※本編後のお話 Ⅶ・Ⅷの翌日。志恩の視点※
AM05:58
まだまだこの時間だと12月は日の出までには時間が早く、夜と呼べるほど寝静まった住宅街は暗がりが支配していた。
しんとした静けさの中、あくびを噛み殺して歩みを進める。
凍りつくような冷気で、少し歩いただけで耳が痛む。
新築時に戸建住宅が大規模分譲され、類似した家々が立ち並ぶ統一感ある街並みの一角。
庭に停められた黒のミニバン。
リビングのカーテンの隙間から溢れた明かりが通りにまで漏れている。
この綺麗な外観の戸建ては蓮の自宅だった。
平日の部活の朝練、俺は蓮の自宅に立ち寄ってから登校するのが日課になっている。
クリスマスリースが飾られた玄関扉の前でスマホを取り出す。
まだ就寝中の蓮の父親や妹たちをインターフォンの音で起こすわけにはいかず、メッセージを送信した。
[着いたよ]
送った相手は蓮ではなく、蓮の母親。
返信の前にガチャガチャと鍵を開ける音が聞こえて中から扉が開けられた。
「おはよう。おばさん」
「おはよう、志恩。今日も寒いわね」
蓮の母親はルームウェアにすっぴん眼鏡で髪を無造作に束ねている。
これだけ無防備な姿で俺をお出迎えしてくれるくらいには家族同然の対応。
俺はいつもの日課と同じように蓮の家に上がり、温かいリビングのソファーに腰を落として、つけられていた大画面のテレビを眺める。
朝の情報番組で天気予報のお姉さんが週間天気予報を伝えていた。
『クリスマスイブ当日はからっとした晴れの日になりそうです』
対面キッチンでは蓮の母親が朝食を作っているのか、電子レンジに何かをセットしている。
蓮のお弁当箱は包まれて、カウンターに既に置かれていた。
お弁当を包む巾着には夏前からおにぎりポリスという児童書のキャラクターのマスコットがつけられていて、もう長くそのままだった。
『それ外さないの? どうせ鈴に遊びでつけられたんじゃない』
俺は蓮に聞いたことがある。
『――外さない』
蓮にはっきりと即答されて、驚いたのを覚えている。
何でなのか疑問に思いつつも、特に気に留めていなかった。
その答えがわかったのは、つい最近。
蓮と弓木さんが正式に付き合ったのと同時期、二人の通学リュックにはお揃いのキーホルダーがつけられるようになった。
それが、ご当地のおにぎりポリスのマスコットで、弓木さん絡みだったのかと合点がいった。
「クリスマスイブ晴れるのねー」
蓮の母親がキッチン内で忙しなく作業しながら、俺に話しかけてきた。
「今年は久瀬家のクリスマスパーティーに弓木さんが来るんだって?」
「そうなの。志恩も来る?」
「俺はイブの夜は彼女と2人で過ごす予定」
「ああ。柚乃さんね。柚乃さん、かわいいわよね。順調?」
「おかげさまで」
「良かったわね」
と言っても、別にイブの夜は泊まりとか、そういうわけではないけれど。
18歳になれば、高校を卒業すれば……、もう少し自由が手に入るのだろうか。
「翠が明紗さんもパーティに呼びたいって言い出して快諾してくれたみたいなんだけど、いきなり彼氏の家族の中に飛び込ませるようで、明紗さんの負担になってないか心配なの」
「弓木さんは負担だとは思わない子だと思うよ」
「負担だとは思わなくても、どうしても気を遣わせるでしょ? 『手ぶらで来てね』とは蓮や翠に伝言を頼んでるんだけど」
確かに蓮の家に招待されていれば、弓木さんのことだから気を遣いすぎてしまいそうだ。
「翠。この間の日曜、弓木さんの家に遊びに行ったって聞いた」
「そうなのよ。翠はすっかり明紗さんに心酔しちゃって、明紗さんみたいになるってはりきってる。さすがに明紗さんが使っているシャンプーとかは高価なものが多くて同じものは買ってあげられないけど。近頃の翠は積極的に家事を手伝うようになったし、前向きに勉強も取り組むようになって助かってるわ」
現在、小学校5年生の翠は久瀬家の長女として生まれただけあって容姿も良く、全ての基本スペックが高かった。
小2からバレーボールにのめり込んで練習に精を出していた蓮と違い、翠は特別な努力をしなくても勉強も運動も出来てしまう分、力を持て余して、学年が上がるに連れてどことなく冷めている印象を受けていた。
何に対しても本気を出さないというか、出せるフィールドがないというか。
恐らく小学校で翠は敵なしだと思う。
周りも不必要に翠を持ち上げたりするのかもしれない。
そんな時に出会ったのが兄の彼女――この時は表向きだけの関係性だったけど、弓木さんで。
今まで弓木さんのような存在は翠の周りに居なかっただろう。
一瞬で相手を魅了する弓木さんの美貌はもちろんのこと、弓木さんを纏う全てのものが翠には光り輝いて映っているはずだ。
持っているもの、身につけているもの、指先まで神経を配るこまやかさ、髪の艶やかさ、肌のきめ細かさ、所作や言葉遣いまで。
――美しく、謙虚にして驕らず。
常に研鑽を積む姿や慎ましやかな人間性、翠は弓木さんの全てを知らないにしても、心を揺さぶられ、強烈に憧れている。
「翠はダンスも習い始めるんだって。さっそく教室に体験の申し込みをしてほしいってお願いされたの」
「幼い頃から弓木さんがやってたんだよね。柚乃が上手だって言ってた」
「ダンスって小5からだと遅くないかしら?」
「好きなものを始めるのに早いも遅いもないよ。もしハマれば翠ならすぐに上達しそうじゃない?」
高い壁や出来ないことに出くわすと悔しくて、腐るのではなく懸命に壁を越えようと努力する。
もし蓮と同じタイプなら翠もそうなると思う。
「初めて会った時にも驚いたけど、明紗さんって本当に魅力的な子よね」
「俺も同感」
「学校でもモテるんでしょ?」
「当たり前にモテるけど、モテ方が自分が培ってきた常識だと測れないというか次元が違うんだよな」
柚乃の話だと教員の中にも弓木さんに恋愛感情で好意を寄せていると思われる先生が居るらしい。
先生も弁えているからか、あからさまなアピールや贔屓などはなく、気持ちを隠そうと頑張っているのが伝わってくると柚乃は言っていた。
『もしかしたら、実は先生に告白されたりしているかも。明紗って、そういうのは相手のことも考えてユズに言ってこないから』
弓木さんなら成人している大人を自分の虜にしてしまっても不思議じゃない。
実際に校外でサラリーマンや大学生に告白されている現場を三高の生徒に何件も目撃されて噂されている。
「あんな魅力的で引く手数多な子が、どうして蓮と付き合ってくれているのかしら?」
「蓮も尋常じゃなくモテるし、魅力的ですよ」
「また蓮はフラれるかもよ」
詳しい事情は知らないけど、蓮と弓木さんは夏休み明けから約3ヶ月ほど完全に離れていた時期があった。
それで、おばさんは”また”という言葉を遣っている。
あれだけ弓木さんの話を俺にしてくる柚乃でさえ、何らかの事情を知っているみたいだったけど、その話だけは俺にしない。
蓮も何も言ってこなかったから俺からは触れなかった。
「バレーばかりやっているし、無愛想だし、女心がわかってるのか……」
「――無愛想で悪かったな」
空いているリビングの扉からコートを羽織り、登校する準備が整った蓮が現れた。
蓮は片腕でまだパジャマ姿の鈴を抱っこしている。
「あら。鈴、もう起きちゃったの?」
「俺の部屋に来た。もう一度寝るか聞いたんだけど、ずっと俺にくっついてる」
鈴は蓮に腕を回してギュッとくっついたまま離れようとしない。
蓮は部活中心だから、いつも鈴が起きる前に家を出て、鈴が寝てから帰ってくるような生活が平日は続いている。
鈴は兄である蓮に甘えたいだろうけど、不在がちで寂しいのかもしれない。
「おにいたん」
「ん?」
「もうすぐ、あさちゃんおうちくる?」
蓮に抱っこされ、同じ目線の高さで鈴は蓮に問いかけた。
「うん。来るよ」
「あと、なんかい寝れば、あさちゃんおうちくる?」
「そうだな……」
まだ5歳の鈴と話す蓮は優しいお兄ちゃんそのものだった。
「鈴。みんなに何回もその質問してるのよ」
「あさちゃんに、はやくあいたいもん」
蓮の母親から投げられた言葉に、鈴は蓮の目を見つめて答えた。
「そっか」
鈴の頭を撫でながら蓮が答える。
「そうそう。翠が体験を申し込んだダンススクールに幼児クラスもあるから鈴も体験に行くの」
「鈴もダンス始めるんだ?」
「本人が望めばね。でもダンスの体験、楽しみにしてるみたい」
俺と蓮の母親が会話している間も、蓮と鈴は目線を交わしながら笑いあっていた。
こんな蓮の姿を見たら蓮の女性ファンが更に倍増するだろう。
「鈴は”明紗ちゃん”好きなの?」
俺が鈴に問いかけると、
「だいすきっ」
と、俺のほうを向いて愛らしい笑顔で答えてくれた。
「おにいたんも、あさちゃんだいすきでしょ?」
鈴は蓮に抱っこされたまま、蓮のほうに向き直って聞いていた。
「うん。大好きだよ」
蓮はまるで弓木さん本人に伝えているような極上に優しく温かな眼差しで鈴に答えていた。
俺と蓮は朝練に向かうため、蓮の自宅を後にする。
まだまだ辺りは薄暗いけれど、少しずつ各々の家から光が漏れ出し寒空に眠っていた街が目覚めていく。
蓮の自宅から駅までは男の足でも徒歩10分の道のりだ。
「鈴、かわいいよな」
「ん? ああ」
お互いの唇から白い吐息が溢れる。
昨日、蓮は部活に30分遅れて参加していた。
弓木さんも蓮とほぼ同じタイミングで第二アリーナに姿を現していたから、察するものはあった。
『やっぱり明紗も男子バレー部、忙しすぎ問題に直面してるみたい』
昨日の昼休みに柚乃も心配していたけれど、俺も心配だった。
男子バレー部は伝統ある強豪校として名高く、ただでさえ部活が厳しいうえに学業の成績も一定基準を満たしていなければいけない。
それで、うまくいかず彼女にフラれて別れた部員をたくさん見てきていた。
ここ数年遠ざかっていた春高の出場が決まり、今は開幕前で特に部内の士気も高まっている。
俺も柚乃と付き合ってから、どうにか時間をやり繰りしないと……というのは常に念頭にあった。
自分でも、ここまでまめな男になれるんだと感心するほど、電話やチャットなども駆使して会えない時間も何かしら柚乃と繋がることを意識した。
だから柚乃から告白の返事をもらう前に、
『いつでも男子バレー部の練習、見学に来ていいよ』
と、柚乃に伝えていたというのもある。
そこに弓木さんを一緒に連れてくるとは思ってなかったけど。
昨日は部活が終わって、先に柚乃と帰ったから、特に蓮と会話をしていない。
蓮が部活で忙しいのもあるけれど、弓木さんもほぼ連日夜間は塾。
第二アリーナに部活の見学には来てくれているものの、塾の課題も多いらしいから、放課後にギリギリまでバレー部の見学に時間を割いている分、別の時間にフォローしているのだろう。
蓮も弓木さんもお互い想い合っているのは伝わってくるけれど、二人ともストイックな面があり自分に厳しく頑張り屋。
しかも双方、相手を想うがゆえに気遣いすぎてしまう面もあるのではないか。
些細なすれ違いがきっかけで破局……なんてことも完全に憂慮だとは言い切れないところがある。
「志恩、」
「何?」
「――ありがとな」
不意に蓮からお礼を告げられ、俺は目を丸くした。
「急にどうした?」
「志恩と綾瀬さんが居なかったら、俺と明紗の距離が縮まることはなかった。俺はみんなと同じように明紗に告白して、そこでフラれて終わってたと思う」
「確かに俺が、
『弓木さん。蓮の彼女ってことにしておいたらいいんじゃない?』
って提案した時、弓木さんは蓮に対して全く恋愛感情がないのは伝わってきてたけど」
「はっきり言うなよ」
「蓮もわかってただろ」
「ああ。脈なしだと思ってた」
蓮は苦笑する。
「そのきっかけを大切にして、弓木さんと関係性を育んできたのは蓮自身だろ」
「……」
「俺は多分、弓木さんのことで知らないことがたくさんあると思う。蓮と弓木さんが正式に付き合い始めるまで完全に離れていた事情を聞くつもりはないし」
「……」
「でも、今の弓木さんからは蓮のことが好きで仕方ないっていうのは俺にも伝わってるよ」
「……」
「休日に、場所が遠かったバレーの大会の会場まで応援に駆けつけてくれて。人目も憚らず、自分に好きだって伝えてくれる子なんか他にいないって」
「……」
「蓮自身が可能性ゼロだったのをひっくり返したんだろ」
「――泣くからやめろよ」
“泣く”とは蓮に似つかわしくない単語が出てきた。
――いろいろって言葉じゃ括れないほど、弓木さんと正式に恋人同士になるまでに、いろいろあったんだと思う。
俺は蓮の顔をあえて見ないで微笑んだ。
おばさんは心配してたけど、弓木さんも蓮のことが大好きだと伝えてあげたかった。
「そういえば昨日、練習の休憩の時、蓮は部長とやけに真剣に話し込んでなかった?」
「あ、ああ……」
「何、春高の話?」
「いや……」
蓮の言葉の歯切れが悪くなる。
隣に目線の先を移動させると、蓮は寒さのせいだけじゃなく、頬の辺りが赤くなっている気がした。
「――アドバイスをもらいに行った」
「バレーの? 蓮が?」
春高まで残ってるスタメンの三年の先輩たちも多いけど、どちらかといえば先輩たちも蓮に相談や助言をもらいに行くことが多い。
それだけ蓮の実力は三高で抜きん出ている。
「バレーじゃなくて」
「?」
「両立の仕方」
「両立って……あ!」
最初は勉強と部活の話かと思ったけど、そんなのは今さらだった。
「そういえば部長って、俺たちと同じクラスの日比野さんと長く付き合ってるよな」
「……」
「部長から見たら日比野さんは一つ年下だしね。俺たちが一年の時にはすでに付き合ってたし……」
部長も2年の時からスタメンを譲らないくらいの実力者であり、春高まで部活を続けながらも目指してる大学は私学の名門だと聞いている。
蓮なりに勉強、部活――全てに打ち込みながらも、どうしたら弓木さんを寂しがらせずに大切にできるのか模索してるってところか。
「俺も気になる。部長はなんて言ってた?」
「――っと……」
蓮は昨日の部長とのやり取りをかいつまんで教えてくれた。
『とにかく表現することかな。プロでホームラン打ったり、ゴールを決めたりした時に指輪にキスしてパフォーマンスしてる選手いるじゃん?
そういうの見てて、昔は小っ恥ずかしいなんて思ってたんだけど、今はそういうのも一つの愛情表現かって思い直した。周りへの幸せアピールじゃなくて、支えてもらってるパートナーへの常日頃の感謝を現してるのかなって見方が自然と変わったんだよね。
俺、付き合った当初は好きだとかそういうの言葉にして彼女に言えなかったの。こんなに好きだって想ってるんだからいいだろって。何度も好きだって伝えたら逆に気持ちを軽く見られるような気がしてた。でも、彼女に泣かれた時に好きだって伝わってるだろうっていう思い込みが一番ヤバいんだって気がついて。
彼女と一緒の時間が少ない分、会っている時はなるべく好きだとか、わかりやすい言葉で伝えるようにしてる。って、久瀬に話すの照れくさいな。
あと、それを彼女に対して“やってあげてる”って義務だとは思わないこと。あくまで彼女の力ありきで自分たちの関係が続いてるんだと、常に彼女を尊重してあげることかな』
俺は蓮の話を黙って聞いていた。
「さすが部長だね。すごくわかる」
愛情表現か……。
俺も柚乃にはなるべく『好きだ』とか『かわいい』とか、言葉で伝えるようにしていた。
今でも大げさなほど照れてしまう柚乃の様子がまたかわいい。
柚乃に“やってあげている“と思わず、柚乃の力ありきで俺たちの関係は続いている……俺も忘れないようしよう。
「蓮のことだから、事あるごとに弓木さんに好きだって伝えてるんだろ」
何となしに蓮を見やれば、蓮の端正な顔立ちが渋面を描いていた。
これは、
――限りなく似たようなことを明紗に伝えているけど、肝心の好きだって言葉は最近言えていなかった。
むしろ明紗のほうが俺に伝えてくれているような気がする。
……って、表情か。
蓮が弓木さんを大切にして一途に想い続けていることは疑いようもないけど、何せ初めての彼女。
きちんと弓木さんに伝わってるとは思うけど。
「弓木さんに好きだって言ってないのか……」
「何で志恩が知ってるんだよ」
「いや、蓮の顔に書いてあるし」
「書いてねぇよ」
バレー部の朝練が終わり、蓮と制服に着替えて第二アリーナから本館にある2年A組への教室へと廊下を歩いて向かっていた。
「――明紗……」
蓮が隣で呟く。
前方、廊下を行き交う生徒の中、一人で歩く女子生徒。
姿勢が良くスタイルも抜群だから、華奢な後ろ姿ですら美しい人だとわかる。
珍しいことに弓木さんの艶がある真っ直ぐな黒髪は編み込みされて、ツインで三つ編みにヘアアレンジされていた。
「――悪い、志恩。先に行く」
「おー。わかった」
蓮が弓木さんに追いつこうと速足で歩きだそうとした時だった。
「弓木さん。財布落としたよ」
弓木さんの後ろを歩いていた3年生だと思われる男子生徒4人組が弓木さんへと声をかけた。
弓木さんは立ち止まり、ゆるりと振り返る。
「やべえ」
「ガチでかわいい」
「静かにしてろって」
4人の男子生徒はニヤニヤしながら、床へと視線を滑らせる弓木さんを眺めていた。
――ずっと見てたけど、どう考えても弓木さんは財布なんか落としていない。
3年の先輩たちは、弓木さんと少しでも関わり合いたくて、軽い出来心のつもりなんだろう。
初めて男子バレー部の見学に弓木さんが来た時も自分のほうへと何人もバレーボールをわざと転がしてきて何度も拾わされていた。
あの時は三高の姫君である弓木さんに舞い上がる男子バレー部員の悪ふざけ程度だと俺も思っていたけれど。
好意を寄せてくる者からの好意に見せかけた悪意に傷ついていないわけがなかった。
弓木さんは驚異的なほどモテるし、存在感がある。
一瞬で見とれるほど、現実離れして美しいけれど、別に異次元で暮らしているわけではない。
弓木さんは蓮と二人の時間が少なくて寂しいと感じる普通の女の子だ。
「ごめんね。弓木さん、俺の勘違いだったわ」
「……いえ、」
わざとがましい3年の男たちからの謝罪に弓木さんは視線を俯かせたまま、小さな会釈と返事をした。
文句の言いづらい卑怯なやり口だと思った。
本当に勘違いだったと言われてしまえばそれまでだ。
俺にも怒りの感情がわいていた時、弓木さんに駆け寄った蓮は彼女の腕を引いて、自分の胸元へと引き寄せると3年の先輩たちを睨みつけた。
「――俺の彼女にくだらないことしてんじゃねぇよ」
蓮の鋭利な威圧感にさっきまでニヤニヤと笑っていた3年の先輩4人の顔つきは一様に凍りついた。
「蓮先輩……?」
蓮の腕の中で弓木さんは、少し驚いた表情を見せている。
「俺たちは本当に弓木さんが財布を落としたと思……」
蓮の美貌から放たれる睥睨と怒りのオーラに3年の男たちは完全に畏縮してしまっている。
安い言い訳など蓮に通用しないと悟ったのだろう。
「もう教室早く行こうぜ」
「お、おう……」
そそくさと退散していく男たちの後ろ姿が情けなくて、何だか同情の念すら浮かんでしまった。
何ら迷うことなく臆せずに自分の彼女を守った蓮。
蓮と弓木さんは廊下の端に寄っている。
15センチほど背丈の差のある2人はバランスが良く並んでいるだけでお似合いだ。
「――明紗、大丈夫か?」
「はい。蓮先輩ありがとうございます」
「よくああいうの、されるのか?」
「……たまに、ですけど」
そう答えた弓木さんだったけど、頻繁にあるんだろう。
校内だけじゃなく、校外でも。
「嫌な気持ちになるよな」
「でも、蓮先輩が“俺の彼女”ってはっきり言ってくれて嬉しかったです」
憂いを滲ませる蓮に、弓木さんは名花が咲いたような笑顔で答えた。
蓮は弓木さんを見下ろしたまま、僅かに赤面しているように見える。
「――明紗は俺の彼女だろ?」
「そうなんですけど、蓮先輩に言ってもらえると特別な気がします」
蓮に笑顔で伝える弓木さんを改めてかわいいと思った。
弓木さんの存在を俺が一方的に知った時からこの上ない美しさは知っているけど、みんなに見せているよそ行きの大人びた雰囲気じゃなくて、蓮の前では自然と肩の力が抜けている感じ。
蓮のことが大好きで心から信用しているんだと伝わってくる。
「明紗、今日は髪……」
蓮は普段と違う弓木さんの髪型に触れたいのだろう。
部長からもらったアドバイス通り、弓木さんにかわいいと伝えたいのかもしれない。
「蓮先輩に気づいてもらえて嬉しいです」
弓木さんは編み込みされた三つ編みの片側を指先で挟んで持ち上げ、蓮に笑いかける。
――ああ、これは……。
「ん。かわいいよ」
そう弓木さんに答えた蓮が照れているのが伝わってきた。
蓮は弓木さんの一挙手一投足に翻弄されているのか。
それが無自覚なのか意図的なのか両方なのか、弓木さんの言動が蓮の心をくすぐり、惑わし、際限がないほど蓮は弓木さんに惹かれている。
他の人たちには、どことなく謎めいて見える弓木さんは信頼している恋人の蓮にしか見せていない表情がたくさんあるんだろう。
蓮と弓木さんならすれ違って別れてしまうなんて心配は無用そうだった。
杞憂だったか。
蓮と弓木さんから自然と伝わる相思相愛な様子を見ていたら、俺も無性に早く柚乃に会いたくなってきた。
「――明紗」
「蓮先輩、何ですか?」
蓮は弓木さんの耳元にそっと唇を寄せた。
蓮が声をひそめて弓木さんに伝えた台詞は彼女の耳にだけ届いている。
【end】
20251022
AM05:58
まだまだこの時間だと12月は日の出までには時間が早く、夜と呼べるほど寝静まった住宅街は暗がりが支配していた。
しんとした静けさの中、あくびを噛み殺して歩みを進める。
凍りつくような冷気で、少し歩いただけで耳が痛む。
新築時に戸建住宅が大規模分譲され、類似した家々が立ち並ぶ統一感ある街並みの一角。
庭に停められた黒のミニバン。
リビングのカーテンの隙間から溢れた明かりが通りにまで漏れている。
この綺麗な外観の戸建ては蓮の自宅だった。
平日の部活の朝練、俺は蓮の自宅に立ち寄ってから登校するのが日課になっている。
クリスマスリースが飾られた玄関扉の前でスマホを取り出す。
まだ就寝中の蓮の父親や妹たちをインターフォンの音で起こすわけにはいかず、メッセージを送信した。
[着いたよ]
送った相手は蓮ではなく、蓮の母親。
返信の前にガチャガチャと鍵を開ける音が聞こえて中から扉が開けられた。
「おはよう。おばさん」
「おはよう、志恩。今日も寒いわね」
蓮の母親はルームウェアにすっぴん眼鏡で髪を無造作に束ねている。
これだけ無防備な姿で俺をお出迎えしてくれるくらいには家族同然の対応。
俺はいつもの日課と同じように蓮の家に上がり、温かいリビングのソファーに腰を落として、つけられていた大画面のテレビを眺める。
朝の情報番組で天気予報のお姉さんが週間天気予報を伝えていた。
『クリスマスイブ当日はからっとした晴れの日になりそうです』
対面キッチンでは蓮の母親が朝食を作っているのか、電子レンジに何かをセットしている。
蓮のお弁当箱は包まれて、カウンターに既に置かれていた。
お弁当を包む巾着には夏前からおにぎりポリスという児童書のキャラクターのマスコットがつけられていて、もう長くそのままだった。
『それ外さないの? どうせ鈴に遊びでつけられたんじゃない』
俺は蓮に聞いたことがある。
『――外さない』
蓮にはっきりと即答されて、驚いたのを覚えている。
何でなのか疑問に思いつつも、特に気に留めていなかった。
その答えがわかったのは、つい最近。
蓮と弓木さんが正式に付き合ったのと同時期、二人の通学リュックにはお揃いのキーホルダーがつけられるようになった。
それが、ご当地のおにぎりポリスのマスコットで、弓木さん絡みだったのかと合点がいった。
「クリスマスイブ晴れるのねー」
蓮の母親がキッチン内で忙しなく作業しながら、俺に話しかけてきた。
「今年は久瀬家のクリスマスパーティーに弓木さんが来るんだって?」
「そうなの。志恩も来る?」
「俺はイブの夜は彼女と2人で過ごす予定」
「ああ。柚乃さんね。柚乃さん、かわいいわよね。順調?」
「おかげさまで」
「良かったわね」
と言っても、別にイブの夜は泊まりとか、そういうわけではないけれど。
18歳になれば、高校を卒業すれば……、もう少し自由が手に入るのだろうか。
「翠が明紗さんもパーティに呼びたいって言い出して快諾してくれたみたいなんだけど、いきなり彼氏の家族の中に飛び込ませるようで、明紗さんの負担になってないか心配なの」
「弓木さんは負担だとは思わない子だと思うよ」
「負担だとは思わなくても、どうしても気を遣わせるでしょ? 『手ぶらで来てね』とは蓮や翠に伝言を頼んでるんだけど」
確かに蓮の家に招待されていれば、弓木さんのことだから気を遣いすぎてしまいそうだ。
「翠。この間の日曜、弓木さんの家に遊びに行ったって聞いた」
「そうなのよ。翠はすっかり明紗さんに心酔しちゃって、明紗さんみたいになるってはりきってる。さすがに明紗さんが使っているシャンプーとかは高価なものが多くて同じものは買ってあげられないけど。近頃の翠は積極的に家事を手伝うようになったし、前向きに勉強も取り組むようになって助かってるわ」
現在、小学校5年生の翠は久瀬家の長女として生まれただけあって容姿も良く、全ての基本スペックが高かった。
小2からバレーボールにのめり込んで練習に精を出していた蓮と違い、翠は特別な努力をしなくても勉強も運動も出来てしまう分、力を持て余して、学年が上がるに連れてどことなく冷めている印象を受けていた。
何に対しても本気を出さないというか、出せるフィールドがないというか。
恐らく小学校で翠は敵なしだと思う。
周りも不必要に翠を持ち上げたりするのかもしれない。
そんな時に出会ったのが兄の彼女――この時は表向きだけの関係性だったけど、弓木さんで。
今まで弓木さんのような存在は翠の周りに居なかっただろう。
一瞬で相手を魅了する弓木さんの美貌はもちろんのこと、弓木さんを纏う全てのものが翠には光り輝いて映っているはずだ。
持っているもの、身につけているもの、指先まで神経を配るこまやかさ、髪の艶やかさ、肌のきめ細かさ、所作や言葉遣いまで。
――美しく、謙虚にして驕らず。
常に研鑽を積む姿や慎ましやかな人間性、翠は弓木さんの全てを知らないにしても、心を揺さぶられ、強烈に憧れている。
「翠はダンスも習い始めるんだって。さっそく教室に体験の申し込みをしてほしいってお願いされたの」
「幼い頃から弓木さんがやってたんだよね。柚乃が上手だって言ってた」
「ダンスって小5からだと遅くないかしら?」
「好きなものを始めるのに早いも遅いもないよ。もしハマれば翠ならすぐに上達しそうじゃない?」
高い壁や出来ないことに出くわすと悔しくて、腐るのではなく懸命に壁を越えようと努力する。
もし蓮と同じタイプなら翠もそうなると思う。
「初めて会った時にも驚いたけど、明紗さんって本当に魅力的な子よね」
「俺も同感」
「学校でもモテるんでしょ?」
「当たり前にモテるけど、モテ方が自分が培ってきた常識だと測れないというか次元が違うんだよな」
柚乃の話だと教員の中にも弓木さんに恋愛感情で好意を寄せていると思われる先生が居るらしい。
先生も弁えているからか、あからさまなアピールや贔屓などはなく、気持ちを隠そうと頑張っているのが伝わってくると柚乃は言っていた。
『もしかしたら、実は先生に告白されたりしているかも。明紗って、そういうのは相手のことも考えてユズに言ってこないから』
弓木さんなら成人している大人を自分の虜にしてしまっても不思議じゃない。
実際に校外でサラリーマンや大学生に告白されている現場を三高の生徒に何件も目撃されて噂されている。
「あんな魅力的で引く手数多な子が、どうして蓮と付き合ってくれているのかしら?」
「蓮も尋常じゃなくモテるし、魅力的ですよ」
「また蓮はフラれるかもよ」
詳しい事情は知らないけど、蓮と弓木さんは夏休み明けから約3ヶ月ほど完全に離れていた時期があった。
それで、おばさんは”また”という言葉を遣っている。
あれだけ弓木さんの話を俺にしてくる柚乃でさえ、何らかの事情を知っているみたいだったけど、その話だけは俺にしない。
蓮も何も言ってこなかったから俺からは触れなかった。
「バレーばかりやっているし、無愛想だし、女心がわかってるのか……」
「――無愛想で悪かったな」
空いているリビングの扉からコートを羽織り、登校する準備が整った蓮が現れた。
蓮は片腕でまだパジャマ姿の鈴を抱っこしている。
「あら。鈴、もう起きちゃったの?」
「俺の部屋に来た。もう一度寝るか聞いたんだけど、ずっと俺にくっついてる」
鈴は蓮に腕を回してギュッとくっついたまま離れようとしない。
蓮は部活中心だから、いつも鈴が起きる前に家を出て、鈴が寝てから帰ってくるような生活が平日は続いている。
鈴は兄である蓮に甘えたいだろうけど、不在がちで寂しいのかもしれない。
「おにいたん」
「ん?」
「もうすぐ、あさちゃんおうちくる?」
蓮に抱っこされ、同じ目線の高さで鈴は蓮に問いかけた。
「うん。来るよ」
「あと、なんかい寝れば、あさちゃんおうちくる?」
「そうだな……」
まだ5歳の鈴と話す蓮は優しいお兄ちゃんそのものだった。
「鈴。みんなに何回もその質問してるのよ」
「あさちゃんに、はやくあいたいもん」
蓮の母親から投げられた言葉に、鈴は蓮の目を見つめて答えた。
「そっか」
鈴の頭を撫でながら蓮が答える。
「そうそう。翠が体験を申し込んだダンススクールに幼児クラスもあるから鈴も体験に行くの」
「鈴もダンス始めるんだ?」
「本人が望めばね。でもダンスの体験、楽しみにしてるみたい」
俺と蓮の母親が会話している間も、蓮と鈴は目線を交わしながら笑いあっていた。
こんな蓮の姿を見たら蓮の女性ファンが更に倍増するだろう。
「鈴は”明紗ちゃん”好きなの?」
俺が鈴に問いかけると、
「だいすきっ」
と、俺のほうを向いて愛らしい笑顔で答えてくれた。
「おにいたんも、あさちゃんだいすきでしょ?」
鈴は蓮に抱っこされたまま、蓮のほうに向き直って聞いていた。
「うん。大好きだよ」
蓮はまるで弓木さん本人に伝えているような極上に優しく温かな眼差しで鈴に答えていた。
俺と蓮は朝練に向かうため、蓮の自宅を後にする。
まだまだ辺りは薄暗いけれど、少しずつ各々の家から光が漏れ出し寒空に眠っていた街が目覚めていく。
蓮の自宅から駅までは男の足でも徒歩10分の道のりだ。
「鈴、かわいいよな」
「ん? ああ」
お互いの唇から白い吐息が溢れる。
昨日、蓮は部活に30分遅れて参加していた。
弓木さんも蓮とほぼ同じタイミングで第二アリーナに姿を現していたから、察するものはあった。
『やっぱり明紗も男子バレー部、忙しすぎ問題に直面してるみたい』
昨日の昼休みに柚乃も心配していたけれど、俺も心配だった。
男子バレー部は伝統ある強豪校として名高く、ただでさえ部活が厳しいうえに学業の成績も一定基準を満たしていなければいけない。
それで、うまくいかず彼女にフラれて別れた部員をたくさん見てきていた。
ここ数年遠ざかっていた春高の出場が決まり、今は開幕前で特に部内の士気も高まっている。
俺も柚乃と付き合ってから、どうにか時間をやり繰りしないと……というのは常に念頭にあった。
自分でも、ここまでまめな男になれるんだと感心するほど、電話やチャットなども駆使して会えない時間も何かしら柚乃と繋がることを意識した。
だから柚乃から告白の返事をもらう前に、
『いつでも男子バレー部の練習、見学に来ていいよ』
と、柚乃に伝えていたというのもある。
そこに弓木さんを一緒に連れてくるとは思ってなかったけど。
昨日は部活が終わって、先に柚乃と帰ったから、特に蓮と会話をしていない。
蓮が部活で忙しいのもあるけれど、弓木さんもほぼ連日夜間は塾。
第二アリーナに部活の見学には来てくれているものの、塾の課題も多いらしいから、放課後にギリギリまでバレー部の見学に時間を割いている分、別の時間にフォローしているのだろう。
蓮も弓木さんもお互い想い合っているのは伝わってくるけれど、二人ともストイックな面があり自分に厳しく頑張り屋。
しかも双方、相手を想うがゆえに気遣いすぎてしまう面もあるのではないか。
些細なすれ違いがきっかけで破局……なんてことも完全に憂慮だとは言い切れないところがある。
「志恩、」
「何?」
「――ありがとな」
不意に蓮からお礼を告げられ、俺は目を丸くした。
「急にどうした?」
「志恩と綾瀬さんが居なかったら、俺と明紗の距離が縮まることはなかった。俺はみんなと同じように明紗に告白して、そこでフラれて終わってたと思う」
「確かに俺が、
『弓木さん。蓮の彼女ってことにしておいたらいいんじゃない?』
って提案した時、弓木さんは蓮に対して全く恋愛感情がないのは伝わってきてたけど」
「はっきり言うなよ」
「蓮もわかってただろ」
「ああ。脈なしだと思ってた」
蓮は苦笑する。
「そのきっかけを大切にして、弓木さんと関係性を育んできたのは蓮自身だろ」
「……」
「俺は多分、弓木さんのことで知らないことがたくさんあると思う。蓮と弓木さんが正式に付き合い始めるまで完全に離れていた事情を聞くつもりはないし」
「……」
「でも、今の弓木さんからは蓮のことが好きで仕方ないっていうのは俺にも伝わってるよ」
「……」
「休日に、場所が遠かったバレーの大会の会場まで応援に駆けつけてくれて。人目も憚らず、自分に好きだって伝えてくれる子なんか他にいないって」
「……」
「蓮自身が可能性ゼロだったのをひっくり返したんだろ」
「――泣くからやめろよ」
“泣く”とは蓮に似つかわしくない単語が出てきた。
――いろいろって言葉じゃ括れないほど、弓木さんと正式に恋人同士になるまでに、いろいろあったんだと思う。
俺は蓮の顔をあえて見ないで微笑んだ。
おばさんは心配してたけど、弓木さんも蓮のことが大好きだと伝えてあげたかった。
「そういえば昨日、練習の休憩の時、蓮は部長とやけに真剣に話し込んでなかった?」
「あ、ああ……」
「何、春高の話?」
「いや……」
蓮の言葉の歯切れが悪くなる。
隣に目線の先を移動させると、蓮は寒さのせいだけじゃなく、頬の辺りが赤くなっている気がした。
「――アドバイスをもらいに行った」
「バレーの? 蓮が?」
春高まで残ってるスタメンの三年の先輩たちも多いけど、どちらかといえば先輩たちも蓮に相談や助言をもらいに行くことが多い。
それだけ蓮の実力は三高で抜きん出ている。
「バレーじゃなくて」
「?」
「両立の仕方」
「両立って……あ!」
最初は勉強と部活の話かと思ったけど、そんなのは今さらだった。
「そういえば部長って、俺たちと同じクラスの日比野さんと長く付き合ってるよな」
「……」
「部長から見たら日比野さんは一つ年下だしね。俺たちが一年の時にはすでに付き合ってたし……」
部長も2年の時からスタメンを譲らないくらいの実力者であり、春高まで部活を続けながらも目指してる大学は私学の名門だと聞いている。
蓮なりに勉強、部活――全てに打ち込みながらも、どうしたら弓木さんを寂しがらせずに大切にできるのか模索してるってところか。
「俺も気になる。部長はなんて言ってた?」
「――っと……」
蓮は昨日の部長とのやり取りをかいつまんで教えてくれた。
『とにかく表現することかな。プロでホームラン打ったり、ゴールを決めたりした時に指輪にキスしてパフォーマンスしてる選手いるじゃん?
そういうの見てて、昔は小っ恥ずかしいなんて思ってたんだけど、今はそういうのも一つの愛情表現かって思い直した。周りへの幸せアピールじゃなくて、支えてもらってるパートナーへの常日頃の感謝を現してるのかなって見方が自然と変わったんだよね。
俺、付き合った当初は好きだとかそういうの言葉にして彼女に言えなかったの。こんなに好きだって想ってるんだからいいだろって。何度も好きだって伝えたら逆に気持ちを軽く見られるような気がしてた。でも、彼女に泣かれた時に好きだって伝わってるだろうっていう思い込みが一番ヤバいんだって気がついて。
彼女と一緒の時間が少ない分、会っている時はなるべく好きだとか、わかりやすい言葉で伝えるようにしてる。って、久瀬に話すの照れくさいな。
あと、それを彼女に対して“やってあげてる”って義務だとは思わないこと。あくまで彼女の力ありきで自分たちの関係が続いてるんだと、常に彼女を尊重してあげることかな』
俺は蓮の話を黙って聞いていた。
「さすが部長だね。すごくわかる」
愛情表現か……。
俺も柚乃にはなるべく『好きだ』とか『かわいい』とか、言葉で伝えるようにしていた。
今でも大げさなほど照れてしまう柚乃の様子がまたかわいい。
柚乃に“やってあげている“と思わず、柚乃の力ありきで俺たちの関係は続いている……俺も忘れないようしよう。
「蓮のことだから、事あるごとに弓木さんに好きだって伝えてるんだろ」
何となしに蓮を見やれば、蓮の端正な顔立ちが渋面を描いていた。
これは、
――限りなく似たようなことを明紗に伝えているけど、肝心の好きだって言葉は最近言えていなかった。
むしろ明紗のほうが俺に伝えてくれているような気がする。
……って、表情か。
蓮が弓木さんを大切にして一途に想い続けていることは疑いようもないけど、何せ初めての彼女。
きちんと弓木さんに伝わってるとは思うけど。
「弓木さんに好きだって言ってないのか……」
「何で志恩が知ってるんだよ」
「いや、蓮の顔に書いてあるし」
「書いてねぇよ」
バレー部の朝練が終わり、蓮と制服に着替えて第二アリーナから本館にある2年A組への教室へと廊下を歩いて向かっていた。
「――明紗……」
蓮が隣で呟く。
前方、廊下を行き交う生徒の中、一人で歩く女子生徒。
姿勢が良くスタイルも抜群だから、華奢な後ろ姿ですら美しい人だとわかる。
珍しいことに弓木さんの艶がある真っ直ぐな黒髪は編み込みされて、ツインで三つ編みにヘアアレンジされていた。
「――悪い、志恩。先に行く」
「おー。わかった」
蓮が弓木さんに追いつこうと速足で歩きだそうとした時だった。
「弓木さん。財布落としたよ」
弓木さんの後ろを歩いていた3年生だと思われる男子生徒4人組が弓木さんへと声をかけた。
弓木さんは立ち止まり、ゆるりと振り返る。
「やべえ」
「ガチでかわいい」
「静かにしてろって」
4人の男子生徒はニヤニヤしながら、床へと視線を滑らせる弓木さんを眺めていた。
――ずっと見てたけど、どう考えても弓木さんは財布なんか落としていない。
3年の先輩たちは、弓木さんと少しでも関わり合いたくて、軽い出来心のつもりなんだろう。
初めて男子バレー部の見学に弓木さんが来た時も自分のほうへと何人もバレーボールをわざと転がしてきて何度も拾わされていた。
あの時は三高の姫君である弓木さんに舞い上がる男子バレー部員の悪ふざけ程度だと俺も思っていたけれど。
好意を寄せてくる者からの好意に見せかけた悪意に傷ついていないわけがなかった。
弓木さんは驚異的なほどモテるし、存在感がある。
一瞬で見とれるほど、現実離れして美しいけれど、別に異次元で暮らしているわけではない。
弓木さんは蓮と二人の時間が少なくて寂しいと感じる普通の女の子だ。
「ごめんね。弓木さん、俺の勘違いだったわ」
「……いえ、」
わざとがましい3年の男たちからの謝罪に弓木さんは視線を俯かせたまま、小さな会釈と返事をした。
文句の言いづらい卑怯なやり口だと思った。
本当に勘違いだったと言われてしまえばそれまでだ。
俺にも怒りの感情がわいていた時、弓木さんに駆け寄った蓮は彼女の腕を引いて、自分の胸元へと引き寄せると3年の先輩たちを睨みつけた。
「――俺の彼女にくだらないことしてんじゃねぇよ」
蓮の鋭利な威圧感にさっきまでニヤニヤと笑っていた3年の先輩4人の顔つきは一様に凍りついた。
「蓮先輩……?」
蓮の腕の中で弓木さんは、少し驚いた表情を見せている。
「俺たちは本当に弓木さんが財布を落としたと思……」
蓮の美貌から放たれる睥睨と怒りのオーラに3年の男たちは完全に畏縮してしまっている。
安い言い訳など蓮に通用しないと悟ったのだろう。
「もう教室早く行こうぜ」
「お、おう……」
そそくさと退散していく男たちの後ろ姿が情けなくて、何だか同情の念すら浮かんでしまった。
何ら迷うことなく臆せずに自分の彼女を守った蓮。
蓮と弓木さんは廊下の端に寄っている。
15センチほど背丈の差のある2人はバランスが良く並んでいるだけでお似合いだ。
「――明紗、大丈夫か?」
「はい。蓮先輩ありがとうございます」
「よくああいうの、されるのか?」
「……たまに、ですけど」
そう答えた弓木さんだったけど、頻繁にあるんだろう。
校内だけじゃなく、校外でも。
「嫌な気持ちになるよな」
「でも、蓮先輩が“俺の彼女”ってはっきり言ってくれて嬉しかったです」
憂いを滲ませる蓮に、弓木さんは名花が咲いたような笑顔で答えた。
蓮は弓木さんを見下ろしたまま、僅かに赤面しているように見える。
「――明紗は俺の彼女だろ?」
「そうなんですけど、蓮先輩に言ってもらえると特別な気がします」
蓮に笑顔で伝える弓木さんを改めてかわいいと思った。
弓木さんの存在を俺が一方的に知った時からこの上ない美しさは知っているけど、みんなに見せているよそ行きの大人びた雰囲気じゃなくて、蓮の前では自然と肩の力が抜けている感じ。
蓮のことが大好きで心から信用しているんだと伝わってくる。
「明紗、今日は髪……」
蓮は普段と違う弓木さんの髪型に触れたいのだろう。
部長からもらったアドバイス通り、弓木さんにかわいいと伝えたいのかもしれない。
「蓮先輩に気づいてもらえて嬉しいです」
弓木さんは編み込みされた三つ編みの片側を指先で挟んで持ち上げ、蓮に笑いかける。
――ああ、これは……。
「ん。かわいいよ」
そう弓木さんに答えた蓮が照れているのが伝わってきた。
蓮は弓木さんの一挙手一投足に翻弄されているのか。
それが無自覚なのか意図的なのか両方なのか、弓木さんの言動が蓮の心をくすぐり、惑わし、際限がないほど蓮は弓木さんに惹かれている。
他の人たちには、どことなく謎めいて見える弓木さんは信頼している恋人の蓮にしか見せていない表情がたくさんあるんだろう。
蓮と弓木さんならすれ違って別れてしまうなんて心配は無用そうだった。
杞憂だったか。
蓮と弓木さんから自然と伝わる相思相愛な様子を見ていたら、俺も無性に早く柚乃に会いたくなってきた。
「――明紗」
「蓮先輩、何ですか?」
蓮は弓木さんの耳元にそっと唇を寄せた。
蓮が声をひそめて弓木さんに伝えた台詞は彼女の耳にだけ届いている。
【end】
20251022


