――「聞いて、お姉ちゃんが病気になったの」

 母さんが、泣きながら姉ちゃんのことを話してくれた。
 感情を失っていく病気を患ってしまったという。
 明確な治療法はない。ただ、身体的な障がいはないとのことだった。
 命に別状はないそうだが、姉ちゃんはすっかり変わっていった。

 まず、日中は部屋でずっと座っていた。
 スマホも触らず、ゲームもせず、本も読まず、ただ、壁を眺めている。
 食べるのが好きだったくせに、母さんが食卓に呼ぶまで、何も食べなくなった。
 俺がちょっかいをかけても、無反応になった。

「なあ山本の姉ちゃんのこと知ってる?」
「知ってる。正直、怖いよなあ。この前、公園でずっと座ってたぜ」
「スーパーで見た。目に生気がなかった」

 噂はすぐに出回った。
 姉ちゃんのことで俺までいじられるようになり、気味が悪いと罵声を浴びせられるようになったのだ。

 ――なんで、俺が、こんなことを言われなきゃならないんだ。

「姉ちゃん」
「どうしたの」
「もう少し、なんかできないのかよ?」
「何かって何」
「笑うとか、怒るとか、普通にしろよ」
「普通……」
「それ、やめて。繰り返して喋るの怖いからやめて」

 俺は、毎日姉ちゃんに”普通”にしてほしいと頼むようになった。
 それも最悪だ。親にばれないように言っていたのだから。

 けれどもある日、姉ちゃんは、なんと笑顔を見せてくれた。

「え、どうしたんだよ姉ちゃん!? 戻ったのか!?」
「戻ってないよ。普通、になろうと思って」
「うん、それがいいんじゃない」
「わかった」

 姉ちゃんは、笑顔の練習をしていた。鏡の前でにっこり笑って、時には怒ったような表情を作る。
 街で歩いていてご近所さんを見つけたら挨拶をし、何か言われたら怒る表情を浮かべて、声を上げる。

 なんだ、できるんじゃん。

 ただ、それは外だけだった。
 家の中ではいつものように真顔で、何だか俺は少し腹が立った。

「姉ちゃん、家でも笑顔にできないの?」
「してほしいなら、するよ」

 姉ちゃんは、家でも笑顔を浮かべるようになった。
 母さんは無理しないでいいのよと言っていた。でも、俺が何度も言ったからか、姉ちゃんは辞めなかった。


 ある日、真中美空、という女の子の話が出た。

 姉ちゃんと同じ病気を患っているらしい。
 病院で見かけて、姉ちゃんに何となく伝えた。

「姉ちゃんみたいに笑顔が作れたらいいのにな」
「そうね」

 そして姉ちゃんは、真中美空にやり方を教えていた。
 やっぱり俺は間違っていなかったのか。

 伝えて良かった。

 俺は周りからいじられることがなくなっていた。

「文化祭の実行委員になったの?」
「そう」
「どうしてまた?」
「……わからない」

 高校生三年生になった姉ちゃんは、ある日、文化祭の実行委員に立候補した。
 母さんが驚いていた。
 確かに珍しいなと思った。姉ちゃん、自分からは何も言わないから。

「頑張れよ姉ちゃん。笑顔、うまく作りなよ」
「わかった」

 そんなある日、姉ちゃんはめずらしく俺の部屋に来た。

「どうしたんだよ?」
「文化祭実行委員になりたかった理由がわかった。あなたには、伝えたくなったの」
「……理由って?」
「私はみんなのようになりたかったんだと思う。見せかけじゃなくて、普通になりたかった。友達が、欲しかった。最近はね、楽しい気がするのよ」

 姉ちゃんはそれだけ言って、自室に戻っていった。
 なんだ、良かったじゃん。

 そう思っていた翌日、母さんが泣きながら俺を病院に連れて行った。

「凪、凪……どうして、なんで……」

 姉ちゃんが学校の屋上から飛び降りたのだ。
 それも、文化祭が終わった放課後の屋上。

 柵を乗り越えていたことがわかり、事件性はないと判断された。
 医師は、もしかしたら言えない苦しみがあったのかもしれません――と。

 ……俺のせいだ。

 俺が、表情を作れだなんて言ったからだ。
 普通になれ、だなんて言って。だから、それがずっと姉ちゃんを苦しめていた。

 楽しい、なんて言っていたのも俺を安心させるためだったのだろう。


 なんで、あんなことを言ってしまったのか。


 それからはできるだけいい人間でいようと決めた。
 わがままは言わず、辛い人がいたら助ける。
 言葉遣いも自然と柔らかくなっていった。
 誰かを傷付けることがないよう、殻を被るかのように。

「山本くんって、ほんといい人だよね」

「山本くん、優しいよね」

「山本くん、凄いなあ」

 俺は――僕は凄くない。ただ、嘘をついているだけだ。

 姉ちゃんが死んでから、両親の喧嘩が多くなった。
 やがて離婚することになり、母の旧姓の相楽になった。

 そして高校へ入学して、僕は驚いた。

 真中美空さんが、そこにいたからだ。

 感情の模倣はしていなかった。
 受け答えは、病気を発症した頃の姉ちゃんそのもので、まるで、姉ちゃんを見ているみたいだった。

「あいつ、感情の病気らしいぜ」
「へえ、どんな感じなんだろ」
「――そういうのは良くないよ。僕たちと同じ、普通なんだから」

 僕は、すぐに彼女のことを悪く言う生徒に気づき、注意した。
 けれども、僕の言葉は聞き入れてもらえなかった。

 だから、僕は学校で発言力が高くなるように気を付けた。
 どんな時も明るく振舞い、できる限り大勢の人と関わり、僕を中心とする大きな和ができるようになった。
 それによって、僕の発言を聞き入れてもらえるようなっていった。

 真中さんの悪口を言う人は、いなくなった。

 二年生になり、僕は同じクラスになって安心した。
 これなら、何かあっても助けやすい。

 だが、驚いたことが起きた。

「私、やりたいです」

 真中さんが、文化祭の実行委員に立候補したのだ。
 姉ちゃんと同じだ。
 あまりの衝撃に一歩遅れるも、急いで声を上げた。

 僕も実行委員となり、真中さんを傍で監視することにした。

 メイド喫茶の体験へ行くことになったけれど、直前で行くのをやめた。

 最低な理由だ。

 姉ちゃんは、文化祭が楽しい気がすると言っていた。
 楽しいと思えば思うほど、真中さんは姉ちゃんのようになってしまうのではないかと思った。

 鬼怒川くんは行かないだろうし、哀川さんは……今はショックで外に出られないだろう。
 そう思い、僕は行かないことにした。

 だが予想に反して、喜多さんと真中さんは仲を深めていた。
 鬼怒川くんと交流を深めて、哀川さんとも仲良くなっていく。

 僕は不安だった。
 姉ちゃんのようになるんじゃないかと頭がいっぱいだった。

 怖い。どうしたらいい、どうしたらいいんだ。

 できるだけ摩擦は起こさないにようしていた。
 そして文化祭前日、真中さんは姉ちゃんと全く同じことを言った。

 友達が、欲しかったのかもしれません――と。

 周りに影響されている真中さんが怖かった。
 だから、メイド服を盗んだ。
 誰よりも早く登校し、みんなで作り上げたものを奪った。

 これをきっかけに、真中さんが他人を疑うかもしれない。
 楽しかった、なんてことは言えないだろう。
 そうすれば、姉ちゃんと同じようにならないかもしれない。
 馬鹿げた話だとはわかっている。
 
 でも、どうしたらいいのかわからなかった。

 すべてを、真中さんに伝えた。


「隠すこともできたはずです。どうして、しなかったのですか」

 生徒会室で、僕は文化祭が終わるのを待っていた。
 でも、心の中で誰かに気づいてほしかったのかもしれない。

 こんなひどいことをして、何のためにだと怒鳴ってほしいと思っていたのかもしれない。

「最低なことをしているとわかっているからだよ。姉ちゃんと君は関係ない。なのに、こんなことを……」
「はい。私と凪さんは関係がありません」

 彼女の言う通りだ。
 僕は、なんでこんなことを。

「それに私は、凪さんが自ら命を絶ったとは思っていません」
「……どういう意味?」
「そんなことをする理由がないからです」
「そんなこと? なんで、そんな言い方をするの。姉ちゃんは死んだんだよ。僕のせいで!」
「違います。それは、ありえません」
「どうしてそんなことがわかるの」
「確かに相楽くんの言葉で凪さんは表情を取り繕うようになったかもしません。けれども私は、凪さんのことが誰よりもわかります。――私たちは感情がありません。他人への興味も薄いです。ですが、身近な人が苦しむことはしたくないです。凪さんは相楽くんのことが大切だったから、相楽くんの思いを受け入れ、行動していたのです」

 嘘だ。嘘だ。ありえない。
 そんなわけがない。姉ちゃんは、僕を恨んでいた。

 僕のせいで、苦しんでいた。

「――相楽!」

 扉が開き、入ってきたのは鬼怒川くんだった。
 メイド服を見つけて歩み寄り、僕の胸倉を掴む。

「どういうことだ。どうして、こんなことをした!」
「…………」
「答えろ――」
「鬼怒川くん、やめてください。すべては誤解です」
「誤解だと? 何がどうなったら、こんなことを――」
「私が、昨晩生徒会室で忘れていたのを、先ほど登校してきた相楽くんが思い出してくれました」
「……なんだそりゃ」

 鬼怒川くんは信じていない。けれども、真中さんは鬼怒川くんの右手を強く握っていた。
 やがて、力が緩む。

「……真中、どうするんだ」
「せっかく作っていただいたメイド服ですから、もちろん着させていただきます。まだ、二部には間に合いますから」
「……わかった」

 二人は出ていこうとした。しかし、真中さんが右手を伸ばしてくる。

「相楽くん、行きましょう。二部では、あなたも執事をしなければなりません」
「どうして、僕を誘うの」
「昨晩、みんなで文化祭を成功させようと約束しました。約束は、守らねばなりません。凪さんも、きっとそう思うはずです」
「……姉ちゃんが、そんなことを」
「思います。私を、信じてください」

 ……僕は、静かに右手を取った。
 立ち上がり、廊下を歩く。

「よくわからねえが、真中がいいっていうなら何も言わないでおく」

 鬼怒川くんがそう言った。
 ああ、君は本当にいい人だな。

 そしてクラスに戻ると、喜多さんと哀川さんが真中さんに駆け寄った。

「え、どこにあったの!? それに、相楽くん? 体調は大丈夫なの!?」
「私が、昨晩生徒会室で忘れていたのを、先ほど登校してきた相楽くんが思い出してくれました」
「そうだったの? 良かったああ」
 
 哀川さんが涙ぐみながら、真中さんを連れて行く。

「相楽」

 鬼怒川くんが、僕を呼んだ。

「着替えるぞ。二部は、俺たちが執事だ。文化祭を成功させる。そう、約束しただろ」

 ……そうだね。

「わかった。――ありがとう」

 そして真中さんは戻ってきた。
 とびきり綺麗だと思えた。
 姉ちゃんとは似ていない。真中さんは、真中さんだとわかった。


 文化祭が無事に終わり、片付けをしていた。
 すると、メッセージが届く。

 ――屋上に来てください。

 急いで上がると、真中さんが立っていた。
 柵の近くで。

 僕の心臓が強く鼓動する。

「やめろ。真中さん、やめろ、やめろ!」
「安心してください。何もしません」

 いったい、どういう――。

「凪さんが通っていた学校は古い校舎でした。柵が低く、乗り越えられます」

 真中さんは続ける。

「この下を眺めてください」

 僕は、近づいて眺めた。
 そこには外で出し物をしていた野球部員や、片付けを終えた生徒たちが笑顔で帰って行く姿があった。

「凪さんは、きっとこの光景をこの目に焼き付けたかったのだと思います。文化祭が、凄く凄く楽しかったんだと思います。なぜなら、私にもわかります。心臓が強く鼓動し、まだ興奮が冷めないんです。そして、凪さんはきっと、もっと良く見たかったんです。私たちには恐怖の概念がありません。だから、柵を乗り越えたのでしょう」
「……つまり、姉ちゃんは」
「事故だったのだと思います」

 そんな、いや違う。嘘だ。
 姉ちゃんは、僕の言葉で――。

 真中さんが、僕の頬に触れた。

「凪さんは、あなたのことが大切だと言っていました。あなたを残して命を絶つなんてありません。――相楽くん、あなたのせいではありません」

 僕はその場で項垂れた。
 涙が流れて止まらない。
 そうなのか。そうであってほしい。
 
 分からない。本当なのか。

 しかし真中さんは、ずっと僕に大丈夫だと言い続けてくれた。

 そして――。

「文化祭、とても楽しかったです。来年も、一緒に楽しみましょう」

 静かに、そう言ってくれた。