※前の話[Ⅵ]の続き 明紗の視点※

 まるで(とげ)のように冷たく乾燥した風が頬をうつ。
 屋上庭園に辿り着くと、今日は庭園内のベンチが数席埋まっていた。
 ここには他に人が居る。
 蓮先輩と二人の空間にならないことに心の中で少し気落ちした。
 コートを羽織り、特に示し合わせたわけじゃないけど、蓮先輩と座ることの多いベンチに腰を落とす。
 流星とのSL公園のことがあったからか、どうしても人を待っているってことに悪い連想がつきまとってしまう。
 一秒でも早く蓮先輩の顔が見たい。
 3限が始まる前に突然、蓮先輩の手を握ってしまったことを謝ったほうがいいのか。
 でも、蓮先輩が気にしていなかったとしたら思い返させてしまうかもしれない。
 ふっと私の唇から溢れた吐息は白かった。

 「――明紗。悪い、待たせた?」
 「いえ。私も今、来ました」

 蓮先輩が少し慌てた様子で近づいてきて、私は立ち上がって出迎えた。
 私が笑えば、微笑み返してくれる蓮先輩の姿に寒い中でも胸の中へ暖かな何かが灯る。

 「――忘れないうちにこれ」

 二人でベンチに着席すると、蓮先輩から封筒と厚紙のようなものを渡される。
 封筒は手紙交換をしている翠ちゃんからのものだったけど、厚紙はA4のスケッチブックから切り取ったと思われるもの。

 「鈴ちゃんが書いてくれたんですか?」

 桃色のクレヨンで書かれたらしい”あさちやん だいすき”に似顔絵やシールが貼ってくれてある。

 「やっと、ひらがな書くようになったところだから、翠が鈴を手伝ったと思う。自分も明紗に手紙を書きたかったらしい」
 「とっても嬉しいです。一生懸命、書いてくれたんだって伝わってきます」
 「鈴は何でも俺や翠の真似したがるから。だから、明紗と翠が日曜に会ったことは鈴には秘密にしてある。知られたら絶対に自分も行くってぐずってた」
 「はい。翠ちゃんに聞いてます」
 
 鈴ちゃんとは、しばらく顔を合わせてないのに、私のことを覚えてくれていることが嬉しい。

 「日曜日、俺の自宅まで翠を送ってくれたみたいで悪かった」
 「いえ。電車で一本なので、大丈夫です」
 「いや、明紗の帰りが心配」

 蓮先輩に真剣な面持ちで言われる。

 「夕食前には翠ちゃんを送り届けられましたし、私は護身術教室に通っていたことがあるので」
 「そういうのがあるのか?」
 「はい。習いごとは私の意見を尊重してくれることが多かったんですけど、これだけは父と母に強制的に3年間、通わされました」
 「それでも、翠を送るってところまで明紗が気を遣わなくていい」
 「……そうですか」

 私は気落ちした表情を練習先輩に見せてしまったのかもしれない。

 「帰り道に明紗が一人だと俺が不安になるだけ。イブの日は終わったら俺が明紗の家まで送っていく」

 クリスマスイブは蓮先輩の自宅のクリスマスディナーに招かれている。
 まだ5歳の鈴ちゃんも居るから終わりは遅くならないはずだけど、その時の帰りのことを言ってくれているのだろう。

 「蓮先輩が送ってくれるんですか?」
 「明紗を一人で帰せるわけないだろ」

 蓮先輩のストレートな眼差しに貫かれ、心音が主張するように高らかに鳴った。
 例え私を送ってくれるだけだとしても、蓮先輩と二人になれる時間もある。

 「日曜日の翠の件、礼が遅くなった。ありがとな、明紗」
 「結局、翠ちゃんの行きたがっていた原宿にはちゃんと行けなくて申し訳なかったです」
 「いや、明紗の家に行って楽しくて仕方なかったって自慢された。ますます翠は明紗への憧れを募らせてる」

 先週末の日曜日に翠ちゃんと初めて二人で遊んだ日のことを翠ちゃんは蓮先輩やお母さまに興奮気味に話したらしく、それを蓮先輩が教えてくれた。

 ――明紗ちゃんの家ってタワマンでめちゃくちゃ綺麗で、眺めがいいんだよ。
 ――明紗ちゃんってカレーをスパイスから作るんだよ。明紗ちゃんお手製の米粉のパンケーキもフルーツとリコッタチーズがのってておいしかった。
 ――明紗ちゃんって間食する時はチーズやナッツ類にしていて、市販のお菓子は基本的に買わないって。たまに勉強前に高カカオのチョコレートを一かけら食べることもあるんだって。私も明日からそうする。
 ――明紗ちゃんって基本的にジャンクフードは食べないんだよ。マックよりモス派なんだって。
 ――明紗ちゃんってマンションの共用施設のフィットネスルームで定期的に身体を動かすようにしてるんだって。私もジムに通いたい。お風呂上がりのストレッチも欠かさないんだって。私も今日からやるんだ。
 ――明紗ちゃんにダンス踊ってほしいって映像見せて頼んだら、すぐに振りを覚えて上手に踊ってくれたんだよ。私もダンス習いたい!
 ――明紗ちゃんが使ってるシャンプーとかボディクリームとか全部教えてもらってメモしてきた。でもドラッグストアじゃ買えないんだよね。

 その日の様子がほぼ全て翠ちゃんから蓮先輩に筒抜けみたいで気恥ずかしくなった。
 翠ちゃんが私にいっぱい質問や要望を投げてくるから、応えていただけではあるんだけど。

 「翠は明紗みたいになるって形から入り始めた」
 「お母さまたちにご迷惑をおかけしたりしていないですか?」
 「どちらかと言えば、こっちが明紗に負担かけてるだろ。母さんも明紗に申し訳ないって言ってた」
 「負担ではないです。純粋に翠ちゃんに懐いてもらえるのは嬉しいです。翠ちゃんが今度は私の家に泊まりたいって言ってたので、ご両親の許可をとってからにしてほしいと伝えておきました」
 「翠、そんなことまで明紗に頼んでるのか」

 眉根を歪ませた蓮先輩の表情は当惑を現している。

 「翠は明紗の母親にも会ったんだろ」
 「はい。すぐに母は外出したので少しだけですけど」
 「美人でモデルみたいだって言ってた」
 「母は美意識が高くて細部にまで気を配っているので。私が使ってるものは、ほとんど母からもらってます」
 「俺もまだ挨拶出来てないのに」

 もしかしたら蓮先輩は少し機嫌が悪いのかもしれない。
 私が怒らせたのかもと、心もとなくなってくる。

 「母も忙しくてなかなか時間がとれなくて、申し訳ないです。蓮先輩に会いたがっているんですけど、蓮先輩の部活が忙しいことは母も承知しているので」

 お母さんとお兄ちゃんには蓮先輩とちゃんと付き合い始めた時に「彼氏が出来た」と報告してある。
 お父さんに伝えるのは次の帰国の時にするようお母さんに保留にされているけれど。
 蓮先輩は律儀だから、お母さんに挨拶したいと言ってくれているものの、双方なかなか予定が合わなくて実現していない。
 蓮先輩にいたっては大切な春高の開幕を控えている。

 「明紗が謝る必要ない」
 「でも……」
 「何ていうか嫉妬してる」
 「?」
 「俺がまだ知らない明紗のことを翠から聞かされるのも、俺が明紗としていないことを翠が先にしてるのも面白くない」

 視線を逸らして目を細めた蓮先輩の横顔が少し()ねているように見えて。
 ――やっぱり蓮先輩のことが大好き。
 抑えきれない感情が洪水のように一気に溢れ出る。
 蓮先輩のこの表情、私だけが知っていたい。

 「私の話を聞いているので母は蓮先輩が素敵な人だと(すで)に知っています。蓮先輩が載っている雑誌も見せました」
 「ありがとう、明紗」
 「私は翠ちゃんも鈴ちゃんも大好きですけど、これからも関係を大切にしていきたいと思うのは蓮先輩の妹だからです」
 「わかってる」
 「私は翠ちゃんとはキスしないです」

 私の台詞をきっかけに蓮先輩と視線が結ばれる。

 「機嫌、直してください」
 「機嫌が悪いわけじゃねぇよ」

 周りが私たちを見ていないことを確認して、蓮先輩の唇に素早く口づけした。
 唇は離れても重なった視線のまま、私は”内緒”の意をこめて、自分の人差し指を忍びやかに唇にあてる。
 蓮先輩の精巧なほど整った顔立ちが耳まで赤く染まったように見えるのは寒さのせいだけではないかもしれない。

 「――明紗」
 「あっちのベンチに座っている女の子たち、ちょうど外を見てたので、こっちは見られてなかったです」
 「いや、そうじゃなくて」
 「私がキスしたいのは蓮先輩だけです」

 真剣に伝えれば、蓮先輩も真剣に見つめ返してくれて。

 「私、蓮先輩としかキスしたことないです」

 今度は蓮先輩から唇を奪われた。
 身体が衝動で動いてしまったかのような性急な口付け。
 一度、離れたかと思えば思い直したように、もう一回。

 「――ますます明紗にのめり込みそうで怖い」

 吐息とともに低く呟いた蓮先輩の声に艶がのっていて、私の心音がドクッとひと(きわ)大きく鳴った。
 蓮先輩からキスされるのが好き。
 自分からするのも好きだけど、どっちが上とか下とかじゃなくて、満たされ方が少し違う。
 他でもなく蓮先輩が自分を求めてくれているって実感できる気がして。

 「悪い。明紗に俺の機嫌とらせた」
 「違います。私が蓮先輩にキスしたくなっただけです」

 私から目線を外し口許を手で覆う仕草をしている蓮先輩の横顔のラインも完璧といえるほど綺麗。
 他にひと目がないと確信できる時にしか私に触れてこない蓮先輩からキスしてくれた。
 二人の時間だって限られているからキスだって数えられるほどしか経験がなくて。

 「――明紗。俺に何か伝えたいことでもあるか?」

 気を取り直したらしい蓮先輩に真顔で問われた。
 蓮先輩の真摯な光を宿した鋭い目に瞳の奥まで覗かれているみたい。

 「3限の前も急に明紗から手を握ってきたから」

 蓮先輩と離れたくないと咄嗟に私から発出した行動を蓮先輩は気にしてくれていた。
 どこまでも蓮先輩は私のことを考えて理解しようとしてくれる。
 自分でも理解できないほど誰より蓮先輩の傍に居たいと鼓動が(はや)る私のことを。

 「それは……」

 春高前の大事な時に私のわがままな気持ちなんて伝えられるわけがない。
 蓮先輩には部活に専念してほしい。
 柚乃には蓮先輩は私の素直な気持ちを聞きたいと思うと言われたけれど、今の蓮先輩に余計な負荷はかけたくなかった。

 「……春高、応援しています」

 自分でも本音を隠した”イイコ”な台詞だと思う。
 しばらく黙したまま蓮先輩は私を見据えていた。

 「明紗が応援してくれていると思うだけで頑張れる。ありがとう」

 昼休み終了と6限の予鈴を兼ねたチャイムが響き渡ると蓮先輩は優しく笑ってくれた。
 次の授業のために、いつの間にか周囲には人の気配がなくなっていて、蓮先輩も「戻るか」と立ち上がる。
 何でこんなに蓮先輩と一緒の時間はあっという間に過ぎ去るのだろう。
 私は座ったままの姿勢で蓮先輩のコートの袖を片手で掴んでいた。

 「――明紗……?」

 また引き留めるような不可解な行動をとる私に上から蓮先輩の視線が注がれているのが見なくてもわかる。

 「――私……」

 蓮先輩に本音を明かしたくないのに隠しておけないほど私の心から溢れ出ていて。
 知ってほしいとも受け止めてほしいとも思ってしまう。
 蓮先輩を困らせたくないのに……。
 ――私だけの蓮先輩でいてほしい。
 ――蓮先輩と二人きりで過ごしたい。
 ――今よりも蓮先輩の近くにいたい。
 ――たくさん蓮先輩のこと知りたい。
 蓮先輩のコートの袖を指で挟んだまま、おそるおそる上目で見上げた先には蓮先輩の意志の強さを物語るような瞳と視線が重なった。

 「蓮先輩ともっと深いキスがしたいです」

 湧き出てくる想いの中から言葉となって蓮先輩に届いたのはよりによってそんな言葉で……。
 体中の熱が顔面に集約したように私の頬は熱くなった。

 「先に戻ります」

 私は蓮先輩を置き去りにして、先に屋上庭園を後にした。

 【to be continued】
 20250920