リスルがヴェレーンを訪れてから、一つの季節が巡った。この季節になると、道すらも埋もれてしまうほどの豪雪に襲われるのだと、彼女が身を寄せることになったこの村の礼拝堂の神父が言っていた。
 この寒村を秋口に訪れてから、リスルはしばらくの間は宿に滞在していたが、神父に薬草類を含む植物の知識を見込まれ、見習いシスターとして礼拝堂で住み込みで働くようになっていた。
 この村の礼拝堂はレシェールに総本山を置く聖セレーデ教会に連なる施設である。しかし、強硬派の影響はこのような辺境の地にまで及んでいることはなく、人事権についても現地の責任者である神父に一任されているような状態だった。
 リスルも最初は自分を害する教会に連なる施設に籍を置くことを躊躇ったが、この村の礼拝堂は互助組織的な側面が強く、差し当たっては危害を加えられる可能性も低いと判断した。
 自分に残された時間は少ないとはいえ、衣食住を確保する必要があったし、イーシュの様子も気にはなっていた。
 この村に来てすぐのころに出会って以来、身を寄せている村長の家から出てくることが少なく、リスルはイーシュとあまり顔を合わせてはいない。あれから一体、どう過ごしているのかわからないが、思いつめて自らを追い詰めていなければいいとリスルは思う。彼自身の自らを責める感情が募ってしまえば、また異能を暴走させてしまう可能性が高い。それが教会の捜索部隊に居所を掴まれるきっかけにもなり得るし、そうなればその余波がリスルにも及ぶことは想像に難くなかった。できることならば、もう自分たちを追い回す教会の追手などとは関わることなく、残り少ない余命を穏やかなに過ごすことをリスルは渇望していた。リスルはここでの生活は自分の素性が露見するか、自身の生命が尽きるまでの最後のモラトリアムにしようと決めていた。

 黒のロングドレスに白の高い詰め襟、長い茶色の緩やかな巻毛を覆う黒のベール――シスターの装束もなんとなく板についてきたリスルは与えられた部屋でせっせと調薬に励んでいた。元からある程度の植物に対する知識はあったものの、この礼拝堂の一角で寝起きするようになってから、神父のレイモンによって調薬や医療の知識をリスルは仕込まれていた。それらを学ぶことはリスルにとっては思いの外、楽しかった。未だに聖典の一節すらも諳んじられないことについては、レイモンにもこの礼拝堂に所属するもう一人のシスター――リスルの先輩であり、同僚であるアイリスには日々溜息を吐かれているが、そもそもリスルには信じる神などいない。もしも神がいるのであれば、人と酷似した異なる存在など創り給うはずはないし、このような異能者に対する迫害など起こったはずがない。『紅の魔女』などという通り名で蔑まれた身で異能者の弾劾を指導する組織の末端にその身を連ねているなど、因果というものに彼女は嘲りの念を覚えないでもなかった。
 そんなことを考えながら、凍傷の薬や風邪薬といったこれからの季節を見据えた薬品を彼女は調合すべく、手を動かしていた。冬の季節が長いこの村においては、これらの薬は絶対に切らしてはならない必需品なのだとレイモンが言っていた。リスルが匙でとろみのある毒々しい紫色の液体をかき混ぜていると、腰まである長い黒髪に菫色の瞳のシスター服姿の娘――アイリスが部屋に入ってきた。
「シスター・リスル、あなたにお客様です。村長ご夫妻がいらっしゃっています」
「村長ご夫妻が……?」
「ええ。村長ご夫妻の元に身を寄せているという少年のことについて、あなたに相談があるとのことです。緊急の用件とのことですので、こちらにお通しします」
 アイリスに誘われ、七十歳ほどの男女二人――村長のゼエンとその妻のハンナが部屋へ入ってきた。泣きそうな顔でハンナは開口一番に、
「イーシュ君を見ていないかしら? 朝から姿が見えなくて……」
 あの子のことを気にかけてくださっていたから何かご存じないかと思って、と彼女は言った。
「それは……いなくなったということですか? 少しどこかに出かけたというわけではなく?」
 嫌な予感を覚えながらリスルがそう問うと、ゼエンは首を横に振り、
「ああ、村の中は探すだけ探したんだが、どこにもいないんだ。今日はこの通りの天気だから心配している」
 恐らく、あの少年はまた自分で自分のことを追い詰めてしまって、自ら姿を消したのだろうとリスルは思った。自分の中の負の感情を抑えきれなくなって、どこかでまた彼は異能を暴走させているかもしれない。
「あの子はいつだって傷だらけでした。あの子の事情はわかりませんけれど、たぶんあの子は自分で自分のことを傷つけているんだと思うんです。刃物だとは思うんですが、何かで傷つけた跡が全身にあって……。心配はしていたのですが、あの状態のあの子にどう声をかければいいのか、どうしてあげるべきだったのかわからないんです。ただ、今あの子がどこかで早まったことをしているんじゃないかと思うと、気が気じゃなくって……」
 老女の口からぽつぽつとこぼれ出る言葉が次第に涙で湿り気を帯びていく。ハンナの目から涙が溢れ出し、彼女は声を上げて泣き崩れた。
 少々誤解があるとはいえ、イーシュに死んでほしくないのはリスルとて同じだった。彼らのために、自分のために、何よりもイーシュ自身のために、あの少年を見つけ出して連れ戻そうとリスルは思った。
「わたし、イーシュを探してきます。村の外はまだ探していないでしょう?」
 リスルは真摯な光をグリーンの双眸に宿し、そう宣言した。
「ですが、シスター・リスル……有り難いお申し出ではありますが、外はこの大雪、危険では……」
 リスルの身を案じる村長の妻に、神に仕え、万人に親愛と施しを齎す作りもののシスターのとしての優しげな微笑を浮かべる。
「ご心配ありがとうございます。ですが、旅暮らしが長かった身ですし、こういった天候にも慣れていますから」
「そうですか……ですが、どうか、お気をつけて……」
 ハンナに礼を述べると、リスルは上着を羽織る間も惜しんで、シスター服のまま部屋を飛び出した。箒を手に礼拝堂の掃除をしていた神父に何事か呼び止められた気がしたが、リスルは無視をした。

 リスルはそのまま、身一つで村を出た。静けさに包まれた銀世界に彼女のブーツが雪を踏みしめる音だけが響く。
 付近に人目がないことを確認すると、彼女はシスター服の長い裾を翻して膝をつき、雪原へと冷え切って赤くなった手のひらを押し当てた。
 リスルは腹の底に力を込め、意識を集中させる。大きな力の奔流が彼女の身体の中を駆け上がってくるのを感じた。彼女は白い地面に押し当てた利き手へと力の流れを集束させ、足元の雪に覆われた大地の声を聞こうとする。
 雪混じりの風に煽られて、シスターの黒いベールが外れた。姿を現した茶色い巻毛は炎のように波打ち、新緑の双眸も紅へと色を変えていた。
(どうか応えて。あの子の――イーシュの辿った道を示して)
 彼女がそう念じると、彼女の脳内に”何か”の声が響く。それはどっしりとした男の声音で、
『其の者の軌跡を此処に示さん』
 《ヴィサス・ヴァルテン》の力に呼応して、数時間前の大地の記憶がリスルの目の前で再現され、白銀の雪原に赤い液体がぽつぽつと現れ始めた。降り続く雪に埋もれていた無数の金属の欠片が姿を現す。白い大地に突き立ったそれらは、物騒な煌めきを静かに放っている。
(血痕……それにこれは……)
 恐らく、この辺りで一度イーシュの異能は暴走している。そして、赤い染みが続く先をリスルが視線で辿った先には真っ白な雪に覆われた山が聳えていた。
(ロイゼン山……イーシュはあそこに向かったの?)
 傷ついた少年は何を思って、危険な雪山へと一人で足を踏み入れたのだろう。このまま遭難するようなことがあれば、命に関わる。それに、今は熊や狼といった獣たちは冬の眠りについているものの、何かの弾みで起こしてしまおうものなら悲惨な結末になることは火を見るよりも明らかだ。戦いを生業とする人々のように万が一の事態を切り抜くことができる自信は全くないが、それでも、あの少年を救いに行くのは同じ異能者である自分であるという確信がそこにあった。早くあの少年を見つけ出さないと、とリスルは改めて強く思った。
 リスルは吹き飛ばされたシスターのベールを拾い上げ、雪を払い落とすと、イーシュの残した痕跡を追い始めた。

時折雪に足を取られながら、リスルが申し訳程度に存在している山道を登っていくと、岩場の奥の洞窟で少年の痕跡は途絶えていた。幸いにも冬の眠りについた獣たちの寝ぐらではなさそうだった。
 洞窟の中を彼女が進んでいくと、暗がりに少年のものらしき人影があった。彼女はイーシュの姿を認めると、その名を呼ぶ。しかし、次の瞬間、洞窟の中に殺気が満ちる。すっかり感情と温度が失われた少年の双眸は、普段の焦げ茶色ではなく、琥珀色の輝きを放っていた。
(力がまた、暴走している……!)
 無数の鋭利な金属の欠片が氷柱のように洞窟の上壁からこちらを見下ろしている。リスルは唇を噛む。
 リスルの持つ能力は《ヴィサス・ヴァルテン》にしろ《レーヴェン・スルス》にしろ、どちらも荒事にはあまり向いていない。一方、攻撃的な能力を持つイーシュの能力の前では、その暴走を止めようにも、なかなかに困難を極めそうだった。
(だけど……わたしはイーシュを止めたい。どれだけ難しいことだったとしても、彼の暴走を止めて、きちんと向き合いたい)
 イーシュの力に対してどれだけ抗えるかわからないけれど、やるしかないとリスルは思った。先程、彼の居場所を掴むために一度《ヴィサス・ヴァルテン》の力を行使したことで疲労を感じていたが、そうも言ってはいられない。
 洞窟の入り口で吹き荒ぶ雪混じりの風へとリスルは意識を向ける。腹に力を込め、右腕へと力の流れを集める。彼女の髪と瞳はまたしても紅い輝きを放っていた。
(あれを叩き落さないと……! じゃないと、危なくてイーシュに近づけない……!)
 リスルの意思に応じるように、彼女の頭の中で”何か”の声が響く。先程とは異なり、それは女の声色をしていた。
『与えましょう。凍てつく風を従える力を』
 冷たい礫を伴った風が洞窟の中を吹き荒れた。同時に上壁を離れ、二人へと向かって降り注ごうとしていた鋼の雨を雪混じりの風が幾ばくか叩き落としたが、大した効果はない。地面へと落としきれなかった金属の欠片が飛来し、容赦なくリスルとイーシュの身体を襲う。金属の欠片が身体に突き刺さり、裂傷からは血液が溢れ出した。
 いつの間に再生成されたのか、物騒な美しさを秘めた金属の欠片が無数に空中に浮かんでいた。
(駄目、これじゃイーシュを止められない……!)
 イーシュが己の意思とは関係なくこちらへと鋼の雨を降らせてくる。彼自身も異能の暴走により、ぼろぼろに傷ついていて、リスルとしては痛ましくて仕方なかった。
 鋼の雨は刹那の間にリスルへと迫ってくる。彼女は意を決して、今までにやったことのないことを試みることにした。
 彼女は降り注ぐ金属の欠片で傷つきながらも、全速力でイーシュへと駆け寄った。彼女自身もかなり負傷していたが、そんなことは気にもとめなかった。
(こんなふうにこの力を使ったこともないし、使いたくもなかったけれど仕方ないわ。上手くいくかわからないけれど、今のわたしではこうする以外にこの子を止められない……!)
 紅の双眸で彼を見据えると、傷だらけの手で、彼の心臓の辺りに手を添える。リスルはやったことはないが、《レーヴェン・スルス》の力を持ってすれば、人の命を奪うことも可能だ。これを応用すれば、一時的にイーシュを仮死状態にし、その動きを止めることも可能なはずだった。
(ほんの少しだけ、この子の生命の時を止めて……!)
 失敗すれば、イーシュの命をそのまま奪ってしまうかもしれないとはわかっていた。それでも、とリスルは手に力を込める。
 彼女の赤い髪と目が色味を変え、ほんの少し黄色みを帯びる。イーシュの中を巡る命の力が自分の手を通じて、身体の中に流れ込んでくるのを感じた。数秒の後、糸が切れたようにイーシュの身体が崩れ落ちる。リスルを目掛けて降り注ごうとしていた鋼の雨も動きを止め、力を失ったのか空中で霧散して姿を消した。リスルは閉じられた彼の瞼を引っ張って、元の焦げ茶色に戻っていることを確認すると、もう一度、能力を発動させる。心臓が止まってしまっている今、早くしないとこのまま脳の活動が完全に停止し、本当にイーシュが死んでしまう。仮死状態となっているイーシュの身体へと自身の中に一時的に取り込んだ彼の生命力を注ぎ込み直すと、リスルは自分の中の力の流れへと蓋をする。
「イーシュ……!よかっ……た……」
 《レーヴェン・スルス》の力により、再び鼓動を取り戻したイーシュの身体を抱きしめ、リスルは崩折れるようにして座り込んだ。その髪と目の色は彼女の本来のものへと戻っていた。
(っ……気持ち悪い……)
 イーシュの生命の時を止め、一時的とはいえその生命力を体内に取り込んだことで、臓器が捩れるような気持ち悪さをリスルは味わっていた。《レーヴェン・スルス》をこうした使い方をしたことによる反動だった。
 全身を支配する倦怠感と吐き気で動けそうになかった。リスルはイーシュの身体を抱きしめたまま、意識を失った。

 恐らく、あれから半刻も経っていなかった。リスルはイーシュよりも少し早く意識を取り戻すと、洞窟の外へ出た。薪にできそうな枝を集めてくると、リスルは疲労を押してもう一度だけ《ヴィサス・ヴァルテン》の力を行使して火をおこし、暖をとっていた。
「リスル……さん……?」
 意識を取り戻したイーシュが、リスルの名を呼びながら身じろぎをした。彼は焦げ茶色の目を開くと、恐る恐るといったふうに起き上がる。異能の暴走により、消耗はしていそうだが、命に別状はなさそうだった。全身の傷もリスルによって止血されており、裂かれたシスター服の裾と思しき黒い布が巻かれていた。
 今は茶色の巻毛とグリーンの双眸に戻った彼女に対し、彼はばつが悪そうに俯いた。暴走状態で何も覚えていなかったとはいえ、恐らく自分はリスルのことも傷つけ、殺そうとした。それにも関わらず、こうして甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる彼女に合わせる顔がなかった。
 自分のことを家に置いてくれている村長夫妻にしたってそうだ。事情を明かすことはできないとはいえ、度々傷だらけになる自分を口うるさく案じながらも世話を焼いてくれる彼らに後ろめたさを覚えていた。
「イーシュ」
 イーシュの思考が負のスパイラルに陥ろうとしていたとき、彼女が彼の名を呼んだ。彼女は柔らかく華奢な腕でイーシュの身体を包み込んだ。その感触と女の人特有の甘い匂いに少しどきりとしながらも、イーシュは抗いはしなかった。
「どうして……」
「あなたを助けるのに理由なんて必要ないわ。ただ、力が暴走した結果とはいえ、あなたがあなた自身を傷つけている様を見ていられなかったし、同胞の暴走をどうにか止めてあげたかった」
 イーシュによってリスル自身だって傷つけられ、悪くすれば死んでしまう危険だってあったはずなのに、この人はとんでもないお人好しだ。それなのに、彼女はイーシュを救ってくれた。彼は自分の手で故郷を滅ぼしてしまったあの日以来、初めて涙を流した。心はずっと己を責め続け、泣き続けていたはずだった。
「怖かったね。辛かったね。イーシュが自分を恐れて許せなくなってしまう気持ちもわかるわ。だけどね、あなたはまだ、守られるべき子供なの。だから――どうか、一人で抱え込んで思い詰めないで。怖いって、辛いって、苦しいって言っていいの。誰かに助けてって言っていいのよ。わたしがここにいて、受け止めてあげる」
 抱きしめてくれるリスルの身体と言葉が暖かくて、イーシュは彼女の肩口に顔を埋めた。リスルの手が彼の頭をぽんぽんと撫でた。
(この人は優しくて、強い……)
 どうしたらこうして教会から追われる身でありながら、こんなに強く優しく生きることができるのだろう。どうすれば、彼女のようになれるのだろう。
 そんなことを考えるイーシュの焦げ茶の双眸からはそれまでのような投げやりさが薄れ、ほんの少し意思の光が灯り始めていた。

 日没が近づき、東の空に夜の藍色が滲み始めると、リスルは火の始末をし、下山の準備を始めた。二人とも異能を行使した後で、身体に疲労が残っているとはいえ、これ以上雪山に留まり続けるのは危険だと彼女は判断した。
 無言のまま、二人が雪に足を取られつつも、慎重に下山を続ける中、リスルのよく知る声が近くで聞こえた。錫杖を携えた金髪に青い目の壮年の男が雪まみれの姿でそこに立っていた。
「シスター・リスル。イーシュ君。無事でよかった。先程、あなたたちを探して、村にレシェールから派遣された神殿騎士団の捜索部隊が来ました」
「な……」
 リスルはイーシュを庇うようにして、レイモンの前に立ちはだかった。わざわざ探しに来たということは、この人は何も話していないにも関わらず、恐らく自分たちの抱える事情に気づいている――その事実がリスルの頭の中で警鐘を鳴らしていた。このまま、レイモンによって神聖騎士団に自分たちの身柄を引き渡されるようなことになれば、最悪の場合、リスルがアルクスで体験した悪夢がヴェレーンで再現されることになる。
イーシュが目を伏せる。その灰色の髪には静かに雪が降り積もっていく。
 無理もない、とリスルは寒さでかさついた唇を噛んだ。イーシュがこうも頻繁に異能を暴走させていれば、教会になにも嗅ぎ付けられないほうがおかしい。
「それで、レイモン神父。こんなところまでわたしたちをわざわざ探しに来てどうするおつもりですか。捜索部隊に引き渡すおつもりで?」
 彼は少し躊躇うように目を伏せると、リスルの言葉を否定した。
「捜索部隊には地方の自治権を理由にお帰りいただきました。そのような者がいれば、このような田舎では目立ちますし、すぐに気づかないはずはありませんから、と。とにかく現状心当たりはありませんが、何か気付き次第、ご連絡差し上げるとのことでご納得いただきました」
「それで、結局この子とわたしをどうなさるおつもりですか、レイモン神父? わたしたちの事情について、ご存知なのでしょう?」
リスルは険しい視線と声音で上司であるレイモンを問いただす。そんなに警戒しないでください、とレイモンは苦笑しながら、
「失礼ながら、お二人の素性については私とシスター・アイリスとで調べさせていただきました。あなたたちは『悪魔の力』をその身に宿した異能者――『紅の魔女』と『災いの子』ですね。……しかし、私にはとてもあなたたちが聖典に記載されているような危険な存在だとは思えなかったのです。なので、私はあなたたちがこの村に危害を与えない限りは静観することにしました。
 私は神聖騎士団を追い返した後、村長ご夫妻とイーシュ君の事情と今後について話をさせていただき、私の権限において、礼拝堂で匿うことで合意を得ました。シスター・リスル、あなたにしても私の大事な部下ですから、上司としてそう易々と捜索部隊に引き渡したりなどしませんよ」
「……わかりました」
 リスルは頷いた。捜索部隊に見つかる危険を冒し、リスルとイーシュを探しに来て、状況を伝えてくれたレイモンの善良さを少なくとも今は信じてもいいと彼女は思った。
「それでは、お二人とも村に戻るとしましょう。ただ、まだこの辺りに捜索部隊がいる可能性もありますので、私についてきてください。村の外から礼拝堂の地下へ続く緊急用の通路があちらのほうにありますから」
 レイモンは二人を先導して歩き出した。今は彼について行くことが最善と判断したリスルとイーシュは黙って彼の後ろを追った。

 しんとした、各々が雪に足跡を刻む音以外、何もない銀世界。柔らかい雪にブーツを取られながらも、リスルとイーシュはレイモンに導かれるまま、歩を進めていた。季節柄、獣は眠りにつき、たまに重さに耐えかねた木々の枝からどさっと地面に雪が落ちる音が遠くから聞こえている。
 人が歩くためではない、獣道としか思えない、雪の積もった山道を木々の間を縫うようにして彼らは進んでいた。軽装で飛び出してきてしまったが故に、悴んだ指先や足先の感覚が鈍い。吐いた白い息の暖かさも瞬時に凍りつきそうな空気の中に溶けていってしまう。
 レイモンに連れられて、一時間ほど山道を歩かされた後だった。彼らは連れてこられた場所は獣道を行けるところまで分け行った行き止まりで、大きな岩が一つあるだけだった。神父に一杯食わされたのではないかと、リスルは胡乱げな眼差しでレイモンをじっとりと見やった。
 しかし、壮年の神父は不敬にもアイスピックがわりにしていた錫杖を岩の隙間に差し込んだ。カチリという小さな音が響く。岩が僅かに動き、人が一人何とか通れるかどうかの空間が顔を覗かせた。暗闇の中へと先んじて身体を滑り込ませながら、
「お二人とも、この先が礼拝堂の地下に繋がっています。急いでください!」
 レイモンに急かされ、二人は疲れ切って冷え切った身体に鞭打って、闇の中へと飛び込んだ。
 悴んだ手を伸ばした先にあった冷たい岩壁に手を這わせながら、彼らは慎重に歩みを進めた。長らく整備されていない岩の道に足を取られそうになりながらなので、必然的に亀の歩みとなる。疲労困憊の状態であることも歩みの遅さに拍車をかけていた。
 彼らはやがて、ぽっかりと空いた地下の空間に出た。普段は何にも使われていないのか、古びて埃を被った祭壇以外何もない場所だった。しばらくこの礼拝堂を寝食の場としていたリスルも把握していない場所だった。
「私はこれより仕事に戻ります。このような場所で申し訳ありませんが、後ほど、毛布と食事を持ってきますので、しばしの間お待ちください」
 白い息を吐きながら、申し訳なさそうにレイモンはそう告げた。わかりました、とリスルは頷く。敬虔でお人好しな神父は薄汚れた祭壇のキャンドルにマッチで最低限の灯りを灯す。身に纏っていた黒のキルティングコートを脱いで毛布代わりに二人に渡すと、彼は階上へと続く石段を登り、懐から鍵束を取り出した。ギィという錆びついた重たい音を伴って、礼拝堂内のどこかへ続く扉を開くと、彼は姿を消した。

 イーシュと二人、薄暗く寒い空間に取り残されたリスルは、レイモンが置いていってくれたコートを身を寄せ合って被った。腰を下ろした石の床は冷たく、臀部の熱を奪っていくが、ないよりはだいぶましだった。よい素材が使われているのか、外套が触れている部分はとても暖かかった。
 沈黙の中、この時間にも関わらず、神父に何事か相談に訪れる人々の足音や会話がどこか遠くから聞こえていた。
 リスルは寒さで白くなった吐息と共にその沈黙を破った。囁くように彼女は傍らの少年に問うた。
「イーシュは……自分の異能が怖い?」
 彼はこくりと頷くことで彼女の言葉を肯定した。
「そう……わたしも自分の力が怖かったわ。いいえ、今も怖い。けれどね、自分の力について知ることで、この力と折り合いをつけて付き合っていくことはできるわ」
「リスルさんは、リスルさん自身や俺の力について、何か知っているんですか?」
 イーシュが尋ねると、リスルは『悪魔の力』について調べたくてレシェールまで行ったことがあるのよ、と言った。イーシュは自分ではまずありえないその行動力に感服しつつも、顔を若干引きつらせながら、
「うわ……無茶しますね……。レシェールって教会の総本山があるところじゃないですか……教会に探されている身でそんなところに乗り込んでよく生きて帰ってこれましたね……」
「教会が探しているのは赤い髪と目の女だもの、巡礼者のふりをして堂々としていれば、案外気づかれないものよ」
「そうですか……」
 リスルの意外な豪胆さにイーシュは感心を通り越して呆れを覚える。
「話は戻るけれど、レシェールでわたしは、聖典の悪魔について研究している神学者から運良く資料を手に入れることができて、自分の力について知ることができたの」
 荷物を漁って資料を盗み出したことは伏せ、リスルは言葉を続ける。
「わたしの力は自然に宿る”モノ”の声を聞き、力を借りることができる《ヴィサス・ヴァルテン》と生命に関する奇跡を起こす《レーヴェン・スルス》。そして、あなたのその力は恐らく……鋼の雨を降らせる《アイゼン・メテオール》よ」
「《アイゼン・メテオール》……」
 イーシュは口の中で今耳にしたばかりのその言葉を繰り返し呟いた。耳馴染みのない言葉のはずなのに、何となくしっくりとくる響きだった。
「あなたの力は非常に攻撃性の高いものだわ。けれど、あなたが使い方を覚えさえすれば、何かを傷つける以外のことだってできるようになるかもしれない」
「使い方さえ、覚えれば……?」
 そうよ、とリスルは微笑んだ。
「近いうちに――わたしが生きていられるうちに、力の制御の仕方を教えるわ」
「生きていられるうちって……リスルさん……?」
 イーシュは怪訝そうな表情を浮かべる。リスルは、ああ言っていなかったわねと、
「《レーヴェン・スルス》の力を使って、誰かの命を救う度に、わたしの寿命は減っていくの。この力を使うには、わたしの生命力を代償として差し出さなければならない上に、誰かの身体を癒やし、生命の時を延ばすためには、代わりにわたしの寿命を分け与えないといけないから。ねえ、イーシュ。『聖女』の噂を耳にしたことはない?」
「死の淵に瀕した人々を救いながら国内を流離い歩く『聖女』……あれって、リスルさんのことだったんですか」
 そうみたい、とリスルは苦い顔で頷いた。異能で人を救って旅するうちに、気がつけばそのような大仰な異名と噂が各地で囁かれるようになっていた。
「どうして……リスルさんはそんなことができるんですか」
「わたしはただ、自分が教会のいうような危険な存在じゃないって証明したかっただけよ。悪魔の祝福を受けた眷属なんかじゃない、って。人のために力を使うことで、わたしたち異能者に向けられる意識が変わればいいって思った。わたしやあなたみたいに教会によって散々酷い目に遭わされてきた異能者はきっとたくさんいるし、これまでにそうして生命を散らしてしまった人はそれこそ数え切れないほどいる。異能者すべてを救うことは無理でも、わたしはせめてイーシュにはその力にも教会にも怯えることなく幸せに生きてほしい。いつかそんな日がくればいいってわたしは願っているわ」
リスルの緑眼には切実な祈りが宿っていた。彼女のその真摯な言葉に、そんな未来があればいいと思わずにはいられない反面、それがただの甘く都合が良いだけの理想でしかないことをイーシュは知っていた。イーシュは煙水晶のような焦げ茶の双眸を伏せると呟く。
「そんなの……夢物語ですよ……」
「そうね。知ってる」
 リスルは頷いた。
「だけど、たとえ叶わないとしても夢や理想を語ることはきっと自由だから。だからわたしは……この先の未来を夢見ることをやめたくはないの」
 強く真っ直ぐな言葉にイーシュはどきりとした。自身の生命の終わりがすぐそこまで近づいてきているというのに、それでもなお、彼女は未来があることを信じていた。自分の現在ですら上手く受け入れられないでいるイーシュは、自身の小ささを恥じる。そして、彼女は綺麗だ、と思う。見た目の話だけではなく、心が美しく、どこまでも高潔なのだ。
 もうすぐ彼女がこの世を去ってしまうのだとしても、今しばらくの間、イーシュは彼女のそばにいてみたいと思った。こんな自分でも、彼女の近くにいることで、もしかしたら変わっていけるのではないかと思い始めていた。まずは彼女が先程言った通り、自分で異能を制御できるようになれれば、とイーシュは己の手を見る。冷えた手は悴んで赤くなっていて、イーシュは息を吹きかけた。白い息が暗闇に溶けて消えていく。
「寒いの?」
 そう聞くと、リスルはイーシュの手を掴んで引き寄せ、膝にかけたレイモンの上着の下へと突っ込んだ。その拍子にバランスを崩したイーシュは、キルティングの生地の下でうっかり柔らかく弾力のある何かに触れてしまって動揺した。リスルの太腿だった。
 イーシュの手を掴んだまま離してくれないリスルの柔らかくて滑らかな指の感触に、女の人なんだ、と改めて感じ、イーシュは意識のやり場に困る。繋いだままの手の感触に、服越しに密着する身体の甘い香り。緩くふんわりとした曲線を描く茶色の巻毛に白く美しい横顔。新緑を思わせる明るいグリーンの瞳に、ナチュラルなピンクベージュのリップが引かれた、少し荒れてはいるけれど柔らかそうな唇。途端にそういったものの一つ一つを意識してしまって、イーシュの心臓が鳴る。彼女を構成するその一つ一つをずっと眺めていたいような気もするのに、妙な考えが首をもたげてきそうな気がして直視できない。
 特に意に介したふうもないリスルに対し、イーシュが一人でどぎまぎしていると、階上でギィと音を立てて扉が開く音がした。誰かが石段を降りてくる。イーシュは我に返って、リスルから身体を離して距離を取る。身体に触れていた温もりが離れていく。
「……何をしているんですか?」
 呆れたような女の声が、もっと緊張感を持てとでも言わんばかりに冷ややかにそう言った。長い黒髪に菫色の双眸のシスター服の女の姿が、彼女の持つ手燭の灯りで浮かび上がっている。
「仲が良いのは結構なことですが、不埒な真似は控えてくださいね。もっとも、思春期の少年にはなかなか難しい相談かもしれませんが」
「……っ!」
 淡々としたアイリスの言葉に、イーシュは膝に顔を埋めた。耳が熱い。
「シスター・アイリス。あまりイーシュ君をいじめないでください。シスター・リスル、遅くなってすみません。仕事が一段落したので、食事と着替えをお持ちしました」
 アイリスの後ろから、ゆっくりと金髪碧眼の壮年の神父が石段を降りてきた。パンとシチューが乗った盆を手にしている。
「ありがとうございます。レイモン神父。あと、上着をお返ししておきますね。ありがとうございました」
「いえ、どういたしまして。そうだ、お食事の前にこれを」
 レイモンは貸していたキルティングコートをリスルから受け取ると、自分の法衣の胸元から小瓶を二つ取り出した。飲んでください、とレイモンはそれらをリスルとイーシュに渡す。
 リスルは小瓶の蓋を開け、中身を口にした。イーシュも彼女に倣い、小瓶の蓋を開け、中に入っていたものにぎょっとした。中に入っていたどろりとした液体は濁った紫色でぶくぶくと泡立っており、不自然に甘ったるい匂いが漂っている。
 薬の知識があるリスルが飲んだのだから身体に害はないはずだと思い、恐る恐るイーシュは小瓶に口をつけた。喉に焼けるような熱さを感じ、鼻を甘ったるい匂いが突き抜けていく。どうにか液体を飲み下すと、何種類もブレンドされた薬草が悪い相乗効果を起こしているのか、今度は独特な香りが食道を逆流してくる。
「俺を殺す気ですか……?」
 恨みがましい目でレイモンに突き刺さるような視線を送ると、彼は苦笑しながら、薬について説明してくれた。
「お二人とも、全身傷だらけの上にかなりお疲れのようでしたから、これは教会秘伝のちょっとした栄養剤です。味はまあ……良薬口に苦しと言いますし……」
「何これ無理……不味すぎて死にそう……」
げっそりとした様子で栄養剤だという液体が入っていた小瓶をイーシュはレイモンへと返した。
「この薬は一日三回摂取することでだんだん効いてくるはずですし、また作って持ってきますね」
「もう持ってこなくていい……」
げんなりとした様子のイーシュに対し、意に介したふうもなくレイモンは完全にその言葉を聞き流す。後でまた食器を取りに来ますねと言うと、レイモンはアイリスを伴って、降りてきた石段を登っていき、姿を消した。

 数日後、礼拝堂の中がばたついているのを二人は感じていた。一体何があったのか探るべく、リスルが異能を練ろうとしていると、アイリスが二人の元に駆け込んできた。
「異能者を匿った咎で村が神聖騎士団に占拠されました」
「な……」
 リスルは絶句した。シスター服の娘は険しい顔で二人へと告げる。
「急な話ではありますが、お二人にはこの村から逃げていただきたいのです。……彼らの狙いはあなたたちの身柄を抑え、痛ぶり、滅することです。ですからどうか……この村から離れてください。お願いします」
 リスルは歯噛みした。自分たちのせいだ、と思った。しかし、自分たちに今できることは、逃げることだけだった。
 リスルは石の床に無造作に置いていたモスグリーンのモッズコートを拾い上げると、袖を通す。まだロイゼン山で異能を行使したときの疲れが残っているが仕方ない。あの日だけで、少なくとも二回は異能を暴走させているイーシュはきっともっと消耗しているはずだった。
「イーシュ、逃げるわよ」
 リスルは床に座り込んだままのイーシュへ手を貸し、立ち上がらせた。リスルはネイビーのダッフルコートを拾い上げ、イーシュへと渡してやる。
 まだ体力が戻りきっていないのか、のろのろとコートを身に纏うイーシュを横目に、ベージュのチェック柄のストールを巻きながらリスルはアイリスへと問うた。
「シスター・アイリス。今、表から逃げるのは危険よね? かといって、ロイゼン山へ戻るわけにもいかないし……」
「そうですね。先日通っていただいた通路ですが、ここの入り口の少し手前に分かれ道があったのを覚えていますか?」
 リスルは、先日、迎えに来てくれたレイモンに伴われて、ロイゼン山から辿ってきた隠し通路を記憶の中で遡った。それらしきものに思い当たるとリスルは頷く。
「あの分かれ道を曲がってしばらく進めば、井戸場の近くの広場に出ることができます。恐らく、僧兵が巡回しているとは思いますが、警戒されているこの礼拝堂を正面から出ていくよりはまだ安全なはずです」
「わかったわ。そうする以外に、今のところ手立てはなさそうね」
 リスルがそう言うと、アイリスは祭壇をなるべく音を響かせないようにずらしていく。リスルとイーシュがどうにか通れそうなスペースが暗闇の中に現れた。
「ありがとう、シスター・アイリス。レイモン神父にもお礼を言っておいてちょうだい」
 それじゃあイーシュ、行きましょうとリスルは言うと、イーシュを伴って眼下の闇の中へ身を躍らせた。

 足場の悪い通路を二人は黙々と進んでいた。灯りのない真っ暗闇の中をさほど苦労なく進めていたのはリスルの異能《ヴィサス・ヴァルテン》によるものが大きかった。彼女の髪は炎のように波打ち、真剣に道を探る双眸は紅へと変化していた。異能を発動させた彼女は出口の方角から吹き込む風を野生動物のそれよりも正確かつ敏感に感知していた。ロイゼン山での力の暴走の影響で具合があまり良くないのか、青白い顔を俯かせたイーシュの手を引き、リスルは出口へと向かって進んでいく。
「……ここから上に出られるのね」
 頭上から僅かに光が差し込んでいた。錆びて赤く変色したスチールのグレーチング越しに、よく似た色の暮れなずむ夕焼けの空が見える。まだ午後四時にも差し掛からないというのに、この北の辺境の一日の終わりは早い。しかし、夜陰に紛れて行動するには些か早い刻限である。イーシュを早くどこかで休ませたいが、彼の体調が思わしくないことを考えると、これ以上、騒ぎを起こすような真似は控えたい。彼に無理をさせたくはなかった。リスルは唇を噛む。乾いて皮が剥けてしまっていたのか、口内に鉄錆に似た味が広がった。
「イーシュ、この上に出れば広場よ。今動くと目立つからここで夜を待とうと思うけど、大丈夫?」
「はい……」
 イーシュは弱々しく頷いた。体調の悪さと疲れにどうにか耐えようとするまだ幼さの残るその顔が痛々しくて、自分の無力さをリスルは苦々しく思った。
 外の広場からは言葉を交わす複数の人間の声が聞こえる。いずれも男のもので、荒っぽい気配を孕んでいることから、恐らくは教会の総本山であるレシェールから派遣されてきた粗暴なことで悪評高い神聖騎士団の僧兵たちだろうとリスルは思った。彼らは己の職務や神に対して口汚く何事かこぼしながら、村の巡回をしているようだ。
「リスルさん」
 ふいに傍らの少年が口を開いた。彼はおずおずと、
「今……俺に、異能の制御の仕方を教えてくれませんか」
「そんなこと言っている場合じゃ……」
 僧兵たちに気付かれないように小声でリスルがそう言うと、イーシュは真っ直ぐな目でリスルを見つめ、畳み掛けてきた。
「俺の異能であいつらの気を逸らします。逃げる方向とは逆方向に、鋼の雨を降らせることができれば、あいつらの目はそっちに向くでしょう?」
 だから村に大きな被害を与えないようにしつつ暴走しない範囲で力を使いたいのだと言うイーシュの声は真剣だった。しかし、リスルは首を横に振った。
「話はわかったわ。だけど、わたしは賛同できないわ。力の制御はわたしがある程度手伝えるでしょうけれど、あなた、この前の暴走でまだ体調が戻っていないじゃない」
「でも、早く逃げないと神父様とか村長のじいさんたちに迷惑がかかるんでしょう?」
「だけど……」
 リスルは口籠もった。彼が言っていることは正論ではある。躊躇う彼女の言葉を遮るように、イーシュは畳み掛ける。
「俺なら大丈夫です。少しでもこれが有効な策だと思うなら、俺にやらせてください。守ってもらいっぱなし、迷惑かけっぱなしは嫌なんです、俺」
「……あなた、意外と頑固なのね」
 頑として譲らないイーシュにリスルは嘆息した。彼女の荒れた唇から漏れた吐息が白く浮かび上がり、薄闇へと霧散して消えていく。明らかに強がりであるようにリスルの目には映ったが、ここで押し問答を続けて巡回中の僧兵たちに気づかれるような愚は避けたかった。仕方ないわね、とリスルはかぶりを振って、
「わかったわ。だけど、二つ約束してちょうだい。まず、必ずわたしの指示に従うこと。そして、何かあった場合、わたしは優先的にあなたを逃す――わたしは自分の身の安全くらいはどうにかできるわ。これらが守れないなら、あなたの提案は呑めないわ」
「……わかりました」
 不承不承といったふうであるが、イーシュは頷いた。結局、自分が守られる身であることに納得がいかないようだったが、リスルはできるだけまだこの年若い少年を危険な目に遭わせたくはなかった。『悪魔の力』を身に宿す以上、避けようがないことなのかもしれないけれど、せめて自分の目が、手が、力が及ぶ限りは彼に危険が及ぶことも、その手を汚すような真似もさせたくはなかった。敬虔な信徒でもなく、教会の教義に反するとされる身の上ではあるけれど、もし神がいるのなら――リスルは一欠片も信じてもいない偶像に、傍らの華奢で頼りなげな少年の未来と安寧を祈っていた。
(ああ、この人は)
 彼女は教会の言うような邪悪な『魔女』なんかじゃない。寧ろ、傷つきながらも誰よりも清く、強く、優しくあって、誰かを守ろうとする姿は、巷で囁かれている『聖女』そのものだとイーシュは思った。
「イーシュ、やるわよ。わたしが誘導するから従って」
 リスルの右手が彼の胸元へ、左手が下腹部へと伸ばされる。身体に触れる温もりにイーシュはどぎまぎとして体を硬くする。
「リ、リスルさん……っ、何をっ……!」
「こら、イーシュ。力を抜きなさい」
「うう……」
 イーシュはほんのりと顔を赤らめながらも、雑念を頭から追い払おうと努める。耳が熱い。
「まずは丹田(たんでん)――そうね、この辺り……おへそから指二、三本くらいの辺りに力を入れて。自分を見失わないために、ここを使ってどっしりと自分を支えておくの」
 イーシュの耳元で落ち着いた声音でそう囁きながら、リスルは場所を示すように指先でイーシュの下腹部をさする。体が変に反応しそうになるのを意志の力で無理矢理押さえ込みながら、彼は言われた場所に力を入れる。
「……こうですか?」
「ええ、それで大丈夫。次は鼻から大きく息を吸って。気持ちを落ち着かせるの」
 リスルの右手がとん、と軽くイーシュの胸を叩く。イーシュがすうっと静かに息を吸うと、流れ込んだ空気が腹を小さく膨らませた。口から全部吐いて、また吸ってとリスルに指示されるままに呼吸を繰り返していると、不思議と気分が落ち着いてきた。
 リスルはイーシュの胸元に触れていた右手を離すと、背後から彼の右腕を取って添える。滑らかな感触の手のひらが彼の手の甲に重ねられる。
「指先に意識を集中させて。そこがあなたの力の出口になるわ」
 イーシュの双眸が琥珀色に輝き始めた。何かが背骨を這い上がってくる感覚がする。これを野放しにしては力が暴走してしまう。彼は強く唇を噛んだ。伸ばした人差し指を残して、イーシュは無意識にぐっと拳を握り込む。
「力をそのままにするのではなく、肩から腕へ、腕から手へと向かうようにイメージして」
 イーシュの中で、彼の意志と圧倒的な力の奔流がせめぎ合う。彼の体という殻を食い破ろうと抗っていた力は次第に彼の血管を辿って指先へと集まっていく。右手の人差し指が燃えるように熱い。
「それを全部解き放ってはだめ。ほんの僅かでいいの。そうね、その手をほんの少しだけ緩めてみて。だけど、制御をあなたの異能に渡さないように気をつけて」
 加減を誤って村をめちゃくちゃにしてしまったらどうしようと、不安でイーシュの神経が張り詰める。自身の息を吐く音がやたらと大きく聞こえた。
 それでもせめて自分のできることをしようと思った。自分は彼女のような人間にはなれないけれど、何もできない無力な子供でいたくなかった。
(いけ……!)
 イーシュは拳に込めた力をほんの僅かに緩めた。背骨を伝って噴き上げた力の奔流が、彼の指先が示す方向へと流れていった。《アイアン・メテオール》の力の凶暴な本質が彼の存在を塗り替えようと体内で暴れている。ふわりと遠のきかける意識をイーシュは歯を食いしばって無理矢理繋ぎ止めた。
「イーシュ、もう少し。もう少しだけ耐えきって」
 リスルの腕がぎゅっと背中からイーシュの身体を抱きしめた。彼女の手の感触を支えにして、イーシュは自分を保とうとする。
 少し離れたところから、金属がぶつかり合う高い音が聞こえた。

 教会の神聖騎士団に所属する僧兵と言えば大仰な名称も手伝って多少は聞こえがよく思えるが、実際のところ、彼らは食いつめた挙句に教会に安く雇われただけで、神などろくに信じてもいない傭兵崩れの荒くれ者の寄せ集めに他ならなかった。任務で派遣される先々で鬱屈した暴力性を解き放つものだから、評判は大層悪い。数百年の昔、聖騎士というものが実際にいたころの名残でこんな名前なのだとどこかで耳にしたことがあるが、大先輩の方々とは異なり、自分たちは当然のように騎士道精神なんてものは微塵も持ち合わせてなどいない。
 教会から支給された質のそう悪くない白銀の装備一式に身を包んだディルは、早々にど田舎の村の巡回任務などという刺激に著しく欠ける仕事に飽き飽きしていた。彼は鬱屈した感情をどうでもいい会話で少しでも放出してしまいたくて、同様の装備で横を歩く仮初の同僚へと話しかけた。
「あー……マジでこんな僻地に派遣されるとかツイてねえって思わねえ? 零時の交代までひたすら巡回とか暇過ぎんだろ……適当に切り上げて、酒と女引っかけに行きてー」
「だよなあ……こんな退屈な仕事押し付けてくるとか神様とやらも見る目がねえっていうか目ェ腐ってんじゃねえの?」
 傍らの経歴も素性も恐らくろくでもないであろう軽薄そうな男――ゼスはさらっと神への不敬発言を交えつつ頷いた。それに、と彼は言葉を続ける。
「ざっと見た感じこの村の女はどいつもこいつも芋っぽいったらねえわ、マジついてねーわ」
 そう零した暫定的な相方へと、ディルは人相の悪さが十倍増しの顔でにんまりと笑ってみせた。
「でもなあ、手配書の似顔絵を見る限りじゃ『紅の魔女』とやらはなかなかの上玉らしいぜ?」
 お、とゼスはうっすらと古い傷が白く残るぼさぼさの右眉を上げてみせた。
「なら、もしそいつを捕まえたら、手足の腱を切って動けなくしちまってから楽しませてもらうのも悪くねえな」
「違いねえ」
 腰にはいた十字を象った意匠の支給品のテンプルソードをガチャガチャと鳴らしながら、村の広場で極めておざなりな巡回を続けていた僧兵の男二人はげらげらと下品な笑い声を立てる。
 そのとき、二人から少し離れたところから、物音が聞こえた。広場の西にある何軒かの飲食店がぽつぽつと立ち並ぶ方角からだった。
「あん?」
 ディルはそちらを振り返った。どうせ、今夜の巡回当番から運良く外れた同僚の荒くれ者がべろんべろんに酔ってどこかでぶっ倒れたかなにかした音だろうと楽観視していたが、彼は己の網膜に映った光景に絶句した。挙動不審な相棒を胡乱げに見やると、ゼスも同様に固まり、魚のように口をぱくぱくさせる。
「えっと……おい、これは……」
 地面に無数の金属の欠片が突き刺さっていた。恐らく、先程の物音――金属同士がぶつかり合うような高い音の正体はこれだ。だが、誰がこれを、と彼らはぼんやりと考える。そういえば、『紅の魔女』のせいで印象が薄れがちだが、この地に潜伏しているという彼女と一緒に行動しているかもしれない少年も異端の能力を身に宿した立派なお尋ね者だったような気がする。
「えーと……確か、『災いの子』?」
 ディルはなんとなくそれっぽい単語を記憶の隅から引っ張り出すと呟く。鋼の雨を降らすという十代半ばくらいの少年がそんなふうに渾名されていたはずだ。この状況から鑑みるに、彼もしくは彼ら二人が今、至近距離に潜んでいるということになる。全くもって面倒なことに巻き込まれたなあとディルは肩をすくめた。傍らの同僚はわかりやすく貧乏くじを引いたと言わんばかりに舌打ちしていた。訳のわからない連中とたった二人でやり合うのはごめんだった。この面倒ごとに、今ごろだらだらと酒でも飲んでいるであろう他の同僚たちをせめて巻き込んでやりたくて、
「俺は隊長に知らせてくる。おめえは逃げられねえようにせいぜいしっかり見張っとけよ」
 俺たちのお楽しみに逃げらんねえようにな、と踵を返しかけたとき、ゼスは己の戦闘経験だけは豊かな勘が人の気配を察知したのを感じた。恐らく人数は二人、逆方向に向かっている。
「ちっ」
「まんまと出し抜かれたか」
 悪態を吐いた口元をディルは歪める。過去の戦闘で何本か欠けた黄ばんだ前歯が露わになる。
「個人的な恨みは微塵もねえが、ちーっとばかし痛い目に遭ってもらうとすっか。特に『魔女』さんとやらの方」
「だな」
 品のない軽口を叩きながら、ディルはテンプルソード、ゼスはロングボウを構える。ディルは村の東って何があったっけかなと、昼間に適当に頭に突っ込んだ村の地図を思い起こす。
「……墓場? 何考えてんだ、あいつら……?」
 相方の思考を知ってか知らずか、眉根を寄せてゼスが呟く。墓場の裏手には滝があり、確かにそこからであれば逃げられないこともないかもしれないが、こんな寒い季節にそんなところに飛び込んでいくなんて、到底正気だとは思えない。所詮は素人考えだとは思うものの、つい今し方、その素人にまんまと出し抜かれたばかりである上に、妙な力を使う連中ということもあり、なかなかに油断ならない。
 ゼスは獲物を見つけた猛禽類のような目で、標的に狙いをつける。逃げていく女と少年の足元へと数発の矢を放つ。
 矢が掠ったのか、髪の長い人影が前へとつんのめったのが見えた。しかし、彼女は、足を引きずりながらも、そのまま逃げていく。
「追うか。所詮、切った張ったに不慣れな女子供だ。掠り傷とはいえ、どうせそう遠くまでは逃げられねえよ」
「ああ」
 ディルの言葉にゼスは頷く。にやにやと笑いながら、
「綺麗だって噂の顔に傷つけねえでやったんだ、感謝してほしいところだな」
 キズモノの相手すんのが嫌なだけだろと軽口に軽口で返しながら、ディルは走り始めた。

 リスルは太陽の沈みかけた墓地の片隅で、石ころ大くらいの大きさの紫色の実をいくつか摘み取ると腰を上げた。故人への不敬など、神を信じない彼女には関係のないことなので、たまに立ち寄るこの場所に、これが生育していることを知っていた。
 イーシュは、リスルの足元に視線を落としながら、変声期の終わりかけたざらついた声で、ぼそりと言う。
「リスルさん、あの……足……」
 気遣わしげな顔をする少年へと、彼女は肩をすくめ、わざと明るく言ってみせた。
「このくらいなら大丈夫。昔、火炙りにされたときに比べたら全然大したことないわ」
「……」
 さらりと引き合いに出された過去の凄惨な体験に、イーシュの顔が痛ましげに歪む。リスルにしてみれば、ちょっとした軽口のつもりだったが、どうやら、根が真面目な少年には逆効果だったようだ。
 さて、とリスルは咳払いをした。
「じきにさっきの奴らが追いついてくるはずよ。わたしは足止めのためにちょっとした小細工をするから、合図をしたらあなたは先に滝の方へ逃げなさい」
「でも……」
 イーシュは何か言いかけたが、リスルの真剣な色を宿したグリーンの瞳に気圧されて押し黙る。
「イーシュ。約束、したでしょう?」
 イーシュが渋々頷きかけたとき、柄の悪い男の声が響いた。先程追いかけてきていた僧兵の二人だった。
「いたぞ! ったく手間掛けさせやがって」
「……来たわね」
 リスルは溜息混じりにつやつやとした牛革製のブラウンの手袋越しの掌に包まれたモノの感触を確かめた。イーシュは、一歩引いたところでいかにも荒くれ者といった風情の男たちとリスルをちらちらと見比べている。
「へえ……噂には聞いていたがなかなか……」
 リスルの顔を見ると、右眉に白い古傷の残る男が舌舐めずりする。仮にも神に仕える者とは思えない下品さに、まだ年若い少年は嫌悪で顔を顰める。僧兵などと名乗ってはいるが、明らかに粗野な雰囲気といい、好色そうな嫌らしい目つきといい、どちらかと言えば傭兵や盗賊などのそれに近いような気がした。
「ふうん……教会の威信も随分と地に落ちたものね。さぞ、神も空の彼方でお嘆きのことでしょう……腐ってるわ」
 目の前に相対する男たちに対し、イーシュと同じ感想を抱いていたリスルは、信じてもいない宗教的な象徴を都合よく引き合いに出し、彼らを睨め上げる。その視線は鋭く挑発的な色を帯びたものだった。
「へえ……『魔女』さんや、強気な女って言うのは悪くねえな。俺は、強気な女を屈服させる瞬間ってのが、堪らなく好きでなァッ!」
 テンプルソードを持ったがっしりとした体つきの壮年の男が気迫と共に切りかかってくる。教会から支給された白銀のアーマープレートに身を包んでいるにも関わらず、力強く俊敏な動きだった。下衆な物言いとは裏腹に、切先の向かう先は的確だ。
「全く褒められてる気がしないわ、ね!」
 リスルは、右手に握り込んでいたものを力を込めて潰すと男たちの顔面へと投げつけた。「イーシュ、逃げなさい!」「えっ、でも!」「いいから!早く!」黒っぽく、すえた匂いのする液体が飛び散る。男のテンプルソードがリスルの脇腹を掠りかけ、間一髪のところでからんからんと音を立てて地面へと転がった。遅れてどすんと男たちが白目を剥いて崩れ落ちる。リスルの視界の端には氷のように冷たい水に打たれながら、滝の裏側に逃げ込もうとしている華奢な少年の背中が像を結んでいた。
「うっ……このアマ、何を……」
 倒れ伏す体格のいい方の男が口汚く呻く。
「即効性の麻痺毒よ。ご愁傷様」
 全くそう思っていなさそうな涼しげな顔でリスルは男の問いに答えてやる。
「『魔女』なら『魔女』らしく妙な術使うとかしろよ……」
 勝手な偏見をぶつけて意識を失った弓を携えた男にリスルは肩をすくめた。力を行使するとひどく疲れるので、なるべく必要最低限しか使わないようにしているというのにいい迷惑だ。
 リスルは自分の服を見下ろすと、ベルトと外套のフードの紐を抜き取った。ベルトとドローコードを使って、意識のない男二人を手近にあった誰のものとも知れない墓石に括り付ける。これでしばらく彼らやその同僚たちが追ってくることはないだろうが、無事にレイモンに再会することがあればこっぴどく叱られる所業であることは疑いない。
 リスルは踵を返し、イーシュを追って、背後の滝へと飛び込んだ。
 静まり返った墓地の静けさの中に響く水の音と広がり始めた夜の闇に意識を失った男たちの姿は飲み込まれ、沈んでいった。