イーシュ・エルフェンは、十一の年まで、多少の不幸はあれど、平凡の範疇に収まる生活を送っていた。
 幼いころ、イーシュは祖父を訪ねて行った先の王都ルランテで、馬車の事故に巻き込まれ、両親を亡くした。両親に守られて、彼と彼の姉ユーフェは無事だったが、親を失った二人は当時料理人をしていた祖父グウィンに引き取られることとなった。息子夫婦の葬儀が一通り済んだ後、グウィンはその腕を惜しまれながらも料理人を辞めることとなり、幼い孫二人を連れ、王都近郊のフィエロ村へと移り住み、宿屋を始めた。イーシュは当時の顛末について、祖父からそう聞いている。
 宿屋の朝は早い。子供ながらに低血圧で朝が弱いイーシュは、日も昇らぬうちから二つ上の姉に叩き起こされる。
「イーシュ! いつまで寝てるの! 朝よ! 起きなさい!」
「うぅ……」
 早朝から元気すぎる姉ユーフェとは対照的に、イーシュは弱々しく呻く。彼は半分閉じたままの視界に、勝ち気そうな苔色の目の少女の姿が映り込んでいるのを認めると、掛け布団を引き上げ、頭からすっぽり被る。すかさず、布団越しにユーフェの拳が頭に飛んでくる。
「何なの……姉さん……」
「何なのじゃないわよ、とっとと起きなさいって言ってるの!」
 ユーフェは容赦なく、弟の布団を引っ剥がした。勢いでイーシュは寝台から転がり落ち、強かに腰を打った。
「痛……」
 のっそりと涙目で身を起こしながら、イーシュはユーフェを見やる。彼女は全く意に介したふうもなく、
「やーっと起きたわね。さっさと起きて下にいらっしゃい。昨日みたいに洗面台のところで行き倒れてたらただじゃおかないんだからね」
「がんばる……」
 言いたいことを言いたいだけ言って部屋から出て行く姉の背中を見送りながら、イーシュは欠伸を噛み殺す。ベッドサイドに置いた着替えに手を伸ばし、もそもそと着替えを始める。
 冬が近いからか今朝は一段と冷えるなとまだ靄のかかった思考の隅で感じながら、瞳の色と同じダークブラウンのボタンダウンのシャツの上からアイボリーのモヘアニットを重ねる。着替えを済ませると、意識をまだ半分近く夢の世界に残したまま、ふらふらと部屋を出た。
 廊下の突き当たりにある黄ばんだ共用の洗面台で、バシャバシャと顔を洗っていると、水の冷たさでだんだんと意識がはっきりとしてくる。洗顔ついでに姉と同じ色の寝乱れた髪を水をつけて引っ張り、申し訳程度に整える。惰性で歯を磨きながら、ぼんやりと水垢で薄汚れた鏡を眺めると、どことなくぼさっと感が否めない眠そうな十歳を少し越えた少年がこちらを見返していた。
 一応の身支度を済ませると、イーシュは宿泊客を起こさないように足音を忍ばせて一階へと下りる。一階の食堂スペースと三階の居住空間に挟まれたフロアに客室が配置されている構造となっているため、朝晩は物音に気を配る必要がある。
「イーシュ、遅い!」
 おはよう、と言う間もなくユーフェの高い声と黒いエプロンが顔面に飛んでくる。早く食べてしまいなさい、と祖父のグウィンが厨房から顔を出し、湯気の立つ椀と匙を手渡してくれた。
 イーシュは行儀悪くその場に立ったまま、いい匂いのするそれに口をつけた。今日は優しくほっこりとする味わいのミルク粥だ。身体の芯へとじんわりと暖かさが広がっていく。
 イーシュは粥を平らげると、厨房に立つ祖父へ食器を返して、姉に投げつけられたエプロンを身に纏った。
 じきに宿泊客が起きてくる時間だ。ユーフェが食堂で朝食の給仕をしている間、各客室の清掃をするのがイーシュの朝の仕事である。
 これがイーシュにとって、いつも通りの一日の始まりであり、こんな日々がいつまでも続いていくのだと、このころは信じていた。

 水の入ったブリキのバケツを足元に置くと、イーシュは出窓を開けた。二階の一番奥にあるこの客室は、東側に大きな出窓があり、朝日がよく入る。朝日と共に室内に入り込んできた清冽な空気が喉をひりつかせる。
 イーシュは寝台から寝乱れたコットン生地のシーツを引っ剥がすと、ぞんざいに丸めて、清掃の邪魔にならないように寝台の隅へと置いた。床に置いておいたハタキを手に取ると、室内の調度品からほぼ溜まっていない埃を落とす。ハタキ掛けを終わらせると、毎日やっているのでやはりあまり溜まっていない床の塵を箒で掃き集める。
 仕上げに床を濡れた雑巾で拭き清めるのだが、冷え込む今の季節には少し辛い。一階で汲んできたバケツの水は、冬場は殊更に冷たい。バケツの中に沈んだ布を絞る手指は真っ赤になって、少しひりひりする。毎朝のことながら、溜息を吐きたい気分に駆られながら、イーシュは機械的に雑巾に添えた手を動かしていく。床だけでなく、出窓やテーブルまでしっかりと拭き上げると、バケツの中に薄汚れた雑巾を突っ込む。バケツと清掃用具を左手に、右脇に寝台の上に放っておいたシーツを抱えると、イーシュは部屋を出る。危なげない足取りで階段を降りていくと、宿泊客たちの朝食が終わった後の食堂で後片付けをするべく、三編みにした灰色の髪を揺らしながら、てきぱきとユーフェが動き回っていた。
「イーシュ、終わったの?」
「うん」
 ユーフェの問いに、階段裏の洗濯物の籠に回収したシーツを放り込みながらイーシュは頷く。
「それじゃ、次、食堂のモップ掛けよろしく」
「はーい」
 ユーフェは厨房の隅に立て掛けてあるモップを顎でしゃくって指し示す。イーシュは間延びした返事を姉に返しながら、清掃用具を抱えたまま、ドアを肩口で押して開き、勝手口を出ていく。「返事は短く!」背後からユーフェの小言が追いかけてきたが、聞こえなかったことにした。
 イーシュは適当にその辺りにバケツの汚水を捨てると、宿の裏手にある納屋に清掃用具一式をぞんざいに放り込んだ。ユーフェに命じられた仕事に戻ろうと、踵を返すと、足元でざくざくという音がした。イーシュが地面に視線を下ろすと、白い霜柱が下りていた。そういえば、今朝は吐く息も白い。
(本格的に冬が来る前に去年の上着を探しておかないとな……)
 姉さんならどこにしまったか覚えているかな、と他力本願かつ追加で小言を浴びせられそうなことを考えながら、イーシュは何とはなしに朝の空を見上げる。
 だんだんと冬じみてきた寒さで澄み切った青い空は、どこまでも高く広がっていて、今日も美しかった。

 宿屋の仕事が忙しいのは朝だけではない。宿泊客が訪れる夕方以降が忙しいのは言うまでもないが、各部屋の備品の補充やベッドメイキング、夕飯の下準備など、昼の間にも済ませるべき仕事は色々とある。
 これらのうち、客室まわり業務はユーフェの担当だ。ベッドに洗い立ての清潔なシーツを敷き、窓辺の鉢植えの花に水をやり、水さしやサービスの焼き菓子を用意し――朝のイーシュの客室清掃に不備があれば、しっかり者の彼女は説教まできっちりとしてくれる。
 ユーフェの仕事内容は、朝晩の食事の給仕や宿泊客の出迎えと見送り、洗濯や客室の用意などと多岐にわたる。彼女に言わせれば、エルフェン家の男たちは細やかな気配りや客あしらいに向いていない。
 かといって、イーシュも別にサボっているわけではない。朝の清掃の後は、祖父のグウィンの指示の下、夕飯の下拵えの手伝いをしていた。
 イーシュはくるくると包丁で大根の皮を剥きながら、
「じいちゃん、今日何作るの?」
「今日はポトフだ」
 グウィンは大鍋で鶏の手羽先の骨を煮込みながら答えた。言われてみれば、鍋から香り立つこの出汁の匂いはそれらしいものだった。
「いいね、今日は寒いし」
「だろう?」
 ポトフはグウィンの得意料理だ。以前に勤めていた王都のレストラン仕込みの味で、一般家庭で作られるものに比べて、上品で洗練されている。冬場、宿泊客にとても人気があり、イーシュもとても好きな料理だ。
 ふいにグウィンが、背後にある食材を保管している木箱を漁り出した。木箱の中をまさぐりながら、あれ、と首を傾げている。イーシュは包丁を動かす手を止め、首だけでグウィンを振り返る。
「じいちゃん、どうしたの?」
「いや、今日使うセロリがどこかにあったはずなんだが……」
「昨日の昼に余ってた肉と炒めて食べなかったっけ」
「あー……」
 グウィンとイーシュは顔を見合わせる。このことが二階で客室の用意をしているユーフェの耳に入ろうものなら、在庫管理がなっていないと怒られてしまいそうだった。
「イーシュ、悪いんだが、農家のルゴーのところに行って、今日使う分のセロリを買ってきてくれないか?」
「うん、わかった」
 グウィンに銅貨を手渡され、イーシュは包丁を置いた。銅貨と手をエプロンのポケットに突っ込むと、イーシュは勝手口から外へ出た。
 宿の外に出ると、朝に比べると暖かく、穏やかな陽気だった。昼下がりの今は、一日のうちでも一番暖かい時間帯だ。
 今の時間帯であれば、恐らくルゴーは畑で農作業をしているだろうとあたりをつけ、イーシュは村はずれの畑を目指して歩いていた。
(……ん?)
 イーシュは三十を少し越えたくらいの男とすれ違った。違和感を覚え、彼は足を止めて振り返る。シャツの上に品の良いジャケットを羽織ったいでたちは、王都へ向かう前にこの村に立ち寄った商人か何かに見えたが、その割には妙に目つきが鋭いし、雰囲気と服が噛み合っていないのかどことなくちぐはぐに見えた。時折、何かを探るように辺りを見回している様子なのも、何となく引っかかる。
 この村は、王都に近いこともあり、色々な人が立ち寄る。その中に少しくらい変わった人がいても、そこまで珍しいことではない。イーシュは、その男のことを何だか少し変な人だなと思いはしたものの、それほど気にも留めなかった。
 イーシュは、男の背を見送ると、グウィンから頼まれた買い物を済ませるため、足早に歩き出した。

 日が沈み、宿屋の一階は賑わいを見せていた。
 この日は五部屋ある客室が全て埋まっていた。宿泊客は、王都に用事がある者や、反対に用事を済ませてきたが王都の高い宿に泊まりたくない者が多い。
 グウィンの料理に舌鼓を打つ客や酒に酔って陽気に騒ぐ客のテーブルの間を縫って、ユーフェが次々に入る注文や客のちょっかいを捌いていた。常ならば、イーシュの夜の仕事は皿洗いだけだったが、大賑わいを見せる今夜は手が足りず、ユーフェから空いた皿やグラスをテーブルから下げる役割を賜った。
「そこの嬢ちゃん、酒追加ー!」
「こっちにも頼む! あとツマミ!」
「少々お待ちくださいねー! おつまみでしたらサラミかチーズ、干した果物ならすぐご用意できますよ!」
「えーじゃあそれ全部でぇ!」
「はーい! おじいちゃーん、おつまみ全種盛りおねがーい! あとお酒まだあるー?」
 宿屋の看板娘として名高いユーフェは慣れたふうに酔っ払いたちの相手をしながら、厨房のグウィンへと注文を投げる。
「お、そこの坊主、これ飲むかー?」
「いや、その、お酒はちょっと……」
 明らかに酔っ払いとわかる客に絡まれ、イーシュはたじろぐ。そこにさっとユーフェが有無を言わさぬ笑顔で割って入る。
「はーい、お客様、ご注文の品をお持ちしました! この子まだ子供なんで飲ませないようにお願いしますねー! ……イーシュ、あんたは奥の席のお皿下げちゃって。次の料理が出せないわ。忙しいんだから、ちゃんと周り見て動いてよね」
「う、うん……」
「いやー、お嬢ちゃん格好いいねえ、きっと将来いい女になるぜー」
「はいはい、ありがと」
「なあ、じゃあ代わりに嬢ちゃん一杯だけ付き合わねー?」
「んー、また五年後に誘ってくれたら考えるわ」
 ちゃきちゃきとして快活なユーフェが絡んでくる酔っ払いたちを華麗に捌いていくのを尻目に、イーシュはそそくさと奥の席の皿を下げに行く。カウンター席で猛スピードで酒瓶を空けていた壮年の男が、揚げて塩をまぶした細切りの芋を齧りながらこちらを振り返り、
「なあ坊主、知ってっかー? さっき王都を出てくるときに聞いたんだけどよー、最近この辺の街道に盗賊が出るんだってよー」
「盗賊、ですか?」
 男の口から物騒な単語が内容の割に陽気に発され、イーシュは眉を顰めて聞き返した。周りの席から、「その話なら俺も聞いたぜ」「何でも、レシェールに向かう巡礼者を街道で次々襲ってるっつーぞ」「いーや、俺の聞いた話だと、王都に向かう身綺麗な商人が金目当てで襲われてるって」旅人たちの間ではなかなかに噂になっているのか、次々と声が上がる。
「そのような物騒な話があるのですか」
 基本的に客あしらいは孫たちに任せて調理に専念しているグウィンが、食堂での会話を聞きつけて厨房から顔を出した。温厚な彼には珍しく、眉を顰めながら、
「この村にもいつ危害が及ぶかわかりませんし、用心したほうがよさそうですな。近いうちに集会で議題に挙げ、村としての対策を」
 突然、グウィンの言葉を遮るかのように、パリンと高い音を立てて、窓ガラスが割れた。食堂の床に破片が飛び散る。各席に置かれた燭台の火が、外から吹き込んできた風に揺られて消えた。暗闇の中で、先ほどまでカウンターで飲んでいた男の悲鳴が上がり、どさりと重量のあるものが床に転がる音がした。
 飛び散ったぬるりとした感触の生暖かい液体がイーシュの頬に触れる。イーシュは右手で頬を拭い、指に付着したそれの正体に気づいて愕然とする。
「……ッ!?」
 それは先ほど、イーシュに話しかけてきた男の血液だった。先ほどの悲鳴を最後に、男は何も発さない。突然の出来事に固まる体に戦慄が走る。逃げないと、と麻痺した思考の隅で本能が警鐘を鳴らしているが、身体が動かない。
「ユーフェ、イーシュ! お客様を安全なところにお連れしなさい!」
 暗闇の中、グウィンの大音声が響いた。少し遅れて、芳香と湯気を放つ何かが頭上を掠めて飛んでいった。ばしゃんと何か液体らしきものが飛び散る音と重たい金属が床にぶつかったような音がイーシュの鼓膜の表面を他人事のように撫でていく。「熱っ」怒気を孕んだ知らない男の悲鳴を聞きながら、じいちゃんのポトフの匂いだ、と彼はぼんやりと場違いなことを考えた。
「お客様、どうぞこちらに! ……イーシュ、しっかりしなさい! あんたも一緒に逃げるのよ!」
 ユーフェがすぐ近くで、宿泊客たちを逃すべく声を張り上げている。目の前の現実に脳がついていけずに呆けたように立ち尽くすイーシュの頬をユーフェの手が打った。頬で弾けるぱぁんという音がまだ何処か現実のものではないように思えた。
「姉さん……逃げるって、なんで……? それに、じいちゃんは……?」
「たぶん……さっき話に出てた盗賊よ……! いいから逃げるの! 死にたくないでしょ!」
 ユーフェの声は泣きそうに震えていた。苔色の双眸が恐怖と混乱が混ざり合って揺れている。彼女は、イーシュの問いの後半部分には答えることはなく、問答無用で彼の手を乱暴に引っ掴むと、引きずるようにして勝手口のほうに走り出す。
 宿の裏手に出ると、村の礼拝堂の鐘が激しく鳴り響いていた。イーシュが初めて耳にする、危険を知らせるときの鳴らし方だった。
「……イーシュ、礼拝堂まで逃げるわよ。あそこなら、きっと、安全だから」
 まるで、己に言い聞かせるようにユーフェは言う。村の礼拝堂は有事の際の村の避難場所として指定されている。
 ユーフェに手を引かれ、建物の陰から足を踏み出そうとしたとき、イーシュは足元にあった何かに蹴躓いた。
「……え……」
 そこにあったのは、ユーフェの誘導により、先に逃げたはずの宿泊客たちの死体だった。折り重なって倒れている彼らは、息をしていない。地面に広がった血溜まりが、イーシュのブーツの先を濡らした。
「……行くわよ。いいから……行くの……っ」
 感情と声を押し殺して、ユーフェは言った。
「うん……」
 まるで悪い夢でも見ているようだと思いながら、イーシュはユーフェに手を引かれ、礼拝堂を目指して走り出した。

 礼拝堂が、燃えていた。赤い炎が宵闇に煌々と揺れている。
「なん、で……」
 ユーフェは、イーシュの手を握りしめたまま、呆然として呟く。礼拝堂まで逃げればどうにかなるに違いないと、盲目的なまでに信じ込んでいた。まさか、その礼拝堂が燃やされている可能性など、微塵も考えてはいなかった。
 せめて、女子供だけでも逃がそうと、村の男たちが斧や棍棒、農業用の鍬やシャベルなどありったけの武器を持って、盗賊と思しき薄汚れた身なりの男たちと交戦していた。しかし、荒事に慣れた盗賊たちに分があるのか、戦い方を知らないながらも必死で応戦する村の男たちが明らかに押されている。
「多少怪我させてもいい、女子供は連れていけ! 男はいらない、皆殺しにしろ!」
 盗賊の首領と思しき男が指示を飛ばす声が響いた。ユーフェは唇を噛んだ。こいつらに捕まったら、待っているのは死んだほうが幾分かマシな地獄だと彼女は悟っていた。
 女は凌辱された上で殺される。子供は奴隷として売り飛ばされる。逃げきれなければ、どう転んだところで待っているのは悪夢のような未来だけだ。
 村の男たちは次々と倒され、逃げ場を失った女たちは髪を掴まれて盗賊にどこかへ引きずられていく。幼い子供を守ろうとした母親が、盗賊にナイフで腹部を刺されて頽れる。
 鍬を持った中年の男が、盗賊に胸から腹にかけてばっさりと斬られて倒れた。うつ伏せに倒れたところを駄目押しのように背後からナイフで刺される。肺を刺されたのか、男は口から血を吐きながら、目の前の光景に立ち尽くすユーフェとイーシュの方へ這い寄ってきた。
「ル、ルゴーおじさん……!?」
 その男は、昼間、グウィンのお使いで訪ねていったイーシュにセロリを売ってくれた農家のルゴーだった。イーシュが思わず、その名を呼ぶと、ルゴーは苦しそうな声で、切れ切れに言葉を発した。
「イーシュ、か……。無事で、よかった……。ユーフェも、一緒、だな……。お前たちの、じいさんは……どうし、た……?」
「おじいちゃんは……っ、お客さんたちや、私たちが逃げられるように……残って……っ!」
 ユーフェは言葉を詰まらせながら、涙声でそう言った。きっと、グウィンはもう生きてはいない。
「そう、か……」
 ルゴーは顔を歪めた。定まらない視線でこちらを見上げながら、
「二人とも、村の外に、逃げろ……王都まで走れば、きっと……。じいさんの、思いを……無駄に、すんなよ……。」
「で、でもっ……」
 イーシュはその言葉に抗うように声を上げる。盗賊たちが自分たちを見逃してくれるとは思えない。たくさんの人たちが盗賊たちに殺されたり、捕まったりしているというのに、自分たちだけ逃げてもいいのかもわからなかった。
「いいから……早く、行くんだ……。イーシュ、ユーフェは……しっかりしてても、女の子……だ……。だから、お前が……ちゃんと、ユーフェを……」
 守れ、と言いかけたまま、ルゴーは次の言葉を発することはなかった。虚空を見つめたまま、彼は事切れていた。
「……行く、わよ……」
 ユーフェは頬を伝う涙を乱暴に拳で拭うと、イーシュの手を強く握り直した。イーシュは頷いた。
 そのとき、ヒュウと何かが空を切る音を聴覚が捉え、イーシュは反射的にその方向を振り仰いだ。宵闇を切り裂いて、一本の矢がこちらへと向かって飛んできていた。
「イーシュ、危ない!」
 ユーフェは叫ぶと、イーシュの身体を突き飛ばす。イーシュを庇うように飛び出した彼女の右肩を矢が深々と貫いた。後ろへと傾いでいく彼女の身体をイーシュは尻餅をついた姿勢のまま、手を伸ばして抱きとめた。生暖かい液体がじわじわと服の布地を染め上げていく。
「姉さん!」
 矢が飛んできた方を見上げると、近くの家の屋根の上に弓を携えた男が立っていた。礼拝堂を包む炎が照らし出す男の顔にイーシュは見覚えがある気がした。混乱する頭を必死で回転させ、記憶を引っ張り出す。
(昼間の男……!)
 昼間、グウィンに頼まれて買い物に出たときにすれ違った男は盗賊の仲間――恐らく、斥候だったのだとイーシュは気づいた。辺りを観察していたのも、事前の偵察のためだったのかと思うと納得がいく。あのとき、この男のことをもう少し気に留めて、誰か大人に話していれば何か違ったのではないかとイーシュは後悔した。もしかしたら、村の人たちが盗賊によって殺されたり、捕まえられたりすることもなく――グウィンが殺されることも、ユーフェが怪我することもなかったかもしれない。
(よくも村の皆を――じいちゃんを、姉さんを……!)
 イーシュは頭の中でぷつんと何かが切れる音がするのを聞いた。すうっと不自然なまでに思考が冷えていくのを感じる。
 今までに感じたことのない感覚が背骨を駆け抜けていく。知らない何かが、血管を伝って全身へ広がっていく。得体の知れない全能感がイーシュの意識を塗り替えていく。
 無意識のうちにイーシュは右手を宙へと掲げた。
「イーシュ……?」
 掠れた声でユーフェが怪訝そうに自分の名を呼ぶのをイーシュは意識のごく表面で聞いた。彼はカッと目を見開く。その双眸はいつものダークブラウンではなく、琥珀色の光を放っていた。
 次を放とうと屋根の上で矢を弓につがえていた男は頬を何か鋭いものが掠るのを感じた。遅れて頬に熱が走る。男は空を見上げると、驚きのあまり瞠目した。
 はじめは無数の星が空を流れているのだと彼は思った。しかし、星だと思っていたそれらは、大きく燃え上がる炎と月明かりを受け、物騒な煌めきを纏いながらこちらへと近づいてくる。
 刃物のように鋭く尖った鋼の欠片が、地上へと向かって降り注いでくる。
 異変に気づいた盗賊たちや生き残っていた村人たちは悲鳴を上げ、逃げ惑う。
 天から降り注ぐ鋼の雨は、最早、盗賊と村人の区別もなく、ただ無慈悲に地上を蹂躙した。少年を中心に断末魔が放射状に連鎖して広がっていく。
 霞む視界の中、この世の終わりとも思える冷たい美しさを帯びたその光景にユーフェは言葉もなくただ圧倒された。それを最後に、イーシュの腕の中で彼女の記憶は途絶えた。
 多くの命を奪った雨が止み、イーシュが我に返ったときには、彼とユーフェ以外に息をしている者は残されていなかった。
 静寂の中、礼拝堂の建物を焼く炎の音がやけに大きく聞こえた。激しく鳴り響いていた鐘の音もいつの間にか聞こえなくなっていた。
 目の前に広がるこの光景に、イーシュは戦慄した。得体の知れない何か大きなものに乗っ取られた意識の隅で、イーシュは自分の中の何かが解き放った力が地上を蹂躙していく様をずっと見ていた。
(皆を殺したのは、俺だ……)
 その事実を認識し、イーシュは右手で自分の身体を掻き抱いた。自分自身がひどく怖かった。
 イーシュは、自分の着ていたシャツを細く割くと、矢を抜き、ユーフェの肩口に強く巻き、止血をした。そのまま、彼女を背負うと立ち上がる。
 地面に広がる血溜まりの中に、盗賊も村人も関係なく、折り重なって倒れていた。
 地面に突き刺さった無数の鋼の欠片が、今夜、命を奪われた人々の墓標のように、静かに光を放っていた。

 東の空が白み始め、悪夢のような一夜が明けようとしていた。
 イーシュはまとわりつくような重たい疲労で身体を引きずりながら、王都へと続く街道を意識のないユーフェを背負って歩いていた。
 歩いても王都まであと三十分程度の距離まで来ると、イーシュは彼女の身体を街道脇の木の根元にそっと下ろした。じきに朝になる。ここまで来れば、きっと誰かが彼女を見つけてくれるだろう。
 得体の知れない力を振るい、多くの命を奪った自分は化け物だ。一緒にいれば、いつか彼女を傷つけ、その命を奪ってしまうかもしれない。
 一夜にして多くのものを失ったイーシュは、唯一残されたものさえも切り捨てることを決めた。じくじくと痛む心に蓋をして、彼はただ一人残された肉親に、心の中で別れを告げる。
(……さよなら。姉さん)
 後に彼女にどう思われようとも構わない。自分の手の届かない場所で、彼女には幸せに生きて欲しかった。
 イーシュは踵を返すと、街道を外れ、夜と朝の間の薄闇の中に姿を消した。

 王都の西郊から村が一つ失われたこの事件は、後に『フィエロの悪夢』と呼ばれるようになる。
 しかし、これはほんの始まりに過ぎず、イーシュにとっての悪夢はまだ醒めることなく続いていくのだということをこのときの彼はまだ知らなかった。