「鬼怒川くんが文化祭実行委員として選ばれました」

 俺は文化祭が嫌いだ。
 誰かと何かを成し遂げようとするなんて無駄でしかない。
 人は簡単に裏切る。口では良いようにいっても、都合が悪ければすぐ離れていく。
 一人は楽だ。誰かに気を遣うこともないし、行動が制限されることもない。
 俺が実行委員? やるわけがない。

 だが最悪だ。出席日数が足りなかった。

 実行委員として仕事をすれば何とかしてやると言われた。嘘か本当かはわからない。
 でも退学だけはできるだけ避けたかった。
 理由は単純で、高校を卒業したら働くつもりだからだ。
 
 委員長は喜多だ。いつも明るい。俺とは真逆みたいなやつ。
 後は、いつもヘラヘラしてる相楽に、俺と同じで勝手にクジで決められてしまった哀川。

 んで、真中だ。

「これからよろしくお願いします」

 一年のころ、話題になっていた。
 感情がない病気にかかっている女子生徒がいる、と。
 初めのころは真中を見るために廊下に人だかりができていた。
 興味本位で質問ばかりぶつけ、それを真中が答えていく。

 全員、ぶっ飛ばしてやろうかと何度も考えた。

 真中に同情してるわけじゃない。ただ、遊び半分で群れる奴らが嫌いなだけだ。
 ただ、真中の答えがつまらなかったのか、次第にあいつに話しかける奴はいなくなった。

 感情がないってのはどんな感じなんだろうか。
 喜ぶことも、怒ることも、悲しむことも、笑うこともない。

 もしかして楽かもな。
 きっと、誰かに、何かに心を惑わされることもない。

 こんなことを考える俺は、誰よりもクソ野郎だ。

「鬼怒川くん、いいですか」
「――あ?」

 先週、喜多とメイド喫茶に行ったらしい真中が、突然、俺に話しかけてきた。
 昼休みの校舎の裏。なんでこいつは、俺がここにいると知ってるんだ。
 
 俺は文化祭実行委員に選ばれた。でも、何もしていなかった。
 誰かに言われてきたんだろう。あいつに、仕事をさせろと。
 真中なら何を頼まれても嫌がらねえもんな。

「メイド喫茶には色々な装飾がありました。メイドさんは生き生きと働いていて、明るい人ばかりでした」
「……は?」

 すると突然、そんなことを言いやがった。
 ただ言い切るだけで、何かを答えてほしい素振りもない。
 沈黙が続き、俺のほうから声をかけてしまう。

「何の話だよ」
「事実を伝えただけです。失礼します」

 マジでそれだけを伝えにきたらしく、振り返り、スタスタと帰っていく。
 ……何なんだよ。

「今日は装飾を作りました。喜多さんはメイド服をどこで買うのか悩んでいるみたいです」

 だが翌日、真中はまた現れた。
 同じように事実だけを述べて、スタスタと帰っていく。
 それ以上はない。俺に何かを求めることもなかった。

「明日は予定表を配ります。効率よく仕事をすれば、その分、良いメイド喫茶が作れるからです。それでは、失礼します」
「待て」

 俺は、真中を呼び止めた。
 ただ茫然と見つめてくる。
 自慢じゃないが、俺は怖いと言われることが多い。なのにこの目には何もない。
 あるのはただ、俺を見ている、という事実だけだ。

「何がしたいんだ?」
「伝えているだけです。文化祭実行委員は、お互い情報を共有することが重要だそうです。鬼怒川くんは教室にいないことが多いので、ここへ来ています」

 そういうことかよ。てか、それならそれで早く言えよ。

「誰に言われたんだ? どうせ、伝えてこいってパシられたんだろ?」
「そのような事実はありません」
「……俺に言っても意味がねえことわかんねえのか?」
「どうしてですか? クジ引きで、文化祭実行委員に選ばれました。あなたには、その義務があります」

 義務、その言葉にムっとして立ち上がる。
 真中に歩み寄ると、上から見下ろした。

「俺はやりたくない。なのに義務だと? そんなの知らねえよ。そもそも、俺は群れるのが嫌いなんだ。いちいち指図するな」
「わかりました」

 真中は、俺の威圧なんて意にも介さず、スタスタと帰っていく。
 怒り狂いそうになったものの、毒気を抜かれたかのように呆れた。

 なんだよあいつ。何がしたいんだ。

 その日を境に真中が俺の元へ来ることはなくなった。

 数日が経過し、放課後、誰よりも早く帰ろうとしていたら、愚痴をこぼしている奴がいた。

「喜多さん、頑張ろうとしてるのはわかるんだけど、メイド服早く決めてほしいよね」
「わかる。真中さんは何も言ってくれないのかな」

 ここ数日、あの二人はグループチャットで夜遅くまで話し合っている。
 俺は会話に参加したことはないから強く言える立場ではない。
 だが、陰口を叩く奴らは嫌いだ。

「だったら本人に言えよ」

 俺がそう言うと、空気が変わった。
 やっぱり、俺は群れるのが嫌いだ。

 そんなある日、真中がまた俺の元へやってきた。

「鬼怒川くんに聞きたいことがあります」
「……なんだよ」
「身長を教えてくれますか。あなたは背が高いので、燕尾服のサイズが合わない可能性があります」

 女はメイド服、男は燕尾服だと決まった。

「180だ」
「ありがとうございます」

 こいつ、俺がそんなもの着ると思ってんのか?
 
「真中」
「はい」
「お前、なんで文化祭に立候補したんだ?」
 
 俺は、ずっと気になっていたことを尋ねた。
 感情がないなら俺と変わらないはずだ。なのに、なんでこんな積極的なんだ?

「わかりません。ただ、気づけば手を挙げていました」
「……嘘だろ?」
「本当です」

 その答えに、俺は唖然とした。
 こいつは本当に何もわからないのか?

 いや、違うな。

「嘘だな」
「嘘はついていません」
「お前は自分を変えたかったんだよ。だから、立候補したんだ」

 なぜなら真中は俺と似ているからだ。
 他人に興味がなく、かといって自分を必要以上に大事にもしない。

「……そうなのでしょうか」
「多分な」
「でしたら、鬼怒川くんも自分を変えてみてはどうでしょうか」
「はあ? なんだよそれ」
「いつもここにいます。自分を変えることは、新たな発見があります。私も今、発見している最中です」

 そう言うと、またスタスタと帰っていく。
 本当によくわからない奴だ。

 でも、俺は気づけば真中と話すことが嫌じゃなくなっていた。
 ここでボーッとしていると、あいつが突然やってきて、今日の出来事を話す。
 それを、ちょっと待っていた自分もいた。

 ま、そうだな。

 あいつの言う発見はどうでもいい。

 でも、出席日数のために動いてる素振りぐらいはしておいてもいいか。

   ◇

 メイド服を手作りするらしい。

 元々は既製品を買う予定だったが、喜多がいつまで経っても決められなかった。
 クラスの空気も悪くなっていたし、このままじゃ誰かが文句を言うだろうと思っていた。
 けど、何もしない奴らが文句を言うのは気に食わない。

 喜多は一生懸命にやっている。なんでお前らは、それがわかんねえんだよ。

 でも、俺も何も言わなかった。
 一言二言、喜多と話しをしただけだ。

 気付いている分、クラスの連中よりも性質が悪いともいえる。
 所詮、自分の都合でしか動いていないからだ。

 だが喜多は英断した。おかげでクラスの雰囲気がガラリと変わった。
 今はどんな服にしようかという話で持ち切りだ。

 おそらくだが、真中も関係しているんじゃないかなと思っている。

 感情がないからか知らねえが、やけに確信をついてきやがる。

 俺は周りから嫌われている。別にそれはいい。だからどうしたって感じだ。
 普段から遅刻はするし、授業態度だって悪い。
 でもそんな俺に対しても、あいつは変わらずに接してくる。

 おそらく、喜多にもはっきり何か言ったんだろうな。

「鬼怒川くん、こちらを備品倉庫から取ってきてもらえるでしょうか」

「鬼怒川くん、この用具はもう必要ないそうです」

「鬼怒川くん、カーテンレールの上のピンを取ってもらえませんか」

 いや……変わらないどころが、やけに声をかけてくる。
 こいつ、なんで俺ばっかりに頼みやがるんだ。

「真中」
「なんでしょうか」

 周りが作業している中、俺は真中に声をかけた。
 あいかわらず表情が変わらない。

「なんで俺にばっか頼むんだよ。その辺に暇してるやつもいるだろうが」

 別に怒ってるわけじゃない。純粋な疑問だ。
 けど、言い方が悪いのか、声がデカいのか、周りがざわつく。
 
 ……めんどくせえな。

「大きな人は力もあるからです。鬼怒川くんは身長が高いので、高い所に手が届くと思いました。ご負担になっているのであれば、今後、気を付けます」
「……別にいいけど」
「わかりました」

 まったく、と思いながら廊下の外に出て備品を取りに行こうとすると、声が聞こえてきた。

「真中さん凄いね。鬼怒川くんのこと、怖くないの?」
「どうしてですか」
「大きいし、何よりほら、凄むじゃん?」

 あいつら、俺が消えた途端にこれか。

「鬼怒川くんはいつも優しいです」

 すると真中が突然そんなことを言った。
 直後、クラスで笑いが巻き起こる。

「マジかよ。真中さんすげーな」
「本当に凄いね」

 ……はあ、なんか調子狂うな。

    ◇
 
 クラスの連中は味を占めたのか、真中を通じて俺に物を頼むようになった。

 めんどくせぇ。でも出席日数のこともある。
 俺は、無駄が嫌いだ。
 ここで投げ出すと今までそれなりにやってきたことが無駄になる。
 
 そしてその結果として、真中といる機会も増えていた。

 今は美術準備室で、ペンキを探していた。
 古いテーブルを可愛くしたいんだと。

 真中は変な奴だ。普通、世間話の一つでもしてくるだろうが、用がなければ何も言葉を発しない。
 俺が校舎に裏にいたときは、本当に義務感からだったのだろう。

 別に会話を求めてるわけじゃない。
 これは、純粋な好奇心だ。

 感情を知らないってのは、どういうことだろうと。

「真中、ペンキはあったか?」
「ありません」
「こっちにもない」
「はい」

 ……これで終わりか?

 喜多とメイド喫茶に行ったみたいだが、一体、どんな会話をしてたんだ。
 自慢気に写真も貼り付けていた。もしかして喜多の前だとよく喋るってことか?

 ……なんか、気に食わないな。

「真中、普段何してんだ?」
「普段、というと?」
「家にいるときとか、休みの日だ」
「特に変わったことはしていません」

 こいつ、俺がこんなにも頑張って声かけてるというのにそれだけか?

 いや、俺もこんな感じか。なんか、悪いことしてる気がしてきたな。

「……じゃあ、最近出かけたのはいつだ?」
「喜多さんとメイド喫茶へ行ったときです」
「ふうん、どうだった?」
「初めてのことでとても勉強になりました」
「楽しかったのか?」

 その直後、俺は自分の言葉に嫌気がさした。

 こいつの病気は知っている。なのにこの発言は最低だ。

「悪い、気にしないでくれ――」
「新鮮でした」

 言葉がかぶってしまう。同時に、棚ごしで目が合った。
 といっても、真中は小さいから俺が下を向いてようやくだが。

「何を気にしないのですか?」

 ……そうか。感情がわからないってことは、どんなことを言われても、なんとも思わないのか。
 悲しんだりも、憎んだりも、羨ましいとも思わない。
 後悔もしない。

「何でもない。新鮮だったってのは、初めてみたからか」
「そうです。その後、本屋へも行きました。喜多さんは少女漫画が好きだと言っていました」
「へえ、あの真面目ちゃんがねえ」
「他人にあだ名をつけるのは不快に思われる可能性があると本に書いてありました」

 突然、ビシッと言われた。
 思わずムカッときたが、こいつの言っていることはもっともだ。

「……悪い。口が滑った」
「ただ、仲良くなるために、時には必要だとも書かれていました。私には区別がつきませんが」
「……俺にもわかんねえから、つけないほうがいいんじゃないか」
「わかりました。教えてくれてありがとうございます」

 ほんと、変な奴だな。
 でも、悪い奴じゃないんだろう。

「鬼怒川くんはいつですか?」
「何の話だ?」
「最近、出かけた日はありますか?」
「んーなんだろうな。言われてみたら俺もないな。しいていえば、病院くらいか」
「怪我をしたのですか?」
「いや、俺じゃない。妹の身体が弱くてな」
「そうなんですね。病院が出かけた日になるならば、私は毎月行っています」
「……それ、聞いていいやつか?」
「どういうことですか? すみません。私はハッキリ言ってもらわないとわからないんです」

 そうか、そりゃそうだよな。

「病院に行くっていうのは、真中の病気のことでか?」
「はい」
「いつか治るもんなのか?」
「わかりません。定期健診は行っていますが、特に変わりはないそうです」
「そうか」

 これを可哀想だなと思うことは、ある意味で真中に対して失礼だと思った。
 事実だけを受け入れ、答える。それが、真中だ。
 だから俺も、深くは考えないことにした。

「ペンキありました。これで合ってると思います。一応見てもらえますか?」
「あいよ。――多分これだな」
「では戻りましょうか」

 真中と話してると何も心配しなくていいとわかった。
 裏表もない。
 人が誰しも持っている、面倒な部分がない。
 失礼かもしれない。でも、俺にとってはそれが心地良かった。

 だから喜多のやつも、真中と仲良くなったのかもな。


「真中さん、鬼怒川くんと二人で何話したの?」

 ペンキを渡して俺が帰ろうと教室を出たら、またクラスの連中が質問を投げかけていた。
 まったく、物好きな奴らだ。
 でも、真中なら大丈夫だろう。

「お出かけしてるのかと聞かれました。鬼怒川くんは、妹さんの身体が悪いのでよく付き添いで病院へ行くそうです」

 ……あ。

「鬼怒川に妹がいたのか!? しかも案外優しいんだな」
「すげえ、鬼の以外な一面だ」
「何だか見る目変わりそう」

 口止めするのを忘れていた。つい、口が滑ったことを……。

 てか、鬼ってあだ名だったんかよ。俺。
 初めて知ったわ。

「他人にあだ名をつけるのは不快に思われる可能性があります」

 そしてまた、真中の声が聞こえてくる。
 気づけば笑っていた。ハッ、あいつはほんとずっと変わらねえな。

    ◇

 俺には妹がいると真中が口を滑らせたおかげで、クラスメイトたちの俺への態度が変わっていた。

「鬼怒川くん、この看板持っててもらっていい?」
「……あいよ」

 一度も話したことのない女子生徒が、こうやって気軽に頼んでくるようになった。
 今までならありえない。

 今朝は「おはよう」なんて言ってくる奴もいた。
 別に構わないが、人は単純だなとつくづく思う。
 舐めた態度を取ってくる奴がいたらさすがにキレるが、今のところはいない。

 いや、いるか。

 でもこいつは、前からだ。

「鬼怒川くん、看板の持ち方が大胆だね。手を怪我しないように気を付けて」
「うるせえ、相楽」

 いつもヘラヘラしている男。
 俺は人を観察する癖がある。
 大抵のやつは何を考えているかなんとなくわかるが、こいつだけはよくわからない。
 いつも楽しげだが、なぜか熱を感じない。
 俺を怖がっている様子もない。むしろ、手を出すなら出してくれても構わないと言った雰囲気で声をかけてくるときもある。
 だからこそ拍子抜けというか、絡む気にもなれない。

「僕は嬉しいよ。鬼怒川くんがクラスに溶け込んでくれたことが」
「黙ってろ。てか、哀川はいつ来るんだ? あいつも俺と同じ実行委員だろ。何も知らねえのかよ?」

 哀川は、喜多と同じで明るくて元気な奴だ。
 いれば俺の負担も軽くなるのに一向に姿を現さない。
 相楽とも話してることがよくあった。こいつなら、何か知っているのかもしれない。

「僕も連絡は取ってないからわからないよ。色々あると思うし、もう少し待ってあげようよ」
「何を言って――」

 声を荒げようとして、思いとどまる。
 もう少し待ってあげる? こいつ、何か知ってやがるな。

 相楽はいつもそうだ。クラスで問題が起きそうになると、しれっと前に出て場を収めたりする。
 ってことは、今回もわかっていて誤魔化したんだ。

 俺はそれ以上何も言わなかった。

「鬼怒川くんは優しいね。それじゃあ僕はあっちを手伝ってくるよ」

 相楽の野郎は察したのか去っていく。
 あいつと話してると、何だか心を見透かされているようで嫌なんだよな。

「看板がずれ落ちると手を怪我する恐れがあります。こちらの手袋をどうぞ」

 後ろから真中の声がする。いつも気配がないのが、こいつの特徴だ。
 ご丁寧に軍手を手渡してきた。

 相楽と真逆の性格をしているが、よくわからないところは同じだな。
 俺は、静かに手袋を取った。

 そして、誰にも聞こえないように礼を言う。

 だが――。

「真中さん、凄く気が利くね! 今、鬼怒川くんがお礼を言っていたよ!」

 相楽の野郎がわざと声を上げ、真中が「気づきませんでした」と反応しやがる。
 周りは「あの二人仲いいよね」なんて言い出す始末だ。

 次はキレる。

 しかし相楽は察したのか、それ以上、俺に声を掛けることはなかった。
 相変わらず、勘のいいやつだ。


「喜多さん、メイド服の基礎生地の件なのですが」
「ああ、それはBパターンにしようかなと思ってるんだよね。真中さんは、どう思う?」
「私はわかりません」
「ええと、どっちのほうが綺麗に見えると思うかな?」
「メイド喫茶で見た服はBの作りが似ていたと思います」

 喜多と真中は、以前よりも会話が増えていた。
 初めは困っていた喜多だが、メイド喫茶を経て何か変わったらしい。
 事あるごとに意見を聞いたりしている。
 主観的な意見がないからこそ、参考になるんだろう。

 すると当然、真中が俺に顔を向けた。
 そして近づいてくる。

「鬼怒川くん、こちらを見てもらえますか」

 喜多からもらった紙を持ってきて、二種類の服の型を見せられる。
 どっちも黒で変わらねえ。

 なんで俺に聞くんだよ。

「Bでいいんじゃねえか」

 ただ、こいつに言っても仕方がねえ。
 実行委員だから周知しに来ただけだ。適当に返事をしておけばいい。

「わかりました。ありがとうございます。――相楽くんは、どう思いますか?」
「そうだね。Aもいいけど、僕も鬼怒川くんと同じでBがいいかも。こっちのほうが可愛く見えるね」

 あいつ……俺に聞こえるようにわざと言ってないか?

    ◇

 準備は順調に進んでいた。
 俺もすっかり文化祭の実行委員としての仕事をしてしまっている。
 楽しさはこれっぽっちも感じていないが、何かをやり遂げることは嫌ではない。

 いや、思い出した、というべきか。

 随分、こんな事してなかったしな。

 基礎生地も決まり、実際にメイド服を作る作業が始まった。
 女子たちは待ちに待った様子で嬉々とし、男たちは負けじと個性を出すため、蝶ネクタイや手袋を作り始めた。
 もちろん俺は興味ない。
 当日は適当に宣伝でもしてくると言って教室を出ていればいいだろう。
 今ここで手伝っているのも、何も言われないようにするためだ。

 だがもちろん、全くやる気の出ない日がある。

 そんなときは気持ちよく校舎裏でサボった。

 適当に時間をつぶして教室へ戻って、何食わぬ顔で軽い作業をして帰る。
 しかしある日、俺はうとうとしすぎてしまった。

 気づけば数時間経過し、すっかり遅い時間だ。

 目を覚ますと、野球部たちの声が聞こえてきた。
 文化祭の準備もあって、今は遅くまで練習している。

 この学校はナイター設備が整っていて、夜でも白球がよく見える。

 職員室で鍵をもらって鞄を取りに行かないといけないと思うと面倒だ。
 気が重いまま足を進めるが、まだ教室の電気がついていた。

 ……だれかいるのか?

 そのまま教室へ入ると、真中が一人で看板に色を塗っていた。
 今はみんな服を作る作業で忙しく、地味で楽しくない仕事だからか進行が遅れ気味だった。

 俺にも気づかず、しゃがみ込んで黙々と塗ってやがる。

「おい」
「鬼怒川くん、どうしたんですか」
「こっちの台詞だ。なんで一人でやってんだよ。喜多と相楽は?」
「もう帰っていると思います」

 あーそうだ。こいつに疑問を投げかけるときは、しっかり説明しないとダメなんだっけか。

「喜多と相楽は、お前が一人で作業をしてるの知ってるのか?」
「知らないと思います。備品倉庫から戻ってきたときには、誰もいませんでしたので」
「……つまりあれか、お前は自分の仕事が残ってたから一人でやってる、ってことか」
「そうです」

 普通なら後日やるか、誰かに手伝ってもらえるか頼む。
 だがこいつはそんなことをいちいち言わない。

「もう遅いから明日にしてもいいじゃねえか。ほかのやつにも手伝ってもらえるだろ」
「予定表では今日終わらせる仕事なので、終わらせてから帰ります」

 お前なあ、と言いかけて止まる。こいつは悪くない。
 悪いのは、作業を放ってメイド服を作ってる奴らだ。
 いや……別に誰も悪くねえか。文化祭までまだ時間はあるしな。
 余裕があるんだから予定通りに進める必要もない。

「どこを塗るんだよ」
「この看板をピンクに塗ります。ただ、一部の箇所は色味が違いますが」
「……こっちの板も同じか?」
「はい」

 あと五枚か。
 一人でやると時間がかかるな。それにこいつは手が遅い。

 ……まったく。

「俺にもペンキを貸せ。こっちをやる」
「鬼怒川くんの担当ではありませんので、大丈夫です」
「俺がやりたいんだ。いいだろ」

 真中はまっすぐ俺の目を見つめ、「わかりました」と言った。
 だがそのとき、真中の頬にペンキをついているのに気づき、つい声が出てしまう。

「お前、何してんだよ」
「何がですか」
「ペンキついてんぞ。頬に」
「気づきませんでした」

 真面目な顔して、鉄壁超人みたいなくせにこんなところは普通だな。

 黙々とペンキを塗っていると、時計の針の音と外から野球部の声が聞こえてくる。
 なんか……つまんねえな。
 
「真中」
「何でしょうか」
「部活とか入ったことあるのか?」

 我ながらくだらねえ質問だ。でも、こいつのことがやけに気になる。
 今のところ病院へ行っているぐらいしか知らない。
 俺は妹がいることをバラされたんだ。少し聞くくらいいいだろう。

「中学の頃に吹奏楽部に入っていました」
「へえ、そりゃ意外だな。音楽が好きなのか?」
「音楽は感性を育てると書いていたので始めました。感性が育つことはなかったので辞めました」

 真面目に返した方がいいのか、それとも笑っていいのか判断に困るな。
 まあ、事実そういうことか。

 ん、てことは――。

「感情を知りたいって思ってるのか?」

 すると、真中の返事がいつもより遅かった。
 看板を塗っている手が止まる。

「言わなくてもいいぞ」
「私自身よくわからないんです。でも、文化祭の準備を見ているとみなさん喜怒哀楽がハッキリしていて、勉強になります」
「へえ、喜多のやつはいつも嬉しそうだし、喜ってところか」
「はい」

 だが、それ以上言うのを辞めた。
 俺は、間違いなく怒だからだ。それは、なんかムカつく。

 それからはただ黙々と作業した。
 普段文句ばかりが口から出る俺だが、こいつは一切言わない。
 だから、できるだけ言わないようにした。

 なぜかはわからない。

「終わったな……腰いてえ」
「鬼怒川くんのおかげで早く終わりました」

 五枚とも綺麗に塗り終わった。
 こいつのほうが綺麗だが、それはいちいち言わないでおく。

 窓際に置いておけば、明日には乾いてるだろう。
 廊下の手洗い場で手を洗っていると、真中の頬についたペンキを思い出す。

「真中、こっちを向け」
「はい」

 疑うことなく顔を向け、俺は静かにペンキを取った。

「ありがとうございます」
「おう」
「では、しゃがんでください」
「……は?」
「ペンキが取れません」

 何のことだ? と思ったが、すぐに理解する。
 俺は、自分で頬をゴシゴシと吹いた。

「俺はいい」
「まだついてますよ」
「いい」
「そうですか」

 こんなところ誰かに見られたら何を言われるか。
 いや、俺が真中のペンキを取ったのも同じか。
 こいつといたら周りのことを忘れちまう。

 教室に戻って、帰ろうと鞄を肩に掛けると、真中は何かを思い出したかのようにノートを取り出した。

「宿題でもするのか?」
「日記を書きます。いつもこの時間なんです」

 そんなもん書いてるのか。律儀なことだなと思いながら帰ろうとしたが、内容が気になって足が止まる。
 ……俺のことも書いてるのか?

 真中は気づいていない。
 こっそり近づき、ひょいと覗き込む。

 綺麗な字だ。俺と違ってゆっくり丁寧に書いている。

「…………」

 そこには、今日の出来事がミッチリ書き込まれていた。
 喜多の発言や、相楽の行動、俺が手伝いにきたことも。
 興味深かったのは、一つ一つ、おそらくこう思っているであろう、と書いてあることだ。

 俺にはそれが真中の強い意志に思えた。

「あれ、鬼怒川くん、どうしたのですか」
「……いや、すまねえ。つい見ちまった」
「そうですか」

 これは興味本位で見ちゃいけないやつだ。
 俺みたいなやつが、気軽に覗き込んでいいものじゃなかった。

 こいつは頑張っている。文句も言わず、やるべきことをやって、自分の人生をしっかりと生きている。
 文句ばかりの俺と違って、今できることをやり続けているんだ。

 それが、たまらなく羨ましくて、自分のことが嫌になった。

「真中、一緒に帰らねえか。もう遅いからな」

 答えはわかっている。でもなぜか不安を感じた。
 俺は嫌なやつだ。授業はさぼるし、すぐに誰かを威圧する。
 大勢から嫌われていることだって知っている。
 でも、真中に嫌われたら終わりだ。

 それがわからないほど、クズじゃない。

「はい」


 真中と並んで帰宅していると、部活帰りの奴らがこっちを見ながらヒソヒソと話している。
 まあ、何となく想像はつく。
 俺はいい。でも、真中に変な噂がつくと申し訳ないか?

 いや、いいや。

 周りなんて関係ないよな。こいつは、気にしない。
 なら俺も考えるのをやめよう。

「真中、家は近いのか?」
「電車で一駅ほどです。場所は――」

 突然、ペラペラと個人情報を喋りだして頭を抱えた。
 こいつは危機意識が低すぎる。今時は同級生でも気を付けたほうがいい。
 ただ驚いたのは、俺の家から案外近かったことだ。

「なら歩いて帰るか。この時間は電車混んでるだろうしな」
「わかりました」
「……嫌なら、嫌って言ってもいいからな」
「? 嫌じゃないです」

 普通は嘘や遠慮じゃないかと勘ぐってしまう。でもこいつは全部本音だろう。

 そのとき、ふと野球部たちが目に入った。
 ようやく帰宅か。ご苦労なことだな。

「鬼怒川くんは、野球が好きなのですか」

 突然の真中の言葉に驚いた。
 思わず「あ?」と声が出てしまうも、すぐに冷静になった。

「なんでそう思った」
「教室で、野球部員たちの声を気にしている様子でした。でも、窓を閉める様子もなかったので、好きなのかなと思いました」

 いつもなら適当に答える。
 でも、こいつに嘘をつきたくなかった。

「ああ、好きだ。いや、好きだった、か」

 思い出したくない。でも、忘れることなんてできない、俺の中に巣食う嫌な過去。

「今は好きじゃないんですか?」
「どうだろうな。自分でもよくわかんねえよ」

 真中が質問してくるのはめずらしいな。
 でもそれ以上は聞いてこない。
 前に俺が、踏み込んでくるなと強く言ったからだろう。

 ……最低だな。

「聞いてくれるか、真中。俺の、つまんねえ昔話だ」
「はい」
 
 くだらねえ話をただ聞かせるのは申し訳ないと思い、自販機で飲み物を買った。
 オレンジジュースがいいらしく、好きなのか? と尋ねたら、はいと答えた。
 どうやら、味の好き嫌いはあるらしい。

 小さな公園に移動して、ベンチに腰掛ける。

「俺は昔、野球してたんだよ。結構真面目にやってたんだぜ。レギュラーで県大会出るほどな」
「そうなんですね」
「将来はプロになろうと思ってた。でも、俺にとって最悪な出来事が起きた」

 幼いころから野球が好きだった。きっかけは覚えていない。多分、親が見ていたテレビかなんかだろう。
 才能があったのかはわからない。ただ、毎日練習をしていたおかげで、打つのも投げるのも得意になった。
 地元のリトルリーグに入って、中学は野球の強豪校に入った。
 どいつもこいつも野球バカで、心底楽しかった。

「ある日、コンビニで部員が万引きしてるとこを見かけたんだ。公式試合間近だったし、何やってんだってキレそうだった」

 でも注意してそれが公になったら、チームの連帯責任で試合に出られなくなっちまう。
 だから何も言わなかった。
 でも、ずっとそのことが頭から離れなかった。

 またコンビニでそいつを見かけた。ムカついたのは、ほかにも仲間が増えてたことだ。
 俺はもう我慢できなかった。
 そいつらが外に出て、誰にも見られないところで注意した。
 でも、そいつらは耳を疑う言葉を言い放った。

「お前のせいだ。お前が、俺のポジションを奪ったからストレス溜まってたんだよ!」

 はあ? てめぇらが努力してねえのが悪いんだろうが!

 たとえそれでストレス溜まってたとしてもしていいことと悪いことがある。

 俺は思い切り殴りつけた。
 ふざけんなよって怒鳴った。

 だが、最悪なのはここからだ。
 その後、コンビニの店員がやって来た。防犯カメラですべてバレたが、俺まで万引きを疑われた。
 警察を呼ばれて、親に何もしていないと伝えたが、していない証拠がないと言われた。

 結局、試合も出られなかった。
 
 俺が悪かったのか? あいつらが万引きしたのは、俺のせいか?
 殴らなきゃよかったとは思う。
 注意して、話し合って、改心させて、真面目に練習に打ち込むようになれば良かったんだろうな。

 でもおかしいだろ。なんで、俺が悪いんだよ。

 けど、周りはそう思っていなかった。
 万引きした奴らは退部した。
 だが、俺が殴りかかって騒ぎにしなきゃ試合に出られたのにと残った部員から陰口を言われた。
 
 しまいには、あることないことまで。

「何もかもやる気が失せた。野球もやめた。まあでも俺が悪い。確かに殴らなきゃよかったよな」

 今さらこんなことを言っても仕方がない。
 それぐらいわかってる。

 ずっとふてくされているのは、ほかでもない俺のせいだ。

 自分の今までの努力を、ほんの少しの我慢も出来ず、感情的に振舞ったせいで、ぶち壊しにした。

「確かに殴らなければよかったかもしれません」

 真中は冷静にそう言った。
 やっぱりだ。こいつがそういうなら、俺が悪かったんだろうな。
 ある意味、納得した。ああ、やっぱり、俺が最低だったんだと――。

「でも鬼怒川くんの気持ちを周りがもっと理解するべきです。大好きな野球を踏みにじられたようなものですから」
「……意外なこと言うんだな」
「以前の私ならわからなかったかもしれません。でも、喜多さんから好きな少女漫画の話を聞いてわかりました。人が一生懸命に楽しんでいることは、大事にすべきです」

 その言葉を聞いて、ハッとなる。
 真中は今も努力を続けている。
 分からないことを、わかるようになるように頑張っているのか。

「お前は、ずっと努力してんだな」
「どういうことですか?」
「何でもない。さて、そろそろ帰るか」
「はい」

 俺は、空き缶を少し離れた場所のゴミ箱に投げ入れた。
 相変わらず最高のコントロールだ。
 そうだな。今までの努力は、消えていない。

「明日も文化祭の準備頑張るか」
「はい」

   ◇

 哀川がようやく登校してきた。

「みんなごめんね!? 心配かけちゃって……」

 相楽と同じで友達が多いからか、女子たちが群がっていく。
 風邪を引いていたらしい。文化祭実行委員についてはグループチャットに招待されているから知っていたが、体が辛くて返事ができなかったんだと。

 で、わざわざ俺にも謝ってきやがった。

「ごめんなさい。これからは私も頑張るので……」
「……別に気にしてねえよ」

 なぜか驚いた顔をしやがる。何なんだ?
 俺がキレるとでも思ってるのか?

 ……いや、いつもならそうだったかもな。
 もう、わかんねえや。

「哀川さん、無理しないでね。僕に何でも言ってくれたらいいから」
「ありがとう、相楽くん」

 相変わらずチャラチャラしたやつだ。
 前に知ったような口をきいていたが、体調をこじらせていたことを知っていたのか。

 ほんと、あいつだけは抜け目ないな。

「ええと、じゃあ哀川さんはメニュー作りの担当をお願いしてもいいかな?」

 喜多は、さっそく哀川に文化祭の役割を伝えていた。
 やる気満々は大事だが、病み上がりだぞ。

「でも、全然余裕があるから無理しないでね。ゆっくりで大丈夫だから」

 しかしそこで、喜多は気遣うように哀川に言った。
 猪突猛進なあいつらしくない。周りを見ていやがる。

 まあ、何にせよ俺の負担が軽くなるのはいいことだ。
 これで多少はサボっても問題ないだろう。

「鬼怒川くん、看板の色が思ってたより落ちてました。塗りなおしませんか」

 と思っていたら、真中が声かけてきた。
 こいつがいる限り、サボるのは難しそうだ。

   ◇

「ねえ、封筒知らない? 買い出しで使うお金入れてたんだけど」

 人が少なくなってきた放課後、一人の女子生徒が呟く。
 あいつはドリンク担当のやつだ。何日か前に喜多からお金を預かっていた。 そのお金を入れていた封筒がなくなったらしい。

 やがて人がわらわら集まり、騒ぎになってくる。

 色々探し回ったが見つからず、昨日まではあったという話になった。

 そのとき、野球部員の一人が、俺に目を向けた。
 何を言っているのかはわからない。でも、何となく目を見ればわかる。

 ――疑っていることが、明白だ。
 
 俺は、近づいて声を掛けた。

「なんか俺に言いたいことあるのかよ?」

 金を取ったとでも思ってるのか?
 途端に声を上げなくなり、萎縮し始める。

「はっきり言えよ」
「昨日、放課後残ってた……よね? なんか、知らないかなって」
「なんだ、疑ってんのか?」

 遠回しな言い方に腹が立ち、さらに声を荒げそうになる。
 しかしそこでハッとなった。
 ここで感情を吐き出してもいつもと同じだ。

 相変わらず誰かを威圧し、文句を言うだけになる。

 疑っていることは間違いない。
 でも、ここで怒っても仕方がない。

 俺の今までの言動や態度が周りをそうさせたんだ。

 落ち着いて話ができればいいが、喜多と相楽の奴はこういうときに限っていない。

「どうしましたか」

 するとそこに、真中がやってきた。
 説明をすると、一人で考え始める。
 
 こいつは現状のことを冷静に判断できる奴だ。
 みんなもそれがわかっているのか、真中の発言に注目する。

「封筒を盗まれたという可能性もあると思いますが、こういった場合は勘違いの可能性が高いです。一度、自宅に連絡して確認してはいかがでしょうか」

 真中は冷静に言って、女子生徒は親に電話した。
 すると、封筒は玄関に置いていたらしい。
 
「本当にごめんなさい。失礼な言い方をしてしまって……」
「気にすんな。なくなったら誰でも焦る」

 間違いなく俺のことを疑っていただろう。でもそれを言及する必要はない。
 すると女子生徒の俺を見る目が変わっていった。
 その目は疑いの目ではなく、感謝の目だ。
 これ以上の騒ぎになることなく解決し、安心している。

 俺は、同じ過ちを犯すところだった。
 怒鳴り散らかして、余計に疑われて、今まで頑張ってきたことをすべてぶち壊すところだった。

 あの日、あの時、仲間が万引きしたとき、俺は言葉で伝えるべきだったんだ。

 感情的に殴ることじゃなくて、なぜそんなことをしたのか。俺の気持ちを。

 怒ることが悪いことじゃない。

 伝え方が大事なんだ。

「真中、ありがとな」
「何がですか?」
「お前のおかげで成長した気がする」
「よくわかりませんが、良かったです」

 何もわかってなさそうで、何でもわかってるよな、こいつは。

「真中」
「はい」
「お前は多分わからねえだろうが、何か怒ってほしいときは俺に言えよ」
「どうしてですか」
「俺が、お前の代わりに怒ってやるよ」

 こいつが感情を取り戻せるのかはわからないし、俺にできることはないだろう。
 でも、それまで肩代わりすることはできる。

「わかりました。そのときは、鬼怒川くんにお願いします」
「ハッ、おもしれえ。そいや、お前、怒ったことってあるのか?」
「ありますよ」
「……いつ?」
「幼いころにおもちゃを取られて殴りつけたことがあります」

 冷静にさらっと告げた。その言い方に笑った。

「私も成長したかもしれません」
「なんだ?」
「さっき、鬼怒川くんが疑われていたことがわかって、強く否定したくなりました。これは怒りかもしれません」
「……そうか」
「どうしました?」
「何でもない」

 俺はクズだった。
 でも、これからはそう言われないようにしよう。
 真中にそう思われたくないしな。

 作業を終えて、校舎裏で一息つく。
 やっぱここは落ち着くな。

 だがそこで、声が聞こえてきた。

「……うぅ……」

 あの、いつも元気で明るい女、哀川が泣いていた。