「哀川さん。僕と、付き合ってもらえませんか」

 高校一年生の夏、私は、同じクラスの男子生徒に告白された。
 席が隣ということで仲良くなり、毎日、メッセージや電話をしていた男の子。

 私は自然と惹かれていたけれど、彼も同じ気持ちだったんだ。

 今まで誰かとお付き合いしたことはない。だから、不安もある。
 でも、それ以上に嬉しかった。

 私を大切にしてくれると、約束してくれたから。

「こちらこそ、不束者ですがよろしくお願いします」
 
 緊張しすぎて、まるで結婚の挨拶みたいになってしまったのは、私の恥ずかしい思い出だ。
 それから私たちは、一緒に登下校をするようになった。
 お昼も一緒に食べて、休日もたくさん遊んだ。
 テスト勉強も一緒にした。幸せだった。

「別れよう」

 二年生に上がり、クラスが変わってしばらくしたころだった。

 始まりがあれば終わりがある。
 でも、それがこんなに突然訪れるとは思っていなかった。
 
 私たちの関係は良好だった。いや、少なくとも私はそう思っていたのに。

「つまんないんだよね。哀川との会話って。それに、重いし」

 思えば、メッセージの返信がこない日が続いていた。
 夜、電話をしなくなっていた。
 お昼も、一緒に食べなくなった。

 なぜ気づいていなかったのだろうか。いや、わかっていた。
 ただ、変わっていく関係を見ないようにしていた。
 そのうちまた、前のように戻れると信じて。

 でも、別れを告げられた今、駄々をこねても仕方ない。
 相手が私のことを好きではなくなったのだから、それは受け入れなければならない。

 本当は泣いてすがって別れたくないと叫びたい。でもそんなことをしたら余計に嫌われてしまう。最後くらい、物分かりの良い、重くない私でいたい。
 
 私は涙を押し殺し、「今までありがとう」と自分でも褒めたいくらい声をひねり出した。

 私はただ、彼のことが純粋に好きだった。

 何か強制をしたこともなければ、過度な束縛をしたこともない。
 なのにそれが、相手から重いと思われていたなんて。

 ただ好きなことが、それが、なんでダメなのか。

 何より辛かったのは、もうすぐ始まる文化祭だ。

 ――クラスは離れちゃったけど、今年も文化祭一緒に回ろう。

 約束は、果たされない。

「あら、何してるの? 学校は?」

 翌朝、部屋の外から母が声をかけてくる。

「……お腹痛いの」

 嘘じゃない。本当に痛かった。
 心が苦しい。考えるだけで吐き気がする。
 私の心が弱いのはわかっている。
 でも、どうしようもなかった。

 ――『哀川さんが、クジ引きで文化祭の実行委員に選ばれました』

 そんなメッセージが届いたときは、スマホを思い切り投げつけた。
 幸い壊れなかったけれど、その日は、布団にくるまって涙が枯れるまで泣いた。

 いっそのこと、このまま学校を辞めてしまおうかな。
 そんなバカな考えをしていたある日、インターホンが鳴った。

 父と母は仕事で、家には私しかいない。
 居留守をしてもいいけれど、もし何か重要な荷物とかだったら……。
 
 そう思い、インターフォンに出た。

「哀川さんのお宅ですか? クラスメイトの真中です。文化祭の予定表を届けにきました。渡しておいてもらえないでしょうか」

 一瞬、誰かわからなかった。
 でも、すぐに思い出す。

 ――感情を失った子がいる。

 一年生の頃、噂になっていた子だ。
 同じクラスになってもまだ話したことはなかった。
 大人しい子だなという印象で、特に気にも留めていなかった。

 ……でも、わざわざ持ってこなくても。

「ポストに入れておいてもらえますか?」
「わかりました」

 先生が言ったのかな? いや、今時そんなことをしない気がする。
 真中さんが帰ったころを見計らってポストへ行くと、本当に予定表が入っていた。
 私たちのクラスはメイド喫茶をする。
 前にグループチャットに呼ばれていた。メイド喫茶へ行くと書いていたけれど、そのまま決まったんだ。

「…………」

 でも、私は予定表を眺めながらふたたび涙を流した。
 ようやく落ち着いていたのに。

 
 しかしその数日後、真中さんは、またやってきた。

「はい、何ですか」
「文化祭の予定表の変更がありましたので、新しく持ってきました」
「……そうですか。ポストに入れておいてください」

 どうやら、私とは気づいていないみたいだ。
 ポストへ行くと、衣装を手作りすることになったと書いていた。
 どうでもいい。
 でも、なぜわざわざ予定表のためだけに来るのだろうか。

 それだけが、頭に残った。

 三度目、真中さんはふたたびやってきた。

 私は、ほんの少しの苛立ちと疑問を解消すべく、ドアを開けた。

「はい」
「こんにちは。哀川さんですね。お久しぶりです。体調は大丈夫ですか?」

 話した記憶はない。けれども、彼女にとってはお久しぶりなのか。

「大丈夫だよ。今日も予定表?」
「違います。みんな、哀川さんを心配しています。だから、様子を見に来ました」
「……みんなって?」
「クラスメイトのみんなです。特に喜多さんが心配していました。グループチャットに入れて、プレッシャーをかけてしまっていないかと」

 毎日、グループチャットは動いていた。私は参加していないけれど、追放するのも申し訳なかったのだろう。
 気を……遣わせたのかな。

「大丈夫だよ。ありがとう、真中さん」
「わかりました。それでは失礼します」

 真中さんは、驚くほどあっさりと振り返って去って行った。
 もう少し色々と聞かれると思っていた。
 というか、私はすっかり忘れていた。ドアを開けて、なにがしたいのかと文句を言うとお思っていた事や、どうしてきたのかと尋ねることも。
 何だかどうでもよくなってきて、久しぶりにスマホを開いた。
 友達からのメッセージを見ながら、グループチャットを覗いてみると、驚いた。

 あの、鬼怒川くんが意見を出しているのだ。

 それも、しっかりと予算のことを考えたりしている。

 ……どうしたんだろう。

 でも、ふと真中さんのことが思い浮かんだ。

 もしかして、私みたいな感じで家に行って何か言ったとか……?
 いや、さすがにそれはないよね。

 でもグループチャットを眺めていると、何かしなきゃ、という気持ちになってきていた。
 くよくよしても仕方ない。
 文化祭、前向きに頑張ろう。

 それに、理由はわからないけれど、わざわざ真中さんも家に来てくれた。
 みんなも心配してくれているし、期待に応えなきゃ。

「あ、哀川さんだ!」

 私が戻ると、教室でワッと声が上がった。
 みんなが心配していたと声をかけてくれる。嬉しかった。何でもっと早く立ち直れなかったのか。
 幸い、元彼は別のクラスだし、会おうとしなければ、顔を合わせることもない。

 メイド喫茶の準備は滞りなく進んでいて、衣装もいくつか見せてもらった。
 どれも可愛くて、本当に素敵だった。

「無理しないでね」
「ありがとう、相楽くん」

 喜多さんに、ずっとメッセージを返せなくてごめんねと謝った。
 笑顔で、大丈夫だよと言ってくれた。

 鬼怒川くんが率先して手伝ってるのを見て驚いていたら、相楽くんが耳打ちで教えてくれた。

「驚いただろう」
「うん、驚いた」
「最近、真中さんと仲がいいみたいだね。何か心境の変化があったらしいよ」

 そうなんだ。二人ってもしかして……いや、そんなこと考えちゃだめだ。
 今は、クラスの文化祭のことだけを考えよう。

 そう思い、私は遅れた分を頑張ろうとしていた。

 けれど……廊下に出ると、元彼が女子生徒と親しそうに話していた。
 私と付き合い始めた頃のような表情を、彼女に向けている。

 急いで教室の扉の後ろに隠れる。そっと廊下の様子を窺っていると、とんでもない話をしている声を聞いてしまった。

「哀川さん、めちゃくちゃ可哀想だよねー」
「ほんと最悪だよね」
「にしても、二股からの乗り換えって、かわいそすぎる」

 何と元彼は、私と付き合いながら、新しい彼女を作っていたのだ。
 信じられない。流石に嘘であってほしいと思うけれど、目の前の二人に、それが嘘ではないことを突き付けられる。

 抑え込んでいた気持ちが溢れて止まらなくなる。
 なんで、どうして。

 どうしたらいいのかわからない。
 私は、校舎裏に逃げ込んで、ただひたすらに泣いた。

 いつからあの子と関係を持っていたの?
 もうずっと、私のことは好きじゃなかった?
 今までのことはすべて嘘だったのだろうか。
 何もかも、あの楽しい日々は。

 そして彼は、私と違う女の子と文化祭を回る。

 つらい、悲しい、哀しい……

「……うぅ」

 声が抑えきれない。
 どうしたらいいの。誰か、助けて――。

「大丈夫ですか」

 そんなとき、真中さんが現れた。

 彼女は、ポケットからハンカチを取り出して、手渡してくれる。
 いつからいたんだろう。というか、見られていたんだ……。
 途端に恥ずかしくなる。放っておいてほしい。

「気にしないで」
「でも、泣いています。辛いのではないですか。どこか痛むのですか?」

 彼女が悪くないのはわかっているけれど、今は何も話したくない。

「いいから、放っておいて……」
「わかりました」

 すると真中さんは、驚くほどあっさり去っていく。
 涙で滲んだ視界で背中を見送り、私は自己嫌悪に陥った。

 だからフラれたのだろう。私は、自分のことしか考えていないんだ。

 ……でも、なんでここがわかったのかな。


 落ち着いてから教室へ戻る。
 真中さんは平然と作業をしていた。私のことは誰にも話していないのかな。
 でも周りを見渡し、不安になってくる。
 私が二股をかけられていたことを、みんな知っているのだろうか。
 休んでいた理由がバレていたかもと思うと恥ずかしい。

 作業をしながら、私の頭はずっとぐるぐる回っていた。

 帰宅時間となって、私は真中さんに謝ろうと決意した。
 心配してくれたというのに、流石にあの態度は失礼だった。

 けれども、鬼怒川くんが真中さんに話しかける姿を見て思いとどまった。

 もしかして、二人はそういう関係なのだろうか。
 そう思うと、また心に黒いモヤがかかっていく。
 こんな失礼なことを考えるなんて……最低だ。

「哀川さん」

 そこに相楽くんが声をかけてきた。
 相変わらず爽やかな笑顔をしている。そういえば、彼はモテるのに彼女がいたとかは聞いたことがない。

 また、変なことを……。どうして私はそんなことばかり考えてしまうんだろう。自分が嫌になる。

「どうしたの?」
「実行委員といっても、時間も余裕もあるから無理しないで。早退するなら、いつでも僕に言ってくれたらいいから」

 優しい。でも、その優しさが心にズキンと響く。
 私は、目線を落として「ありがとう」と言って逃げるように教室を後にした。

 いつもの帰り道が寂しい。
 前は、彼と一緒に今日の出来事を話しながら帰っていたのに。

 思い出はいつか美化されるというけれど、この気持ちも、いつか笑い話になるのかな。

「……真中さん?」
 
 すると駅で、真中さんを見つけた。
 改札前で何か困っているようだった。
 駅員さんと話している。

 なんだろう。

 聞き耳を立てながら、隣で改札を通ろうとする。

「現金も持ってないの?」
「はい」

 ……どうやら、お金が足りなくて改札を通れなかったみたいだ。
 自然と、足が止まった。

「真中さん」
「哀川さん、どうしたのですか」
「良かったら、お金貸すよ。家に帰るの?」

 駅員さんは「良かった。それじゃあ」といって、忙しそうに去っていく。

「いえ、病院へ行きます」
「え? 何か、悪いの?」
「定期健診です。いつもピッタリ入れていたので、忘れていました」

 定期健診? という疑問が浮かんで、すぐに病気のことだと理解した。
 ずっと通っているんだ。
 そういえば、私の駅はここから五駅ほどある。もしかして……。

「真中さん、私の家に来てくれていたから、足りなくなっちゃったの?」
「はい」

 やっぱりだ。普通なら遠慮がちに答えることかもしれないけれど、真中さんは正直に答えてくれた。
 申し訳なくなって、すぐに財布から千円を取り出した。

「これで足りるかな? 学校で返してくれたらいいから」
「お金の貸し借りはできません。歩いて行きます」
「歩いて? どれくらいかかるの?」
「歩いて病院まで行ったことはないのではっきりとはわかりませんが、一時間ほどだと思います」
「一時間?! 病院の時間は大丈夫なの?」
「間に合いませんが、問題ないです」
「……私のせいでもあるから、受け取ってほしいな」

 半ば強引に手渡す。真中さんの表情は変わらないけれど、納得はいってなさそうだ。

「ありがとうございます。病院に母がいるので、お金を受け取ったらすぐに返しにいきます」
「え、いや、学校でいいよ」
「それはダメです」

 結構頑固なんだな、と思いながら、何となく病院の場所を聞いたら、家の近くだった。

「だったら、一緒に病院までついていくよ。そこで返してくれたらいいから」
「ありがとうございます」

 ようやく納得してくれたみたいで、私も一安心した。
 一緒に改札に入り、電車に乗る。
 
 二人で電車に揺られている間、沈黙は続いたけれど、さっきまで感じていた寂しさはどこかに消えていた。
 真中さんは不思議な人だ。口数は少ないけれど、存在感が凄くある。
 それに、何だか安心する。

 ……ああそうだ。わかった。
 真中さんは、きっと人をバカにするような人じゃない。噂なんか気にするような人じゃないと思うからだ。

 そっと、真中さんの横顔を眺める。

 スマホをいじったりもしないし、どこを見ているのかわからない目線だ。
 感情がわからないというのは、どういう感じなんだろう。
 人を好きになるということもなければ、嫌いになることもない。
 今の私のような感情を抱くこともない。

 ……それって、どうなんだろう。

 少なくとも、私は幸せを感じていた。それすらも感じられないのだろうか。

 スマホで、真中さんの病気のことを調べてみる。

 ――情感欠損症候群(じょうかんけっそんしょうこうぐん)
 喜怒哀楽などの基礎的な情動反応が、順を追って失われていく進行性の脳機能障害。

 ……辛そうだな。

 駅に到着し、病院へ向かっていく。
 私は一度も行ったことのない、大きい病院だ。

「真中さん、定期健診ってことは、毎週来てるの? 毎月?」
「毎月です」
「その……失礼かもしれないけど、情感欠損症候群(じょうかんけっそんしょうこうぐん)のこと、だよね?」
「はい」

 やっぱりそうなんだ。
 病気のことを聞いても真中さんの表情は一切変わらない。
 やっぱり、何も感じていないのだろう。

 病院に到着した。
 自動受付機に診察券を通し、すぐにエレベーターに乗る。

「慣れてるね」
「はい。いつも来ているので」

 というか、ここまでついてくる必要はなかったのかも。
 下で待っていればいいのに、何となく来てしまった。

 三階で降りると、小児科の案内所がある。
 ついていくと、年配の看護師さんが近づいてきた。

「今日は遅かったわね。美空ちゃん」
「申し訳ございません。お金を入れ忘れて、クラスメイトに立て替えてもらっていました」
「クラスメイト? え、美空ちゃんのお友達!?」

 驚いた様子で声をあげ、私のことを見た。
 温和そうで明るそうな人だ。「は、はい」と声を上げ、真中さんは美空って名前だったんだと知って、申し訳なくなった。

「お友達ではありません。クラスメイトです」
「あら、ここまで来てくれてるのだから、心配してくれたのよ。それって友達じゃない」

 真中さんの突然の言葉に驚きつつ、心配だったのは事実だった。

「母はいますか」
「遅れるって連絡があったわよ? メッセージ、来てるんじゃない?」

 真中さんはスマホをチェックし、私に顔を向けた。

「申し訳ありません。あと三十分ほどかかるそうです。自宅まで持っていきます」
「え、いや、いいよ!? じゃあ、ここで待っておくよ!」
「それは――」
「お友達がそう言ってくれてるのだから、甘えてもいいんじゃない」

 看護師さんがそう言って、真中さんは、「わかりました」と言った。
 定期健診にそう時間はかからないらしく、私は真中さんを待つことになった。

 別の扉から小さな子供の泣き声が聞こえてくる。
 小児科なんて久しぶりだな。高校生になってからは親と同じ病院に行くようになった。
 
 そんなことを考えていると、看護師さんが声を掛けてきてくれた。

「ここまで来てくれてありがとうね」
「いえ、ええと、その……真中さんにはお世話になったので」
「お世話?」

 しばらく学校を休んでいたとき、真中さんが家まで来てくれていたことを告げた。
 すると看護師さんは凄く嬉しそうだった。

「そうなのね。美空ちゃんはいい子だから、仲良くしてあげてね」
「……はい、もちろんです」

 それは何となく感じていた。放課後、私にハンカチを手渡してくれたときから。
 それを、無下にしてしまったけれど。

「あの、聞いてもいいですか?」
「うん、なあに?」
「真中さんの病気は、子供の病気なんですか?」
「そういうわけではないんだけど、美空ちゃんは十年以上前に発症したからそのまま小児科で診察してるのよ。成人すれば他の科に引き継いで、小児科は卒業になるわね」
「十年以上……」

 そんなにずっと病院に通っていたんだ。そしてこれからも……。
 私なんかよりも何倍も大変だったのに、家まで来てくれてたことがさらに申し訳なくなる。

「あの、実は私、真中さんのことよく知らないんです。だから、友達と言っていいのかわからなくて」

 なんでこんなことを言ったのか自分でもよくわからなかった。
 でも多分、嘘をついているような気がしたからだ。

「ただ、私が辛かったときに真中さんが寄り添ってくれて、それで……私も何かしたかったんです」

 続けて伝えて、なんか言葉選びが下手だなと思った。

「そうなのね。美空ちゃんはね、まっすぐでいい子なのよ。頭もいいから、気持ちは伝わってると思うわ」
「……だったら、嬉しいです」

 それから看護師さんは仕事に戻っていった。
 待合で待っていると、真中さんが診察室から出てくる。

「お待たせいたしました」
「真中さん」
「母は、あと十五分ほどで来られるみたいです。申し訳ございません」
「ありがとう。ねえ、ちょっとだけ話さない?」

 邪魔になるといけないので、隅っ子のベンチまで移動した。
 そして、話しを切り出す。

「学校ではごめんね。優しくしてくれたのに冷たいことを言ってしまって……」

 すると真中さんは、驚くほど表情を変えずに私を見ていた。

「なんのことでしょうか」
「え? あの、校舎裏で……泣いているとき……」
「あのときですか。気にしないでください。私が勝手にしたことです」

 謙遜でもなく、本当にそう思っているみたいだった。
 ちゃんと、謝ることができて良かった。

「ありがとうね。そういえば、どうして私がそこにいるとわかったの?」
「鬼怒川くんが、哀川さんが泣いているので、様子を見てあげてくれ、と言ったからです」
「え?」

 その言葉に、思わず固まる。

「え、鬼怒川くんが!?」
「はい」

 声をあげ、病院であることに気づいてハッと口を押える。
 いつから見られていたんだろう。それに、何で真中さんに!?

 ……というか、鬼怒川くんは優しいんだな。
 わざわざ真中さんに伝えたのは、同性のほうがいいと思ったからだろう。

「真中さんって、鬼怒川くんと仲いいの?」
「どうでしょうか。文化祭実行委員になってよく話すようになりました」

 ……よく話すように。

「何かきっかけとかあったの?」
「放課後、一緒に看板にペンキを塗りました。それから会話が増えたかもしれません」
「ふたりで? 鬼怒川くんと? ペンキを?」
「はい」

 驚いた。
 何をするのも嫌がる鬼怒川くんが、文化祭実行委員を真面目にしていたことが不思議だったけれど、ペンキだなんて。
 ……え、それって。

「そのあと、二人で帰ったの?」
「はい。家の近くまで送ってくれました」

 あの鬼怒川くんが家まで……もう好きじゃん。
 そうなんだ。そうだったんだ。

 そう考えると、今までのことの辻褄が合う。
 文化祭の実行委員として頑張るのも、そのためなんだ。

 ……だったら、私もふてくされないで頑張らないといけないな。

 文化祭が成功すれば、きっと鬼怒川くんと真中さんの距離は近づくだろう。

 私はできなかったけれど、この恋、応援してあげたい。

 でも、大事なことがある。

「真中さんは、鬼怒川くんのことどう思ってるの?」

 一方通行ではいけない。

「友達です」

 そうか、私はバカだ。
 真中さんは、恋愛感情がわからないというのに。

「文化祭を通じて多くの人と話せるようになりました。喜多さん、鬼怒川くん、哀川さんともです。だから、このまま続けばいいと思っています」

 なんて嬉しいことを言ってくれるんだろう。
 真中さんと話していると、頑張ろうって気持ちになってくる。

「――美空、お金借りたってどういうこと!?」

 そこに慌てた様子でやってきたのは、おそらく真中さんのお母さんだ。
 綺麗な人だな。

「クラスメイトの哀川さん。交通費の計算が間違ってたところを、付き添ってくれたの」
「それはメッセージで見たわよ。――ありがとうね。ごめんね、病院まできてくれて」
「いえ!? こちらこそ、真中さんにお礼をしたかったので」
「……お礼?」
「あ、いや、ええと、私、ずっと学校を休んでて、真中さんが家に来てくれていたんです」

 説明不足な気もするけれど、真中さんのお母さんはすぐにわかってくれた。

「そうだったのね。でも、ありがとうね」
「いえ」
「美空、ちゃんとお礼は言ったの?」
「言ったよ」

 口には出せないけれど、真中さんと違って感情が豊かなお母さんだ。
 千円を受け取って、私は先に帰ると伝える。

「真中さん」
「はい」
「文化祭の実行委員、一緒に頑張ろうね」
「はい」

 今日、ここへきて良かった。
 真中さんと話せて良かった。

 私の文化祭は、良い思い出にはならないかもしれない。

 でも、真中さんにとっては、思い出深い文化祭になるようにしてあげたくなった。

    ◇

 文化祭の準備は、昼休み、放課後で行う。
 今は衣装作りがメインとなっていて、みんな個性を出そうと楽しんでいた。
 自業自得だけれど、私がいない間に決まっていた事柄が多くて、仲間外れのような気分を感じていた。
 でも、今は新しい目標のために頑張ろうと思っている。

「真中、これでいいと思うか?」
「私はいいと思います。鬼怒川くん」

 それは、二人の仲を応援することだ。
 恋仲にしようというわけではないけれど、二人の関係がもっと深いものになってくれたらいいなと思う。

 具体的に何かするわけじゃない。
 ただ、文化祭実行委員として仕事を全うしようと思っている。
 みんなが、幸せになってほしい。

 どちらかというと自分のためなのかな。
 今は、自分のことを考えたくない。
 だから誰かのためになることをしようとしてるのかもしれない。

「哀川さん、体調は大丈夫? 無理しないでね?」

 喜多さんは、委員長として私に何度も声を掛けてきてくれた。
 前から優しい人だと感じていたけれど、やっぱりそうだな。

「ありがとう。喜多さん、メイド喫茶体験、行けなくてごめんね」
「気にしないで。突然誘ったわけだし。でも、楽しかったよ」
「確か、真中さんと二人きりだったんだよね?」
「そうだよ。相楽くんは用事でこれなくて。鬼怒川くんは、行かねえって感じだったから」

 明るく、笑いながら言った。
 私は、ちょっとだけ深く切り込む。

「鬼怒川くんが文化祭を積極的に手伝ってて驚いたけど、何かあったの? ちょっと不躾な聞き方だけど……」

 んー、と喜多さんが考え込んでから、私に耳打ちした。

「多分、真中さんのおかげじゃないかなあ」
「え、やっぱり!?」

 思わず声を上げてしまって、ハッとなる。

「……やっぱりって?」
「あ、いや、真中さんって不思議な魅力があるから。その……わかるかな?」

 すると喜多さんは、なぜか私の両手を掴んだ。

「え、ど、どうしたの?」
「わかる。真中さんって大人しいし、口数も少ないけど、凄く優しいよね」

 うんうん、と頷きながら、喜多さんは感動していた。
 もしかして、私の知らないところで喜多さんにも優しくしていたのかな。
 真中さんのことを、より応援したくなった。

 それから私は、真中さんを観察するようになった。
 朝は誰よりも早く登校していることを知った。

 一度時間を合わせてみたら、お花に水やりをしているのがわかった。

 お昼は、お弁当を食べている。
 おそらくお母さんの手作り。
 前は一人で食べていることが多かった気がするけれど、最近は喜多さんと一緒みたい。

 私も、混ぜてもらった。

「真中さんって、好きな食べ物とかあるの?」
「考えたことないです。ただ辛い物は苦手です。辛いですから」

 当然のような答えに喜多さんが笑って、私も釣られて笑った。
 喜多さんはいつも明るい。真中さんは、「面白かったみたいで良かったです」と言った。

「そういえば私たちはメイド服着るの?」

 私の疑問に、喜多さんはハッとなる。
 え、考えてなかったの!?

「他の作業することが増えて忘れてた。ただ、今からじゃ間に合わないから、厳しいかなあ」

 喜多さんの言う通り、メイド服作りは今や人気の作業だ。
 みんなそっちに注力しているので、実行委員の私たちは看板作りやメニュー表を作っている。

「そっかあ。でも、協力してやれば、一着ぐらいはメイド服用意できそうじゃない?」
「あー、そうかも。でも、誰が着るの?」

 私は、静かに真中さんを見つめた。喜多さんが視線に気づき、声を上げる。

「真中さんに?」
「きっと似合うと思うんだよね。綺麗な黒髪だし、サラサラだし」

 あーでも、真中さん嫌がるかも。
 だって恥ずかしいよね、と思っていたら意外な答えが返ってきた。

「別に構いませんが」
「え、いいの!?」

 私より先に、喜多さんが声を上げる。

「はい」
「実は真中さんのメイド服姿見たかったんだよね」
「そうですか」
「私もきっと似合うと思う」

 喜多さんと意気投合して、一緒に作り始めようと話し合った。

 放課後、鬼怒川くんにそのことを伝えたら――。

「そうか」

 と、あっさりだった。もしかして勘違いだったのかもしれない。
 そう思っていたら――。

「鬼怒川くん、どっちの色がいいと思いますか」

 髪飾りの色を、真中さんが尋ねていた。
 さすがに何も言ってくれなさそうかなと思ったけれど、

「黒より白だろ」

 意外にもハッキリとしていて、男らしかった。

 みんなが楽しんでいる姿を見ていて、私も楽しくなってきた。
 ようやく乗り越えられたのかな。

 そう思っていたとき、偶然、廊下で元彼を見つけた。

 私のことには気づいていない。
 二クラス離れているということもあって、あれから見ることはなかった。
 久しぶりだ。当たり前だけれど、何も変わっていない。
 
「ねえ、お化け屋敷、どうするのー」

 そこに女子生徒が現れる。今の彼女だ。
 必要以上に触れ合う姿を見て、忘れかけていた気持ちが再び湧き上がってくる。

 目線をそらすようにして移動していたら、声が聞こえてきた。

「あ、元カノじゃない?」

 わざと私に聞こえるように、彼女が言ったのだ。
 悔しくて悲しくて、私は泣きながら走った。

 私は、まったく乗り越えられていなかった。
 ただ現実を見ないようにしていた。自分の弱さに蓋をして、現実逃避していたのだ。

 当てもなく歩き回り、備品室へたどり着く。
 ここならだれも来ないだろう。
 隅っこでうずくまり、ただひたすら泣いた。

「また、泣いているのですか」

 するとそこに、真中さんが現れた。
 まるで私が苦しんでいることがわかっていたかのように。

「……なんで、ここにいるの。また、誰かが行けって?」
「廊下で偶然、哀川さんを見つけました。突然走っていったので、追いかけてきたんです。どうしたのですか」

 放っておいて、と言いかける。
 だって、真中さんにわかるわけがない。私の気持ちなんて。

「好きだった人がいたの。でも、フラれたの。だから泣いてたの。もう好きな子がいるんだって。彼女がいるんだって。私って、バカだよね」

 ひどい言葉だ。こんなこと、真中さんに言っても困らせるだけなのに。
 でも、抑えきれなかった。

「ごめんなさい。私にはわかりません」
「………」

 彼女が言っていることは当たり前だ。感情がないのだから。
 それをわかっていて、自分の感情を剝き出しにして、謝らせてしまう私は、最低だ。

「でも、哀川さんが悲しむのはだめです」
「だめ? 何がだめなの」
「哀川さんは凄く優しい人だからです。私は、多くの人に何を考えているのかわからないと言われ、距離を置かれてきました。でも、哀川さんはそんな私に優しくしてくれました。病院まで付き添ってくれた人は初めてです。だから、そんな優しい哀川さんが悲しんでいるのは、だめです」

 そういうと、真中さんはしゃがみ込んで、私を抱きしめてくれた。

「私には感情がありません。でも、こうすると落ち着くことは知っています。母が、よくしてくれるんです」

 真中さんは本当に素敵な人だ。
 どんな困難にも前向きに生きていて、人の気持ちを一生懸命に考えてくれている。

 私は弱い。でも、強くなろう。
 真中さんに心配をかけたくない。

「ありがとう、真中さん。私、もう泣かないようにする」
「良かったです」

 真中さんと外に出ると、困惑している二人がいた。

 慌てている喜多さんと、気まずそうにしている鬼怒川くんだ。
 バレてしまった、という雰囲気が出ている。

「心配かけてごめんなさい。もう、大丈夫だよ」

 泣きながら笑うと、また心配されてしまった。
 
 教室へ戻る途中、また元彼と彼女を見つけた。
 でも、不思議とさっきまでの悲しさは湧いてこなかった。

 私はようやく乗り越えられたのだ。でも、自分の一人の力ではない。
 真中さんのおかげだ。

「真中さん、好きな人できたら私に教えてね」
「はい。約束はできませんが」
「そのときは、私が相談に乗るから」
「ありがとうございます」
「え、何の話? 真中さん、好きな人がいるの!?」

 喜多さんの言葉に、鬼怒川くんがちょっと気にしていた。
 ふふふ、やっぱりそうなんだ。

「あ」

 すると真中さんは思い出したかのように廊下で止まった。

「好きな人、いたかもしれません」

 え、

 えええ!?