木枯らしに吹かれて、色づいた木の葉がどこまでも高く青い秋の空に舞っていた。
 イーシュは目の前に広がる記憶のままの風景に足を止める。紐で無造作に束ねた灰色の髪とグレンチェックのチェスターコートの裾が冷たい風で揺れる。
 五年前の冬、リスルによって一命を取り留めたイーシュは、雪が溶け、花の蕾が綻び始める季節まで、この村に滞在していた。その間に、命を落としたリスルの葬儀を済ませ、村の復興作業へと彼は携わった。
 それからというもの、イーシュはどうしてもこの村――ヴェレーンには足が向かないまま、国内を転々としていた。あの日、この村が山火事に巻き込まれたという負い目が彼の足をこの村から遠のかせた。
 たまに立ち寄った町で日雇いの仕事をしては小銭を稼ぎ、その日暮らしを続けているうち、背も伸び、顔立ちも大人びて、イーシュは青年といっていい年になっていた。しかし、これから年を重ねて、あのころのリスルの年を追い越したとしても、到底彼女に追いつけるとも、彼女のようになれるとも思えなかった。
 イーシュはキャメルのボストンバッグを持ち直すと、歩き始めた。時期が終わりに近づいてきた金木犀が風に乗ってふんわりと香ってくる。
 すっかりあのころと変わらぬ景色を取り戻した村の中を懐かしさと鈍い胸の痛みを感じながら歩くうち、イーシュは比較的大きな一軒の家の前へと来ていた。以前、彼がこの村に滞在していたころ、一時期身を寄せていた村長の家だった。庭先ではまだ少し時期が早いはずの花の蕾が綻び、甘やかだけれどほんのりとスモーキーな色を覗かせていた。その花を見るとどうしても、もうこの世にはいない女性のことを思い起こしてしまい、イーシュは少し苦しくなる。
 イーシュは扉をノックしようとして、躊躇った。悴んだ手が行き場をなくして彷徨う。
 あの翌年の春に、自分の中でいろいろなことに半ば無理矢理区切りをつけてこの村を発つときに、いつでもまた訪ねてきてほしいとは言われてはいた。けれど、イーシュはそんな社交辞令を鵜呑みにして、招かれざる客が何をしにまたこの村を訪れたのかと、この家に住まう人々の表情が歪むのを見たくはなかった。
「あら、あなた、どこかで……?」
 背後から年老いた女性に声をかけられ、イーシュは振り返る。草花をあしらった深緑のショールを肩に纏った小柄な老女が口元を押さえてこちらを見ていた。
「あなた……イーシュ? イーシュなの? あらまあ……すっかり大きくなって……」
 随分と格好良くなって、女の子が放っておかないでしょうと、老婆は柔らかく表情を綻ばせた。イーシュは毒気を抜かれながら、彼女へと小さく頭を下げる。
「ハンナ夫人……本当にお久しぶりです」
「いつでも訪ねていらっしゃいと言ったのに、あなたときたら全く顔を見せにきてくれないんだもの。ところで、もう礼拝堂には顔を出したの? 大司教様がちょうど、今朝、レシェールから帰ってきたところなのだけれど」
「大司教様? レイモン神父はもうこの村にはいらっしゃらないのですか?」
 大司教と聞いて、イーシュは眉根を寄せた。レイモンがいるのであれば、せっかくだから会っていきたい気持ちはあったものの、自分の身の上を考えればわざわざ見ず知らずの高位の聖職者と接触するような愚は冒したくなかった。
 ハンナは渋い反応を示したイーシュの表情を見ると、
「ああ、イーシュは知らなかったわね。二、三年前だったかしら、また教皇様が代替わりなさったでしょう? 神父様はあのときに、昇進なさったとかで、今は大司教様になられているのよ」
 それなのにこの村から離れたがらないなんて、本当に物好きなお方よねえとハンナはのんびりとした口調で言った。

 イーシュはこの村を離れてから、各地を転々としてはいたが、レシェールで教皇がその地位を剥奪され、枢機卿をはじめとした教会の重鎮たちも軒並み更迭されたという話を耳にしてはいた。
 事の起こりはこの村で神聖騎士団が起こした一連の事件が明るみに出たことだった。
 あまりに強引かつ手段を選ばないやり口に、彼らを運用し、その蛮行を容認していた前教皇のネハン・グレナデンや枢機卿団、強硬派の高位の聖職者らに事の是非が問われる運びとなった。
 いくら教義に反する存在とはいえ、『悪魔の力』を宿した人間を追いかけ回した挙句、拷問に掛けた末に見せしめのように処刑するやり方を快く思ってはいなかった一部の穏健派がこれを契機に声を上げ、強硬派と対立した。
 イーシュは知らない事実だったが、最初に教会のやり方に疑問を呈し、声を上げたのが、ヴェレーンに神父として赴任しており、事件の当事者でもあるレイモン・ツェルヒである。その目で神聖騎士団の悪行をありありと目にしてきた彼はちょうどいいスケープゴートとして穏健派の旗頭に担ぎ上げられた。
 そして、教会組織の内部対立にあたって、立ち上がった穏健派の聖職者たちに力を貸したのは王弟だったと言われている。彼が事態に介入したことにより、教会内部を牛耳っていた強硬派の高位聖職者たちは王国法の下に裁かれた上で軒並み更迭されることとなり、教皇の交代を余儀なくされた。
 ネハン・グレナデンの次の教皇を強硬派から選出することは事実上不可能であり、候補として推薦された穏健派の旗頭であるレイモン・ツェルヒもその地位に就くことを固辞したため、事の次第をどちらにも与せずに見守っていた中立派筆頭のラガニス・マローカが消去法で教皇の座に就くこととなった。
 王家が教会組織に向ける目は厳しく、教会は一切の武力をもつことを禁じられ、神聖騎士団は解体に追いやられた。法の裁きを経ずに処刑を独自に行なうことも禁じられたため、なし崩し的に異能者に対する教会の追及も以前ほど厳しいものではなくなっていた。
 少なくとも普通に暮らしている分には、命を脅かされることはなくなってきてはいるものの、何となくひとところに長く止まる気にはなれなくて、イーシュは国内を流離ながら暮らしていた。故郷のフィエロ村は八年前に滅びてしまっていたし、姉のユーフェがいる王都に腰を落ち着けて暮らすのも何だか今更感があって居心地が悪かった。かといって、散々迷惑をかけたこの村に居続ける気にもなれず、自分の心身を守るためにも、誰とも深く関わらずに済む旅暮らしをイーシュは選んだ。

「あの……ハンナ夫人、一つお願いがあるのですが……」
「あらあら、何かしら」
「そこの庭の花を少し分けてもらえませんか」
 イーシュは茶色い花びらが顔を覗かせ始めた花を手で指し示す。リスルさんに持っていってあげたくて、と彼がぼそりと呟くと、ハンナはくすりと笑った。
「いいわ、少し待っていてくれるかしら」
 そう言うと彼女は家の中から緑色のサテンのリボンを持ってくると、皺だらけの手で庭の花を数本摘み取った。リボンで花を束ね、彼女はイーシュにそれを差し出すと、悪戯っぽい表情を浮かべ、
「ほら、できた。はい、どうぞ。ねえ、イーシュ、このリボンの色、あの子の目の色によく似ていると思わない?」
「は、はい……あ、あの、ありがとうございます……」
 イーシュはしどろもどろになりながら礼を述べ、小さな花束をハンナから受け取った。彼女がいうあの子が誰を差しているかは明白であり、完全に面白がられている気がする。
 イーシュは重ねて礼を述べると、ハンナと別れ、礼拝堂へと足を向けた。

 青い屋根の礼拝堂の建物の前に、祈りを捧げる女性の姿を模した儚げな雰囲気の銅像が立っていた。昔、読んだ絵本に載っていた神セレーデの像かとイーシュは一瞬思ったが、その相貌は明らかに彼がよく知る女性のものに酷似していた。
 銅像の横に佇む石碑の文字をイーシュは目でなぞっていく。
『奇跡の力をもって人々を救済し”暁の聖女”リスル・フレンツァ、この地に眠る』
 『紅の魔女』などという忌まわしい通り名はもちろん、『暁の聖女』などという仰々しい呼び名も生前の彼女はきっと望んでいなかっただろうとイーシュは思った。彼女は常に正しく、自分のすべきことをしようとしていただけだった。
「私たちを恨みますか? イーシュ君」
 背後から男の声に名前を呼ばれ、イーシュは振り返る。五年分の年月をその身に刻んだ中年の男が、記憶にあるよりも高価そうで凝った装飾の法衣を纏って立っていた。
「レイモン神父……お久しぶりです。いえ、今は大司教様とお呼びするべきでしたね」
 イーシュの言葉にレイモンは苦笑する。
「ええ、お久しぶりですね、イーシュ君。確かに私は今や大司教の身ではありますが、所詮は派閥争いの過程で体のいいスケープゴートに便宜上与えられた地位に過ぎませんし、そう畏まることはありませんよ。私自身は今もただの田舎暮らしの神父のつもりです」
 皆に神の教えを説き、薬を作りながらのんびり暮らしながら一生を終えたかったんですが、などとにこやかに宣いながらレイモンはイーシュの横に並び立つ。
「きっと、シスター・リスルはこのように祀り上げられたくて、異能で人々を癒やして回っていたわけでもなければ、村長やあなたの命を救ったわけではないとわかっています。だけど、私たちはこうするしかなかったのです。彼女に報いるためにも、イーシュ君のように異能を持つ人々のためにも。イーシュ君、彼女が最期まで何を願っていたか、覚えていますか?」
 ええ、とイーシュは小さく頷いた。
 リスルは最期まで、イーシュが生きる未来を望んでいた。彼が生きていくこの先の未来に希望を抱いて、自らの命と引き換えに、最後の力を振り絞って、死の淵から引き戻してくれた。
「あのころ、当時の教皇聖下に連なる強硬派が教会組織を牛耳っていて、内部の腐敗はひどいものでした。強硬派の目に余る横暴に対する問題提起のため、私たちには絶対的な聖人が必要でした。教会が排除しようとしている『悪魔の力』は必ずしも何かを害するためのものではないと、そして神聖騎士団の悪行がどのような結果を招いたか、わかりやすい形で知らしめるため、彼女をこうした形で祀り上げるしかなかったのです」
 レイモンは懺悔するように言葉を紡いでいった。しかし、イーシュは彼を責める気にはなれなかった。
 ここ最近、普通に生活する分には随分と暮らしやすくなったのは、レイモンの尽力による部分があったのだと知ってしまった。純粋にリスルやイーシュのためだけではなく、教会内部における思惑が絡んだものであったとしても、イーシュはその事実が嬉しかった。
「ありがとうございます。……俺は、何も知らなかったんですね。誰のおかげで、今、こうして過ごせているのか」
「私は、シスター・リスルの高潔さを汚しただけで、結局、何ができたわけではありません」
 イーシュが礼を述べると、レイモンは首を横に振る。それでも、とイーシュは言葉を重ねる。
「どういう形であれ、リスルさんの思いを覚えていてくれて、俺たちを取り巻く状況を変えるきっかけを作ってくれたのは間違いないじゃないですか。俺はそれで充分です」
「イーシュ君……」
 レイモンはイーシュの顔を見、微笑んだ。
「イーシュ君、あなたは変わりましたね。単に大きくなったというだけでなく、人として良い方向に。とてもいい顔をするようになりました」
「……それはどうも」
 イーシュは居心地の悪さを感じて、レイモンから視線を逸らす。当時の自分は、生きることに絶望した無力な子供だった。もし、イーシュがあのころと比べて変われたというなら、この村で過ごした日々と何よりもリスルのおかげだ。
 それよりも、とイーシュは銅像を見上げながら話題を変える。
「……あれ、似てないですね。リスルさんはあんな感じじゃないですよ」
 銅像の女性の顔立ちはリスルに酷似していた。しかし、似ているようで身に纏う雰囲気は全然似ていないととイーシュは思う。
「リスルさんはもっとこう……強くて、優しくて、格好良くて、綺麗な人でした」
 例えるならこんな感じです、とイーシュは手の中の小さな花束をレイモンへと見せる。厳しい冬の寒さのような逆境にも決して屈することなく、気高く強く正しくあろうとする、凛と咲く花のような人だった。
「イーシュ君には、シスター・リスルのことがそう見えていたんですね」
 よく見ていたんですね、とレイモンはしみじみと言う。イーシュは恥ずかしさで焦げ茶の瞳を宙に彷徨わせながら、ぼそぼそと言う。
「そりゃ……あのころの俺はあの人に憧れて、追いつきたくて、ずっとあの人のことを見てましたから。それにたぶん……あの人は俺の初恋でしたから」
 あのころ、リスルの側にいることで、イーシュは彼女のようになりたいと憧れた。彼女のように強い人間になりたいという思いが前を向いて生きる活力を与えてくれたのだとイーシュは思っている。
 いつだって強く正しく気高いけれど、女の人らしく弱く儚い部分もある彼女の近くにいるうちに、男として彼女を守れるくらい強くなりたいと思うようになっていた。さほど長い間ではなかったけれど、一緒にいて、彼女のことを知るほどに大切な人になっていった。
 姉のユーフェと離れ離れになったことによる年上の女性への憧憬と思慕の念を履き違えていただけだったかもしれないけれど、あのころのイーシュは彼女のことが好きだった。その気持ちは今も変わらずにイーシュの中にあって、多感な少年期の幼い思い出として割り切るにはまだ時間がかかりそうだった。
 それをわかっていたのかいなかったのか、今になってはわからないが、リスルはイーシュを異性として扱うことはなく、弟のような存在として接していた。お互いに抱く”大切”という感情がついに一度も噛み合うことがなかったことにイーシュはほろ苦さを感じる。
 イーシュは彼女を模した銅像の足元に膝を折ってしゃがみこむと、手にしていた花束をそっと置いた。冷たい風に緑色のリボンが揺れる。イーシュは目を閉じ、そっと両手を合わせた。
「リスルさん……」
 伝えたいことはいくらでもあった。本当は彼女が生きているうちに伝えたかったこともあるし、今のイーシュだからこそ伝えられることもある。
 けれど、リスルが最期まで願っていたことを思えば、まず最初に何を伝えるべきかは明白だった。
 リスルさん。あなたのおかげで、俺は今、生きてここにいます。あなたが願った未来を、今、俺は生きています。
 そう心の中で言葉を紡いでいくイーシュに、記憶の中の彼女が微笑みかけた気がした。
 イーシュが彼女と初めて出会った季節と同じ色の日差しが彼らの上を照らしていた。