※蓮に憧れる一年生の男子バレー部員[明紗と同じクラス]の視点 本編後のお話※
都立朝比奈第三高等学校の男子バレー部は何年ぶりかの【全日本バレーボール高等学校選手権大会】通称――春高への出場が決まり、年明けの開幕に向けて練習にも力が入っていた。
自然と背中を丸めるほどの屋外の寒気とは対極的に男子バレー部が練習を行う第二アリーナは熱気が充満している。
そして、春高出場が決まって全体への注目度も上がったからか練習時にはギャラリーも増えた。
キャットウォークには女子のみならず、男子も見学者が多い。
少し前までは2年生エースの久瀬さんの女性ファンが大半だった。
久瀬さんの公式登録している身長は184.5センチ、OH(アウトサイドヒッター)で去年は全日本ユース候補の合宿に呼ばれた名実ともに三高のエース。
加えて、非の打ちどころがない整った顔立ちは文句なく男前。
ただ後輩からは近寄り難い雰囲気があって、今までは挨拶くらいしか出来なかった。
「久瀬さん、今お時間いいですか?」
練習の休憩中、アリーナの壁に沿って座り、スポーツドリンクを飲んで呼吸を整えている久瀬さんに正面から声をかける。
久瀬さんがドリンクボトルの飲み口を口に含ませたまま、俺に目線だけ向けたのを肯定の意だと解釈した。
「久瀬さんにアドバイスをもらいたくて」
エースの久瀬さんは部員が常時60名近くいる三高男子バレー部の中で、一年の時からスタメンに入っている。
今の一年でスタメン入りはゼロ、14人のベンチ枠にかろうじて1人入っているだけ。
久瀬さんの友人の笹沼さんでさえセッターとしての実力は相当あるのにベンチ入りすら出来ていない。
「久瀬さんに俺が質問するのは失礼だってわかってるんですけど」
前までの久瀬さんだったら絶対に後輩から質問どころか話しかけることさえ出来なかっただろう。
最近どことなく雰囲気が和らいだ今の久瀬さんだったらいけるのではないかと勢いづいてしまった。
ベンチ入りすらしていない1年が先輩で大エースの久瀬さんに話しかけて、他の部員たちは気が気でない様子でいるようだった。
「春高に向けて、チーム一丸となってまとまらないといけない時っていうのは頭では理解出来ているんです。でも、どうしてもベンチ入りすら出来ていないと、練習へのモチベーションが上がりません」
久瀬さんは俺を見上げ、唇を閉じ合わせたまま俺の話を聞いてくれていた。
エースの久瀬さん相手ではなく、監督か部長に言うべきことかもしれない。
むしろ黙って自分の中で消化すべきことだろう。
それがどうしても出来なかった。
「久瀬さんは常にスタメンだし、ベンチを温めることすら出来ない俺たちの気持ちがわからないかもしれないですけど、俺は久瀬さんみたいになりたいです」
俺の目指したい姿は久瀬さんだ。
中学時代は俺もエースだと呼ばれていた。
それなりに勝ち上がることもできた。
なのに今は選手層が厚く、試合でコートに立つ資格すらもらえない。
久瀬さんみたいな誰にも脅かされない無二のエースと呼ばれる存在になりたい。
立ったままの俺を下から無言で見つめていた久瀬さん。
久瀬さんの目は俺の心の底までも見透かしそうなほど強く鋭く、漆黒の瞳には一種の美しささえ讃えていた。
「――北川の目標は?」
久瀬さんから逆に質問を受ける。
「俺のですか? 久瀬さんみたいになりたいです」
「具体的には」
「試合に出ることが出来て、三高のエースと呼ばれるようになりたいです」
「そうなるためにはどうしたらいいと思う?」
「……練習を頑張るしかないかと……」
冒頭の俺の質問の答えにさっそく辿り着いてしまった。
久瀬さんのようになるには練習あるのみ。
それはわかってはいるのだけれど。
「俺もこの人みたいになりたいって目標がある」
「そうなんですか?」
「ただ目標を漠然とさせておくんじゃなくて具体的に落とし込むようにしてる。例えば、その人のジャンプサーブの精度と威力を真似したかったら、今の自分に足りないものはどれで、どの練習をどれくらい積めばいいのか考えれば、憧れで終わるんじゃなくて、地に足のついた道筋になる」
久瀬さんは俺の不躾な質問にも真摯に答えてくれている。
「俺は目標管理も、練習の振り返りや課題もノートに書いて残している。毎回、書く分量は違っていても練習の後にも試合の後にも欠かしたことはない」
誰も追いつけないほどの実力を備えている久瀬さんがそんな地道な作業をしているとは思わなかった。
「試合に出られて、エースだと呼ばれるようになるには今の自分に何が不足していて、何をしていけばいいか、もう少し明確にしたほうがいい。そうしたら自ずと練習の打ち込み方が変わってくる」
「はい」
「北川のスパイクの力強さは武器だと思う。ただクロスがブロックに捕まりやすいから、相手に読まれない打ち分けを意識してクロスの決定率を上げろ。そうしたら得意のストレートも決まりやすくなる。あとレシーブは安定してAパスでセッターの居る位置に返せるようになったほうがいい」
エースの久瀬さんがまさか補欠も補欠の一年の俺をそこまで見ているとは思わなくて、少なからず俺は驚いていた。
しかも、これだけ部員がいる中にも関わらず。
どちらかと言えば久瀬さんは我が道を行く唯我独尊タイプのエースかと思っていた。
「ランニングも手を抜くなよ」
「……」
「試合終盤の厳しい局面で必ず生きてくる」
「はい……」
自分の怠惰な部分まで久瀬さんに露見していて、身の置き所のない気持ちになる。
俺はやることもやらずに現状に不満ばかり言っていたのだと、自覚できてしまった。
我ながら、かっこ悪い。
「俺も実力の差を思い知って、へこまされることだらけ。それに春高でのスタメンだって確約されてるわけじゃない」
「……」
「俺も必死。頑張ろうな」
久瀬さんに軽く微笑まれて、意図せずとも見惚れてしまった。
この人はかっこいいと素直に思わされてしまった。
外見だけじゃなく、性格も。
あと、果てしなくバレーボールが好きで強さを追い求めているんだということも。
やっぱり俺は久瀬さんを目指したい。
「休憩中にありがとうございました」
久瀬さんに90度のお辞儀をして、お礼を伝える。
同時に、休憩中の第二アリーナの空気が少しだけ変わった。
出入口の傍に現れたのは俺と同じクラスの弓木明紗という女子生徒だった。
三高の入学式で新入生代表挨拶を務めた弓木さんの凛とした美しい佇まいに心を掴まれたのは同じ学年の男女共通認識だろう。
あっという間に上級生の間でも知れ渡って、”三高の姫君”や”三高の女神”との大層な呼び名をつけられても、全く名折れしない容姿に存在感。
まさに才色兼備を地で行っていた。
同じクラス……いや同じ学年の男子の誰もが通過儀礼のように一度は多かれ少なかれ弓木さんに好意を持ったことがあると思う。
弓木さんはこちらに気がつくと、心の内の喜びがこぼれたような笑顔で手を振ってきた。
誰をも虜にしかねない美しい微笑みは俺に向けてじゃない。
弓木さんとここに居るバレー部のエースの久瀬さんは彼氏彼女の関係だ。
一時期、別れていた時期もあったけど、この高校でそれぞれ抜きん出てモテる男女2人が付き合っているだけあって、妬み嫉みを生んだというよりは2人揃って理想的な恋人同士として神格化さえされている。
久瀬さんは弓木さんに手を振り返していた。
久瀬さんってこんなに優しい目つきが出来るんだ。
弓木さんはキャットウォークで見学していた同じクラスの友人の綾瀬さんにも手を振ると早々に第二アリーナから姿を消した。
自分が下校する前に彼氏の久瀬さんに挨拶だけしに来たんだろう。
「俺、弓木さんと同じクラスなんですけど」
「ああ、北川はA組?」
「はい」
頭の中にあの場面が思い出される。
三高に入学してまだ日が浅い頃、生物基礎の授業中だったと思う。
「教室にモンシロチョウが迷い込んできたんです」
授業中の教室内をふわふわと軽やかに舞うモンシロチョウ。
小さな蝶に騒ぐほどでもないけれど、存在を無視できない妙な空気が授業中の教室に漂っていた中で、
「弓木さんが席に座ったまま、スッと人差し指を自分の前にかざしたんですよ」
まるで導かれるようにモンシロチョウは弓木さんの人差し指にふわりと留まった。
「弓木さんは人差し指に留まったモンシロチョウを教室の窓から、そっと逃してあげていました。その後、先生に断って弓木さんは手を洗うために教室を出たんですけど、」
同じ教室に居たクラスメイトの誰もが同じことを思っただろう。
「弓木さんは女神かよって」
俺の一言に久瀬さんは軽く笑みを浮かべた。
「――明紗らしいな」
久瀬さんは立ち上がると、俺の肩に手を置いて練習に戻るために歩き出した。
さりげなく“明紗“と名前で呼んでいたのが、久瀬さんと弓木さんの仲の深さを物語っているようだった。
決して笑わないわけではないけれど、どちらかと言えば周りの女子の聞き役になっている印象だった弓木さん。
あの笑顔も久瀬さんだけに向けられるものなのだろう。
弓木さんはクールビューティなイメージが強いけれど、春高の東京都代表決定戦の時に、
『私、蓮先輩が好きです!!』
弓木さんが観客席から久瀬さんに必死に伝えていた姿は極上にかわいく映った。
応援に来ていただけで、その息をのむ際立った美しさで東京都の名だたる強豪校の男子バレー部員の間でも有名になっていた弓木さん。
三高エースの久瀬さんの彼女だということも周知の事実。
春高で久瀬さんは必ず選手として全国的に注目を集めることになるだろう。
弓木さんは東京体育館に久瀬さんの応援に来るのだろうか。
それにしても、さっき弓木さんが久瀬さんに見せていた笑顔。
「あれはかわいすぎるよな」
俺にも中学時代から付き合っている彼女が他校に居るけれど、高校に入学して初めて弓木さんを見た時には言葉を失うほどに魅了されていた人間の一人だ。
同じクラスだから徐々に弓木さんの嫌な部分が見えてきて幻滅させられることもあるのかと思えば、むしろその逆。
どこか気品があって常に所作まで綺麗だし、何でもできるわりに偉ぶったりしないし控えめで努力家で謙虚。
男女問わず、弓木さんを悪く言っている人を見たことがない。
久瀬さんと弓木さんが理想的な恋人同士だと言われているのは外見だけではないと少しでも二人と関わった人間ならわかると思う。
とにかく今日から俺もノートを書いて、久瀬さんに少しでも近づけるように頑張ろう。
久瀬さんから学べる部分は学んで絶対に俺も試合に出たい。
【end】
20250906
都立朝比奈第三高等学校の男子バレー部は何年ぶりかの【全日本バレーボール高等学校選手権大会】通称――春高への出場が決まり、年明けの開幕に向けて練習にも力が入っていた。
自然と背中を丸めるほどの屋外の寒気とは対極的に男子バレー部が練習を行う第二アリーナは熱気が充満している。
そして、春高出場が決まって全体への注目度も上がったからか練習時にはギャラリーも増えた。
キャットウォークには女子のみならず、男子も見学者が多い。
少し前までは2年生エースの久瀬さんの女性ファンが大半だった。
久瀬さんの公式登録している身長は184.5センチ、OH(アウトサイドヒッター)で去年は全日本ユース候補の合宿に呼ばれた名実ともに三高のエース。
加えて、非の打ちどころがない整った顔立ちは文句なく男前。
ただ後輩からは近寄り難い雰囲気があって、今までは挨拶くらいしか出来なかった。
「久瀬さん、今お時間いいですか?」
練習の休憩中、アリーナの壁に沿って座り、スポーツドリンクを飲んで呼吸を整えている久瀬さんに正面から声をかける。
久瀬さんがドリンクボトルの飲み口を口に含ませたまま、俺に目線だけ向けたのを肯定の意だと解釈した。
「久瀬さんにアドバイスをもらいたくて」
エースの久瀬さんは部員が常時60名近くいる三高男子バレー部の中で、一年の時からスタメンに入っている。
今の一年でスタメン入りはゼロ、14人のベンチ枠にかろうじて1人入っているだけ。
久瀬さんの友人の笹沼さんでさえセッターとしての実力は相当あるのにベンチ入りすら出来ていない。
「久瀬さんに俺が質問するのは失礼だってわかってるんですけど」
前までの久瀬さんだったら絶対に後輩から質問どころか話しかけることさえ出来なかっただろう。
最近どことなく雰囲気が和らいだ今の久瀬さんだったらいけるのではないかと勢いづいてしまった。
ベンチ入りすらしていない1年が先輩で大エースの久瀬さんに話しかけて、他の部員たちは気が気でない様子でいるようだった。
「春高に向けて、チーム一丸となってまとまらないといけない時っていうのは頭では理解出来ているんです。でも、どうしてもベンチ入りすら出来ていないと、練習へのモチベーションが上がりません」
久瀬さんは俺を見上げ、唇を閉じ合わせたまま俺の話を聞いてくれていた。
エースの久瀬さん相手ではなく、監督か部長に言うべきことかもしれない。
むしろ黙って自分の中で消化すべきことだろう。
それがどうしても出来なかった。
「久瀬さんは常にスタメンだし、ベンチを温めることすら出来ない俺たちの気持ちがわからないかもしれないですけど、俺は久瀬さんみたいになりたいです」
俺の目指したい姿は久瀬さんだ。
中学時代は俺もエースだと呼ばれていた。
それなりに勝ち上がることもできた。
なのに今は選手層が厚く、試合でコートに立つ資格すらもらえない。
久瀬さんみたいな誰にも脅かされない無二のエースと呼ばれる存在になりたい。
立ったままの俺を下から無言で見つめていた久瀬さん。
久瀬さんの目は俺の心の底までも見透かしそうなほど強く鋭く、漆黒の瞳には一種の美しささえ讃えていた。
「――北川の目標は?」
久瀬さんから逆に質問を受ける。
「俺のですか? 久瀬さんみたいになりたいです」
「具体的には」
「試合に出ることが出来て、三高のエースと呼ばれるようになりたいです」
「そうなるためにはどうしたらいいと思う?」
「……練習を頑張るしかないかと……」
冒頭の俺の質問の答えにさっそく辿り着いてしまった。
久瀬さんのようになるには練習あるのみ。
それはわかってはいるのだけれど。
「俺もこの人みたいになりたいって目標がある」
「そうなんですか?」
「ただ目標を漠然とさせておくんじゃなくて具体的に落とし込むようにしてる。例えば、その人のジャンプサーブの精度と威力を真似したかったら、今の自分に足りないものはどれで、どの練習をどれくらい積めばいいのか考えれば、憧れで終わるんじゃなくて、地に足のついた道筋になる」
久瀬さんは俺の不躾な質問にも真摯に答えてくれている。
「俺は目標管理も、練習の振り返りや課題もノートに書いて残している。毎回、書く分量は違っていても練習の後にも試合の後にも欠かしたことはない」
誰も追いつけないほどの実力を備えている久瀬さんがそんな地道な作業をしているとは思わなかった。
「試合に出られて、エースだと呼ばれるようになるには今の自分に何が不足していて、何をしていけばいいか、もう少し明確にしたほうがいい。そうしたら自ずと練習の打ち込み方が変わってくる」
「はい」
「北川のスパイクの力強さは武器だと思う。ただクロスがブロックに捕まりやすいから、相手に読まれない打ち分けを意識してクロスの決定率を上げろ。そうしたら得意のストレートも決まりやすくなる。あとレシーブは安定してAパスでセッターの居る位置に返せるようになったほうがいい」
エースの久瀬さんがまさか補欠も補欠の一年の俺をそこまで見ているとは思わなくて、少なからず俺は驚いていた。
しかも、これだけ部員がいる中にも関わらず。
どちらかと言えば久瀬さんは我が道を行く唯我独尊タイプのエースかと思っていた。
「ランニングも手を抜くなよ」
「……」
「試合終盤の厳しい局面で必ず生きてくる」
「はい……」
自分の怠惰な部分まで久瀬さんに露見していて、身の置き所のない気持ちになる。
俺はやることもやらずに現状に不満ばかり言っていたのだと、自覚できてしまった。
我ながら、かっこ悪い。
「俺も実力の差を思い知って、へこまされることだらけ。それに春高でのスタメンだって確約されてるわけじゃない」
「……」
「俺も必死。頑張ろうな」
久瀬さんに軽く微笑まれて、意図せずとも見惚れてしまった。
この人はかっこいいと素直に思わされてしまった。
外見だけじゃなく、性格も。
あと、果てしなくバレーボールが好きで強さを追い求めているんだということも。
やっぱり俺は久瀬さんを目指したい。
「休憩中にありがとうございました」
久瀬さんに90度のお辞儀をして、お礼を伝える。
同時に、休憩中の第二アリーナの空気が少しだけ変わった。
出入口の傍に現れたのは俺と同じクラスの弓木明紗という女子生徒だった。
三高の入学式で新入生代表挨拶を務めた弓木さんの凛とした美しい佇まいに心を掴まれたのは同じ学年の男女共通認識だろう。
あっという間に上級生の間でも知れ渡って、”三高の姫君”や”三高の女神”との大層な呼び名をつけられても、全く名折れしない容姿に存在感。
まさに才色兼備を地で行っていた。
同じクラス……いや同じ学年の男子の誰もが通過儀礼のように一度は多かれ少なかれ弓木さんに好意を持ったことがあると思う。
弓木さんはこちらに気がつくと、心の内の喜びがこぼれたような笑顔で手を振ってきた。
誰をも虜にしかねない美しい微笑みは俺に向けてじゃない。
弓木さんとここに居るバレー部のエースの久瀬さんは彼氏彼女の関係だ。
一時期、別れていた時期もあったけど、この高校でそれぞれ抜きん出てモテる男女2人が付き合っているだけあって、妬み嫉みを生んだというよりは2人揃って理想的な恋人同士として神格化さえされている。
久瀬さんは弓木さんに手を振り返していた。
久瀬さんってこんなに優しい目つきが出来るんだ。
弓木さんはキャットウォークで見学していた同じクラスの友人の綾瀬さんにも手を振ると早々に第二アリーナから姿を消した。
自分が下校する前に彼氏の久瀬さんに挨拶だけしに来たんだろう。
「俺、弓木さんと同じクラスなんですけど」
「ああ、北川はA組?」
「はい」
頭の中にあの場面が思い出される。
三高に入学してまだ日が浅い頃、生物基礎の授業中だったと思う。
「教室にモンシロチョウが迷い込んできたんです」
授業中の教室内をふわふわと軽やかに舞うモンシロチョウ。
小さな蝶に騒ぐほどでもないけれど、存在を無視できない妙な空気が授業中の教室に漂っていた中で、
「弓木さんが席に座ったまま、スッと人差し指を自分の前にかざしたんですよ」
まるで導かれるようにモンシロチョウは弓木さんの人差し指にふわりと留まった。
「弓木さんは人差し指に留まったモンシロチョウを教室の窓から、そっと逃してあげていました。その後、先生に断って弓木さんは手を洗うために教室を出たんですけど、」
同じ教室に居たクラスメイトの誰もが同じことを思っただろう。
「弓木さんは女神かよって」
俺の一言に久瀬さんは軽く笑みを浮かべた。
「――明紗らしいな」
久瀬さんは立ち上がると、俺の肩に手を置いて練習に戻るために歩き出した。
さりげなく“明紗“と名前で呼んでいたのが、久瀬さんと弓木さんの仲の深さを物語っているようだった。
決して笑わないわけではないけれど、どちらかと言えば周りの女子の聞き役になっている印象だった弓木さん。
あの笑顔も久瀬さんだけに向けられるものなのだろう。
弓木さんはクールビューティなイメージが強いけれど、春高の東京都代表決定戦の時に、
『私、蓮先輩が好きです!!』
弓木さんが観客席から久瀬さんに必死に伝えていた姿は極上にかわいく映った。
応援に来ていただけで、その息をのむ際立った美しさで東京都の名だたる強豪校の男子バレー部員の間でも有名になっていた弓木さん。
三高エースの久瀬さんの彼女だということも周知の事実。
春高で久瀬さんは必ず選手として全国的に注目を集めることになるだろう。
弓木さんは東京体育館に久瀬さんの応援に来るのだろうか。
それにしても、さっき弓木さんが久瀬さんに見せていた笑顔。
「あれはかわいすぎるよな」
俺にも中学時代から付き合っている彼女が他校に居るけれど、高校に入学して初めて弓木さんを見た時には言葉を失うほどに魅了されていた人間の一人だ。
同じクラスだから徐々に弓木さんの嫌な部分が見えてきて幻滅させられることもあるのかと思えば、むしろその逆。
どこか気品があって常に所作まで綺麗だし、何でもできるわりに偉ぶったりしないし控えめで努力家で謙虚。
男女問わず、弓木さんを悪く言っている人を見たことがない。
久瀬さんと弓木さんが理想的な恋人同士だと言われているのは外見だけではないと少しでも二人と関わった人間ならわかると思う。
とにかく今日から俺もノートを書いて、久瀬さんに少しでも近づけるように頑張ろう。
久瀬さんから学べる部分は学んで絶対に俺も試合に出たい。
【end】
20250906


