※蓮に嫉妬心を抱く同級生の男子高生の視点 後半の明紗は高1の10月頃[蓮と明紗が本編で別れていた時期]※

 ――俺は久瀬蓮という男が嫌いだ。

 俺は自分が特別だと思って生きてきた。
 特に努力しなくても、授業を聞いてさえいればそれなりの点数はとれたし、体育の授業でサッカーをすれば地道に部活動で練習を積んでいるサッカー部のやつより、俺のほうがうまかった。
 俺の見た目は女受けしたから、定期的に女の子に告白されてきたし、中学に入学して早々に友だちの姉に誘惑され初体験も済ませた。
 女の良さを身体で学習してしまえば、また求めてしまって。
 そこからは自分がその時に付き合ってる子と、新たに俺に告白してくれた子、どちらが上かを都度選択しながら、別れて、付き合って、振って、別れて、付き合って、数珠つなぎで途切れることなく俺には彼女が居た。
 高校受験では文武両道の名門校である都立朝比奈第三高等学校に合格することが出来た。
 俺の通っていた中学で三高への進学者は俺だけで、それも持て囃された。
 俺の今までの彼女は簡単に股を開いてくれそうかを最重視して選んできた。
 その分、会話は退屈で。
 三高に入学したら、賢い女と付き合いたい。
 三高は女子の割合が少ないけど、都立の難関高に合格した時点で知性は備えている。
 そんな子に俺があっち方面のことを教えて染め上げていくのも楽しそうだと思った。
 中学卒業までに培われた自信と矜持に満ち溢れて入学した三高。
 しかし、入学早々にそんなものはズタボロにされ簡単に圧し折られることになる。
 ――久瀬蓮という同じ新入生の男によって。
 名門の三高に入学したところで、俺は”その他大勢”のモブに過ぎなかった。
 いつもいつも生徒たちの話題の中心にいて、主役になるのは隣のクラスの久瀬蓮だった。
 久瀬は男子バレー部に入部して早々にスタメンとエースの座を攫ったと聞く。
 しかも、上級生に妬まれるのではなく、

 『――久瀬が三高に入学してくれて良かった』
 『久瀬が居れば、今年こそインハイ行けるな』

 一目も二目も置かれて重宝されていた。

 『久瀬くん、かっこよすぎる』
 『顔面だけじゃなくて、足も長くてスタイルもいいよね。身長180越えてるかな?』
 『放課後、第二アリーナにバレー部の練習見学しに行こうよ』
 『バレー部の試合も応援に行きたい』
 『他校にも久瀬くんのファンが多いんだって』
 『久瀬くんが取材されてたバレーボールのWEB記事、見た?』
 『かっこよかったよね。あの久瀬くんの写真、スクショして保存しちゃった』
 『久瀬くんって誰に告白されても断ってるんでしょ? 何で彼女作らないんだろう』
 『バレーに夢中だからじゃないの?』
 『そういうのもクールでいいよね』

 男も女も、みんな久瀬に熱狂して注目する。
 一番、俺をイラつかせたのは久瀬本人が周囲から向けられる自分への関心に全く興味を示していないってことだった。
 久瀬は校内だけではなく校外でも頻繁に告白され、すべて断っていると聞く。
 俺が三高でなりたかった立ち位置に普通に居るくせに、それには無関心な、久瀬のすかした態度が気に入らなかった。
 ――何なんだよ、あいつ……。
 三高では浮ついた俺に告白してくる子なんていないし、友だちになりたいと思える男もいなくて、一人で行動していた。
 考査は中間も期末も追試でどうにか合格点をとれるレベルだったから成績も振るわない。
 高校生活はつまらなくて、中学時代の友人を介して三高以外の場所に居場所を作った。
 ノリ良くバカ騒ぎできる連中。
 それでも三高を一歩でれば三高生ってだけで女受けは抜群で彼女は途切れなかった。
 女の素肌を求めてる時だけは日頃の鬱積(うっせき)を忘れられる。

 どうにか俺はギリギリの成績で2年に進級した。
 また久瀬は隣のクラスだし、この1年間で久瀬の人気や注目度は下がるどころか天井知らずで膨れ上がる一方。
 久瀬がバレーボールで全日本ユース候補の合宿に収集されたとか、1人だけメディアの取材を受けたとか、そういうのも全て俺をイラつかせる材料にしかならなかった。
 その分、三高の男子バレー部が大会で敗退したと耳に入れば、ガッツポーズを決めるくらい喜びに沸き立った。
 2年に進級して更に久瀬を嫌いになる出来事が起こる。
 久瀬に彼女が出来たからだ。
 しかも、その相手が相手で。
 三高に入学して早々に別格の美貌と存在感で、あっという間に全校生徒に名前が浸透した弓木明紗という後輩だった。

 『おっ、弓木明紗だ』
 『レベチに美人でスタイルいいよな』
 『あれはヤバすぎるだろ』
 『どんな男だったら弓木の彼氏になれるんだろうな』

 弓木を見ながら廊下で騒いでいる男たちの目線の先を辿り、初めて弓木を認識した時は確かに神がかって綺麗な子だと思った。
 全てのバランスが絶妙だった。
 可愛くもあり、美人でもあり、清楚でもあり、色っぽくもあり、周りの同世代の女子たちとは一線を画した大人びた雰囲気を漂わせる存在。
 入学式で新入生代表挨拶を務めたと聞いたから、とびきりの優等生でもあるんだろう。
 聡明で楚々とした雰囲気に、由緒正しい三高の制服に包まれていたって隠しきれていない男の欲望を詰め込んだようなメリハリのある弓木の華奢な身体は煽情的で。
 弓木は特別の中でも更に格別であるような、そんな女。
 そんな弓木の彼氏になれたら、俺も特別に戻れるだろうか。
 いや、弓木のような遥か手の届かない女を狙うほど、俺も頭は悪くない。
 ほぼ連日、弓木にはフラれること前提で告白している男が絶えないと聞くが、俺はそんな奴らを見下していた。
 憧れの弓木と少しでも話したいとか、近づきたいとか、そういう淡い期待を抱くのではなく、身の丈にあった付き合える相手を選べばいいのに。
 そうしたらその相手とキスもその先も出来るというのに。
 そんな全校生徒にとって高嶺の花の存在だった弓木が事もあろうか久瀬と付き合い始めた。

 『俺、弓木さんが久瀬と付き合い始めたショックで昨日眠れなかったわ』
 『マジで? でも、ついに三高の姫君に彼氏かよとは俺も思った』
 『久瀬だったらしょうがないじゃん? アイツ男から見てもかっこいいし』
 『そうだよなー。久瀬なら仕方ないよな。でも弓木に彼氏かー……』
 『元々、弓木明紗は雲の上の存在なんだから諦めろって』

 『久瀬くんと弓木明紗ちゃんって美男美女でお似合いすぎだよね』
 『2人で一緒にいるところ見かけたけど、ドラマのワンシーンかと思った』
 『ガチ尊い』
 『こっちの恋愛モチベもあがる』
 『久瀬くん、ずっと彼女作らなかったのにね』
 『弓木さんだったら好きになっちゃうでしょ』

 しかも、三高の理想的な憧れのカップルとして久瀬と弓木は2人揃って神格化までされていて。
 いつも告白を断って、女になんか(うつつ)はぬかしませんって態度だったくせに、さらっと弓木明紗を彼女にした久瀬が癪に障ってたまらなかった。
 そして俺は久瀬だけじゃなく、弓木にもイラついていた。
 何で弓木が久瀬を選ぶんだよ。
 弓木だったら、どんな男も選びたい放題だろ。
 同じ高校の男なんて手近なところで彼氏を作るなよ。
 弓木は特別な女なんだから、もっともっと選ぶ男も特別であってほしかった。

 今年の夏休みも日々暑かった。
 セクシーな水着を身につけたノリの良い女の子がたくさんいる浜辺にダチと通っては騒いだり、そこで出会った彼女以外の女とクーラーのガンガンきいた部屋で身体を重ねたり。

 「君、三高生なの? 全然見えない」
 「はは。俺みたいなチャラい奴は学校に少ないよ」
 「三高の知り合いなんて初めて。君も良い大学、目指してるの?」
 「良い大学って?」
 「えー。東大しか思い浮かばなーい」
 「東大は無理だって」
 「ね、もう一回しよ?」
 「そっちも、もう無理だって」
 「大丈夫。また、あたしがその気にさせてあげる」

 相変わらず俺に寄ってくるのは、頭が足りないエロかわいい女ばかり。
 俺がこんなことしてる間にも真面目な三高の人間は研鑽を積んでいるのだろう。
 俺の素肌が焼けていくたびに、また差が開いていく。
 差を埋めるために早く努力を始めないといけないことはわかってる。
 先送りにするほど、この差が大きくなることもわかっている。
 わかっているのに、手っ取り早く気持ち良くなれるラクなほうを選択してばかりいた。

 一ヶ月の夏休みが明けて早々に朗報が飛び込んできた。
 久瀬蓮と弓木明紗が別れた。
 瞬く間に学校中に駆け巡った二人が破局したニュース。
 俺は高校に入って一番の喜びに打ち震えた。
 ――弓木明紗と付き合えたら、俺は久瀬よりも上だって証明になる。
 弓木は誰の手にも届かない雲の上の存在だと思っていたけど、同じ高校の久瀬と付き合ったくらいだから、俺にもワンチャンあるかもしれない。
 弓木みたいな育ちも容姿も良い女は小さい頃からちやほやされて大切にされるのが当たり前だと思える温室のような環境で生きてきただろう。
 多少、強引な手段を使えば俺に(ほだ)されるかもしれない。
 俺だって、三高のエリートコースにのっている優等生くんたちが真面目に勉強している間に女との場数は相当踏んできている。
 三高での冴えない高校生活をひっくり返せる、このチャンスに賭けるしかないと思った。

 久瀬と別れた途端に弓木への告白ラッシュが再開したらしい。
 弓木の靴箱に呼び出しの手紙を入れて、告白の順番待ちをして……なんて暗黙ルールがいつの間にか男たちの間で成立していたようだったけど、正攻法で告白してもフラれるのは目に見えていた。
 俺はすぐに決行するのではなく、機会を探るために放課後の弓木の行動を観察することにした。
 弓木が久瀬の彼女だった時、友人と第二アリーナで男子バレー部を見学してから下校していた。
 別れてからは図書閲覧室で自習してから帰宅していることが多いとわかった。
 どちらにしても帰宅後の夜間は連日塾に通っているらしい。
 弓木は容姿が抜群に優れているだけでなく、文武両道の優等生だということも有名だったけれど、俺が見ているだけでも毎日サボりもせず当たり前のように学業で努力を積んでいた。
 ――この子、全然遊んでないじゃん。
 俺がダチとバカ騒ぎしていた時間にも、ゴムに精を吐き出していた瞬間にも、弓木は勉学に励んできたのだろう。
 そういえば夏休み前の英語のスピーチ大会にも弓木はクラス代表で登壇していた。
 弓木はトップバッターで一度も目線を原稿に落とすことなく、落ち着きのある綺麗な声で話していて、この時間は寝ていようと思っていたのに、壇上の弓木を食い入るように見つめたまま、すっかり聴き入ってしまった。

 いつの間にか俺の放課後は図書閲覧室に通って弓木が勉強している姿を眺めるのが日課になっていた。
 ずっと弓木を見ていてもあやしまれるから、俺も自然と自習するようになって……。
 俺と同じように弓木目当てでここに来ている男が多いこともわかった。
 どうして、この子こんなに一生懸命勉強するのだろう?
 弓木だったら、いくらでも高ステータスの男をつかまえられるだろうし、抜きんでた見た目を活用するだけで面白おかしくイージーモードで人生送れそうなのに……。
 たまに弓木は男から自習中に声をかけられて、図書閲覧室の片隅に呼ばれていた。
 気になって俺もそっと本棚に身を隠して様子を伺う。
 やっぱり弓木は告白されていて、そして謝りながら断っていた。
 弓木は昼休みに毎日といってもいいほど屋上庭園に呼び出されて告白されているらしいけれど、図書閲覧室で俺が見ているだけでも何度か告白されていて、弓木が断る度に俺は胸を撫で下ろした。
 夏休みに海でイイ感じになった子との浮気がばれて、当時の彼女と別れて以降、誰かに告白してもらっても付き合おうと思えずにいる。
 どうしても弓木と告白してくれた女の子とを無意識に比較してしまっていた。

 「おまえ、最近付き合い悪くね?」
 「ちょっと学校のほうが忙しいんだよね」
 「ふーん。やっぱりおまえは俺たちと違って三高のエリートくんだよな」

 ダチとの溜まり場に行く頻度も自然と減って、弓木を追って図書閲覧室通いをしているうちに、カレンダーは10月になっていた。
 弓木はいつだって真摯に勉強している。
 わからない部分があると、図書閲覧室のパソコンを使って調べ始めたり、隣の図書室に本を探しに行ったり……。
 そんな俺も弓木に影響されて、自然と勉強に勤しむようになっていた。
 教師の一言一句もらさないくらい真面目に授業を受けるようにもなった。
 外していた制服のワイシャツのボタンも1番上以外は留めて、両耳合わせて3つつけていたピアスを全てとった。

 図書閲覧室に向かう途中に進路指導室がある。
 ここが水曜日は使われることがなさそうだと図書閲覧室通いをしていたら気がついた。
 俺はSHR後に足早に教室を出ると、進路指導室に向かった。
 施錠はされていなくて、中に人が居ないのを確認して入室する。
 他の教室より圧倒的に狭くて、両脇の棚に詰められた膨大な資料と中央には面談するための応接セット。
 奥には職員用のワークデスクが2つ並べられている。
 今日は開放されたのが初めてなのだろう。
 少し湿った香りが漂っていた。
 僅かな扉の隙間から廊下の様子を(うかが)う。
 今日も弓木は図書閲覧室に向かうために通るだろうか……。
 周りに人が多すぎてもあやしまれる。
 心臓がうるさいくらいに鳴っていた。
 ほどなくして、俺の瞳がターゲットを捉える。
 ――弓木だ……。
 素早く進路指導室の扉を開けて、廊下を歩いていた弓木の細い手首を掴み、進路指導室へと強引に引き入れた。
 ガチャンと素早く鍵をかける。
 さすがの弓木も突然の事態に動揺したのか目を瞠って俺を見上げてきた。
 今、弓木の目に俺だけが映っている。
 それだけで胸が騒いで止まらなかった。
 弓木は間近で見ても顔の造りだけじゃなく、髪や肌質まで弓木を構成している全てが美しく、眩しいほどで。

 「――いきなりごめん。弓木を怖がらせるつもりはなかったんだけど」
 「……」

 弓木は口を開かないまま俺と距離をとるように後ずさりした。
 いざとなったら、ここは1階だし窓から逃げようと思っているのかもしれない。

 「俺は2年B組の……」

 俺は弓木をどうにか怖がらせたくなくて、自己紹介をする。
 弓木は動揺こそ綺麗な顔立ちに引っ込めたものの、俺への警戒心は隠していなかった。
 俺が強制的に閉じ込めておいてなんだけど、前触れなく知らない男にこんな状況にされて騒ぎださないってすごい子だよな。
 今も自分がどうするのが最善か冷静に状況を見極めようとしている。
 こういうシチュエーション、経験済みなんだろうか?

 「俺は、弓木のことが……」

 最初は強引に迫るはずだったのに。
 久瀬への当てつけで弓木がほしかっただけなのに。
 弓木を彼女にすれば俺は特別に戻れると打算しかなかったはずなのに。
 俺は初恋を覚えたての少年のように高鳴る鼓動を抑えられずに、言葉を紡ぐだけで精一杯で。

 「――好きです……」

 そう言った途端に俺の目からは涙が溢れた。
 こんな、たった一言を弓木に伝えることに心が震えてしまって。
 俺は特別でも何でもなく、どこにでもいる普通の男だって、とっくに気づいてた。
 授業を聞いているだけでテストの点が良かったなんて大嘘だ。
 中学時代、俺は何もやっていない風に周りに見せておきながら、自宅にいる時は死に物狂いで勉強していた。
 サッカー部より俺のほうがうまかったのは、俺が小学生の間ユースチームでサッカーをやらせてもらっていたから。
 学年が上がるにつれてうまい奴との実力の差が如実についていって、本格的についていけなくなる前に白旗をあげてサッカーをやめただけだ。
 三高の受験勉強だって睡眠時間をギリギリまで削って打ち込んだ。
 俺は努力の苦しさを知っている。
 継続する難しさも知っている。
 それが報われないことだってあるのも知っている。
 逃げる後ろめたさも知っている。
 三高に入学して、周りのレベルの高さを思い知って……。
 最初はついていこうとした。
 でも、ついていくために重ねなければいけない努力の量も苦しさも知っていたからラクな方に逃れて、逃げきれなくて。
 ――だから、久瀬に嫉妬した。
 俺が出来ないことを久瀬はやれているから。
 あいつは別に片手間でバレーボールをやって、あの地位を得てるわけではない。
 いつだったか俺が補習で教師から強制的に学校へ残らされていた時、最終下校時刻になっていた。
 俺は人影のなくなった校内で第二アリーナへと足を向けた。
 とっくに男子バレー部全体の部活動は終わっているのだろう。
 久瀬だけが自主練しているのか第二アリーナに一人で残っていた。
 俺は身を隠して、その様子を観察する。
 久瀬はバレーコートのコーナーギリギリに三角コーンを置いて、一人で黙々と何度も何度もサーブを打ち込んでいた。
 いつまで経っても自分が納得できるサーブが出来ないのだろう。
 久瀬の表情は自分自身の苛立ちや悔しさもあるのか、俺が思わず戦慄(せんりつ)したほどに険しいものだった。
 いつも、クールな久瀬しか知らなかっただけに、初めて見る久瀬の様子から目を離せなくなってしまった。
 久瀬は見回りの先生に、

 『もう下校時刻すぎているから早く帰りなさい。久瀬くんが練習熱心なのはいいけど、時間は厳守ね』

 と、言われるまで繰り返し練習し続けていた。
 三高のバレー部のエースは誰よりも真剣に誰よりも努力できる男だった。
 俺は久瀬や弓木のような誰からも憧れられる特別な存在になりたかった。
 二人とも生まれついての資質や能力もあるだろう。
 だけど当たり前のように久瀬も弓木も自己研鑽を継続することが出来て、壁に対して逃げずに向き合うことが出来て。
 そこに「他者から認められたい」なんて不純な欲求も願望も混じっていない。
 俺は誰かに「すごい」と言われることで自分はすごいと思ってきた。
 だから三高に入学して周りのレベルが高くなって、ちやほやどころか褒められることもないし、自分に自信がなくなって、モチベーションの保ち方がわからなくなって。
 自分の軸がないから、他者評価なんてもろいものに(すが)って、自分を見失っていた。
 なんて、いろいろなことが頭を過ぎりながら涙を流していた。
 かっこ悪いとわかっていても、弓木の前で溢れ出る涙を止めることが出来なかった。

 「――これ、使ってください」

 弓木が初めて声を発したかと思ったら、俺の目の前にはタオルハンカチが差し出されていた。

 「予備で持っていたものなので。返さなくて大丈夫です」

 素直に俺は弓木から差し出されたハンカチを受け取り、目元にあてた。
 ほのかに甘い香りがする。
 触り心地も良いから安物ではないのだろう。

 「――返事はわかっているから言わないでほしい」

 弓木にフラれるのはわかっていた。
 でも、俺の想いをただ弓木に伝えてみたかった。
 ――少しでいいから弓木と話してみたい。
 澄んでいる大きくて印象的な目に俺を映してほしい。
 俺の名前を透明感のある綺麗な声で呼んでほしい。
 艶めいて真っ直ぐなサラサラな黒髪を指で梳いてみたい。
 少しでいい。ほんの少しでいいから……。
 弓木と時間を共有したかった。
 いつの間にか俺は弓木に熱中してフラれること前提で告白する見下していたはずの男たちと、同じ思考になっている。
 自分にも、こんなピュアな恋心が残っていたことに自分でも驚いた。

 「……」

 弓木は俺を(とが)めることはしなかった。
 いきなり進路指導室に閉じ込められ、告白をされたかと思ったら、目の前の男に泣きだされ……。
 どれだけ非難されたって言い逃れできないことを俺は弓木にしているのに、弓木は黙って時間と空間を俺と共有してくれていた。

 「本当に悪かった。もう行ってくれていいよ」

 ずっと弓木と一緒に居たいけれど、弓木の邪魔をしたくはない。
 よりによって弓木の目の前でぼろぼろ泣いて、かっこ悪すぎる。
 でも、弓木は俺を馬鹿にしたり、周りに言いふらしたりするような子ではないと確信めいて信じていた。

 「……はい」

 弓木は会釈をして、俺の横を通り過ぎようとした。
 口では行けと言いながら俺は弓木が名残惜しくなってしまって。

 「――弓木って、まだ久瀬のこと好きだったりして」

 俺の口からはそんな言葉が零れていた。
 冷静な弓木には流される……。
 そう思ったけど、弓木は肩をびくりと強張らせて立ち止まった。
 ――え……?
 俺のような知らない上級生の男に無理やり進路指導室に連れ込まれても、落ち着き払って対応していた弓木がここまで反応してくれるとは思わなくて、俺は虚をつかれていた。

 「……黙っていてくれませんか?」

 逸らされたままの弓木の瞳に潤いが増したのがわかる。
 シルクのような白い肌はほんのりと桃色に上気していて、普段とは違う庇護欲をそそるようなかわいらしい声で懇願されて、俺の理性は吹き飛びそうになった。

 「は、はい!」

 俺はうろたえて敬語で返事をしていた。
 弓木の華奢な肩を後ろから抱き締めたくなる衝動を必死にこらえ、退室していく弓木を目線で見送る。
 何だよ、あの普段のクールビューティーな澄ました顔とギャップのあるかわいすぎる反応。
 この子、めちゃくちゃ久瀬のこと大好きじゃん。
 二人が別れたと聞いて、なぜか当然のように久瀬が弓木にフラれたんだと思い込んでいた。
 え、久瀬が弓木を振ったのか?
 二人の事情は二人にしかわからないとはいえ、弓木を振る男なんて、この世に居るのか?
 ――やっぱり、俺は久瀬が嫌いだ。
 弓木にあんな顔させるなよ。
 久瀬だけがあんなに弓木の感情を揺さぶれるのかと、うらやましくてどうしようもなくなった。

 俺が弓木にフラれた数日後。
 7限の移動教室のために歩いていたら廊下で久瀬の姿を見つけた。
 久瀬は窓越しに外の様子を眺めている。
 いかにも主役ですって感じの、男の俺でさえ息を呑むほど欠点を探せない久瀬のビジュアル。
 何で、これだけ背が高いのに、顔は小さいんだよ。
 足だって平均より長いよな……。
 どこか憂いを帯びた目で窓の外を見つめている久瀬の横顔が綺麗で悔しいけど見入ってしまった。
 ――何を見ているんだろう……。
 久瀬の視線の先を辿る。
 そこには6限が屋外で体育だったのか、ジャージに身に包んだ弓木の姿があった。
 3階のここまで会話は届かないけど、弓木含めて女4人で楽しそうに校舎に向かって歩いている。
 弓木は背の低めな女に抱き着かれていて、他の2人の女も笑顔で弓木に話しかけていて、弓木は全員を受け止めるように控えめに優しく微笑んでいた。
 決しておしゃれではない学校指定のジャージ姿でさえ弓木は魅力的で。
 やっぱり、ずば抜けて綺麗な子だよな……。
 三高の姫君とか女神とか、みんなに評されているけれど不思議でも何でもないくらい弓木に馴染んでしまう。
 さすがにフラれた後は弓木目当ての図書閲覧室通いは止めたけれど、弓木の姿を校内で探す癖は抜けきらなかった。
 久瀬に視線を戻す。
 ――そうか。久瀬も弓木を見ていたのか……。
 切ないほどに真剣な久瀬の眼差しは弓木にだけ注がれていて。
 それだけで久瀬の弓木への想いが嫌というほど伝わってくる。
 久瀬も弓木のことがまだ好きなのか?

 「――久瀬」

 俺は初めて久瀬に話しかけた。
 俺の声に反応して、久瀬は弓木から俺へと目線の先を移行した。
 久瀬はたぶん話したこともなく同じクラスになったこともない俺のことなど知らないだろう。

 「――今度こそ春高、出場できるといいな」

 俺は大嫌いだった久瀬に本心から励ましの言葉をかけていた。
 来月の試合で結果が出れば、男子バレー部が悲願の春高に出場できることを知っていた。
 久瀬の失敗を願ったり、男子バレー部の敗退を喜んでいた自分はどこまでも醜くて、そんな自分と決別したくて。
 久瀬が下がったところで自分は上がらない。
 自分が欲しいものを持っている誰かを、自分のなりたい姿になれている誰かを、僻んだり羨んだりするだけでは何も変われない。

 「――ああ、ありがとう」

 久瀬は低い声で俺にそう答えると、もう一度窓の外を見てから廊下を歩き去ってしまう。
 久瀬と弓木がお互い想い合っているのは俺から見ても明らかなのに、どうして別れてんだよ……。
 何で二人揃って何かに耐えているような表情をしてるんだよ。
 ――久瀬と弓木はどこまでもよく似ている。
 もやもやとした気持ちが生みだされていっても、俺にはどうしようもない。
 俺は制服のジャケットのポケットに無意識に手を入れていた。
 そこには弓木にもらったタオルハンカチが入っている。
 弓木の名残が消えてしまうような気がして、洗濯には出せずにお守りのように持ち歩いていた。
 スピリチュアルとかに興味は全く持てないけど、これに触れるだけで、何だかパワーをもらえるような気がしていた。
 ――今日も勉強、頑張りますか。
 遅れていた分を取り戻すのは簡単ではないけれど。
 ひとつ伸びをして、俺も一歩を踏み出した。

 【end】
 20251130