アルクスはルシティア王国の南部に位置する田舎町だ。温暖な気候を活かした田園地帯が広がっており、特産品のワインは国内だけでなく、近隣の諸外国からも高い評価を受けている。
 リスル・フレンツァは、この町のとある葡萄農家の娘である。齢十七になる彼女は、葡萄を育てながら、両親と体の弱い六つ下の弟と暮らしていた。
 リスルは額にうっすらと浮かんだ汗を手の甲で拭いながら、朝の空を見上げる。夏は終わりかけているが、まだ早い時間だというのに暑さの片鱗が顔を覗かせていた。
 薄汚れた麦わら帽子を被った恰幅の良い中年の男――リスルの父親のラルゴは娘の姿を認めると、おーいと声を上げる。
「リスル、今日は天気はどうだー?」
「大丈夫、今日も晴れそうよ」
リスルは仕事の邪魔にならないようにうなじで結わえた茶色の髪を揺らして振り返ると、ラルゴへと叫び返す。
 ゆっくりと薄雲が流れていく空にはどこまでも青色が広がっている。葡萄畑を吹き過ぎていく風からは湿気を感じるが、このくらいなら雨が降ることはないと直感が告げていた。
 リスルは物心ついたころからこういったことが得意だった。誰に習ったわけでもなく、本能的に天気を言い当てることができた。それどころか、水のありかを当てること、天変地異をいち早く察知することすら可能だった。他人よりも勘が鋭いのか、たまに人ならざる自然の声を聞くこともあったが、稀に動物じみた勘を持つ者が生まれるという近くの山岳地帯の少数民族から嫁いできた母親のアリエは血筋的なものではないかと言う。少々大らかすぎる父親のラルゴは何にせよ便利なんだからいいんじゃないかと娘の特技を極めて楽天的に捉えていた。自然を相手にする葡萄農家という家業においてリスルの特技が非常に役立つものであることは事実だった。
 リスルは籐の籠を小脇に抱えて畑へと出た。空を覆い隠すように広がった枝々から、袋掛けの紙越しに果実がその深い赤紫色を覗かせていた。
 リスルは頭上から垂れ下がる果実の具合を一つ一つ確認していく。実り方や外皮の色や張り、果粉(かふん)の付き具合など確認することは色々ある。
 リスルはある房に目を止める。とても深い色の果粒(かりゆう)の表面には白く粉っぽいものが付着し、どれも張りがいい。花軸(かじく)に連なる赤紫色の果房(かぼう)は互いに押し合うようにしてぎっしりと詰まっていた。
 リスルは夏物のさらりとした肌触りのチュニックワンピースの上に重ねた、作業用のエプロンのポケットから剪定用の鋏を取り出した。背伸びをし、実に触らないように気をつけながら、指先で穂軸(すいじく)を掴むと、もう一方の手に持った鋏で枝から果房を切り離した。収穫した葡萄は持ってきた籠へと移す。
 リスルが同様の作業を繰り返し、持ってきた籠がいっぱいになるころにはうっすらと心地よい疲労と汗が滲んでいた。一仕事終え、ずっしりと重い籠を抱えると、彼女は家へと足を向けた。
 家へ戻ると、リスルは母親のアリエと弟のカロンに出迎えられた。
「お姉ちゃん、これ。お疲れさま」
彼女は蜂蜜色の髪の弟に並々と濃い赤紫色の液体の入ったグラスを手渡された。グラスの中身は、よく冷えたブドウジュースだった。契約しているワイナリーには卸せないが、自家消費する分には問題ないため、こうやって絞ってジュースにしたものがフレンツァ家には大量にある。
 リスルはそこはかとない親父臭さを漂わせながら、腰に手を当ててグラスの中身を一気に飲み干した。濃厚で華やかな香りが鼻を抜けていく。グラスを食卓の隅に置き、あらかじめ用意しておいたタオルで汗を拭う。ふわふわとした布地からは微かに石鹸が香っている。
 そういえば、と彼女はカロンに視線をやりながら、
「カロン、寝てなくていいの? 昨夜はまだ熱があったでしょう?」
 カロンは姉と同じ色の瞳で彼女を見上げながら、
「今日は微熱くらいだから、大人しくしてるなら少しくらい起きてもいいって父さんが」
「……母さんは何て?」
 リスルが半眼でそう問うと、カロンはすっと明後日の方向へ視線を逸らした。リスルは溜息を吐く。
 カロンはよく体調を崩す。現に今も、夏風邪を拾ってしまったのか、三日前から熱で寝込んでいたところからようやく快方に向かい始めたところだった。
 カロンはようやく十歳を少し超えたばかりだ。本来ならまだ遊びたい年頃であり、一日中ベッドで寝ているのが退屈だということくらいはわかっている。きっと、変化も刺激もない生活はリスルの想像よりも辛い。しかし、少し回復してきたからといって気を抜くと、なぜか前よりも悪化させてしまうのが常だった。
「カロン? まだ寝ていないと駄目じゃないの」
 リスルとカロンの背後からおっとりとした柔らかな声が投げかけられた。リスルとよく似た色の髪を一つに編んで肩に流した優しげでどこかたおやかさを感じさせる中年の女――母親のアリエがそこに立っていた。後でお父さんにはお説教をしないと、と呟いているその顔はにこにこと微笑んでいたが、二人の子供たちと同じ色の双眸には圧倒されるような剣呑さがちらちらと見え隠れしていた。あーあと思いながら、リスルはアリエに有無を言わさずベッドに強制連行されていくカロンの姿を見送った。毎度のことだというのに、父といい、弟といい、何故か全く学習する気配がない。
 朝の仕事も一段落ついたので、出かける準備をするべくリスルは履いていた作業用の汚れた長靴から足を引き抜いた。底がぺたんとしていて歩きやすいストラップシューズへと履き替え、足首のベルトを留める。淡いベージュが軽やかで、近づきつつある秋を感じさせる。
 家の外から、アリエに捕まったのか、ラルゴが何事か小言を言われているのが聞こえてきた。この後、ラルゴと契約先のワイナリーに収穫物を卸しに行く予定だが、この様子では出かけるまでもう少し時間がありそうだった。
 近所とはいえどうせ出かけるのなら、とリスルは二階にある自分の部屋から革紐と靴の色に合わせたリボンを一本ずつ持ってくる。作業の邪魔にならないようにとぞんざいに結い上げていた髪をほどくと手櫛でさっと梳かしていく。リスルは頭の両サイドの髪を手に取ると捻り、先ほどまで髪を結わえていた紐で固定する。結び目の隙間に指を挟み入れ、ベージュのリボンを通すと、髪とリボンを三つ編みにしていき、先端をもう一本の紐で縛る。先端の結び目の上に余ったリボンを巻き付け、仕上げに全体を少し解していく。背に流したフィッシュボーンの出来具合に満足するとリスルは一人で満足げに頷いた。こういったちょっとしたお洒落が、たまにできる日々の隙間時間における年頃の娘らしいささやかな楽しみだった。
「おう、リスル」
 まだ午前中だというのに、既にどこか疲れた雰囲気の滲む中年の男の声がリスルを呼んだ。彼女は振り返り、太陽のような金髪に夏の青空のような双眸の男――ラルゴの姿を認めると、嘆息混じりに、
「……まったく。父さん、カロンのこと、甘やかしたくなるのはわかるけど、後でしんどい思いをするのはあの子なのよ? あんまり無責任に甘やかさないでよね。だから母さんに怒られ」
 呆れたふうにつらつらと言葉を並べていく娘に、辟易したようにラルゴはストップ、と制止をかける。困ったように無精髭の散った頬をぽりぽりと指先で掻きながら、
「……リスルはだんだん母さんに似てくるなあ……。全く同じことをさっきも母さんに言われたばかりだから勘弁……」
「仕方ないわね……」
 リスルは嘆息し、肩をすくめると、
「父さん、それはそうとハンスさんのところに行かないと。早く行ってこないとお昼になっちゃうわ」
 おう、とラルゴが頷いた。リスルはラルゴを伴って玄関を出る。ちょっと出かけてくるー、という具体性に欠ける内容の外出を告げる野太い声だけが誰もいないダイニングに残った。
 出かける前に母屋の隣にあるこじんまりとした倉庫へ立ち寄ると、ラルゴは山のように葡萄の積まれた手押し車を引き出した。
「よし、行くか」
 ラルゴの言葉にリスルは頷いた。彼は車輪が一つしかない少し不安定な車体を前に向けた。ゆさゆさと揺れるふくよかな腹の両サイドで金属の持ち手のグリップを掴み、彼はリスルの歩幅に合わせるように少しゆっくりと歩き出した。
 真上よりもまだ少し東にいる太陽の下に伸びる田舎町の舗装されていない畦道は、しぶとい残暑でぎらついていた。

 ダークブラウンのレンガで造られたこじんまりとした一軒のブティックワイナリーの前でラルゴは足と手押し車を止めた。じっとりとした暑さに汗が吹き出し、額を流れていく。空色と白のストライプ柄が太くはっきりとしたコットンシャツの肩口でラルゴがぞんざいに顔を拭っているのを横目に、リスルは可愛らしい赤色のドアをコンコンと叩く。
「ハンスさん、いらっしゃいますか?」
 はーいともほーいともつかない野太い声が扉越しにくぐもった返事をよこす。しばらくの後に、ラルゴと似たような年恰好の少し困ったように眉を下げた男がわずかに扉を開けて顔を覗かせた。
「ああ、ラルゴさんとリスルか。いつもの納品かい? だったらちょっと裏に……」
 辺りを窺うように視線を巡らせながら、ハンスは声を潜めてそう言った。時折、ちらりと茶褐色の視線がリスルの顔面を掠めていくが、妙に視線が合わない。何かおかしなところでもあっただろうかと、彼女は上から下へと己の全身にざっと視線を滑らせたが、いつも通りエプロンが少し土や葡萄の汁で汚れているだけで、特に不審な点は見当たらなかった。
 恐る恐るといったふうに玄関から出てきたハンスに誘導され、ラルゴは手押し車を押しながら、建物の裏手へと消えていった。リスルは訝しげに思いながら、壮年の男二人の背中を見送る。
「リスル。ちょっと」
 再度、玄関の赤い扉が必要最小限に開かれ、リスルは腕を引っ張られる。どこか気づかうような表情を浮かべたハンスによく似た面差しの娘の顔を認めると、
「ユリア、どうしたの?」
「どうしたって……ああ、もうやっぱり」
 いいから入って、と亜麻色の髪をボブカットにした娘に有無を言わさず家の中へと引き摺り込まれる。いつもは小動物のようにくりくりとして明るい茶褐色の双眸があまりに真剣な光を湛えていたため、リスルはされるがままにしていた。
「リスル……やっぱり何も知らないのね? あなたの家は町外れで、町の話も届きにくいから仕方ないのかもしれないけれど……。あなた、大変なことになってるわよ」
 リスルと同い年の小柄な少女は、真顔でそう捲し立てると、深く嘆息した。リスルは彼女の勢いに気圧されながらも、全く話についていけずに、グリーンの瞳を瞬かせた。彼女の指摘通り、町外れに住むリスルたち一家の耳には町中の噂話は届いてきづらい。
「えっと……大変なこと、って一体……? 何かあったの?」
「あなたねえ……」ユリアは半ば呆れたような視線をリスルへと送る。「あのね、リスル。落ち着いて聞いて欲しいんだけど……あなた、すぐにでもこの町から逃げたほうがいいわ。教会に狙われてる」
「……教会に?」
 リスルが聞き返すと、ユリアは重々しく頷く。
「そうよ。ねえ、リスルは半年前にこの町に来た陰気野郎……じゃなかった、レシェールから赴任してきた司教様、わかるわよね?」
 年頃の娘らしからぬ悪口をさり気なく織り交ぜつつ、ユリアは問うた。リスルは記憶を辿ってそれらしき人物の名前をどうにか掘り起こすと、
「えーと、ジーク司教、だっけ?」
「そう、それ。あいつ、教皇の代替わりのときに上司の巻き添え食らってこんなど田舎に左遷されてきたとかで、レシェールに返り咲くための点数稼ぎを目論んでいるらしくって」
「う、うん……それがどうしてわたしに関係してくるの?」
 可愛らしい見た目に反してナチュラルに口が悪くて毒が多い友人に、リスルは話の続きを促す。
「今代の教皇が何に力を入れているか、リスルも知らないわけじゃないでしょう? どうにもリスルの特技に関しての話があの根暗の耳にも入ってきたみたいで、レシェールの神聖騎士団に視察に来るよう要請を送ったらしいとか」
 話が見えてきて、リスルは顔を顰めた。
 今の教皇である、ネハン・グレナデンは聖典に記載されている悪魔の祝福を受けた眷属――『悪魔の力』だとかいう超常的な力を持つ者への取り締まりを強化しているということで有名だ。そのためであれば、どれほどに強硬な手段をも行使する厳格で冷徹な人物であると聞いたことがあった。
 リスルの”特技”は、あくまで母方の血から受け継いだものであり、聖典に記されている『悪魔の力』と異なるもののはずだった。自分の”特技”を使うと、疲労を感じることはあるものの、リスルにとってこの能力はあくまで自然と共に生きるためのものであり、教会のいう悪魔がどうのこうのといった邪悪さや恐ろしさは感じなかった。
 つまるところ、ジーク司教の点数稼ぎ――大方、教皇の打ち立てた方策に対して貢献することで、レシェールで返り咲くために便宜を図ってもらうべく、彼は自分を利用することにしたのだろうとリスルは思った。法衣に着られてしまっている感がある貧相でどことなく小物感があるあの小男なら、己の出世のために教義を振り翳し、他人に無実の罪を着せるくらいのことは平気でやってのける気がした。
「神聖騎士団って……あの?」
 リスルが嫌そうに聞き返すと、ユリアも同様に顔に嫌悪を浮かべて、
「そう。あの実質傭兵崩れの荒くれ者の寄せ集めっていう。神聖騎士団から視察用の部隊を一つ編成して、近いうちにこの町に来るらしいって噂よ」
 捕まったら何されるかわかんないわよ、とユリアは心配そうに言った。
 リスルは十七歳の若い娘だ。確かにユリアの言う通り、神聖騎士団の連中に捕まれば、どんな辱めを受けるかわかったものではない。彼らからすれば、一時の快楽が得られさえすれば、リスルが本当に『悪魔の力』を扱う異能者かどうかなど、恐らく関係ない。己の身を守ることを考えれば、逃げたほうがいいというのはわかる。しかし、リスルが逃げてしまえば、あの騎士とは字面だけの悪名高い荒くれ者集団に家族がどんなひどい目に遭わされるかわからなかった。
「ユリア、ありがとう。心配してくれて。わたしは……大丈夫だから」
 リスルは顔が引き攣りそうになるのを抑えながら、無理矢理取り繕った笑顔をユリアへと向けた。
「大丈夫って……リスル」
「父さんも戻ってくるころだろうし、そろそろ行くね」
 何か言いかけたユリアを遮って、そう畳みかけると、リスルは軽く手を上げて彼女へと背を向けた。
 リスルが玄関の扉を開けて外へ出ると、またお願いしますねというラルゴの声が聞こえてきた。空になった手押し車を押す恰幅の良い体が建物の陰から姿を現す。
「おー、リスル、待たせて悪かったな」
「大丈夫、ユリアと話してたから。ねえ、父さん」
 そう返したリスルを見て、陽気そうな笑みを浮かべていたラルゴは表情を改める。いつも大雑把で無神経な彼にしては珍しく、顔を曇らせて、少し躊躇うように、
「おい、どうした……? リスル、まさか、お前……」
「ううん、どうもしないけど……? それより、さっき、ユリアが今日の蚤の市でカロンが好きそうな綺麗な絵葉書を見かけたって言ってたんだけど、このまま今から行ってきてもいい?」
 無理の滲む笑顔で、リスルは無邪気さを装い、口から出まかせの嘘を述べる。気丈な振りをしていられるうちに、今は少し一人になりたい気分だった。
「いや、おい、リスル、待てって」
 引き止めようとするラルゴにリスルはそっと耳打ちをする。
「あの話、父さんもハンスおじさんから聞いたんでしょう? 大丈夫、わたしもユリアから聞いたわ。けど……この話、母さんやカロンの耳に入らないようにして。きっと、これを聞いたら母さんは責任を感じて泣くし、カロンは今以上に体調悪くしそうだから」
「けどな、リスル……」
「いいから。お願い、父さん」
 リスルは強い口調でそう言うと、半ば逃げるようにして、踵を返した。
 (リスル……あいつ、無理しやがって)
 足早に歩き去っていくリスルの背中が、ラルゴにはひどく痛ましいものに見えた。
 微塵も雨が降る気配などないはずの夏の終わりの青い空に、黒い暗雲が立ち込めているような気がした。

 特に目的もなく、町の中を歩き回っていると、リスルはいつの間にか蚤の市が立っているメインストリートへと来ていた。色々な品がごちゃごちゃと雑多に並ぶ露店の間をこの残暑にも負けずに人々が行き交っていた。
 すれ違う人々は、リスルの姿を認めると同情的な表情を浮かべながらも、関わりたくないのか露骨なくらいにさっと視線を逸らす。髪留めやブローチなどの装飾品を扱う露店の女主人と中年の女性客は、ちらちらとこちらに視線をやりながら、声を潜めて何かを話している。喧し過ぎるほどに賑やかなこの場所で、リスルは自分一人だけが活気に取り残されてしまっている気がした。ユリアの話は本当だったのだと、改めて実感した。込み上げてきたやりきれない感情に喉元が締め付けられるような感じがした。
 まだ暑いはずの季節なのに、どこか薄ら寒さを覚えながら、リスルは俯き、流れに沿ってメインストリートを歩いていく。惰性で歩きながら、ふと顔を上げると、露店に並んでいた手のひらに収まるくらいの大きさの木彫りの小鳥と目が合った。ハチドリらしき鳥を模したその木彫りの人形を何とはなしにリスルは手に取ると、関わり合いになりたくないのか頭上から迷惑そうな老人の声が掛けられる。
「金はいらない、持っていきなさい」
「え、でも……」
 リスルはエプロンのポケットの中をまさぐり、小銭を取り出して老人へ手渡そうとすると、露骨に迷惑そうに押し止められる。
「いいから、早く行きなさい。皆まで言わせないでくれ」
「……すみません」
 リスルは小さく頭を下げると、その場を後にした。生まれ育ったこの町は最早リスルのいていい場所ではなく、自身は厄介者でしかないのだということをひしひしと痛感させられた。
 白日の空に浮かぶ、天辺よりほんの僅かに西に傾いた太陽のぎらつく光を背に感じながら、重たい足をのろのろと動かしてリスルが帰宅すると、家の中は静まりかえっており、ダイニングテーブルの上の昼食のサンドイッチだけが無言で彼女を迎えてくれた。もう午睡の時間なのかとぼんやりと思いながら、キッチンの隅に置かれた水瓶の水を使い、叩きつけるようにしながら彼女はばしゃばしゃと顔を洗った。
 つん、と鼻の奥に何か塩辛いものを感じた。顔を濡らしているのは決して水だけではなく、熱を持った雫がぼたぼたと床に零れ落ちて染みを作っていく。リスルはキッチンの隅にしゃがみ込むと、膝へと顔を埋めた。浅緑色のワンピースの布地が彼女の涙を受け止め、ところどころ濃い色へと色を変えていった。
 リスルは必死で歯を食いしばって、漏れ出しそうになる嗚咽を無理矢理押し止める。微かに背中が震えていたが、己に対して気づかないふりを装う。今、自分が泣いているということや傷ついていること、苦しく悲しいと感じていることを彼女は決して認めてしまいたくなかった。
 窓から差し込む日差しが西に傾き、午睡から家族が起き出してくるまで、彼女はそのまま動かなかった。

 それから二週間ほどが過ぎ、朝晩にほんの少し肌寒さを感じるようになり、本格的な葡萄の収穫期が訪れていた。リスルは目覚めると、着替えのためにモーブピンクの寝巻きの袖を引っ張って腕を抜く。クレープ素材特有の皺が大きく引き伸ばされた。
 リスルは寝巻きから引き抜かれた柔らかな曲線を描く娘らしい身体にワインと同じこっくりとした色のチュニックを被る。朱色や黄土色、藍色などで全体に施された刺繍は秋の野に咲く小さな花々を思い起こさせた。
 緩やかな癖のある髪にさっとブラシを通し、革紐で適当に一つに纏めて結い上げるとリスルは自室を出た。階段を降りていくと、玄関先でラルゴが何者かと押し問答しているのが視界に飛び込んできた。
「この家にリスルという娘がいるはずだ。中を検めさせろ」
「うちには娘なんていない。迷惑だ、帰ってくれ」
 柄の悪い男たちとラルゴのやりとりを耳にしたリスルは事態を察した。覚悟はしていたその日が来てしまったのだという事実を唇と一緒に彼女は噛み締めた。
 教会の刻印が入った白銀のプレートアーマーを纏った男たちがラルゴを無理矢理押しのけてでも家の中へ押し入ろうとし始めたのを見、腹を括って彼女がその場に割って入ろうとすると、アリエがそれを押し留めた。
「リスル……駄目よ、上にいて。絶対に姿を見せないで」
いつもおっとりとしている彼女には珍しく、その顔には絶望と混乱が浮かんでいた。しかし、娘と同じ色の双眸には強い意志の色が浮かんでいる。
「母さん……」
 神聖騎士団の人間が訪ねてきてしまったことで、町で噂になっていたあの話がアリエの耳に入ってしまったことをリスルは悟った。
「ごめんね、リスル。あなたのことをこんなふうに産んでしまって。どうかお願い……許してね」
 アリエは泣きそうになりながら、淡く微笑み、踵を返す。
「ちょっと待って、母さん! ねえ……母さん!」
 リスルの引き止めようとする声を無視して、アリエは彼女の傍を離れていく。そして、娘とよく似たその姿を玄関先に現した。
 お前がリスル・フレンツァか、聞いていたより随分と年増だななどと、アリエの姿を認めた男たちが何事か言っているのが聞こえた。そして、彼らはラルゴへと向き直ると拳を振り上げた。鈍い音が響く。
「……父さん……」
 リスルのふりをしたアリエを守ろうとしたことで、ラルゴが神聖騎士団の僧兵に殴られていた。たまらなく胸が痛くなって、彼女が死角になっている階段の踊り場から飛び出そうとすると、服の袖口を引っ張られた。彼女が振り返ると、不安そうな顔の蜂蜜色の髪の少年がそこにいた。
「姉さん……駄目だよ、行かないで」
「カロン……いい子だから部屋にいて。これはあなたが見ていいものじゃない。大丈夫よ、カロンのことも、父さんや母さんたちもわたしがちゃんと守るから」
 腕に縋り付いてくるカロンをそっと引き剥がし、リスルは彼へと噛んで含めるようにそう言い聞かせる。しかし、彼は嫌々するようにかぶりを振ると、
「でも……そしたら、姉さんはどうなるの? あいつらに連れていかれちゃうんでしょう? そんなの、駄目だよ……!」
「心配しないで。わたしはちゃんと戻ってくるから。約束するわ」
「……姉さんの、嘘つき……」
 カロンがそう喉の奥から漏らした言葉は涙で湿っていた。心がひどくずきずきとするのを感じる。もう自分がこの家にきっと戻ってこられることはないとリスルにはわかっていた。決して守ることのできない言葉を嘘つきと謗られるのは当然のことで、リスルにはそれを黙って受け入れることしかできなかった。
 カロンの啜り泣く声を聴覚の隅で聞きながら、リスルは階段を駆け降りた。彼女は両親と男たちの間に割って入る。
「わたしがリスル・フレンツァよ。わたしの家族に手を出さないで」
 再度、ラルゴに振り下ろされかけていた拳がリスルの左頬に当たる。重たい音が耳元で響くのを彼女は聞いた。口の中を切ってしまったのか、鉄錆のような味が広がっていく。
「貴様がリスル・フレンツァか。最初から大人しく出てきていればいいものを手間取らせやがって」
 男たちの一人がそう吐き捨てながら、胸元から書状を取り出し、リスルへと突きつける。
「リスル・フレンツァ。悪魔の祝福の下、その力を以って世界へ混乱を齎した咎で貴様を拘束する」
 書状を持った男がリスルを顎でしゃくると、彼の傍に控えていた見るからに荒くれ者といった風情の男たちが縄で彼女の身体を容赦なく縛り上げた。
「ごめんね、父さん、母さん。カロンをお願いね。今までありがとう……さよなら」
 リスルは柔らかい視線を両親に向けると、微笑を浮かべてそう言った。
「ぐずぐずするな、とっとと歩け!」
 リスルの身体を戒める縄が力任せに引っ張られ、背中が蹴られた。衝撃で傾いだその体が強く地面に打ち付けられ、砂埃が舞う。擦りむいた額から滲み出した赤い液体がぽたぽたと落ちる。彼女の状態など省みることもなく、男たちはそのままリスルの身体を荷物か何かのように引きずって連行していく。進んだ距離に比例するかのように、すらりと伸びた手足に浮かぶ痣や傷は数を増していき、身に纏ったボルドーのチュニックワンピースは汚れてずたずたになっていった。
「リスル……!」
 男たちによってぼろぼろにされながら遠ざかっていく娘の名を叫び、ラルゴとアリエはその場に崩れ落ちた。

 真っ赤に染まった夕方の空が高い位置にある味気のない窓から一日の終わりを知らせていた。窓枠に嵌められた鉄格子の外の世界が闇に沈んで夜になれば、聖典の記述を根拠にリスルは殺される。
 礼拝堂へ連行されたリスルは、ジーク司教から通り一遍の尋問を受けた。しかし、彼はそれだけでは飽き足らず、若い娘であるリスルの体から全ての衣服を剥ぎ取り、彼女を視線でねっとりと舐りながら鞭で打った。一糸まとわぬ姿にされた彼女は腕で自分の身体を抱きながら、心と身体に浴びせられる謂れのない暴力と間接的な凌辱行為に耐えるしかなかった。レシェールから視察という名目でやってきた神聖騎士団の荒くれ者の男たちは、にやにやと下卑た笑みを浮かべ、時にはあはあと気持ち悪く呼吸を荒らげながら、視姦するようにその光景を眺めていた。太陽が南の高い空に昇る刻限まで、屈辱的なその仕打ちは続けられた。
 全身を腫れ上がらせたリスルは、陰気な目をした司教から解放されるとともに、あるだけましといったような粗末な衣服を与えられた。汚い麻袋に頭と手足を出す穴が開いているだけのものだったが、値踏みするように彼女の肢体に視線を這わせてくる男たちがおぞましくて、痛む体にそれを纏った。
 リスルは神聖騎士団の僧兵たちに連れられ、先ほどまでいた拷問部屋から半地下の牢へと移された。この後の処遇が決まるまでここにいろということだった。いかにも粗暴そうな連中なのに、ご丁寧にも手枷と足枷と口枷を嵌めた上で、きっちりと彼女の手足を柱に縄で縛り付けていった。
 しばらくして、遥か頭上の窓から誰かが指示を飛ばす声が聞こえた。
「あの女は今夜、礼拝堂前の広場で処刑するとのことだ! そっちの三人は地面の掘削、残りの二人は木材二本と石の土台を用意してこい! 木材はそうだな、適当にその辺の木でも切り倒してこい!」
 応、という返事と共に視察部隊の男たちがばらばらと動き出したらしい足音が響いた。
「あの司教様とやらは聖職者のくせになかなかの嗜虐趣味みてーだからな、あの女がどんな声で鳴くか楽しみだぜ」
「ああ、さっきもイイ顔してヨガってたもんなあ。あいつ感度良さそうだし、今度は公衆の面前でじわじわと嬲り殺しにされてどうなってくれるか……やっべえ想像しただけで何か滾ってきた。っていうか、顔も身体もまあまあ良かったし、殺す前にこっそり一発くらいヤッちまってもいいよな?」
「うっせえよ変態。しっかし悪魔の祝福を受けた異能者だっけか? あの女、ああやって悪魔とやらを誑かして変な力手に入れたんじゃねーの? ったく、迷惑な話だぜ」
「ちげーねえ」
 シャベルで広場の地面を掘り返す単調な音の間から品性のない会話に興じる複数のやる気なさげな声が漏れ聞こえてきて、リスルは腫れ上がった顔を歪めた。こうして下品な言葉で辱められるのももちろん許せないが、謂れもない罪で殺されなければならないというのが悲しくて苦しかった。
 聞こえてきた話によると、リスルは今夜、殺されるのだという。レシェールまで連れていかれるかと一縷の望みを抱いていたが、ジーク司教はどうやらリスルを処分することと目先の手柄を急いだようだった。土台を地中に埋め込んで、その上に柱を立てる――どうやら自分の死因は磔刑か火刑のどちらかになりそうだなと彼女は頭の隅の冷静な部分で考えていた。どうやら人間というのは恐怖に支配されると逆に冷静になる防衛本能があるようだった。
 何処かで別の作業をしていたらしい男が重量のあるものを引き摺る音と共に広場へ戻ってきた。しばらく、何かごちゃごちゃと話しながら作業をしていたようだったが、気合を入れる声が響き、ずどんという鈍い音ともにリスルのいる牢が振動した。
 リスルが伏し目がちに頭上の窓へと視線をやると、無慈悲な十字架が夕陽を背にそのシルエットを黒々と浮かび上がらせていた。あれがこの後、見世物とされる彼女が苦悶の声と共に最期を迎える予定の舞台だった。
 聖典に書かれている悪魔なんてどこにもいないけれど、同様に教会が崇める神だってどこにもいない。謂れもない罪で死を強いるのが神ならば、いっそ存在しないでくれたほうがいい。
 神様でも悪魔でもいいから、この世界にこれ以上、こんなくだらないことで罪もなく奪われる命がないようにとリスルは願った。夕闇が降りた牢の床にぽたぽたと雫が落ちた。足元で剥き出しになっている土の匂いが妙にはっきりと彼女の鼻腔をついた。
 終わりかけた最後の時間に彼女が捧げた祈りは闇の中へ姿を消した。彼女の想像を超えて、悲劇は連鎖していくことをまだ誰も気づいてはいなかった。

 夕陽が地平線の彼方へと姿を消し、欠け始めた月が焦らすように東の空を淡く照らし始めた。秋の夜風でたなびく灰色の雲は焦らすようにゆっくりと昇ってきた居待月をなきものにしようとしていた。
 リスルは牢から出され、篝火の焚かれた礼拝堂前の広場へと視察部隊の僧兵数人に伴われて連れてこられた。炎に照らされた人々の顔には恐れや哀れみといった感情が浮かんでいた。涙を流す両親や弟の姿が視界に入り、彼女は目を逸らした。
 広場の中心に屹立する巨大な木の十字架にリスルはくくりつけられた。足元には燃えやすい藁や木屑が積まれている。彼女の前に聖典と法杖を手にしたジークが悠然と立った。彼女は法衣を纏った中年の小男を緑色の双眸にきつい光を浮かべて睨み下ろす。彼は意に介したふうもなく、冷えた声で訥々と聖典で定められた悪魔に関する一節を読み上げていく。
「リスル・フレンツァ。汝は悪魔と契約し、呪われた力を以って現世を混乱に陥れた。その身と共に内に宿りし悪魔の祝福を神の炎を以って滅する。汝、その生命を神へと捧げ、その大罪を贖うことをここに誓え。神はその広い御心をもって、その魂を赦すだろう」
「誓わない。そんな冤罪、絶対にわたしは認めない。大体、悪魔悪魔って……もし悪魔なんてものが本当にいるんだとしたら、それはあなたたちのことよ、ジーク・マーセル司教!」
 リスルはジークを見据え、はっきりとそう言い放った。ジークの右手に握られたやたらと装飾過多な杖が閃いた。杖の先端に施された神の使いを模した装飾がリスルの左脇腹を抉り、服の切れ端と共に赤い液体が宙を舞った。
 ジークは不快げにリスルへ一瞥をくれると、背後に控えていた僧兵へと短い一言を発した。
「やれ」
「御意。……おっと、そうだ」
 神聖騎士団の印が刻まれたプレートアーマーに身を包んだ男は軽薄そうに口元を歪めた。目には面白がるような色が見える。
「ジーク司教。一個面白い余興があるんだが……」
 僧兵の男に何事か耳打ちされたジークはいいだろうと鷹揚に頷く。
 ジークの許可を得た僧兵は、にやにやとした笑みを浮かべながら、遠巻きに事態を見守る群衆へ向けて問うた。
「おい、あの女の家族ってのはどこにいる?」
「……」
 人々は押し黙ったまま答えなかった。しかし、ちらちらとした視線がラルゴたちを掠めていく。へえ、と露骨に状況を楽しみながら、男はラルゴに近づいていく。
「ふうん、お前があいつの父親か。来いよ」
 男は群衆の中からラルゴを引きずりだすと、その背中を蹴った。恰幅の良い身体は、広場の中心へと転がっていく。僧兵の男は先端に布を巻いた木の棒を篝火に近づけて着火させると、ラルゴを無理矢理立ち上がらせ、その手に押しつけた。
「娘が悪魔の祝福を受けた眷族だって言うんなら、その親もそうかもしんねえよなあ? 違うってんなら証明してみろよ、てめえでてめえの娘に手を下すことでなあ!」
 リスルの周囲を固めていた僧兵たちがそれはいい、と下品な笑い声を上げた。僧兵の男は腰にはいたテンプルソードを抜き放つと、背後からラルゴの首筋へと突きつけた。皮膚の表面が切れて、うっすらと血が滲んだ。
「ほら、やれよ。やれ。死にたくねえだろう?」
 ラルゴは歯を食いしばった。松明を握る手が震え、火影がゆらゆらと揺れている。
 躊躇うラルゴへそっとリスルは言葉をかける。
「父さん。いいよ。やって。早く」
「リスル……」
 いいからさっさとやれよ、と周囲から僧兵たちの唾混じりの野次が飛ぶ。意を決したようにラルゴは青い目を伏せる。
「リスル……ごめんな」
 うわああああ、と叫びながら、ラルゴはリスルの足元へと松明を振り下ろした。勢い余って彼の手から放り出された松明が地面を転がっていった。うっわ本当にやったよこいつ、と笑い声が上がった。
 リスルの足元の着火剤へと火が燃え移り、煙が上がり始める。炎は次第に大きくなっていき、ボロ同然の彼女の粗末な服の裾へと引火する。剥き出しの素足を揺らめく炎が舐めていく。べろりと皮の剥けた足の皮膚組織の深くまで焼いていく熱さにぎりぎりと彼女は歯を食いしばって耐える。
 徐々に勢いを増していった炎は、やがて広場に突き立てられた巨大な十字架をリスルごと包み込んだ。
 熱い。痛い。心の中で悲鳴を上げながらも、リスルは毅然とした態度を崩さなかった。ここで泣き叫んで命乞いをしようものなら、ジークたちの思う壺だった。彼らのために見世物になってやる気など毛頭なかった。自分に対する仕打ち以上に、ラルゴに対する先程の残酷なやり口が心底許せなかった。リスルの明るいグリーンの双眸に怒りの炎が宿る。
 顔に纏わりつく茶色の巻毛からタンパク質が焦げる匂いがする。しなやかな四肢は焼け爛れ、煤けて真っ黒になっていた。立ち登る煙を吸い込んだリスルはけほけほと咳き込んだ。
『思い描きなさい……その身を縛る枷が焼け落ちる様を……』
 身体を燃やし尽くさんとする業火の中で、リスルは誰かの声を聞いた。幻聴か、と彼女はぼんやりと思う。もうすぐ自分は死ぬのだろう。
『手足へ意識を集中させなさい……その身を解き放ってあげましょう……』
 再び、知らない声がリスルへと話しかけた。頭に直接響いてくるようなその声になぜか抗う気が起きなくて、彼女は感覚が鈍麻しつつある指先と足先へと意識を集中させる。彼女は目を閉じると、謎の声に促されるまま、脳裏で炎の輪を強く思い描いた。
 リスルは手首と足首を何かが撫でるのを感じた。目を見開くと、彼女を木の柱に縛り付けていた縄が焼け落ち、身体がふわりと解き放たれた。波打つ彼女の髪は炎のような赤色へと変わり、グリーンだった瞳も髪と同じ色を湛えて爛々と光を放っている。
 落下する彼女の身体を呑み込もうとしていた炎が大きく二つに裂けた。彼女は地面へとそっと降り立った。彼女の利き手を中心として、大きな炎の渦が集まってくる。それは不思議なくらい熱さを感じさせず、彼女を傷つけることはなかった。
「これが……『悪魔の力』……」
 リスルが生きたまま焼かれるのを遠くから見ていた誰かが呆然と呟いた。その言葉を皮切りに広場にざわめきが広がっていく。ジークは言葉を失い、身体を震わせながら地面にへたりこんでいた。
「あの姿を見ろよ……あんなの人間じゃねえ!」
「魔女だ……リスルは悪魔の祝福を受けた魔女だ……!」
 魔女という単語が恐怖とともに人々の間を伝播していく。その様子をリスルは異様なくらい冷めた気持ちで見ていた。
 リスルは体の中で得体の知れない何かが暴れだすのを感じた。彼女は沸き起こる衝動を必死で抑え込もうとするが、”何か”は彼女の身体という殻を突き破って出てこようとする。彼女を取り巻く炎の渦が大きく膨らんでいく。本来なら彼女を骨まで残さず焼き尽くすはずだった業火は今や礼拝堂の建物を余裕で飲み込んでしまいそうなほどの大きさに達していた。
『与えましょう。あなたを害するすべてを薙ぎ払う力を』
 先程とは違う声がリスルの頭の中で響き、彼女の体内で大きな力のようなものが弾けた。体の中から力の奔流が吹き出し、何の予兆もなく発生した竜巻が広場を襲う。リスルを取り巻いていた巨大な炎は強い風に嬲られ、辺り一面に火の粉を降らせた。
 風に流された炎により、礼拝堂の建物が燃え始める。炎は次第に勢いを増していき、近くの建物へ延焼していく。連鎖するように辺りに火の手が回っていき、広場は蜘蛛の子を散らしたような騒ぎとなっていた。
 人々が広場から逃げ出し始めたころには、アルクスの町は火の海と化していた。煉獄の炎と同じ色の双眸に映るこの世の地獄のような光景にリスルは呆然と立ち尽くす。これは結果的に自分が引き起こしたことなのだということだけは理解していた。
 逃げなきゃ、とリスルは感情の抜けた平板な口調で呟いた。命を失いはしなかったもののどのみちもうこの町にはいられない。家族の安否は気にかかるが、それも今は捨て置くしかなかった。
 リスルは焼け爛れてぼろぼろになった足を引きずって、燃え盛る炎の中へと姿を消した。
 逃げ惑う人々に絶え間なく襲いかかる炎の波は歩み去る彼女の身体を受け入れ、傷つけることはなかった。

 燃え盛る町を出たリスルは、少し離れた場所にある丘の上からその光景を眺めていた。少し肌寒いくらいなのに、僅かに湿り気を帯びた空気が肌に纏わりつく。
 建物があらかた燃えてしまったのか、町を焼く炎は勢いを失っていた。あちこちで残り火がちらちらと揺れているのが遠目にも見てとれた。
 リスルは木の根元に腰を下ろすと、煤で黒く汚れた膝に顔を埋める。まだ赤いままの髪がふわりと広がった。
 教会の言う通り、自分は本当に魔女なのかもしれないとリスルは思う。得体の知れない”何か”の声を聞き、促されるままにこのような恐ろしいことを引き起こしてしまった。扱いきれない力を抑えきれずに暴発させ、多くの命を奪ってしまった。自分が幼いころから慣れ親しんできたこの力の正体が便利なだけのものではなく、本当はこんなにも恐ろしいもの――聖典に記されいる『悪魔の力』だとは思ってはいなかった。
 木の上から何かがぽとりと降ってきて、それ――傷ついて汚れた小鳥をリスルは火傷を負った手のひらで受け止めた。手の中の小鳥はぐったりとして動かない。美しい青緑のグラデーションを描いていたはずの被毛はところどころ黒く焼け焦げていた。自分のせいでこんな小さな罪のない命まで巻き込んでしまったと思うと、リスルの胸は張り裂けてしまいそうだった。
 リスルは手で優しく傷ついた小鳥を包み込んだ。せめて、目の前の小さな命だけでも救うことができたならと思った。ひどく傷ついた身一つで何も持ってはいないけれど、残されたこの命をもしこの小鳥に与えてあげられるのなら、と彼女は願う。
 どくり、とリスルの心臓が鳴った。彼女は気づかなかったが、いつの間にか、髪と瞳の色味がまたほんの少し変わり、朝焼けのような赤色になっていた。
 彼女の手の中で小鳥はほのかな光に包まれている。瞬く間に、小鳥の傷が癒えていき、彼女の手を離れて飛び立っていった。全身に重たい倦怠感が広がっていくのを感じながら、リスルはぼんやりと夜空に溶けて小さくなっていくその姿を見送った。
 今のはなんだったのだろうと思いながら、リスルは立ち上がった。しかし、この一夜のうちにあったことを思えば、そんなことはどうでもいいような気がした。物を考えるのも億劫なほど疲れていた。
 リスルは小鳥が飛んでいった東の空を見上げた。その瞳はいつの間にか元のグリーンへと戻っていた。
 焼け焦げた茶色の髪の少女は、傷ついた身体を引きずりながら、朝の来る方角へと歩き出した。
 死んでしまった町には静かに夜の闇が降りていた。