたしは、まだ死ねない……死ねないの……!)
頭をよぎったのはイーシュのことだった。ようやく自分の人生を歩き出す気力を取り戻したあの少年を残して逝ってしまえば、きっと彼の心に新たな傷を刻んでしまう。
リスルの視界に次第に光が戻ってくる。しかし、網膜に映る景色はピントが合わず霞んでいた。もう自分の力で動くこともままならないけれど、幸いにもまだほんの少しだけ自分には時間が残されていそうだった。
室内がざわついていた。聖女だ、と誰かが呟いたのが聞こえた。聖女という単語が怪我を負った人々の間を伝播していく。
「シスター・リスル……あんただったか」
リスルのすぐそばで掠れた老人の声がそう言った。
「村長……! お身体は大丈夫ですか? 頭が痛いだとか、吐き気がするだとかそういったことは?」
ゼエンが意識を取り戻し、うっすらと目を開いていた。大丈夫だと頷くと、ゼエンは血で汚れた顔に微笑みを浮かべる。
「人々の怪我や病を癒しながら国内を転々とする『聖女』……話には聞いたことがあった。今ので確信した。あんたのことだろう?」
「人によってはわたしのことをそう呼ぶこともありますが……わたしには過ぎた名です。わたしはわたしにできることをしているだけですから」
ゼエンの言葉にリスルは苦笑した。
ともかく、ゼエンの命を無事に繋ぐことができた。そのことへの安堵により、ふっと緊張の糸が切れ、リスルは意識を失った。
炎の波の中で壁が建物の焼け残った骨組みが黒々とその姿を浮かび上がらせていた。瓦礫が赤い光をちらつかせながら地面に折り重なっている。その様はさながら廃墟のようで不気味さを感じさせた。
イーシュは逃げ遅れた人がいないか確認しながら、崩れかけた建物を周っていた。まとわりついてくる空気が熱い。喉の粘膜を焼かれないようにイーシュは外套の袖口で鼻と口を覆う。
いつ崩れてくるともしれない、瓦礫と化した建物の残骸をイーシュは慎重に調べていく。先程も、柱を失った家の梁が落下してきて、消火活動の指揮を取っていた村長が頭を負傷し、運ばれていったのを見た。
近くから誰かの呻き声を聞いた気がして、イーシュは辺りを見回した。積み重なって倒れた家の柱の下から赤く焼け爛れた小さな人の手がのぞいていた。
「大丈夫ですか!」
イーシュは轟々と炎を上げる建物へと駆け寄り、柱の木材を押し上げようとした。焼けて炭になり始めているとはいえ、成長途中の少年が動かすにはそれは重過ぎた。べろりと手のひらの皮膚が剥ける。
小さく切れば動かすことができるかもしれないと、イーシュは思った。何かを切るにはお誂え向きの力が自分にはある。問題は自分がそれを一人で制御しきれるかどうかだった。
しかし、迷っているだけの余裕はない。イーシュ一人でもどうにか力を使いこなすしかなかった。失敗して力を暴走させてしまったらだとか、間違って下にいる人ごと切ってしまったらなどと躊躇してはいられなかった。
イーシュは目を閉じ、腹に力を込めた。意識を集中させ、鋼でできた花を思い描く。幸い、先程のロイゼン山での感覚はまだ覚えている。
体の中を背骨に沿ってせり上がってくる力の感覚を右腕へと誘導する。イーシュは琥珀色に光る目を見開くと、わずかに力を解放し、指先に鈍色の花を咲かせた。
イーシュは、鋼の花びらを太い木材にあてがい、慎重に切っていく。
額に汗が滲んだ。集中力が途切れれば、切ってはいけないものまで切ってしまいそうだった。
気道を焼かれたのか、喉がひどく痛かった。しかし、イーシュは手を動かすことをやめない。煙にやられて目も痛かった。しかし、今はそんな些事に構ってはいられない。
木材を小さく切り終え、イーシュは解放していた力を自らの中へ収めた。双眸が元の焦茶色へと戻っていく。
能力の行使で疲弊した体を叱咤し、気力でイーシュが木材をどけていくと、下敷きになっていた五歳ほどの幼い少年が姿を現した。確か、雑貨屋の息子で、名をルトといったはずだった。
イーシュはルトの腕を掴んで建物の下から引っ張り出した。すると、その直後、イーシュが木材をどけたことで支えを失った瓦礫が雪崩れ落ちてきた。イーシュはルトの小さな身体を間一髪のところでまだ火の手が及んでいない方へと突き飛ばす。それと同時にイーシュの体の上に瓦礫が降り注いだ。
逃げ遅れ、瓦礫の下敷きとなったイーシュを炎の波が包む。瞬く間にコートの裾へと炎が燃え移ってきていた。
イーシュはげほげほと激しく咳き込む。火傷を負った手のひらにわずかな量の赤い飛沫が散った。リスルの前では、どうしても格好をつけたくて、強がっていたが、いい加減身体が限界だった。走って逃げようにも、身体がに力が入らず、自分の上に重くのしかかる瓦礫の山をどけようにもびくともしない。もう、ここから逃げることはできそうになかった。
ただ、リスルの元へ戻りたかった。彼女が自分のことを呼ぶあの声が聞きたいと思った。弟扱いには不満を感じないではないが、あの綺麗な優しい目でもう一度自分のことを見てほしいと思った。
でも、もうそれももう叶わないかもしれないとイーシュは思った。けれど、こんな自分でも、最後にほんの少しくらいは誰かの役に立てたのなら、これも悪くないと思った。イーシュが好きなあの人なら、きっと自分の身に危険が及ぼうとも、こうしたに違いなかった。
イーシュの身体を業火が焼いていく。たんぱく質の焼ける匂いがした。無数に負った火傷のせいで全身が痛いのか熱いのかもうわからなかった。
リスルさんに会いたい、そう思ったのがイーシュの最後の記憶になった。
若い女の声に名前を呼ばれ、リスルは意識を取り戻した。リスルは自分の身体を揺すっていたシスター服に身を包んだ黒髪の女の姿を認め、掠れた声でその名を呼んだ。
「……シスター・アイリス」
「レイモン神父がお呼びです。動けますか?」
ええ、と頷くと、リスルはアイリスの手を借りて、冷たい床に敷かれた敷物から身を起こす。どうやら怪我人たちと一緒に寝かせられていたらしいとリスルは理解した。
立ち上がろうとすると、膝ががくりとなり、上体が泳いだ。さっとアイリスが手を差し伸べ、リスルの体を支える。どうやらもう、自力で立ち上がるだけの体力も残ってはいないようだとリスルは悟る。
ゼエンに対して、《レーヴェン・スルス》の力を行使したにも関わらず、命を落とさなかったことが奇跡に近い。もうほとんど自力で動くことすらままならないといえ、ぎりぎりのところでまだリスルは持ち堪えていた。
アイリスの肩を借りながら、リスルは石段を登っていく。
石段を上り終え、礼拝堂の隅へと出ると、側廊を通り、リスルは外へ出た。
夜が明けていた。朱と金のグラデーションが東の空を染めていた。
猛火に焼かれた地面はまだ熱さを残していたが、ところどころで小さな煙が上っている以外、炎は全て消し止められていた。炭になった建物の黒い残骸があちらこちらに点在していて、村は廃墟のようだった。
「……シスター・リスル」
躊躇いがちに男の声がリスルの名を呼んだ。
「レイモン神父」
煤と泥で黒く汚れ、あちこち焼け焦げた法衣を纏った壮年の男がそこにいた。
「シスター・リスル。村長を助けていただき、ありがとうございました。それで……あの、イーシュ君なのですが……」
言いにくそうに言葉尻を濁し、レイモンは目を伏せる。リスルは胸がざわつくのを感じた。嫌な予感が膨らんでいく。彼女はレイモンをきつい口調で問いただす。
「イーシュが……イーシュがどうしたっていうんですか、レイモン神父。答えてください!」
「イーシュ君は……あちらです。あちらにいます」
リスルはレイモン神父に示された方へと視線を向け、網膜に映った事実に息を呑んだ。視線の先で真っ黒に焼け焦げた小柄な人影が地面に横たわっていた。その顔には申し訳程度に布が掛けられている。
「詳しいことはわかりませんが、崩れた建物の下敷きになっていた子供を助け、イーシュ君自身は逃げ遅れたようです」
「イーシュ……! 何で……!」
リスルは身体を支えていたアイリスの腕を振り払い、イーシュの元へ行こうとする。しかし、リスルの足にはもう彼女の体重を支える力はなく、彼女は顔から突っ込むように地面へと倒れる。彼女は力の入らない腕を懸命に動かし、横たわるイーシュの元へと這っていく。
リスルは動かないイーシュの体を抱きしめると、その胸へと縋り付く。彼の体の深部まで達していそうな全身のひどい火傷に、リスルの目から涙が溢れた。そのとき、リスルは自分の耳元でどくりという脈動の音を確かに聞いた。とても弱くて小さい音だけれど、イーシュの心臓はまだ鼓動を刻んでいた。
「生きてる……! まだ、生きてるわ!」
リスルは自身の汚れた上着の肩口で乱暴に涙を拭うと、顔を上げる。ほんのりと縁が赤くなった目を閉じ、彼女は目の前の深く傷ついた少年を救いたいと強く願う。
リスルは心の中で眩い光を思う。イーシュを死の闇の中から引き戻すための朝の光だ。柔らかく美しい金色に照らされたこの世界で彼に今日という日の朝を迎えて欲しかった。
リスルの手に朝日と同じ色の光が柔らかく絡みつく。彼女の髪は淡い黄赤へと変化していた。
イーシュの体を金色の光が覆った。少しずつ傷が癒えていき、体表に滑らかな肌色が戻り始める。しかし、イーシュの意識は戻らない。
リスルは明け方の空を染める朱色の双眸を開く。イーシュの体を包む光が眩さを増す。
リスルは自分の体の機能が失われていくのを感じた。目の焦点が合わず、視界を闇が侵食していく。体が末端から動かなくなっていき、死の冷たさが指先から全身へと広がっていく。
今度こそ死ぬのだな、とリスルは思った。湖畔の風車小屋を出たときから、何となく今日が自分にとって最期の日になるのではないかと予感はしていた。けれど、最期にイーシュを救い、生涯を終えることができるのなら、構わないと思った。
イーシュには恨まれるかもしれないとは思う。けれど、リスルは彼に生きてほしかった。そのためなら、自分にほんの僅かに残った命の力を全て、彼の中へ注いでしまおうと思えた。
リスルの心臓が最後の鼓動を刻み、沈黙した。イーシュを包む光が薄れていき、冬の冷たい朝の空気の中へ消えていった。同時にリスルの髪と瞳も元の色を取り戻していく。
リスルは遠くなる意識の中で、自分の名前を呼ぶイーシュの声を聞いた。
(イーシュ……よかった……)
そう思ったのを最後にリスルの意識は死の闇の中へと飲み込まれていった。
彼女はもう動くことはなく、数多の命を救った奇跡の軌跡はここで途絶えた。
頬に冷たい風を感じた。瞼の裏側で眩しい朝の光の存在を感じ、イーシュはゆっくりと目を開く。
胸の上に重さを感じた。ぼんやりとしていた視界の焦点が次第に合っていき、イーシュはその正体を知った。
「リスルさん……?」
イーシュの体を抱きしめ、彼の胸に頬を寄せるようにして、リスルが眠っていた。安らかでどこか満足げな寝顔だった。
ゆっくりと体を起こしながら、そもそも自分はどうしてここにいるのかと、イーシュは訝しげに記憶を探る。救助活動中に生き埋めになっていた子供を《アイゼン・メテオール》の力を使って助け出した後、雪崩れ落ちてきた瓦礫の下敷きとなって身動きが取れなくなり、イーシュ自身は逃げ遅れたはずだった。しかし、身に纏った服こそ真っ黒に焼け焦げているが、体にはわずかな火傷一つない。喉や目が熱や煙にやられて痛むということもなく、不自然だった。
イーシュはリスルが息をしていないことに気づいた。そっと体に触れると、彼を抱きしめるリスルの腕は、熱を失い、ひどく強張っていた。
「何で……」
イーシュは呆然として呟いた。イーシュが意識を取り戻したことに気づいたレイモンは彼に近づくと、静かに首を横に振った。
「あなたは全身に大火傷を負い、瀕死の状態でした。シスター・リスルは、自らの命と引き換えにあなたの命を救うことを選び、その生を終えたのです」
「リスルさん……何でそんなこと……」
リスルは本当に馬鹿だとイーシュは思った。喉の奥から嗚咽が漏れる。
イーシュはこんなことは望んではいなかった。リスルが死ぬくらいなら、自分のことなんて見捨ててしまってほしかった。恨み言と一緒に涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。
レイモンは膝を折って、イーシュと目線を合わせ、
「……あなたたちがロイゼン山に向かう前に顔を合わせたときには、きっと彼女は既に自分の死を覚悟していたのでしょう。虫の知らせとでもいうのでしょうか。
そして、彼女はどのみち自分の死期が近いことを知っていたからこそ、その分あなたが生きることを望んだのでしょう。イーシュ君にとっては迷惑かもしれませんが、彼女はきっと、まだ若く、先のあるあなたに希望を見ていたのだと思います。
どうか、ただ一つ覚えていてください。彼女はあなたを大切に思っていて、幸せに生きてほしいと最後まで願っていたことを」
イーシュは泣きながら頷いた。
イーシュだって、彼女のことが大切だった。強くて、優しくて、格好良くて、美しい彼女のことが好きだった。だからこそ、彼女に憧れもしたし、ほのかな感情を抱きもした。まだ彼女に何も伝えられていないし、返すこともできていなかった。
イーシュはもう動かない彼女の体を抱きしめて、泣き続けた。
夜は完全に明け、淡い青へと色を変え始めた空に朝の光が白く降り注いでいた。



