扉を開けた先に立っていたのは、僕がもう二度と会うことはないと思っていた二人だった。
 陽葵は、僕の部屋の惨状と僕が手にしていたネクタイを見て、息を呑み、顔を真っ青にさせていた。その隣で、神谷は何の表情も浮かべず、ただ氷のように冷たい目で、僕をじっと見ていた。
 「……とりあえず、入れ」
 僕の口から乾いた、自分のものではないような声が出た。

 部屋に招き入れると、陽葵は真剣な、そして今にも泣き出しそうな顔で、僕を説得しようと口を開いた。
 「先輩! 早まるのはダメッスよ! 生きていれば、きっと、何か……!」
 「陽葵」
 神谷の、低く静かな声が、彼女の言葉を遮った。
 「生きるのも死ぬのも、こいつの勝手だ」

 その、あまりに突き放した言葉に陽葵が絶句する。僕も、驚いて神谷の顔を見た。
 「だがな、蒼井」
 神谷は僕の目を、真っ直ぐに射抜いた。
 「それは、アイツの望むことなのか」
 アイツ、という言葉が誰を指すのかは、聞くまでもなかった。神谷の言葉は、僕が死んでも構わない、だが、陽菜の想いを踏みにじることだけは許さない、という彼の哲学そのものだった。

 「……何のために、来たんだ」
 僕はかろうじて、そう尋ねた。
 神谷は僕の問いには答えず、代わりにずっと僕の心に突き刺さっていた、最も重い問いを投げ返してきた。
 「なんで、葬式に来なかった?」

 僕は無言で俯いた。
 答えられなかった。向き合うのが、怖かったからだ。彼女の死という、絶対的な現実と、向き合うのが。
 僕の沈黙が答えだった。
 次の瞬間、僕の視界が激しく揺れた。


 鈍い衝撃と共に、僕の体は壁に叩きつけられていた。
 神谷が、僕を殴ったのだ。
 
 「お前がッ……! 一番、来ないといけないだろ!」
 
 一発、二発。彼は無言で、何度も何度も、僕の顔を殴り続けた。

 「お前はアイツが死んだ時、何を思った!?哀しみか?苦しみか?もしくは無力さか?きっと全てだろう!だからこそお前は、葬式に出なかった。死とどう向き合えばいいのか分からない。そんなの当たり前だ!けどな。その当たり前に逃げて、目を逸らして、それでアイツの死はただの出来事に堕ちるんだ!ただの統計だ!ただのネット記事の一行にすり替わるんだよ!指でなぞるだけで消えてゆく記事に!お前が彼女を忘れようとする、その一瞬一瞬で、彼女はもう一度殺されてるんだ!なぁ、分かるか!?彼女は癌で奪われたんだぞ!何の意味もなく、何の必然もなく、ただ不条理に喰い尽くされたんだ!それでも……それでもお前がその死から逃げたら、本当に彼女は“無かったこと”になるんだよ!だから...」
 僕は何の抵抗もせず、されるがままになっていた。

 それは、神谷が初めて見せた感情の爆発だった。その声は、怒りと悲しみと、どうしようもないほどのやるせなさに満ちていた。
 やがて彼の拳から、力が抜けていく。僕は床に崩れ落ちたまま、鉄の味がする口の端を拭った。

 「……批評っていうのは、随分と身体で表現するものなんだな」
 皮肉交じりに僕がそう言うと、神谷は俯いたまま、何も答えなかった。
 その肩が、小さく震えている。
 僕は気づいた。神谷が泣いていることに。僕が初めて見る、彼の涙だった。

 「……お前の文章を、初めて読んだ時」
 彼は嗚咽を堪えながら、ぽつり、ぽつりと、話し始めた。
 「俺は、初めて挫折した。俺にはないものを、お前は持っていた。……嫉妬はしなかった。ただ、どうしようもなく惹かれた。お前の書く、物語に」
 それは、彼の重い、重い告白だった。
 「だが、お前に惹かれれば惹かれるほど、俺は、自分が小説を書くことを、無意識に諦めていた。……本当は、賞なんて上手くいかなければいいと、心のどこかで願っていた。そうすれば、お前は俺のそばにいると思ったからだ」

 最低で、身勝手で、しかしあまりにも人間的な、彼の本心。
 「だが、結局……」
 彼は顔を上げた。その顔は、涙と後悔に、ぐしゃぐしゃに濡れていた。
 「俺が、本当に望んでいたのは、ただお前と、また、馬鹿みたいに、話がしたかっただけなんだ……!」

 彼の殴りかかってくる拳には、もう何の威力も残されていなかった。


 重い沈黙を破ったのは、陽葵だった。
 彼女は泣きながらも、僕の前にまっすぐに立った。
 「死なないで欲しいッス」

 そのシンプルな願いが、僕の心の硬い殻を、少しだけ貫いた。
 「今、文芸部、大変なんスよ! 新入生がいっぱい入ってきて! でも、二年生がいないから、私一人じゃどうやって後輩と接したらいいか、分かんなくて……!」
 彼女は必死に言葉を続ける。
 「文芸部だって言ってるのに、大半の子が、漫画しか読んでないんス! でも……でも、みんな、小説に興味はあるんス! 先輩の『夏夜』を読んで、感動したって言ってくれる子も、いるんスよ!」

 彼女は、僕の手をぎゅっと握りしめた。その手は、小さく震えていた。
 「だから……お願いッス! 文化祭に、来て欲しいッス!」

 彼女は一度、言葉を切った。
 「きっと去年より、ずっと退屈で、つまらないッス。先輩たちがいた頃とは、全然違う。きっとがっかりするッス。……だけど」
 彼女は僕の目を真っ直ぐに見て、言った。
 「文芸部は生きてるんス。ちゃんと、ここに存在してるんス。だから、少しでもいいから……顔を、見せて欲しいッス」

 そして、彼女は最後に、僕の心に小さな光を灯す、最後の言葉を紡いだ。
 その声は消え入りそうで、彼女を今まで覆っていたベールは、どこかへ消えていた。
 それは、僕が初めて聞いた、彼女の本当の本音のように感じられた。

 「……生きてて、欲しいです」

 僕は、何も言えなかった。
 ただ、僕の腕の中で冷たくなっていたはずの僕たちの未来を想って、ただただ笑った。



 あれから数週間が過ぎた。
 僕の部屋で、神谷に殴られ、陽葵に泣いて懇願された、あの日。僕は死ぬことをやめた。
 いや、やめたというより、死ぬことを許されなかったのだ。

 そして、九月のまだ夏の青さが残る空の下。
 僕たち三人は、陽菜の眠る、海を見下ろす丘の上の霊園に来ていた。八月のお盆から一月近くが過ぎていたためか、人の姿はまばらで、潮風と、遠くで鳴く鳥の声だけが、僕たちの周りを静かに流れていた。
 桜家の墓石は新しく、そして、塵一つなく磨き上げられていた。その前には、僕たちが持ってきた花がなくても、溢れんばかりの、色とりどりの花が供えられていた。ああ、そうだった。君はいつだって、たくさんの人に愛される、太陽みたいなやつだったな。その光景が、陽菜という人間の全てを、物語っていた。

 神谷と陽葵が、先に静かに手を合わせる。
 僕は、二人の後ろで、その小さな背中を見つめていた。
 やがて二人が下がり、僕の番が来た。僕は、ゆっくりと墓石の前に進み出て、持ってきたガーベラの花束をそっと置いた。
 そして、冷たい石の前で静かに両手を合わせ、目を閉じた。


 瞼の裏に、陽菜との記憶が、走馬灯のように巡り始める。

 ――中学の入学式の日だった。満開の桜の木の下で、僕は一人だけ輪から外れていた君を見つけた。僕は、まだ自分の心を鎧で固めることしか知らなかった、ひどく、臆病な少年だった。だから、桜なんて苗字を持つ君に、意地悪なことを言ったんだ。
 「ねえ。桜の木の下には、死体が埋まってるって、知ってる?」
 嫌われると思った。気味悪がられると、思っていた。
 なのに、君は、大きな瞳をきらきらと輝かせて、僕の顔を覗き込んだ。
 「そうなの!? すごい! 物知りなんだね!」
 そう言って、屈託なく笑った君の顔を見て、僕の頬がどうしようもなく、赤く染まったこと。
 それが、僕たちの始まりだった。

 ――中学一年の夏。クラスの男子に「いつも本ばっか読んでて、気取ってる」と、僕がからかわれていた時だ。彼らは、僕が自分のことを「僕」と呼ぶのを、嘲笑っていた。その時、割って入ってきてくれたのが君だった。「朔が自分のこと、僕って言おうが、俺って言おうが、あんたたちには関係ないでしょ!」と、僕よりずっと小さな体で、僕を庇ってくれた。
 その日の帰り道、君は少し照れくさそうに言ったんだ。
 「朔は、そのままでいいと思うよ。でもね、ああいう奴らに、たまには、『俺』って言ってみたら? きっと、びっくりするよ」
 いたずらを仕掛ける子供のように、君は悪そうな顔をしていた。
 君のその言葉が、僕に小さな鎧をくれた。君と話す時、外の世界と対峙する時、僕は少しだけ強い自分になれる「俺」という一人称を使うようになった。
 だが、物語を書き、自分の心と向き合う、裸の自分はいつだって「僕」のままだった。君は、僕の「俺」も、「僕」も、その両方を肯定してくれた、たった一人の人間だった。

 ――中学二年の秋。太陽のように、誰に対しても平等に笑いかける君が、クラスの女子数人から粘着質ないじめの対象になった。原因はありふれていた。嫉妬だ。その、あまりに凡庸な悪意は、しかし思春期の少女たちの手にかかると、じわじわと心を蝕む、質の悪い毒に変わる。
 僕はずっと気づいていた。
 君の机の上でだけ、誰かが「偶然」君の筆箱を落とす回数が増えたこと。
 君が発言すると、教室の隅で聞こえるか聞こえないかくらいの声で、くすくすと笑い声が起きること。
 グループ分けの時、君の周りだけ一瞬、不自然な空白が生まれること。
 君は決して弱さを見せなかった。笑って「大丈夫だよ」と、いつも通りに振る舞っていた。だが、僕は知っていた。君の笑顔の裏側で、その心が毎日少しずつ、すり減っていく音を。君が時々、誰にも見られないように、唇をぎゅっと噛み締めているのを。
 僕だけがそれに気づいていた。なぜなら、僕もまた違う形で、ずっとそうやって生きてきた人間だったからだ。
 決定的な出来事が起きたのは、掃除当番で僕と君が二人きりで教室に残った、ある日の放課後だった。
 君の上履きが、なかった。
 昇降口で、自分の下駄箱の前で立ち尽くす君。その周りを、主犯格の女子たちが、何も知らないという顔で通り過ぎていく。すれ違いざま、彼女たちが無声で笑い合ったのを、僕は見た。
 君は泣かなかった。ただ、途方に暮れた顔で、自分の下駄箱を、何度も何度も、覗き込んでいた。その姿が、あまりに痛々しくて、僕は目を逸らしたくなった。
 僕はいつもなら誰よりも早く帰るのに、その日は「忘れ物をした」と嘘をついて、校舎へと戻った。
 校舎中を探し回った。体育館裏、使われていない特別教室。そして、僕はそれを見つけた。
 多目的トイレの個室。その水浸しになった床の上に、君の上履きはまるでゴミのようにうち捨てられていたんだ。
 僕は怒りで、奥歯を強く噛み締めた。だが、僕の怒りは決して熱く燃え上がる炎にはならない。それは氷点下の静かな怒りだった。
 僕はその濡れた上履きを拾い上げると、まだ昇降口で時間を潰していた女子たちの元へと、静かに歩み寄った。
 そして、彼女たちの中心にいたリーダー格の女子の机の上に、それを、ドン、と置いた。
 彼女たちは驚きと、恐怖が入り混じった顔で僕を見た。
 僕は、何も言わなかった。
 ただ、じっと彼女たちの目を、一人ずつ見つめた。
 彼女たちは、怯んだように、次々と視線を逸らした。
 僕は加害者でも、被害者でもない。ただの、冷徹な「観察者」として、君たちの醜い行為の証人になった。僕の沈黙はどんな罵声よりも雄弁に、彼女たちの罪を告発していた。
 僕は上履きを手に取ると、一人、下駄箱の前で待っていた陽菜の元へ戻った。
 そして、「あったぞ」とだけ言って、それを差し出した。
 陽菜は、濡れて汚れた自分の上履きと、僕の顔を交互に見た。その瞳から、それまで堪えていた涙が堰を切ったように溢れ出した。
 僕は何も言わずに、君の隣にただ立っていた。
 君の太陽が翳るなら、僕が君だけの静かな影になろう。
 そして、君を蝕むもっと深い影があるのなら。
 僕の言葉で、僕だけのやり方でその影を刺し貫こう。
 そう心に誓った夕暮れだった。

 ――中学三年の、冬の日。
 僕は本気で、死のうとしたことがあった。自分の抱える闇に、押し潰されて、全てを終わらせようとした。その僕を、君は泣きながら、殴りながら、止めてくれた。
 『生きなさいよ、馬鹿!』
 そう言って、僕に生きろと、命令してくれた。
 あの時、僕は君のために生きようと、そう誓ったはずだった。なのに、僕はその誓いさえ、破ろうとしていた。

 ごめん。ごめん、陽菜。
 僕は心の中で、何度も、何度も、謝った。
 君が命を懸けて僕に繋いでくれたこの命を、僕は自分で捨てようとした。

 僕は思い出す。君とのたくさんの、どうでもよくて、かけがえのない日々を。
 君の笑顔を、君の涙を、君の怒った顔を、君の、僕の名前を呼ぶ声を。
 その全てが、僕という人間を、形作っていた。

 そして、僕は叶わないことを知りながら、最後の、たった一つの願いを祈った。

 (きみ)(もと)で、生きたい。

 桜の木の下には、死体が埋まっている。
 その言葉を知る者が見れば、それは、自死を示すような、そんな呪いのような言葉に聞こえるだろう。
 だが、僕と君だけには分かる。
 それは、呪いなんかじゃない。
 君と、一緒に生きたい。
 ただそれだけの、僕のどうしようもなく、単純な想い。そして、くだらない言葉遊び。
 僕の生涯を懸けた、愛の言葉だ。


 僕は、ゆっくりと目を開けた。
 目の前に広がっていたのは、これ以上ないくらいの、一点の曇りもない晴天だった。
 空の青が、目に染みる。

 その瞬間、僕の瞳から、大粒の涙が堰を切ったようにこぼれ落ちた。
 嗚咽が、漏れる。後悔も、感謝も、悲しみも、愛しさも、全てが混ざり合った熱い涙が、止まらなかった。

 あふれる涙が、青空をも揺らすほどで、それでも雲ひとつない光が、僕を優しく、優しく包んでいた。

 僕は泣きながら、少しだけ笑った。
 ああ、そうか。
 君は死んで、空になったのか。
 そして、僕がこれから歩いていく道を、ずっと照らしていてくれるのか。

 僕は涙を拭うと、静かに立ち上がった。
 僕を待ってくれていた、神谷と陽葵の方へと向き直る。
 二人は、何も言わなかった。ただ、少しだけ泣き腫らした目で、僕を見て、頷いた。

 僕たちは、もう振り返らなかった。
 丘の上から光が降り注ぐ、坂道を三人で、ゆっくりと下っていく。
 僕の人生の物語は、一度終わった。
 そして今日、ここから新しい物語が、また始まる。

 それは、君という名の光を心に抱いて生きていく、一人の男の物語だ。
 僕の、俺たちの物語はこれからだ。