今、わたしは一体どこにいるのだろうか。目を覚ますと、視界に見知らぬ家の天井が飛び込んできて、リスルはぼんやりとした頭でそんなことを考えた。夜が近いのか、薄暗い部屋の中にランタンの火が揺れていた。質素だが清潔なベッドに寝かされている彼女は自分のものではない粗末な麻の寝巻きを纏っていた。
 廃墟と化したアルクスの町に背を向け、リスルは倒れそうになりながら夜道を東へ身一つで進んでいたはずだった。リスルは脳が拒否するのを感じながら、無理矢理、意識を失う前の最後の記憶を引っ張り出す。
 リスルは夜明け前に小さな村に辿り着き、国境近くのモンテス山脈へと仕事に赴こうとしていた木樵の老人に出会った。全身に怪我と火傷を負ったまま、ふらふらとどこかへ歩いていこうとする彼女の姿を見咎めた老人に呼び止められ、二言三言言葉を交わした後、そのまま意識を失ったはずだった。
「ここは……メーレ村……?」
 リスルは頭の中で王国南部の地図を思い描きながら、嗄れた声で呟いた。喉がひどく乾いていて、ひりひりと痛む。
 ベッドの脇に目をやると、白いものが目立つグレージュの髪にアイスブルーの目の小柄な老女が木の椅子に腰掛け、リスルの顔を覗き込んでいた。彼女はリスルが目覚めたことに気付くと、ぽんぽんと言葉を投げかけてきた。
「おや、お嬢さん、お目覚めかい? 一昨日の朝、うちの主人が村の入口で声をかけたら倒れちまったとかで連れ帰ってきたんだが…その大火傷に身体の傷は一体どうしたんだい? 何か食べられるかい?」
「イルゼ。ようやく目を覚ましたというのに、そうやって畳み掛けるのは感心せんよ」
 窓の外を眺めていた木樵の老人は、こちらを振り返ると、妻らしき老女を嗜める。リスルは鉛のように重い体をどうにかしてベッドから起こすと、二人へと頭を下げ、礼を述べた。
「素性も知れぬ身だというにもかかわらず、助けていただいてありがとうございました。わたしはロゼ・アウローラと申します。アルクスの街で大火に巻き込まれたのですが、運が良かったのか、こうして怪我を負いながらもどうにか生き延びることができて……」
 リスルは、咄嗟に偽名を名乗った。リスルがこうして生き延びたことはいつかは教会に知れることだろうとは思ったが、少しでもそのときを引き伸ばしたくてついた嘘だった。それに、足がつくことでこうして見ず知らずのリスルを助けてくれた親切な老夫婦に迷惑をかけたくはなかった。
 アルクスという地名を聞いて、イルゼの顔が同情で曇る。
「ああ、アルクスの……。『魔女』とやらに妙な力で町を全部燃やされちまったらしいとかって、この村でも噂になってるけど、よく生き延びて……。なんでも、町の人間は全員焼け死んじまったらしいって話だったから」
 そう言いながら、イルゼはチェック柄のあしらわれたラベンダー色のエプロンの腹部を手で押さえた。額にはうっすらと汗が滲んでいて、リスルは怪訝に思う。リスルは一つ試してみたいことがあり、具合が悪いふりを装って、イルゼの身体へ触れる。
 アルクスの町を結果的にリスルが焼いてしまったあの夜、彼女は傷ついた小鳥の命を救ったあの力――リスルが生まれ持った能力とは明らかに異なるあの力を己の意志で扱えるのであれば、体調が思わしくなさそうに見えるイルゼの”生命”に干渉できるのではないかと考えていた。
 意識を集中させ、右手をイルゼの腹部に這わせると、リスルの髪と瞳が一瞬色を変えたが、室内に降りた夕闇に紛れて誰も気づくことはなかった。
(この人……もうあまり長くないみたい……)
 イルゼの身体が苦痛のあまり、悲鳴を上げているのがリスルの手のひらへと伝わってきた。イルゼの胃の辺りをかすった指先にぴりりとした痛みが走る。恐らく、この辺りに彼女の身体を蝕む病巣が存在しているのだろう。
(ああ……やっぱり……)
 あの日、自分の命が危険に晒されたことを契機に、リスルの中には元々生まれ持った力――炎を操り、アルクスを焼いた力とは別種の異能が目覚めてしまったようだった。どうやら、今のリスルには他者の生命に干渉することができるらしく、眼の前の老女の生命の感触を手のひらに伝えてくる正体不明の力にリスルは恐れを覚える。
 ふっと身体から力が抜け、一瞬視界が真っ暗になった。どうにも、身の内に新しく宿ったこの力は、リスルには負担が大きいようだった。扱うものの大きさを考えれば、それもそうだろうとリスルは思い直す。
「ロゼ、どうかしたのかい?」
「あ、いえ、すみません……その、一瞬目眩が……」
 嘘にならない程度に真実を織り交ぜた理由を口にし、今しがたの不審な動きをごまかすと、リスルはイルゼの身体から手を離す。イルゼは心配そうな顔で、
「そうかい。それなら、気がついたとはいえ、まだしばらく安静にしたほうがよさそうだね。私らはいつまでいてくれたって構わない。怪我が良くなるまで、自分の家だと思ってゆっくりしていくといいよ」
「いえ……あまりに長々とお世話になるのも気が引けますし、明日には発たせていただければと思っています」
 身を案じるイルゼの言葉にリスルは首を横に振る。ジーク司教による拷問でつけられた全身の怪我や火刑に処せられたときの火傷が癒えるまで、できることなら体を休めていたかった。これだけ全身に怪我を負っていれば、否応なしに目立ってしまうし、そもそも無理できる状態ではない。しかし、アルクスからさほど離れていないこの村では、いつ教会の追手に見つかってしまうかわからなかった。
 それにこの場所に長居してしまえば、この老夫婦に自分こそがアルクスの町を焼いた『魔女』であるということが知れてしまうかもしれない。自分の素性を知ったとき、この善良な老夫婦がどんな行動に出るのか、生まれ故郷で心身ともに深い傷を負ったばかりのリスルは知りたくなかった。
「駄目だよ。まだ、起き上がるのもやっとな状態じゃないか。せめて、あと何日か……」
「ですが……」
 イルゼが善意から引き止めてくれているのはわかっていた。我ながら無茶だということも理解してはいる。それでも、リスルはどうしてもなるべくここを早く離れたかった。
「イルゼ、そのくらいにしておきなさい。彼女にも何か事情があるんだろう」
 食い下がってくるイルゼを老人は静かな声で制止した。
「この辺りにいると、どうしても町が燃えたときのことを思い出してしまって、怖くて辛くて……だから、どうしても早くこの辺りを離れたくって……。お気持ちは嬉しいんですけど……申し訳ありません」
 半分は口から出任せだったが、もう半分はリスルにとって本心だった。自分の中にある異能の暴走によって引き起こされた惨劇は思い出そうとするだけで胸が苦しい。
「そう…それなら仕方ないね。せめてもの気持ちばかりだけど、せいぜい今晩は精のつく料理を用意させてもらうよ。無理を押してでもここを発つというのなら、少しでも体力をつけないと」
 一瞬しょんぼりとした様子を見せた彼女はすぐに気持ちを切り替えたのか、そう言うと張り切ったように階下のキッチンへと降りていった。
 じきに包丁の小気味良い音とともに鍋が煮える音と芳香が階下から漂ってきた。イルゼが出ていったことで静寂を取り戻した部屋の中に、ぐううという十七歳の乙女としては屈辱的な音が大きく鳴り響いた。しばらく飲まず食わずの状態だったため、生理現象としては仕方がないこととはいえ、リスルは羞恥のあまり、顔を白く清潔な包帯が巻かれた腕に埋めた。
 まだ部屋に残っていた老人はわざとらしく咳払いをすると、
「えっと……その、何だ。夕飯までもう少し時間があるから、せめてそれまではゆっくり休んでいなさい」
 そう言うと、老人は部屋を出ていこうとする。しかし、失礼であることは承知の上で、一つ聞いてみたいことがあったリスルは彼を呼び止める。
「あの」
「……ヨルグだ」
「……ヨルグさん」
 どうか勘違いであって欲しいと思いながら、リスルは口を開く。聞いていいものかと迷ってはいたものの、自分の異能で感じ取ったことが事実なのかどうか確認したいという欲求をリスルは止められなかった。
「もしかして……奥様――イルゼさんはこの先そう長くないのではないでしょうか」
「……どうしてそう思った」
「先程のお話中も何だか空元気であるように感じられて。どことなく、顔色もよくありませんでしたし」
 ヨルグはリスルへと険しい眼差しを向ける。リスルは躊躇いがちに、口にできない根拠に触れないように言葉を選びながら、
「ヨルグさん……イルゼさんはどこか体がお悪いですよね。恐らく、胃の辺りが。かなり病気が進んでしまっていて、もうそんなに長くないと思います」
「何故……何故、そんなことが言える! あいつはわしに今まで一言もそんなことは言っていない!」
「それは……」
 悪い冗談を言うなと言わんばかりに声を荒らげるヨルグに対し、リスルは口ごもる。自分に『悪魔の力』と呼ばれる異能が宿っていることも、自分こそがアルクスを滅ぼした『魔女』であるということも言えるわけがなかった。
 夕飯ができたのか、階下でイルゼの呼ぶ声がした。リスルはヨルグへの返答を濁したまま、寝台を離れると、古びたブラックウォールナットの階段をきいきいと軋ませながら降りていった。

 その日の夕食は質素ながらも、アルクスで家族四人で暮らしていたころのように和やかで温かなものとなった。夕飯前のやりとりにより、リスルとヨルグの間には気まずいものがあったものの、はりきって食事を用意してくれたイルゼの気持ちを慮って、表面に出すことはなかった。
 足先がくるりと渦を巻いた使い込まれたアンティーク調の椅子に腰を下ろし、同じ意匠のテーブルを三人で囲む。他愛もない老夫婦の会話に時折り、相槌を打ち、イルゼの昔ながらのシンプルだけれど奥行きを感じさせるシチューにリスルは舌鼓を打った。まろやかな乳の旨味の中、よく煮込まれた牛の肉が口の中でほろほろと解けていく。母親のアリエの料理とは味付けこそ異なるものの、口の中をから全身に染み渡っていく優しさは、紛れもなく、リスルが失ってしまった愛しく何気ない幸せな日常の味だった。
 じわりと暖かいものが彼女の胸に込み上げてくる。せめて、自分を拾って看病してくれたこの老夫婦に何かしらの形で恩に報いたいと強く思った。

 食事とその後のささやかなティータイムを楽しんだ後、未だ傷が癒えきらないリスルは老夫婦よりも先に、貸してもらった部屋で休ませてもらうことにした。
 ジーク司教に打ち据えられた傷や全身に負った火傷による痛みで寝付けない中、リスルの聴覚は階下での老夫婦の会話を捉えた。何となくぶっきらぼうなところがあるヨルグが妻を問いただす声は真摯であるが故に冷たく響いた。
「わしはあの娘の勝手な妄想だと信じたい。だが……イルゼ、最近体調が悪いと言ったことはないか?」
「そうですね……たまにお腹の辺りが痛む気がしますが、そんなこと、私たちのような歳にもなればよくあることでしょう? そう気にすることはないと思いますよ」
「そうか……」
 それではあなたおやすみなさい、と寝室へ消えて行く妻の背中をヨルグは思案気に見送った。その後ろ姿は、夕方リスルに聞かされた話の影響か、記憶の中にあるものよりも遥かに弱々しく頼りなげに映った。
 老夫妻が寝静まった後、眠れずにいたリスルは物音を立てないように細心の注意を払いながら、充てがわれた客間を抜け出し、階下へと降りた。彼女は、まだふらつく身体を引きずりながらリビングダイニングを抜け、老夫婦の寝室へと忍び込んだ。
 イルゼの病――本人は強がっているが、あれはそう遠くない未来に死に至る病であると、リスルは確信していた。瀕死の小鳥を救ったときのように、自分の中にあるあの力を持ってすれば、彼女のためにできることがきっとあると感じていた。
 彼女はイルゼの寝台にそっと近づいた。昼間のあれはやはり空元気だったのだろう。ヨルグに聞こえないように声は抑えているが、苦しそうに呻いている。
「……イルゼさん」
 彼女が小さな声で名を呼ぶと、イルゼは苦しみに顔を歪めながらもこちらを見た。
「ロゼ……?」
 イルゼは消え入りそうな声でリスルの偽りの名を呼んだ。リスルは真摯な声で彼女へと問いかける。
「イルゼさん……ヨルグさんには隠しているつもりのようですが、身体、相当お辛いですよね」
「……!」
 この場において、沈黙はリスルの言葉が真実であることを示していた。
「イルゼさん。よく聞いてください。わたしに身を委ねてはくれませんか。わたしならきっと、あなたの病気を治せると思います」
「ロゼ……あんた、もしかして……」
 はっとしたように、イルゼはアイスブルーの目を見開いた。
 もしかしてアルクスを火の海と化したという『魔女』ではないのか。一抹の疑念と不安に駆られ、そう言いかけたイルゼの言葉をリスルは遮る。
「イルゼさん……今、わたしの素性について詳らかにすることはできません。わたしはどこの誰とも知らないわたしを拾い、看病してくださったそのご恩にただ、報いたいだけなんです」
 リスルの真摯だけれどどこか縋るようなグリーンの双眸に、わかったよと躊躇いながらもイルゼは頷いた。
「ありがとうございます……イルゼさん。こんな素性もろくに知れない小娘の言葉なんて信用できなくて当たり前だというのに……」
 リスルは寝台に横たわる老女に礼の言葉を述べた。すると、イルゼは口元に苦笑を浮かべ、
「まあ、体が悪いのは事実だからね。ところで、治すって言ったってどうするんだい? あの人に隠れて医者に診てもらったことがあるんだけど、もうどうしようもないって言われているんだ」
「それなんですが……これから少しお腹の辺りを触らせていただいてもよろしいでしょうか?」
「ああ」
イルゼは承諾の意を示した。リスルは自分の手に意識を集中させると、寝巻き越しに老女の腹部に触れた。リスルの茶色の巻毛は朝焼けのような赤色を纏って波打ち、グリーンであったはずの双眸にも同様の色が灯る。イルゼの腹部にあてがった手のひらを淡く優しい光が包んだ。自分の異能を意図的に使用しての初めての本格的な対処となるが、そんなことに怯んではいられない。自分のやろうとしていることが、人ならざるものの領域に踏み込む恐ろしい行為だという自覚はあったが、引き下がる気にはなれなかった。
 小鳥の傷を癒やしたときと同じように、目の前の命を救いたいということだけを考える。イルゼの体内の病巣が小さくなり、なくなっていく様を脳裏に思い描く。
「あ……」
 イルゼの唇から声が漏れる。苦悶に歪んでいたはずの顔には穏やかな表情が浮かんでいる。
(よかった……うまくいったみたい……)
 癒やしの光がリスルの手のひらから消え、髪と瞳の色が元に戻っていく。リスルはイルゼの腹から手を離した。
「イルゼさん。まだ痛みますか?」
 リスルが問うと、イルゼは驚愕に目を見開きながら、
「ありがとうよ、こんなに身体が楽なのはいつぶりだろうね。しかし、ロゼ……あんたはやっぱり……」
「……聞かないでください。お願いします」
「……そうかい」
 イルゼは深く追及することはなかった。
 リスルは急速にひどい倦怠感が全身に広がっていくのを感じた。一気に何歳も老け込んでしまったかのように、体の感覚がぎこちなく、思うように動かせない。これが、生命に干渉するあの力を行使する代償なのかとリスルは悟った。生まれ持ったあの能力を使ったときも多少の疲労を感じるが、これはその比ではない。気力や体力を消耗するというよりは、リスル自身の持つ生命力そのものが削られてしまったような感じがする。
 リスルは重くてだるい身体を引きずりながらあてがわれた部屋へと戻った。部屋に入った途端、緊張の糸が切れたのか、目の前が真っ暗になり、身体が傾いだ。
 リスルは少し休むと、足音を殺して再び階下へ降りる。簡単に羊皮紙に今までの礼と別れの挨拶を書き綴ると、ダイニングテーブルの上に置き、リスルはそっと宵闇の中へ姿を消した。

 翌朝、リスルの置き手紙を目にし、朝食もそこそこに老夫妻は頭を抱えていた。イルゼの体調は昨日までが嘘であったかのように軽快していた。
 イルゼは昨夜、自分の病を治すために謎の術を行使した際のリスルの姿を目にしていた。それは近くのアルクスの街の大火の原因となったという『魔女』の容貌に酷似していた。
 昼過ぎに、アルクスの事件の後処理のために派遣された教会の神聖騎士団の一部隊がメーレ村を訪れた。ヨルグとイルゼは彼らに話を聞かれることとなったが、二人は思うところがあって、赤い髪と瞳を持つ『魔女』については知らぬ存ぜぬを貫き通し、口を割ることはなかった。もし彼女がアルクスの惨劇を引き起こした『魔女』と同一人物であったとしても、夜中に彼女と会話を交わしたイルゼはあの娘は何の理由もなく町一つを焼き払ったりなどしないだろうと確信していた。彼女自身が望んでここを離れた以上、きっともう二度と会うことはないだろうけれど、それでも彼女が教会にその身を脅かされることなく、どうか普通の少女として生きていってほしいと二人は願った。

 リスルが老夫妻の下をろくな荷物も持たずに出奔してから、十回目の秋が訪れていた。彼女は表向きは旅の薬師を名乗り、国内各地を転々としていた。実家の稼業もあり、植物について人並み以上には知識があった彼女は、旅の途中で得た薬草を訪れた街の薬問屋に売って、路銀に替えることで日々の生活を維持していた。
 旅を始めて二、三年経ったころ、リスルは危険を承知で聖セレーデ教会の総本山のあるレシェールを訪れたことがある。自分の身に宿る『悪魔の力』について、調べたかったというのが理由である。自分の力について知ることができれば、処刑の日の夜のように力を暴走させることなく、上手く力と付き合いながらひっそりといきていくこともできるのではないかとリスルは考えていた。
 レシェールには、敬虔な巡礼者だけでなく、神学者も多く集まる。そういったことを調べるにはうってつけであった。
 巡礼者のふりをして紛れ込んだレシェールのカフェで、リスルは聖典の悪魔について研究しているという神学者の青年と席が隣になった。
 彼が自分の研究テーマについて、連れの青年と議論を重ねているのを、リスルはアイスレモンティーを啜っているふりをしながら聞いていた。
 彼らが追加の注文のために席を立った隙を狙って、席においたままになっていた彼らの荷物を漁り、彼らの研究資料を盗み出すと、リスルはそのカフェをそそくさと後にした。
 宿へと戻った後、部屋の扉に鍵をかけると、リスルは神学者の青年たちが持っていた研究資料に目を通した。その資料には、悪魔の定義から、彼女の目的であった『悪魔の力』についてまで詳細に記載されていた。
 リスルは、研究資料を読み進めるうちに、自分の中に宿る二種類の『悪魔の力』にの正体を知った。
 一つは、自然の中に宿る”モノ”の声を聞き、力を借りる能力――《ヴィサス・ヴァルテン》である。これは彼女が生まれ持ったものであり、あの惨劇の夜に彼女が完全に覚醒させた力であった。この能力を持つ異能者は統計上、一部の少数民族に生まれやすいものとされていた。
 もう一方は、生命に干渉する能力――《レーヴェン・スルス》である。故郷での事件を経て彼女の身の内に顕現したもう一つの能力であり、《ヴィサス・ヴァルテン》とは完全に別物である。この能力を使えば、他者に己の命を分け与えることも、逆に奪うこともできるという。病のように生命を脅かすものの存在や寿命を当てるなどといったことも容易だという。しかし、行使する度に、術者の命が削られていく、代償の大きな能力だとも記されていた。
 自分の異能の正体を知ったリスルは、教会の追手に気取られないように気を配りながら、己の異能を制御する練習を始めた。あの夜のように、自分の力を抑えきれずに、惨劇を繰り返したくはなかった。
 異能の扱い方を覚えると、リスルは時々、訪れた街で、もう助からないであろう病人や怪我人を《レーヴェン・スルス》の力を使って癒やすようになった。多くの人々の命を奪ってしまったあの日の贖罪のつもりはなかったが、人の命を救うごとに、彼女の生命力は削られていった。彼女は誰かの命を救うため、自分の生命力を異能を使って他人へ分け与えていた。誰かのために力を使う度に彼女は死へ近づいていき、体力は衰えていった。
 彼女がそういったことを繰り返すうちに、国内各地では次第に『聖女』の名が広まっていった。『悪魔の力』をもって殺戮の限りを尽くす『紅の魔女』として教会に追われている身の上としてはこの上ない皮肉だった。
 彼女は能力を行使しながら旅を続けるうちに、衰弱していく身体に限界を感じるようになっていった。彼女は、次に訪れる集落を終の住処にしようと考えていた。それほどに彼女はもう、自分の生に疲れ果ててしまっていた。

 夏に故郷があったはずの場所に立ち寄って以来、北を目指して旅を続けていた彼女は、ある日、北の国境にほど近いロイゼン山を越え、ヴェレーン村へとたどり着いた。まだ秋の初めで雪こそ降りはしないものの、どんよりとした灰色の分厚い雲が空の全体を覆い尽くしていた。
 寂れた宿の一室を借りたリスルは、備え付けの暖炉に火をくべると、旅装を解くこともなく、行儀悪く、そのままの格好で寝台に横たわった。全身を支配する倦怠感は休んだからといって回復するものではなかったが、それでも一秒でも早く休みたい気分でいっぱいだった。
 彼女の身に宿る能力は、身体への負担が大きかった。《ヴィサス・ヴァルテン》にしろ、《レーヴェン・スルス》にしろ、行使する度に疲労が溜まるのは同じだが、後者は扱う力の性質上、とりわけ負担が大きい。《ヴィサス・ヴァルテン》はともかく、《レーヴェン・スルス》を行使できるのは、良くてあと数回だろうと彼女は感じていた。
(わたしが『聖女』か……皮肉もいいところだわ。けれど、何にしても、教会の捜索部隊に尻尾を掴まれるようなことだけはしないように気をつけないと)
 夏ごろまで転々としていた国内東部では、異能者の捜索のために教会から派遣された神聖騎士団の部隊を見かけることが多くなってきていた。どうにも、探しているのはリスルではなく、別の異能者――鋼の雨を降らせる能力を持つ十代半ばごろの少年らしかったが、教会のお尋ね者であるリスルは下手に巻き込まれないうちに、そのころ滞在していた海辺に面した街を離れた。
 彼女は、自らの手で故郷の町を滅ぼしたあの日から、新たに発現した《レーヴェン・スルス》の力の有無に関わらず、きっと長くは生きられないだろうと覚悟はしていた。それでも最後に一つわがままが叶うなら、残り少ない生を静かに全うしたかった。
 そんな取り留めのない思考の中、彼女の意識は眠りに沈んでいった。

 翌朝、目覚めたリスルは宿の人にお湯とタオルを借りて身を清め、普段着であるベージュのチュニックワンピースに着替えた。さっぱりとしたところで、宿の人が厚意で部屋に持ってきてくれたパン粥を口にした。素朴で優しい味が口の中と重たい体の中に染み渡る。
 昨晩は、あのまますぐに眠ってしまった。この村にいつまでいられるかわからないが、ひとまず村を一通り見て回ってみようと思っていた。彼女はチェック柄があしらわれたブラウンのノーカラージャケットとワークブーツを身に纏う。ベージュのリュックサックに必要最低限のものを入れると宿を出た。
 ヴェレーンは朴訥とした田舎の村だった。ロイゼン山の南側に比べ、冬の訪れが早いのか、まだ秋の初めなのに地面に霜が降りている。
 村の東の外れを流れるラーウェ川の岸辺を石に足を取られないように気をつけながら歩いていくと、リスルは川の向こう側に林があることに気づいた。
 何かしらの薬草が自生していないかと、辺りを見回しながら、リスルは林へと足を踏み入れる。いくらここを終の住処にしようとも、手持ちの金に限りがある以上、早々にどうにかして生活のための金を工面する必要があった。
 生い茂る木々越しにうっすらと太陽が照らしていた。リスルは調薬に使えそうな植物を採取しながら、林の中を進む。どこかに滝があるのか、遠くで轟々という水の音がしていた。
 リュックサックの中が採取した薬草で満たされ、来た道を引き返そうとしたとき、リスルは灰色の髪の少年が倒れていることに気づいた。少年は全身に傷を負い、血を流していた。
 リスルは少年を助け起こそうとしたが、彼の周りの異様な光景に息を呑んだ。
 地面には鋼の破片が冷たい煌めきを帯びて、無数に突き立っていた。べったりと血液が付着しているものもあり、それが少年のものであることは疑いなかった。
(これ……まさか)
 地面に突き立つ鋼の欠片は、明らかに人間の生み出し得るものではなかった。人知を超えた力の存在を感じる。
 リスルは彼の正体に心当たりがあった。
(もしかして……東部で教会が探していた異能者……!)
 恐らく、彼は『災いの子』イーシュ・エルフェンだ。鋼の雨を降らせる異能者として、教会に指名手配されている。
 度々、その身に宿る異能を暴走させている世界と人類の脅威として、教会が探し回っていたが、リスルには彼がそれほど危険そうには見えなかった。
 念のため、警戒しながらリスルは倒れている少年の様子を見る。全身の傷はさほど深くはなかったが、意識がない。
 リスルはリュックサックの中を漁って、使えそうな薬草を探し出すと、彼に応急処置を施した。
 リスルは手近な木の幹に寄りかかって座り込んだ。膝の上に少年の頭を乗せ、彼の意識が戻るのを待っていた。少年の頬には涙の跡があって、痛々しかった。
 術者である彼自身がこんなにも傷ついてしまっている以上、何かしらのきっかけで能力が暴走してしまったのだろうとリスルは思う。
 彼の手当をしたときに、古い傷跡がうっすらと白く全身に残っているのをリスルは目にしていた。今回のようなことが過去にも何度もあったであろうことは容易に推測できる。
 リスルは彼が自分と同じ異能者だろうということ以外は何も知らない。少年が経験してきたであろう凄惨な過去に思いを馳せ、リスルは嘆息した。

 少年が目を覚ますと、また死ねなかったという絶望がそこにあった。あの日のことを思って自分を責めるあまり、力が暴走したことは覚えているが、そこで記憶が途切れている。力の暴走に巻き込まれて死んでしまえればよかったのにという思いが込み上げてくる。誰か、化け物である自分に罰を与えてほしかった。
「起きた? 一時間くらい気を失っていたわよ」
 知らない女性の声が頭上から投げかけられて、彼は身を固くする。意識していなかったが、頭の下に柔らかい太腿の感触がある。
「誰っ……」
 少年は飛び起きると、誰何を問うた。目の前の彼女は茶色い巻毛にグリーンの瞳を持つ、美しいがどこか疲れたような雰囲気を漂わせる女性だった。当然、イーシュの知り合いでもなければ、今、身を寄せている村の住人でもない。
「わたしはリスル・フレンツァ。あなた、イーシュ・エルフェンね?」
「何で……」
 彼女が自分の名前を知っているという事実に少年――イーシュは警戒を露わにする。一見そうは見えないが、もしかすると教会の追手かもしれない。リスルはイーシュの胸の内を察したのか、苦笑しながら、
「安心して。わたしは教会の追手ではないし、あなたに危害を与えるつもりもないわ。ねえ、あなたも異能者でしょう?」
「えっと……」
 そう問われてイーシュは逡巡する。頷いていいものかどうか判断がつかない。しかし、彼女の名前をイーシュはどこかで聞いたことがあったような気がしていた。それに彼女はあなた”も”と言った。
「大丈夫。わたしも異能者よ。教会に『紅の魔女』なんていう通り名をつけられている立派なお尋ね者なんだけれど、聞いたことないかしら?」
 彼女の正体を聞き、イーシュはあれ、と首を傾げた。確かに、この村に辿り着く前、国中を彷徨い歩いていたときに、『アルクスの大火』を引き起こしたという彼女についての話を耳にしたことがあった。しかし、前に聞いたことのある特徴と目の前にいる彼女では目と髪の色が違う。
「『紅の魔女』って、髪と目が赤いっていう話じゃあ……? だけど、リスルさんは……」
 ああこれ、とリスルは手で自分の髪を指し示してみせながら、
「力を使っているときだけどうにも色が変わるみたいで、これがわたしの本来の姿なのよ。それはそうと、イーシュ。あなた、”それ”今日が初めてじゃないわね?」
 イーシュは問われ、俯いた。
「俺……死にたいんです。俺、この力で故郷の村を滅ぼしちゃったから。誰か、俺に罰を与えてほしいって、そんなことばっかり毎日ぐるぐる考えてて……俺がそういう気持ちでいっぱいになると、いつの間にか俺が俺でなくなっていて、気がつくといつもこうなっています」
 イーシュが自責の念に耐えられなくなったとき、彼の異能の暴走が起きているということかとリスルは納得した。彼はどうやら、自分で自分の力を制御できておらず、感情が昂ぶると暴走してしまうようだった。
 リスルは自分と似た境遇のこの少年を放ってはおけないと思った。自分を責めるあまり、結果的にその異能で自分を傷つけてしまうこの少年をどうにか前を向かせてあげたいとリスルは思った。

 リスルは、イーシュを彼が厄介になっているという村長の家まで送っていった。リスルが一旦、応急処置をしたとはいえ、傷だらけの姿を見咎めた、イーシュの事情を知らないらしい村長に彼はこっぴどく叱られていた。彼がこの村に来てからどれくらい経つのかはわからないが、村長の反応からして、今日のようなことが幾度となくあったのだろうということは明らかだった。
 今日、採ってきた薬草を薬問屋で売って、金に換えながらリスルはもう少し、イーシュと話をしてみたいと思った。
 彼の心の傷口を可能なら包み込み、寄り添ってあげたいと思った。まだ若く、未来があるはずの彼に、己の死を希い、罰を求めるような生き方をして欲しくなかった。

 その日の夕暮れどき、礼拝堂の裏でイーシュが顔を覆って蹲っているのをリスルは見つけた。ほんの少し彼から距離を取って、膝を抱えて座りむと、リスルは半ば独り言のように呟いた。
「……辛いわよね。苦しいわよね。わたしもそうだった……いいえ、今もそうだわ。だからこそ……生きなさい。死んだからって何も解決しない。そんなふうに思い詰めたって、結局はあなたがどんどん苦しくなっていくだけよ。
 過去を割り切ることは難しいことだけれど、それでも自分のしたことに責任を感じるのなら、生きて償う道を探すのよ」
 イーシュは静かにその言葉に耳を傾け、ぽつりと呟いた。
「俺は……どう生きたらいいのかわからないんです。リスルさんが言いたいことはわかります。だけど、俺は……」
 彼の言葉が震える。それでも彼は言葉を紡ぐことをやめない。
「俺は……怖いんです。自分のことが怖い。化け物なんだって思う。俺のしたことを思えば当然かもしれないけれど、教会に追い回されて殺されるのも怖いんです。理不尽だって思うんです」
「あのね、イーシュ。殺されたくないって思うのは人として当たり前の感情よ。それはあなたは死にたいんじゃなく、本当は生きたいって思っている証拠でもあるわ」
 リスルの明るいグリーンの双眸がイーシュを見つめる。それはとても優しい色をしていた。
「あなたの言う通り、教会は理不尽よ。わたしたちだって人権を保障された一人の人間であって、人と違うなんて理不尽な理由で迫害される謂れなんてないわ。ましてや、悪魔の祝福を受けた眷属なんかじゃない。だから、わたしたちは異能者であっても、生きて抗い続けるべきなの。普通の人とは違っても、わたしたちのような異能者であっても、人々は等しく生きる権利があるのだと、世間に認めてもらう必要がある」
 彼女は強い、イーシュはそう思った。自分では到底、こんなふうに強くはなれない。
 日が沈み、昼と夜の境目の深い青に空が染まっていく。
 空は次第に夜の色へと相貌を変えていった。