「それじゃあ文化祭は、実行委員長の喜多陽香さんを主導として動いてもらうことになります」

 先生の声が教室に響くと、小さくも確かな拍手が巻き起こった。
 高校二年生、秋。
 私、喜多陽香の――待ちに待った文化祭の季節がやってきた。

 昨年はあいにく流行りの感染症にかかってしまい、参加することができなかった。
 今年は絶対に、目一杯楽しむんだと意気込んでいる。

 私はずっと、文化祭への憧れがあった。
 きっかけは大好きな少女漫画で描かれていた文化祭のエピソード。
 とても楽しそうで、キラキラしていて、読んでいるだけで心が弾んだ。
 中学の頃にも文化祭はあった。でも、中学生ということで制限が多く、すでに決まったことをするだけだった。
 高校になると生徒主導で出し物を決めたり、おそろいのTシャツを作ったりできる。

 興味のない人からすれば「ただの文化祭だよ?」となるかもしれない。
 でも、私にとっては青春を捧げる一大イベントなのだ。

 だから私は立候補した。
 文化祭実行委員長になりたくてだ。
 出し物を決めたり、みんなの意見をまとめていくことになる。
 予算内で準備を進めたり、計画表を作ったりと、かなり大変だと聞いているが、それも楽しみだった。

「陽香、良かったねえ。また熱出さないでよ」
「わかってるよ。今年は大丈夫!」

 二年四組での私の立ち位置はそこそこ悪くないと自負している。
 我ながら明るい性格をしていると思うし、周りにも声をかけやすいと感じてもらえている。
 私が実行委員長になったこともみんな納得しているようだ。
 
 今年は念願の実行委員長にもなれたし、楽しみ過ぎて仕方がない。

 これから実行委員のメンバーを決めていくことになる。

「私と一緒に実行委員をやってくれる人、挙手をお願いします!」

 そのとき、手を上げた人に私は驚いた。

「私、やりたいです」

 教室の後ろ。黒髪でいつも無表情の同級生だ。
 名前は真中美空さん。
 幼い頃に感情を失う病気を発症したらしく、喜怒哀楽が存在していない。
 私は彼女の笑ったところを見たことがないし、泣いているところも、誰かにバカにされて怒ったところも見たことはない。

 何だか可哀想だとは思う。でも、特別虐められているわけでもないし、私から見れば真面目で静かな女子生徒だと思っていた。

 この時までは。

「え、真中さんが……?」
「意外。できるのかな?」
「勉強ができるならできるんじゃない。知らんけど」

 当然、同級生たちも同じ気持ちだった。
 嬉しそうに笑う人や、冷ややかな目線で彼女を見るものと様々だ。

 私は……正直言うとなんで? と、複雑な気持ちだった。

 文化祭の実行委員はやることが多い。色々話し合わないといけないことも出てくるだろうし、会話だって多くなる。
 私は、あの少女漫画のようなキラキラとした文化祭を再現したい。
 真中さんと二人で……会話が続くか不安だ。

 だけど、そんなことを言えるわけがない。
 今まで文化祭の実行委員は、委員長が決まってから順を追って役割ごとにメンバーを決めていく。
 文化祭を楽しみにしているクラスメイトは他にもたくさんいるので、誰がしてくれるのだろうとドキドキしていたのだけれど、まさか真中さんが立候補するなんて。
 
「あら、珍しいわねえ。ほかにやりたい人はいるかしら?」

 すると先生がそんなことを言った。
 誰も声は上げない。当たり前だ。私たちは空気に敏感なのだ。
 なんか違う、そんな雰囲気を感じ取ったのだろう。

 真中さんは微動だにせず、やはり無表情でまっすぐに前を見つめている。

 どうしたらいいのか、私が困惑していると、思いがけない手が上がった。

「じゃあ、僕も立候補しようかな。こういうのやったことないし」
「え、マジかよ!? 生徒会があるから実行委員はできないって言ってなかった!?」
「そうだけど、やっぱり楽しそうだしやってみようかなって」

 生徒会役員の相楽くん。
 運動神経抜群で頭もよく、顔もカッコ良くて男女問わず人気者の男の子。
 空気が一瞬で変わって、私はホッと胸をなでおろした。
 これで何とかなりそうだ。
 でも、驚いた。たしかに相楽くんはいつもみんなの中心にいる人気者で適任ではあるけど、さっき言われていた通り生徒会があるから立候補はしないと思っていた。
 きっとこの雰囲気を和らげようと思ってくれたんだろうな。本当に良い人だ。

「それじゃあ喜多さんと真中さん、相楽くんにお願いしてもいいかしら」

 これで三人が決定してしまった。メンバーはあと二人。
 だが、ここでまた予想外なことが起こる。
 相楽くんが立候補したことで、みんながやりたいと手を上げはじめたのだ。
 その結果、本来は話し合って決めるものの、クジ引きになってしまった。

 さらにそれもまた、私の想像を超えた結果になることに――

「あぁ? なんで俺がそんなのしなきゃならねえんだよ」

 一番後ろの席、机に突っ伏しながら、気だるそうに声を上げたのは、鬼怒川くんだ。
 相楽くんとはとても対照的で、いわゆる不良のレッテルを張られている。
 髪の毛はほのかに茶色く、制服を気だるそうに着崩している。
 ブツブツ文句を言っていたが、先生から「決まったことに文句を言わない」と咎められた。
 鬼怒川くんは怒って教室を出たが、先生の意見は変わらず、まとめあげるのは私になってしまった。
 
 もう一人は、なんと今日休んでいる女の子だった。
 ただ、その子はいたって明るい子なので、むしろ嬉しかったけれど。

 今日はそれで話が終わった。次回は出し物を決めていく。

 放課後、相楽くんが私を呼び止めた。

「これからよろしく。突然ごめんね。大丈夫だった?」

 爽やかな笑顔で、私を気遣ってくれた。
 色々と問題はあるかもしれないが、文化祭の実行委員がすべてを行うわけじゃない。
 相楽くんの顔を見てそう思えた。
 そこでようやく私の心も晴れやかになってきた。

「ううん、相楽くんが立候補してくれてよかったよ。これからよろしくね」

 私たちが前に立って決めていけばいい。そう思っていたけれど、無表情な女の子が近づいてくる。

「これからよろしくお願いします」
「うん……よろしく」

 何を考えているのかわからない。感情がない女の子。
 今までクラスメイトと積極的に関わっているところなんて見たことない。
 なぜ実行委員に立候補したのかわからないし、上手くやっていけるか正直不安だ。

 でも、この文化祭を最後まで楽しめたらいいな。

    ◇

 朝、窓から射しこむ光で目を覚ます。直後、アラームが鳴り響くもすぐに止めた。
 体調はすこぶる良い。理由はわかっている。晴れて文化祭の実行委員になったからだ。
 夜は、失敗しないためにネットで文化祭の準備について調べていた。
 まだメンバーを決めただけ。今日は実際にクラスで何をするのか、を考えることになる。
 基本的には投票制のクジ引きだが、先生が決めることもあるという。
 一番の問題はほかのクラスと被ってはいけないということだ。
 私たち二年生は六クラスある。それが全部、お化け屋敷、なんてことはできない。
 まあ、それはそれで面白い気もするし、見てみたい気もするけれど。

 スマホを開いて運勢を調べた。今日のラッキーカラーは青で、ラッキーアイテムはペンだった。
 朝の占いは会社員や学生が身に着けやすいものが多いと聞く。
 嘘か本当かわからないけれど、私は机の奥から青いペンを引っ張り出して制服の胸ポケットに挿した。
 別に信心深いわけじゃない。
 ただ、少しでも良いことがあるように、やって損のないことはやっておこうという気分だから。

 文化祭を絶対に成功させたいという思いが、そうさせているのかもしれない。

「陽香、さっきから呼んでるんだけど。朝ご飯よ」

 そんなことをしていると、母が二階まで上がってきていた。
 エプロンは青。うん、何だかいい気分だ。

「すぐ行く。ねえ、なんか青い物ってある?」
「何よ青い物って。青いハンカチなら持ってるけど。にしても、朝から嬉しそうねえ」

 どうやら母にはバレているようだ。
 私が文化祭を好きな理由は、少女漫画の文化祭がキラキラして見えたから。
 いわゆる青春というものに憧れを抱いている。
 今までたくさん少女漫画を読んできたけれど、学園物には必ずといっていいほど文化祭のイベントがある。
 一からクラスメイト同士で何かを積み上げていく。そこには、沢山の感情が存在する。
 そして私はそのキラキラの中心に立っていたいのだ。
 いつもとは違う教室、クラスメイトたちの笑顔、参加している全ての人たちの熱気。

 自分たちの力で生み出すキラキラした世界。楽しみだな。

「陽香、さっきから呼んでるでしょ!?」

 そしてまた、母の声が聞こえた。私は急いで一階に降り朝ごはんを食べると、タンスから母の青いハンカチを拝借した。

 家を出て、秋風を感じながら文化祭のことを考える。
 学校へは二十分ほどかかる。夏と冬は気だるく感じるけれど、今の時期は心地が良い。
 
 私たちのクラスは比較的、明るい生徒が多い。
 みんな何をしたがるだろう。
 【お化け屋敷】をやりたがるだろうか。もしくは【メイド喫茶】だろうか。
 いや、【男装カフェ】という変わり種の可能性も。【ジェットコースター】という刺激を求めるかもしれない。

 どれも一長一短だ。決まった予算のなかでどれだけ良い物ができるかが肝になってくる。
 実際作ってみて大したことがなかった、なんて失敗はしたくない。
 それでは私の求めていたキラキラ青春は霧散してしまう。
 まずはみんなの空気を読みながら意見を出してもらって考えていくことにしよう。
 でも私一人では大変なので、みんなで――。

 ふと実行委員のメンバーを思い出す。

 ……相楽くんなら私と一緒に頑張ってくれそうだよね。よしっ。

「……あ」

 信号待ち、そんなことを考えていると、隣で無表情な女の子が立ち止まった。
 真中美空さん。彼女はいつも静かだ。教室の端で本を読み、昼食も一人でお弁当を食べる。
 誰とも関わらないと思っていたのに、なぜか文化祭の実行委員に立候補した。

「青いペン」

 ふと、胸ポケットに入ったペンが目に留まり言葉が出る。
 すると真中さんはキリっと私を見つめた。眼光が鋭いのは表情がないからだろうか。
 なんだか見ていることを咎められている気がしてパッと目を逸らした。
 
「おはようございます。喜多陽香さん」

 まさかのフルネームで呼ばれるとは思わず、「へっ」と声が上ずってしまったが、真中さんに視線を戻した。

 ……もしかして真中さんは朝、私と同じ運勢を見たのだろうか。
 物静かな雰囲気だけれど、実は占い好き。
 朝起きて青いペンを取り出し、わざわざ胸ポケットに挿した。
 そう思うと、少し親近感がわいてきた。
 彼女は私の大事な実行委員の仲間だ。
 感情がない、という病気には同情するけれど、きっと願望はあるに違いない。

 文化祭、青春の一ページ。うん、仲良くやっていけたらいいな。

「真中さん、おはよう。今日の放課後、文化祭の実行委員の初めての仕事だね。一緒に頑張ろうね!」
「はい」
「真中さんは、何かしたいことあるの? 例えばお化け屋敷とか、メイド喫茶とか」
「特にありません」
「あ、もしかして占いが好きだったりする?」
「興味ありません」

 信号が青に変わると、真中さんはスタスタと歩いていく。
 私は追いかけるように走り出し、彼女の後姿を眺めた。
 ではなぜ青いペンを挿してるのか。
 いつもちゃんと見ていないけれど、胸ポケットにはなにもなかった気がする。
 でも、どうしてかと聞いても「理由はありません」とか言われそうだ。

 とはいえ、ますます変だ。
 文化祭の立候補なんて、私が言うのもなんだけれど好き好んでする人は少ない。
 ましてや、人と関わることをまったくしなかった彼女が、なぜ。

 尋ねてみたい。でも、尋ねて何もなかったら? 「何となく」なんて言われてしまうと、私は、そんな気持ちでしないでほしいと思ってしまう。
 それもそれで実行委員の委員長としては良くないだろう。
 真中さんの気持ちはわからないけれど、もし心を表に出せないのならば私が気持ちを汲んであげるべきだ。

 私は、ひそかに決意した。この文化祭を通じて、真中さんが最後に楽しいと思えるようになってほしい。

「おい」

 後ろから低い声がして、背筋がゾクっとする。
 おそるおそる振り返ると、立っていたのは、鬼怒川くんだった。
 眼光が鋭い。私を睨んでいる。これは勘違いではない。

「ど、どうしたの」
「俺は絶対に面倒なことはしないからな。何も言ってくるなよ」

 そう言い残し、私を追い抜かしていった。
 鬼怒川くんは出席日数が足りないらしい。卒業まで休めないらしく、おそらくこの文化祭も出なければならない。
 きっと参加はするんだろうけど、実行委員に決まったことは気に食わないようだ。

 色々と不安だ。不安だらけだ。
 でも頑張りたい。私は、青春のキラキラを楽しみたい。

「おはよう喜多さん、文化祭実行委員頑張ろうね」

 爽やかな笑顔で私に挨拶をし、次々と現れる同級生と共に笑顔で去っていったのは相楽くんだ。
 良かった。彼がいてくれたら何とかなりそう。

 よし、やる気が出てきたぞ。

 絶対にこの文化祭を笑顔でやり通してやる。


 朝のHRを終え、一時限目が始まっても文化祭のことで頭がいっぱいだった。
 今年は念願の実行委員長になれた。まあ、立候補したからなんだけどね。

 ただ予想外の出来事もある。
 実行委員のメンバーのことだ。
 無表情で感情のない真中さん。何も手伝ってくれなさそうな鬼怒川くん。
 いつも明るくて優しいけれど、今日も休んでいる哀川さん。
 人気者で思慮深い相楽くん。

 うん、実質二人かもしれない。
 でもクジで決まったことだから不満は言わない。
 私が頑張ればきっとみんなついてきてくれるはず!

 二時限目を終えると、私は放課後へ向けてさらに調べものをしていた。
 このクラスのみんなは、おそらく『お化け屋敷』をやりたがる。
 今朝教室に入ると、ちらほらそんな会話が聞こえてきたから。
 できればそれを尊重してあげたい。
 ただ、他のクラスとは被ってはいけない。
 出し物は先着順、というわかりやすい制度が採用されている。要するに早い者勝ち。
 だから今日中に決めてしまえば私たちのクラスができる。

 そして、かくいう私も『お化け屋敷』をやりたいと考えていた。
 少女漫画の文化祭の定番でもあるし、ドキドキを通じて男女が仲を深めるきっかけになる。
 もちろん、和気あいあいとした青春としての思い出にも強く印象が残るだろう。


 お昼休み。私は、仲の良いいつものメンバーでお弁当を食べていた。
 ふと、真中さんが視界の端に飛び込んでくる。
 いつもは気にしていなかったけれど、一人で食べているんだな。

「陽香、『お化け屋敷』がいいよね?」
「え? あ、うん。そうだね!」
「うちのクラスで絶対やりたいよねー」

 突然話しかけられてビクっとするも、貴重な意見をいただいた。
 でも私の目は、丁寧な所作でお弁当を食べる真中さんに奪われている。

 いただきます、と小さく呟き、一人、手を合わせる。
 それからお弁当を開いて、小ぶりな卵焼きを一つ。
 当たり前かもしれないけれど、食事も静かなんだな。

 真中さんのことは高校から一緒になっただけで詳しくは知らない。
 特定の誰かと仲良くしているところも見たことがなかった。

 彼女は、文化祭が楽しみなんだろうか。
 感情がないとは、どんな感じなんだろうか。

 私は、いつのまにか真中さんのことを気にするようになっていた。

 
 放課後。部活が始まる前に30分ほど時間をもらった。
 どこのクラスよりも早く催し物を決めるためだ。

 壇上に立つのは私と相楽くん、そして真中さん。
 鬼怒川くんは机に突っ伏している。まあ、わざわざ目くじらを立てるほどではないから何も言わないでいる。

「それでは、クラスでの催し物を決めたいと思います。投票にすることもできますが、まずは意見を募りたいと――」
「お化け屋敷でしょ!」
「賛成! 俺お化けしたい!」
「私もお化け屋敷がいいな。文化祭といえばって感じがする」
「ありー」

 さっそく、私の予想が当たった。
 クラスで発言力のある同級生がこぞって声を上げると、空気が『お化け屋敷』一色になる。
 ほかにも少数ではあるが『メイド喫茶』や『ジェットコースター』などと言った意見も出た。
 何も言わない人たちもいるけど、きっと反対はないのだろう。

 すると、真中さんが率先して黒板に書いていく。意外にやる気があるのかもしれない。

「現状では『お化け屋敷』が一番人気みたいだね。多数意見でお化け屋敷でいいかな?」

 相楽くんが同級生を宥めながらまとめてくれる。
 うんうん、彼がいてよかった。

 お化け屋敷で決まりかけたとき、ずっと黙っていた一人がぼそりと呟いた。

「いつも中心になってる人たちの意見だけじゃなくて、みんなの意見を聞いた方がいいと思う」

 たしかに、発言しているのはいつも同じメンバーだ。
 やりたいことがあるなら同じように発言すればいいだろうけど、はっきり言えない人がいるというものわかる。
 
 文化祭は一部の人だけの物ではない。クラスみんなで作り上げるもの。
 みんなの意見を取り入れてこその青春だよね!

「だったら全員の投票にしようか。それが公平だね」

 相楽くんが言って、私も同意する。見たところお化け屋敷が多数ではある。
 おそらく結果は変わらないだろう。
 
 全員が小さな紙に何がいいかを書き、投票箱に入れる。

 次は開票だ。
 無事に決まると、次は実行委員が予算を算出する。それを先生に提出し、問題がないと判断されると予算が下りる。

 空気が少しピリリとなり、相楽くんが「真中さん、引いてもらっていいかな」と言った。

 それには私も驚いた。大役とまでは言わないけれど、責任重大である。
 でもそれが、相楽くんの優しさなのかもしれない。

 真中さんは特に盛り上げる言葉を発することなく、無表情でクジを引いて書かれてあることを読み上げていく。
 私は黒板に、出た案と正の字を書いていった。

 お化け屋敷、メイド喫茶、お化け屋敷、ジェットコースター。
 先ほどの話し合いにはでなかった演劇も入っている。

 今のところお化け屋敷が多いけれど、メイド喫茶も追い上げている。

 そして最後の一票になったとき、両者は並んだ。

 真中さんは躊躇することなく紙を開く。

「メイド喫茶と書いています。こちらで決定しました。よろしくお願いいたします」

 なんとも抑揚のない声で言い切り、担任の先生が「じゃあこれで、後はよろしく」と間髪入れず答えた。
 真中さんは黒板を消し去り、催し物が決まった余韻に浸ることもなかった。

 ここはもっとこう盛り上がるところなのにな。
 お化け屋敷ではないことに落胆の声がこだまする。

 いつも声を上げるのは中心メンバーだ。
 でも、メイド喫茶をしたい人たちが多かったのが事実。

 聞こえてくる声だけがみんなの意思ではないことに改めて気づかされた。

「えっと、みんな、頑張ろうね!」

 部活や帰宅する生徒たちがいる中、私は元気よく叫ぶ。
 開幕からクラスの雰囲気が下がってしまうなんて予想外である。

「ういーす」
「はーい」
「今日部活、外? 体育館?」

 文化祭の話はすでに消えて、バラバラになっていく。
 とはいえここからだ。いざ始まれば楽しくなるだろう。

「喜多さん、メイド服とか必要な物の予算わかったら教えてくれるかしら?」
「わかりました!」

 担任の言葉に私は強く頷き、自分自身を鼓舞させた。

「それと鬼怒川くん」
「……何すか」

 担任は、まだ机で突っ伏している彼に声をかける。

「実行委員なんだし、文化祭ちゃんと参加してね。このままだと留年するわよ」
「ちゃんとやりますよ。色々決まったら」

 鬼怒川くんは出席日数がギリギリ。それはみんな知っている。
 文化祭乗り気ではないだろうけど、来ない、ということはないだろう。
 
「今日は用事があるので失礼します。お疲れ様でした」

 真中さんは静かに教室を出ていく。鬼怒川くんは、「もう終わりだよな?」と続いた。

「あ、二人とも、また明日ー!」

 本当は実行委員で進めたいこともあったけど仕方ない。
 二人の背中を不安気に見ていたことに気づいたのか、相楽くんが明るい笑顔で声をかけてくれる。

「大丈夫。僕がいるから頑張ろう。ひとまず、メイド喫茶で出すメニューとか考えてみようか?」
「うん!」

 彼はいつも優しいと評判で、私もそう思う。
 だけど相楽くんだけに頼り過ぎるのも良くないよね。
 二人になった教室で、実行委員長の私がしっかりしなくちゃと鼓舞する。
 でもほんのちょっと、真中さんが出ていくとき寂し気な顔をしていたことが気になった。

    ◇

 私は朝から気合いを入れて用意を済ませ、電車に乗っていた。行く先は秋葉原。
 目的は『メイド喫茶』を知ること。

 私は文化祭を盛り上げたい。そのためには、実際のメイド喫茶を体験しておこうと思ったのだ。
 そのことを相楽くんに話すと「いいね。僕も賛成だ」とやはり爽やかな笑顔で返してくれた。

 ただ驚いたのは「それじゃあ周知しておくね」と言って、スマホを取り出すと、手慣れた手つきで実行委員五人のグループチャットを作ったこと。
 最近は、クラスでグループを作ることが多い。
 私たちも例にもれず、体育祭や、何かイベントごとがあるときに確認用として作っていた。
 そこからメンバーを集め、私たちだけの専用チャットを作ってくれた。

 タイトルは『文化祭実行委員』で、メンバーは私、相楽くん、真中さん、鬼怒川くん、哀川さんの五人。
 そこへ最初のメッセージが「みんなでメイド喫茶へ行こう」だった。

 私は内心アタフタしていたが、既読は思いのほか早くついた。まず真中さんが「わかりました」と言った。何とも”らしい”なと思った。
 鬼怒川くんは「パス」。
 いつも明るい哀川さんは既読スルーだった。
 お金もかかるし、突然のお誘いだから仕方がない。

 秋葉原の駅に到着し、北口の改札へ向かった。
 待ち合わせ予定時刻とほぼ同じ。先に到着していたのは真中さんだった。

 黒髪、前髪は少し目にかかっている。私服を見るのは初めてだ。
 デニム地のロングスカートに、サマーニットのカーディガン。
 いたって普通の服装だ。でもその普通が、意外だと感じた。

「おはよう! 早いんだね。真中さん」
「おはようございます。待ち合わせ場所には十分前に着いておくと良いと本に書いてありました」
「え? あ、そ、そうなんだ?」
「はい」

 当然です、と言わんばかりの返答に私の到着が遅かったのかと思ったけれど、特に他意はないらしい。
 相楽くんはまだなのだろうかと思っていたら、真中さんが「それじゃあ行きましょうか」と歩き出した。

「え、どこへ!?」
「メイド喫茶ですが」
「相楽くんがまだ来てないよ?」
「先ほどグループチャットで体調が悪くなっていけないと書いていました」

 慌てて確認すると、確かにそう書かれていた。一時間前だ。
 電車が混雑していたので見られなかった。

 私は追従するように真中さんの後ろを歩き、頭を整理する。

 もしかしてだけれど私、これから真中さんと二人でメイド喫茶へ行くの?

 いや……そうだよね?

 だ、大丈夫かな。

 ――『頑張るあなたは輝いている』

 そのとき、ふとポスターが目に入る。
 私の好きな少女漫画のイラストと主人公のセリフ。

 そうだ、頑張ろう。これも文化祭の為だ。キラキラした青春のためだ。

「真中さん、今日は体験みたいなものだけど、一緒に楽しもうね!」
「わかりました」

 真中さんは、相変わらず無表情だった。

    ◇

 秋葉原に来たのは久しぶりだな。
 幼い頃は父に連れられて本屋へ行き、漫画を買ってもらっていた。
 思えば少女漫画が好きになるきっかけの聖地でもある。
 ただ最近はネットでの購入が多くなってしまい、めっきりこういったところへは足を運ぶことはなくなっていた。
 街はすっかり様変わりしている。電気街といえばそうなのだろうけれど、電光掲示板は見えないし、近代化が進んでいるからか、チェーン店も多い。まあ、私はそんな古くから知らないけれど。

 それもあって道がよくわからなかった。でも驚いたことに、真中さんは迷いなく右、左と曲がっていく。

「真中さん」
「はい」
「もしかして秋葉原へはよく来るの?」
「初めて来ました」
「……え?」

 GPSを見ている素振りもない。メイド喫茶は表通りではなく、路地裏の一角にあった。
 でも、そこまで一度も迷うことなく到着した。

 入口は一階で、外はガラス張りで店内が見える。
 思っていたよりも広くはないが、メイド服を着た女性が接客をしている様子がうかがえる。

 ほかにもメイド喫茶はいくつかあったが、ここにしたのには理由がある。

 昨今はガールズバーなるものが多く、メイド喫茶とは表向きで、私たちのような子供が入ると場違いになるらしい。
 さらにぼったくりのお店も増えているとのことだった。色々と調べた結果、ここ「めいどちゃーみんぐ」に決めた。
 入口の看板には、私が思ってたよりも豊富なメニューが、可愛らしい文字で羅列していた。
 ありがたいことに値段も書いていた。安価で、席代もなしと書かれている。
 でも、いざ入店しようとしたら緊張してしまった。初めてのメイド喫茶。それに店内はやはり男性が多い。

 というか、真中さんは本当に大丈夫なんだろうか。
 感情がないということは、私のように文化祭を楽しみたい、なんて思っていないかもしれない。
 実行委員に立候補した理由はわからないけれど、無理をさせていないだろうか。

 でも私の想いとは裏腹に、真中さんはいたって堂々と扉を開けた。

 店内に人が入った音を知らせるチャイムが鳴り響くと、メイド服を着た女性がすぐに迎えてくれた。
 太ももが見え隠れするようなミニスカートではなく、くるぶし丈の黒いスカートを履いている。
 ここのメイド服は、現代の流行りものではなく、どちらかというと本場寄りだと書かれていた。
 私たちがやるメイド喫茶も、おそらくこのテイストになるだろう。
 
 それにしてもすごく可愛いな。メイド服って、思っていた以上に素敵かも。なんだかワクワクしてきた。

「おかえりなさいませ、お嬢様!」

 すると店員さんは明るく言った。聞いたことのない言葉に驚く。てっきり、ご主人様と言われると思っていた。
 あ、そうか。私たちは女の子だからか。

「ただいまです。二人です」
「はい! でしたら、まずはこちらへご案内いたします!」

 真中さんは間髪入れず返し、私たちはテーブルへ案内される。

 ん……ただ、いま?

 席に座って、メイド店員さんがメニューを取って来るのでお待ちくださいと笑顔で接客してくれた。
 ピンクを基調としたテーブル、可愛らしく装飾された壁を見て思わず心が和む。
 教室もこんな感じにすればいいかも。異世界感というか、雰囲気作りって大事だな。
 さっそく体験に来た意味があるとメモしつつ、真中さんに尋ねる。

「真中さん、さっきの『ただいま』って、どういうこと?」

 もしかして間違えたのだろうか。おかえりなさいませって言われたから、反射的にただいまって言ったとか?
 すると彼女は当然のように口を開いた。

「メイド喫茶では、男性は旦那様、ご主人様、女性はお嬢様、ご主人様の認識で接客されるそうです。なので、ただいま、と言って入店するのが正しいそうです」
「……え、そうなの?!」
「もちろん、言わなくても問題はありません」

 お店のことは調べていたけれど、そこまでは知らなかった。
 同じようにメモしておく。

「真中さん、秋葉原は初めてって言ってたよね?」
「はい」
「どこかでメイド喫茶へ行ったことあるの?」

 まさかバイトしていたとか? いや、流石にそれはないか。

「ありません。今日、メイド喫茶へ来るとのことで調べました」
「調べた? そうなの?」
「はい」

 真中さんのことは詳しく知らない。
 唯一知っているのは、ずっと無表情なことと、情感欠損症候群(じょうかんけっそんしょうこうぐん)という、非常に珍しい病気を患っていることだけ。
 学校で先生がそのことを周知してくれた。真中さんは成績も優秀で、無表情なところ以外は特に変わったところがない。
 なので、初めはみんな驚いていたけれど徐々に誰も気にしなくなっていった。

 ただ、欲、というものを真中さんから感じたことはない。
 言われたことをやる、授業に出る、ただ真面目で誰とも関わらない女子生徒、という認識だった。

 だからこそ文化祭に立候補したことは驚いたし、今日、メイド喫茶へ来ることを了承してくれたのも、言われたからではないかと思っていた。

 実際、それはそうかもしれない。

「すみません。私、何かしましたか」
「え? 何が?」
「何となく考え込んでいるような表情でした。私には他人の気持ちがよくわかりません。何かあったのなら申し訳ございません」
「ううん、ごめんね。何もないよ。真中さん、凄いなと思っただけ」
「凄い? 私がですか?」
「そう。何も言わずに調べてくれて、ありがとうね!」
「いえ、文化祭実行委員ですから」

 当然のように無表情で言い切る真中さんを見て、私は思わず笑顔になった。

 初めは相楽くんがいなくてどうしようかと思っていた。
 でも、何だか上手くやっていけそう。

「それではお嬢様、こちらから好きなものをお選びください」

 Aラインの黒いワンピースに白いエプロンのメイド服を着た女性が、満面の笑みでメニューを見せてくれた。
 通常メニューとその横に、オプションメニューが大きく書かれてある。

 ♡メイドとカンパイ 1000円♡
 ♡メイドとチェキ 1000円♡
 ♡メイドとゲーム 1000円♡
 ♡メイドオリジナルグッズ 1500円♡

 これが、メイド喫茶の醍醐味なんだろうな。
 メニュー表もピンクを基調としたハートマークが多く、可愛らしい。こういうところも勉強になる。
 もちろん飲食店なので、定番のメニューもしっかりとある。バイトもしていない私はお小遣いしかなく手持ちが少ないので、安価なランチセットだけを頼む。
 真中さんは、メニューを眺めたまま動かず、メイドさんはニコニコしながら返事を待っていた。

「お嬢様、いかがなさいますか?」

 決めるのに時間がかかっても嫌な顔ひとつしないで、優しく待ってくれる。
 クチコミで高評価されていることも頷ける。やっぱり、笑顔が素敵なのっていいな。
 そして驚いたことに、真中さんはまったく表情を変えず、ランチセットとチェキを選んだ。
 メイドさんが「はーい♪」とにこやかに返事をして、厨房へ戻っていく。

「真中さんお金は大丈夫?」
「はい」
「確かにここへは体験としてきたけど、無理しなくていいからね?」
「はい」

 相変わらず無表情で何を考えているのかはわからないが、楽しんでくれているのかもしれない。
 会話は決して弾むことはないものの、沈黙も案外心地いいなと気づいてくる。
 そのおかげというべきか、周りをじっくりと見ることもできた。
 メイド服は、よく見ると個々の違いがある。カチューシャをつけていたり、エプロンにフリルやレースがついていたり。
 静かにメモを取っていると、ポラロイドカメラを片手にさっきのメイドさんが戻ってきた。

「ポージングはどうなさいますか? ハートにますか? ピースにしますか?」
「どちらでもいいです」
「では、ハートにしますね! 私の左手に、同じように合わせてみてください!」
「はい」

 凄い。真中さんは口数が少ないのに、流れるようにチェキを撮影している。
 ジジジとプリントされた写真には、いつもと同じ表情でメイドさんとハートを作る姿が写っていた。

 私はそれが可愛くて、ついつい笑顔になってしまう。

「ではまた何かございましたら、メイドにお申し付けくださいね! お食事はただいまお待ちいたしますので!」

 メイドさんが戻っていっても、真中さんは写真を両手で掴んで眺めていた。
 心の中では、何を考えているんだろう。

 私は、段々と真中さんに興味を持っていた。

「ねえ、真中さんって普段は何してるの?」

 ほどなくして届いたランチセットのオムライスを食べながら、合間に話しかけてみる。
 スマホは持っている。ということは、誰かと連絡を取り合ったりしてるのかな。

「家にいます」
「ええと、予定がない日は?」
「家にいます」
「……学校が終わったりしてお出かけしたりは?」
「しません」

 会話が早々に終了し、ふわとろオムライスを口に運ぶカチャカチャとした音が私たちの間で流れた。
 いや、家にいることがわかった。前向きに考えよう。
 そもそも、私も大抵は家にいる。突き詰めると同じ答えになるはずだ。

 ん、でもそうなると――。

「じゃあ、今日は久しぶりのお出かけってこと?」
「はい。それどころか、初めてです」
「……初めて?」
「同級生と二人で出かけたのは初めてです」
「え、そうなの!?」
「はい」

 私が想像していたことよりも衝撃的な事実に、思わずオムライスをこぼしそうになった。
 学校で特定の誰かと仲良くしているところは見たことなかったけれど、まさか初めてだったとは。
 ……初めてが私で良かったのかな? 純粋なお出かけというより、私が漫画ようなキラキラした文化祭を再現したいという、わがままから始まったみたいなものだし。何だか申し訳なくなった。

 食事を終えると、人が増えてきていた。長居をするわけにもいかないのでお会計を済ませる。
 最後のお見送りは「いってらっしゃいませ」だった。このあたりも、しっかり真似しようと思う。

 今日の予定は終わり。すると、真中さんが私のことを見つめていた。
 彼女の目はみんなとは違う。少し虚ろで、でも真っ直ぐで、何だか見透かされるような感じがしてドキッとする。

「今日はありがとうございました。思い出になりました」

 突然の言葉にハッとする。真中さんは、深々と頭を下げた。
 ふたたび、メイド喫茶へ来たときのように歩き出す。
 その方向は駅だ。

「ねえ、真中さん」

 気づけば呼び止めていた。朝、待ち合わせのときは気まずいと思っていたけれど、今はそんなことこれっぽっちも思っていない。
 それどころか、もう少し話したいとさえ感じている。
 それに、彼女の初めてのお出かけをここで終わりにしたくなかった。

「せっかくだし、もう少しだけ秋葉原を散策していかない? その、真中さんが良ければだけど」

 真中さんはクルっと振り返り、変わらない無表情で

「はい」

 静かにそう言ってくれた。

 ただ、咄嗟に呼び止めてしまったけれど、どこへ行けばいいのだろう。
 秋葉原にはよく来るわけじゃないし、様変わりしていて知ってるところがほとんどない。
 もう一軒、メイド喫茶に行くほどの金銭的余裕もないし……。

 ……そうだ。

「真中さんって、本は好き?」
「はい。よく読みます」
「そうなの? だったら、本屋でもいいかな? 秋葉原じゃなくてもあるから、何だか申し訳ないんだけど」
「大丈夫です」

 良かった。そういえば、メイド喫茶のことも詳しく調べてたって言ってたし、何か読んだりするのは元々好きなのかな。

 するとまた、私を見つめていた。真中さんは身長が私より低いので、上目遣いでジィと見つめられている。

「どうしたの?」
「いえ、本屋の場所がわからないのでついていきます」

 ああ、そういうことなんだ。ちょっと子供みたいなところもあって可愛いかも。
 秋葉原で一番有名な本屋なら地図を見なくてもわかる。
 視線を空に向けると、ひときわ目立つ、大きなタワーを見つけた。

 私の少女漫画好きは、あのタワーから始まったと言っても過言ではない。
 たまたま訪れたときにサイン会が開かれていて、私は、訳も分からず並んだ。
 思えば失礼だった。どんな作品なのかも知らないのにだ。
 今ではその本が私の大切な宝物となった。

 けれど、私は友達にあまり言わないようにしていた。
 小学生のとき、男子生徒にオタクだと揶揄われたからだ。
 ずっと根に持っているわけじゃないけれど、何だか未だに誰かに話すのは怖い。

 少女漫画を読んでいることは、なにも恥ずかしいことではないのに。

 タワーに到着し、さっそく入店した。
 本屋の一階は、今話題となっている書籍が置かれていることが多い。
 映画上映中だとか、ネットでバズったとか、流行りの参考書だとかが置いてある。

「真中さんはどんな本が好きなの?」
「特にはありません。基本的には勧められたものを読みます」
「それって、例えば?」

 何気なく尋ねた一言だったが、真中さんはエスカレーターに乗り、私を三階まで連れていった。
 そこには専門書が置かれた階で、向かったコーナーには医学書などが沢山置いてあった。どれも難しそう。高校生の私たちが決して読むようなものではない。

「例えば最近はこちらを読みました」

 一冊の本を手に取り手渡してくれた。タイトル『他者との関わり方』。
 不謹慎かもしれないが、私は思わず笑顔になった。

「真中さんって努力家だよね」
「そうですか? ただ勧められたので読んだだけです」
「私は凄いと思うよ」
「ありがとうございます」

 彼女は、半ば反射のようにお礼を述べる。もしかして本で学んだのだろうか。
 『凄い』と言われたらお礼を言う、とか。
 感情がないということは、たとえ褒められたとしても『嬉しい』とは感じないということ。
 真中さんの、ありがとうにはどんな意味がこもっているのだろう。

 こっそり情感欠損症候群の本を探して見たけれど見当たらなかった。確か、凄くめずらしかったはず。
 本も出てないのかな。でも、それって凄く大変そう。

 その後、何となく四階へ。そこで、私は驚きの本を見つける。

「え、なんで、ここに!?」

 私の大好きな少女漫画の復刻版が出ていたのだ。
 中身は変わっていないらしいけれど、表紙が新装版になっている。
 家にあるけれど、手に取ると欲しくなった。

「どうしたのですか」
「見てこれ、新しいのが出たって。私が好きな漫画なんだよね」
「どんな話なのですか」
「基本的には、よくある少女漫画なんだけど、主人公の価値観がカッコよくて好きなんだよね。三巻で文化祭があってね、私は、それに憧れて実行委員したいなと思って!」
「そうなんですか」
「真中さんはどうして――」

 興奮気味に話しかけている、そのことに気づいた私はハッとなり、本を戻した。
 真中さんはよくわからないだろうし、一人で盛り上がってしまって、気遣いが足りなかった。
 自己反省しつつも、本を見ているだけで気づけば夕方になっていた。

「真中さん、今日はありがとう。私、こっちの路線から帰るね」
「はい。こちらこそありがとうございました」

 想像していたよりも何倍も楽しかった。
 メイド喫茶の体験も、真中さんとのやり取りも。
 でも、彼女にとってはどうだったのだろう。本屋へ行ったのは失敗だったかな。

「喜多さん」

 すると真中さんは私の名前を呼んだ。彼女に名前を呼ばれると、なんだかドキリとする。

「良かったら撮影させてもらえないでしょうか」
「……え? どういうこと? 撮影?」
「本に書いてありました。お出かけをしたら、思い出を残したほうがいいと」

 思い出? 撮影?

 そこで、ハッと気づく。

「もしかして、写真ってこと?」
「そうです。スマホで撮影させてもらえないでしょうか」

 丁寧な言い方で気づかなかった。真中さんは小さなショルダーバッグからスマホを取り出し、私の顔を見つめてくる。
 よく見ると猫みたいだ。

「もちろん、いいよ」
「ありがとうございます」

 真中さんはお礼を言うと、恐ろしい速度で私だけを”撮影”した。
 スマホをバッグに戻し、そして「ありがとうございました」と頭を下げる。

 え……、私だけ!?

「どうせなら二人で撮ろうよ!?」
「二人? あと一人は誰ですか」
「真中さんと私。というか、多分、思い出ってそういうことだよ」
「そうなのですか」

 もう一度スマホを取り出すけれど、真中さんはどうやっていいのかわからず困っていた。
 私は、優しくスマホを傾け、インカメラの操作をしてあげる。

「これで大丈夫。私が撮るね」
「はい」

 ただの駅で自撮りなんてしたことはない。でも不思議と恥ずかしくはなかった。
 何枚か撮ると、真中さんにも見せてあげる。
 もちろん、「ありがとうございます」とだけしか言わないけれど。

 というか私、結構嬉しそうに笑っている。

 いや、真中さんと対比になっているからそう見えるからかも。

「今日はありがとうございました。思い出になりました」
「こちらこそ。また、学校でね」
「はい。写真、送ります」

 そう言って、真中さんはサッと振り返って帰って行く。
 何だか名残惜しいのは私だけだろうか。

 そういえば、なんで文化祭の実行委員になったのかを聞きそびれてしまった。
 でも、まだ時間はいっぱいある。

 今日は楽しかった。
 とても勉強になったし、メイド喫茶の準備も頑張って、みんなを楽しませたい。

 ――ピロン。

 電車に乗り、さっそく着信音が鳴った。
 写真を送ってくれたのかなと思っていたけれど、添付先はまさかグループチャットだった。

 そこには、何枚もの私たちのツーショット写真が貼られている。
 ピンボケしていたり、少しアップだったり、嬉しそうな私だったり。

 個人的に送ってくれればいいと伝えるのを忘れた。
 なんて恥ずかしいんだ。鬼怒川くんは「はあ?」って言ってそう。

 すると既読がついた。哀川さんかな?

 いや、相楽くんだった。

『二人とも楽しそうだね。僕も行きたかった。写真、ありがとう!』

 恥ずかしい。恥ずかしいけれど、帰りの電車の中、私はずっと、真中さんとの写真を眺めていた。

    ◇

 文化祭に向けて、本格的にメイド喫茶の準備が始まった。

 真中さんと体験してきたおかげで、やるべきことが明確に分かったので、詳しい予算を提出した。
 私たちのクラスはどこよりも早かったらしく、担任に褒められた。
 机と椅子は教室のものを使えばいいけれど、肝心のメイド服は買わなければいけない。
 あまりにも安っぽいと気分がのらないので、今は良い物がないか日々探している。
 飲み物と食べ物は市販の物にトッピングして、アレンジしたものを使う。
 これはメニュー考案も含めて、料理が得意な生徒に任せることが決まった。

 あとは手作りで作らなければいけないものを進めていく。
 看板、メニュー表、テーブルクロス、壁の装飾といったものだ。

 真中さんは相変わらず無表情で何も変わっていない。でも、私は何となく彼女に声をかけることが増えていた。
 返事はいつも素っ気ないけれど、私と同じで文化祭を成功させようと思ってくれている、と感じるから。

 文化祭は約一ヶ月後、使える時間は限られているので細かな予定表を作った。
 どの曜日、どの程度の時間が使えるのか。

 そして放課後、その予定表を、鬼怒川くんが配っている。

「ほらよ」

 彼が手伝い始めたのは、突然のことだった。
 出席日数が足りないらしいので、このままでは進級が危ういと思ったからだろうか。
 もちろん人手が増えるのはありがたいけれど、乗り気でない鬼怒川くんにお願いをするのは気が引ける。

 そう思っていたら――。

「鬼怒川くん、こちらのプリントもよろしくお願いします」
「あー、はいはい」

 真中さんが私の代わりに言ってくれたのだ。
 ありがたい反面、申し訳ない気持ちもある。

 鬼怒川くんはいつも凄むし怖い。そして、ある噂を聞いたことがあった。

「喜多、次は何したらいいんだよ」
「え? あ、そ、そうだね! えーと、体育館から備品を持ってきてほしいんだけど……いいかな?」
「体育館? めんどくせぇな」

 ふてくされながらも、しぶしぶ了承してくれた。相楽くんが一緒に行くと申し出てくれたので、一安心する。

 彼は、中学の頃に問題を起こしたそうなのだ。
 数人の男子生徒を殴り、大怪我をさせてしまったという。

 確かに怖いことだ。でも、彼が実際に誰かを傷つけたところは見たことがない。
 威圧的なことは間違いないけれど、本当に人を殴って怪我をさせたのだろうか。

 そう思ったのは、表面上だけでは人の本質はわからないと気づいたから。
 真中さんのことをよく知ったから気づけたこと。
 私は彼女をただの地味な女の子だと思ってしまっていた。
 でも違うとわかった。無口で何を考えているのかはわからない。けれども、人の話は真剣に聞いてくれるし、真面目ではっきりしている。

 だから鬼怒川くんも、もしかしたら違うんじゃないかな――と。

「ねえ喜多、これうちらがやるの? 実行委員の仕事じゃないの?」

 すると、クラスメイトの一人が私に声をかけてきた。

「ごめんね。私たちもやることがあって、みんなで手分けしてできたらよりいい物ができるから!」
「ふうん、別に、これって私のやりたいことじゃないけどね?」
「私もー、ちょっと仕事多すぎ―」

 彼女たちが『お化け屋敷』に投票したことは知っている。だから、メイド喫茶は気が進まないんだろう。
 気持ちはわかる。けれど、決まったことなので申し訳ないと思いつつお願いする。

「はーい。実行委員長さーん」

 わかってくれたみたいで安心した。彼女たちも楽しんでくれるといいな。

「喜多さん、黒板アートに使うプロジェクターの件ですが、ほかのクラスの申請が早かったそうです。文化祭の前日なら使えるとのことです」

 前日か。急いで仕上げないといけないな。
 
 教室を可愛く装飾するために、黒板アートにもこだわりたいと思っている。
 絵を上手く描けなくても、プロジェクターで映してなぞることで、素敵な絵が完成する。
 これも全部、少女漫画の受け入りだけれども。

「ありがとう真中さん。色々頼んでしまってごめんね」
「いえ、仕事を振ってもらえてありがたいです。私は空気が読めないので、こういう大人数でやる仕事は苦手ですから」

 相変わらず無表情でとんでもないことを言い放つ。

 俯瞰的にクラスメイトを眺めていると、今から始まるんだなあと心が躍るようだった。
 私の手だけじゃなくて、みんなで作り上げる。
 これは何回も経験できることじゃない。だから、今を大切にしたい。

「でも、さっきのは何だか変ですね」
「ん、変って?」
「あの人たちは、文化祭が楽しくないのでしょうか。やりたいことじゃない、と言ってました」

 ドキっとした。真中さん、そういうところもちゃんと聞いているんだ。
 でも感情のことだから理屈では説明できない。
 それを彼女に伝えると困惑しちゃうだろうな。

「……そんなことないよ。きっと、楽しんでると思う」
「そうですか。私の勘違いでした」

 勘違いとも言えないかもしれない。でも、今ここで否定できるほどじゃなかった。

「これどこに置くんだよ」
「ただいま、持ってきたよ」

 鬼怒川くんと相楽くんが、備品が入った段ボールを持ってきてくれた。
 よし、文化祭まで頑張るぞ!

「ったく、おもてえなこれ」
「ご、ごめんね!?」
「謝るくらいなら別の奴に頼めよ」

 ブツブツと文句を言ってはいるけれど、思っていたよりもちゃんと手伝ってくれている。
 これを機会に、鬼怒川くんとも仲良くなれるといいな……。

    ◇

 予定表を作ったことにより、それぞれの役割も明確になっていた。
 やらなければいけないことがわかりやすいと褒めてもらえることも増えて、私も嬉しかった。

「――喜多」

 お昼休み、パンを購入して中庭で一人、食べていた。
 いつもは友達と一緒に食べているけれど、考えごとをしているときは一人のほうがいい。

 男性は執事なので燕尾服の予定だ。幸い、それはネットで安く購入することができた。
 来週届く予定で、意外にも男子生徒は大喜びだった。やっぱり、一度は憧れるのかもしれない。

「喜多、聞いてるのかよ」
「ん? き、鬼怒川くん!?」

 ふと顔を上げると、恐ろしい眼光で睨まれていた。
 といっても、彼はいつもこうだ。別に何かされるわけじゃないけれど、どうしても驚いてしまう。

「さっきから呼んでるんだけど」
「ごめん。気づかなかった。どうしたの?」
「服、決まったのかよ?」
「え? 服? ああ、燕尾服は来週に届く予定だよ。予定表にも書いたと思うけど」
「……そっちじゃねえ。もう一つのほうだよ」

 もう一つ?

「もしかして、メイド服のこと?」
「……ああ」
「今調べてるところだよ。色々悩んじゃって」

 一瞬、何のことかわからなかった。もしかして、メイド服っていうのが恥ずかしかった……とか?
 そんなわけないか。

 私の返答に、鬼怒川くんはどこか言い出しにくそうな表情を浮かべる。
 教室で聞けばいいのに、なんで昼休みにわざわざ中庭まで聞きに来たんだろう。

「早く決めろよ。文化祭まで時間あるっていっても、ずっと飾り作ってばっかだとつまんねえぞ」

 痛いところを突かれてしまって、ドキリとする。
 彼の言う通り、肝心のメイド服がまだ決まっていない。
 ネットで調べたり、時間があるときにお店を回ったりしているけれど、本格的なものはどれも値段が高い。
 予算内で買えて、それでいてみんなが喜んで着られるようなものはどれなのか、調べるだけで日々時間が過ぎていった。
 本来は既に届いている予定だったので、接客の練習は制服のまましている。

「ごめん。でも、ちゃんといい物を探してるとこだよ」
「別にいい物じゃなくてもいいだろ」

 その言葉に私は少しムッとした。メイド喫茶へ行ったとき、メイドさんたちはとても綺麗なお洋服に身を包んでいたのだ。
 生き生きとしていたし、可愛くて、見ているだけでも楽しめる。
 あの気持ちを味わってもらうためにも、適当に選ぶことなんてできない。

「そんな適当なことはできないよ」

 いつもと違って強い言葉を使ってしまい、途端に焦る。
 ……偉そうなこと言っちゃったかも。

 怒られると思っていたら、鬼怒川くんはなぜかため息をついた。

「わかってる。いいから早く決めろよ」

 まるで私を心配しているかのような言葉を残すと、校舎の裏へ向かっていく。
 もうすぐお昼休みが終わって五時限目が始まるんだけれど……もしかしてサボるのかな。

 でも、なんで彼は私にそこまで言ってきたんだろう。

 意外にキッチリしたいタイプなんだろうか。


 放課後、私は家庭科準備室で備品を探していた。
 銀の食器があるらしく、特別に使っていいそうだ。
 ただ、どこに仕舞ってあるのかわからないらしい。
 段ボールの箱に書かれた文字を確認しながら開けてみても、てんでバラバラだった。
 片付けの際に適当に収納したんだろうな。
 でも、銀のお皿があればより雰囲気が出るはず。みんな喜んでもらえると思うと頑張れる。

「隣のクラスマジでおもしろそうじゃんね。あー、お化け屋敷が良かったなあ」
「わかる。私らいつまで工作すればいいのって感じだよね」
「喜多が悪いんじゃん? なんかハリキっちゃって」

 するとそこで女子の声が聞こえてきた。
 私の名前にビクついて、咄嗟に隠れる。

 三人とも同じクラスの子だ。常におしゃべりするほど仲が良いわけじゃないけれど、会話はよくする。

「予定表なんてあるのうちらのクラスだけらしいよ」
「そうなの? なんかダルいよね。文化祭、もっと楽しくできると思ってたのになー」
「だよね。マジの喫茶店作りって感じで堅苦しいわ」

 備品を探しにきたらしく、段ボールを降ろしながら笑い合っている。
 彼女たちの言葉に、私の心臓が鼓動を速める。

 どうやら私が良いと思ってやっていたことが、裏目に出ていたのかもしれない。

 隠れて後ろから出ようとするも、段ボールとぶつかって落としてしまう。
 音に気づいた彼女たちは、私の姿を見つけてしまった。

「あー、喜多さんいたんだ。大丈夫?」
「やば……」

 やってしまった、という表情だ。
 もちろん、その意味はわかっている。

「だ、大丈夫! もしかして何か探しにきたの? 手伝おうか?」

 聞こえていなかったふりをして、なんでもないように笑顔で答える。
 けれども、一人の女子が、はあ、と声を上げた。

「あのさあ、うちらいつまで飾りばっかり作ってたらいいの? 黙々と作業してるだけでなんも楽しくないんだけど」
「ちょ、ちょっとやめなよ」
「もうさ、言ったほうがいいじゃん? みんな言ってるよ。きっちりしすぎて疲れるって」

 その言葉に、頭を殴られたような衝撃を受ける。

 みんな、言ってる?

「え、ど、どういうこと――」
「別に真面目にメイド喫茶なんてやりたくないってこと。ただ、楽しくやりたいだけなのにあれしろこれしろって、まるで労働みたい」

 強い言葉だった。私のしたことはすべて空回りしていたのだろう。
 思えばみんなのためというよりは、私は、自分のための文化祭を作ろうとしていたのかもしれない。
 謝ろうとしても言葉が出なかった。明るいことが取り柄だったのに、何も言い返せない。

「それは、言いすぎではないでしょうか」
 
 そこに現れたのは、真中さんだった。
 いつもの無表情は崩さず、私に近づいてきて、手を伸ばしてきてくれた。
 ゆっくり掴むと、そっと引っ張られ、立ち上がる。

「大丈夫ですか」
「う、うん。ありがとう……」

 すると真中さんは振り返り、彼女たちに顔を向けた。

「『みんな』とは、そこにいる人全員を指します。私は他人をよく観察していますが、装飾作りを楽しんでいる人も多いです」

 真中さんの声は抑揚がほとんどない。聞き取りやすくて、それが頼もしくも感じる。
 
「あ、そ。少なくとも私たちは楽しんでないけど?」
「でしたら『私たちは』と言うべきです」

 淡々としているけれど、言葉が強い。もしかして、私をかばってくれているのだろうか。
 だったら……嬉しい。

「真中さん、ありがとう。でも、私も悪いんだよ」
「そうですね」
「「「……え?」」」

 まさかの返しに、私たちは同じ疑問を抱いた。
 そこは、『そんなことないです』じゃなくて!?
 
「少なくとも『楽しんでいない』人がいることには気づくべきでした。文化祭実行委員として、申し訳ございません」

 真中さんは突然謝罪を述べると、ペコリと頭を下げた。
 私も慌てて頭を下げる。

「……別に謝ってほしかったわけじゃない。私こそごめん。『みんな』とか適当なこと言っちゃったこと、謝る」
「私たちも陰口なんて言ってごめん」
「ごめんなさい」

 みんなで謝ることになってしまい、顔を見合わせ、クスリと笑いがこぼれる。
 その光景を見て、真中さんは首を傾げていた。

「ここは笑えるところなのでしょうか」

 彼女は感情がわからない。でも、私たちのことをよく見てくれている。
 それが、嬉しかった。

「私たちもわからないんだよ。でも、真中さんの気遣いが嬉しかった」
「そうなのですね」
「……決めた。一度、教室に戻ってみんなに話したいことがある」

    ◇

「メイド服は手作りで準備したいと思います。元となる型は用意するので、装飾と同じで、それぞれの好みに合わせて作って着る、というのはどうでしょうか?」

 教室に戻って、みんなの前で伝えた。
 ここは本物のメイド喫茶じゃない。本格的にしようと思って楽しくなくなるなんて本末転倒だ。
 だったら、みんなが楽しめるような雰囲気作りをしたい。
 
 すると、さっきの女子生徒が声を上げた。

「私は賛成。既製品を着るだけじゃつまらないし、個性が出て楽しそう」
「時間によってタイプの違うメイドで接客するようにしたらどう? 何度も来てくれる人が増えるんじゃない?」
「私ゴスロリっぽくするー!」

 彼女たちをきっかけに教室がワッと盛り上がる。
 女子生徒はどんなメイド服にしようかと嬉しそうに話をしたり、男子の中にも燕尾服をアレンジしようかと言っている人もいる。
 みんな、ワクワクしていて楽しそう。

 私は、そのとき気づいた。

 ああ、これこそが私のやりたかった文化祭だと。
 
 私はみんながキラキラしている姿を見たかったんだ。

「真中さん」

 帰り道、私は真中さんを呼び止めた。いつも一人で早く帰るので、急いで追いかける。

「どうしましたか」
「一緒に帰ろう? いい?」
「はい」
「今日はありがとうね。真中さんのおかげだよ」
「私は何もしていません」
「そうやって謙遜するんだから」
「していません」

 不思議だ。彼女と話していると落ち着く。
 何も気を張らなくていい。

 そのとき、私は彼女の鞄についていたキーホルダーに目を奪われた。

「真中さん、これどうしたの!?」

 私の好きな少女漫画のクリアホルダーだ。
 でもなんで!?

「漫画を購入したらついてきました。鞄につけてね、と書いてあったので付けました」
「え、買ったの!?」
「はい。喜多さんが漫画のことをとても楽しそうに話していたので、読めば、その感情がわかるかもしれないと」
「……真中さんって、感情がまったくないの?」

 私は、ずっと気になっていたことを尋ねた。

 彼女は足を止め、空を眺める。

「ありません。だから、みんなの言葉や表情をよく見ています。空気を読めないとよくいわれますが、その言葉の意味はまだ理解できません」
「そうなんだ……。漫画は、どうだった?」
「わからないことが多いです。でも、喜多さんが楽しんでいるのはここなのかなと考えながら読んでいます」
「それって、どんなところ?」
「例えば、文化祭で使うクラス看板に絵の具のバケツが倒れて台無しになってしまったときに、主人公が滲んだ絵を活かして上手く仕上げ、クラスメイトから称賛されるシーンですかね」

 めちゃくちゃ読み込んでる。
 それに私が好きだと言った三巻の文化祭でのシーンだ。逆境を乗り越える主人公がかっこよくて、そんな主人公に周りも変わっていく姿が感動するんだよね。

「すごいよ。当たってる!」
「それはよかったです。喜多さんことを知ることができたようです」
「私のこと、知ろうとしてくれてるの?」
「はい」
「なにそれ、可愛い」

 思わず微笑んでしまう。真中さんは真面目で素直で可愛い子だ。

「今のがですか?」
「そうだよ。真中さんは、ずっと可愛いよ」
「初めて言われたかもしれません」
「じゃあ、これからもたくさん言うよ」
「ありがとうございます」

 否定も肯定もしない。ただ、ありのままを受け入れる。
 それって、凄く良いことだ。

「真中さん、またメイド喫茶一緒に行こうね」
「はい」
「そういえば、一つ聞きたいんだけど、文化祭……楽しめてる?」
「わかりません。でも、みなさんが楽しいと感じていることを理解したいと思っています」

 感情を知らない真中さんはとっても勉強家だ。
 私は少女漫画で見た文化祭を作り上げたかった。
 でも今はもう一つ、やり遂げたいことがある。

 真中さんが、『楽しかった』と言えるような文化祭にしたい。

「じゃあ、頑張ろうかな」
「喜多さんが頑張るのですか?」
「そう、真中さんを笑顔にしたいからね」
「してください」
「あはは、面白いねえ」
「初めて言われました」

 その後も漫画の話をたくさんした。
 真中さんの感想は的確で、とても楽しかった。

 するとそのとき、信号待ちの鬼怒川くんを見つけた。
 私は、真中さんに待っていてと声をかけ、彼に駆け寄る。

「鬼怒川くん」
「あ?」

 相変わらず怖い。ただ声をかけただけなのに。

「ありがとう。お昼の言葉、私を気遣ってくれたんだよね」
「…………」

 彼は私に『いいから早く決めろよ』と言った。
 初めは意味がわからなかった。でも、気づいた。
 周りの空気を感じて言ってくれたのだ。じゃないと、わざわざお昼休みに私を探して言うわけがない。
 教室で何度も顔を合わせているのだから。

「何言ったのかも覚えてねえよ」

 文化祭の準備が始まってから、嫌々かもしれないけれど、鬼怒川くんはしっかり動いてくれている。
 
 きっと、私の知らない一面もあるんだろうな。