※明紗の一学年下の中学時代の後輩男子視点。本編P77で明紗が翠に手紙の返事を書くためにレターセットを買いに行った時のお話。明紗は高1 夏休み頃※
――だるいし、暑すぎるし、何もしたくない。
自宅には口を開けば、
「勉強したの? 受験生でしょ? 夏期講習の塾代いくらかかってると思ってるの?」
と、繰り返し俺を追い込む母親がいるから外出したものの、強すぎる日差しと加熱された空気に耐え切れず、俺は避暑地を求めて、最寄り駅の商業施設に滑り込んだ。
中三の夏休みは受験の天王山などと呼ばれている。
けれど、全くもって部活との切り替えスイッチが働いてくれなかった。
最後の大会での敗北でサッカー部を引退。
あれだけ練習に明け暮れていたのに、終わる時は呆気ないほど、あっさりだった。
そのせいか燃え尽き症候群のような状態のまま、夏休みは無為に過ぎていく。
母親が勝手に申し込んだ夏期講習は平日の午前中に毎日通っているものの、どこか身が入らなかった。
勉強しないといけないのはわかっている。
まだ志望校もはっきりと決めきれていない。
ずっと成績は中の上って辺りをキープしてきたけれど、ここからみんな受験勉強に本腰をいれてグッと学力が上がってくる頃だ。
自分の行ける範囲内で1番高いランクの普通科に入れればいいかとは思うけど、相対的に成績が落ちたら志望校のレベルも下げなければいけなくなる。
サッカーは好きだし高校でも続けたいけど、しょせん部活動レベルでプロになりたいなんて崇高な志があるわけでもない。
高校受験……初めて目の前に立ちふさがった自分を”試される”場。
――将来、何がしたいかなんて14歳15歳ではっきりしてる人間なんているのかよ。
あてもなく商業施設に入っている大型書店内をぶらぶらと歩き回っていた。
「……え?」
思わず口から驚きが漏れて、立ち止まる。
書店内にある文房具売り場の陳列棚の前、レターセットを真剣な眼差しで選んでいる制服を着た女子高生。
――あれって、弓木先輩じゃん!
俺より一学年上で同じ青中だった弓木明紗先輩がそこには居た。
――うわ、マジかよ!
圧倒的に美しい弓木先輩は俺たち青中の後輩にとって、憧れの女の先輩だった。
才色兼備で凛とした佇まいに、大人びている優美な雰囲気は色香まで放っていて。
かわいい要素もきれいな要素も併存する美しい目鼻立ち。
すらりとした高身長に、メリハリがありながらも柔らかそうな理想的なプロポーションでスタイル抜群だし、俺は間近で見たことはないけど、髪や肌まで美しいと聞く。
弓木先輩は際立った透明感のある美しさがありながらも、どこかミステリアスで落ち着いていて男女問わず青中の誰もが魅了されていた。
弓木先輩が文武両道の都立の名門校、朝比奈第三高校に合格したって噂で聞いていたけどガチだったんだ。
――更に綺麗になっちゃってるし。
青中のセーラー服も似合ってたけど、高校の制服姿はまた異なる魅力を放っている。
俺は目の前の本を見ている振りをしながら、文具売り場に立つ弓木先輩を見つめていた。
周囲の人間も弓木先輩に視線を奪われ見惚れている。
もちろん俺ごときが弓木先輩に話しかけられるわけがない。
弓木先輩は美しすぎて、俺だけじゃなく後輩からなんて近寄ることすらためらわれる高嶺の花。
恐れ多くて近づけなくても、決して寄せ付けない雰囲気ではなくて。
レベルが違いすぎて手を出すのが忍ばれる、自分とは程遠い雲の上にいるような存在だった。
――弓木先輩に偶然出くわすなんて、俺ってラッキー。
あとで同じクラスのLINEグループで自慢してやろう。
弓木先輩は購入するレターセットを選んだのか手にとって、会計を済ませている。
書店から出ようとする弓木先輩を通せんぼするように二人の男が立ち塞がった。
「ねぇ、この後、暇?」
「一緒にご飯でも食べに行こうよ。もちろんおごるからさ」
大学生くらいの男たちが弓木先輩に声をかけていた。
「――いえ。大丈夫です」
「そう言わずにさ」
「っていうか、すごいきれいだよね? モデル? 芸能人? インスタ教えてよ」
弓木先輩は断って通り過ぎようとしているけれど、相手の男たちは結託して弓木先輩の進行を妨害していた。
「そういうのやっていないので、申し訳ないです」
「嘘だー。今どきやってない子いないって。もしかして彼氏いて、遠慮してる?」
「この子にいないほうがおかしいだろ」
「……お付き合いしている方がいるので、すみません」
弓木先輩、彼氏いるのかよ。
あの男たちが言うとおり、いないほうがおかしいけど。
中学時代、弓木先輩は校内外で人目を引く有名な美人でも、特定の彼氏が居たという情報は聞いたことがなくて。
自分が付き合えるわけじゃないとわかっていながらも、俺を始め男子は弓木先輩の隣に立つ特定の男を見なくて済んで内心喜んでいた。
高校に入学した弓木先輩が周りの男たちに放っておかれるなんてあるはずもなく、彼氏だって出来るよな……。
こっそりと肩を落とした。
「彼氏には黙っててやるからさ。一緒に行こうよ」
それでも、しつこく弓木先輩に絡む男たち。
遊び慣れた雰囲気があって自分たちがイケメンだという自負もあるだろうし、滅多にお目にかかれない並外れて美人な弓木先輩を逃したくないのだろう。
「――弓木先輩!」
俺は思わず弓木先輩に声をかけながら、男たちに近づいた。
「誰? 知り合い?」
「中坊じゃん」
もちろん弓木先輩は俺のことを知らないはずだけど、塾の夏期講習には中学の制服で行っていて着替えていないから、青中の後輩だと気づいたはずだ。
「弓木先輩、こんなところに居たんですか? もうみんな待ってますよ。行きましょう」
俺は弓木先輩の腕を掴んだ。
――細っ……! 柔らかっ……!
俺が憧れの弓木先輩の素肌を触っていることに高揚する。
「――そうだったね。待たせてごめんなさい」
弓木先輩は俺に合わせるようにそう返してくれた。
弓木先輩を連れ去った俺に対して男たちが舌打ちしたのを背中で聞く。
深追いされなくて良かったと思いつつ、今は俺が弓木先輩と一緒に歩いているんだと心拍数が恐ろしく速くなっていた。
「――ここまで来れば、もう大丈夫だと思います」
フロアの端、テナントから少し離れているエレベーター前のソファーや自販機が置かれている空間へと足を進めて振り返る。
弓木先輩を救出しなければと無我夢中で連れてきてしまって、俺の心臓は痛いくらいに鳴っていた。
「――ありがとう」
弓木先輩の澄んだ声色。
声まで綺麗って何なんだろう。
っていうか、遠目でしか見たことなかったけど、至近距離でもこんなに弓木先輩は何もかも綺麗なんだ……。
「弓木先輩って実在してたんだ……」
うっとりと弓木先輩を眺め続けながら、俺は無意識にそう発言していた。
弓木先輩は「え……」と小さく声を落とす。
「いや、あっと……違います。失礼しました!!」
掴んだままだった弓木先輩の腕を解放して、俺は大慌てで弁明しようと言葉を探した。
弓木先輩は実在しているのが不思議なほど欠点の探せない絶世の美しさだったから、どこか現実味の薄い存在で。
実際に間近で見て、弓木先輩も呼吸をして体温のある人間なんだと思ったら、そう告げてしまっていた。
こんな酔狂なことを弓木先輩に正直に伝えられるはずもない。
「ううん。助かった。本当にありがとう」
俺が困っているのを察してくれたのか、聞かなかったことにしてくれた弓木先輩の優しさが沁みる。
中学時代、弓木先輩は余り男子と話さなかったと聞いた。
避けてるわけではないけど、必要最低限に関わりを留めておく、みたいな……。
確かに弓木先輩にほんの少しでも優しくされたり、微笑みかけられたり、ジッと目を見つめられたりなんかしたら、男なんて単純だから、ひとたまりもなく恋に落とされるだろう。
周囲の女子の目への配慮もあるのかもしれない。
けど、根が優しいんだろうし、弓木先輩って才色兼備なのに奥ゆかしくて、おしとやかな内面も魅力的で好きにならずにはいられない雰囲気があって、結局は自然とモテてしまっているんだと思う。
「弓木先輩は三高に進学したんですか?」
「うん。青中の後輩の子だよね?」
「あ、はい! 一つ年下の三年です。サッカー部だったんですけど、最近引退して……」
憧れの弓木先輩と二人で会話してるなんて……。
――俺、今、この瞬間に世界が滅亡しても構わないかも!
あの時、勇気を出して弓木先輩を助けて良かった。
「そうなんだ。部活、お疲れさま」
弓木先輩が俺の約3年間の部活動を労ってくれて、不覚にも泣きそうになってしまった。
いろいろあったし、地区予選止まりの弱小校だったけど、俺なりにサッカーに打ち込んで頑張ってきたもんな。
「これからは受験勉強に力を入れないとってわかってはいるんですけど……」
俺は空笑いしながら、フロアに目線を落とす。
「将来なりたいこともやりたいこともはっきりしないのに、こんな状態で進路決めろって言われてもプレッシャーだし、やる気が起きなくて、みんなはもっと頑張ってるんだと思うと出遅れてんのかなって焦ってイライラして……」
って、何を弓木先輩に俺は伝えているんだ。
慌てて、謝ろうかと思ったら、
「――私も、まだはっきりしてないよ」
と、弓木先輩が先に言葉を紡ぐ。
弓木先輩が答えてくれたのが意外で俺は驚きに目を見開いた。
「やりたいことが見つかった時に備えて、選択肢を広げておくために勉強するのもいいのかなって思う」
端的だけど、弓木先輩が俺の愚痴に近いようなモヤモヤに真摯に答えてくれて、不覚にも涙を誘われそうになった。
受験という壁にびびっていたし、将来の姿も描けなくて自信を失っていた俺を肯定してくれた気がして……。
まだやりたいことなんか明確になっていなくてもいい。
将来の姿が具体的に描けるようになった時に、それを選べる選択肢に繋がれるよう勉強しておく。
そのためだったら、今はやりたいことがわからなくても勉強する意義が不明瞭ではなくなるように思えた。
「弓木先輩のおかげで受験のモチベ上がった気がします」
弓木先輩は俺に返答するようにかすかに微笑んでくれた。
――やばい、かわいすぎる……。
こんなの好きになるなってほうが無理じゃね?
かわいくて、美人で性格も良かったら好きにならないなんて不可能じゃん。
弓木先輩は配慮していたとしても天性でモテてしまうんだろう。
俺も三高、受からないかな。
現時点の学力じゃ無理だろうけど、今から追い上げたら何とかいけるんじゃないか。
弓木先輩の彼氏……になれるのは無理だとわかっているけど、高校でも弓木先輩の後輩になりたい。
「さっき聞いちゃったんですけど、弓木先輩って彼氏いるんですか?」
俺の問いかけに弓木先輩ははっとした表情をする。
少しだけ哀しげに見えたのは気のせいだろうか。
「……うん」
「どんな人なんですか?」
「……同じ高校の先輩」
三高で彼氏できてたのかよ。
弓木先輩の彼氏に昇格できるってどんなやつなんだろう。
絶対に普通レベルの男じゃないんだろうけど。
弓木先輩が彼女だったら絶対に自然と大事にしちゃうよな。
やっぱり俺も三高に合格して、弓木先輩の彼氏をこの目で確認したい。
そうと決まったら勉強あるのみだ。
名残惜しかったけど、弓木先輩に別れを告げて、俺は家路を急いだ。
――俺、今日が人生最良の日かもしれない。
クラスのやつらに弓木先輩と会話したことを自慢しようかと思ってやめておいた。
例え僅かでも弓木先輩と共有した宝物のような時間は鍵をかけるように俺の心へと大切に閉まっておきたくて。
【end】
20260106
――だるいし、暑すぎるし、何もしたくない。
自宅には口を開けば、
「勉強したの? 受験生でしょ? 夏期講習の塾代いくらかかってると思ってるの?」
と、繰り返し俺を追い込む母親がいるから外出したものの、強すぎる日差しと加熱された空気に耐え切れず、俺は避暑地を求めて、最寄り駅の商業施設に滑り込んだ。
中三の夏休みは受験の天王山などと呼ばれている。
けれど、全くもって部活との切り替えスイッチが働いてくれなかった。
最後の大会での敗北でサッカー部を引退。
あれだけ練習に明け暮れていたのに、終わる時は呆気ないほど、あっさりだった。
そのせいか燃え尽き症候群のような状態のまま、夏休みは無為に過ぎていく。
母親が勝手に申し込んだ夏期講習は平日の午前中に毎日通っているものの、どこか身が入らなかった。
勉強しないといけないのはわかっている。
まだ志望校もはっきりと決めきれていない。
ずっと成績は中の上って辺りをキープしてきたけれど、ここからみんな受験勉強に本腰をいれてグッと学力が上がってくる頃だ。
自分の行ける範囲内で1番高いランクの普通科に入れればいいかとは思うけど、相対的に成績が落ちたら志望校のレベルも下げなければいけなくなる。
サッカーは好きだし高校でも続けたいけど、しょせん部活動レベルでプロになりたいなんて崇高な志があるわけでもない。
高校受験……初めて目の前に立ちふさがった自分を”試される”場。
――将来、何がしたいかなんて14歳15歳ではっきりしてる人間なんているのかよ。
あてもなく商業施設に入っている大型書店内をぶらぶらと歩き回っていた。
「……え?」
思わず口から驚きが漏れて、立ち止まる。
書店内にある文房具売り場の陳列棚の前、レターセットを真剣な眼差しで選んでいる制服を着た女子高生。
――あれって、弓木先輩じゃん!
俺より一学年上で同じ青中だった弓木明紗先輩がそこには居た。
――うわ、マジかよ!
圧倒的に美しい弓木先輩は俺たち青中の後輩にとって、憧れの女の先輩だった。
才色兼備で凛とした佇まいに、大人びている優美な雰囲気は色香まで放っていて。
かわいい要素もきれいな要素も併存する美しい目鼻立ち。
すらりとした高身長に、メリハリがありながらも柔らかそうな理想的なプロポーションでスタイル抜群だし、俺は間近で見たことはないけど、髪や肌まで美しいと聞く。
弓木先輩は際立った透明感のある美しさがありながらも、どこかミステリアスで落ち着いていて男女問わず青中の誰もが魅了されていた。
弓木先輩が文武両道の都立の名門校、朝比奈第三高校に合格したって噂で聞いていたけどガチだったんだ。
――更に綺麗になっちゃってるし。
青中のセーラー服も似合ってたけど、高校の制服姿はまた異なる魅力を放っている。
俺は目の前の本を見ている振りをしながら、文具売り場に立つ弓木先輩を見つめていた。
周囲の人間も弓木先輩に視線を奪われ見惚れている。
もちろん俺ごときが弓木先輩に話しかけられるわけがない。
弓木先輩は美しすぎて、俺だけじゃなく後輩からなんて近寄ることすらためらわれる高嶺の花。
恐れ多くて近づけなくても、決して寄せ付けない雰囲気ではなくて。
レベルが違いすぎて手を出すのが忍ばれる、自分とは程遠い雲の上にいるような存在だった。
――弓木先輩に偶然出くわすなんて、俺ってラッキー。
あとで同じクラスのLINEグループで自慢してやろう。
弓木先輩は購入するレターセットを選んだのか手にとって、会計を済ませている。
書店から出ようとする弓木先輩を通せんぼするように二人の男が立ち塞がった。
「ねぇ、この後、暇?」
「一緒にご飯でも食べに行こうよ。もちろんおごるからさ」
大学生くらいの男たちが弓木先輩に声をかけていた。
「――いえ。大丈夫です」
「そう言わずにさ」
「っていうか、すごいきれいだよね? モデル? 芸能人? インスタ教えてよ」
弓木先輩は断って通り過ぎようとしているけれど、相手の男たちは結託して弓木先輩の進行を妨害していた。
「そういうのやっていないので、申し訳ないです」
「嘘だー。今どきやってない子いないって。もしかして彼氏いて、遠慮してる?」
「この子にいないほうがおかしいだろ」
「……お付き合いしている方がいるので、すみません」
弓木先輩、彼氏いるのかよ。
あの男たちが言うとおり、いないほうがおかしいけど。
中学時代、弓木先輩は校内外で人目を引く有名な美人でも、特定の彼氏が居たという情報は聞いたことがなくて。
自分が付き合えるわけじゃないとわかっていながらも、俺を始め男子は弓木先輩の隣に立つ特定の男を見なくて済んで内心喜んでいた。
高校に入学した弓木先輩が周りの男たちに放っておかれるなんてあるはずもなく、彼氏だって出来るよな……。
こっそりと肩を落とした。
「彼氏には黙っててやるからさ。一緒に行こうよ」
それでも、しつこく弓木先輩に絡む男たち。
遊び慣れた雰囲気があって自分たちがイケメンだという自負もあるだろうし、滅多にお目にかかれない並外れて美人な弓木先輩を逃したくないのだろう。
「――弓木先輩!」
俺は思わず弓木先輩に声をかけながら、男たちに近づいた。
「誰? 知り合い?」
「中坊じゃん」
もちろん弓木先輩は俺のことを知らないはずだけど、塾の夏期講習には中学の制服で行っていて着替えていないから、青中の後輩だと気づいたはずだ。
「弓木先輩、こんなところに居たんですか? もうみんな待ってますよ。行きましょう」
俺は弓木先輩の腕を掴んだ。
――細っ……! 柔らかっ……!
俺が憧れの弓木先輩の素肌を触っていることに高揚する。
「――そうだったね。待たせてごめんなさい」
弓木先輩は俺に合わせるようにそう返してくれた。
弓木先輩を連れ去った俺に対して男たちが舌打ちしたのを背中で聞く。
深追いされなくて良かったと思いつつ、今は俺が弓木先輩と一緒に歩いているんだと心拍数が恐ろしく速くなっていた。
「――ここまで来れば、もう大丈夫だと思います」
フロアの端、テナントから少し離れているエレベーター前のソファーや自販機が置かれている空間へと足を進めて振り返る。
弓木先輩を救出しなければと無我夢中で連れてきてしまって、俺の心臓は痛いくらいに鳴っていた。
「――ありがとう」
弓木先輩の澄んだ声色。
声まで綺麗って何なんだろう。
っていうか、遠目でしか見たことなかったけど、至近距離でもこんなに弓木先輩は何もかも綺麗なんだ……。
「弓木先輩って実在してたんだ……」
うっとりと弓木先輩を眺め続けながら、俺は無意識にそう発言していた。
弓木先輩は「え……」と小さく声を落とす。
「いや、あっと……違います。失礼しました!!」
掴んだままだった弓木先輩の腕を解放して、俺は大慌てで弁明しようと言葉を探した。
弓木先輩は実在しているのが不思議なほど欠点の探せない絶世の美しさだったから、どこか現実味の薄い存在で。
実際に間近で見て、弓木先輩も呼吸をして体温のある人間なんだと思ったら、そう告げてしまっていた。
こんな酔狂なことを弓木先輩に正直に伝えられるはずもない。
「ううん。助かった。本当にありがとう」
俺が困っているのを察してくれたのか、聞かなかったことにしてくれた弓木先輩の優しさが沁みる。
中学時代、弓木先輩は余り男子と話さなかったと聞いた。
避けてるわけではないけど、必要最低限に関わりを留めておく、みたいな……。
確かに弓木先輩にほんの少しでも優しくされたり、微笑みかけられたり、ジッと目を見つめられたりなんかしたら、男なんて単純だから、ひとたまりもなく恋に落とされるだろう。
周囲の女子の目への配慮もあるのかもしれない。
けど、根が優しいんだろうし、弓木先輩って才色兼備なのに奥ゆかしくて、おしとやかな内面も魅力的で好きにならずにはいられない雰囲気があって、結局は自然とモテてしまっているんだと思う。
「弓木先輩は三高に進学したんですか?」
「うん。青中の後輩の子だよね?」
「あ、はい! 一つ年下の三年です。サッカー部だったんですけど、最近引退して……」
憧れの弓木先輩と二人で会話してるなんて……。
――俺、今、この瞬間に世界が滅亡しても構わないかも!
あの時、勇気を出して弓木先輩を助けて良かった。
「そうなんだ。部活、お疲れさま」
弓木先輩が俺の約3年間の部活動を労ってくれて、不覚にも泣きそうになってしまった。
いろいろあったし、地区予選止まりの弱小校だったけど、俺なりにサッカーに打ち込んで頑張ってきたもんな。
「これからは受験勉強に力を入れないとってわかってはいるんですけど……」
俺は空笑いしながら、フロアに目線を落とす。
「将来なりたいこともやりたいこともはっきりしないのに、こんな状態で進路決めろって言われてもプレッシャーだし、やる気が起きなくて、みんなはもっと頑張ってるんだと思うと出遅れてんのかなって焦ってイライラして……」
って、何を弓木先輩に俺は伝えているんだ。
慌てて、謝ろうかと思ったら、
「――私も、まだはっきりしてないよ」
と、弓木先輩が先に言葉を紡ぐ。
弓木先輩が答えてくれたのが意外で俺は驚きに目を見開いた。
「やりたいことが見つかった時に備えて、選択肢を広げておくために勉強するのもいいのかなって思う」
端的だけど、弓木先輩が俺の愚痴に近いようなモヤモヤに真摯に答えてくれて、不覚にも涙を誘われそうになった。
受験という壁にびびっていたし、将来の姿も描けなくて自信を失っていた俺を肯定してくれた気がして……。
まだやりたいことなんか明確になっていなくてもいい。
将来の姿が具体的に描けるようになった時に、それを選べる選択肢に繋がれるよう勉強しておく。
そのためだったら、今はやりたいことがわからなくても勉強する意義が不明瞭ではなくなるように思えた。
「弓木先輩のおかげで受験のモチベ上がった気がします」
弓木先輩は俺に返答するようにかすかに微笑んでくれた。
――やばい、かわいすぎる……。
こんなの好きになるなってほうが無理じゃね?
かわいくて、美人で性格も良かったら好きにならないなんて不可能じゃん。
弓木先輩は配慮していたとしても天性でモテてしまうんだろう。
俺も三高、受からないかな。
現時点の学力じゃ無理だろうけど、今から追い上げたら何とかいけるんじゃないか。
弓木先輩の彼氏……になれるのは無理だとわかっているけど、高校でも弓木先輩の後輩になりたい。
「さっき聞いちゃったんですけど、弓木先輩って彼氏いるんですか?」
俺の問いかけに弓木先輩ははっとした表情をする。
少しだけ哀しげに見えたのは気のせいだろうか。
「……うん」
「どんな人なんですか?」
「……同じ高校の先輩」
三高で彼氏できてたのかよ。
弓木先輩の彼氏に昇格できるってどんなやつなんだろう。
絶対に普通レベルの男じゃないんだろうけど。
弓木先輩が彼女だったら絶対に自然と大事にしちゃうよな。
やっぱり俺も三高に合格して、弓木先輩の彼氏をこの目で確認したい。
そうと決まったら勉強あるのみだ。
名残惜しかったけど、弓木先輩に別れを告げて、俺は家路を急いだ。
――俺、今日が人生最良の日かもしれない。
クラスのやつらに弓木先輩と会話したことを自慢しようかと思ってやめておいた。
例え僅かでも弓木先輩と共有した宝物のような時間は鍵をかけるように俺の心へと大切に閉まっておきたくて。
【end】
20260106



