青藍の空に朝日が上り始めていた。東の空に浮かぶ薄桃色を帯びた雲が美しい。
 スフェルは、黒鹿毛の愛馬の背で、朝の冷たい空気を切っていた。
 王都ルランテが近づき、街の外壁とその中に聳え立つ王城が遠くに見え始めたとき、彼は手綱を握る手に力を込めた。幼いころから一緒にいる黒みがかった褐色の馬は、彼の意図を正しく理解し、足を止める。
「スフェル殿下? どうかなさいましたか?」
 後ろを走っていた栗毛の馬が止まる。背後から鳶色の髪の青年の怪訝そうな声が彼に投げかけられる。
 スフェル・ローデリア――アッシュベージュの髪にヘーゼルの瞳を持つ彼はルシティア王国の王弟だ。日々、兄王ライセルの補佐をすべく、政務に励んでいる。もっとも、近頃は頭を抱える案件が多く鬱屈していた。
 数日前に国内西部のレシェールから、客人が訪れていた。レシェールは国教たる聖セレーデ教の総本山がある都市である。教会からの使者――ヴェルマ・イェール大司祭が厄介ごとを持ち込んできていた。
 七年前に南方のアルクスの町を焼き、指名手配中の『紅の魔女』が数週間前に王都の近くに出没していた痕跡があったらしい。そのため、その『魔女』の捜索に国として協力して欲しいというのが鼻持ちならない古狸――ヴェルマ大司祭の言い分だった。
 この国において、教会は一定以上の政治的な発言力を持つ。ただでさえ、王都近辺の治安の悪化への対応に奔走させられている現在、面倒な話を持ってきてくれたものだとスフェルは思う。王家としては、教会の意向は無視できるものではないため、ライセルや宰相のウィアスも頭を悩ませていた。
 スフェルは少しでも気分を晴らすべく、夜も明けきらぬうちから、従者のセイランを連れ、遠駆けに出ていた。朝食までに城に戻るべく、王都へ向けて愛馬のオリーブを走らせていたところ、彼は街道脇の木の根元で眠る灰色の髪の少女を見つけた。
 近頃は物騒だというのに呑気なものだとスフェルは顔を顰める。鎧を脱ぎ、鞍に身体を押し当てながら、馬上から降りる。
「セイラン。オリーブを頼む」
 鼻面を擦り寄せてきた愛馬の首筋をぽんぽんと撫でてやると、スフェルは従者の青年へと手綱を預けた。
 スフェルは眠る少女に近づくと、あることに気づいた。彼女は怪我をしていた。誰がやったのか、申し訳程度に止血はされていたが、右肩に血が滲み、衣服を汚していた。襟元をはだけさせ、なるべく肌を見ないように配慮しながら、スフェルは傷口を探る。彼女の肩には矢で射られたと思しき傷があった。死ぬような深手ではなかったが、血を多く流したのか、少女の顔は青白い。
 スフェルはシンプルな意匠ながらも上質な外套を脱ぎ、少女の身体を包んだ。
「スフェル殿下、何を……? そのようなことをされてはお召し物が汚れてしまいます」
 スフェルは渋い顔で声を上げたセイランに一瞥をくれると、
「服の一着や二着がなんだ。このまま、この少女は王都の施療院まで連れていく。城よりそちらのほうが近いからな」
「何も殿下が御自らそのようなことをなさらなくても……あとで衛兵をこちらに向かわせればよいことではないですか」
「ここで怪我をした少女を置いていくなど、それこそ王族の名折れだ。セイラン、わかるな?」
「それは……」
 セイランは根負けして、不承不承ながら頷いた。こうなるとスフェルは頑として譲らないことを彼は長年の付き合いで知っていた。
 スフェルは王族としては、些か純粋で真っ直ぐに過ぎる。そういった性格のため、庶民からは人気があるが、同時に為政者としての短所でもあった。
 スフェルは少女をセイランに渡すと、愛馬の黒っぽい鬣と手綱を一緒くたに掴み、左足を鎧にかける。弾みをつけて、身体を持ち上げると馬の背に跨った。
「その少女を私に」
「……はい」
 自ら少女を運ばなくても、せめて自分に任せればいいのにと思いながら、セイランは腕の中の少女の体を馬上にいるスフェルのほうへと押し上げた。
 スフェルは、セイランが自分の馬に跨ったのを確認すると、少女を抱えたまま、馬体を脹脛(ふくらはぎ)で圧迫する。彼の馬はゆっくりと歩き始める。
 怪我をした少女に配慮して、あまり馬体を揺らさないように努めながら、二人は早朝の街道を東へと進み始めた。

「スフェル殿下! どちらへ行かれておられたのですか! 殿下のお姿が見えないとのことで、皆探していたのですよ! 最近は物騒だと殿下もご存知でしょう!」
 王都へ帰ると、スフェルは何よりも先に街の門を守っていた衛兵に血相を変えて怒られた。
「少し遠駆けへ……それに、念のためにセイランも連れていったから何も問題ないだろう?」
 スフェルが城を抜け出して、王都の外へ遠駆けに行くことはさほど珍しいことでもなければ、常ならば目くじらを立てられるほどのことでもない。王都の外が最近物騒になっていることは、その対応に追われている当事者としてはもちろん認識していたが、さすがに衛兵たちの様子が妙だと思った。
「何かあったのか?」
「何かあったも何も……! 昨夜、西のフィエロの村が大規模な盗賊団に襲われ、全滅したらしいとの連絡が入って……! 何で殿下はこんなときに限って遠駆けなど……! もし殿下の御身に何かあったらと、皆どれほど心配したか……!」
「そのようなことになっていたとは知らなかった。心配をかけてすまなかった」
 小言が延々と続きそうだったため、スフェルは大人しく衛兵へ詫びた。この分では説教の第二波が城でスフェルの帰りを待ち構えていそうだった。
 そもそも何でお前が止めないんだとでも言いたげな非難がましい視線が、スフェルの背後に控えていたセイランへと突き刺さる。当然、セイランも最近物騒だという話については把握していたため、止めはした。しかし、最近のスフェルの鬱屈についても理解はしていたため、最終的には非常に渋々ながら許可せざるを得なかった。
 ちくちくとした頭痛を覚えながら、「今回は何もなかったからよかったものの……」などとまだぼやいている衛兵へと重ねて詫びた上でセイランは問うた。
「本当に、殿下がご心配をおかけして申し訳ありませんでした。ところで、その盗賊にフィエロが襲われたという件について、詳しくお聞かせ願えませんか?」
「それが……セイラン様。情報が錯綜していて、まだ詳しいことがわかっていないのです。ただ……どうにもこの件については一旦教会の預かりになりそうとのことで」
 その言葉に、セイランは頭痛に加えて、胃がきりきりとするのを感じた。城に帰ったらとにかく薬を飲もうと彼は心に決めた。
 スフェルが腕に少女を抱えていることに気づいた衛兵が、
「それはそうと……セイラン様、あの少女は一体……?」
「先程、殿下が街道沿いで見つけまして……怪我をしているようなので、ご自分で施療院まで連れて行くと……」
「はあ……」
 セイランがざっくりと事情を説明してやると、衛兵は半ば呆れたように肩をすくめた。
 衛兵とセイランが背後で何事か小声でこそこそと話しているのを聞き流しながら、スフェルは腕の中の少女を見やる。彼がこの少女を見つけたのはフィエロと王都を結ぶ街道沿いだった。怪我をしていることといい、もしかすると彼女は、フィエロが襲撃された昨夜の一件に関係があるかもしれない。彼女の意識が戻ったら、話を聞いてみてもいいかもしれない。
 スフェルとセイランはもう一度、心配をかけたことへの詫びを衛兵に告げると、施療院に向かって馬を歩かせ始めた。

 その日の午後、少女が目を覚ましたとの連絡を施療院から受けたスフェルは再び、城を抜け出すことにした。朝、帰城して、セイランと共に説教の第二波と第三波をやり過ごしてすぐのことだった。
「スフェル殿下……そのくらいのことでしたら、私を向かわせればそれで済むことではないでしょうか? 先程まで、陛下にも将軍閣下にもこってり絞られていたのをお忘れですか?」
 スフェルの愛馬の背に淀みない慣れた手付きで鞍を乗せてやりながら、セイランは己の主へと苦言を呈する。ちらりと目線を動かすと、隣に繋いでいたセイランの馬であるクローチェががりがりと前掻きを繰り返しており、セイランはまったくどいつもいつもという気分になる。溜息を吐きつつ、黒鹿毛の馬の腹帯をぐっと締め上げると、耳を絞った黒褐色の顔面と後ろ足が彼をめがけて飛んできた。何だか今日は踏んだり蹴ったりだった。スフェルは愛馬の鼻面をわしゃわしゃと撫でてやりながら、
「あの少女を保護したのは私だ。施療院に任せきりにするというのも無責任ではないか」
「殿下……やけにあの娘を気にしていらっしゃるようですが、あの者に何かあるんですか? あと、すぐそうやってオリーブを甘やかすのはやめてください、私がオリーブにナメられますし、クローチェにも悪影響で何もいいことがありません」
 名前を呼ばれた栗毛の馬がセイランの背中に顔を擦り寄せてきた。たぶん、これは顔についた虫を擦り付けられている。せっかく冬に向けて新しい上着をおろしたばかりだったのに、とセイランは溜息を零す。
 そんな従者の青年の様子に特に意に介したふうもなく、これは必要なコミュニケーションだなどと宣うと、スフェルは真顔になる。彼は辺りに人気がないことを確認すると、セイランへと囁いた。
「セイラン。昨晩のフィエロの事件の捜査が教会預かりになるという話を覚えているか?」
「ええ……しかし、それが何か……?」
 セイランは怪訝そうに頷く。
「お前も気づいているだろうが、おそらく何らかの形であの少女は昨夜の事件に関わっている。そして、教会側が全滅したはずのフィエロの生き残りかもしれない彼女に行き着くのも時間の問題だ」
「まあ、そうでしょうね」
「私たちも可能な範囲で彼女から話を聞く必要があるが、それ以上に教会から彼女を守ってやる必要がある。今の教会は彼女に教会の満足する内容を証言させるまで尋問を繰り返すくらいのことはするだろうし、更に口封じのために最終的に彼女を消すくらいのことは厭わない。教会側が手出しをしづらくするためには、私が先に彼女に接触しておいたほうがいい」
「つまりは、あの娘を事実上、殿下の庇護下に置くということですか……。しかし、そのように権力を笠に着るようなやり方は、殿下はお好きではないのでは……?」
「何度でも言うが、少女一人すら守れなくて、何が王族だ。民を守るために、私の威光が役に立つというのなら、それを振りかざすことを厭いはしない」
 スフェルはきっぱりとそう言い放った。
 そのとき、セイランの馬の耳がぴんと立った。栗毛の馬の視線の先から、人が近づいてくるのが聞こえる。スフェルは肩をすくめて、
「さて、見つかる前にさっさと行くとしようか。抜け出したのが知れてしまえば、また私もセイランも怒られてしまうからな」
 スフェルは愛馬の左側に立ち、手綱と鬣をまとめて掴んだ。鐙に爪先をかけて、馬上に体を押し上げる。セイランは何度目かになる溜息をつきながら、主に倣って栗毛の馬に跨った。
 セイランは脹脛で馬体を圧迫すると、先を行く黒鹿毛の馬の後を追い始めた。

 施療院に着き、馬を繋ぐと、セイランは茶色の扉を叩き、訪いを告げた。すぐに白衣に身を包んだ煉瓦色の髪の若い男が顔を出した。
「スフェル殿下、セイラン様。どうぞ、こちらへ」
 若い医師は、二人を建物の中へ招き入れる。
「イスタ殿、あの少女の具合はどうだ?」
「それがその……」
 スフェルが問うと、イスタの銀縁の眼鏡の奥にある飴色の瞳に困惑の色がありありと浮かぶ。
「……どうやら、あの娘は記憶をすべて失っているようなのです」
 躊躇いがちにイスタが口にした言葉に、スフェルとセイランは一瞬、言葉を失った。少女の容態に関する事実を受け止めることに瞬き一回分の時間を費やした後、「……そうか」小さく呟き、スフェルは黙り込む。
「記憶が戻る可能性はないのでしょうか? それに、すべてというのはどのくらい……」
 主の様子を気にしながら、セイランは疑問を口にする。イスタは首を横に振り、
「現時点では一時的なものなのかどうかも判断できかねますが……殿下が保護されたあの娘はよほど酷い目にあったのでしょう。思い出すことがあの娘にとってよいことなのかどうか、私にはわかりません。あの娘は……自分の名前すら忘れてしまっているのですから」
「……そうですか」
 セイランとイスタの会話を聞きながら、やはりあの少女は昨夜のフィエロの事件に関わっている可能性は高いとスフェルは思った。なればこそ、尚更、あの少女の身柄が大司祭たちの手に渡ることは防がねばならない。記憶を失った哀れな少女を下手に刺激させたくはなかった。スフェルはヘーゼルの瞳でイスタを真摯に見据えると、口を開く。
「無理を承知でお願いする。あの少女に会わせてくれないか」
「殿下の頼みであったとしても、医療従事者として許可できません。お言葉ですが、あの娘に今は負担をかけるべきではありません」
「わかっている。ただ、様子を見て、話をするだけだ。無理に何かを聞き出すつもりもなければ、長居をするつもりもない。イスタ殿も立ち会ってくれて構わない。だから、頼む」
「……五分。五分だけです。それ以上は許可できません」
 イスタは根負けして、渋々ながらも条件付きでスフェルたちへ面会の許可を出す。彼は、二人を伴って、廊下を進む。
「入りますよ」
 イスタは突き当りの部屋の扉を叩く。扉を開けると、消毒液の匂いがする部屋の中、白い清潔なシーツに覆われたベッドの上で真新しい包帯を巻かれた右肩を庇うようにして、灰色の髪の少女が体を起こしていた。
 スフェルたちが病室に入ると、彼女の苔色の双眸に警戒するような色が浮かんだ。誰、と小さな声で彼女は誰何を問う。
「こちらは王弟殿下とその従者の方です」
 イスタが困ったように、少女へと二人が何者なのかを説明する。少女は怪訝そうに眉根を寄せた。その瞳はスフェルが携えた剣をちらちらと見ていて、警戒の色が消えない。
「王族の方……?」
 剣が怖いのかと思い、スフェルは自衛のために持っていた剣を鞘ごと外して、セイランに渡す。膝を折ってかがみ込み、少女と目線を合わせる。セイランの藍色の視線が咎めるような視線が彼の側頭部に刺さる。
「私はスフェルという。先程、イスタ殿が言っていたように、一応王族ではあるんだが、そう畏まらないでくれ。今朝、城を抜け出したときに、西の街道で君を見つけて保護したのは私だ。記憶のことはイスタ殿から聞いてはいるが、ともかく体の方は大事なかったようでよかった。……そうだ、忘れないうちにこれを」
 スフェルは黄色いシンビジュームの花束を少女へと差し出す。
「お花……」
「ああ、今の時期に咲く花なんだけれどね。城の庭に咲いていたのを使って、あそこにいる私の従者……セイランに花束にさせたんだが、まあまあ悪くないだろう?」
 少女の苔色の目が、スフェルの傍に控えるセイランを見る。少女は手の中の花束とセイランを見比べると、くすりと小さく声を立てて破顔した。
 セイランはなんだかなあと思いながらも、スフェルが少女の笑顔を引き出すことに成功したのでまあよしとする。スフェルが少女の見舞いに何を持っていくべきか城を出てくる前に悩んでいたのをセイランは知っているし、セイラン自身、どうにか見栄えのするようにまとめようと悪戦苦闘させられた。
「……エミル」
 スフェルの唇が聖典に載っている神の使徒の一人の名前を紡ぐ。記憶を失って間もないというのに、こうして笑うだけの力があるだけの彼女ならば、きっと自分の足で立って生きられるとスフェルは思った。だからこそ、そんな彼女に与えるなら、この名前がいいと思った。少女はきょとんとして首を傾げる。
「呼び名がないというのも不便だろう? エミル――君の仮初の名前だ。気に入らなかったり、元の名前を思い出したときは変えてくれて構わない。ただ、今はそう呼ばせてもらっていいか?」
 少女はこくりと頷いた。
「エミル、覚えておいてくれ。君は命以外のものをすべて失ってしまったかもしれないけれど、君は決して一人ではないということを。何かあれば、いつでも私を頼ってくれて構わない」
 スフェルが少女――エミルにそう言ったとき、廊下にどたどたと荒い何者かの足音が響いた。間髪開けずに、乱暴にドアが開かれ、ごてごてとした装飾の施された法衣に身を包んだ小太りの初老の男が病室へと飛び込んできた。セイランは闖入者へと厳しい視線を向け、腰に携えていた自分のロングソードの柄へと手をかける。
「セイラン、やめろ。彼女をあまり刺激するな」
 スフェルはセイランを制止すると、闖入者の男へと向き直る。教会の古狸がやはり嗅ぎつけてきたか、とスフェルは内心で舌打ちをする。
「ヴェルマ大司祭。ここは施療院だ。騒がしくしないでいただきたい。私に何か用があるのであれば、城で伺おう」
 スフェルが言外に帰れと告げると、大司祭は鼻息荒く言い返す。
「スフェル殿下。私めは殿下ではなく、そこの娘に用があるのです」
「今は話ができる状態ではないのが、見てわからないのか。生憎だが、出直していただきたい。急ぎの用であれば、私が代わりに伺おう」
「いえ、殿下の手をわずらわせるほどのことではございません。ただ、私めは、そこの娘にフィエロの事件について聞きたいだけなのですがね」
 スフェルとエミルへと舐めるように視線を這わせながら、大司祭は嫌な笑みを浮かべてそう言った。
「何か誤解があるようだが、その娘はフィエロの事件には関係ない。お引取りいただこうか」
 スフェルは動じることなく、そう宣った。しかし、ヴェルマも引き下がることなく、
「しかし、今朝、殿下が街道で少女を一人保護したなどという話を耳にしておりますが、それがその娘ではないのですかな?」
「人違いだ。私は今朝は城にいたし、その娘はそこにいる私の従者の縁者だ」
 スフェルの言い放った言葉に、勝手に親戚を増やされたセイランは内心で頭を抱える。エミルの困惑した苔色の瞳がセイランを見る。
「大丈夫です。きっと、殿下ならあなたにとって悪いようにはしませんから」
 セイランはエミルを安心させようとそう言葉をかけた。わかりました、と彼女は頷く。セイランは、ヴェルマのほうへと向き直ると、
「ええ、その娘は私の従妹のエミル・ゼーヴェです。三日前、階段を踏み外して頭を強く打ち、こちらに入院していたのですが、意識が戻ったとの連絡を受け、面会にきていました」
 スフェルの嘘の上に即席の設定を重ね、セイランは主君へと同意を求めるべく、視線を送る。視線が交錯すると、スフェルはわかったとでもいうように軽く頷いて、
「ああ、セイランがやたらと気を揉んでいたから、私も気にかかっていてな。無理を言って見舞わせてもらった次第だ」
 臣下の身内は私の身内も同然だからな、とさり気なさを装って言い添えたスフェルを無言でヴェルマは睨め上げる。王家を敵に回したくなければ手を出すなと暗に言われた大司祭は引き下がるほかなかった。
「……どうやら、私めの勘違いだったようですね。私めはこれで失礼しましょう」
 怒気を孕んだ口調でヴェルマはそう言うと、入ってきたときよりも荒々しく病室を出ていった。スフェルは肩をすくめてその背中を見送った。神経質そうな若い医師は、帰るときですら騒がしい招かれざる客に青筋を立てていた。
「あの……今の人は? フィエロの事件って何ですか?」
 エミルは問うた。スフェルを見上げる苔色の瞳には意志の光が宿り始めていて、芯の強さを感じさせた。どこまで話したものかとスフェルは思案しながら、
「今のはヴェルマ・イェール大司祭だ。今の人は昨夜近くのフィエロという村であった事件と今朝、西の街道で倒れていた君に何らかの関係があるんじゃないかと思って話を聞きに来た。だけど、今の状態の君に無理をさせたくなかったから、少し強引だがお帰りいただいた。……あの人たちは都合のいい証言を君から引き出すためなら、どんな手段だってとるだろうからな」
「ええと……じゃあ、私がセイラン様の従妹というのは……?」
「申し訳ありません。あの場を収めるために殿下の嘘に乗らせていただいただけです。あなたがどこの誰なのかというのは、わかっていないのが現状です」
 嘆息しながら、セイランはエミルへと頭を下げた。教会の強硬派の追及からこの少女を守るには、実際に『エミル・ゼーヴェ』という人物の戸籍を捏造してしまったほうがいいかもしれないという思考がふっと彼の脳内を過ぎった。無理にでも、彼女にある程度の立場や肩書を持たせてしまったほうがスフェルにとってはこの娘を守りやすい。セイランは帰城後に取るべき手続きの算段をし始めた。
「……スフェル殿下、セイラン様」
 苛立った青年の声が二人の背に投げかけられる。細い銀縁の眼鏡の奥から向けられた視線は氷のように冷たい。
「お約束のお時間はとうに過ぎておりますが」
「大変申し訳ありません。……殿下、そろそろ帰りましょう。エミルの身体に障ります」
 イスタの言葉の内から、とっとと帰れという意思を感じ取り、セイランは詫びの言葉を告げると、主君へと退室を促す。
「失礼した。エミル、また来る。思うことはいろいろあるかもしれないが、今はとにかく心と体をゆっくり休めてくれ」
 スフェルはそう言うと、セイランを伴って病室を出ていった。見送りのために、イスタも彼らを追って部屋を出ていく。
 部屋の中が静まり返り、エミルはあかぎれのある自分の両手に視線を落とす。
 自分は誰なのだろうと思う。自分の手を見る限り、きっと記憶を失う前の自分は王家や教会の上層部などまったく関係ない生き方をしていたはずなのに、自分を巡った鞘当が起きているのは一体何故なのだろう。
 けれど、あのスフェルという王弟は、自分を守ろうとしてくれた。突然、病室に入ってきた大司祭だという人物に比べ、誠実そうだと思った。身を案じてくれた言葉からは嘘は感じなかった。
 自分の本当の名前や年齢すらも思い出せないし、一体今何の渦中にいるのかも全くわからないけれど、スフェルのことは信じてもいいのかもしれないとエミルは思った。

 スフェルがエミルを保護して、三ヶ月ほどが経ち、王都には春が訪れていた。
 エミルの記憶は一向に戻る様子はなかったが、傷が癒え、施療院を退院した後、寝食の場は隣接する礼拝堂へと移っていた。今のエミルはシスターの見習いと雑用をして日々を過ごしている。
 退院前にスフェルはエミルを訪ね、城で自分の侍女になる気はないかと打診したが、すぐにその場で断られた。いつまでも守られるのではなく、自分の足で立って生きていきたいのだと彼女は言った。そして、彼女は施療院の隣にある聖セレーデ教会王都礼拝堂の神父マウロを訪ねて頼み込み、生きていくための手段と衣食住を自力で手に入れた。
 権力に阿る様子のない彼女をスフェルはすっかり気に入り、時折、城を抜け出しては、生活に不自由はないかと様子を見に来ている。今日も公務と公務の間に無理矢理時間を確保し、スフェルはセイランを伴い、城下の礼拝堂へと足を運んでいた。
(誰かに見られている)
 城からの道中、何者かの視線を感じていた。気になったセイランは建物の中へは入らず、柵に繋いだ馬たちと共に外でスフェルを待っていた。
 懐から革袋を出し、角砂糖をいくつか手に乗せて黒褐色の毛並みの主君の愛馬へと与えてやりながら、セイランは気配を探る。神聖騎士団に属する僧兵がエミルを狙ってレシェールから差し向けられたのかと思っていたが、こちらを窺っているのは明らかに戦い方を知っている人間ではなさそうだった。一応、隠すつもりはありそうだったが、気配の隠し方が拙過ぎる。
 視線の元を辿ると、隣の施療院の角にカーキのフーデッドポンチョを纏った小さな人影があった。顔はフードで隠れていてよくわからなかった。
(……子供?)
 背格好からして、エミルよりおそらく二、三歳年下の少年だと思われた。さほど有害そうには見えなかったが、食い入るように礼拝堂の扉を見つめているのが気にかかる。
 セイランは馬の世話を装って、スフェルが建物から出てくるまで、その場で少年の様子を観察し続けた。
 三十分ほどして、建物の扉が開き、スフェルとエミルが楽しげに談笑しながら姿を現した。
「それでは、エミル。また来る。何か不自由あれば、いつでも言ってくれ」
「とんでもないです、スフェル殿下。それよりもあまりセイラン様を困らせないでくださいね。何だか少しお疲れのようでしたから」
 エミルの言葉にセイランが内心で激しく同意していると、少年が息を飲んだのを感じた。少年が何事か小さく呟いたが、セイランは聞き取れなかった。少年は身を翻し、どこかへと駆けていった。
 一体何だったのだろうと思いながら、セイランは戻ってきたスフェルへとオリーブの手綱を渡す。セイランは心地よい春の陽気でうとうとする栗毛の愛馬を起こすと、左足を鐙に乗せて身体を引き上げ、馬体に跨った。
 セイランがこの少年に遭遇したのは先にも後にもこの一度きりだった。この出来事は些細なものとして、じきに日常の中に埋没していった。

 エミルが王都の礼拝堂で暮らすようになって、三度目の冬が巡ってきていた。彼女は、分厚い雲に覆われた灰色の空を見上げて、冬用の分厚い生地のシスター服に包まれた体を震わせた。太陽の日差しがないというだけのことで、体感温度が何度か下がるような気がする。
 エミルには、ここへ来る以前の記憶がない。三年前、礼拝堂に併設された施療院で目覚めたときの彼女は、自分の名前や年齢すらも覚えていなかった。現在、名乗っているエミルという名も、呼び名がないと不便だからと、スフェルが与えてくれた仮初のものだ。聖典から引用された、かつて荒廃から人々を救ったという神の使徒の名に、彼女は少し気後れを覚えている。
 この天気では乾かないかもしれないが、神父に言いつけられた洗濯を終わらせてしまおうと、エミルは傍らの洗濯籠に盛られた洗ったばかりのシーツを手に取った。隣の施療院の分もまとめて洗ったので、結構な量がある。彼女が慣れた手付きでシーツの洗い皺を引っ張って伸ばしていると、人のよさそうな老人が姿を現した。
「エミル」
「神父様」
 彼女の名を呼んだ好々爺然とした男はこの礼拝堂の神父であり、名をマウロと言う。マウロは周囲を気にするように、声を潜めると、
「エミル、スフェル殿下がいらっしゃっておられます。早くこちらへ」
 言われてみれば、礼拝堂の裏でぶるると馬が控えめな鳴き声を上げているのが聞こえる。エミルは洗濯物を干そうとしていた手を止め、手にしていたシーツを洗濯籠へと戻すと、マウロの後を追って、建物の中へと入っていった。
「エミル」
 応接室に入ると、ソファに腰掛けて茶に口をつけていたアッシュベージュの髪の青年がエミルの名を呼んだ。
「すまない。忙しいところに来てしまったか?」
「いえ、とんでもないです、スフェル殿下。ちょうど手が空いたところでしたので」
 絶賛洗濯中だったことはおくびにも出さずに、エミルはそう言った。
 エミルを訪ねてきた、余計な飾り気はないがよい身なりをした青年は、御年二十九歳となるこの国の王弟、スフェル・ローデリアである。
 エミルは、三年前、王都の西の街道で怪我をして気を失っていたところを馬で早朝の遠駆けに出ていたスフェルに助けられ、この礼拝堂に隣接された施療院に連れてこられた。それはちょうど、王都西郊の村であるフィエロが盗賊団に襲われて滅びた事件――『フィエロの悪夢』の翌朝のことだったという。
 スフェルは、エミルが事件の関係者ではないかと考えていたが、施療院で目覚めた彼女は過去の記憶を全て失ってしまっていた。本当は彼女に色々と聞きたいことがあったが、記憶を失うほどの恐ろしい目に遭ったと思われる少女を問い詰めて変に刺激することはスフェルにはできなかった。彼は、無理に彼女から過去の出来事を引き出そうとすることを己にも他人にも禁じた。実際、目覚めたばかりのエミルは、どこで嗅ぎつけたのか、たまたま王城に滞在していたというレシェールからきた大司祭が施療院に押しかけてきたとき、居合わせたスフェルに庇ってもらった。
 スフェルにとって何か益があるとは思えないのに、それ以降も彼はエミルのことを気にかけ、たまにこの礼拝堂を訪れていた。
「エミル、元気にしていたか?」
「ええ、おかげさまで。スフェル様もお元気そうで何よりです」
 通り一遍の挨拶を済ませると、スフェルは、畳んでソファにかけていたチャコールグレーの外套の中から、小さな包みを取り出し、エミルへと差し出した。ほんのりと甘い、いい香りが彼女の鼻腔をくすぐった。
「毎度毎度気の利かないものですまないが……よければ皆で食べなさい」
「いつもお気遣いいただいてすみません。ありがたくいただきますね」
 エミルはスフェルへと頭を下げると、香ばしい香りのする包みを受け取った。スフェルは満足げに柔らかく微笑んだ。
 スフェルはエミルのところへ顔を出す度に、流行りのお菓子を手土産に持ってくる。一応、エミルの負担になり過ぎず、なおかつこの年頃の少女が喜びそうなものを選んでいるつもりらしいと、以前にスフェルの従者であり、書類上ではエミルの従兄ということになっているセイランがこっそりと教えてくれた。エミルは少し不器用だけれど温かなスフェルの心遣いが嬉しかった。
「ところで、今日はお一人でこちらまで?」
 いつもはスフェルの傍に控えている従者の青年の姿がないことに気付き、エミルは問うた。スフェルはさりげなさを装ってそっとシスター服の少女から目を逸らす。
「……また、お城を抜け出してこられたんですね。セイラン様に叱られますよ」
「まったくですよ」
 溜息混じりの青年の声がエミルに同意を示した。いつの間にか、スフェルより幾つか年下の鳶色の髪の青年が戸口に立っていた。
「セイラン様」
「いつもいつもお忙しいところにどこぞの王弟殿下がお邪魔して申し訳ありません。……スフェル殿下、こちらに顔を出すことは止めませんが、せめて私にくらいは行き先を伝えてからお出かけください」
 見つかってしまったか、と苦笑いするスフェルに対し、殿下の身に何かあれば私の責任になるのですから、などとセイランはくどくどと小言を言い続けている。
 庶民に人気のある実に立派な人物であるはずの王弟と真面目で気苦労の絶えない従者――この二人はいつ見ても何だか騒がしい。その光景が何だかおかしくて、エミルは口元をそっと押さえると、くすりと小さな笑い声を漏らした。

 エミルには一つ、誰にも言っていない秘密がある。彼女をこの王都礼拝堂に置き、導いてくれているマウロにも、彼女を気にかけ、事実上の庇護者となっているスフェルにも言ったことはない。
 エミルは三年前、それまでの記憶を失ったが、たった一つだけ脳裏に焼き付いている光景があった。
 記憶の中で、エミルは灰色の髪と濃茶の瞳を持つ十歳くらいの少年の腕に抱かれていた。右肩を矢で射られ、血を流す彼女を見て、少年は必死な顔で、姉さんと呼んでいた。
 少年が片手を宙に掲げると、双眸からすっと温度が抜け落ちた。瞳が色を変え、琥珀色の光を放つ。冬の夜空を圧倒的な冷たい美しさを帯びて煌めく何かが埋め尽くす。エミルはぼやける視界でそれを見上げながら、少年の名を叫ぶ。
「――!」
 エミルはその少年を何と呼んだのか覚えていない。彼女の中に残り続けているこの僅かな記憶はここで終わっている。これが何を意味するものであるか、彼女にはわからない。
 少年は、エミルのことを姉さんと呼んだ。記憶を失う前の自分には弟がいたのかもしれないと彼女は思う。彼はどうなったのだろう。生きているのだろうか。マウロやスフェルにこの少年について尋ねれば、何か教えてくれるかもしれないとは思うが、彼女は何となくこのことについては、誰にも言わない方がいいような気がしていた。

 スフェルがお忍びでエミルの元を訪ねてきてから数日が経った。エミルは、マウロが礼拝堂の門前に何か貼り紙をしているところに出くわした。
「神父様、そちらは何ですか?」
 次のミサのときに開催する予定のチャリティーバザーの告知か何かかと思いながら、エミルはマウロの手元を何気なく見やった。視界に飛び込んできた情報に、エミルは苔色の双眸を見開き、静かに息を呑んだ。
「指名、手配……?」
 その貼り紙に描かれていたのは、エミルの記憶に焼きついた、あの少年と瓜二つの似顔絵だった。似顔絵の下には「悪魔の祝福を受けし『災いの子』イーシュ・エルフェン」と書かれている。
「ええ、レシェールから回ってきたものでして……現在、王国全土の礼拝堂や施療院など、すべての教会関連施設に同じものが回っているはずです」
 思わず呟いたエミルの言葉に、手を止めてマウロは頷いた。彼女は言葉と表情に感情が現れないように努めながら、淡々と問うた。
「その少年は……何をしたんですか?」
「それは……」
 マウロは言いにくそうに言葉を濁した。しばらく言葉を探して逡巡していたが、マウロは諦めたように溜息をついた。吐き出された呼気が冷たい空気に霧散して消えていく。
「……いいでしょう。スフェル殿下からは止められていましたが、私が知る範囲のことはお話ししましょう。どのみち、あの日の事件について、いつまでもあなたに隠し通すことは難しいでしょうし、何より知る権利があるでしょうから」
 中でお話しします、とマウロはエミルを促して、建物の中へと入る。寒空の下、風でぱたぱたとたなびく中途半端に貼りかけた手配書に描かれた少年――イーシュの焦茶色の双眸が静かに少女を見送っていた。
 エミルはマウロの居室へと通され、椅子を勧められた。自身も質素な木製の椅子に腰を下ろすと、まだどこか躊躇うようにマウロは言葉を紡ぎ始めた。
「エミル。三年前、あなたがスフェル殿下に保護された前の晩に『フィエロの悪夢』と呼ばれる事件があったことは知っていると思います。あなたがこの事件の関係者である可能性は状況を鑑みると非常に高かったのですが、施療院で目覚めたとき、あなたは一切の記憶を失っていました。そのような状態のあなたを無理矢理問い詰め、負担をかけることをスフェル様は厭われました。この事件の捜査があなたに及ばないように遠ざけ、ここで静かに暮らせるように計らってくださったのです」
 エミルは相槌を打つ。ここまでは彼女自身も知っている話だ。
「ところで、あなたは聖典の悪魔についての記述を覚えていますか?」
 今の話と何の関係があるのだろうと思いながら、この三年で暗記するまで読み込まされた聖典のページをエミルは頭の中で繰る。何とかそれらしき一節を脳内から引っ張り出し、
「『神の御名の下にその身を滅する』……でしたよね?」
「ええ、そうです。ここからは聖典に詳しいことは記載されてはいませんが、この世界には時折『悪魔の力』――人智を越えた異能を持つ者が現れます。そういった者たちは、悪魔の祝福を受けた眷属とされており、この世界の安寧を脅かす存在だといいます。先程の手配書の少年は『悪魔の力』のうちの一つである、鋼の雨を降らせる異能の持ち主――通称『災いの子』です」
「その少年の異能があの事件にどう繋がるのですか?」
「当初、『フィエロの悪夢』は大規模な盗賊団の襲撃によるものとされていました。それがあの事件の発端であるのは、少なくとも間違いはなさそうとのことですが……事件の起きたフィエロ村では、血溜まりの中に村人と盗賊の区別もなく死体が折り重なって倒れており、地面には無数の鋼の欠片が突き立っていたということです。村人にも、盗賊にも生き残った者は誰もいませんでした」
 わずかに残った記憶の断片と今しがたマウロが口にした光景がエミルの頭の中で少しずつ繋がり始める。
「この件には、当時王都に滞在していたというレシェールの大司祭が強引に割り込み、調査の指揮を執りました。その結果、フィエロ村で『悪魔の力』が使用された形跡が発見されました。その後、国内各地で時折、同様の力が使用された痕跡が見つかるようになり、その度にレシェールから捜索部隊が派遣されました。そうして足取りを追い続けた結果、あの手配書の少年へと行き着いたのです」
 マウロは一度言葉を切ると、深く息を吸った。
「『悪魔の力』は人間には過ぎた力であり、我々はその存在を見過ごすことはできません。彼らの持つ『悪魔の力』は、野放しにしておくには非常に危険だからです。ですから……」
「だから……殺すんですか?」
 エミルは淡々とした低い声でマウロの言葉を遮った。直接的な彼女の物言いに老年の神父は鼻白む。
 聖典の上では、『悪魔の力』を持つ者たちの辿る末路については明記されてはいなかった。しかし、教会が危険視する彼らを追い、”滅する”というのであれば、ある程度想像はつく。
 マウロとエミルの間に沈黙が流れた。冷ややかなエミルの視線に耐えかね、マウロは、ええ、と頷いた。エミルの彩度の低いグリーンの双眸には、その姿がいつもの優しく人々に教えを説く神父ではなく、神の導きを待つ弱々しいただの一人の老人であるかのように映った。
「それが……世界の安寧を守るために必要だという……神の教えですから」
 掠れた声でそう言ったマウロの瞳は、微かに迷いの色が揺れていた。
 エミルはもう、何も言わなかった。

 夜の礼拝堂に月の光が差し込んでいた。
 白い光を受けて浮かび上がるステンドグラスには、涙を流しながら一心に祈る乙女――神セレーデが世界に最初の救いをもたらしたときの姿が描かれている。
 エミルは、手燭を携え、深夜の礼拝堂を一人で訪れていた。静けさと闇の降りた空間に蝋燭の小さな炎が揺れる。
 エミルは昼間、マウロから『フィエロの悪夢』と『災いの子』についての話を聞いた。唯一記憶に焼き付いていたあの光景は、事件のときに弟である少年が異能を発動させたときのものだったのだと理解した。
 『悪魔の力』を持つ者は殺される――その事実がエミルの胸に重たい影を落としていた。異能の力を発動させることで、命からがら逃げ出したはずの少年は、教会によってどこまでも追い回された上で殺されるのだという。ひどく恐ろしい目に遭ったであろう少年に対して、あんまりな仕打ちだと彼女は思った。人智を超えた力を放置するのは危険だという理屈はわかる。しかし、過去の彼女同様、きっと彼も多くを失ったというのに、唯一残された生きる未来すらも奪うなんて残酷すぎる。
 かつて、神ではなく、王族とはいえ人の身であるスフェルによって、エミルは救われた。なのに、神は哀れな少年を救ってはくれないというのだろうか。未熟な人の手にできることを神はしてはくれないのだろうか。
 イーシュ、と少年の今日知ったばかりの名前をエミルは心の中で呟く。
 誰か彼に救いのある未来を与えてください、と彼女は人気のない深夜の礼拝堂の片隅で祈りを捧げた。
 この先の彼が幸せに生きていけるのであれば、この願いを聞き届けるのは神でも悪魔でも構わないとエミルは思った。