番外短編 集約本

 ※通学電車で明紗を見かける他校の男子高生の視点 明紗は高1の春~夏頃にかけての時期※

 高校2年に進級したのとほぼ同時期。
 朝の通学電車で僕の視界が最初に彼女を映し出した時、呼吸を忘れるという経験を初めてした。
 ――今日は乗ってくるのだろうか?
 僕の通う高校までは乗換一回の乗車時間50分弱。
 特に自宅最寄駅から乗り換えまでの電車はすし詰めと表現できるほど大混雑で1年通えば慣れはしたものの、不快指数が下がるわけではない。
 高校生活は人間関係もうまくいっているし、男子高だから女子が居なくて男くさいってこと以外に特段の不満はないものの、あと2年間もこの電車で通学しなくてはいけないのかと嘆息したくなる。
 ――自宅から通いやすい高校を選ぶべきだった。
 乗り継いだ先の電車内で彼女を初めて見つけた時から、そんな澱んだ後悔が一気に霧散した。
 ぎゅうぎゅうの電車を降りて、乗り換えた電車は乗車時にはそこまで混雑していない。
 運が良いと、僕の乗り換え駅で降りる人が多くて、最初から座れたりもする。
 ロングシートの中央付近に座れた僕は2駅後の彼女の乗車駅が近づくに連れて鼓動が勝手に加速していく。
 彼女と同じ車両に乗ったことがあるのは今まで4回。
 7月に入ってからは遭遇していない。
 今日は5回目となるか……。
 電車の扉が開く。
 ――僕は息を呑んだ。
 彼女だ。
 彼女が乗ってきた。
 大げさではなく、彼女が車内に入ってきただけで、電車内の空気が甘やかに変化した気さえする。
 彼女が歩くのにあわせて、軽やかに揺れる胸まで伸びたストレートヘアー。
 彼女の抜けるような輝きをした白い肌と艶やかな黒髪のコントラストが神がかり的に秀逸で。
 制服の夏服からすらりと伸びる細長い手足には程よい肉感もある。
 “美人”“美女”“可憐”“かわいい”“綺麗”“美しい”“清楚”どんな言葉を遣って表現したらいいのかわからなくなるほど、神秘的とすら言える上品な美貌。
 生まれた時代が時代なら、まさしく“傾国の美女”にでもなっていただろう。
 朝比奈第三高校の制服に身を包んでいるから、きっと優等生のはずだ。
 僕だけじゃなく車内の誰もが彼女の美しさと存在感に目が離せなくなっている。

 『電車の中ほどまでお進みください』

 いつも電車のアナウンスに従うように彼女は電車の中まで入ってきて、つり革を片手で持ちスッと背筋を伸ばして姿勢よく立ち続けている。
 立ち姿からも彼女の凛とした気品を感じさせた。
 今日、彼女が立った場所は何と僕が座っている目の前。
 ――うわ、ガチか……。
 目線を上昇させることが出来ずにいると、紺のハイソックスに包まれた彼女の足が見えた。
 スカートとハイソックスの間から覗く膝。
 素肌には傷痕(きずあと)はおろか、擦り傷ひとつ見当たらず、滑らかそうで真っ白。
 真っすぐ伸びた美脚は、電車の揺れにもふらつかない。
 僕が電車で遭遇する時、彼女はいつも翡翠色のブックカバーに包まれた文庫本サイズの本を読んでいる。
 以前、座っている僕に背を向けるように立っていた時。
 のぞき見えてしまった本に書かれていたのは英文だった。
 背中を丸めてスマホでパズルゲームに興じている人たちとは違う、聡明そうな一面も彼女に惹かれる要因のひとつ。
 彼女が目の前に居るだけで緊張して変な汗をかいてきた。
 さっきまで寝ていたはずの僕の隣に座る中年のサラリーマンは魂でも奪われたようにずっと彼女に不躾な視線を送り続けている。
 僕もちょっと見上げるくらいだったら許されるかな。
 恐る恐る目線を上げていく。
 ――下からのアングルも完璧だ。
 全方位どこから見たとしても整っている彼女の顔立ちに感嘆すら覚えてしまう。
 何だか甘い匂いさえ鼻こうをくすぐってくるような気もする。
 自分が人目を浴びていることなど何も気にしていないように彼女は静かに文庫本に目線を走らせていた。

 「……ねえ、」

 彼女の隣に立っていた大学生らしき男が彼女に声をかけた。
 見た目は悪くない。
 どころかイケメンと呼んでも差しつかえはないだろう。
 この男は彼女の乗車時から、まるで彼女を追いかけるように隣のポジションを死守して立っていた。

 「その制服って朝比奈第三高校だよね? 俺2年前に三高卒業してるんだ」

 彼女は横から話しかけてくる男の顔へと静かに視線を移行した。

 「そうですか」

 彼女の声を聴くのは二度目だ。
 声まで透き通っているように綺麗で、グッとくる。
 2回目に彼女と電車で遭遇した時、彼女はスーツを着た大人の男に

 『本当に綺麗だよね。俺、一目惚れしちゃったかも。よかったら今度、食事でも行かない?』

 と、口説かれていた。
 その時、彼女は謝罪を述べて「恋愛に興味がない」と断っていた。
 それが断るための方便なのかわからないけど、相手を気遣って断っているのも彼女の優しさなのかもしれない。
 彼女に特定の恋人が居ないことにも謎にテンションが上がった。
 それは4月の話だ。

 「三高のテストの傾向とか俺なら教えてあげられるよ。良かったら、連絡先教えてくれない?」

 この大学生の男はOB風を吹かせて彼女に近づこうってわけか。
 見え見えの魂胆だけれど、他の乗客の衆目を集めている場で彼女にアタックする勇気がすごいと思うのと同時に悔しさも感じる。
 僕はただ彼女の姿を黙って見つめていることしか出来ずにいるのだから。
 彼女は少しの間、何かを考えるように沈黙してから、

 「……私、お付き合いしている人が居るので、申し訳ないです」

 と、頭を下げて隣の男に伝えていた。
 フラれた男はショックを受けたのか放心している。
 かっこいいし、彼女と共通点もあるから少しは自信があったのかもしれない。
 僕にまで頭をグーで殴られたような衝撃を食らった。
 彼女が乗車しているのは4駅ほどの10分足らず。
 三高の最寄駅で彼女は降車していった。
 彼氏……いるのか。
 誰よりも美しい彼女を周りの男たちが放っておくわけがない。
 わかってはいたけど、目の前が真っ暗になるほどの失意が僕を染め上げていく。
 電車で彼女が告白されたのも僕が目撃した2回だけではないのだろう。
 本人の不可抗力で人目を惹いてしまう自覚はあるだろうから、彼女は意図的に乗る車両を日々変えているのかもしれない。
 どんな男だったら彼女の彼氏になれるのだろう。
 ――夢の中で、何度となく僕は彼女と青春を謳歌してきた。
 初めてのデートは映画館。
 初めてのキスは3回目のデートで遊園地に行って、観覧車の中で。
 そして、7回目の水族館デートの帰りに、

 『あの、私まだ帰りたくないんです……』

 普段クールな彼女が頬を赤らめて、僕に恥ずかしそうに伝えてきて、そして……。
 ――これ以上ないほど、(むな)しくなってきた。
 頭の中に「失恋」という文字がぐるぐる巡って、僕の妄想を無常にもかき消していく。
 姿形もわからない彼女の彼氏への嫉妬心がうず巻いて息苦しくて仕方なかった。
 僕は彼女に対して何の行動も起こせなかったくせに……。

 あの日から彼女の姿は見ていない。
 夏休みにも入ったし、学校には部活で行っているものの朝の時間帯の電車には久しく乗っていなかった。
 ちょうどお盆の時期に、部活で忙しいやつらも休息日になっていて、

 「俺、食べ歩きしたいんだけど」

 と、クラスメイトの男が提案し、男4人で小江戸と呼ばれる街へと日帰り旅行で足を伸ばした。

 「浴衣レンタルして街歩きしようぜー」
 「いいねー」
 「俺、ストーリーあげていい?」
 「あとで時の鐘の前で写真撮ろう」

 気兼ねしなくていい男友達たちと過ごすのは楽でいい。
 男4人、着物レンタル店で借りた浴衣を着付けてもらい、軒を連ねる蔵造りの商店街を散策していく。
 連休中だからか観光客が多く家族連れや10代20代の女の子の集団やカップルなど、様々な人がレトロな街並みを行き交っていた。
 自分たちと同じように和装の若者も多い。
 暑さですぐに溶けてしまったソフトクリームや串に刺さった団子など、目に入るもの全て食べたいものばかりで、あれもこれもと男4人で食べ歩きを楽しむ。
 少し並んだけど、鰹節屋の焼きおにぎりは今まで食べたものの中でも格別に美味しかった。
 1人がお手洗いに行くというので、他の3人で立ち話をしながら待つ。

 「あっちの自販機のとこに、二次元並みに綺麗な浴衣着た子が居るんだけど」

 トイレを済ませて帰ってきた友達が鼻息を荒くし、興奮した様子で報告してきた。

 「浴衣着た綺麗な子なんて、少し歩くだけでいっぱい見るじゃん」
 「俺もすれ違う女の子みんな可愛く見えてるわ」
 「それがレベチなんだって! 美人すぎてえぐいんだって! 見ないと損だから来いよ」

 そいつに促されるまま僕たちは歩かされる。
 駐車場の脇に4台ほど並列した自販機と簡易的なベンチが置いてあり、奥には瓦屋根の和風建造物のような立派な公衆トイレがそびえ立っていた。
 一番奥の自販機の横、白地に紫の紫陽花模様の浴衣を着た女の子が誰かを待っているのか一人で立っている。
 そいつが説明する前に全員が彼女のことを指しているのだと一瞬で理解できた。

 「あっ……」

 間違いない。
 電車の中で僕が5回遭遇した三高に通っている彼女だ。
 普段は下ろしている真っ直ぐな黒髪を今日は浴衣にあわせてアップヘアにまとめていた。
 覗いたうなじとおくれ毛が色っぽい。
 制服姿でも感動すら覚えるほど美しかったのに、浴衣姿だと更に別の魅力を解き放っている。

 「うわ、本当だ。ガチであれはやべぇ」
 「かわいすぎっていうか、きれいすぎっていうか、美しすぎっていうか……」
 「だろだろ。あそこまでの美人なかなか居ないって」

 なぜか、彼女を最初に見つけた友達が鼻高々に自慢げだ。
 僕たち以外の周囲も彼女の艶やかで華のある浴衣姿に時間を忘れたように見惚れている人が多い。
 ただ彼女は周りの喧騒に動じることなく、こんなに暑苦しい屋外でも涼やかに端然と立っていた。

 「ガチで二次元並みじゃん」
 「絶世の美女って感じだよな」
 「いくつくらいなんだろ?」
 「俺たちと同じ高校生かな」
 「いや、大人びているから大学生くらいじゃない」
 
 彼女は高校生だ。
 学年まではわからないけど、朝比奈第三高校に通っている女子高生。
 とは、みんなに教えたくなかった。
 彼女のことは僕だけの大切な秘密にしておきたい。
 みんなよりも彼女の情報を多く知っていることに妙な優越感で満たされていく。

 「――明紗ー。ごめんね、お待たせ。混んでたよー」

 下駄をからころ鳴らし、歩幅小さく彼女に駆け寄ってきたのは、桃色の浴衣を身に着けている背の低めな可愛らしい顔立ちの女の子だった。
 学園ドラマでクラスで一番の美少女役を余裕ではれそうなほど愛らしく容姿が良い。
 彼女はそれ以上の存在だけれど……。
 ――”アサ”。
 彼女の名前はアサなんだ……。
 ずっと知りたくても知ることが出来ずにいた彼女の名前。
 彼女の名前さえ神々しく響いた。

 「明紗、ユズを待ってる間一人で大丈夫だった? 強引なナンパとかされてない?」
 「うん、大丈夫だよ。柚乃」

 彼女は自分よりも背のちっちゃな友だちであろう美少女へとしっとりとした笑みを向ける。
 彼女、こんな顔して笑うんだ……。
 いつも電車内の澄ました表情しか知らなかった。
 その笑顔も最高で、かわいすぎて反則だとしかいいようがない。
 彼女が見せた微笑みに心を撃ち抜かれたのは僕だけじゃなかった。

 「俺、本気でやばいかも。くらったわ」
 「友だちもめちゃくちゃ可愛いじゃん」
 「女2人で来てるならダメ元で声かけてみちゃう?」
 「無理だろ。あんなレベル高すぎる子たち」
 「無理なのはわかってるけど、少しでいいから喋ってみたいじゃん。旅の恥はかき捨てって言うし、フラれたらみんなでやけ食いしようぜ」

 僕の友達がこそこそと相談しあっていた。
 普段は校外で遊んでいたって、女の子に声をかけるなんてことはしないやつらだ。
 小旅行先で日常とは違うからか、妙なテンションになってしまっている。
 それか余りにも美しくて優美な色気も漂う彼女の浴衣姿に浮かされたか。

 「ごめん。戻るの遅くなった」

 僕たちが目で追っていた彼女たちに浴衣を着用した二人の男が近づいていく。
 二人ともタイプが違うけど、揃って申し分ない美形だ。
 藍色の浴衣を着ている男は爽やかで見るからに優しそうな甘いマスクをしている。
 そんな男より10センチほど背が高い漆黒の浴衣を着た男はモデルのように長躯で小顔。
 研ぎ澄まされたように整った顔立ちをしていた。

 「志恩、遅いよー」
 「本当にごめん。俺が小さい子どもに浴衣を引っ張られて少し着崩れちゃって。蓮に直してもらってた」
 「え、久瀬先輩。着付け出来るんですか?」
 「さすがに着付けは出来ないけど。母親が元美容師で資格持ってるから見様(みよう)見真似(みまね)
 「そうなんだ。すごい」

 男たちは明らかに今、初めて彼女たちに話しかけているという雰囲気ではない。
 ということは……。

 「何だ。男連れかよ」

 僕の友だち全員があからさまに肩を落とした。

 「しかも、2人とも超絶イケメンじゃん」
 「あっちの背の高い黒い浴衣の男なんて絶対に一般人じゃないだろ。モデルとか俳優?」
 「そういえば何か俺、あいつ見たことある気がする」

 友だちの一人が顎に手を当てて考え込んでいる。

 「ねぇ、今度は菓子屋横丁の方に行ってみよ! あとユズ縁結びの神社も行きたいんだよね」

 彼女の女友だちと藍色の浴衣を着ている男が手を繋いで先に歩き出す。
 何となく見た目と雰囲気からして、そういうカップリングだと予想はついていた。

 「――明紗。大丈夫だったか?」
 「はい。特に何もなかったです」

 後に続くように彼女と黒い浴衣の長躯の男が肩を並べて足を進めた。
 彼女も推定170センチくらいあって女性の中では背の高いほうだし、二人並んで歩いているだけで映画のワンシーンのように秀麗だ。
 映画館の大スクリーンで二人の様子を実際に上映してほしいほどに。

 「あの浴衣のカップル、美男美女すぎ」
 「何かの撮影?」
 「でもカメラないよね」
 「あそこまで、お似合いの二人っているんだね」

 僕たち以外もそこかしこのグループが彼女たちの動向を観察している。
 彼女の彼氏って、あの男か……。
 なぜだろう。
 彼女の彼氏を目の当たりにしてショックを受けるかと思っていたけれど、不思議とすんなり受け入れている。
 周りが言っているように彼女にお似合いすぎるからか……。

 「思い出した! あの黒い浴衣の男。三高バレー部の7番だ。エースの久瀬」

 さっきから考え込んでいた友だちがやや大きな声を出す。

 「浴衣着てるから、すぐにわかんなかった。いつも大会の時のユニフォームかジャージ姿しか見ていなかったし」
 「知り合い? お前と同じバレー部なの?」
 「いや、向こうは弱小校の俺のことなんか絶対に知らない。三高はわかるよな? 朝比奈第三高校」
 「三高って、よっぽど賢くないと入れないだろ」
 「そう。あの文武両道の名門。三高って男子バレー部が強いんだけど、あいつ三高の二年生エース」
 「じゃあ俺たちと同じ年かー。大人っぽ。あれだけかっこよくて、しかもエースなの?」
 「そう。バレーの実力もすごいんだよ。この間のインターハイ予選でも三高は敗退してるけど、久瀬個人は東京だったら一、二を争うスパイカーだと思う」
 「何その嫌味なほどのハイスペック」

 バレー部のエース。
 しかも三高生。
 それでいてあの完璧を超越しているほど恵まれた容貌。
 確かにハイスペックすぎる。
 けれど、あの彼女が選ぶほどの彼氏だったら何ら不思議でもないような気がした。
 僕が彼女の彼氏に対して嫉妬心が育たなかったのは、

 『俺、こんなに綺麗な彼女を連れてるんだぜ』

 なんて、彼女を見せびらかしたり、ひけらかすのが目的ではないと明白に彼氏から伝わるからだ。
 あの彼氏からは虚栄心や見栄なんて(もろ)いものは一切感じられない。
 ただ純粋に彼女のことが大切で愛おしく思っているのだろう。
 それが彼氏が彼女を見遣る眼差しに現れていた。
 どこまでもハイスペックらしい彼女の彼氏は、きっと人間性も良いに違いない。
 だって、あの彼女に選ばれるほどなのだから。

 「俺が仲良くしてる他校の女子バレー部の子たちにも久瀬のファンが多くてさ。久瀬本人には聞けないから、三高の男子バレー部員に聞いたらしいんだけど、同じ高校の”三高の姫君”って呼ばれてる美人な1年生と付き合ってるんだって」
 「それがあの綺麗な子か。確かに”姫”っていうより”姫君”って言葉のほうがしっくりくる」
 「というか、お前、他校の女子バレー部員と仲良いの? 普通に俺に紹介しろよ」

 彼女が三高に通っているということは僕だけが知っておきたかったのに。
 彼女の学年までわからなかったけど、僕の一つ年下の一年生だったのか。
 僕だけが知っておきたかった彼女の正体がみんなに露呈して、がっかりしてしまった。

 「(れん)先輩。肩に糸くずついてます」

 遠ざかっていく彼女が彼氏の肩に手を置いて声を発した時、僕の心臓が不自然なほどに大きな音を鳴らした。

 「(れん)。お前さっきから、あの子を見つめて何を黙りこくってるんだよ」

 僕の友だちが全く痛くないヘッドロックをかけてきた。

 「ああいう子、廉のタイプ? って、タイプも何もあの子ほど綺麗だったら、普通に見惚れちゃうよな」
 「いや、別に……」
 「気を取り直して俺たちもまだまだ食べまくろうぜ」

 彼女たちが向かったのとは逆方向へ連れの4人で進み出す。
 彼女の彼氏は僕と同じ”レン”って名前なんだ……。
 彼女の唇で、彼女の声で呼ばれた自分の名前。

 『レン先輩』

 あの心地よい響きはしっかり脳内へと録音した。
 彼女は僕より一つ年下だから、僕が先輩って呼ばれるのも不自然じゃない。
 しかも彼女は彼氏に対して敬語で喋ってなかったか?
 僕の夢の中の彼女も僕に話す時は敬語だった。
 やっぱり彼女の何もかもが僕の理想そのものだ。
 いや、理想すら越えてきて僕のハートのど真ん中を的確に射抜いてくる。
 あんな理想通りの子、二次元にだって居なかった。

 それから、僕たちは食べ歩きを再開した。

 「何か腹が痛くなってきた」
 「旅先って食べたいものと胃袋のキャパが一致しないよな」
 「俺、ふわふわのかき氷も食べたいんだけど」
 「かき氷なら入るだろ。行くか」

 目についた美味しそうなものは、とにかく食べて、一つ一つのボリュームはたいして大きくないのにいつの間にかお腹が満たされている。
 途中で彼女と彼氏が連れ立って歩いているのとすれ違った。
 やっぱり、ここでも周りからの注目度が高い。
 ――常にたくさんの視線に観察し続けられるのも大変そうだ。
 とは思いながらも僕も彼女に目線の先が引き寄せられてしまう。
 彼氏が手に持っていた透明のカップに入っている縦方向にスライスされたさつまいもチップを彼女に分けてあげようとしているところだった。

 「――明紗。一枚食べるか?」
 「一枚だと多いので大丈夫です」
 「遠慮しなくていいって」
 「じゃあ、お言葉に甘えて、少しだけいただきます」

 彼女は彼氏が親指と人差し指に挟んで持っていた食べかけのさつまいもチップの先端にかじりつく。
 余りにかわいらしくて色っぽい彼女の仕草に気持ちが揺さぶられる。
 彼氏もそんな彼女の行動が意外だったのか彼女を見下ろしたまま、視線を縫い留められていた。

 「蓮先輩、おいしいです」
 「ん。ああ、そうだな」
 「ありがとうございます。ごちそうさまでした」

 彼女は彼氏にこぼれるような笑みを見せた。

 「何あれ、かわいすぎ……」

 隣で僕の友だちがぽつりと言った。
 誰もが同じことを思っていただろう。
 遠巻きに見ていた観衆も彼女に陶然としている。
 僕はまた”レン先輩”と彼女の声で聞けただけで最高に満たされていた。

 「あそこまで美人な彼女が自分の傍に居たら、ヤバいよな。心臓もたない」
 「確かに、いつも浮き足立っちゃいそう」
 「どこでもモテるだろうし常に心配していないといけないよな」

 どこでもモテる……確かにそうだ。
 実際に僕も電車で初めて彼女を見かけただけで強く記憶に刻み付き、彼女の知らないところで心を奪われ、身を焦がしている。
 恐らく僕のように(ひそ)やかに彼女に夢中になっている男は僕だけじゃないはずだ。
 それでも、彼女のあの表情も仕草も彼氏だけに向けられる特別なものだというのは理解している。
 彼氏は常に彼女のことが心配かもしれないけど、彼女はどんなにイケメンのOB大学生に誘われたとしても、きちんと断っている。
 彼女の貞淑そうなところも僕の理想だった。
 どうせ現実の彼女と僕がうまくいく可能性なんてないんだ。
 夢の中の彼女だけは、どうか僕に独占させてほしい。

 【end】
 20251017