桜の下で生きたい。

 どれくらいの時間、僕たちは泣いていただろうか。
 夕暮れの光は、いつしか窓の外の闇に溶け、部室の中は机や本棚の輪郭がぼんやりと浮かび上がるだけの、静かな暗がりに包まれていた。
 嗚咽の合間に、誰かの鼻をすする音だけが時折響く。砕け散った心のかけらが床に散らばっているような、どうしようもない静寂だった。

 その沈黙を最初に破ったのは、神谷だった。

 彼は静かに立ち上がると、部室の隅にある給湯セットでお湯を沸かし始めた。そのあまりに日常的な、カチャカチャという物音。それは、非現実的な絶望の淵にいた僕たちの意識を、そっと現実へと引き戻すようだった。
 やがて彼は四つのマグカップに、インスタントのココアを淹れ、一人一人に無言で手渡した。
 陽菜の車椅子の前にも、そっと一つ置いてやる。
 その、不器用で、しかし心の底からの優しさが、僕たちの凍りついた心をほんの少しだけ溶かした。

 「……私」
 次に口を開いたのは、陽葵だった。彼女は泣き腫らした目で、じっと陽菜を見つめていた。
 「私……先輩が、うらやましいッス」
 その言葉に、僕と神谷ははっとしたように彼女を見る。陽菜も、不思議そうな顔をしていた。
 「最後まで……自分の心で、ちゃんと立って戦ってる。誰にも、本当の苦しさを見せずに、笑おうとしてる。……めちゃくちゃかっこいいッスよ、陽菜先輩」

 それは、陽葵なりの最大級の賛辞であり、エールだった。
 その、あまりに真っ直ぐな言葉に、陽菜の唇がわずかに綻んだ。涙の跡が残る頬に小さな、しかし確かな笑みが浮かんだ。


 その笑顔を見て、僕は決意した。
 僕が今、すべきことを。
 僕は、膝の上で握りしめていた拳をゆっくりと開いた。

 「陽菜」
 僕が名前を呼ぶと、彼女は静かに僕を見た。
 「俺、小説を書いたんだ」

 僕は、机の引き出しにしまったままのあの原稿のことを話した。
 受験が終わってから、卒業式までの空白の時間。君への想いを、後悔を、感謝を、全てを込めて書き上げた、僕の、今の全部。
 「君に、もう一度向き合いたくて。俺たちの物語を、こんな悲劇のままで終わらせたくなくて……」
 僕は言葉を続ける。
 「だから、読んでほしい。それが、俺が君に渡せるたった一つの、本当の気持ちだ」

 陽菜は黙って僕の言葉を聞いていた。
 そしてゆっくりと、しかしはっきりと頷いた。
 「……うん」
 その声はまだ震えていたけれど、そこには確かな光が宿っていた。
 「読みたい。朔の物語、読みたいよ」

 その一言が、僕の進むべき道を照らし出してくれた。
 僕たちが今、この場所ですべきことを。


 「時間は、ない」
 神谷が静かに言った。卒業式まで、あと二日。僕たちが「高校生」として、この部室に集まれる時間はもうほとんど残されていなかった。

 「なら、作ろう」
 僕は言った。
 陽菜と、神谷と、陽葵の顔を、順番に見つめる。
 「卒業式までの、残された時間、全部。俺たちの、最後の部活動にしないか」

 「最後の、部活動……?」
 陽葵が聞き返す。

 「ああ」
 僕は、頷いた。
 「俺が、俺の書いた『君という名の物語』を、陽菜に、みんなに、読み聞かせる。一章ずつ、ゆっくりと。そして、合間にはくだらない話をして、笑うんだ。今までみたいに」
 それは、僕にできる唯一のことであり、最高の弔いであり、そして、未来への祈りだった。
 「それが、俺たち文芸部の、最後の作品だ」

 僕の提案に、陽葵の目がみるみるうちに輝きを取り戻した。
 「最高ッス……! やりましょう! やりましょう、先輩!」
 神谷がふっと息をつき、静かに、しかしはっきりと頷いた。
 「……悪くない」

 最後に、僕は陽菜を見た。
 彼女は、何も言わなかった。
 ただ、その瞳から再び、大粒の涙を、ぽろぽろとこぼしていた。
 でも、それは絶望や悲しみの涙ではなかった。
 僕の腕の中にいるはずのない僕たちの未来を想って、ただただ笑った。


 卒業式を、明日に控えた日。
 僕は、朝早くに目を覚ました。窓の外は、まだ夜の青が残っている。
 机の上には、僕が書き上げた物語、『君という名の物語』が、静かにその時を待っていた。僕はその原稿を、震える手でカバンにしまった。
 これは、僕から君に捧げる、最初で、最後の、本当の物語だ。

 文芸部室の扉を開けると、他の三人はもうそこに来ていた。
 部屋はいつもより綺麗に片付いていた。長机の上には、陽葵が持ってきたのであろう小さな花瓶に一輪のガーベラが飾られている。神谷は電気ケトルで湯を沸かし、陽菜は車椅子の上から、窓の外を静かに眺めていた。
 それは、これから始まる僕たちの小さな儀式のための、清められた空間のようだった。

 「おはよう」
 僕が言うと、三人が一斉に振り返った。
 「おはよう、朔」
 陽菜が、穏やかに微笑む。その顔には、昨日のような絶望の色はなかった。全てを受け入れた者の、静かで、凛とした美しさが宿っていた。

 僕たちは無言のまま、それぞれの席に着いた。
 神谷が淹れてくれた、少し薄い紅茶を、四人でゆっくりと飲む。
 誰も、何も言わない。だが、その沈黙は僕たちの心を、確かに一つに繋いでいた。
 僕たちは、これから同じ物語を共に、生きるのだ。


 やがて、僕はカバンから原稿の束を取り出した。
 そのずしりとした重みが、僕の覚悟の重さのようだった。
 僕は陽菜の顔を見た。彼女はこくりと、小さく頷く。その瞳が、「始めて」と、そう言っていた。

 僕は深く、息を吸い込んだ。
 そして第一章の、最初の一行を読み上げ始めた。

 「少年は、影だけを使って絵を描く画家だった――」

 僕の声が、静まり返った部室に響き渡る。
 それは僕の物語であり、僕たちの物語だった。光を恐れ、影に閉じこもる少年。太陽のように笑い、その影さえも「きれいだ」と言ってくれた少女。
 僕は淡々と、しかし、一言一句に、全ての感情を込めて読み進めていく。

 陽菜は目を閉じて、静かに僕の言葉に耳を傾けていた。その頬を時折、涙が静かに伝っていく。だが、彼女はそれを拭おうとはしなかった。
 陽葵は机に両肘をつき、真剣な眼差しで僕の唇の動きを、食い入るように見つめている。
 神谷は窓の外に視線を向けたまま、腕を組んで微動だにしなかった。だが、その固く結ばれた唇が、彼もまた、この物語の世界に深く深く、沈んでいることを示していた。

 物語は、少年と少女がすれ違う場面へと入っていく。
 少女の優しさが、少年のプライドを傷つけ、少年の臆病さが、少女の心を凍てつかせる。
 僕が陽菜を拒絶した、あの冬の日のこと。
 僕は喉が詰まりそうになるのを、必死で堪えた。自分の犯した過ちを、自らの声でもう一度なぞっていく。それは、あまりに痛みを伴う告白だった。

 数章を読み終えたところで、僕は一度、顔を上げた。
 声が少し掠れていた。


 「……ちょっと、休憩しないスか?」
 沈黙を破ったのは、陽葵だった。彼女は鼻をすすりながら、努めて明るい声を出した。
 「私、コンビニでめちゃくちゃ美味いシュークリーム、買ってきたんスよ!」

 彼女がガサガサと袋から取り出した、四つのシュークリーム。
 その、あまりに場違いな、しかし心の底からの優しさに、張り詰めていた部室の空気がふわりと緩んだ。
 「お前は、いつも食い物のことばかりだな」
 神谷が呆れたように、しかしどこか優しい声で言う。
 「だって、お腹が空いては戦はできぬ、ッスよ!」
 「何の戦いだ」

 そのくだらないやりとりに、陽菜が、ふふっと、声を漏らして笑った。
 その笑い声を聞いて、僕もつられて笑っていた。
 ああ、そうだ。これだ。
 これが僕たちの文芸部だった。重苦しい物語の合間に、こんな風にどうでもいいことで笑い合う。この温かい時間が、僕たちの全てだった。

 僕たちはシュークリームを頬張りながら、馬鹿な話をした。
 陽葵が来年、新入生を一人も入れられなかったらどうやって神谷先輩と蒼井先輩に詫びを入れようか、という、気の早すぎる相談。
 神谷が大学の批評の授業で、教授を論破してみたい、という不遜な野望。
 僕が、もしこの小説が認められたら、その賞金で何を買おうか、という、叶うはずのない夢物語。

 そして陽菜が、もし、元気になったら、みんなで海へ行きたい、と。
 そう、ぽつりと言った。

 その言葉に、僕たちの笑い声がぴたりと止まる。
 陽菜はしまった、という顔をしたが、すぐににっこりと笑った。
 「ごめん、変なこと言っちゃった。……さあ、続きを聞かせて?」

 僕は頷いた。
 そして、食べかけのシュークリームを机に置くと、再び原稿を手に取った。
 僕たちの最後の部活動。
 その残されたページは、もうあと僅かだった。

 夕暮れの光が、部室をオレンジ色に染め始める。
 僕は、物語のクライマックスへと、向かっていく。
 君が、僕の腕の中にいるはずのない僕たちの未来を想って、ただただ笑った。


 僕の声だけが、静寂の中に響き渡る。物語は終盤に差し掛かっていた。影の画家が、光の少女に自分の全てを込めた絵を手渡す場面。それは、僕が今、陽菜にしていること、そのものだった。

 『――君がいたから、僕の影はただの闇ではなかった。君という光があったから、僕の影は豊かな色彩を持つことができた。ありがとう。僕の、たった一人の光』

 最後の一行を、読み終える。
 僕は原稿から顔を上げた。
 陽菜は泣いていた。だが、その顔は穏やかな微笑みを浮かべていた。神谷は固く目を閉じ、陽葵は自分の制服の袖で、何度も涙を拭っている。
 僕の物語は確かに、ここにいる三人の心に、届いたのだ。

 僕たちの最後の部活動は、静かに幕を閉じた。

 翌日、卒業式。
 あれだけ退屈だと感じていた校長の長い祝辞も、在校生の送辞も、なぜかひどく心に染みた。僕は陽菜の姿を探す。車椅子のはずの彼女の席は、空席だった。胸が、冷たくなる。
 だが、卒業生が一人ずつ名前を呼ばれ、証書を受け取っていく、その時だった。
 体育館の後方の扉が開き、陽菜がお母さんの肩を借りながら、ゆっくりと、しかし確かに自分の足で、一歩、また一歩と、自分の席へと向かって歩いてきたのだ。
 その、あまりに力強くて、あまりに勇ましい姿に、僕は涙がこみ上げてくるのを、止めることができなかった。
 僕たちの三年間が、いつの間にか終わっていた。

 僕たち四人は、約束通り部室で集合した。
 僕は陽葵の前に立つと、長年を共に過ごした僕の万年筆を、そっと彼女の手に握らせた。
 「……これを、お前にやる」
 「え……師匠、これ……」
 「文芸部を、頼んだ。お前なら、きっとこの部を守っていける」
 そして、僕は続けた。
 「それと……俺はもう、小説を書かない。これっきりだ」

 僕の言葉に、陽葵も、神谷も、息を呑む。
 「『君という名の物語』は、俺の人生にとって、最高の小説だった。これ以上のものは、もう書けない。だからこそ、最高のまま終わりたいんだ」
 僕がそう言うと、陽菜が車椅子の上から嬉しそうに、そして少しだけ寂しそうに、微笑んだ。

 「よかった」
 彼女は、静かに言った。
 「朔の小説に、最初から最後まで全部関われて、本当によかった。そしてね……私が、作家・蒼井朔の、人生の終わりに立ち向かえたこと。終わりを、ただ見られるんじゃなくて、私自身が見届けることができたこと。……すごく、幸せだよ」

 彼女の言葉は、僕への最大級の愛の言葉だった。
 僕たちは、しばらく四人で、思い出を語り合った。そして、別れの時が来た。
 神谷と陽葵が、先に部室を出て行く。
 二人きりになった部屋で、僕は陽菜の車椅子の前に、膝をついた。

 「……陽菜」
 「……うん」
 言葉はいらなかった。
 僕は、そっと彼女の頬に手を添え、唇を重ねた。それは、ひどく不器用で、涙の味がする、最初で最後のキスだった。
 「じゃあね、朔」
 「……ああ。じゃあな、陽菜」
 それが僕たちが交わした、最後の言葉になった。

 半年が過ぎた。
 九月。真夏のピークが去った頃、陽菜は死んだ。

 『朔が、綺麗に作家として終われたように、私も朔にとって、綺麗に終わりたいから。だから、病院には来ないでね』
 彼女から最後に届いたメッセージ。その言葉を、僕は、馬鹿正直に守り続けた。晴れの日、この晴天を、同じ空の下で見ているのだろうか。雨の日は、気分が落ち込んでいないだろうか。曇りの時は、空に弓を放って、雲を撃ち抜いていないだろうか。そんな事を考えていた。
 彼女がどんな顔で、どんな想いで最期の時を迎えたのか、僕は知らない。
 お葬式には、呼ばれていた。だが僕は行けなかった。彼女のいない現実と、どう向き合えばいいのか分からなかったからだ。

 大学は、まだ夏休みだった。
 東京で借りた、がらんとした一人暮らしの部屋で、僕は廃人のような生活をしていた。
 食べ物の味はせず、眠りは浅く、夢も見ない。陽菜がいないこの世界に、なんの未練もなかった。僕が生きていた世界の半分は、彼女が死んだあの日、一緒に死んでしまったのだ。

 いっそ、死んでしまおうか。
 そう思った時、クローゼットの隅に見覚えのあるものを見つけた。
 大学の入学式で、一度だけ締めた、ネクタイ。
 僕はそれを手に取ると、乾いた笑いを漏らした。
 「……これが、運命か」

 作家としての僕も、恋人としての僕も、全てを終わらせた。もう、何も残っていない。
 僕は、静かに準備を終えた。
 目を閉じると、陽菜の笑顔が鮮明に蘇る。ごめんな、陽菜。今からそっちへ行くよ。

 僕が最後の覚悟を決めた、その瞬間だった。

 ピンポーン、と、間の抜けた電子音が静かな部屋に響き渡った。
 来客の予定など、あるはずもない。僕は無視をしようとした。
 だが、チャイムは執拗に、何度も何度も鳴り続けた。
 僕は苛立ち紛れに、ドアへと向かう。そして、乱暴に扉を開けた。
 「いったいなんの……」
 
 「……よお」
 「こんにちはッス!」

 そこに立っていたのは、神谷と、陽葵だった。
 二人は僕の死人のような顔と、部屋の惨状、そして、僕が手にしていたものを見て、全てを察したようだった。