初めて感情を失った時のことは、よく覚えている。

「美空、”リリちゃん”は持って行かないの?」
「いらない」

 三歳の誕生日、私は「リリちゃん」という人形を両親にプレゼントしてもらった。
 それからどこへ行くのも一緒、食事中だって肌身離さず、夜は抱いて眠った。
 でも一年ほど経ったある日、私は「リリちゃん」に興味を持てなくなった。
 お母さんは驚いていたけれど、こんなことはよくある、お父さんはそう言ってお母さんを宥めていた。私にも理由はわからなかった。

 私は、よく笑う子だったらしい。
 でも「リリちゃん」のことを境に嬉しいと思うことがなくなった。
 
 何をしても”喜ばなくなった”
 今日のご飯は大好きなはずのオムライスだと言われてもワクワクしない。
 あれほど楽しみにしていたクリスマスを迎えても、特別な感情は湧いてこない。

 それだけではなかった。
 お父さんが私のお気に入りだったマグカップを割っても何も思わなかったし、飼っていたハムスターが死んでしまっても、自然なことだと受け入れるだけだった。

 さすがに違和感を覚えたお母さんは、私を病院へ連れて行った。

 そこで、初めて私は自分が病気だったことを知った。

 ――情感欠損症候群(じょうかんけっそんしょうこうぐん)。

 結論から言えば、「喜怒哀楽」などの基礎的な情動反応が、順を追って失われていく進行性の脳機能障害だ。
 初期段階では特定の感情に対して鈍感になるが、進行するにつれて全般的な情動反応が消失していく。
 最終的には、感情そのものを「理解できない」「思い出せない」状態に至る。
 その時はまだ、私は悲しいという感情が残っていた。

 不安げなお母さんの顔を眺めながら、シクシクと泣いた。

 でもそれが、私の最後の涙となった。

 六歳になるころには、私は悪い意味での『お人形さん』のようになっていた。
 無表情で、おもちゃに興味も示さず、遊びに行きたいとも言わない。
 ただ私にとって苦ではなかった。
 朝がきたら起きる。お腹が空いたらご飯を食べる。眠たくなったら眠る。
 毎日、毎日同じことを繰り返した。

 私にとっては、それが”楽”だった。今思えば、唯一、残っていた感情だった。

 小学校へ入学すると、さらに私は目に見えて周りから浮き始めた。
 何を考えているのかわからず、話しかけても反応が薄い。
 不気味だ、ということは理解できる。
 
 でも、友達同士が笑い合うことに何の意味があるのだろうと思っていた。

 小学二年生になり、私の病気は完全に末期を迎えたと医師から診断を受けた。
 喜怒哀楽が無くなった。これが一時的か、将来的に戻るのかはわからない。

 お母さんは病院でも、家に帰ってからも泣いていた。お父さんも仕事から帰ってきて、私の顔を見ては泣いていた。

 私は、その光景をただ、見ていた。

「美空、今これが流行ってるからね。クマのパンダさんなんだって。おかしいよね。クマなのに、名前がパンダさんなんだよ」
「そうなんだ」

 小学生の高学年になると、お母さんは私の扱いも上手になっていった。
 無表情で何を考えているのかわからないけれど、せめて人並に見える努力をしてくれていたのだ。
 
 幸か不幸か、私は言われたことはできる人間だった。
 勉強をそつなくこなし、宿題をし、流行りものを身に着ける。
 同級生以外には、いたって”普通”の小学生に見えていたと思う。

 そんなある日、私は病院である人を紹介してもらった。
 
「あなたが、真中美空ちゃんね。私は凪、よろしくね」

 口角を上げてよく笑う、私より六歳上の高校二年生の山本凪さん。
 私と同じ、”情感欠損症候群”を患っている。

「あ、あの……病気について聞いてもいいかしら?」
「遠慮せずに何でも聞いてください。それにお母さん、私のことは凪って呼んでもらって大丈夫です!」

 親指を立てながら、お母さんを笑顔にさせるその姿は、私とはまったく違っていた。

 凪さんは、中学生に上がってから喜怒哀楽を失った。
 感情の記憶が強く残っているらしく、今でも思い出すことがあるという。
 そして社会に溶け込む術を身に着けた。
 それは、感情の模倣だ。

「笑う、怒る、泣く、楽しむ。周りを見ていれば理解できます。模倣すれば、誰かに虐められることはなくなると思います」

 凪さんは笑顔でそんなことを言った。お母さんが、少し目を細めた。
 私は同級生から虐められている。教科書がなくなったり、靴がなくなったり、机の上に壊れた人形が置かれていたりする。
 間接的な行為に対しては何も思わない。ただ、私にも痛覚はある。
 登校のたびに背中を蹴られるのは面倒だった。

 お母さんは、凪さんの言葉をノートにびっしりとまとめていた。
 私はその横で話を聞いていたが、やっぱり、何の感情も湧かなかった。

「お母さん、美空ちゃんと二人きりで話してもいいですか?」
「え? もちろんよ。ありがとうね、本当に」
「いえいえ。――美空ちゃん、屋上に行かない?」

 凪さんに手を引かれて、私は病院の屋上へと向かった。
 この時間は誰もいない。
 見上げると、まっさらな青空が目に飛び込んできた。

 隣に目を向けると、さっきまでとはまるで別人のような、私と同じ無表情の凪さんがいた。

「美空ちゃん、学校はどう?」
「普通かな。でも、痛いのはやめて欲しい」
 
 すると凪さんは、ふふふと笑った。ここは、笑うところなんだ。
 そして、スッと元に戻る。

「私も痛いのは嫌。だから感情の模倣を教えてあげるよ。観察していれば身に付くから」
「わかった」
「いいね。素直なところは、誰にも真似できない。私たちの長所だよ」
「わかった」
「そこはね、”喜ぶ”ところだよ。ほら、笑って」
「わかった」

 私は、精いっぱい笑ってみた。
 でもそれは、ただ大口を開けただけだったらしく、凪さんはおかしそうに笑ってみせた。

 その日から、私と凪さんは週に一度、病院で特訓をし始めた。
 感情の模倣だ。
 私は、学校の出来事を事細かくメモすることにした。
 ひときわ感情の揺れ幅がある同級生を見つけて、どこで喜んでいるのか、怒っているのかを見極める為に。

 一度だけ、お母さんにノートを見られたことがある。

「誰にも見せちゃダメ。きっと怒られちゃうから」

 多分、凄く酷いことも書いてたんだと思う。

 凪さんは高校生だったが、とても大人びて見えた。
 身長は高く、手足はスラリと長い。
 それでいて感情の模倣も上手で、凪さんのようになれば人生が生きやすいだろうと思っていた。

 ある日、凪さんは弟を紹介してくれた。
 歳は私と同じ、感情もある。
 私たちのやり取りを「つまらない」と言って、一人で病院のどこかに消えていった。

「美空ちゃん、ごめんね。今日、お母さんが仕事で連れてこないといけなかったの」
「大丈夫。私たちのやりとりって、つまらないの?」
「そうなんじゃない?」

 私たちは感情がない。だからこそ、自分たちの視点が薄いのだ。
 人から言われたことが事実、けれども、それを鵜呑みにしてはいけない。
 しっかりと調べて、それが正しいのかどうかを精査する。それも、凪さんから教えてもらった。

「来週、高校の文化祭があるんだ」
「劇とかの出し物があったりお店をしたりするんだよね?」
「そう。文化祭ってすごいんだよ。準備期間からずっと、いろんな感情が入り乱れて凝縮されるみたい」
「そうなんだ……」

 なんだかわからないけれど、大変そうだ。
 私も高校生になったらそんな体験をするのだろうか。

 凪さんと出会ってから約一年。
 感情の模倣が上手になってきて、お母さんもお父さんも戸惑いこそあったものの、嬉しそうにすることが増えてきていた。

 これが、正しい。これでいいんだ。

 そう、思っていたのに――。

「美空、落ち着いて聞いて」
「何お母さん。私はいつも落ち着いているよ」

「凪ちゃんが、凪ちゃんがね――」

 文化祭が終わった放課後、凪さんは学校の屋上から飛び降り、命を絶った。

 そして私はそのあと、感情の模倣を止めた。